はてなキーワード: 喫緊とは
本が読めない。
読書家が人生において遅かれ早かれ直面するところの事件である。
本が読めない。
当方二十代後半の男であるが、今より遡ること十八年ほど前にラノベ(ブギーポップは笑わない)と出会い、それ以降文芸における視野を国内外の純文学や文芸作品へと広げ、様々なジャンルにおける読書体験を営みながら、これまでの人生を生きてきたのである。
そして、その読書体験の勢いと呼ぶべきものを二十代の前半辺りにまで持続させ、さてこれからの人生においても長い付き合いになりそうだなあ、などと呑気に構えていた時分、不意にその能力が消失したのであった。
何故なのかは分からないけれど、突然本が読めなくなったのだ。
書物との別れ。
何故なのだろう?
当方通勤に一時間以上を費やす難儀な民であるため、通勤時間中は心を半ば無にし、脳の活動を極低状態にまで抑え、死んだ目で通勤していたのが仇になったのだろうか。
(皆さん、覚えておいてほしいのだけれど、通勤時間が20分を上回るようになると脳の鬱傾向が加速するというエヴィデンスがあるそうなので、通勤時間はできるだけ短縮するようにしましょう)
でも、俺に関して言えば未だに通勤時間は二十代の前半から変わっていない。むしろ職場の変更から伸びたくらいであって、つまりその移動距離は未だに脳に対して厄介な負担を掛け続けているということになる。
まあそら本も読めなくなるわな。
とにかく去年の夏に至るまでの数年間、俺は本を読むことができなかった。
読みたい本はたくさんあった。それこそ山のようにあった。かつて、若き日の盛りに大阪へと日帰りの小旅行に行った思い出があるのだけれど、それは梅田に存在する某超大型一般書店に立ち寄るためだけに計画された小旅行なのであった。そんなこんなで、俺はその超大型書店へと赴き、そこで購入できる限りの本をわんさと買った後で、地元へと帰還したわけである。無論、それらの本の内の殆どは積ん読ルートを辿り、今も尚本棚の一角を占めその存在感を俺にアピールし続けている。
まるでそれは十字架だった。
俺の、購入した時点で尽き果ててしまった、知識に対する独占欲と好奇心に対して釘を打ち付けるかのような、それは罪悪感を俺に植え付けるための十字架だった。
何故なのだろう。
何故我々は本が読めなくなってしまうのだろう?
ここに至る理由には色々あると思うのだけれど、第一に思い浮かぶ理由といえば加齢である。
人間の脳は部位によっては三十代を超えてもなお成長し続けると一般に言われているが、しかし厳然として人間の肉体は二十代の半ばを境に衰え続けるのも事実である。というか、どちらかと言えば成長よりも衰退の方を意識せざるを得ないのが殆どではなかろうか、と思う。我々は衰退している。というか、我々の脳は衰退しているのである。衰退しました。
――つまりは、我々は一度読書能力を失ってしまうと、よっぽどの克己心を持たない限り――あるいは、そのような驚異的克己心を持たない限り――そのような超人的克己心に基づく人格改造なり人体改造を経ない限り――再び読書能力を取り戻すことは、難しいということなのである。
俺もそうであった。
それは、まるで一人の気のおけない友人との別れにも似ている。
ぶっちゃけると何でなのかは分からない。でも、確かにできるようになった。
復活した。アーメン。
(イースターの季節ですね)
去年の夏頃からその能力は突如として再生した。昨年から現在に至るまでの読書量は、読書能力が失われていた時代を遥かに超えている。ここのところお硬い文学小説にばかり目を通しているのだけれども、ここ一年間くらいで読んだページ数は5000頁を優に超えた。これまでの読書量を遥かに凌駕するレベルである(待っててくれプルースト)
正直なところ、何かを意識して自己改革したという記憶は殆どない。強いて言うならば、当時スマートフォンの通信量制限が喫緊の重要な課題と成り果てていたため、そのデータ通信量を節約するという実情に迫られて、通勤手段である電車に乗り込んでから本を読むようになったのがその理由と言えるかもしれない。
行きに十ページ、帰りに十ページ。
それを毎日。
仮に、一ヶ月の間に通勤期間が二十三日存在するとすれば、行きに十ページ帰りに十ページを繰り返すのであれば、一ヶ月で我々の読書量は460ページに到達するということになる。
とは言え、まずはそういうレベルから始めるのが得策であろうと思われる。人間は恐らく一日の間に二十ページ以上の本を読むことはできないのだ――特に文学小説のような対象を相手取るのであれば、僕らの克己心は我々の想像する以上に貧弱なのである。
さて。
これは正確に言うとライフハックではない。
電車の行き帰りで、それぞれ十頁ほどの時間を読書に費やすようになった男が存在している、というだけの話である。
そう、キーワードは電車だ。脳ミソと通信量のダブルダメージを避けようと、不意に読書を人生途上で――つまりはレールの上で――再開しただけの、それだけの話なのである。
参考になったであろうか?
恐らくは、なるまいと思う。
とは言え、かつて存在しその後に失われてしまったところの能力が、突如として復活するということは有り得るのだと――俺はただただその事だけを――伝えたかったのだ。今日を生き始めたものだけが、かつての息吹に再び胸をなでおろすことができるようになるのである。
皆さん、本を読みましょう。
魂を取り戻すために。
本が読めない。
読書家が人生において遅かれ早かれ直面するところの事件である。
本が読めない。
当方二十代後半の男であるが、今より遡ること十八年ほど前にラノベ(ブギーポップは笑わない)と出会い、それ以降文芸における視野を国内外の純文学や文芸作品へと広げ、様々なジャンルにおける読書体験を営みながら、これまでの人生を生きてきたのである。
そして、その読書体験の勢いと呼ぶべきものを二十代の前半辺りにまで持続させ、さてこれからの人生においても長い付き合いになりそうだなあ、などと呑気に構えていた時分、不意にその能力が消失したのであった。
何故なのかは分からないけれど、突然本が読めなくなったのだ。
書物との別れ。
何故なのだろう?
当方通勤に一時間以上を費やす難儀な民であるため、通勤時間中は心を半ば無にし、脳の活動を極低状態にまで抑え、死んだ目で通勤していたのが仇になったのだろうか。
(皆さん、覚えておいてほしいのだけれど、通勤時間が20分を上回るようになると脳の鬱傾向が加速するというエヴィデンスがあるそうなので、通勤時間はできるだけ短縮するようにしましょう)
でも、俺に関して言えば未だに通勤時間は二十代の前半から変わっていない。むしろ職場の変更から伸びたくらいであって、つまりその移動距離は未だに脳に対して厄介な負担を掛け続けているということになる。
まあそら本も読めなくなるわな。
とにかく去年の夏に至るまでの数年間、俺は本を読むことができなかった。
読みたい本はたくさんあった。それこそ山のようにあった。かつて、若き日の盛りに大阪へと日帰りの小旅行に行った思い出があるのだけれど、それは梅田に存在する某超大型一般書店に立ち寄るためだけに計画された小旅行なのであった。そんなこんなで、俺はその超大型書店へと赴き、そこで購入できる限りの本をわんさと買った後で、地元へと帰還したわけである。無論、それらの本の内の殆どは積ん読ルートを辿り、今も尚本棚の一角を占めその存在感を俺にアピールし続けている。
まるでそれは十字架だった。
俺の、購入した時点で尽き果ててしまった、知識に対する独占欲と好奇心に対して釘を打ち付けるかのような、それは罪悪感を俺に植え付けるための十字架だった。
何故なのだろう。
何故我々は本が読めなくなってしまうのだろう?
ここに至る理由には色々あると思うのだけれど、第一に思い浮かぶ理由といえば加齢である。
人間の脳は部位によっては三十代を超えてもなお成長し続けると一般に言われているが、しかし厳然として人間の肉体は二十代の半ばを境に衰え続けるのも事実である。というか、どちらかと言えば成長よりも衰退の方を意識せざるを得ないのが殆どではなかろうか、と思う。我々は衰退している。というか、我々の脳は衰退しているのである。衰退しました。
――つまりは、我々は一度読書能力を失ってしまうと、よっぽどの克己心を持たない限り――あるいは、そのような驚異的克己心を持たない限り――そのような超人的克己心に基づく人格改造なり人体改造を経ない限り――再び読書能力を取り戻すことは、難しいということなのである。
俺もそうであった。
それは、まるで一人の気のおけない友人との別れにも似ている。
ぶっちゃけると何でなのかは分からない。でも、確かにできるようになった。
復活した。アーメン。
(イースターの季節ですね)
去年の夏頃からその能力は突如として再生した。昨年から現在に至るまでの読書量は、読書能力が失われていた時代を遥かに超えている。ここのところお硬い文学小説にばかり目を通しているのだけれども、ここ一年間くらいで読んだページ数は5000頁を優に超えた。これまでの読書量を遥かに凌駕するレベルである(待っててくれプルースト)
正直なところ、何かを意識して自己改革したという記憶は殆どない。強いて言うならば、当時スマートフォンの通信量制限が喫緊の重要な課題と成り果てていたため、そのデータ通信量を節約するという実情に迫られて、通勤手段である電車に乗り込んでから本を読むようになったのがその理由と言えるかもしれない。
行きに十ページ、帰りに十ページ。
それを毎日。
仮に、一ヶ月の間に通勤期間が二十三日存在するとすれば、行きに十ページ帰りに十ページを繰り返すのであれば、一ヶ月で我々の読書量は460ページに到達するということになる。
とは言え、まずはそういうレベルから始めるのが得策であろうと思われる。人間は恐らく一日の間に二十ページ以上の本を読むことはできないのだ――特に文学小説のような対象を相手取るのであれば、僕らの克己心は我々の想像する以上に貧弱なのである。
さて。
これは正確に言うとライフハックではない。
電車の行き帰りで、それぞれ十頁ほどの時間を読書に費やすようになった男が存在している、というだけの話である。
そう、キーワードは電車だ。脳ミソと通信量のダブルダメージを避けようと、不意に読書を人生途上で――つまりはレールの上で――再開しただけの、それだけの話なのである。
参考になったであろうか?
恐らくは、なるまいと思う。
とは言え、かつて存在しその後に失われてしまったところの能力が、突如として復活するということは有り得るのだと――俺はただただその事だけを――伝えたかったのだ。今日を生き始めたものだけが、かつての息吹に再び胸をなでおろすことができるようになるのである。
皆さん、本を読みましょう。
魂を取り戻すために。
ところで推察するに、この怪現象の黒幕として裏で糸を引いているのは、間違いなくガチャピンとムックだな。
奴ら、いつからグラブルガチャに大脳を破壊された廃人を創出するインキュベーターに成り下がってしまったんだ。
ほぼ引退してる俺の印象では、年始だけ顔を見せる芸人と同様の一発ネタという認識だったんだが。
3月の終わりに近づいてもまだ居着いているというのか?
やはりこれは異常事態だな。
サイゲ帝国とガチャピン王国の手にかかれば、アプリの無断インストールも認知支配もお手の物ということか。
今回は増田が常識人だったおかげで事件を未然に防げたが、予断を許さない状況は続いている。
せめて増田共和国に被害が及ばないよう、非常事態宣言の発令を提案する。
そして喫緊の脅威に対しては、グラブルアプリを削除することを提言する。
これは容易なことではないかもしれない。
仮に自分の意思でアプリを削除したとして、ブラウザでgame.granbluefantasy.jpにアクセスすれば意味はないからだ。
DMM版、AndApp版もある。このサイゲ帝国の知略には常人は抗いきれぬだろう。
知恵者と自称する君、では使用端末すべてのhostsファイルにそれらを追加してアクセスを遮断するか?
否、その作業ができる者であるということは、それの解除もできるということだ。
そこでだ、悪い習慣を断ち切る一般的に有効な手法をご存知だろうか。
辞めることに報酬を出したり、辞められなかったことにペナルティを課したりするのは悪手だ。
辞めることを意識させずに、その習慣を別の習慣でオーバーライドしてしまう。これが最善だ。
そこで私は、「アイドルマスター シャイニーカラーズ」を強く勧める。
グラブルにアクセスする代わりに、シャニマスをプレイするのだ。
しかも当面は毎日10連無料なのである。もう一度言おう。毎日10連無料なのだ!
これは最大の福音である。1st Anniversary前夜祭と称して、4/12まで続くのだ。
さらに、プレイヤーたちの努力次第では、4/23まで延長される見込みがある。
これ以上多くは語らぬ。私が言いたいことは分かったろう。増田の民よ、健闘を祈る。
今カップラーメン食べてて、一口目すすった瞬間咳き込んじゃって、
完全にカップラーメンの中に入ったんだ。
みなさんならどうする?
俺は捨てた。
非常勤だろうがレスだろうがゴミ扱いだろうがそこだけは譲れなかった。いや、敢えて、譲らなかった。
別に食べてしまっても健康に喫緊のリスクがないことは分かっている。しかし、敢えて、高潔さを自らにアピールするため、決断した。
その瞬間から、自分の鼻水が入った食べ物を捨てないのは不潔であるという、新しい常識を獲得した。
これさえあれば、自らの正義を掲げて不潔な奴を見下せるのだ。
自己肯定感のない俺は、昔からこうやって無駄な高潔さを自らにアピールして常識を獲得し、それを盾にして周りを殴り、生き延びてきた。
嫁は実家で虐待を受けており、解離性障害やADHDだとわかったのは、実家を離れて自分に合う精神科医を見つけてからだった。
私が何でもできて思いやりのある人間だったらよかったのだけど、優柔不断で約束もすっぽかすしADHD(の傾向あり)、給料もよくないため、何百回も彼女を困らせ、怒らせ、泣かせた。
一緒にいないほうが体も心も調子がいいということなので、結果的に私が家を出てネカフェ暮らしをしている。ことあるごとに「死んでほしい」「粗大ごみ」「生きてて価値ない」と言われない方がこちらも気が楽だし、言わせない方がいいに決まっている。
家にいればやらなければならないことでいっぱいだったが、一人で放浪していると何がしたいのかがよくわからなくなる。なるほどギャンブルにはまるのはこういうことなんだなと思った。
喫緊の問題は金銭問題で、このままネカフェ暮らしをするわけにはいかず、さりとて死ぬわけにもいかない(なんどもお願いされてるけど)。どうしたいのかがよくわからない。
いつもはてな匿名ダイアリーをご利用いただきありがとうございます。
掲題の通り、2029年3月27日(火)をもちまして、はてな匿名ダイアリーのサービスを終了します。
はてな匿名ダイアリーは、「はてラボで提供される、はてなの実験的サービスの1つ」として、2000年1月に提供を開始いたしました。
テキストのみ、お絵かき機能や画像投稿など一切ない多様な表現が不可能なサービスで、
「うんこ漏らした」から始まる“うんこの投げ合い的”なコミュニケーションを通じて
独自のコミュニティが形成され、多くのユーザー様にご支持いただくとともに、
ユーザー様同士の交流の場としても長く活用されてきました。ご愛用いただきました皆様に心より感謝しております。
その一方、はてな匿名ダイアリーのシステム面では、困難な問題を抱えておりました。大きな要因として、長期にわたってサービスを提供する中で、
その時々の時流に沿う形で独自のサービスを試行し、利便性を高めるために他サービスとの連携を図るなどの施策を取った結果、
システムが非常に特殊な構造となったことが挙げられます。結果として、システムのメンテナンスコストが増大し、
近年では新規の機能追加だけでなく、不具合の修正や大規模なスパム投稿への対策など、喫緊の課題として必要な対応も迅速に行うことが難しい状況でした。
はてな匿名ダイアリーは、提供開始以来ユーザーの皆様に長くご利用いただいてきただけでなく、
サービスに愛着を持ち、温かく応援していただいているユーザー様が特に多いサービスでもあります。
はてなとしても、サービスをこれからも継続して提供するために取れる手段がないか、検討・協議を重ねました。
これは、サービスを最低限の機能で提供し続けながら、ラボサービスであることを活かした実験的な手法での改善を模索していくための決断でした。
しかし、ラボにおいても、現状のままのシステムでサービス提供を続ける場合、今後、セキュリティ上の深刻な問題が生じる可能性が高く、
最低限の機能を安定して運用するためのコストが増大することは避けられません。
一方、システムの移行・刷新については、過去の投稿データを保持しながらの開発となりますので、
新規サービスを提供する以上の非常に大きなコストが必要となります。
約2年間試行を重ねてまいりましたが、抜本的なサービスの再生ができず、システム面の状況と現状のサービス利用状況を鑑みて、
はてな匿名ダイアリーをご愛用いただいておりましたユーザーの皆様には誠に申し訳ございません。
このような判断に至りましたことを、何卒ご了承いただきますよう、よろしくお願いいたします。
これまでに投稿いただいたデータについては、エクスポートできるよう対応を検討しております。
最近「#私を布教して」というハッシュタグのツイートが頻繁にTLに流れてくる。
アマチュアで活動している人や絵師などが作品をツイートして「RTして宣伝しろ」という主旨のものである。
よく使われる言葉だとは知っている(つもりではある)。
そしてこれが「宣教」、つまり宗教を広めることが由来であることも
理解しているつもりではある。
しかしこれは「その作品を好きな人」が使う言葉ではなかったか。
私はこれを「言葉の誤用」や「言葉の意味の変容」だとは捉えていない。
「宣伝を広告費なしに行うことで物事が歪まされる過程」であると認識している。
そしてハッシュタグとはのきなみ(広告費なしに)宣伝を行う際に多用されるものである。
すでに私は「ハッシュタグ嫌い」になりつつある。
Bボタンを押して望まぬ進化をキャンセルするまで、もうほとんど余裕はない。
しかし誰もこのBボタンを探さないし、押すつもりもない。そもそも存在を知らない。
そして、我々にこの流れを押し止めるような強い力はない。
たとえ嫌悪の怒りを垂れ流したとして、金を求める動きには敵わないだろう。
私個人としては、どのようにハッシュタグを避けていこうかという課題が喫緊となっている。
諦めだ。私は諦めたのだ。この冷めた思いに、金への欲求は火を灯さない。
ぐんねりとハッシュタグにも絡みつく金への有象無象の欲望の炎を、
なんとタイムリーな話。
都内で一人暮らしする弟(フリーター)のゴミ屋敷を片付けてきた。
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部屋の状況は、まさに元増田のまんま。
コンビニ飯の残骸の山、うんこまみれの便器、うにょうにょの虫。
元増田が「頭の中が真っ白になり、10分くらい部屋の前で狼狽していた」
と書いていたが、これめっちゃ分かる。
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さすがにコンドームはなかったが、代わりににタバコの灰がすごかった。
ゴミを掻き分けたその先にあったのは、タバコの灰で敷き詰められたフローリングだった。
床を灰皿代わりにしていたのだろうか。
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あと、布団がすごいことになってた。
少々汚いところでも、秒で寝られる自信のある俺でもさすがにこれは引いた。
布団の足元側では、LANケーブルの刺さっていないルーターが動いていた。
あとで聞いた話だと、ルーターを湯たんぽ代わりにして暖をとっていたらしい。
頭いいなと思った。
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俺が取った行動も元増田のとおり。
仕事終わったあと、夜中にカーシェアリングで車を調達し、ドンキで掃除道具と寝具を調達。
真夜中に片づけするのは隣人の迷惑になるのは分かってるが、そんなこと知ったこっちゃない。
申し訳ないが、休日に自費で東京に出てくるほどの余裕は俺には無い。
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2日間ほぼ睡眠をとらず、片付けに明け暮れた。
その間、弟は帰ってこなかった。
勝手に上がりこんで片づけしてる俺を見て、ぶちギレて(?)逃げたらしい。
一応連絡は入れたんだけどな。
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3日目の朝方、弟が帰ってきた。
俺は仕事と片付けで疲れ果てていたこともあり、何も話をすることができなかった。
2人で黙々と掃除をした。
もちろん、いろいろと話したいことはあったが、とにかく今は家を正常な状態に戻すことが
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ぐっちゃぐちゃの水周りやトイレを、わずか1時間ほどでピカピカにしやがった。
片付けの能力が無いんじゃなくて、単に気持ちの問題だったんだなってことを思い知った。
----
----
その後、弟とは連絡が取れなくなった。
バルコニーのゴミについて苦情が出ているからどうにかしてほしいとのことだった。
俺が4ヶ月前に、バルコニーに一時保管していたゴミ袋の山が放置されているようだった。
(ゴミの日や回収場所が分からなかったから、とりあえず置いていた)
再び、出張ついでに弟のアパートを訪れたところ、部屋は元のゴミ屋敷と化していた。
さすがにもう、作業する気にはなれなかった。
以上。
はてなが歯と口の健康週間なので便乗して今まで他人に言えないことを吐露おろろ。
高校卒業して一人暮らしを始めてから10年間、ほとんど歯を磨いてないです。(かあちゃんごめん)
おでーとの前とか磨くくらいで、平均したら月に1回?とかそれ以下。
人生一度も虫歯にもならず歯茎が痛いとか痛い目にあっておらず、歯を磨かなきゃならない危機感に襲われない。
年に数回くらい、職場の人やたまに会う親に口臭くない?って聞いてみるもののなんも臭わないよって返事に安心する。さすがにがっつり磨いてからだけど、だからなのか、キスする人にも臭わないよと言ってもらえている。(増美ごめん隠してるごめんごめんごめんごめん)
歯を磨くと歯茎(犬歯辺りから?だいたいいつも同じ箇所)から出血があるので環境は良くないんだろうなという程度の自覚はあるが、喫緊の対策が必要かというと環境悪化が進行してるわけでもなく常人も出血はあるみたいだし、行動を促される決定打に欠ける。
まずいかなぁと思って一昨年に歯医者はんにかかってみたけど、掃除して貰って、環境悪いですねーちゃんと歯を磨いて下さい次はいつ来ますか?って感じでえっなんで行かなきゃいけないんですかって定期的にみてもらうのがあれなんですよーってなんかもう金ヅルって感ある言い方だったので、あぁそんな酷くないんだってむしろ安心材料になってしまった。(とあやふやながら記憶してる。またいつか行こう…)
どっかの統計で昔の非人道的な研究で、歯を磨かない人を20年間追跡したら8%の人は全く健康だったとか見かけたので、自分は選ばれた8%の人間なのかとその可能性に安心してしまう。
そりゃリスクを抑えるなら毎食後の念入りな歯磨きなんだろうけど、くっそだらしない人間にとってはそれは高コストだ。気苦労なくそれができたら苦労はしない。風呂入るのも面倒マンだ。
クソみたいな箇条上げして一個一個駄々をこねるように否定して面倒臭い奴してるのにここまで読んでくれた方ありがとう。口は臭くないから許して。
でも、リスクを過小評価したリスクマネジメントの結果、歯を磨かないマンが野に放たれ、日本の人間の女性のリスクとなっていること、これは許されないかもしれない。
歯を磨かないとどうなるかっていうデータが欲しい。予期がしたい。いきなり歯を失うの?
あんまり論が立ってないような気がするし、過去の事例から入場禁止も仕方がないと思われるって明言してるし、特に読んでなさそうだからもう一回言うね。現状刺青の偏見があるとして、それを撤廃するのが喫緊の課題と考えるのはだいたいタトゥーをしている側なわけ(当然なんだが)で、タトゥーをしている側が権利だけを盾に反対意見を封殺するのが認められないとすれば、タトゥー嫌いの側が個人の自由の範囲を超えて他者を傷つける言動や擯斥するような行為も認められないだろうという観点で意見をしているんだけれど……。現在の意識やマジョリティの意見を反映した上で一方は堂々と間違いを犯し、他方は同じことをすれば指摘されるなんて状況をなくしてなるたけ対等な立場で話し合うほうが道義的だと思うな。少なくとも合理的。
自分の考えを発表することには慣れているが、このような匿名の場で発言することが少く、もしかすると思慮分別に掛けた失言があるかもしれないが、そこはどうかご寛恕いただきたい。
一サラリーマンでしかない自分が、差別だの階級だのという深刻な問題について色々熟思することになった発端は、近頃流行りの、フェミニストや助勢権利問題に関して盛んに議論しているような場面をネットでしょっちゅう見掛けたことである。ここで敢て話しておくが、私の身の回りではフェミニストがどうこう、男がどうこう、女がどうこうという大局的な視点の議論はあまり行われていない。一体どこのどういう層が、どういう考えからこうした議論をしているのだろうという好奇から眺めるうちに、自然と自分がこうした差別について考えるようになったのである。
極端な話、こういうものは不特定多数に向けて発信されるのだから、その不特定多数の中で刺激を受けた人間がまた不特定多数に情報を発信し、こういう聯関が幾度となく続いて奇妙な合戦が始まるというのが実情である。何百人もの眼に触れれば、一人くらい「お前が言えたことじゃない。俺はこういう差別を……」と言って反撃してくるものも居るだろうし、それを見て「問題をすり替えているだけだ!」と批判してくる者も一人は出てくる。一人の意見が数百人に伝えられて色々な思想を掘り出すのはネットならではの現象。現実を見たら、まるでそんな議論起きてないじゃないか!と思っても何もおかしくはない。しかし、こういう前提を受けた疑心の強い私は「口に出していないだけで、こういう考えや不満を持っている層は一定数いるのでは?」と勘繰って、更に色々のことを調べた。あくまでもフェミニズムや女性差別、セクハラ問題、Metoo運動などについてだが、本当に多様な議論があるものだと内心驚いた。少年漫画をジェンダー論の視点から語るもの、男性差別と女権拡張論を一緒くたにして語るもの、ポリコレ棒をひたすら恐れるあまりありとあらゆる人権を憎悪し、また差別されることに怒りを覚えた人間たちが、そういう特定層が属している集団全体の問題へと広げて争うこと………。
大概の議論には少なからずこうした不毛な要素が孕まれているが、ネットは憎悪の導火線に火をつけてあちこち爆発させるのに非常に適した性質を持っている。文字数制限があるSNSもまた、そういう性質を持っている。ほんの微妙な解釈の違いが、やがて不毛な言葉遊びに繋がり、いつの間にやら人種差別、性差別の話題に敷衍されている。そうした事例をいくつも見る度に一番疑問に思うのが、「何故これほどまでに単語が錯綜しているのだろうか」ということである。
情報過多のこのご時世は、少しでも少ない語数、少しでも簡潔な言い回しで知的に物を表すのが良いとされている。微妙に差異がある言葉を言い尽くして、詳細に伝えるなどは馬鹿のすることと切り捨てられる。そのために、一つないし二つの意味合いしか持たない言葉や、本来いくつかの分岐がある言葉が下位互換の概念を包括することで、とことん省略しようと試みている。こうした考えを持っているのはおそらく私だけではない。著名な人物で言えば、かの三島由紀夫もこうした問題に警鐘を唱えている。
民主主義という言葉は、いまや代議制議会制度そのものから共産主義革命までのすべてを包含している。平和とは時には革命のことであり、自由とは時には反動政治のことである。長崎カステーラの本舗がいくつもあるようなもので、これでは民衆の頭は混乱する。
自分で言うのもなんだが、私は古い人間だ。未だに家父長制度があり、男女間は厳密には不干渉であるべきで、それを易易と超えるような浅はかな行為は慎むべきだという考えを持ち、性犯罪で女性側がだらしのない格好をすれば「何故襲われるだろうと予測できないのか」と疑問に持つような人間だ。そうした考えは、先進的な思想家や活動家からとにかく攻撃され、時代遅れと呼ばれて封殺される。それでも、フェミニストの中には色々な考えがあり、ラディカル、リベラル、いずれの思想は言葉の上では微妙に、根本では大きく異なっている思想にもかかわらず、リベラルがラディカルに、ラディカルがリベラルに、なんとも不思議な混濁が起きる。こういう事を近頃は主語が大きいと言うと仄聞したが、単なる無知ではなく露骨な印象操作のためにこの事態が起きるのはあまりに不毛である。喫緊の問題は、こうした語義の混乱が争いを招く事態を避けることだが、それを実現するのはとても難しい。
現状がキツすぎる、上がり目がないという状態の人は
このままでは今後もクソもないからさっさと首をすげ替えてやり方を変えろと思ってるんだろ
それを喫緊として受け取るか、先見性の欠如と受け取るか
第二次世界大戦中、徴兵されて国のために戦う権利もなかった女性たちは、銃後の工場労働で戦争を支えた。
戦後、その功績が認められて女性の社会進出の改革が進められるようになっただけのこと。
別にフェミニストの思想が世間に認められれたからではなく、あくまで社会の方が変化したから。
思想が社会を変えたのではなく、社会が変わって、その結果としてフェミニズムの思想が認められたということ。
今の社会に当てはめるとどうなるだろうか。今の社会にとっての喫緊の課題は非婚化・少子化である。
今の安倍政権は、女に経済力を持たせることによってこの問題を解決しようとしている。
以下、高校受験を控えた中学生が正月に勉強サボって書いた妄想文のようなもの。
誤情報・誤認識に基づいた記述が多々想定されるので、くれぐれも「その通りだ」などとは思われぬよう。
1、ノーベル賞を受賞しても国家予算は決められない
大隅良典先生は、オートファジーなる現象の発見で2016年のノーベル賞を受賞された。
その後、いくつかのメディアなどを見ていると、大隅先生は
・独創的な発想に基づく研究の推進
・若手研究者の支援など人材育成の充実
などを提言されている。
しかし、この影響は極めて部分的なものにとどまると思う。
つまり、今後も独創的な研究の支援は増えないし、
若手研究者の研究環境・生活環境は悪劣なまま維持される。
なぜなら、「科学技術振興予算は今後、増えない」からだ
(ごまめの歯ぎしり:河野太郎代議士のブログ参照)
https://www.taro.org/2017/01/%e8%ac%b9%e8%b3%80%e6%96%b0%e5%b9%b4%e7%a0%94%e7%a9%b6%e8%80%85%e3%81%ae%e7%9a%86%e6%a7%98%e3%81%b8.php
科学技術振興予算の内訳を組み替えるにしても、
すでに奪い合いの激しい中で、目に見えた結果の出にくい
上の二つをどこまで拡充できるかには疑問がある。
もしも予算を増やそうなどと思ったら、公民の教科書ではないが
概算要求→政府案→予算審議→予算成立
という国家予算のプロセスの中で、負債の返済や、
増え続ける社会保障費などとともに俎上に載せた上で、
予算成立までこぎつける必要がある。
どちらにしても、研究者という存在の限界は
大きく超えているように思い、いくらか愚考してみることにした。
具体的には、
「研究者が国会議員になることで科学技術振興予算を増やせないか」
ということだ。
多分、ノーベル賞学者の知名度なら参議院議員になれると思ったので、
2019年の選挙もそう遠くないし、勝手に考えてみた。
2、象牙の塔からの発信ではなく議員として予算委員会へ
いきなり乱暴な議論だが、上記の予算プロセスを経て、
「平成29年度予算は政府案どおり成立した」らしいので、
http://www.mof.go.jp/budget/budger_workflow/budget/fy2017/
政府=研究者ならば問題は解決する気がする。お手盛りで決められるかもしれない。
当然そうはならないが。
では立法、つまり国会から研究支援法のようなものを提案することは可能だろうか。
これもなかなかハードルが高く、参院ならば10名
(予算がらみなので20名以上?)集めないといけない。
おそらく、まず初めにできることと思われるのは、
予算委員会で発言する事のように思う。できれば議員として。
予算審議の公聴会における公述人でも良いではないかと言う考えもある。
しかし、それでは足りないと考えている。
五年前くらいに災害対策特別委員会で京都大学教授・
内閣官房参与の方が日本の災害対策・インフラ問題について、
公述人として熱く語っていた。
しかし、地方のインフラの悲惨さが変わる気配はない。
つまり、考えの正しさだけでは足りない。
国民の理解を得られている、という事を示さないといけない。
やはり選挙を経て、国民の信任を受ける必要がある。
しかし、わざわざ著名な学者でなければならないのだろうか。
3、果実をもぎ取った人の説得力が必要だ
結論としては、著名であることは何より必要であろうと思われる。
国民に対し研究の重要性を訴える事は、誰でもできる。
しかし信頼を得るには、担保となる実績が必要だろう。
研究の種が花開き、果実をもぎ取る季節までは、
気が遠くなるような時間がかかる。
蝉の一生ではないが、ほとんどの時間は日の当たらない
地中生活といっても過言ではない。研究者にとっては、
その生活も楽しいのだが、たぶん理解されない。
広い人々に訴え、信頼を得るには、
その手に確かに、たわわに実った果実が必要だろう。
現状、日本は科学・技術の振興をやめつつある。
他の先進国との競争に負けつつあり、新しい研究の芽吹くことのない、
研究の土壌として貧しい国になりつつある。
Nature Indexについての記事が話題になったのは記憶に新しい。
https://www.natureasia.com/ja-jp/info/press-releases/detail/8622
これでいいのか、このままでいいのか、
ということについて述べるのは、あまり意味がない。
悲しいことだが、国民が選び議論した結果だからだ。
それでも保険会社が子供に夢を聞けば、
「学者」は高い人気がある。
彼らが果実をもぎ取ることができる未来は
このままだと日本という国からは着実になくなっていく。
衰退しつつあることが現状である以上、
現状維持は衰退の維持である。
わかりやすいところでいうと、
大学院の博士課程には、もう学生がいない。
愚考とはいえ、著名な研究者の国政進出を願いたくなるほどに、
現状は深刻で、喫緊に対応を要すると思う。
4、別に大隅先生でなくてもいい
非現実的なところでいくと
・政府・内閣・国会が突如科学振興に目覚めて予算方針や法律が変わる
・法律や閣議決定された予算の基本方針などに逆らって
勇敢な予算編成が組める官僚が出現する
もう少し現実的には
・研究者が大挙して霞ヶ関に大々的に陳情に行く
(パブリックコメントって効果あったのだろうか)
・国会議員に積極的に働きかけ理解を求める
しかしこれらの効果も限界があるように思われるので、
・研究者が国会議員になる
が短期的には最も有効である気がしてしまう。
中期的には研究者が中心となって小さくても良いので政党化すると良いと思う。
長期的には
・科学振興が選挙における関心事になる
ことが良いように思うので、
少しずつでも科学者は象牙の塔から出て、
地域のイベントや飲み屋に繰り出すべきではなかろうか。
研究者という生き物が国民に、さらには国会議員にきちんと理解されるようになれば、
研究者は象牙の塔ならぬ地中暮らしで満足なのだから。
大隅先生など著名な先生を国政に引っ張り出す必要もなくなる。
以下の文などを読むと、すでに飲み屋には
大隅先生をはじめとした研究者がたむろっている気がしてならないが。
http://www.jscb.gr.jp/jscb/contribution/contribution.html?vol_id=223&no=9&id=28
以上、あまりの散文に目眩を覚えつつ、間違って投稿ボタンを押すことにする。
https://anond.hatelabo.jp/20170930153952
見せ方の問題
経験に基づく技量の限界もあるので、言ってもらったこと全てに応えるのは不可能だけど
・第四話冒頭タイトル下の2コマ、強いコントラストの絵の中でまだ陰の場所に居るチカが光に向かって進みながら自分の古傷を振り返る→内面描写が始まる雰囲気を出す
・中盤チカの索敵シーン、パルス状の魔法でブーストする前触れに水面に映る波紋を描く→流れを整える
・足元の索敵を始めた直後に黒ベタの大ゴマを入れる→読者のスクロールの手を止めさせる
上手く行ってるかどうかはまた誰かの意見を聞かなきゃわからないけど
他のシーンでも見せ方考えなら演出しようと頑張ったけど、まだまだ自分自身でしっくりきていないところが多いです
現行クエストが一段落付いたら加筆した高解像度版を有料配信する予定ですが
その際は1話2話を大きく変更するつもりです
それまでに売り物として通用するレベルまでスキルを高めるのが今の目標です
とても役立つ指摘ありがとうございました