はてなキーワード: 中二病とは
と思いながらしばらく見守ってきたのですが、
というわけで燃料投下。
http://anond.hatelabo.jp/20140217175047
さて、増田投稿記事にはブックマーク時にコメントをつけられるという、まさに“批判だけなら誰でもできる”という事実を体現したかのごとき機能があります。
浅い浅い。
まずね。「リピーターになってはいけない」という表現を「祈願を受けに来てはいけない」と誤読する人の多いこと多いこと。
あのね、リピーターの意味わかります? 一見さんの事じゃないですよ?
祈願を受けに来ることは否定していないが複数回受けに来るのはよくないと言っている。ここでは頻度や回数を問題にしているわけだ。
皆さんもっとよく文章読みましょうねー。
それと、ツリー全体の内容にまで言及するなら、もっとしっかりその全部を読みましょう。
ツリーの中のどのエントリとどのエントリが元増田が書いたものかすぐにわかるはずですよ? 少なくともこのツリーに関しては。
たっぷり字数を費やしているものと、そうでないもの、そして浅薄で安っぽい脊髄反射めいた反論と、重厚な理論にきっちりと裏打ちされた主張。違いは明白ですね。
http://anond.hatelabo.jp/20140217183649
http://anond.hatelabo.jp/20140217185233
http://anond.hatelabo.jp/20140217192523
http://anond.hatelabo.jp/20140218062823
http://anond.hatelabo.jp/20140217200316
http://anond.hatelabo.jp/20140217202300
http://anond.hatelabo.jp/20140218122451
http://anond.hatelabo.jp/20140219135935
http://anond.hatelabo.jp/20140220141948
ツリーの中で私が書いたエントリは以上のみです。
これだけの字数を費やしている元増田のエントリと、それ以外のもの。
きちんと見分けて、その上で言及しましょうねー。
・全くわかっていない。往復4時間かけて数千円の祈祷料を払い長い祈祷を受けるという作業を行うことが人生には必要な時があり、それは時として正面から問題に取り組むことよりも大事なことなんだよ。
A:はいバカー。今書いたような、読解力のない人の典型例ですね。筆者が祈願の必要性については否定しておらず、頻度と回数について否定している事をちゃんと読み解きましょう。巡礼ごっこも程度の問題です。
・生臭坊主のたわ言。御利益信仰が宗教のすべてではない。この無知さで宗教家を名乗ることがおこがましい。
A:はいバカー。坊主が神神言うわけないですねー。お坊さんが神を崇めると思ってる人と、宗教実務者の私。一体どちらが無知なんでしょうね? 宗教に抱いている幻想を捨てて、現実を見ましょうね。
・なんか中学生の宗教、社会批判みたい… 「現実と向き合え!」って叱りつけるか黙って金取るかの二択しかないの?本職がこんなんなら昔話のお坊さんからは随分退化しちゃったんじゃないかな
A:はいバカー。坊主が神神言うわけないですねー。個人の問題は個人で解決するしかないという現実が厳然と存在するからこそ、ご都合主義的展開のドラマや小説が売れるんですねー。神や仏の存在もまたしかり。昔話のお坊さん(笑)もしかり。残念ながらあなたが幻想を抱いている対象は実在しませんよ?
・風俗嬢に説教・・・じゃなくて風俗嬢が常連客に説教してる感じ
A:はいバカー。聖職者様が有難くもして下さっているお説教を何と心得ますか。高尚なものを低俗なものになぞらえて歓心を買うやり方はウケ狙いとしては一般的なやり方ですが、品性下劣ですよ?
・「夫婦が問題にきちんと向き合ってない」と思うなら忠告しろ。宗教が使えるならなおさら正命(正しい仕事のこと)を説けるはずだ。依存の何が悪い、完全に自立した個人なんて存在しないんだぞ
A:はいバカー。まず、そこまでしてやるだけの給料待遇福利厚生の恩恵に預かってはいない、という可能性に留意してから物を言いましょう。そして依存を肯定する人はよく、共存によって成り立っている社会構造を引き合いに出しますが、社会が相互扶助で成り立っているのとマヌケが他者に依存して生きているのとは何の関係もありません。免罪符捨てましょうね。
・そういう人に「説教」するのも坊主の仕事だろ。宗教家はカウンセラーとしての側面も持っている
A:はいバカー。坊主が(以下略)。そういう人に説教するのはもう仕事ではないし、またそこまでの給料待遇福利厚生の恩恵に預かってはいません。カウンセリングが受けたいのなら、精神病患者のレッテルを張られる事を恐れずに、また自分が病人である事を認めるのを恐れずに、ちゃんと心療内科へ行くべきですね。ああこれあなたの事ですよ?
・俺個人は違うなあ。祈る時は問題と向き合う時だな。普段はアニメとかで気を紛らわせられるんだけど、勤行ん時だけは逃げられん。自分の願いを自分で祈願するんだから逃げられる訳がない。祈願を他人任せにするな!
A:はいバカー。自分のお願い事を自分で祈っちゃってるお坊さん来ましたコレ。自分の願いを自分で祈願している人が、他人の祈願依頼を受けて何ができると言うんですかね? 「こういう風に!真剣に祈るんだよ!」って背中で教えているつもりなんですかね? 相手が祈り方を知らないと思っているのなら、傲慢にも程があるどころか参拝者を馬鹿にしきってますよね? あなたは無力で、そして参拝者に対して何もできないんです。その事をまず認めましょうねー。
・現世利益を神に祈るったらクリスチャンでもなく神道か?とも思ったが、神道って「信仰心」をとやかく言わないような。仏を神に言い換えた坊主だとしても、「信心」を語る浄土系は祈祷をしない。中二病患者っぽい。
A:はいバカー。まず匿名の発言だという点を思い出しましょうね。神道が信仰心をとやかく言わないのは言えないからです。なぜ言えないのかは、そこまで個々の宗教の定義を区別している人間ならば少し考えればわかるはずですね? 他人に安易にレッテルを貼る前に、少しは自分で考えましょうね。
・トラバまで読んだけど、この人が本当に聖職者なのかどうか疑問。むしろ普通の人よりそういう資質が欠けてるんじゃないか。
A:はいトップレベルのバカー。トラバまで読んだとか言っちゃってますが、まあ
http://anond.hatelabo.jp/20140217183649
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http://anond.hatelabo.jp/20140219135935
http://anond.hatelabo.jp/20140220141948
これ読んでから出直してきて下さいね。あと言っておきますが、宗教において実務に臨むのが聖職者であって、宗教に幻想を抱くのは聖職者の仕事ではないですからね? 年端もいかない若造や理想に燃えた宗教家みたいな連中は速攻で辞めていって、実務に淡々と向かう職業者が長年支え続けているのがこの世界ですからね。宗教に幻想を抱いている人間ほどヘタレで根性無しで実務に耐えられません。宗教に理想を抱いている人間ほど聖職者としての資質に欠けた行いをします。聖職者であり続けるのが聖職者としての資質の証明であって、聖職者をやめるのが理想家や夢想家である事の証明です。宗教とは現実から出発して理想を目指すものですが、あくまでも理想ではなく、ただの現実に過ぎません。あなたの愚かさを常に自覚し忘れない為にも、今のふたつの名言を紙に書いて壁に貼っておくといいですね。
・信仰が形式化した詐欺に堕することがないよう、職業人としてはつとめてください。ネットでの打ち明けはともかく「現場」では。あなたの職業、あなたの「現場」でしか出来ないことはきっとある筈です。
A:はいバカー。詐欺である事は皆知っていて、その上で騙されているという茶番の前には「現場」も何もあったもんじゃないんですねー。決まりごとだから従う。慣習だからそうする。歴史を重ねる事により一種の様式美にさえ達した詐欺というものは、そうやって無言にして不動の搾取構造を築くものです。私はその腐敗の中においてラクに飯を食わせてもらう為に聖職者になったのであって、決して理想を抱いて聖職者になったわけでもなければ、切々たる思いを匿名で訴えたわけでもないんですねー。文章が長いのはもともとで、もう長い事書いてもいます。ブログのアクセス数を見てから物言ってくださいねー。
http://b.hatena.ne.jp/entry/k-tai.impress.co.jp/docs/news/20140424_646054.html
最近、ケータイの話題ときに↑これみたいに「キャリアメールってまだ使っている人いるの?」とか「自分の周りではキャリアの通話使ってる人いないわ」みたいなこと書いてる人をよく見るね。
2chあたりで何年か前に、聞かれてもないのに「俺テレビみてないわー」「まだテレビみてんのかよ」とか言うのが流行って、しばらくするとそれが「テレビ見ない自慢」とか揶揄されるようになったけど、キャリアメール使わない自慢の人たちも世間じゃ普通に使われてるって知っているけど、自分はアーリーアダプター的ですよってアピールしたいって中二病な心理で書いてるわけでしょ。なんか笑っちゃうよね。
ここ10年、もしかしたら5年くらいの傾向として、一般小説のライトノベル化がある。
ライトノベル作家が一般小説に進出するという形で始まり、気づいたらかつてはラノベとして扱われていたような作品が一般小説として出版されるようになる。米澤穂信、有川浩、冲方丁、桜庭一樹などがここに当たる。今では彼らもラノベ作家とはみなされないだろう。そして次第に、かつてはライトノベルとして出てきたような作品が最初から一般小説として出るようになる。似鳥鶏、仁木英之、森見登美彦、機本伸司あたりは、世が世ならラノベ作家としてキャリアをスタートしていただろう。一般文芸から出た作家がライトノベル的な作品を、表紙がアニメ絵だったりキャラの立て方がライトノベル風だったりする作品を、文庫という形で出すことも増えてきた。
それと同時に、ライトノベルと定義される作品群は次第に先鋭化し、表紙はより萌え萌えになり、話はより典型をなぞるようになり、お約束化は進行していった。いわゆるコテコテのラノベというヤツだ。邪気眼で、中二病で、萌え萌えで、中身があまりないやつだ。
結果として、一般小説がライトノベルの一部を取り込み、「ライトノベル」の定義が狭まったのだ。かつてはライトノベルだった作品群が今ではライトノベルではない。そして、今ライトノベルと呼ばれる作品群の『ラノベ濃度』はますます高まっていく。
そういう状況を加味して、どこをさして「ラノベ」と言っているのかはっきりさせないと、議論のしようがない。
●ラノベしか読まない?他の小説は読む?それは何故?どこに魅力を感じている?
上記のような境界領域の作品を好んで読みます。今のラノベは全然熱心に追ってない。
●ラノベファンはラノベを一般娯楽小説(定義付けのために一般と称しているだけ)と同じだと思っている?
「今のラノベ」は別物が多いけど、全てが別物じゃない。一般小説(境界を含む)で通用するような作品は今でも存在する。
●ラノベで、パロディ要素が殆どを占めるようなものはどう思っている?
知らん。面白ければオッケー。
そして過去を整理するために記事にすることも、自分への治癒に繋がると信じて書くことにする。
とても長いです、すみません。
最初はちょっとしたハブりとかくらいだったんだけど、陰湿になっていったのは小学校3年制くらいからで、学校に行けばなにもしていないのに笑われる、嫌がられるという扱いを受けた。
私に非があったんだろうという輩が湧いて出てくるような気がするから先に述べるけど、私はガリガリで色黒で身なりがダサくて大人しいという典型的な地味な子どもだっただけだ。
苛められていることを学校の作文に小学校4年生くらいで書いたときは、担任に呼び出されて、詳細を聞かれたけど、いじめられているという事実が恥ずかしくてうまく答えられなかったせいなのか、まったく対処してくれてなかったように思う。
小学校高学年になったとき、苛められはしていたものの、とある女子グループにしがみ付いていた。苛められるとは分かっていても、それ以外に一緒にいる人がいなかったし、そのグループの数人は幼稚園も一緒で、近所だったこともある。帰宅グループだった。
けどある日、学校の近くで働いている父親が、私が友だちの軽い感覚でぶたれたところを偶然見つけ、私を怒った。その友だちと一緒にいるんじゃないって、だいぶ怒鳴られた。
私は、まぁ苛められてはいたものの、その女の子は幼稚園からの付き合いで、別に本気でぶたれたわけではなかったし、からかいはするけど一緒には帰ってくれるから、その子のことは好きだったから、まったく理解できなかった。
まぁ一方的に怒鳴られる状況下でそんなことが説明できるわけもなく、それ以降、恐縮した私は怯えながらその道を通ることになった。このあたりから父親への苦手視が始まったように思う。その通りを歩くとき、いつも父親がいるんじゃないかと怯えていた。いつも逃げるように歩いていた。
その子のグループから距離を取らざるを得なくなったあと、私は苛められっこのグループに混ざることになった。なんというか、嫌な視線は前よりも多かったし、高学年になるにつれて、わりと堂々となにか嫌なことを言われるようになっていった。
中学生になっても、その環境はもちろん変わらなかった。メンバーがほとんど一緒で、そこに他地区から3校分ほど加わったんだけど、苛められていた寝クラになりつつあった私が新しく中学校で再スタートできるわけなく、鬱気味になっていった。
中学校1年生のときはまだマシだったけれど、それでも徐々にやっぱり苛められキャラというのは定着するもので、ジャニーズが好きだったことなんかを理由に気持ち悪がられていた。
この頃から、自律神経失調症になった。朝起きると気持ち悪い、ご飯が食べれない、頭痛がする、だから学校に行きたくない。
3年生にあがったころは、学校に行っても終始寝ていた。朝遅れて授業に行き、英語の時間以外は昼まで休み時間もぶっ通しで寝ていた。英語だけは好きだったし、英語の科目の先生がとても英語のできる人で尊敬していたので、起きていた。成績は普通だったけど。
文化部に所属していたので、上下関係に揉まれることはなかった。
高校受験のとき、希望していた高校は当然だけど全部落ちた。美術科高校を目指して画塾に通っていたとはいえ、基礎の勉強していなかったから当たり前である。今でも当時、試験のために描いた白菜はよくできていたと自負してるけど、実際はどうなんだろう。分かんないや。
興味のない勉強を真面目にし続ける自信も体力もないと感じ、さらに同じ中学校の人がいない学校へ進学したいと考えた私は、定時制に入学することにした。
定時制で、ある意味高校デビューを果たしたけれど、間違った方向にすすんだ。
夜間学校なだけあって、ヤンチャしている生徒が多く、そんな子たちに混ざって遊びを覚えたため、高校1年生から夜遊びを繰り返していた。朝帰ることも多かった。
ただ美術科受験を失敗した私は、自分の美術に対する自信を完全に失っていて、挫折を強く感じていたため明るくなれたわけではなかったし、中二病も混ざって鬱はより悪化していった。
勉強もできない、絵の才能もない、コミュニケーション能力もない自分自身に対して、ただひたすら絶望していた。
中学校の先生に勧められたメンタルクリニックに行き、薬を服用し始めると、薬が効かないことへのいら立ちが増えた。飲む量だけは増えていくのに、精神的な落ち着きはまったく得られなかった。
1回だけオーバードーズを試みたこともあった。当時の私は死にたいとずっと考えていた。
鬱で泣いてばかりの私を、父親と祖母はよく思っていなかった。泣いていると怒られて、怒られたことに泣くと、さらに怒られるという悪循環だけがあった。
家族の恥のような扱いをされているふうにしか思えなくて、私は家族にいるべき人間じゃないと思っていた。
人生もなにもかもうまくいっている妹と比べるととても惨めで、その妹は私のことなんか気にせずのびのび生きていたし、母親だけは唯一鬱への理解を示してくれようとはしていたけど、基本的には小学生のころと同じように放置主義だったように思う。
問題を抱え続けていたわけだけど、こういうわけで、家族の中に頼る人間がいなかったし、頼れる友人関係を高校で築き上げたわけでもなかったので、中学からこの頃まではずっと孤独だった。
高校3年生の夏、ようやく打ち解けあえる友だちができ始めた。ようやく仲間と呼べる友だちに出会えて、今でもこのグループの人たちとは交流が続いていて、のちのち精神的に助けてくれる人となる。
高校4年生のとき、頼りにしていた母方の祖母が亡くなった。父親や家族と揉めるといつも、この祖母の家へプチ家出を繰り返していた私にとって、これは大きなダメージだった。ちなみにそんな家出を繰り返しては家族に嫌いとかそんな暴言を吐いていたため、父方の祖母は「あっちの家のほうがいいんだろうねぇ」なんてよく言ってきた。
母方の祖母が亡くなった日、私は唯一の身内で頼れる存在だった人を失ったこともあり、葬式中は泣きとおしていた。親戚一同が集まる食事会では、母方の祖母側の兄弟たちと、祖母の話をして気を紛らわせた。田舎の人たちなので、宴会になっていて、楽しかったから。
けど父親からは「葬式にきていた父親側の人間のそばにいなかった」ということでキレられて、それがショックだった私は2週間ほど、亡くなった祖母の家で、祖父と一緒に暮らした。どうしても父親の理論を理解することができず、頭ごなしに一方的に怒鳴られることにも嫌気がさし、この頃から本格的に父親嫌いとなった。
父親嫌い、父親側の祖母嫌いは、このあと数年続くんだけれど、このとき、高校の友だちが私に理解を示してくれたおかげでどうにかたちなおれた。だから高校の友だちには本当に感謝してる。ちなみに父親を嫌うエピソードとしては「お前なんかが大学に行けるわけがない」と言われたこともある。
父親の言葉を見返すつもりで、必死に勉強をし、第二志望だったけれど希望の大学に入学することができた。美術は諦めていたから、その次に好きな英語科へ入学した。
私の人生は大学入学と同時に、ようやく明るくなってきたように思う。
今まで女子の仲良しグループに属したことがなかったけど(高校のときは男友達に囲まれていた)、それが実現したり、定時制から入学したにも関わらず成績は中の上ということで、自信にもつながった。
家族とは距離を取りつつ、揉めつつ、という微妙な関係が続くも、大学2年生のとき、反対を押し切って1年間の留学をした。
嫌いな父親からの出資ではあるけれど、家族から距離を置けたのはよかった。今まで家にいても落着けないというか、父親と同じ空間にいると緊張して耳鳴りがするくらいだったので、ストレスから開放されたように感じた。
父親とのコミュニケーションがまったく取れない私とは違い、妹と父親は仲が良く2人で旅行もするくらいだったので、その差に絶望したり、自分の不適合っぷりに悲しくなったりもしたけれど、距離を置くことでどうにか凌いだ。
帰国日が近づき、電話先で父親が口頭一番に発した「帰ってくるなよ」みたいな冗談?をきっかけに、乱れ始めてたので、カウンセリングのお世話になった。話を聞いてもらうことでどうにか落ち着き、まぁ金銭的な援助だけはあるのでその辺の感謝はしつつ帰国した。
留学後の関係は以前よりもずっとマシだったけれど、どうしても距離は縮まりにくかったので、やっぱり何度か揉めた。
でも大学4年生のとある大規模な英語スピーチ大会でスピーチを行い、英語が理解できないのでいいやと思い両親を招待することで、なんとか今までの成果を見せることができた。まぁ特に褒められはしなかったけど。
今は教育を学ぶために自分で奨学金を借りて、二度目の留学をしている。
父親に対して批判的になる大きな理由の一つ、それを助長する理由の一つとして、大学に入ってから教職を取り、先生や親、大人の在り方について考えるようになったからというのがある。
子どもにどう接するのが理想なのか、自分の過去と照らし合わせて、教育論について考えている。そんなわけでより一層、父親は間違っていると認識してしまうため、寄り添うことはできなかった。多分、今もそんなにできてない。耳鳴りなんかはなくなったけど、あまり喋れないし。家では基本的に口数が少ないと思う。
感情豊かではない。
それに気づいたのは、つい最近、教育実習先の学校からのコメントについて大学の先生に触れられたのがきっかけだった。私は自分の気持ちを表すことや、人に頼ることが苦手なんだろうと先生に言われた。
過去を振り返ってみると、そうなんだろうと納得できるし、きっとこれまでのことが原因なんだろうと、教育について勉強してきた分、自分をそう判断することができる。
これから努力して少しずつ練習して変えていくつもりなんだけどね。
これを書いている最中、辛かった日々を思い出して泣いた。
けど、泣いても書き続けることで、辛かったあとにやってきた楽しい人生を振り返ることで、自分の成長を確かめることで、自己治癒に繋がったと思う。
ここまで長々と読んでくれた人はどうもありがとう。
あくまでおしゃれに興味がなくて浮浪者並みの格好になっている人、あるいは興味があっても基礎を知らずに中二病みたいな痛い格好になっている人向けの記事。
オシャレに興味がない人は
「ここまで金かけるなんて無駄だな」「他人からどう見られるか考えるのが無駄」って考えてると思うからこれ読んでも実践なんてしないと思うよ。
なんていうかファッションがなぜ素晴らしいかって?それはファッションだからさ。って感じで、無駄だと思ってる人に無駄ではないと思わせる口説きが足りない気がする。
おしゃれに興味がない人でも、身だしなみの一環としてきちんとした格好をしている、あるいは悪目立ちしない程度にまとまっている人向けには書いてないから。
あくまでおしゃれに興味がなくて浮浪者並みの格好になっている人、あるいは興味があっても基礎を知らずに中二病みたいな痛い格好になっている人向けの記事。
まず、前提として。この日記を書こうと思った理由は2つある。
ひとつは単純に自分の気持ちを吐きだしたかったから。2つ目は、「なぜ死にたいという思考までたどり着いたのか」を書くことで、自殺についてのケーススタディの役立つかもしれない、という思いがあったからだ。まぁこんな匿名の日記を誰が読むか、とか、好き好んでスタディするのか、みたいな思いは勿論あるが。
あと、書き手について。自分は大学4年生だ。大学は私立で、専門性も学費もかなり高い。入学時から東京の外れで一人暮らしをしながら通っている。就職活動中で、無い内定。
「死にたい」という気持ちは、複合的な理由から生まれるようだ。
【就職活動が上手くいかないこと】
正直なところ、自分の就職先は才能がものをいう世界のため、実力が無いと就職をするのが厳しい。勿論専門とは関係のないところに行っても良いのだが、どうにも夢を諦められない。しかし、才能が無い。ひとつの手段として、一般的な職に就き、専門のことは趣味に抑えることも考えた。しかし、そもそも職に就けないのだからどうしようもない。
自分は、大学生である今が一番幸せだと思っている。したいことができて、時間をゆっくりと使うことができる。しかし就職すると、自分の時間はぐっと減ってしまうだろう。さらにもし、仕事にきちんとした意味を見いだせなかったとしたら。それは長い苦しみの末死ぬのと同じではないのだろうか。だったら今、楽しいと思える段階で死ぬ方がよほど合理的ではないだろうか。
【やる気がでないこと】
自分は努力厨だ。努力すれば大体の物事は叶うし、努力出来ないのは自分がたるんでいるからだと考えていた。しかし今、その気持ちが首を絞めている。やる気が出ないから自分を責める、しかしやる気が出るまでやってみるも、うまくいかない。そしてまたやる気が無いからと自分を責める。責めてばかりなのでやる気も潰える。結果は出ない。そもそも褒められるようなことをしていないので、自己嫌悪のスパイラルに陥るのだ。
【その他諸々】
たとえば、臼蓋形成不全という病を患っていること。大掛かりな手術をしない場合、早くて10年年後、痛みで足が動かせなくなるらしい。あとは、数百万の奨学金という名の借金を背負っていること。中学のとき一度自殺を図った(方法はとても死ねるようなものではないお粗末なものだったが)ことによる人生の延長戦感。今まであまり必要とされてきたことがないこと。何をやっても感動しなくなったこと。ネット依存がひどいこと。今日は新学期の授業があったのに寝坊で出なかったこと。などなど。
自分の場合は全体を通して「理想と違う自分への嫌悪」が気持ちとして大きいが、やはりちいさなきっかけが積み重なってこうなってしまうのだろう。
○最終的な決め手
最終的な決め手は、自分でも笑ってしまうが「Twitterの退会」だった。
【依存による退会を決意】
自分のアカウントは、現実の知人とは一切繋がりを持たず、漫画やゲームの趣味でつながるものだった。アニメ化の話でリプライを飛ばしあったり、ちょっとした日々のことをツイートしたり。しかし、最近どうにも依存が過ぎた。リプライが来ないことにそわそわし、つねにタイムラインを監視しつづける日々。ひょっとしたらやる気がでないのは断続的にTwitterをやるせいでは無いのだろうかと思った自分は、思い切ってアカウントを消すことにした。アカウント連携を外し、理由は述べずに明日で退会する旨のツイートをする。これにはとても勇気がいった。(余談だが、同時に今まで積み上げてきたものをぶち壊す高揚感もあった)
【アカウント削除という擬似的な死】
Twitterを止めることは、つまり「ネット」社会的に死んだことに他ならない。「ソーシャル自殺」と言っても良いだろう。ネット世代の馬鹿な考えに思えるかもしれないが、直接的な繋がりのないソーシャルネットワークでは、消えたアカウントとは(新しくアカウントを作らない限り)永遠に会えなくなる。そしてこの擬似的な死を体験することが、死にたいという気持ちをはっきりと持つ決め手となった。漠然とした感情であった自殺を、バーチャル的にでも体験してしまい具体化することで、形を持ってしまったのだ。
自分も例に漏れず、孤独だ。孤独は嫌いじゃないし上手く付き合ってるつもりだが、「死にたい」という気持ちを加速させる力を持っている。
【何でも話せる友人がいない】
自分は昔から誰ともペアになれなかった。「AとBっていつも一緒にいるね」と思われたことは一度も無かった。そもそも、固定のグループにいることがなく、クラスのグループの3,4つを転々としていた。だからグループ全体での遊びに誘われることはほぼなかった。そういうわけで、周りに人がいるのに大して仲のいい人はおらず、ましてや「死にたい」などと言おうものなら中二病かと一笑に付されること請け合いだった。(そう思ってしまうくらい、プライドが高いということも理由のひとつだろうが…)
【親にも話せない】
バイトもしておらず、サークルも似たような有様だったので、自分は一人暮らしを始めてからずっと親にだけ相談をしてきた。しかし、「死にたい」という気持ちは親にも言えなかった。勿論生んでくれたから申し訳ない、という気持ちからでもあったが、それよりもっと大きな理由があった。まず、父はこのご時世珍しくはないが、心の病気を患っていた。母はそんな父の言動から「人生の希望」を失ってしまった。今の母は、ネットゲームを生き甲斐にしている。そんな彼らに「死にたい」とは言えまい。
というか先日、実際に「辛い」ということを電話で母に相談したのだが、「そんなこと言われても」「そうは言ってもやるしかないでしょ」「アンタは頑張ってるよ」と、返答した。
その間ずっと、受話器越しにキーボードを叩く音が聞こえていた。
そういうわけで、「死にたい」ということを話せる人間がいなかった。カウンセリングも対して役に立たなかったし、心療内科には毎週薬を渡されるだけで終わった。一番心が軽くなったのは横浜中華街の占い師だったなんて、いっそ笑えてすらくる。
ともかく、きっかけを与えられた「死にたい気持ち」は、孤独によってより膨らんでしまうということだ。
○で、自殺するの?
ここまで書いておいてなんだが、おそらくすぐに自殺することは無いだろう。勿論今も死にたいという気持ちはかわらない。未来に希望も持てないし、内定も無いし、やる気もでないし、自己嫌悪もひどい。しかし吐露したことによって気持ちの整理がついたし、少しすっきりもした。それについさっき思い出した、母に言われた一言が、自分の自殺をかろうじて止めてくれている。
「旦那が心の病気になったのは、自分の責任でもある。もしアンタもそういう病気になったら、私はもっと自己嫌悪が酷くなる」
だから自分は心の病気にもなれないし、自殺もできない。もう死ぬしか助かる道はないと分かっているけれど、両親の死や自我崩壊など、更に大きな決め手ができるまで、自分は「死にたい」という気持ちを心に持ちながら、生きていくしか無いようだ。
中二病でも恋がしたい!二期の見どころは、七宮の心の葛藤の描写、モリサマーと凸森の関係、そして、中二の幻想世界のシーン
勇太と六花の恋愛を軸に、この3つのストーリーと言ってもいいかな。が描かれた作品。
中二病というフィルターを通して、上手く人間関係を描いた作品だったなと個人的には思うけど、終わらせ方は難しい作品だったと思う
最後にキスしなかったのは、今後の展開があるからなのか、ここから先は視聴者の想像にお任せしますなのかしらないけど、余韻を残したが、まあ微妙だったと思うけど、これが二人らしいといえば二人らしかった
ただ、勇太はあれだけ女の子に囲まれてこれからどうするんだろうか
くみん先輩はともかく、モリサマーなんかはどうなんだろうかと思ったりしたね
一期では、六花にとって中二病は家族問題(父の死)という現実から自身を保護する手段としてあった。それが勇太との恋愛というリアル要素や、現実を直視させようとする姉の行動によって徐々に機能しなくなっていく。
勇太の立場は揺れ動くが、最終的には中二病をむしろ肯定・活用する方向に位置付けなおされる。生きづらい現実にフィルタをかけて相対化することで、そこに飲み込まれることなく、同化することなく、自分なりに生き抜いていくための道具として。
そういう捉え方は、中二病を恥ずべき過去として抑圧してきた勇太にとっても変化だった。かつての自分のありかたを素直に評価し、いまの六花を受容するという意味で。
そして多かれ少なかれ、人はそのようにしてこの社会を生きているのではないか、と。だからラストの「人はみな中二病」というナレーションは、普遍的なメッセージとして心を打つものだった。
しかしこのようにうまく物語として完結してしまったがゆえに、二期では六花と勇太の恋愛関係を主軸にせざるを得なかった。結果、きわめて恋愛至上主義的なストーリー展開になってしまったのが残念。
二期の六花にとっては終始「恋愛」が主で、「中二病」が従、という位置付けだったように思う。せっかく一期の最後で解放されたのに、また別の穴にはまりこんでしまった的な。
六花と勇太のぎこちない関係性は見てて微笑ましい(&死にたくなる)反面、結局すべてそこに回収されていくのか、という息苦しさを感じてしまった。新キャラの七宮も同様。
三四十年前に当時としても(正直いうと今考えても)キラッキラッした名前を付けられた私から、元増田に頼みたいことと言いたいことがある。
頼みたいことは簡単なことだ。
将来あなたがその姪御さんと普通に親戚付き合いするようになったとしても、決して名前について触れるな。
その名前が原因で避けてたなんて言うな。
姪からしたらそんな叔父の存在を知るだけで、馬鹿らしかったり、呆れたり、叔父を切り捨てたくなったり、よい感情はない。
この下に言いたいことを書くが、言いたいことのついでに自分語りもするので後は読まずに無視してくれて構わない。
一行目にキラッキラッした名前だと書いたが、私の名前は私の年齢にしては非常に日本人らしくない。
幼稚園の先生に笑われ、中学では男子にからかわれ、英語圏にホームスティに行けばホストファミリーにそれはあなたの本当の名前なのかときかれるような名前だ。
「これからは海外に日本人がでていかなければならないのだから」とか「子供のころから英語を習わせたり最高の教育を受けさせたい」とか、うちの親も同じことを言っていた。
だからって、親がむかし世話になった外国人の名前をそのまま娘につけなくてもいいと思うんだ。
日本では変な名前だし、名前のもとになった人の国でも古臭い名前でそんな名前をもつのはひ孫がいる年齢の年寄りしかおらん。
私は小学生の頃親に内緒で改名のやり方を調べて、親の許可がなくても改名できる年齢になったら名前を変えようと思っていた。
中学生になって冠婚葬祭で出くわす親戚のおっさんたち(当時20~39歳)に自分の名前のことを散々に言われてから気が変わった。
そのおっさんたちにはもっと幼いころから名前については言われてたんだが、思春期の中二病的なものと大人への反発が合わさったのかもしれない。
当時はとにかくその人たちが気に食わなかった。
気が変わってから高校や大学で周りを見れば、意外に世の中自分よりもっとキラキラした名前の人がいた。
高校の同級生に漫画の主人公の名前に無理やり字画の多い漢字を当て字した名前の女子がいた。
当時の彼女は、彼女の名前について「親戚からいろいろ言われないか」と無神経な同級生に聞かれた時にこう答えていた。
「名前のことで文句つける親戚は、血の繋がる私のことが大事だと私に伝えるよりも、私の名前を否定したい自分の感情を優先している」
それを聞いて視界が晴れた気がした。
私が成人して何年もたってから、私とそれまで接触がなかった親戚の一人(親と同年代)に謝罪された。
「(私の)名前がアレだったので今まで避けていて申し訳なかった」だそうだ。
(彼はそれで謝ったつもりなのだ)
年齢のせいもあるが、彼より私のほうが社会的に上の立場になったから謝ろうと思いついたのかもしれない。
今も昔も、その親戚は私につけられた名前にかこつけて、私個人を見る気がない。
でなければ、そんな謝罪はすまい。
元増田も姪御さん個人を見る気がないようだ。
姪御さんが生まれて三年。
今何ができるようになったのか。
食べ物は何が好きなのか。
絵はどんなものを描くのか。
どんな色が好きなのか。
どんな風に笑って、何を怖がるのか。
顔立ちは父母のどちらにどこが似ているのか。
そういう姪にまつわる名前以外の全てのものまで、元増田の人生から排斥する意味はあるのか。
たとえ影響がどこかの会社で今あるとしても、姪御さんが大人になる頃には限りなくゼロに近いだろう。
追記:
キラ☆キラネームの当人にとっては、世間の人や同級生よりも一番直接名前を否定してくるのが、自分の親戚だ。
血が繋がっているからこそ、一部の親戚は同級生の親や学校の先生よりも遠慮なく、直接言ってくる。親ではなく子どもに。
子どもは守られるべきで、悪意を受けるべきではない。
エロゲレビューサイトめぐりをやってて思ったけど、エロゲをやることが面倒になってやらなくなってから、インプットに応じたアウトプットを行うことすら面倒になってきている感じがする。
だからレビューだけ読んで(自分がプレイしてこういう感想を考えたと錯覚して)満足する。レビューを読むことが趣味になってるレベル?
新作ゲーム買うけど自分でやるのは面倒だから誰かにやってもらうのをただぼーっと眺めるだけ的な。
でも実際そういう人って多い気がするんだよなあ。
日常生活がしんどすぎるのに娯楽が溢れすぎててやりたいのにやる気力がない、時間がないとかそういう。
オートモードもあるけど基本的にボイス待ちで次に進むから、読み終わったらボイス気にせず進める人にとっては基本的に無意味なんだよね。
クリック代行とかでも結局クリックしてもらうっていうアクションの手間>>>自分でクリックする手間だし。。
メッセージ表示終わってから文字数に応じてウェイト時間を決められればいいのか。
あとはあえて言うならエロゲのテンプレ(ツンデレとかハーレムとか中二病アクションものとか)を「そういうもの」として理解する労力も費やしたくなくなってきた。
うーん、、、ノベルゲーをやりたいけど読むのは面倒臭いってところに行き着くのかなあ。。。
なんなんだろうこの矛盾した気持ち。
ダンボール一箱分くらい未プレイのエロゲあるんだけどもうこれやらないまま処分するしかないのかなあ。。。
頭の中ではやりたいって思ってるのにやる気力が出ずに結局やらないままというのは社会人にとっては普通だけど深刻な問題だわ。
とってつけたようでなんだけど、最近の自分が特に史実を調べるでもなく艦これで無造作にレベリングばっかやってるところを見ると、物語を消化するのを避けているのかもしれないとふと思った。
佐村河内しかり大衆は物語を求める云々が最近ホッテントリでよく見かけたテーマだけど、物語を消費することが面倒になってきているのかもしれない。
私はとある宗教の2世で、子どものころから親に宗教行為を強制されるのがいやでいやで仕方なかった。
やれ毎日朝晩仏壇に手を合わせろ、会合に行くぞ、勧誘に行くからついて来いなどなど。
本当に本当にいやで仕方なかった。
学業に成功するようにと祈っている時間で勉強したいんですけど! 明日部活で朝早いのに夜の会合とか無理!
相手は明らかに嫌がっているよね。なにこれ仲間内で勧誘人数を競っているの?
仏壇で30分唱えたらこの紙の升目を埋めていくんだぞ。お父さんなんかもうこんなに埋めたんだ。お前もがんばれ。
いやいや、なにその無駄な時間の使い方。ないから。ありえないから。
子ども時代は、強制される宗教行為からいかに逃げるかということばかり考えていた。
中二病全盛期には、周りにいるその宗教関係の人間全てを軽蔑し、馬鹿にしていたように思う。
「これ印刷物じゃないんですか? 息を吹きかけてはいけないのはなんでですか?」
とある日の会合で幹部と呼ばれるエラい人にそのようなイキガッタ質問をしたのを今でも覚えてる。恥ずかしい。
そんな宗教嫌いだった自分だが、一度だけ、宗教についての考え方を大きく変えるできごとがあった。
私には叔母がいて、日ごろから親しくし、いろいろとかわいがってもらっていた。
しかしある日突然、叔母がくも膜下出血で倒れて緊急手術をすることになったのだ。
それを知ったのは夕方のこと。家族みんなで病院に向かい深夜まで病院で涙目でフラフラ、日が変わるころに親に連れられて家に戻ったが当然ながら眠れるはずがない。
家に帰ったら家族一同で仏壇に向かい祈りをあげた。そして僕も生まれて初めて、本気で祈ったように思う。
今思うに、
本当に祈るしかないときというのが人生にはいくつかあって、そういうときに宗教というのは必要なんだと思う。
少なくとも祈っている瞬間は、何かしたいのに何もできないというそのどうしようもないもどかしさから逃れることができた。
その瞬間だけは、僕はこの宗教があってよかったと思ったのだ。救われていたのだ。たとえそれがただの逃避だとしても。
とはいえ喉元過ぎればなんとやら。叔母の手術が成功し、自分の生活が通常に戻るにつれて宗教行為をサボりがちになり、
進学を機に親元から離れることで完全にその宗教から足を洗うことになった。
私の宗教に対する考えをまとめると次のようになる
「宗教を必要とする人は少なからずいる。私も必要とした瞬間が一時とはいえたしかにあった。
もしかしたらまたどうしようもないときに必要とするときがあるかもしれない。」
おそらく私は、本質的に宗教行為には興味がなく、思考停止の道具としての祈りしか必要としていないのだろう。
(そしてそのような道具に頼るほど自分は弱い人間であることを自覚している。)
そこには信仰心のかけらもない。苦しいときの神頼みをする自分を自己弁護しているにすぎない。
中二病には何か新しいものを生み出す可能性があるものと何も生まない単なる勘違いとがあるが、これは後者の方の中二病。
しかし少なくとも日本では、大人になると前者の中二病は咎められる一方、後者の中二病は「正しい大人の意見」として認知されることが少なくない。
妙な諦念とか厭世観だけが「大人」になって、知性のレベルは中二のままという大人が多いんだろう。
「俺は悪くない悪いのは(誰にでも理解できるように説明できない)あいつ」という、勘違い中二そのもののロジックを「世渡り術」と信じる大人達の図。
なぜそうなるのか考えてみる。
これは本当に深刻なレベルの人が多い。
正直な話、大学すら出ていないとなると会話が通じる自信がない。
『トートロジー』『加藤周一』『構造主義』『リーマン積分』『尤度比検定』『緑の革命』
このどれか1つすら知らない人ってのは、正直会話できないと思う。知的レベルが低すぎる。
頭のよさどうこう以前の、「硬い文章なりを読みこなしたり調べたりして理解する」っていう過程を踏んできていない人間に議論なんて絶対無理。
「本当に頭のいい人の文章は分かりやすい!」って聞いて、「じゃあなんでお前の理解できない数学の本があるんだよ」ってのがスッと理解できない系の人には話が通じない。どれだけ簡潔で理路整然としてても受け手に理解力がなかったり理解しようという力が無かったりすると話なんて通じない。
そりゃ、日常会話は表面的にってならできるかもしれないが。
装備なしにエベレスト上るようなもので、知識なしである程度以上の会話ってのはできない。
エベレストに自然体では登れないように、人間の脳みそってのは高度な思考を自然にできるようにはできていない。
これがわからない人が多い。
たとえば、アルコールで酔っているときに、数学なり解けるだろうか?意識としてはどんなにクリアに思えてもできない。
それと同じで、脳みそが正常に働かない状態の精神状態や脳みその状態で考えようとしても、無理。
③未成年
こうなると、まともな思考は厳しい。殆どできない。
中二病にコツコツしたトレーニング方法を教えても意味が分からないだろう。
④男女差
差別するつもりはないが、女は男に比べて単純な空間把握とかができない。なので、話にズレが生じてくる。
また、感情の処理も男に比べて女はできない。
人類が生み出してきた『議論』って手法は男の脳みそに合わせて作られたフシがあるので、女には厳しい。
女独自の思考方法もあるし女の思考力がすぐれないとは思わないが、現状作られたフォーマットには女は適さない。
たとえば、スポーツというフォーマットでやってしまうと女が男に平等な舞台で勝つのは厳しいように、議論っていうのはちょっと女には向かない。筋肉と同じく女は脳みそは伸ばしにくい(もちろん、音楽とか感性とか経営管理とか、そういうのは明らかに男より優れる部分も多いと思う)
スポーツが男の仕事だとすぐ納得できるならば、議論も男の仕事と考えてほしい。女は同じ土俵ではまず勝てない。
⑤議論と交渉の差がわからない。
議論ってのは、ある一定の知識を前提に合理的に話を進めていけばいいんで、そこに感情とかいらないんだけど。
交渉となると話が全然違う。
この場合、Bがかつ。勝っているのは議論ではなく、交渉。
なぜBが勝ってしまうのかというと、「話を破たんさせている」から。
Aは正しい正しくないは別として、話を積み重ねていけば、エアコンの温度を下げるっていう行動にある程度の意味合いを持たせうる。Aは議論を吹っかけている。
たいしてBは、「この話をまとめると嫌なことになる」→「話を崩壊させてしまう」という手法を取り出す。Bの話に正しさとか論理とかまったくないんだけど、Bは自分の感情を通すために交渉を吹っかけている。
そもそも、議論に感情が出てくること自体がおかしいのだけど、Bのように知的レベルが低い、あるいは知的レベルが高いけど交渉でご破算にさせてしまうっていうのに味をしめている人は、Bのような態度に出る。
一度暴力でものを通してしまった子供は、ずーっと暴力でものを通そうとして成長が無くなってしまう。それと同じで、交渉に頼って学ぶことを辞めた人間はこうなってしまって、話が通じなくなる。
自分のいちばん古い記憶っていったいなんだろうと考えていたら、父親の下手な子守唄だったかもしれないと思い至った。
父は歌が下手だった。
そして酒乱だった。
彼は働き者の労働者ではあったが、田舎の長男坊で甘やかされて育った無神経な言葉の暴力にも家族は傷ついた。
母は過保護だった。
そして過干渉でもあった。
服を買う金もなく、父と歩いていると女中のようだった。
昭和40年代の日本の、どこにでもある貧乏家庭にわたしは育った。
永遠とも思える小学生時代、わたしは早く大人になりたいと願っていた。
それは、父に叱られないようになりたい、母を助けたい守りたい、その一心だったのだと思う。
小学校も高学年になると、わたしのこころの中にはぼんやりとだがしかしはっきりと、恐らく自分は一生結婚しないだろうという思いが芽生えていた。
結婚は忌むべきもの、どちらか一方が耐えに耐えても結婚生活は成立しない。
中学生になり、どうやら自分が悪くて暴力を振るわれている訳でもなさそうだと気がついてからは、「わたしが悪いから叱られる」という自責の念はやや薄れ始め、父に対する嫌悪と母への依存だけが残った。
結婚についてはより実生活に近い男女交際にすり替わり、相変わらず中二病的な剣呑さで異性を寄せ付けないオーラを出すようになっていた。
本当はクリスマスにサンタクロースが来るような家庭に強烈な憧れを持っていたのかもしれない、とこの歳になって思う。
>なんで焦るの?
そうなった理由をぼちぼち書いていこうと思ってます。よろしくお願いします。
>せっかくなんで
まとめ、ありがとうございます。
>主夫でもいいなら
正月にカラオケでおじさん、甥っ子の前で良い格好しようとするも、DAMの無慈悲な歌詞により轟沈す。
あの歌はキーが高くないからカラオケの歌詞に頼れば余裕だろうとか思ってうろ覚えで歌おうとすると死ねる。
他は知らんがDAMでは歌詞がまともに出ない。繰り返す。歌詞がまともに出ない。
なんだあの変な矢印?なめてんのか??カラオケなんだから歌詞をちゃんと出せこの野郎!
親戚一同でカラオケ行って場が良い感じであたたまって来たから、盛り上げようと思って進撃の巨人のオープンニングを入れたんだよ。
10歳の甥っ子もテレビにかじり付いて見ているぐらい好きだって妹から聞いてたし。
甥っ子「うわー進撃の巨人だ!すげー!おじさん歌えるの?」
俺「うーん、まあ大丈夫じゃない?ストーリーはあんまり知らないけどね」
甥っ子「すげーすげー!!僕この歌大好きなんだー!」
彼のあまりの興奮に、ここで歌えなかったらどうしようと少し不安になる。
でも何回かyoutubeで見て、メロディはだいたい覚えたし、歌詞も漢字や読みが独特だがルビがあれば大丈夫だろうと自分に言い聞かせ、歌が始まるの待った。
ルビは無かった。。。
出だしのタイミングから間違えてしまったので、最初から暗雲が立ちこめる。
それでもなんとか「死せる餓狼の自由を」ぐらいまでは歌えた。
しかし「囚われた屈辱は反撃の嚆だ」で「嚆」が読めず「わらふぇだ」とか歌ってしまってから先はボロボロ。
嗤(わらう)って字に似てるのが悪いと思う。
もう「迸る」とか読めそうな漢字すら焦って読めない始末。一気にしらけ出す甥っ子。親戚からの冷たい目線。
さらに途中からわざとやってるとしか思えないんだが、歌詞がちゃんと出ずに変な矢印が出てたり、
フレーズが変にまとめられてて、どこを歌えば良いのか分からないようになってたり、
一番最悪だったのは、字がなんか薄いまま、いつ歌が始まってるか分からないようになってたりした。
途中で甥っ子に代わってもらおうとしたが、アニメのOPとは微妙に違うってことで、断られた。
演奏中止を押した。
変なテンションで「いやー、思ったより歌詞が難しいね。歌詞がね。歌は簡単なんだけどね」とか言ってたら
甥っ子に「そうですね。歌詞は難しいですね」などとフォローされた。
なんで丁寧語?
誰もまだ次を入れてなかったので、かなり長い時間シーンとなってた。俺は変な汗でびっしょり。