2014-04-08

死にたい気持ちを考察する

まず、前提として。この日記を書こうと思った理由は2つある。

ひとつは単純に自分の気持ちを吐きだしたかたから。2つ目は、「なぜ死にたいという思考までたどり着いたのか」を書くことで、自殺についてのケーススタディの役立つかもしれない、という思いがあったからだ。まぁこんな匿名日記を誰が読むか、とか、好き好んでスタディするのか、みたいな思いは勿論あるが。

あと、書き手について。自分大学4年生だ。大学は私立で、専門性学費もかなり高い。入学から東京の外れで一人暮らしをしながら通っている。就職活動中で、無い内定

死にたいと思う理由はひとつじゃない

死にたい」という気持ちは、複合的な理由から生まれるようだ。

就職活動が上手くいかないこと】

正直なところ、自分就職先は才能がものをいう世界のため、実力が無いと就職をするのが厳しい。勿論専門とは関係のないところに行っても良いのだが、どうにも夢を諦められない。しかし、才能が無い。ひとつの手段として、一般的な職に就き、専門のことは趣味に抑えることも考えた。しかし、そもそも職に就けないのだからどうしようもない。

【上に関係して、未来に明るい展望を持てないこと】

自分は、大学生である今が一番幸せだと思っている。したいことができて、時間ゆっくりと使うことができる。しか就職すると、自分時間はぐっと減ってしまうだろう。さらにもし、仕事にきちんとした意味を見いだせなかったとしたら。それは長い苦しみの末死ぬのと同じではないのだろうか。だったら今、楽しいと思える段階で死ぬ方がよほど合理的ではないだろうか。

【やる気がでないこと】

自分努力厨だ。努力すれば大体の物事は叶うし、努力出来ないのは自分がたるんでいるからだと考えていた。しかし今、その気持ちが首を絞めている。やる気が出ないから自分を責める、しかしやる気が出るまでやってみるも、うまくいかない。そしてまたやる気が無いから自分を責める。責めてばかりなのでやる気も潰える。結果は出ない。そもそも褒められるようなことをしていないので、自己嫌悪スパイラルに陥るのだ。

【その他諸々】

たとえば、臼蓋形成不全という病を患っていること。大掛かりな手術をしない場合、早くて10年年後、痛みで足が動かせなくなるらしい。あとは、数百万の奨学金という名の借金を背負っていること。中学とき一度自殺を図った(方法はとても死ねるようなものではないお粗末なものだったが)ことによる人生延長戦感。今まであまり必要とされてきたことがないこと。何をやっても感動しなくなったこと。ネット依存がひどいこと。今日新学期の授業があったのに寝坊で出なかったこと。などなど。

自分場合は全体を通して「理想と違う自分への嫌悪」が気持ちとして大きいが、やはりちいさなきっかけが積み重なってこうなってしまうのだろう。

○最終的な決め手

最終的な決め手は、自分でも笑ってしまうが「Twitterの退会」だった。

依存による退会を決意】

自分アカウントは、現実の知人とは一切繋がりを持たず、漫画ゲーム趣味でつながるものだった。アニメ化の話でリプライ飛ばしあったり、ちょっとした日々のことをツイートしたり。しかし、最近どうにも依存が過ぎた。リプライが来ないことにそわそわし、つねにタイムライン監視しつづける日々。ひょっとしたらやる気がでないのは断続的にTwitterをやるせいでは無いのだろうかと思った自分は、思い切ってアカウントを消すことにした。アカウント連携を外し、理由は述べずに明日で退会する旨のツイートをする。これにはとても勇気がいった。(余談だが、同時に今まで積み上げてきたものをぶち壊す高揚感もあった)

アカウント削除という擬似的な死】

Twitterを止めることは、つまりネット社会的に死んだことに他ならない。「ソーシャル自殺」と言っても良いだろう。ネット世代馬鹿な考えに思えるかもしれないが、直接的な繋がりのないソーシャルネットワークでは、消えたアカウントとは(新しくアカウントを作らない限り)永遠に会えなくなる。そしてこの擬似的な死を体験することが、死にたいという気持ちをはっきりと持つ決め手となった。漠然とした感情であった自殺を、バーチャル的にでも体験してしまい具体化することで、形を持ってしまったのだ。

○「死にたい」を助長する孤独

自分も例に漏れず、孤独だ。孤独は嫌いじゃないし上手く付き合ってるつもりだが、「死にたい」という気持ちを加速させる力を持っている。

【何でも話せる友人がいない】

自分は昔から誰ともペアになれなかった。「AとBっていつも一緒にいるね」と思われたことは一度も無かった。そもそも、固定のグループにいることがなく、クラスグループの3,4つを転々としていた。だからグループ全体での遊びに誘われることはほぼなかった。そういうわけで、周りに人がいるのに大して仲のいい人はおらず、ましてや「死にたい」などと言おうものなら中二病かと一笑に付されること請け合いだった。(そう思ってしまうくらい、プライドが高いということも理由のひとつだろうが…)

【親にも話せない】

バイトもしておらず、サークルも似たような有様だったので、自分一人暮らしを始めてからずっと親にだけ相談をしてきた。しかし、「死にたい」という気持ちは親にも言えなかった。勿論生んでくれたか申し訳ない、という気持ちからでもあったが、それよりもっと大きな理由があった。まず、父はこのご時世珍しくはないが、心の病気を患っていた。母はそんな父の言動から人生希望」を失ってしまった。今の母は、ネットゲーム生き甲斐にしている。そんな彼らに「死にたい」とは言えまい。

というか先日、実際に「辛い」ということを電話で母に相談したのだが、「そんなこと言われても」「そうは言ってもやるしかないでしょ」「アンタは頑張ってるよ」と、返答した。

その間ずっと、受話器越しにキーボードを叩く音が聞こえていた。

そういうわけで、「死にたい」ということを話せる人間がいなかった。カウンセリングも対して役に立たなかったし、心療内科には毎週薬を渡されるだけで終わった。一番心が軽くなったのは横浜中華街占い師だったなんて、いっそ笑えてすらくる。

ともかく、きっかけを与えられた「死にたい気持ち」は、孤独によってより膨らんでしまうということだ。

○で、自殺するの?

ここまで書いておいてなんだが、おそらくすぐに自殺することは無いだろう。勿論今も死にたいという気持ちはかわらない。未来希望も持てないし、内定も無いし、やる気もでないし、自己嫌悪もひどい。しか吐露したことによって気持ちの整理がついたし、少しすっきりもした。それについさっき思い出した、母に言われた一言が、自分自殺をかろうじて止めてくれている。

旦那が心の病気になったのは、自分責任でもある。もしアンタもそういう病気になったら、私はもっと自己嫌悪が酷くなる」

から自分は心の病気にもなれないし、自殺もできない。もう死ぬしか助かる道はないと分かっているけれど、両親の死や自我崩壊など、更に大きな決め手ができるまで、自分は「死にたい」という気持ちを心に持ちながら、生きていくしか無いようだ。

  • ひとたび社会に出て働くようになれば、世の中の不自由さを実感するだろうが、それすら次第に慣れてゆくもの。増田のそうした感慨も学生時代の一過性の悩みにすぎなかったといつか...

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