はてなキーワード: 中二病とは
一つ確認しておくけど、あなたは親に虐待されたとか、特別酷い親の元に育った、というわけではないんだよね?
最初のを見る限りでは、ひと通り、親にはきちんと育てて貰ってるようだけど。
一体いくつなのか知らんけど、丁度反抗期のころかな?
反抗期の頃なら良いんじゃないでしょうか。
そういうことは皆体験するので。
ネットにこんな風に喚き散らしちゃって、そのうえ、何も意味のない内容でさも
「おれのかんがえるさいきょうのしゅうかん」を知らしめてますけども、
それを中二病だったと、皆後で気付くのですよ。
この流れ、全てどっかに貼っておくと良いですよ。
そのうち分かる、ってのはホントにそのうち分かるもんですから。
今はどうしようもないでしょう。
http://masudamaster.hatenablog.jp/entry/2014/01/09/215828
より転載
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20140105/1388933903
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20140109/p1
お笑いである。次は「アフィリエイトは悪くない」運動でも始めるのだろうか?
金銭欲そのものを叩いてる人は残念?
が
「業者」と「ワナビー」
というゴキブリをネットに繁殖させた歴史をまるで知らないのだろうか?
他人がアイドルやタレントになる手助けを何で我々がしなければならないのだ。
他人の金儲けを何で我々が手伝わなければならないのだ。我々はお前らの戯言や
自己実現よりも、人々の好きなもの、人々の日常でのささいな幸せ、彼らの黒歴史や
日々の苦しみ、葛藤、悩み、その人が現実では言えないこと、そういうものを
読みたいのだ。それをアフィリエイトと承認欲求なんかで見えなくされてたまるか。
であって、「俺の方が上手くやれる」「褒められてるあいつが妬ましい」
なんて動機は一切無い。それがあるのは健常者(ワナビー)の方だろ。
ツイッター登場以降に急激に増えやがったよな。
「中二病」「ドヤ顔」とかも健常者が意味をねじ曲げたり作り上げたりした
言葉だろ。妖怪は中二病もドヤ顔も大好きだよ。それを表現したり摂取したりして
俺たちはネットで生きてたんだ。それがネットでどんどんできなくなっていった
のは、スカした健常者のせいだろ。
健常者は自縄自縛になってるんだよ。自分たちでワナビーをいっぱい作り出して
おいて、ていうかお前がワナビーなのに
「人を妬むのは止めよう」「承認欲求は悪くない」
じゃねーよ。マッチポンプだろ。お前らはネットで妬み嫉みしかできないんだよ。
インターネットで「何者か」になりたいのか?ネットでそんなもんになってどうすん
だよ。その限界はニコニコ動画のタレントが見せてくれてるだろ。
「何者か」になりたい野心を持った健常者が大量にやって来たからインターネットに
わけのわからん競争原理が生まれたんだよ。そんでカーストも生まれた。属人性や
パーソナリティが重要視されるようになった。サードブロガーとかもそれの被害者
だろ。
「ぼくはアルファブロガーに勝てない」じゃねーよ。誰がそんなこと決めたんだよ。
勝てるかもしれないじゃん。自分を値踏みするな。好きなことを書けよ。
「さとりブロガー」じゃねーよ。そんなこと言ってる時点で悟れてねーだろ。
これはさ、健常者たち自身の生み出した毒で健常者たちが苦しんでるだけなんだよ。
表現欲求は無いのに承認欲求だけはあるんだろ?だから毒がどんどん染み出して
いく。そういう毒でネットが汚れるんだよ。一般化する前の2ちゃんねらーの観察眼
とはまた一味違う、いやらしい、人間の観察の仕方。小野ほりでいとかが生まれたの
もそういう背景からだよ。他人の自意識を邪推したりカーストを作ったりしてる。
そんなことをして何が面白いんだよ。そんなことをするから、誰も自分の本心を
語らなくなったんじゃねーか。今や本心(?)を語るのは炎上上等の芸人と
デリカシーの無いタイプの女だけになっちまった。しかも彼女たちはオブラートに包
夫に話すと「愚痴」が「悪口」になっている
これが良い例だよ。こんな意識でブログ書いてるんだよ。読む人の心にナイフ
グサグサ刺してるんだよ。
「承認欲求(笑)」「歌い手(笑)」「創作(笑)」「黒歴史(笑)」みたいな茶々入れが、クリエイターにどれくらい悪影響なのかそのうち語りたい。”そんなの気にすんなよ”ってアドバイスじゃ片付けられない何かがあると思う。中学の英語の授業で、発音が正しいと茶化されるみたいなのに似てる。
@私がui_nyanだ
全部お前らがやって来たことなの。ワナビーを増やしておいて(競争原理を取り入れて
おいて、)「茶々入れが増えた」じゃねーよ。ワナビーが増えたからカーストが生まれ
俺たち妖怪は他人の英語の発音が巻き舌でも馬鹿にしなかった。議論を「くさい」
とか言って忌避しなかった。俺たちは本気とネタを見極めた。俺たちに上昇志向なん
かなかった。俺たちは何者にもなろうとしてなかった。
でも俺たちもゼロ年代の終わりと共に絶滅したんだ。今や俺や嫌儲が最後の砦だよ。
でも俺たちもいずれ滅び行く。そうすりゃカースト作りと自意識邪推の上手い
健常者が今よりもっと幅を利かす。でもさ、そういう世界で一体誰が何かを本気で
語ろうと思うんだよ?インターネットからどんどん(ポジティブな)熱が消えて行って
るのはどんな鈍感な奴だって気づいてるはずだ。当たり前だ。金銭欲や承認欲求は
人を自由にさせない。タレント志望や金の亡者が世界を面白くできるか?
「承認欲求を叩くのはけしからん」とか言ってるお前の存在が、いちばん人の言論を
スポイルしてんだよ。
というかさ、そもそも承認欲求なんて私的領域で満たすものだろ。ピングドラムも
そういう話だ。家族や親友関係の中で傷ついたり喪失したり葛藤したり、そういう
それを公的領域(社会)で誰かに認められて云々というワナビーの話にすり替える
ありむーが「ニコニコ動画ごときで満たされるカジュアルな承認欲求など要らぬ」
と言ったのは至極正しい。ニコニコ動画を馬鹿にしてるわけじゃない。MMD杯には
いつも感動してるし、今でも探せば、お金や承認欲求なんかに関係なく、
ただ「自分のやりたいこと」を本気でやってる人は山ほどいる。そういう作品を
見たり作ったりする営みは、作り手も視聴者もすごく満たされると思う。でも
それは「承認欲求」が満たされてるんじゃなくて、もっと別な何かである気がするん
だ。
つまり、創作や表現で「承認欲求」を満たすことが目的の人って決定的に何かが間
違ってるんじゃない?という疑問が拭えない。
そんな疑問だらけの欲求、いや欲望と言おう。その欲望でネットをこれ以上汚すのは
「俺ってアイドルなんか目もくれずに洋楽聞いてるんだぜ? おかしいだろ?」と言って、本気で自分がおかしいと思ってる奴なんていない。
洋楽を聞く自分は異常者なんじゃないかと本気で怯えてるんなら、それは中二病じゃないよ、プリントアウト案件です。
本気で邪気眼による妄想を信じこんでいて、それによって恐怖を感じているなら、それは邪気眼じゃないよ、プリントアウト案件です。
そうじゃなくて、鬱だ氏のう、的な中二病はあるし、
それこそ元増田みたいに、自分は特別なんじゃないか、とか、おかしいんじゃないか、とか、
邪気眼であってもそれによって自分は恐ろしい目に合うんじゃないか、
とかで日常生活に支障を来すことはあると思うが?
それと、幻聴が聞こえる、なんていうのと何が違う?
「本人にとっても日常生活に支障を来す」と「本人が直したくても直せない」は重要かと。
邪気眼/中二病は、本人がやりたくてやってて、楽しく日常を過ごしてるつもりだからね。
で、それをやめたくなったら、すぐにやめられる。
なんだろ、自分のことを言ってるのかな?
後付理論?
そしたら治るまでは誰がどう判断すんだ?
現状、明確に脳のどの部分に欠陥が見られてCTスキャンしたら分かりました、って話じゃないんだから。
つまりは中二の時に取るおかしな行動は治るからほっとけ、としかこの場合は言えないだろ?それが統合失調病でもわからんじゃん?
そもそもその二つに区別があるとは思わないというのが始まりだが、お前はこの時点でどう区別するんだ?
治ったら中二病だったね、良かったね!で、治らなかったら統合失調病だからお薬出しましょうねーってことか?
その二つの明確な違いはなんだ?
http://anond.hatelabo.jp/20131226121027
http://anond.hatelabo.jp/20131226121105
ただし、他人の同意を得られるとは限りません。
中二病=ちょっと背伸びして斜に構えたことを言いたくなる。殆どの場合、自然治癒する。
一番最初はCだった。ポケコン付属のstdio.hしか無いCを使い倒して、PCを買って普通のCを始めた。
BCC32のセットアップが分からなくて電子計算機部の同級生にPATHを通してもらった。
セミコロンがなくて1週間止まり、友達に相談したら本当に3秒で解決した。
ポインタが分からなくて1年間止まり、翌年C++を初めてから何かのきっかけで理解した。
あの頃は「黒い画面でカタカタやってる人たち特別感あってかっけー!!!1」ってのが動機だった。
社会人になった。
専攻とは大きく異なるけど、web系の会社でプログラマという名前の職を得た。
土日で書いた趣味のコードをGitHubに上げてボコボコに叩かれたりして楽しく過ごせるんだろうなと思っていた。
確かに研修はそんな感じだった。朝礼が終わったらオライリーを見ながらプログラムを書き、終業時間を過ぎても勝手に書いていた。
それが終わったら、既存のプロダクトを保守するところに配属された。
新しく作るなんてものはもう無かった。
それは別に悪いことじゃない。重要な事なのはわかっている。作って終わりではないのも分かっている。
でも自分じゃない誰かが、よく分かっていないままよく分からないものを作り続けてここまで来たのであろうそれを直すのは辛い。
「新しいコードに書き換えればいいじゃないか」というのはもっともだ。
でも新しいコードに書き換えたところで、新しいものを作っているということにはならない。
その借金は自分のものではない、なのになぜ自分が返済するんだ、というネガティブな考えが頭から離れない。
新入社員だからというのか、コードを書いている時間よりそちらのほうがとても多い。
電話番もしていた。
新卒採用の手伝いもしている。
何のためにどんな仕事をするべきなのかわからないし、自分が何をしたいのかも分からない。
「土日で何か勝手に書けばいい」というのはそのとおりだ。
仕事が遅いし、これと言える成果もあげていない。
また今週も何もしていないという考えで1時間くらいシャワーを浴びている。
水道光熱費がどんどんあがっている。
公開できるような、会社が期待しているようなwebサービスとかでは無い。
会社のみんながこうでは無いのも辛い。
新しいコードを書いている人もたくさんいる。
なぜ自分はそうなれていないのか。辛い。
新しいものを作っていたほうが、新しいコードを書き続けていたほうが楽しいに決まっている。
感謝もされるだろうし、自分が中心にいる満足感だって得られるのだろう。
そのうえで「運用が大事」とか考えるようになるんだろうな と妄想している。
何の論拠もない、僻みしか考えられない。
もう土日でwebサービス作るとか言うのはやめよう。
仕事もろくにできていないのに。
今、マスコミ対ネット勢力の戦いが起こっていることは周知の事実なわけだが、今後この戦いがどうなるかを考えようと思う。
とりあえずこの戦いは、現状の戦力比を考えれば分かるように、ネット勢力の勝ちで終わるのが明らか。
皮肉なことに、「革命」を煽っていたマスコミという巨悪を、みんなの力を合わせて倒すという一大イベントが見れることだろう。
アラブの春みたいな、劇的なイベントがあるといいけど、ない可能性の方が高いだろう。
いつの間にかマスコミから反日勢力は取り除かれ、まともな言論が受け入れられるようになり、日本は再生するだろう。
それはそれで喜ばしいことなのだが、一つだけ問題が残ってしまう。
それは現在の
「マスコミの言うことはほぼ間違い、マスコミしか情報源のない奴の言うこともほぼ間違い」
彼らは今が異常な状況だと気づかない可能性がある。
マスコミの言うことの逆をやれば大抵正解、という成功体験がある以上、マスコミが正常になってもそれを続ける可能性がある。
初めてその店に行った記憶は、柿の渋抜き用にと焼酎を買いに行かされた「はじめてのおつかい」だ。
それからしばらくの間は子供が酒類を買いに来ても咎められることはなかったな、そういえば。
その酒屋には豊富に駄菓子も売られていたので子供の頃からよく利用していた。
たまに賞味期限切れだったり小虫が紛れている菓子があったのもご愛嬌。
顔見知りとなっていたので当時生意気だった私は酒屋のおっさんに軽口を叩いては遊んでもらっていた。
地域の祭にもよく参加していたおっさんが、竹笛をとても上手に吹いていたのを私は知っている。
おっさんのくせに上手いなあと思っていた。
海がとても近い町だったので、放課後に買ったアイスをかじりながら、よく堤防の上で友達とジャンプを回し読みしたっけ。
その後自分も中学高校へと進むにつれ行動範囲も広がり、その店に行くことも減ったが、
おっさんの母親であるお婆さんが痴呆となり、外を徘徊しているという話を両親が夕飯の席で話していた。
へー、そういえばおっさん元気かなと一瞬頭を過ぎるものの、そんなことより
生意気だった小学生も思春期を迎えて、その頃にはたいへん卑屈で地味で中二病交じりに内向的な高校生になっていて
あの頃の失礼極まりないながらも天真爛漫だった私はどこに行ったんだろうなどと考えながら白飯を口に詰め込んだ。
確か部活終わりに部室でまったりカップラーメン食ってる時に、同中の友人からメールが来たんだっけ。
中学校の近くの裏山で首をくくっていたという。例の痴呆の母親の介護を苦に…とかそれらしい話もで出回っていたが
背が高く飄々とした、竹笛のうまい顔見知りのオッサンに死のにおいは全く結びつかなくて戸惑った。
おっさんを知る友人も私も、泣くほどではない。ただ、あれこれ思い出話をしては、たださみしいなと思った。
海の近い町に生まれた。山も近かったが、なにより海に近かった。
それなりにいい町だと思う。とはいえ、人口に対して自殺の話題をやたらとよく耳にして、
それは同級生や後輩の父親だったり地元の名士的に知られた男性といった、面識があったりなかったりの人達だったから。
おっさんの死後、しばらくは彼の妻が会社勤めをやめ店に出ていたようだが、その頃実家を出ていた私はよく知らない。
おっさんが(屋号からしてきっと先代の頃から)営んでいた酒屋はもうない。当然、ジャンプを回し読みした堤防も。
突然で申し訳ないが僕はコーラが好きだ。浴びるほど飲みたいというほどではないけどジャンキーに片足突っ込んだ兄ちゃんが日常のつぶやきとしてあーヤクでもキメてえなと思うくらいの頻度で好きだ。
コーラを飲む上で避けられない問題がある。それはコカコーラにするかペプシコーラにするかということだ。これは単なる味の好みの問題ではなく大げさに言えば人生におけるスタンスの問題になる。
コカコーラを選ぶあなたは安定志向でバランス感覚に優れた凡人である。ペプシコーラを好きなあなたはチャレンジ精神に富んでいて固定観念を打破する中二病患者であるといえる。まぁ嘘だけど。
僕はどちらかと言えばペプシコーラの方が好きだがコカコーラ・ゼロはなかなか優れた一品だと思っている。爽快感と軽さがいい。
コカコーラ・ゼロが出た当初、僕は高校3年生で青春の日々を鬱屈した思いで過ごしていた。受験への不安と女子と付き合ったことがないというコンプレックスはつねに皮膚にまとわりついていて僕はそのぬめりを振り払うためにコーラを飲んでいた。
9月に入ってクソみたいな文化祭の打ち上げの後、駒沢公園の広場で僕はクラスメートの男どもがはしゃいでいるのをコカコーラ・ゼロを飲みながら眺めていた。
「おつかれ」と言われて初めて横にそいつが立ってるのに気づいた。手にコカコーラ・ゼロを持っていた。
「おう、おつかれ」と返したら横に座られて内心ものすごい焦った。そんな仲良かったっけ?そう思いつつ今日はキャミなのか、しかも黒かエロいなと思う自分もいた。
「何の係だっけ」急に聞かれてむせそうになった。
しらねえよ。なんて答えていいかわからなかったから黙ることにした。
気まずい数十秒。
「何で泣いてんの?」
「いや、こういう、みんなでってのも最後かって思ったら、何か悲しくて」
「でも、この瞬間って最後じゃん」
「まぁそうだけどさ」
「もっとみんなと仲良くすればよかった。あたし世界狭かったかも」
「え、オレより全然仲いい奴多くない?」
「いや、もっとジャンルが違ったヒトと交流すればよかった。すごい面白いコとかいてさ。あたし気づけなかったわ」
「でも仲良くなった子とかもいるんでしょ?ならいいんじゃね」
「そうだなぁ」
「そうだねー。ね、今度2人で遊ばん?」
「え?」
「なんでもない」
あの時、あいつが両手で持ってたコカコーラ・ゼロの缶は、未だに覚えている。
と、まるで作り話みたいなんだが、本当に作り話なんだ。すまない。