はてなキーワード: フィジカルとは
気持ちはすごいわかる。
というのも、俺は、しがないチェロ奏者(アマオケ経験者)なのだが、楽器を触ったことすらないやつが、世界のトッププロの演奏をCD(生でなくCD!!)で聞いて、○○の指揮は~とか○○楽章のスタッカートの解釈が俺には理解できないとか、こき下ろしてるわけですよ。
お前ら譜面読めんのかと。というか弓持てるのか?ヴィブラートかけようとしたら右手も連動して動いちゃう系じゃないのかと。
朝から晩まで楽器弾いてて壁紙の模様が譜面に見えたりしたことあんのかと。指先の豆から血が出たことあんのかと。
クラオタといいサカオタといい、専門分野の消費者的なオタクって口ばっかりでフィジカルが全然伴ってない。
調弦はできないし強いシュートも打てないのに、専門的な用語を使い知識量だけで勝負してこようとする。
そこに軽さを感じる。説得力がなく耳障りに感じる。
そもそも経験者がオタクにイラつくのは、オタクたちからトッププロたちへの敬意を感じないからだと思う。
すげえ!なんでこんなことできるんだ!という驚嘆と尊敬がオタクたちにはピンと来ない。だってやったことないから。
だからこそ敬意を欠いた批判を繰り広げることができる。とも言える。
世のオタクたちには、頭ではなくて身体で感じてその上で思ったことを言って欲しいと言いたい。
http://salucoro.hatenablog.com/entry/2014/06/13/040833
こちらを読んだら
「スカートに精子かけられるって俺がズボンに母乳かけられるようなもんかな?」
(あえてリンクは張らないけど)
こう書かれてあった。私も全く同意見で、そんな訳ねーだろと思う。
エントリには以下、どうすれば女性が受ける痴漢行為に対する恐怖心・不快感を男性に分かってもらえるか、が綴られているのだが、たとえばこんなのはどうか。
「満員電車を降りてからふと気付くと、ズボンに経血がべったりつけられていた。」
経血は(個人差はあろうが)切り傷から出てくるさらさらの血ではなく、どす黒いレバーのような血の塊や透明な粘液が混ざっている。
そういうものが自分の衣服に擦り付けられていたらどうかな。異臭を放つぐちょぐちょの使用済みナプキンを貼り付けられるとかね。
<W杯サッカー>韓国・日本・オランダ…国籍違うが洪明甫“ワンチーム” | Joongang Ilbo | 中央日報
http://japanese.joins.com/article/014/186014.html
池田コーチは韓国代表チームの初の日本人コーチだ。池田コーチが初めてU-20代表チームに合流した時、選手の反応はよくなかった。選手は日本人コーチに妙な警戒心を表したりもした。洪監督はこれを知ると、選手に「今後はどんな試合でも池田コーチと相談する。池田コーチがフィジカル面でOKした選手だけを試合に送り出す」と宣言した。その時から選手の目が変わった。
日本の左翼の流儀に従えば、韓国代表の選手たちは日本人に対する差別意識を有するレイシストだから、どんな罵声を浴びせても問題ないことが明らかとなった。さあ、日本の左翼たちよ、韓国人選手に、普段レイシストやネトウヨに言っている言葉を放とうではないか。「死ね」と。
苦難を乗り越えた金メダリストの姉になるかもしれなかった舞さんに対してもはれものに触るようwww
初日から変わらない男性アナウンサーの淡々とした平常運転の進行がなぜか頼もしく感じるレベルwww
私が笑っているのはキムヨナさんがトップに立っているからでも、浅田さんがSPで失敗したからでもない。
「さあ、メダルのかかるフリープログラム、いよいよです!」などと、空回りな盛り上げをしたかったであろうテレビ関係者に対して、ざまーみさらせ。
トップアスリートに対して「まおちゃん」とちゃんづけで勝手に期待し、浅田さんがもたらすカネにしか興味のないテレビやスポンサーからも、
「まおちゃんの笑顔が見たい」とか、この期に及んで「楽しんでほしい」などと勝手なことを言いながら、自分のしみったれた日常生活を忘れるためにおっかける気持ち悪い中年女性ファンからも、
「まおちゃんは処女!キムヨナはビッチ!」とほざく、せっせと柔軟してセルフフェラでも極めろや…と言いたくなる、いわゆるマオタの皆さんからも。
やはりトリノに出られなかったあのころが、競技生活上のピークだったのかもしれない。
彼女の選手としてのピークが正確にどの時点であったのかは私にはわからない。
どちらにせよ、ただの競技生活でのピークというだけだ。
競技を始めてからの努力や経験が彼女の人生に与えたものは、それこそしみったれた人生を送る一般人には計り知れないものがある。
気持ち悪くなってきたので、そろそろやめるが、テレビは早くいつものくだらない電波を流す日常に戻りやがれ。
同じくだらないなら、そっちのほうがまだマシだ。
とりあえず、女の子と建設的に仲良くなるためにクラブに行っています。
クラブはそういう不純な場所じゃないとか、クラブの出会いにろくなものはないとか、異論は多々あるでしょうがご静聴くだされば幸いです。
クラブの詳しい説明はどうせみんな知ってるだろうから省きます。
①ノリ
まずはこれがないと何もできない。
酔いに任せて適当に踊れる、適当に話せる事がスタートラインです。
②体力
21時〜夜中1時、2時頃まで飲んで騒げる体力は必須です。
③見た目 年齢 服装
女子に一瞥されただけで見向きもされない事なんかザラにあります。
おっさんおばさんは見事に相手にされません。
おっさんはしゃべりや金や雰囲気次第でまだ希望はありますがおばさんは厳しいです。
が、男の場合④以降のパラメータ次第で十分カバーできるでしょう。
クラブっぽい服装はあって無いようなもので、流行ってる服を着てたら問題無いですし近年は特にその傾向が顕著です。
スタジャンとかごついネックレスとかティンバランドの靴は買わなくていいです。
わからない人はニューエラのキャップをかぶっとけばそれっぽくなります。ツバのシールははがさないように。
ただクラブ、特にフロアはやかましいのでボソボソしゃべってられません。
出身や仕事や年齢や名前やどれだけ飲んでるかとかクラブに来る頻度とか何人で来たかとか聞くといいでしょう。
話しかけるタイミングは、アイコンタクトとか、音楽の盛り上がる部分でノリが合ったとか、感覚的で、経験がものを言います。
女子の持ち物や周りの面白い客(例えば、踊りのすごい人)などをネタに話しかけるのもありです。
フロアに限らず、椅子スペースやバーカウンターで話しかけるのを得意とする人もいます。
あまりコミュニケーションがスムーズ過ぎるとかえってチャラく思われてしまいます。
いわゆる手をつないだり、腕を組んだり後ろから抱きついてみたりする能力です。猛者になるとキスまでいきます。それ以上は知りません。
これが全く無いとせっかく上手に話しかけても「いい感じ」になりません。最低手くらいつなぎましょう。
「酒飲みに行こう」と言ってバーカウンターまで手を引っ張っていくのが自然です。
ある程度の強引さはあった方がいいですが、度が過ぎると最悪クラブを追い出されます。ただの痴漢にならないように。
また、クラブの男は基本的に女子にがっついています。女子をめぐり男同士の静かな押し合い引き合いが必ず起こります。
その際もフィジカルの強さが役に立つでしょう。しかしこれも強引すぎるとケンカになります。後述しますが、潔く引く事も大切です。
⑥男同士のとっさのチームワーク
クラブに来る男は、男友達と来ることはあっても必ずしも団体行動するわけではなく、基本的に個人単位です。
クラブに来る女子は必ず2〜5人くらいの複数で来て、複数で行動します。クラブでの女子の結束は堅く、男1人で複数を崩すことは(たまにありますが)難しいです。
その場合、自分と一緒に来た男の友達や、フロアにいる男が連携して、複数には複数でコミュニケーションを取りにかかることがあります。
⑦切り替え力
話そうと思っていた女子が場所を変えて行ってしまった、別の男に捕まえられた、よくある話です。
あっさり諦め過ぎるのも良くないですが、あまりしつこく追いかけ回すと余計に嫌われるのでやめましょう。
⑧決定力
サッカーでいうゴールの部分です。
世間で言われているような、いわゆるお持ち帰りは、一部にはあるのかもしれませんが全体で見れば滅っっ多にありません。クラブでは、女子の携帯アドレスが聞けたら御の字です。
女子はいつ隣からいなくなるかわかりません。女子グループでトイレに行ったきり姿をくらます事もあります。
ある程度仲良くなって、いけると思ったら早めにアドレスは聞いておきましょう。
⑨酒の強さ
クラブではテキーラショットが乱れ飛びます。飲めるに越したことはないですが、弱くても吐いてしまえば問題はないです。
⑩音楽の知識
洋楽ヒップホップや洋楽EDMに詳しいとノリが掴めるので良いでしょう。
ただし知らなくてもノリさえあれば乗り切れますし、場数を踏めば曲は勝手に覚えます
11.羽振りの良さ
とは言ってもクラブ自体4000円くらいあれば十分楽しめます。安い遊びです。
金持ちのおっさんはVIP席をとるとそれなりにチヤホヤされるでしょう。
最後に
これらを実践してもクラブで女子に話しかけるのはうまくいかないことの方が多く、自分も絶望しながら帰路につくことだらけです。
そろそろ年も年だし、結婚するか、30になったらクラブを引退しなきゃいけないかなと思っています
毎回お持ち帰りとかいうのは、パラメータの整いまくった、ある種の猛者の所業と心得てください
それでも周りのライバルたちを蹴散らし、女の子と仲良くなった時の、承認欲求が満たされた気分は、まさに勝者です。
年齢と体力が十分なら人生経験としてトライしてみる価値はあります。
ナンパより簡単です。
武運を祈ります
全部で25バンド以上、部分的に見てレポでは割愛したバンドも含めると30バンドほど、死ぬほどライブをみた4日間であった。
ほとんどの演奏を前の方で踊りながら見ていたので、自分以上にカロリーを消費するフジロックの過ごし方はありえないのではないかというレベル。
ベストアクトは1日目Char、2日目Jurassic 5、3日目Toro Y Moiである。
これらのバンドはそれぞれ自分の中でカテゴリーが違うため3日間通しのベストアクトを決めることは不可能。
Charは職人、Jurassic 5はエンターテイナー、Toro Y Moiはアーティスト、といった具合だろうか。
詳細は長々と本編に書いたが、一日目は言語としての音楽、三日目はフィジカルなプレイとテクノロジーのバランスについて考えてしまうラインナップであった。
二日目は雨が辛すぎてそれどころではなかった…
二日酔いにより目覚めは最悪。
隣のテントで寝泊まりする人々と軽く会話するも、気分悪すぎてどうにも調子が出ない。
前日多大なる迷惑をかけた方々とYo La Tengoにて待ち合わせをしていたため、けだるい体に鞭を打ち、なんとかグリーンステージへ。
3ピースながら曲ごとにパートチェンジを行うという器用さを見せつけていた。
そして極めつけはこれぞ90's USオルタナ!って感じのノイズギター。
しかしながら全体的に音量不足で、折角のノイズギターが後ろまで届いていなかった。
普通のアメリカ人が、まるで灰野敬二かのようにノイズギターを弾きまくる姿は面白かった。
今年一月に「ガンとはもう闘病しないことにしました!おそらく最後の来日!」と称して南青山レッドシューズにて行ったライブは記憶に新しいが(行けなくて口惜しい思いをした)、なんとフジロックでは二回もステージに立っているではないか!!
前日深夜にはクリスタルパレスでもライブを行なっていたが、入場制限&長蛇の列で諦めた。
満を持して迎えたグリーンステージでのライブだったが、期待通り演奏されたのは全てドクター・フィールグッドの曲!
演奏内容も、ウィルコ・ジョンソンが歌っているだけで他は昔と変わらず。
ギターソロではキチガイ風ダンスをし、ライブはJohnny B. Goodeで終わるところまで、私が普段聞いている37年前に録音されたライブ盤とほとんど変わらず。
ライブ中盤では、女に見立てたギターを抱きしめ語りかけた後に腰を振り始めるなど、元気すぎる一面すら見せていた。
・Jazzanova feat. Paul Randolph
実はJazzanovaを見るのは本年二回目であり、前回はチケット3500円のフェスにてDJの横でPaul Randolphが歌うだけというクソみたいなライブであった。
今回はちゃんと管楽器も含めた10人編成であり、迫力の生演奏。
安定感抜群のJazzanovaの演奏がなかったら憂鬱すぎてどうにもならないほどの豪雨もなんとか精神的にはしのげた。
そして、改めて日本のバンドに足りないのは電子ドラムのパッドだなぁと痛感。
もちろん、テクノロジーによって表面的な個性を演出するのは本質的でないが、Jazzanovaの様にフィジカルなプレイとテクノロジーを共存させているバンドを見る度に電子ドラムや管楽器へのエフェクター使いなども選択肢として考えるべきだと感じる。
・Toro Y Moi
今年のフジロックで一番期待していたし、期待を裏切らないベストアクトだった。
直前に見たJazzanovaと同様にフィジカルなプレイとテクノロジーを完璧なバランスで共存させているバンド。
予習としてライブ映像を見た時から上述のバランス感は素晴らしいと思っていたが、生で見ると改めてその完璧さに惚れ惚れとしてしまった。
編成はToro Y Moi本人がボーカルキーボード、そしてギター・ベース・ドラムという四人組であった。
そう、編成だけ見ると通常のロックバンドとなんら変わらないのである。
しかし、この4人によって生み出されるサウンドは現代版にアップデートされたディスコサウンドであり、編成からは想像もつかないものだ。
どのようにしてそれが達成されてるか考えてみると、ギターの役割が象徴的であったように思える。
というのも、通常のロックバンドにおいてギターはリズム(バッキング)ギターもしくはリードギターと呼ばれることが多いが、Toro Y Moiにおけるギターはその両者とも言い難い役割を果たしていた。
つまり、通常のロックバンドにおいて固定化されている、パートごとの役割が解体されてつつあるのだ。
それはまるで「ジャコ・パストリアスはバンドにおけるベースの立ち位置を変えた」といわれるように、ロックバンドの様式をアップデートするものだ。
いやー、Toro Y Moiまじですごいよ。
Toro Y Moiはチャズ・バンディックによるソロプロジェクトなわけだから、バンドはワンマン化してもおかしくないはずが、ライブでは個々人のプレイアビリティが絶妙に生かされていた。
この点において後述するThe XXとは対照的。
The XXはバンドの形式をとっているにも関わらず完全にJamie XXのワンマン化していた。
ワンマン化というのはつまり、他のメンバーは言われたとおり楽器が弾ける人なら誰でも代替可能ということ。
実際は曲作りの段階であったり人間関係の上で代替可能なんてことはありえないのだが、ライブ演奏においてはワンマン化していた。
さらに言えば、フィジカルなプレイとテクノロジーのバランスという意味でも、The XXはテクノロジー寄りで、ステージに立っている人間は割と置物寄りと言わざるを得ない。
そんな感じで最高だったToro Y Moi、唯一ケチを付けるとしたら演奏が予定より13分も早く終わってしまったこと。。。
やはり、PCで作成した曲をバンドアレンジしているため、持ち曲が少ないのだろうか。
そういえば余談だが、Toro Y Moiのルックスは若かりし頃アフロだった釣瓶にそっくりであるということに気づいてしまった。
個人的にはツボな発見だったのだが、どうやらこの話はウケが悪いようなのでここまでにしておく。
とりあえずEasyという曲が完全に小西康陽サウンドだったのと、Heartbeatの時だけ盛り上がりが尋常じゃなくその他新曲中心の演奏はウケが悪気味だったのは覚えている。
あと、レッドマーキーは屋根があり、音が篭っているためしゃがんでしまうと上ものが全く聞こえなくなってしまうことに気づいた。
恐らくTAHITI 80はボーカルの声も高いし、上ものたちがバンドの個性を演出しているから気づいたんだろう。
まぁHeartbeatはよかったよ。
文句をつけるとすれば、カッティングギターの音作りが悪かった。弾くのが下手くそなのと相まって、16分のカッティングが全然気持よく感じられない。
・Vampire Weekend
ライブ音源を聞いて知ってたけど、A-PunkはCD音源よりもテンポが遅く踊るにはちょいと物足りない感じ。
CDでは1stのヌケ感がだんだんなくなって壮大な曲作りになってしまい残念だなーとか思っていたが、いざライブで聴いてみると初期の曲ですら壮大に感じられ、「なるほど、もともとこういうバンドだったのか」と思わされた。
Vampire Weekendでも上述のバランス感は感じられたが、Vampire Weekendは従来のバンドであり、やはりゼロ年代のバンドという感じ。HURTSもTAHITI 80もそう。
そういう意味ではJames Blakeとかもやっぱり10年代を感じさせる。
・LETTUCE
大学の先輩と合流し、The XXまでのつなぎとして一応見る。
ジャズファンクとかあんあり好きじゃないんすよねーとか言いつつ見ていたが、思いの外よい、というかよさがわかった。
あの手のものは工芸であって美術じゃないだよなーみたいな風に思っていたのだが、ギタリストは芸達者で素晴らしかった。
でもやっぱり管楽器とかはどれも同じに聞こえてしまう。それは単に自分がやってるかやってないかの違いかもしれないが、Jazzanovaみたいにエフェクトかけてみたりすりゃいいのにーとか少し思ってしまう。
とはいえ全体的に楽しく、アパッチを演奏し始めた時にThe XXへと移動したのだが、なかなかに後ろ髪を引かれてしまった。
・The XX
上述したが、Jamie XXのワンマン感がすごかった。
どういうことかというと、フロントでは女性ギタリストと男性ベーシストが共にボーカルをとっているのだが、それぞれ楽器の演奏はしていたりしていなかったりという感じ。
対照的に後ろにはMPCが二台、電子ドラムパッドが4つ、シンバル、スネア、極めつけにはスティール・パンが並んでおり、これら全てを演奏していたのがJamie XXだ。
バンドの世界観をショウとして演出するという面では完璧だった。
全員恐らくKOMAKINOの服を着て、ステージは照明を落とし、白いフラッシュとレーザーが空間を埋める。
すごかったのは、レーザーを反射させてステージ全体に広がるスモークの中に巨大なXを描く演出。
そういえばホワイトステージにおいても聞く位置によるサウンドに良し悪しは顕著で、ちゃんとした音で聞こうと思ったら人混みをかき分けてセンターのPA前くらいまではいかないとダメだなと思った。
最初は左サイド後ろで聞いてたが、これではモノラルイヤホンで聴いているようなものだ。
まぁ屋外フェスで音がどうこうとかうるせーよって話だが。
なんとアンコールを40分もやって日付が変わっても演奏し続けていたそうで。
The XXが終わってから戻ってきてもゆうに30分以上見られましたし、ちゃんとBoys don't cryも聞けた。
個人的にはメンバーのルックスが気になってたのだが、白髪をワックスで固め昔と変わらぬ化粧を施したボーカルの姿はそれだけで泣けるレベルであった。
演奏に関しては、CD音源をハイエンド・オーディオで聴いているかのような解像度で驚いた。
各楽器の音が完璧に分離しててすっげーと思いながら踊っていた。
・GOMA and The Jungle Rhythm Section
ディジュリドゥ奏者GOMA、ドラム、ジャンベとコンガ、その他パーカスみたいな4人編成。
ディジュリドゥは普通にすごいんだけど(循環呼吸が必要で、音出せるだけでちょっとすごいらしい)、ずーーーっとアフリカンなパーカスたっぷり4つ打ちで若干退屈であった。
しかしこれまたしゃがむとディジュリドゥとキックしか聞こえないというw
部分的に聞けばめちゃくちゃ踊れるし最高なんだが。
そういえばGOMAさんは未だ高次脳機能障害のリハビリ中であり、MCはカンペを見ながらだった。
GOMAさんが音楽の力を信じて病と戦うというか克服していく様はドキュメンタリー映画にもなってるし、インタビューとかで読んでも普通に感動できる。
・Jamie XX(DJ)
The XXの曲もかけつつアフロビートとか80'sディスコとかまでかけて見識の広さとセンスの良さを見せびらかすかのようなDJ。
こいつあってのThe XXだよなーと感じさせる。
・石野卓球
富士山とかかけるのかと思ったら、おふざけ要素一切なくガチテクノをストイックにかけ続けるDJスタイルだったので途中で退場。
僕のフジロックはここで終わりました。
途中でCan you dance tonight?という声ネタを何度も挟んでいたが、もう既に朝だったw
俺よくここまで頑張ったよ…と思いつつテントに帰る。
辞書にはそんなこと書いてないから辞書は別に間違っていないね。そもそも誰がそんな定義をして、どこに掲示してるの?
人々が使っていない、辞書にも載ってない意味でその言葉を使っても通じないし
人々が間違っているわけでも君が間違っているわけでもなく、ただ君と世間とで使っている言語が違うだけ。
これを、心罰を区別して教育上の罰として 教罰と呼ぶか、 歴史的経緯を重要視して心罰を体罰に組み入れるかどうかは現段階ではわからん。
いまのところ組み入れられていないので、今そのような意味で使っても通じない。
人々は体罰を身体的なものに限って使うし、身体的なものだと解釈するし、解釈の重要な指針となる辞書もそのように記述しているから、
一部の人間が勝手に再定義して身体的なものに限らず「体罰」を使っても通じないし
人々の使う「体罰」を罰全般だとして解釈すれば齟齬が発生する。当たり前。
それなら「罰禁止」と言えばいいじゃないか。わざわざ「体」をつけるから誤解を招く。
肉全般が嫌いなら「豚肉が嫌い」と言わずに「肉が嫌い」と言いなさい。
そんな慣習は君の空想のなかにしかないか、そのような慣習があったとしても一般的ではない。
人々はずっと身体的な罰の意味で使い、そのように解釈していて、マスコミ等と人々との間にはずーっと齟齬が生じていたというだけのことだし、
学校で行われる罰といえば、体罰でありフィジカルな暴力である。という定義であって。 現代社会ではノイローゼが示すように心罰が罰として加わっている。
昔はそんな事考慮されていない。
しかし、マスコミ等 現代用語では、一般的には『歴史的経緯』もあって、学校で行われる罰を体罰と呼ぶ慣習がある。
これを、心罰を区別して教育上の罰として 教罰と呼ぶか、 歴史的経緯を重要視して心罰を体罰に組み入れるかどうかは
現段階ではわからん。辞書は歴史的経緯と、新しい文化による言葉の変化は受け入れる。 間違っているのではなく、概念が広がってそれに対して 体罰に含めるか、造語をするか?というレベルの問題。
最近の事件は体罰よりも、心罰の方が問題になっているが心罰という言葉が一般的でない以上、それを体罰と呼ぶのは過渡期的に間違っているとは言いがたい。
ようするに、現代社会は 罰を乱用するな、という意味で体罰禁止を訴えたら、じゃとばかりに、心罰をつかうようになった。だが、そんな事は言ってない。言葉の定義ではなく、罰を与えるなという概念の方を聞け
という話が教育機関によって無視されていて、 言葉遊びをしていない!という教育上の問題になってるんだろ。
ポインタ、参照(リファレンス)、束縛(バインディング)、それぞれ似てるけど同様に語ると混乱の元ではないかと。
ポインタはメモリアドレスに型情報をくっつけたもの。加減算できる点が特徴で、それはメモリアドレスの概念由来だろう。
変数というメモリ上の記憶域を指すフィジカルに近い概念で、配列の運用(*p++で回すとか)、引数の参照渡し(コピー抑止、複数戻り値の実現)、メモリそのものの管理(malloc)あたりで、基本手作業による最適化のための仕組みという側面が近いと思う。
perlだと、変数はやっぱり記憶域ではあるけれど概念として一段抽象化されていて、メモリという連続した領域じゃなく独立した領域の集合となっているから、リファレンスの加減算はなし。
また、配列も単なるメモリの並びからより抽象化してリストもできたから、配列運用や複数戻り値もリストがあるのでリファレンスに頼ることはなくなる。
ただ、オブジェクトの概念があって、オブジェクトをオブジェクトとして入れる変数は用意せずリファレンスとすることで、文法上の変数の型を増やさない、コピー時のコンストラクタの問題を回避するなどのほか、オブジェクトの概念を援用して無名関数や無名変数、ファイルハンドルなども変数=引数として扱えるようにした。
で、pythonはもう一段推し進めて、今までの数値や文字、配列もオブジェクトとみなし、変数はすべてオブジェクトを指し示すもので、記憶域は変数としてあるのではなくオブジェクトとしてあり、変数にリファレンスという特別なものがあるのではなくなり、変数は記憶域をもっていて値が代入されるものではなく、既にあるオブジェクトに変数名という名前(ラベル)を付けて束縛する行為とされる。
見方を変えると変数はすべてにおいてリファレンスで、代入とは値そのものの代入でなく値へのリファレンスの代入で、引数も参照渡しであるが、引数に代入したところでリファレンスが変わるだけで元の値が変わるわけではなく、しかし他の演算などでは自動的にデリファレンスされており、単純な数値や文字列など、自身を変更する機構を持たない(できない)ものにとっては実質的に今までとの違いはないに等しい。隠ぺいといえば隠ぺいか。
java, javascript, rubyもおおむねこの考え方でよかったと思う。
ただ、phpは若干両者が混じったところがあって微妙なところがある。
参考
たった今のできごと。
子ども寝かしつけて、さて食器でも洗うかな、とキッチンに立った。「もう寝るから(音うるさくて寝らんなくなるから)明日の朝やって」とパパに言われる。
間取り的に、キッチンのとなりがパパの部屋。ここに越してきた当初は子ども含めて寝室にしてる部屋で一緒に寝てたけど、神経質なんだかなんなんだか「人がいると眠りが浅い」ってんでパパは仕事部屋で寝るようになった。
という前提がありの「明日の朝やって」なんだけども、ちょっとさ、まだ21時半なんだけど。ありえないまじで。
うちのパパは感情のコントロールが甘いというかできないというか、判りやすくいえばすぐキレる。しかも着火ポイントは十年以上一緒にいても未だに判らない。
今日は朝からキレキレだった。子どもがグズグズ気味で「ママとおかたづけする」「ママがいいの」と泣けば、「じゃあママとやれば!」と部屋に籠ってしまった。なにそれ子どもはどっちよ。私ご飯作ってんですけど。朝忙しいんですけど。ねえ。
夕方帰ってきたときは普通だった。保育園のお迎え、いつもはパパだけどちょっと手が離せないってんで私が行ったら子どもに「パパがよかった」とか言われるくらい。子どももあんま今朝のことは気にしてないっぽくて安心してた。
んで、私がご飯の支度してる間にパパと子どもがお風呂なんだ。お風呂で子どもがモタモタしたの。いつものことなんだけど、なんかそこでまたパパがイライラしはじめて、お風呂でも子ども泣きっぱなし。しまいには子ども用のシャンプーの詰め替えの中身がどうのこうので(ここパパがなに言ってるか意味判んなかった)私に八つ当たり。子ども用のシャンプーとかボディーソープの入れ物を全部捨てたり。なんなんだもう、ホント勘弁してよね。
ご飯食べようってなって、パパがそんなんだから子どもまだメソメソ泣いてんの。んで「判った判った、パパがイライラしてっからだよね。パパご飯食べないから。部屋に戻るから」って、自分のおかずのお皿下げた。下げたまではよかったけど、その中身をシンクにぶちまけやがった。
そんなん続けざまにされたら、私だってキレる。でも、子どもの前でそんな姿みせたくないからこらえた。がまんした。
まだこれマシになったほうなんだよね。子ども生まれるちょっと前までフィジカルなDVも普通にあったし。ありったけの罵詈雑言浴びせられるとかもあるしね。
なんで私こんなにがまんしてんだろう、って思うこといっぱいある。短気を起こさなければいい人なんだよ、パパ。そりゃ多少人の話を聞けなかったり、自分以外の意見は聞き入れなかったり、思い通りにならないと……あれ、これいい人か?
なんで子ども生まれる前に別れなかったんだろう、って思ったりもする。実際、別れ話は何度かした。でも別れなかったんだよねえ。
今は子どもが可愛いからがまんできる。パパ相手じゃなかったら、この子は生まれてこなかった訳だしね。
なに言いたいか判んなくなってきた。
もう私の人生、子どものためにあるようなもんだから、子どものためにがまんはできる。けど、それがベストだとは思ってない。いつだって、いろんな選択肢の中に離婚がある。
うるさいから、っていうので夜のうちに食器洗えないとか、私がお風呂に入れないとか、ザラなんだよね。
でもって朝早くやったらやったで、それもそれでうるさいって言われるんだ。どうしろっつーの。
マジなんか病気だろ、あの人。
アクセル・ワールドは素晴らしいライトノベル作品ですが、SF的な設定にも作者さんのこだわりが感じられます。おそらく、相当量の背景設定があるのではないでしょうか。
しかし、同じ作者さんのソードアート・オンラインと比較すると、アクセル・ワールドのSF設定には「大丈夫なんだろうか?」と思わせる部分がいろいろとあります。この文章では、その疑問点を取り上げ、最後に解決策を提案したいと思います。これ以降はアクセル・ワールドの本編11巻までのネタバレを含みますので、アニメのみ視聴している方は読まないでください。
まず一つ目の疑問点は、ブレイン・バーストプログラムが動作するニューロリンカーの処理能力についてです。
ブレイン・バーストプログラムがどのように動作しているのか、作中では明確な説明はないのですが、仮にバーストリンカーが装着しているニューロリンカー上で動作しているとするならば、1000倍加速時にはニューロリンカーは通常フルダイブ時の1000倍の処理を行わなければいけないということになります。
アクセル・ワールドの舞台は2046年となっており、もちろん、現代と比較してコンピュータの処理能力は格段に向上しているはずです。2046年と言えば今から30年後なので、逆に今から30年前のコンピュータがどのようなものだったかというと、民生用のPCでは、インテルの80286が動作していました。当時のCPUと今日のCPUを比較すると、その差は1000倍どころではありません。そう考えると、ニューロリンカーに1000倍の加速を可能にする処理性能があってもよさそうです。
ただここで注意しなければいけないのは、ニューロリンカーが民生品であるということです。作中の描写を見るに、ニューロリンカーには様々なスペックのものがあるようですが、ブレイン・バーストプログラムが特定のスペック以上でなければ動かない、ということはなさそうです。つまり、市販されているニューロリンカーはほぼ全て1000倍の加速に耐えうるスペックを持っていなければならない、ということになるのですが、これは民生品としてはオーバースペックでしょう。
民生品のスペックというのは、使用用途を満たしていればそれでよいので、それ以上のスペックは不要なコストになります。冷蔵庫を制御するCPUをPC並みのスペックにしても、製品の値段を高くするだけでしょう。つまり、ニューロリンカーを1000倍の加速に耐えうるスペックにするのは経済的合理性がない、ということになります。
この問題を説明する方法としては、ブレイン・バーストプログラムの実際の処理を行なっているのは中央サーバであり、ニューロリンカーは中央サーバが処理したデータを送受信しているだけであるという考え方があります。
実際、ブレイン・バースト中央サーバは、システム内部ではメイン・ビジュアライザーという別の名前で呼ばれています。この名前は、ブレイン・バーストプログラムのビジュアライズ(つまり、描画を含むゲーム処理)が中央サーバで行われていることを示しているのかもしれません。
ネットワークゲームをやったことがある方であれば、ゲームプレイをする上で通信にかかる時間が問題になることは知っていると思います。
例えば、コマンドプロンプトを実行して(Macであればターミナルを起動して)以下のようなプログラムを実行してみてください。
一行ずつ表示が行われると思うのですが、行の最後に表示されているのが、はてなのサーバと自分のPCとの通信に、往復でかかった時間です。私の環境では約17ミリ秒でした。
この時間は、どんなに送受信するデータサイズが小さくても、最低限かかってしまう時間で、一般に通信レイテンシと呼ばれています。一般に格闘ゲームは、60fps(1秒間に60回ゲームの状態を更新する)で作られていますが、1/60秒というのは約16.666ミリ秒なので、仮にはてなのサーバと私のPCでネットワーク格闘ゲームをやろうとしても、私の入力が相手に届くまでにが1/60秒過ぎてしまい、相手側の描画に間に合いません。つまり遅延が発生します。
これがリアルタイム処理を行う上での通信レイテンシの問題です。一般的に格闘ゲームのネットワーク対応が難しいと言われているのは、タイミング的に非常にシビアで、遅延が許されないからです。作中の描写では、そのような遅延が発生している様子は見られません。
それでは、通信レイテンシの問題も、30年の技術的進歩によって解決するのでしょうか?残念ながら、通常のSFの範囲内では不可能です。それは、光速度の問題があるからです。
よく知られているとおり、情報を光の速度を超えて伝播させることはできません。光の速度は1秒間に約30万kmです。これは途方も無い速度に思えますが、1000倍に加速した状態では、そうでもありません。
仮にブレイン・バーストプログラムが、現代の格闘ゲームと同様に60fpsで動作しているならば、1000倍の加速状態で1回の状態更新に費やすことのできる時間は1/60000秒しかありません。光が1/60000秒で進むことのできる距離は、たった5kmです。これでは、ハルユキ達が住んでいる杉並区からは、新宿までしか行くことができません。同じ区内の通常フィールド対戦ならなんとかなるとしても、無制限中立フィールドでの住んでいる地域が違うプレイヤー同士の対戦は、遅延が発生してしまってゲームにならないでしょう。ましてや、ダスク・テイカーとの決戦では、黒雪姫は沖縄から接続していたのです。
もちろん、超光速の通信を仮定すれば、これは全く問題ではありません。しかし、一般にSFでは、何か特別な理由がない限りは超光速の通信は行うことができない設定にするのが普通です。なぜかというと、それを許してしまうと、私達が現在暮らしている世界とあまりにもかけ離れてしまい、世界設定の構築が非常に難しくなるからです。SF的に考えるならば、安易にそれを取り入れるべきではありません。
それでは、この二つの問題をどのように解決するべきでしょうか?
解決策は次の通りです。加速時のバーストリンカーの脳は、能動的な活動を行なっておらず、中央サーバで計算された結果を受け取っているだけである。その代わりに、中央サーバ内に存在する、バーストリンカーと同等の思考モデルを持ったAIが能動的な行動を行なっている。
これはもちろん、アクセル・ワールドの世界全体が仮想空間であるというわけではありません。それだと超光速通信以上のなんでもあり設定になってしまいます。
この解決策を取り入れることにより、前述の2つの疑問点を解決できます。疑問点1については、ニューロリンカーは中央サーバからのフィードバックをプレイヤーに伝えるだけになりますので、負荷は格段に低くなります。疑問点2についても、リアルタイム処理は全て中央サーバ内で閉じることになりますから、通信レイテンシは無きに等しいということになります。
この解決策を取り入れるためには、幾つか解決しなければいけない点があります。
中央サーバからのフィードバックは、おそらく夢を見ているようなメカニズムで行わるのでしょう。ポイントを全損するとブレイン・バーストに関する記憶を消去されるという設定があるのですが、この設定が示す通り、ニューロリンカーは装着者の心理の奥底までをコントロールすることができます。「自分がブレイン・バーストをプレイしている」という夢を見せることは可能ではないでしょうか。
コネクタの引き抜きによる強制切断にも対応しているところを見ると、このフィードバックにもある程度のリアルタイム性はありそうです。ただ、中央サーバとプレイヤー間でリアルタイムのやり取りを行うのと比較すれば、技術的な難易度は格段に低くなります。
プレイヤーは1.8秒という短い時間に30分ぶんの夢を見ることになりますが、短い時間で長い(と体感する)夢を見る事は現実にもあることです。
中国の古い小説に邯鄲の枕という話があります。これは、若者が仙人から夢が叶うという枕をもらい、使ってみたところ、嫁をもらい出世することもできたが、全ては短い眠りの夢の中の出来事だった…という話なのですが、そのような小説が書かれるくらい、夢のスケールと現実のスケールは異なっているものです。
SFでのAIの描かれかたは、時代によって異なるのですが、近年では、「例えば通常のプログラムのように、1から人間の思考モデルを記述するという方法は困難すぎるのではないか」ということになっています。これは、現実世界のAIの研究でそのような方法が一向に進展しないことを反映したものです。
代わりに出てきたのが、思考モデルの元となるプログラムを作成し、それに人間と同じような身体感覚を与え、人間と同じようにコミュニケーションすることでAIを育てるという方法です。山本弘さんの「アイの物語」に出てくるAIがその典型です。
中央サーバ内のAIも、おそらくそのような方法で作られるのでしょう。ブレイン・バーストをインストール可能な条件は2つあるのですが、その中の1つに以下のようなものがあります。
1.出生直後(最長でも一ヶ月以内)からニューロリンカーを常時装着していること
:BrainBurst2039Wiki - インストール(作者自身が作成している設定まとめサイト)から抜粋
なぜこのような条件が必要なのか、最新の11巻時点でも、明確な説明はありません。しかし、この条件が、ニューロリンカー装着者の身体感覚を常時記録し、中央サーバ内のAIに与えるためであると考えれば筋が通ります。ニューロリンカーはその機能として装着者の身体感覚をフルスキャンできますし、データはためておいて接続されたときに送信すればよいので、常時中央サーバに接続している必要もありません。
出生直後からの装着が必要なのは、直後からのデータがないと本人とAIの乖離が激しくなってしまうからでしょう。ニューロリンカーを常時装着していることが条件なのではなく、中央サーバに本人のAIが存在するかが条件である、ということです。
また中国の説話の話になりますが、装着者と中央サーバ内のAIの関係は、胡蝶の夢で荘子が語っている思想によく似ているのだと思います。
これは、自分が蝶になった夢を見たとして、果たして自分が蝶になった夢を見ているのか、人間になった夢を蝶が見ているのかの区別に意味があるだろうかという話なのですが、中央サーバ内のAIが十分な精度を持っているのであれば、同じことが言えるでしょう。つまり、現実世界のハルユキがこの場合の荘子であり、蝶がシルバー・クロウであるということです。
この解決策を採用するのは、上記の2つの疑問点を解決できるだけではなく、その他にもメリットがあります。
脳のクロックをいじって思考を1000倍に加速するというのがアクセル・ワールドの前提となる設定なのですが、この解決策を採用するならば、脳がそのようなポテンシャルを持っている必要がなくなります。
もちろん、「短い間にリアルな夢を見る」ための脳の活性化は必要でしょうが、1000倍の加速と比較すれば困難度は低いです。中央サーバのマシンスペックを向上させれば、加速を2000倍にすることも可能でしょう。もちろん、加速を向上させればフィードバックも難しくなりますので、1000倍くらいがちょうどよいということなのかもしれません。
これは作中でハルユキ自身も言っているのですが、誰が、何のためにこんなとんでもない格闘ゲームを作ったのかというのがアクセル・ワールドの大きな謎の一つです。
もしこの解決策を採用するのであれば、その理由とはすなわち、AIを研究するためであると考えられます。
作中の描写では、この世界でAIが普及しているということはなさそうですので、もしAIの開発に成功すれば、その企業(もしくは研究所)は莫大な利益、もしくは名声を得られるでしょう。ブレイン・バーストを開発する十分な理由になります。
このシステムを運営することによって、
という研究ができます。加速というメカニズムも、研究にかかる時間を短縮するためであると考えれば説明が付きます。AIの研究のためには理想的な環境と言えるでしょう。
もちろん、この研究はとんでもないプライバシー侵害です。もしAIの開発ができたとして、このような手段で研究を行ったと公表すれば破滅を免れないでしょう。しかし、そのようなことを公表する必要はありません。運営者はブレイン・バーストを強制的にアンインストールし、それに関する記憶を消すことができるわけですから。研究が完了した段階で全プレイヤーに対してアンインストールを行えば、どこからもバレません。
ここまで長々と説明してきましたが、アクセル・ワールドの裏設定が実際にこうなっているという可能性は限りなくゼロに近いと思います。理由は幾つかあります。
最近あまり出てきていないので忘れられがちなのですが、アクセル・ワールドには「フィジカル・バースト」という設定があります。これは、意識を肉体にとどめたまま10倍に加速することができるというもので、ここまで説明してきた解決策と対極にある設定です。
これならまだ説明が付きますが、意識だけでなく、肉体全てを100倍に加速する「フィジカル・フル・バースト」に至っては、実際に脳が加速されているとしか受け取れません。また、AIの研究者がこのような機能を試験者に与えるメリットはないでしょう。
自分と同じ思考を持っているAIが中央サーバにいて、加速中はそのAIが思考している、とプレイヤーが知ったらどのような反応をするでしょうか?多分発狂するのではないかと思います。無制限中立フィールドで長い時間を過ごしてきたプレイヤーほどショックは大きいでしょう。
例えば、マンガ「銃夢」のキャラクターであるイドは、自分の脳がチップに置き換えられていると知って発狂してしまうのですが、そのような反応があってもおかしくないです。
正直そんな展開は読みたくないですし、ライトノベルに適した設定とは思えません。
こんな設定があったとして、喜ぶのは一部のSF厨だけでしょう。今まで説明してきた「SF的にはこうなるべき」というのは、フィクションという広いジャンルの中の、SFという狭い部分での正当性であり、SF以外はこだわっても仕方のない部分です。
例えば推理小説の分野にはノックスの十戒と呼ばれるルールがあるのですが、推理小説を読まない人にとっては、このようなルールはむしろ不自然に感じるのではないかと思います。
ライトノベルはむしろそういう縛りから自由であり、ひたすら「面白さ」を追求するべきだと思います。SFからいろいろな要素を取り入れるのは良いですが、縛られる必要はないでしょう。
というわけで、アクセル・ワールドをSF方面から考えてみました。突っ込みどころがいろいろあると思いますが、勝手な想像ですのでご容赦ください。
その失敗に係るリスクは「必ず当たり必ず殺す」っていう魔剣がきれいにフォローしてくれて完璧に無敵じゃん。
刀の届く接近戦である限り無敵だ。
あの世界に限って言えば、「発動すれば(普通に殴るのも含む)」当たるし殺すって能力自体は、そんなに怖くない。
「カウンター先手」の能力で行動不能とかできるんだから。(こちらも発動条件やら、発動確立、成功確率等あるけれどね)
それだけで「異能」と呼んでいい位。
作品的にはH×Hやジョジョのノリに近いんだが、なにしろ中二の割合が濃いから、どうしたってあぁなる。
あれは中二のノリを楽しめるかどうかって作品なんだ。
雄ライオンはメスを奪い取ったらまずそのメスが育ててる子供を全部殺すわけ
君が「見習え」風に言ってるライオンの行動だけど
さあ、人間がこれを同じことを出来る?
と言うところで、
ライオンと比べても「別のオスの子」が紛れ込む危険度は段違いに高いんだね。
産まれてしまったら「どっちかな?」って逡巡もあるし
ライオンみたいに明確に自分の子と他人の子の区別がつかないし、即噛み殺せるわけでもない。
大抵のツガイ動物は
メスがオス1匹を選んだら
交尾後もずっと一緒に居て養育する(これは例外のない本能的な行動)けど
これは前述の不定期な交尾行動と絡んでる。
つまり、
っていう状況なんだね。
逆にメスの立場で考えたらいいけど、
自分とツガイになってくれないほど競争率の高い理想的なオスに惹かれたときの次善策として
「理想的オスの種だけもらい、別の妥協オスとツガイになる、
っていうのは大変合理的な作戦になる。
わかるよね。
そこで、
処女、っていうか要するに別のオスの影が見えないメスがツガイ相手として歓迎されて、
別のオスと交尾しまくってたメスはツガイ相手として警戒されたり嫌悪されたりするわけだ。
ツガイ成立後も長い結婚生活で浮気の心配をしてガードをする苦労はあるけど
処女とツガイになる場合とりあえず第一子はほぼ間違いなく自分の子になる。
これが大きい。
(これを大きいと感じるかどうかは、「浮気がどの程度活発におきているか」の認識に左右されるが
たいていの人の認識は過少で、遺伝子の警告のほうが正しかったりする)
…といった所じゃないかな。
もちろん、遺伝子のヴィークルたる個体にこういう利害が逐一意識されることは無く
全ては一見理由のわからないフィジカルな好意や嫌悪という形で湧き上がる。
具体的に教えてほしいんだけど
疑問を持つまではいいんだけど
自分でいくつか仮説を立てるぐらいまでは考えないと
せっかくの疑問も脳の肥やしにならないよ。