はてなキーワード: クリエーターとは
意味不明な思い込みでトップクラスのクリエーター集団に攻撃を加えた人間ということで、世間的にはものすごい叩かれている
でも、じゃあ俺が青葉ちゃんの能力・人格で青葉ちゃんの環境に生まれたとして、ああならなかったのか?って話なんだよな
誰も無能になりたくてなるわけじゃないし、性格破綻者になりたくてなるわけじゃないし、貧乏に生まれたくて生まれるわけじゃない
賢くて、努力ができて謙虚で、恵まれた家庭に生まれられるんならそうしたいはず
実際、環境要因に関しては世間の人もそれなりに同情をしたりするんだけど、これが能力とか人格とかになってくると、突如「自己責任」の雰囲気が出始める
他責的なのも怠惰なのも過度に繊細なのも、全部そうなりたくてなったわけじゃないと思うんだよな
たとえ本人がそうなりたいと思っていたとして、じゃあなぜそうなりたいと思うのか?っていう、もう一段メタなところで考えると、やっぱりそれは生まれつきの人格が影響していると言わざるを得ない
同じ人格で同じ環境に生まれたとしてもなにか差が生まれて、それが自由意志だ!っていうんだとしたら、自由意志なんてただの乱数みたいなもんじゃんという話になる 乱数を理由に人を責める気には俺はなれない
世間的に「どうしようもない人間のクズ」と言われるような人であればあるほど、俺はどうしようもない絶望感に襲われる
だって、どうしようもないじゃん
カスみたいな人格で、それを矯正してくれない環境に生まれて、何ができるっていうんだよ
もう少し想像力を持つことはできないのか?
ソコとソコが違和感なく読めてるのはアンタがぶった切った前振りとか一見無意味なように見えるやりとりが入ってたからであって
その辺に思考巡らす気は一切無く、仕事した気になって、あと違和感なくまとめるだけで随分良くなるでしょう?
自分の指導鞭撻の賜でしょう?みたいな半クリエーター気取り腹立つんだよ。
うわべだけのおだて台詞並べておけばこっちが気分良くそっちの思い通り操作されると思ってるのが透けて見えてんだ心底不快。
協力相手に対して相手の領域を尊敬・尊重できないやつとは二度と仕事したくない。
そもそも「協力」なんて頭がないからこその、全てが上目線、自分が指導してやってる的態度なんだろうけどな。
アテクシの創作したきゃ人の努力踏み台にしないで自分で一からモノつくってみろや。
出来もしないくせに、出来ない領域に土足で踏み込んでどや顔してくるなよ。
最初の打ち合わせで「ヒドく出来の悪い新人作家の連載1話を自分がネーム切って描かせたらヒットして〜&正直自分がタイトルとサムネ監修すれば中身パーでもそれなりにDL稼げますから〜」みたいなわけのわからん(うわこの編集やべえ)としか思われないような自慢(?)話してきた時に荷物まとめて逃げておくべきだった。そんな話聞いても普通の人間はうわ〜作家の人気の毒〜死ぬほどストレスたまっただろうな〜よく逃げ出さなかったねとしかおもわねえよ。自分を客観視できないって編集として嗅覚終わってる気がするけどな。まあ次の作家にもその次の作家にもその自慢やってくんだろうし自分とやった仕事の話もなにかしら改編されて自慢に組み込まれていくんだろうな。吐き気する。
すげえ有能ぶるくせに聞き間違い、言い間違い多いわ、一度確認とった内容記憶からしょっちゅう抜けるわ、ミス指摘しても言い訳ばっかで謝らないか、謝ったとしてもあ〜あ〜そういう誤解しちゃいましたか〜だとしたらすみませ〜ん(だとしたらって何だよ)みたいな言い方しかしてこねえわ連絡クソ遅いわしゃべって2秒で他人を不愉快にさせる言葉遣いすげーわイキリ腐女子のtwitter言葉みたいなのメールの文面で普通に使ってくるわ、基本的にウザすぎ。二度と顔みたくねえ。
コロナの影響で成人式が中止、延期になったという話をよく耳にしました。
成人式というのは一生の中で一度しかない大切な式典です。本人はともかくその親御さんたちも、自分の愛する子供が晴れて成人となる日に、これまでの成長を噛み締め、凛々しいスーツ姿や華麗な振袖姿に、目に涙を浮かべるでしょう。
成人式に限らず、去年、今年はコロナによって多くのイベントや行事が中止になりました。その中には再開催可能なイベントもありますが、成人式のようなイベントは、その年に参加するから意味を持ちます。たまたまコロナという不運に見舞われ、普通なら開催するはずだった行事に参加できない人たちのために、なにかできないだろうかという想いから、今回「バーチャル成人式」を開催いたしました。
緊張感をバーチャルへ
バーチャル空間でのイベントの多くは、エンターテイメント性が高く、またお祭りのようなもののため、楽しいが緊張感のないものになることが多いです。
成人式は、区長様の挨拶から始まり、緊張感のある中、式典が進んでいきます。バーチャル空間におけるイベントの醍醐味は、バーチャルならではの「はちゃめちゃ感」が割合として大きくしめますが、そのはちゃめちゃ感を残しつつ、同時に、緊張感のあるイベントが開けないか、ということを考え進めておりました。
法律やルールのないバーチャル空間だからこそ、緊張感をあえて作る。
バーチャル成人式は、主催者WekENDの挨拶に始まり、来賓者の祝辞、バーチャル新成人の言葉など、それぞれが真面目なスピーチを壇上で決められた時間の中行い、無秩序さの中に規律というものを組み込んだ新しいイベントとして成功いたしました。また、司会進行に声優を起用したことも効果的でした。趣味で開いてるイベントとしてではなく、プロがしっかり準備して運営したイベントとして、参加者の態度が他のイベントと比べより真面目だった点も、我々バーチャル成人式の特徴と言えるでしょう。
全員がそれぞれ好きなアバターで、自由に離着席もできれば、飽きたらログアウトできてしまう空間で、スピーチの間は誰1人として会話をせずに、登壇者に耳を傾け、「起立、礼、着席」もバーチャル空間で行う。最後までログアウトする人は、1人もいませんでした。
ルールのない自由な空間に、あえて制限をかけ緊張感を作ることで、イベント全体を引き締め、より強力に参加者の記憶に残るイベントとして理想のバーチャル成人式を主催できました。
式が終わったあとの交流会では、
「このような取り組みは素晴らしいと思います」
という声も聞くことができ、バーチャル成人式を開いた意義を再確認できたことも印象的です。
終わったあとの雑談会は、2時間以上も続き、それだけ初対面の人たちが、他の人たちと障壁なくコミュニケーションが取れる理由として、共通の貴重な体験をしたということが挙げられるでしょう。イベント体験を踏まえ、
「私も、こういうことしてみたいんですよね」
という意見を救いあげることができ、今後WekENDはよりクリエーターにとっての場の提供としても機能していきそうです。
バーチャル成人式を行った理由は、成人式に参加できなかった人たちのためのだけでなく、社会に対してもメッセージを発信するところにもあります。バーチャルとリアルは対立して存在するものではなく、バーチャル世界は、「リアル」の世界として存在しているということ。その中で、バーチャル空間がリアル空間を拡張している感覚に近いです。VRAR的概念とも言い換えれるでしょう。
リアルで行えないことを今回のようにバーチャルで行い、それをリアルの体験として強力に記憶に残るものにする。またバーチャルで作り出せない熱狂をリアルがバーチャルを拡張する。そのように「リアル」と「バーチャル」が別のものではなく、隣り合わせたものとして存在しているんだ、ということをもっと世に、社会に示していくその一歩として、バーチャル成人式は大きな足跡を残したと思います。
約30年間自分の無能さ、凡人さに対して、必死で目をそらす事で保ってきた自我と精神がとうとう崩壊した。
今現在どうしていいかわからない状態なので吐き出させてほしい。
俺と同じようなタイプの人がいるかわからないけど、もしいたら反面教師にしてくれれば幸いです。
俺には少し年の離れた兄がいた。
その兄は色々あって10歳ごろで不登校になり、俺は常にそんな兄を反面教師にして生きた。
両親からは賢いと言われて育ったが、ただ異常なまでに俺を褒める教育方針だっただけだ。
それは所謂普通の人生から外れてしまった兄への当て付けであり、兄の教育を失敗した反省であり、
自分の子育てが間違っていない、自分の子供は優秀なんだと信じたい感情からだったと思う。
でもその教育方針は俺自身がなんとなく、他とは違う特別な人間で、なんとなく特別な事を成し遂げ、
人より素晴らしい人生を送るのだと思い込ませるのに十分だった。
自分は勉強も運動もできる、天才で特別な人間である、勉強ができなかったり学校にいけなかったり仕事ができない奴は
人間としてダメだという考え方が、この段階で刷り込まれていったと思う。
当時はなんとなく運動部を避けただけのつもりだったが、
今思えばチーム内での競争や、大会での結果で自分の平凡さに向き合う事を知らず知らずのうちに避けていたんだと思う。
吹奏楽部でも競争はあるにはあったが、男性の身体的なアドバンテージや、
大人数での団体種目という事でそれほど劣等感には向き合わずに済んだ。
勉強は隠れて死ぬほど頑張って、まあまあのレベルをキープし、そこそこの大学に入れた。
テストの前に全然勉強してないわーっていう典型的なタイプだったし、
志望の大学を決める時も、周囲には勉強しなくても入れるとこにしたと言い張った。
ハンカチ王子やまーくんと同世代というだけでなにか運命めいた物を感じていた。
運動については、運動部の人たちには到底敵わなくなり、勉強しなくても成績がいい天才なのだと信じ込んでいた。
兄とはたまに一緒にゲームをしたりしたが、基本的に部屋でずっとパソコンをしていたのであまり関わる事はなかった。
ただ、兄のようにならないように頑張ろうという軽蔑のこもった念を持っていたと思う。
俺が何か落ち込むような事があった時は、内心でこいつよりは1万倍マシだと言い聞かせたりもした。
大学に入ってからは、受験の時に陰で勉強しまくっていた反動で遊びまくり、成績はひどかった。
高校までの自分の理想像では勉強しなくてもできる天才の筈だったが、更に妥協する事にした。
学校の勉強なんて社会で役にたたないし、もっと本当の意味での賢さが自分には備わっている。
大学の勉強よりも、もっと価値のある事に時間を使っているし、その才能がある。という路線にしたのだろう。
そこからは、友達・人脈を増やす為に頑張った。まずは先輩に媚びて、可愛がられて、それがすごいと思ってた。
交友関係を学外にもどんどん広げていき、フェイスブックは顔見知り程度ならどんどん友達申請した。
そのうちに、ストリートアートの才能がある人物と出会って、イベントをやる事になった。
結果、そのイベントはそこそこ成功し、俺は何かを作りあげるクリエーターとしての才能があるのだと思うに至った。
実際は、自分では何も作り出す事ができず、ただ誰よりも彼の作品に憧れただけだったのに。
あげく、彼とはイベントの打ち上げで大喧嘩して仲違いしたきりだ。
絵を書かないお前の方が主役みたいだ、自分では出来もしないのに口ばっかり出してくるな、
自分以外はみんな馬鹿だというような態度をやめろ。そういう事を言われた。
同じ天才の仲間だと思ってたのに、急に梯子を外された気分になった。
彼が憤慨して帰った後、とりまきと彼の悪口を言いながら記憶が無くなるまで飲んだ。
二十歳を過ぎてからは六本木に入り浸って、色んな経営者やらとも知り合いになった。
知り合いと言っても、今思えば知人の女子大生を宴席に連れていくだけの、便利な愛人斡旋係だった。
そんな社長たちすら、ランクを5段階くらいにわけて下のランクの人達は馬鹿にしてた。
でもいざ同席している間はぺこぺこへりくだって、そのギャップから、家に帰って目眩がして吐く事もあった。
今日〇〇の社長とキャバクラだから。それだけを同級生に言っている間だけは自尊心が満たされた。
その人達ですら、自分で事業を作り上げて必死に改善して、本来は尊敬すべき人だった。
あまりにも授業に出なかったので、留年しそうになり、慌てて学生ローンで借金してインドで1ヶ月ワーホリした。
俺の行動のすべては、順調な人生に見せかけるための、ハリボテのアリバイ作りのためだった。
一浪した就活では、人材系大手のRから内定を得ることができた。
面接の時は自分の経歴を何百倍にも膨らませて、嘘もふんだんに織り交ぜて通過した。
今思えば入社前のこのタイミングが軌道修正する最後のタイミングだったように思う。
入社したRでは、退社した人材が起業したり有名企業の要職を務める事が多く、元Rというブランドができていた。
自分もそこで頑張って、起業すればそういうキラキラした何者かになれると思っていた。
そもそも自分の理想に対して、人材紹介のエージェントという仕事はあまりにもつまらなかった。
転職希望者の話を聞いて、内定がでそうな企業を紹介して日程調整をする。
当然転職希望者は培った専門性を軸に、次のキャリアを考えるが、その専門的な内容がさっぱりわからない。
そりゃそうだ。こっちは他で働いた事もない新卒なんだから。職種も全然違うし。
同期たちは努力やホスピタリティーやら自分の長所を活かして成長していったが、俺にはそれができなかった。
今まで努力や反省といった所からひたすら逃げてきたのだから、当然の結果といえばその通りだ。
自分の才能について信じていた”なんとなく”というのは、試行していないが故に可能性が潰れていないだけで、
何の成長性もなく、ただただ自分の現実と向き合ってないだけだった。
みんなが色んなチャレンジをして、失敗して反省して、試行錯誤をしていた時に、
自分の限界に挑戦しないから自分の能力がわからず、低いハードルを超えるだけで失敗しないだけだった。
周囲には、人材紹介はビジネスモデルが良くないから本気になれない
より良い新たなビジネスモデルでの起業の準備が忙しいのだ、と言い訳していたが、苦しかった。
アラサーと言われる年齢に近づいた頃、仕事でとあるクリエイターに出会った。
大学時代のストリートアートの彼すらも遠く霞むような、本物の天才だった。
その人は天才故にずっと苦労していて、話を聞けば聞くほど天才のノブレス・オブリージュみたいだなと思った。
高IQゆえの他者・社会との隔絶。そこから来る生きづらさ。それこそが天才の証明だったのだ。
天才は友達が少ない。それだけ普通とは隔絶し、突出した人間だから。
自分がいつか凡人だと気づく不安なんて感じたことはない。人と違う事で、恐れ、疎まれて来たから。
話を聞けば聞くほど絶望していった。中途半端に器用に生きてきた自分とは、真逆の人生だった。
自分はコミュ力と友達の多さを誇って天才だと吹聴してた。それが真逆で本当に恥ずかしかった。
意を決して、精神科を訪ね、IQの検査を受けた。IQ120弱くらいだった。
天才とメンバー間を通訳できる、いいリーダー・つなぎ役になれるという解説がついていた。
天才じゃないという死刑宣告だった。上位10%。クラスで3、4番目。それが俺の本当の実力だった。
だけどまだそれを信じる訳にはいかなかった。
天才だ特別だと言い張っていたのに、そうでない人生を今日から歩めと言われても飲み込む事はできなかった。
IQは一つの指標。そう考えるしかなかった。そうでないと生きて行けなかった。
検査の結果を聞いてから毎日、気が狂うほどの焦燥感が常に付き纏っていた。
本当に24時間何をしていても、少しでも気を抜いた瞬間に、
何かを成し遂げなければならない、特別である事を証明しなければならないという強迫観念が絶えず襲いかかってきた。
幸い、人材系のエージェント・採用代行は独立のハードルが非常に低かった。
同業他社と比べると、有料のオプションが1つ無料になる。程度の差別化だったが、
それを新しいビジネスモデルという事にして打ち出していった。
本当にちっぽけなしょうもないアイデアだけど、それに賭けることにした。
勝ち目なんて無いに等しいのはわかっていた。でもそれに全てを賭けるしかなかった。
特別な人間であるというアイデンティティだけにすがって、他者を馬鹿にし、虚構の優越感に浸り、
生き続ける為には、この道で食っていくしか無かった。
あると思っていたコネクションは、俺ではなく会社と繋がっていたのだ。
元々ないホスピタリティーは更に枯れ果てた。
余裕の無さが更に成功を遠ざける。
うまくいくはずが無かった。
どんどん追い詰められていった。
兄は学生生活こそうまくいかなかったが、こつこつとプログラミングの勉強をして実力をつけていた。
いくつかの現場を経験していたので、人脈もあった。それを使う事にした。
子供の頃から兄を馬鹿にするのが俺のアイデンティティの一部だったのに、その兄にすがって何とか生きている。
兄は優しかった。逆境に負けず、こつこつと努力を重ねられる強い人間だった。
でもそれもだめだった。三度、天才に打ちのめされることになる。
求職者が企業と面談をすると、3万円もらえるという転職サービスが現れた。
人材業界のビジネスモデルには問題があると先述したが、それについては紛れもない本心だ。
既存の人材紹介業は、求職者が入社すると理論年収の35%程度を手数料としてエージェントに支払うのが慣例だ。
年収600万円の人材を紹介すれば、200万円以上の手数料を払う事になる。
求職者を集めて求人を紹介し、履歴書を送って日程調整をする報酬にしてはあまりに高すぎる。
人材系のエージェント・採用代行は独立のハードルが低いというのは、それが由縁だ。
中小企業や、スタートアップ・ベンチャーがおいそれと手を出せる金額ではない。
加えて、エージェントはとにかく求職者が入社すれば高額な手数料が得られるので、
「求職者が望む転職になるか」「企業に本当に必要な人材か」を無視して、
「内定が出そうな企業」に求職者を押し込む事で、売上を伸ばす事ができる。
つまり、エージェントが売上を追求すると、求職者・企業の利益を損なうケースが出てくるのだ。
3万円もらえるという転職サービスでは、企業は面談時に費用がかかる代わりに、入社時の手数料はいらないらしい。
企業がエージェントに払っていた費用の大部分を、求職者が受け取る形だ。
これは、既存の転職市場・人材業界の諸問題を一気に解決し得るポテンシャルがあると思う。
このサービスを見た瞬間、正気を保ってられなかった。ケチの付けようがないすごいサービスだった。
転職市場・人材業界のパイの全てをテーブルごとひっくり返す、この上ない破壊的イノベーション。
最初は思わずネガキャンした。悔しかったから。でもどうしようもなく憧れた。
どうして自分がこれを考えつけなかったのか、今まで何に時間を使ってきたのか。
自分を責める事しかできない。感情はもはや支離滅裂でどうしようもない。
仕事を続けられる気がしない。全て終わりにして消えたい。ネガティブな感情が無限ループしている。
一番恐ろしいのは、ここまで書いた事全て、自分は薄々気づいていたという事だ。
それでも、特別な人間でなければ、優秀な人間でなければ意味がない、
という自分自身にかけた呪いからそれを絶対に認める事はできなかった。
ここまで絶望的な状況になって、認めるしかない現実が来て、やっと認める事ができた。
自分の心の中の薄々気づいていた部分は、こうなってしまった事をホッとしている気すらする。
このままどこまでも狂って、「コロナがなければ・・・」「精神を病まなければ・・・」
という言い訳ができればいいと、ただそれだけをずっと泣きながら祈っている。
どんだけ無理/無茶をしても徹底的にこだわった作品にする。
わかりやすく言うと最近亡くなった、かぐや姫の監督みたいな人。
一人で全て作るのであれば「すごい才能」ではあるが、チームで制作となると破綻してくる。
「いい作品を作るためには、どれだけ人が壊れてもしょうがない。」
こう考えるクリエーターは知ってるだけでも山ほどいる。
自分自身が業界のパワハラ気質に辟易してやめたので、よくわかる。
で、長年「いい作品のためには人が死んでもいい」を繰り返すと価値観がぶっ壊れる人が出てくる。
いじめっ子が遊び半分で人を壊すように、壊すことへのハードルが下がった人間は、
空気を吸うように人を他害する。大体ターゲットになるのは若くて弱い立場の人間。
おそらく本気でこう思っている。
「SEXしてでも役を掴むという強い思いを持て」と。
被害者の声をつぶし、被害者も異常な日常に追い込まれているうちに洗脳されていく。
洗脳された人間が順応し歳を取り上に立つと、また同じようにパワハラ/セクハラを再生産していく。
制作時にパワハラやセクハラが行われて作られた作品は評価すべきではない。
これ詳しい契約内容が判からないから、どっちが上か下かの判断は難しいよね。業務委託ではあるっぽいけど。
ただ発注側と請負側の実務経験を比べるなら、ベテランと新人という明確な立場の違いは見て取れるわけで、やはり問題のある対応と言わざるを得ない。
美大の子が、今後もしゲーム業界で成長していくならば、その過程で「最初の仕事」に関して疑問を抱くことになるかと思う。その時に「恩」を感じるか「怨」を感じるか、つまりもう1度いっしょに仕事をしたいと思えるだろうか。あるいは自分が美大の子の立場だったらどうか…ってのがこの仕事の評価のポイントだと思う。
ご時世的な話をすると、こういった(同人ゲームではなく)インディーゲーム開発が題材となるマンガが作られること自体が今って感じがある。もはや世界中でインディーゲーム開発が、いまだかつてないほどの盛り上がりとなっているからね。
特に多いのがセクハラ問題だ。これはゲーム人口の男女比が男性に極端に偏っていることが宿痾となっている。
最近では、大手UBI SOFTの上級社員によるセクハラパワハラの告発。インディーゲーム開発会社なら『スカルガールズ』のLab Zero GamesのCEOのセクハラ告発など、ほかにも本当にいっぱいある。
こういったセクハラ事件で多いのが、ベテラン有名クリエーターが新人社員にセクハラパワハラを働くというものだ。上司部下という単純な権力構造だけではなく、業界の右も左も分からない無知なところに付け込むやり口がやはり目立つ。
例のマンガで行われている行為がなにかのハラスメントに該当するかといえば、白よりのグレーといった感じだけど、構造としては新人の無知に付け込むやり口と言えなくもない。
とりあえず、才能のある人と今後もいい関係を続けていきたいんだったら、誠実な対応を心がけたいね、みたいな感想を持ちました。あと、カナメって人の無表情で見開いた目と敬語口調が不気味でした。
それで、君は"宇崎ちゃんは遊びたい!"を見たのか? "ラブライブ!サンシャイン!!"を見たのか?
作品への感謝を忘れるんじゃないぞ。ファンだろうと、美少女アニメ作品全般のアンチだろうと、その「宇崎ちゃん」などのキーワードで他人と会話ができているのは、その作品を作り上げ育て上げてきたクリエーターやプロモーターの方々、それを支援する地域の方々の努力があったからだ。
作品や表現に対する個人的な捉え方、是非の感情はどうであれ、それについて語ろうとするなら敬意をもって原典をあたっていく努力は惜しむなよ。
さもないと、東方原作をプレイしてないのに二次創作をする(もはや三次創作か?)人やそれを消費する人と同じで、伝言ゲームのように元とかけ離れたものを弄くり回して面白がる状況になるだけだ。それが娯楽であるうちはいいが、君は娯楽で批判しているわけじゃあなさそうだろう。そんなのは悪夢だ。
あるいは、グローバル経済の現実を教えられても見ようとせずに日本アズナンバーワンの国粋主義的思考に凝り固まり中韓ヘイターと成り果てる老人と同じようになるだけだ。それも悪夢だ。
2週間前、東京で就職した友人が戻ってくるので、研究室仲間で先輩後輩みなで集まって飲んだ。久しぶりに揃う顔を見て楽しかった。
その中で、ひとり喧しく飲むヤツがいた。少々奇抜な格好をして自分なりの美学を通す彼は、もう30才。別の帝大卒で院から京都に来た彼は、修士、博士と順調に進み、いまや文系満期退学だ。来年3月だったか再来年だったかに博論を出さねばならないが、あまり書けていないらしい。
大きな声で話しながら、飲むだけ飲んで、一軒目も二軒目も払わずに帰っていった。きっと金がないんだろう。以前は、よく飲み歩いて、酒場や盛り場の世情を語り、抱いた女の数について自慢していた。それでも一桁だったと思う。
東京で就職した仲間は、激務ながら圧倒的な能力で仕事をこなし、すでに昇進したらしい。大変だろうが頑張ってほしいと思う。
一方、その喧しく飲む仲間は、いまだ何をやっているのか、何をしたいのか、よく分からない。Twitterでは数千人のフォロワーがいるらしい。ただ無意味なボヤキの垂れ流しなので、もう長いこと見ていない。
本人は一端の文化人、評論家、思想家のつもりらしい。しかし、誰でも分かると思うが、本当に才能のある人物は、だいたい20代で業界のトップ集団に手が届く位置にいる。その意味で、彼は、ごくごく普通の人、ただの一般人なのだ。
久しぶりに会った友人らは、会計を払いたくないために先に帰った彼の背中をみて、誰となくぼやいた。「心配だけど、救い難いな…」と。
単著もなければ、メディアでの露出もない。論文の数も多くはない。Twitterやyoutubeでワイドショー芸人と同じように振る舞って、身内からの僅かな称賛と日銭を得て、貧しく楽しく暮らす。
別に本人の意志だから構わないが、もう顔を見なくてもいいかな…と思った。そりゃぁ、芸人よりは知的だろう。しかし、博士を持っていなければ学者ではないし、単著がなければ作家でもない。トップクリエーターでもなければ、仕事に着いてもいないので職業人でもない。
つまり彼は何でもないのだ。友人らと共通した彼への見解は「博論のためにも、とりあえず定期的に働いたらいんじゃないか」というものだ。本当はサラリーマンになるのが一番よいだろう。
左京区に長くいると、何かしらの文化に触れて、自分も何者かになれるのでは…?と勘違いしてしまう。しかし、一般人がそう思う頃には、才気煥発の本物はすでに「何者かになっている」し「名を上げている」。
以上、友人が勘違いしたまま30代になった話。森見登美彦「四畳半神話大系」の中盤ループに出てくる先輩化した友人をみて、悲惨だな…、これこそ京大院生エレジーだな…と思った。友よ、働いてくれ。