はてなキーワード: カリキュラムとは
どう思いますか?
http://ameblo.jp/sary0222/entry-12102204797.html
★受講料 35万円
合計4日間で、
今の段階できっちりは決めません。
が、現時点で決めたことを書きます。
★サヌキとアワ(スクール開始1ヶ月前に音源もしくはオリジナルDVDをお渡しします。スクールでは皆さんそれぞれのわからない所を説明します。)←サヌキとアワ、みっちりやります。
★降伏論
(数秘スクールのようにみっちりじゃありません。皆さんの数秘を読み解きます)
★命への信頼
★今を認める、自分を知る
(頭に詰め込むより体感するのが一番です。
私とディズニーリゾートで遊んだら、感覚として掴めます♡愛される自己中が。)
★お金の循環のこと
★想いを放つ意味
★わたし満たし力
★姫になる方法
★電話でお話 30分 1回(セッションじゃないですが、スクール期間内ならいつでも)
【詳細はこちらです♡】
とにかく4日間で、
http://ameblo.jp/sary0222/entry-12146082372.html
3日目のカリキュラムは、
東京ディズニーシーで遊ぶ♪
11時にパーク内で集合予定。
でも、みんな楽しんでたよ♪
5ヶ月後の3月の月収は、
1,400万を超えましたよ❤
10倍以上です♪
庶民じゃなくなっても、本当に欲しいものの絶対量って変わらないんだね。
明らかに今の方がお金があるのに、お買い物の金額は変わらない。
ちなみに、月収100万から1,400万までのプロセスは全てブログに書いてきています。
で、自分自身の幸せに投資したスクール生には言葉で伝えるし、姿で魅せます。
1期生として来たみんなは本当に凄いんだわ、嗅覚が。
受付開始した時から、スクールの3日目までに、SAORI YAMAMURAは宣言通り、
8桁プレイヤーになってるんだもん。
「保育園落ちた日本死ね」というブログが巷で話題だが、小生も、その投稿者の意見には合点がいく。さて、小生の友人の奥方が、保護者に役立つ施設を教えてくれた。もちろん、その奥方も利用している。その施設は、さいたま市南区にある一時預かり専門の保育施設だ。名前は忘れたが、パークがついたような・・・。待機児童のより所となっているらしい。保育園や幼稚園のように、毎日決まったカリキュラムはないものの、仕事はもちろん、ちょっとした用事の時に、子どもを預けられるというのは実に便利。昔は、親に用事があるときは、隣近所のおばさんが、自分の子供を面倒見てくれたものだ。そういう気軽に預けられる施設ということだが、登録は簡単なので、利用アイテムの一つにするのも良いかも。さいたま市のホームページを教えてくれたので記載しておく。サイトの下のほうに広告があるらしい。そこから施設のホームページに行けるようだ。子育てしている保護者に、小生の情報が役立ってくれればうれしい。子どもは国の宝、子育てに頑張ってほしい!http://www.saitama-kosodate.jp/
「保育園落ちた日本死ね」というブログが巷で話題だが、小生も、その投稿者の意見には合点がいく。さて、小生の友人の奥方が、保護者に役立つ施設を教えてくれた。もちろん、その奥方も利用している。その施設は、さいたま市南区にある一時預かり専門の保育施設だ。名前は忘れたが、パークがついたような・・・。待機児童のより所となっているらしい。保育園や幼稚園のように、毎日決まったカリキュラムはないものの、仕事はもちろん、ちょっとした用事の時に、子どもを預けられるというのは実に便利。昔は、親に用事があるときは、隣近所のおばさんが、自分の子供を面倒見てくれたものだ。そういう気軽に預けられる施設ということだが、登録は簡単なので、利用アイテムの一つにするのも良いかも。さいたま市のホームページを教えてくれたので記載しておく。サイトの下のほうに広告があるらしい。そこから施設のホームページに行けるようだ。子育てしている保護者に、小生の情報が役立ってくれればうれしい。子どもは国の宝、子育てに頑張ってほしい!http://www.saitama-kosodate.jp/
会社が評価するのは(私が受けた)プログラムが、再休職をしないことを目標とするプログラムだからです
つまり継続して勤務できるようになる、会社にとっても部署に根付くことなく再度休職してしまうのは困るからでしょう
さて
増田がどれほど深刻な状況か測りかねますが、素人の意見を聞かずに、まずは自治体に問い合わせましょう、この一歩さえあれば就職出来ると
思います
これは安易な励ましでは無く、実際に支援プログラムが始まると人格が云々とごねている場合じゃなくなります
例えば、まずは日常生活のリズムを整えることから始まり、単にリズムが整ったということではなく具体的に一日の行動を記録させられます
その中から自分がどういった生活の傾向があるとか、ストレスを受けやすい場面とか、体力についてもどれだけ回復しているか分析しながら考察し
数値で評価し、今後起きうる状況に対処するための記録文章として残すといった具体的、また半ば機械的なカリキュラムでプログラムが進みます
この日々何週間も記録することもストレスなのですが、これもストレス耐性を付けるといった違う面でのプログラムの一部です
次に支援室に通所する段階に進み、ストレス対処法、認知行動、ライフワーク、コミュニケーション法などを座学で履修します
この通所も通勤を想定していて、毎日決まった時間に出所して、数時間拘束されて、その際のストレスを把握して対処方法を身に付けていきます
つまり何をどうやったら分からないといったことに悩む必要は無く、カウンセラーとの話し合いで自分に合ったプログラム、自分に足りないところを
_
この支援プログラムは自己啓発セミナーではありません、プログラムの中で実際にやってみて(やらされて)身に付けていきます
また受講生はお客さんでは無く、この支援プログラムではストレスに晒されます、ストレスに晒されてもうまく対処できる方法を身に付けます
カウンセラーやスタッフは復職支援のプロで、彼らは増田が思うより復職の難しさ知っていて、しかしその難しさを乗り越える方法も知っています
考え悩んで家で悶々としているより、この復職支援プログラムの乗ってしまうのです
残念ながらこの支援では就職の斡旋してません、資格取得はできません、再就職先に支援プログラム受講といっても通じないと思います
私が受講したプログラムは随時30名(2週間ごとに5名程度卒業、で受講生が入ってくる)
受講生のプライベートなことは探ったりしませんが、上記の通り模擬職場を想定したプログラムでしたので1名くらい再就職するためのスキルの
ために受講している方もいたような感じでした
就職の際にカミングアウトするか否かは彼らプロに相談すればいいのです、とにかくソフトランディングする方法を探るのです
_
個人の状況によって受講プログラムが変わると思いますが、私は準備に半年、プログラムが3か月でした
また病気の罹患状況によっても、精神デイケア、社会復帰または復職支援と変わると思います
_
また書いていると「私は私は」とダラダラと長くなってしまいますので質問があったらどうぞ
いやー書くのに2時間かかったよ
追記
まあ、".14"よりも優先してカリキュラムに含める内容は多いでしょうね。
MBA(経営学修士、経営管理学修士)の取得に対する世間の目は厳しい。
「(MBAの知識は現場で)役に立たない、(MBAホルダーは)使えない。」
これは、ホルダーや現在進行形で通学している人は痛感しているところだと思うが、そんなことは当の本人が一番分かっている。
MBAの取得の意義はいくつもあるが、その一つ「自分ではできないことがあることを知る。」ことだと思う。
転じて、自分の強みや興味あるところにフォーカスして学んでいく、仕事に繋げていけばいい。
自分が通ったビジネススクールの入学式では、人間力を磨け、と言われた。
どんなにビジネスに直結する知識や思考法を学んでも、仕事は人と人との繋がりで行うもの。いくら成績優秀でMBA取得できたとしても、人間力、魅力を磨かないと宝の持ち腐れだということである。
かと言って、MBAに通いながら人間力を磨くことなんて容易いことではないが、否が応でも「働くこと」の意味を散々考える機会があるため、必然的に人との付き合い方、人の動かし方を考えることになる。
自然とこれまでの自分の仕事の仕方、これからの仕事の仕方を考えさせられる。
ビジネススクールに通って一番良かったことは、学んだ知識も然ることながら、経済界のトップリーダーと呼ばれる人たちの考えや思想、熱意に触れることができたことだ。
新聞や雑誌の字面では綺麗事にに思える言葉も、直接語りかけられると言葉の重みが異なる。
「意識高い系」などと揶揄する言葉があるが、意識高くて良いじゃないかと思う。
誰だってビジネスで成功を夢見ているし、できることなら実現したい、幸せになりたいと思っているだろう。(ただし、成功・幸せの定義は人によって異なる)
夢や希望を実現するために意識を高めることはモチベーションを高めることの一つでもある。
すべてのリーダーは皆意識が高い。そして行動する。当然失敗もあるが、成功するまで続ける。
これぐらいは、「意識高い系」の本や雑誌記事によく書いてある。強調したいのは、彼らはみな自分の夢や希望を実現させることに執着している点だ。
執着心があるから、一時の人とのぶつかり合いは気にしない。半端な人付き合いは蹴散らす。
むしろ失敗の積み重ねをサクセスストーリーに織り込んでセルフブランディングしている人もいる。
執着は信念とも言い換えられる。
堀江貴文氏は「お金の本質は信用だ」 (http://amzn.to/1QeDAGy)と言っているが、実現に執着して行動しているから信用され、結果的にもお金が集まる。これは単に所得としての儲けの話でなく、事業を自ら始めるための資金調達においても同じである。
執着のレベル、度合いで成功が決まると思うと随分腹落ち感をあったことをよく覚えている。
そのぐらい執着した先に何があるか自分には分からないし、そんなに執着できることがないと悟ったのもビジネススクールで学んだことだ。
冒頭の「使えない」評価は、そのMBAホルダーに執着心がないことの評価でもあると思う。
ビジネススクールに通わなくても成功の実現に向かって執着心がある人はいる、ビジネススクールがすべてを解決してくれるなんてことは思っていない。
ただ、名目上、学術的な戦略論、会計学、組織学がカリキュラムのコアであるが、ビジネススクールで得られる学びというのは、実際に通ってみて初めて見つかるものなんだなという感想である。
ビジネススクールを頭ごなしに否定することは簡単なので、もし少しでも興味がある、キャリアについて思うところがあるなら、学校説明会とか近くのホルダーを尋ねて見ることをお勧めする。
まずはじめに、この日記は専門学生をdisるつもりで書いているわけではないと断っておく。
専門学校というのは、将来なりたい職業に合わせたピンポイントな教育を受けることが出来る教育機関である。
つまり、例えばエンジニアを志望する学生にとっては、技術教育の効率的な面で言えば専門学校を選ぶというのは悪い話ではないだろう。
しかし、現実は厳しい。エンジニアになるためのカリキュラムが凝縮されている専門学校のカリキュラムをこなしてきたはずなのに、
いざ就活となると大学生にホイホイと内定を掻っ攫われていく専門学生が続出する。
何故、そうなるのか。その理由はだいたい「外に出ない」からである。
多くの専門学校の売り文句は「うちのカリキュラム通り勉強すればちゃんと就職できる力がつくし内定もらえます」といったところである。
実際、カリキュラムを見てみれば確かにそうかもしれないと納得できる学校も多い。
しかし、私はその点こそ、就活で苦労する専門学生が続出する原因の一つだと考えている。
専門学校の中でほとんどの勉強が完結する、という言葉をそのまま信じると、
外部での勉強会・イベントなどが開かれていても別に気にすることはないと思うだろう。
しかし、大学生たちにとってはその勉強会・イベントこそが貴重な情報源であり、勉強会に積極的に参加することで人脈も情報網も技術も広がっていくのである。
それは裏を返せば、どれだけレベルの低い学生でもとりあえず入学することは可能であるということ。
同じ教室の中で必死に技術を磨こうとしている人がいれば、その横でギャンブルの話しかせずにまともな勉強もしていない奴も居ることだろう。
そんな環境の中では、ある程度までなら成り上がることは簡単だ。
授業のカリキュラムを真面目にこなしていれば、学部内の学年上位10人に入ることぐらいは容易いだろう。
しかし外ではそうは行かない。
外部のイベント等に参加する大学生たちは、授業の外で自主的に技術を伸ばしたり、モノづくりをしている者ばかりだ。
つまりそれだけ、やる気がある。
企業から見ても、授業の外で自主的にエンジニアとしての勉強を積み重ねている人への評価が高くなるのは当然だろう。
専門学生は、専門学生であるゆえに、カリキュラムで得られる内容を超えなければ認められないのだ。
とはいえ、外に出なければそんなことに目を向けることもない。
周りより上の実力があるという現実もある。
そうやって外に出ることのないお山の大将&取り巻きが、いざ就活シーズンになって周囲との力量の差に愕然とするケースが毎年多く発生する。
そんな世間知らずを救済する者は誰もいない。
専門学校の授業だけでなく、休みの日や授業後に勉強会でもイベントでも良いから、なにか外に出て、外の空気に触れることをおすすめしたい。
世の中には自分と同じ分野に就職しようとしている人がこんなに居るのだと知ることも出来る。
その中でウマが会った人とは仲良くなって情報共有が出来るかもしれない。
もしかすると就職したい分野の企業の社員だって居るかもしれない。
世の中は狭いし広い。
しばしば不安に襲われてしまうエントリ主が気の毒です。現実に会うは叶いませんからわかりかねますが、おそらくとても優しい方なのでしょう。ご両親の判断も尊重してあげたい、自分の気持ちに少しフタをすることによって、丸く収まるのではないか?そう考えることによって、いささか干渉的なご両親との関係をうまく保ってきた。ただし、大学受験の時の経験がきっかけとなり、どうも自分に本当に向き合ってくれないという不信感を感じてきて、次第に気持ちに重たさを感じていらっしゃる気がします。
おそらく。ですが、すこしご両親は強引なところがあると言って良いと思います。しかも、表面的には受けれれてくれるような部分もあるので、断罪するほどのその強引さではないのかもしれません。その関係性を幼少の頃から受け止めつづけて、きているのが本質的なストレスになっている可能性があります。
一方で、そんなエントリ主さんのミクロな状況に覆いかぶさってくるマクロな現実についてのべます。一般論としては医師の資格を得ることは今の日本社会にいる若者が制度的に得られるある種の特権の中の一つとして、相当に強力なものです。マクロ的な観点からすると、医学部に入ったにも関わらず退学してしまうのはそれなりの損失があると思われます。あくまでエントリ主の個別事情を無視した一般論ではありますが、その点では少し強引な両親の判断もあながち間違っているとは言えません。またその正しさがあなたを苦しめている可能性もあります。
ところで、少し発想を変えて見たらどうかと思います。私が所属していたのはいわゆる複合領域系の工学よりでしたが、工学・エンジニアリングというものがなんなのか?ということです。紙面の都合で端折って言ってしまえば、生活を便利にする・お金になる産業を作るものすべてが工学の対象であります。
その意味では、医学そのものは本来的に工学の一分野であり、人間の生命を維持するというある種の人間の究極の欲望にむけて技術開発をするのが医学だと私は考えています。ただ、現実の医学部のカリキュラムは、学ぶことが多岐にわたる割に、医師免許を取得することが極端に現実的なメリット(収入や社会的立場)が強いので、臨床医になるための専門学校化しているのが現実だと思います。
ですが、大学院レベルでは、すでに別の(いわゆる)工学系との連携がたくさん行われている(例えばロボット手術など)ので、エントリ主さんのエンジニアリングへの興味は医学部サイドのカウンターパート(工学系から見た時の話し相手って言ったらいいかな)としてはかなり貴重で、あなたの存在が工学全体として社会に貢献できる可能性は十分にあります。
一体いつから、医学部に行ったら医者になるべきだと思い込まされたのでしょうね?
個人的には、医学部に行ってもいわゆる臨床医にならずとも、医学のわかるエンジニア(研究者)になればどうでしょうか。半分両親に強制されて進学したのであれば、医学部を卒業してから、自分で好きな大学院を選んでみてはどうでしょうか。その上で、好きな工学の学習を深化させてみたらどうでしょうか?その時に医学の専門家であることは大変な強みになると思います。よく実例はわかりませんが医師免許があれば生活に困ることはあまりないと思いますので、医師免許というのは自分が好きなことをするためのある種のパスポートになります。
もちろん、医学部との両立は簡単ではないと思いますが、学部の間は工学の学習は自分で進めてみることです。色々なオンラインコースウェアもありますので、やる気さえあれば学べることは山程あります。
まとめますと、私からのおすすめは、医学部は継続した上で、機械工学や情報工学のような分野はご自身で勉強されたらどうでしょうか?大学の現場からすれば、実際に工学部に行ったからといってそういう知識が身につくなんてことはあまりないです。むしろ、力量あるエンジニア(特にコンピュータサイエンス)は皆事実上独学で学んでいる人も数多くいます。
すこしでもエントリ主さんのお役に立てれば幸いです。
元のエントリが釣りでないのならレスくださると嬉しく思います。(一部誤字脱字すみません。時間もないのでそのまま公開させていただきます。)
その意見は義務教育の形式を狭く見すぎてるな。科目ごとにカリキュラムを縦割りにすると時間の取り合いになっちゃうんだよ。実際は横断的に教えられることが多い。
そういう意図で「総合的な学習の時間」が作られたんだけど、横断的に教える場合、生徒一人一人、興味を持つ点や進度が違ってくるので、1クラス35人とか40人じゃ絶対無理。教師:生徒比1:8~1:12くらい。ディスカッション形式で教師がモデレートするならそのくらいが限界。でも1クラスの人数を絞りすぎると、他のクラスメートからの刺激が少なすぎて逆効果という研究もあるので、1クラス24人に教師2人とか、30人に教師3人とかにして、必要に応じてクラス内で柔軟にグループ分けする。教科で固定した時間割もなくて、個別の生徒の進度を見ながら調整する。低学年のうちから自律的な学習方法を教えておけば、進度が速い子供は好奇心に任せて自分でどんどん進ませて、引っかかっている子供を集めて補強することもできる。
全国一律に導入しようとすると教育予算を大幅増額せざるを得ないだろうけどね。日本の義務教育は、限られた予算の中で効率的に均質なメニューを出すって点ではかなり最適化されてると思う。それだけに今ある問題は、少々時間配分を変えるくらいじゃ解決できないと思うんだよな。国家として将来のことを考えるなら、教育に金かけたほうがいいと思うんだが。
簿記の基本を学校で教えとけっていう増田(http://anond.hatelabo.jp/20151109212125)がいて、ブコメもたくさん集まっていて、
だいたい「その通りだ」という意見とか、「そんなもん、必要になったら学べばよい」みたいな意見とか、
「何を削るんだよ。学校では基礎教養を教えるべき」とかいろいろあるけど、
多分、問題なのは、そこそこ一流という学歴を得るための日本の教育カリキュラムをまっとうにこなしても、
簿記とか会計の仕組みや考え方が、世の中においてかなり大事な仕組みであり、しかも、人類の知的遺産の一つである、という認識が
で、そのまま、管理職になったり政治家になったりジャーナリストになったり評論家になったりして、
なんか、いろいろ混乱させている気がする。
「必要になったら自分で身につけられる」って、それは当たり前で、必要になりゃ人は学ぶもんだ。
あと、別に実務的な帳簿のつけ方を、必ずしも全員に教える必要もなくて、
それより学校で教えるべきことは、いろいろあるとは思う。
例えば、政治の分やでは学校で民主主義とか基本的人権が大事ですよとか、現代につながるそういう思想は
市民革命を経て生まれたんですよとか、そういうことを、学んだりする。
それは、必ずしも、いわゆる「公民」の分野だけじゃなくて、世界史とか学んでも、そういう視点がある。
なのに、会計学とか、株式会社とか、そういう概念については、あんまりそういう視点で教えない。
簿記の起源や諸説あるらしいが、そのうちベネチアやジェノバの商人に導入され、ヨーロッパで洗練されていったものらしい。
オレ自身、詳しくはないが(なにせ、学校で習わないし)、その後、株式会社というものが生まれて、
ヨーロッパ文明が大航海時代から植民地支配へと、傍若無人な力を発揮するうえで、
で、今の社会だの世界情勢だのを語るうえで、企業というものを無視するわけにはいかんだろう。
日本の社会の多数派がそこに属しているわけだし、一生かかわらずに生きる人は多分いない。
別に、具体的に仕分けがどうこうとか、細かく必修で教える必要はないだろうし、
そんなことして別の内容を削る必要もないと思うが、
世に複式簿記というものがあり、それがどんな重要な役割をはたしているかということだけは
教えておけばいいのではないか?
その程度だったら、既存の社会科の内容をちょっと手直しすりゃ、できると思う。
少なくとも、日本史で、仏像の写真みて仏師の名前をこたえられるようになったりするより、大事な気がするし
社会科といえば「いいくにつくろう鎌倉幕府」(最近は、年号違うらしいけど)とかを思い浮かべるばっかりとかいうより、
ましな結果になると思う。
興味が湧いたやつは、そこから深堀したり、進学先を経営学部や商学部にしたりするだろう。
そもそも、学校で学ぶ範囲の中で「興味を持つ」ことすら難しいんじゃないか?
オレは学校で周期律というのを習ったが、社会に出て実際に役に立ったことは、ほぼ無い。
それでも、過去にああいうものが作られて、それで世の中の物質がすべて説明できて、
そういう知識が積み重なって化学が発展してったことを
学校で学んだことはムダだったとは思わない。
実際に帳簿を付けたり仕分けをしたりはしない人たちにとっても、
そういう感じで、「複式簿記というものがあり、それは大事なものなんだなあ」と知っておくべきだと思う。
社会に出て、実際に具体的な知識を身につける必要に迫られた人は、多分
「ああ、社会科の時間になんかいってたのは、こういうことなんだなあ。もっと学生時代に勉強しとけばよかった」
と思うはずだ。
ヨーロッパの文明が「複式簿記」という仕組みを洗練させ、それが、現代まで続く、企業会計の基礎になってきたという
そのことを知るのは「教養」だと思う。
あの学校、「地アタマがいい生徒が、多数在籍してた」というだけで、学校自体は、そんなにカリキュラムを工夫してなかったんだなあ、と最近思うようになった。
というのは、今子供が中学受験を控えていて、首都圏のいろんな中高一貫校の説明会を回ってるが、各校の取り組みが、数十年前の某校と、全然違うのよ。
ネイティブの英語教師の在籍なんて当たり前だし、「高校2年の時に、全員が2週間、アメリカにホームステイして、アイビーリーグの研究室をセッション」なんてのが、
当たり前のように行われていて腰抜かした。
「キャリア教育」ということで、社会人のOBを呼んできてセッションしたり、或いは医学部志望な生徒のために「医学部体験」ということで、手術室立ち入り体験したり。
中1の4月の時に、仲間意識を高めるために「オリエンテーション合宿」するのが、当たり前になってるのね。
在校中に「論文」を書いたり、ゼミ形式の討論授業なんてのも、当たり前にように行われている。
一方、数十年前の某校なんて、英語教師は日本人だけだったし、授業は日本語だったし、修学旅行は国内(自分達は九州、上の学年は東北)だったし。
中1の冬休みにスキー合宿はあったケド、オリ合宿なんて、なかった。
授業は「一方通行」が当たり前で、ゼミ形式なんて存在してなかった。まあ教室の後ろで有志が放課後にゼミ的な議論やってたりしていたが。
それでも東大に100人近く合格できてたから、特に問題なかったのか?
というわけで、この数十年で、すっかり中高一貫教育が進化してるなあ、おみそれしました、というのが本音だが、今の母校は、教育どうなってるのかね?
私の高校の時の同級生が転職のためにSPIを受験するということで別の会社の人事部門につとめてる俺に相談してきた。
高得点をとるためのコツが知りたいのだという。
だけど、こういうのってコツなんてないのである。
SPIの問題は超カンタンである。誰でも時間をかけさえすれば解ける。
そもそも時間かけても正解できないという人間はよほどの低学歴だけである。
低学歴でも参考書を読んで1週間ほどやりこめば誰でもできるようになる。
問題が解けるか解けないかはそもそも問題ではない。解けない奴はお話しにならないというだけだ。
こういう問題をただ解けるだけのやつと、本当に実力があるやつとの違いをスピードで見ている。
何度も言っているが、時間をかけさえすれば誰にでも解ける。
だが、基礎学力レベルの低い人間、低学歴の人間は制限時間内に解き切ることが出来ない。
彼らはただ解けるだけだ。そこで満足してしまうからスピードが遅いのだ。
授業でも解き方を習って、何回か問題をといてそれで終わり。定着してない。
そういう人間は、しばらく間を置くとその問題の解き方を忘れていて、思い出すところからはじめなければいけない。いちいち頭で考えないと解けなくなっている。
そして、段々と時間がかかるようになり、次から次へと続くカリキュラムを消化していくことが出来なくなってくる。
スピードが足りないし、土台となる部分がしっかりしていないからだ。そうやってどこかで息切れして挫折しまう。
このように、スピードの速さというのは頭の良さというより、それまでの勉強についての姿勢が現れてくる。SPIの試験によって私たちはそれを見られているのだ。
とはいえ、この話にはオチがあって、その会社は特にSPIの試験の結果は重視しておらず、あくまでその後の性格などをチェックする適性検査のおまけだったらしい。
先輩はSPIの試験は散々だったが、問題なく採用されたという話だった。
余談だが、適性検査についても、適当に取り組んでいる人がいるがわざわざSPIを実施している会社の採用担当は実はかなりある項目を重視していることが多い。
高学歴でSPI試験の成績が良くてもある項目が極端に悪いと落とされるケースがまれにあるが、こちらは企業秘密なので書かない。
はてなは低学歴の人間が何も知らずに高学歴なんか大したことないと言ってそういうつまらない記事にブクマがつくことが多いが、やっぱり彼らはすごいと俺は思う。
俺もいうほど大した大学ではないが、同じ塾に行っていて東大や一橋にいった人間を見てきた。
彼らはとにかくスピードと正確性がすごかった。つまり先ほどいった一つ一つの問題に取り組む姿勢が丁寧で、その丁寧な積み重ねをきちんと続けてきたということだ。
例えばセンター試験の数学、所要時間は60分与えられているが、模試の時いつもだいたい30分もかからずに終わっていた。
きっちり基礎を積み重ねている人間にとってセンター試験は何点取るかという試験ではなく何分以内に終わらせるかという問題なのだ。
私も時間があと20分あれば全部できるのに、と思いながら解いていたが、彼らからしたら時間が余ってしょうがないのだからその差に笑ってしまう。
東大や慶応の過去問も見たことがあるが、とにかく時間内にこなさなければならない問題が非常に多かった。
学部にもよるが、早稲田大学の英語の問題は大問が3つしかないのに同じ時間で東大は7つの大問を解かなければならない。しかも問題の難易度は明らかに東大のほうが高い。
まじかよ、と思った。
やつらがそういったことをこなせるのも、一つ一つの問題について、解き方を教えてもらってわかるだけではなく、
自分が使いこなせるまで何度も反復してちゃんと基礎にしているからなんだろう。
頭がいいのももちろんだが、やつらは勉強のやり方そのものが全く違う。
東大に行きたいならこういう勉強をしなければいけなかったんだな、と気づいた時にはもう遅かった。
東大にいく奴らに進学校が多いのも、最初からそれをわかってる教師がいて、そういう取り組みをしている仲間が回りにいないと、
俺みたいにどうしても「ちょっと苦戦するけど問題は解けるしこの程度でいいや」って妥協してしまう。
やつらはそこで妥協せず、一つ一つていねいに積み重ねていったんだ。こういうことができるやつらはやっぱりすごいと思う。
以前見たテレビ番組によると、東大に合格するやつらは1割位ガアスペルガーなどの発達障害らしく
会社の組織にうまく馴染めずに使えない奴扱いされることがあるらしい。
ここからはわからずに適当言うけど、きっとその会社や部署の人間は、東大生の何がすごいのかがわかってないんじゃないかと思う。
ホリエモンみたいな特殊なイメージで捉えちゃダメなんだと思う。あれはきっと東大生の中でも異端だ。
東大生って電通や商社に就職するやつらが多いらしいから大学で体育会系に目覚めるのかもしれないから全部勘違いかもしれないけど
俺が知ってるすごい東大生って、頭がいいということ以上に、まず辛抱強く丁寧なんだ。 一つ一つのことをきちっとやって、システマチックに積み重ねていくが得意なんだ。
俺のつとめてる会社に来てくれたらなって思うけど、残念ながら東大生が入ってきてくれるような立派な会社に勤めてないんだよな。一人くらい来てくれないかな。
nloglogn 自分は会社の組織に馴染めない(馴染めなさそうな)1割だけど、こういうふうに言ってくれる人はかなり貴重でありがたいし、いわゆる"立派な企業"への拘りも無いので、ほんとうに需要があるのなら連絡ほしいです。
まじで?ありがてえ。福井県にある専門業に特化した会社(一応上場企業です)なので新卒の東大生にはオススメはしないけど、いろんな会社見た上でどうしてもということであればトラバください。こっそりIDコールさせてもらいます。1ヶ月に1回位チェックしておきます。
「ファスト&スロー」という本に出てきた、著者自ら指揮をとった失敗プロジェクトの事例が大変面白かったのでまとめてみた。
著者はイスラエル出身のユダヤ人であるダニエル・カーネマンという心理学者・行動経済学者。
本の執筆はソフトウェア開発プロジェクトに似ていると思っていたが、改めてそう感じた。
(以下本文)
著者はイスラエル教育省の役人に、判断と意思決定に関する高校生向けの授業を行う必要性を認めさせ、カリキュラム作成・教科書執筆プロジェクトのチームを結成した。チームは信頼できるメンバーで結成し、当時ヘブライ大学教育職大学院の院長をしていたカリキュラム作成の専門家セイモア氏にも加わってもらった。
プロジェクトは毎週金曜日の午後に集まって進められ、1年間順調に進んだ。
ある時著者は「このプロジェクトがいつ終わるかを皆で予想する」という試みを思いつき、実行してみることにした。
予想の精度を高めるため、各自は他のメンバーの意見を見ずに予想してもらうようにした。
結果は、短いものは1年半、長いものは2年半後に終わるという予想であった。
その時著者はまた思いつき、専門家であるセイモア氏に「今までに似たようなチームが似たようなプロジェクトに取り組むのを見たことがあるか」と尋ねてみた。
セイモア氏はいくつも見てきており、よく知っているとのことだった。
そこで著者はさらに質問した。「今までの事例だと、今の私達のプロジェクトと同程度の段階から完成まで何年ぐらいかかりましたか」
セイモア氏はしばらく黙ってから答えたが、頬は紅潮しており、自分の答えに困惑しているようだった。
「このことには全く気づいていなかったのだが、正直に言うと、すべてのプロジェクトが完了したわけではなく、かなりのチームは完成に至らなかった」
著者は失敗する可能性など考えてもいなかったので不安が募った。
どれぐらいの割合が失敗に終わったのかと尋ねると、およそ40%という返事だった。部屋中に重苦しい雰囲気が立ち込めた。
次に、完成したチームは何年ぐらいかかったかと尋ねたところ、「7年以下で終わったチームは無かったが、10年以上かかったチームもなかった」との答えだった。
著者は藁をも掴む思いで「このチームのスキルやリソースは今まで見てきたチームと比べてどうか」と尋ねたところ、セイモア氏は「我々は平均以下だ。だが、大幅に下回っているわけでもない」と答えた。
全員にとって驚天動地の出来事だった。全員というのはセイモアも含めてである。彼自身の予想も2年半以内の範囲に収まっていたからだ。
著者はその日でプロジェクトを打ち切りにすべきだった(40%の確率で失敗するプロジェクトにさらに6年も費やす気はどのメンバーもさらさら無かった)が、数分間議論したのち、我々はこの事実を見なかったことにして進めることにした。
最終的に教科書は8年後に完成したが、著者はその時にはすでにチームを離れていた。教育省の役人の熱もすっかり冷めており、教科書は一度も使われずにお蔵入りとなった。
学校で教える科目に三角関数が必要なのか、簿記は、プログラムは、ダンスは義務教育に追加すべきか。そういうエントリーが目端に映る今日このごろ。確かに今の学校教育には何かが不足しているような気がしないでもないし、過剰な教育によってあらゆる部分が中途半端になっているような気もする。
そう考えているとふと気づいた。そもそも「勉強のやり方を教える」という授業が不足しているのではないだろうか。
習ったことを忘れないようにするためには忘却曲線の知識が必要だ。学校側でも復習はさせているがそれだけでは時間が足らない。生徒たちの自発的な学習は必要不可欠だ。そうでないなら皆テストで100点を取っているはずだが小学校ですらケアレス以外の理由で酷い点を取る生徒がいる。彼らに予習や復習をさせる必要がある。だけど彼らはやらない。何故か、その重要性に気づいていないからだ。
予習複数の重要性を教えるのに「頑張りなさい」だけでは絶対に説得しきれない。そんなのは教える力のない教師の泣き言にしか聞こえないだろう。だがここで生徒と教師が脳科学の知識を共有したらどうなるだろうか?学校から帰ってきて10分勉強するだけで将来の勉強や居残りの時間が何時間も減少すると知ったら。確かにそこまでやっても勉強しない生徒はいるだろう。だが脳科学の知識を身に付けることで正しい学習方法に目覚める生徒も少なからずいるはずだ。
また長期的な学習スケジュールを立てることの有用性も教えるべきだろう。期日までに勉強が必要な量の概算を出す、それをカレンダーに振り分ける、学習の進行具合を記録して軌道修正をする、学習してきた記録を見て学習した事自体を誇らしく感じる。大学受験を終える頃には大部分の学生は自分でコレが出来るようになるのかもしれない。だがこれはもっと早いうちに身につけた方がいい技能、知識だ。大人になっても身につけていないなんて事になったらそりゃもう大変だ。これも隔週や月に1度でいいから生徒に方法論と有用性を教えて、それが身についているか確認をすべきだ。小学生にはまだ早いかもしれないが、高校受験を見据えた中学生には絶対に教えるべきだ。
既に学校では個々の教師が自主的にそういう話をしているという反論もあるだろう。だが、それはあくまで学校教育全体の管理から離れた教師側の自発的な活動でしかない。そういう授業をする時間を儲けるべきなのだ。くだらない総合的学習の時間とやらでも削れば教える時間は出来るはずだ。むしろ総合的な学習として「勉強・学習・努力・生活の仕方の基礎」を教えるカリキュラムを組むべきなのではないだろうか?学校が本来教えるべき物は学ぶという姿勢そのものなのではないだろうかと私は思う。学ぶという姿勢を身に付けるためには学び方を知ることは非常に重要なはずだ。