はてなキーワード: augustとは
この戦争を通じて知ったのは「外国を侵略する行為よりも国民総動員を掛けて侵略国家に抵抗するという行為に強い嫌悪感を持つ」というメンタリティが割と広く存在することなんだよぬ。 https://t.co/L0i0r3oJNP— 丸の内炒飯OL (@OKB1917) August 12, 2022
これさあ。
日本はかつてこんなひどい戦争をやったんだ!って教育をしたせいで
うわーこれはひどい。。。「今日は祝日ですが役所メンバーと連絡を取ったり打ち合わせたり」が「昨日は」に書き変わっている。
祝日に公務員を働かせたことを嬉々と書くのもやばい、批判を受けてしれっと書き直すのもやばい。こういう意識の大臣の下で働く総務省の皆さん、これから大変ですね…。 https://t.co/SoXCIBa6nO pic.twitter.com/MNQYNNYTtJ— fusakui (@fusakui_politik) August 11, 2022
これは散布図にするとおもしろいですね https://t.co/rjBLyPtVXI pic.twitter.com/YMsDMVVpxI— Haruhiko Okumura (@h_okumura) August 12, 2022
「統一教会」から「世界平和統一家庭連合」への名称変更を認めた時の担当大臣が話題になっていますが
江戸時代にありもしなかった偽史「江戸しぐさ」を文部科学省発行の道徳教材に掲載したのが,『私たちの道徳 小学五・六年生』
この時の文部科学大臣も下村博文氏でした。https://t.co/EvuZrl6QIR pic.twitter.com/BiCvLSlnO2— こなみひでお (@konamih) August 4, 2022
条件文が理解できない人だ!
コロナ禍で世の中にはifが理解できない人間が多数いると学んだが、またか。「順調に経過すれば風邪と大差ない」は「順調に経過しなければ風邪じゃすまない」ってことなのに。 pic.twitter.com/VrrtukgbXW— ROBA (@vjroba) August 2, 2022
真偽の程は知らないが、とある半島マンセー宗教の聖酒は教祖の精液入りという噂を聞いた事がある。韓国社会一般という、性に異常に執着する教義だけでない根拠があったのだなぁと改めて思う。 https://t.co/iXnY7U2RXm— silent hill 333 (@333_hill) August 24, 2021
在日差別に反対する場合に最も必要なのは、明確に韓国・北朝鮮と対決する姿勢。もはや友好国ではなく敵国なのだという認識。 https://t.co/AXOFjuMI3I— silent hill 333 (@333_hill) December 28, 2021
高齢者数を無視しても差はせいぜい4~5人。お左翼様推し推しの検査しまくった韓国との差は「1」。ホントに誤差のレベル。欧米と比べれば言うまでもない。 https://t.co/qCLAa13pBX— silent hill 333 (@333_hill) May 25, 2020
山上容疑者は、本人のものとみられるツイッターのアカウントで2019年10月に「オレがに憎むのは統一教会だけだ。結果として安倍政権に何があってもオレの知った事ではない。」と投稿。世界平和統一家庭連合への恨みをつづっていた。
https://www.sponichi.co.jp/society/news/2022/07/17/kiji/20220717s00042000453000c.html
オレがに憎むのは統一教会だけだ。結果として安倍政権に何があってもオレの知った事ではない。— silent hill 333 (@333_hill) October 13, 2019
考えても見りゃ安倍のやった事なんか全部逆SEALDSなんだよね。全てが強引な戦後保守の現代への当てはめ、焼き直し。真似して東京五輪まで招致してこのザマ。— silent hill 333 (@333_hill) February 28, 2021
もし大坂や八村が右翼っぽいことを言ったとしたらどうなるか。「日本をサゲる事にしか関心がないクズ」が大量発生すること間違いなし。くだらねえ(笑) https://t.co/7hpcxW3mBK— silent hill 333 (@333_hill) June 28, 2020
こうして村山が発言できるのは阪神大震災の不手際も社会主義の残虐さもかつてそれを目指した事も棚に上げた結果。毎年謝罪と反省と後悔の念でも発表して国会で追及されれば安倍談話の意味が分かる。誰も責めずとも責任は消えない。— silent hill 333 (@333_hill) August 21, 2020
ネトウヨとお前らが嘲る中にオレがいる事を後悔するといい。— silent hill 333 (@333_hill) December 7, 2019
新人の頃、先輩編集者が新人作家さんに言っていた忘れ難い言葉があります。「子供の頃からずっと友達がたくさんいて、社交的で、遊び場もゲームもたくさん与えられた人間は、絵描きにも物書きにもなれない。才能にも技量にも理由がある。貴方のコンプレックスはその証拠なんだ」。なんだか泣けました。
— たられば (@tarareba722) August 8, 2014
そうか…?
現実にいる漫画みても公私共に充実してる、みたいな感じの人普通にいると思うんやけどなあ
そう思いたいだけじゃないの…?
親友という存在も恋人という存在とも縁がなく、学生時代は部活をやっていたから辛うじて他者との繋がりがあったが、引退した途端、自発的に人と付き合うことをしていないことを思い知った
いつの頃からかWeb小説やマンガに興味を抱き、細々とマンガを描いて自サイトに投稿したりpixivに投げたりしていた
とある共同制作のコミュニティに入れた時は、創作について話せる人がいるって楽しいなと思った
が、時が来れば人の心も移り変わるもので、そのコミュニティの人間関係が嫌になってしまった自分は、pixivの関連作品を非公開にして、親しい人にだけアカウント削除を伝える旨のDMを送った
一方的に共同制作を持ちかけておきながら作品削除をした自分を非難する人がいたが、相手方に非はないのでその通りだと落ち込んだ
コミュニティに関連するアカウントを削除し、新しいアカウントを作ったら、びっくりするほどフォロワーが少なくなってしまった
いかにコミュニティにべったりだったのかが分かって、自分はそのコミュニティに学生時代の部活のような依存をしてしまったのだと気づいた
そして、コミュニティから出た自分は、以前のように個人サイトでマンガを描くことを試みようとしたのだが、うまくはいかなかった
なぜなら前のコミュニティで非難DMを送った人がフォロワーのフォロワーにいることに気づいてしまったからだ
あの人が自分を恨んでいることを知ってるし、自分も迷惑をかけた自覚はあるからせめてその人の目の入らないところで活動を続けたいという気持ちでアカウントを作り直したつもりだったのだが、考えが甘かった
そりゃあ前のコミュニティと繋がりがある人をフォロワーに持てば大なり小なり自分の行動は筒抜けになるだろう
自分で撒いた種ではあるのだが、自分は行動力も計画力もないのだと悩んだ
いくら鍵をかけても、アカウントが存在する限り「あいつまだマンガ描いてるの」と思われるのだろう
いや、あの人はそんな性格じゃないと言い聞かせるも、心の中で例の批難DMがしこりになって残っているようだった
相手方が「許して欲しいという気持ちが透けて見える」と語った文章だけが今でも目に焼き付いている
自分の気持ちが相手に理解して貰えないのは辛いことなんだなと、今文章を書きながら思った
時は経ち、吹っ切れては無いものの、噛み切れるようになった想いを抱えながら、自分は新たに(というか以前まで存在していた化石サイトを改装した)サイトを作ってぼちぼちマンガ制作を再開している
就職をしたものの、人間関係は依然として希薄なのでプライベートで人と会うことなどとんとなくなった
他人に失礼をしておきながら、そして名のある作家ではない大前提がありながらも、自分には創作しかないのだと理解してしまった
それ以外にやることがないと言えばそれまでなのだが、辛うじて趣味らしきものがあるのは有難くは思う
ところで、以前Twitterでとある呟きを見かけて、意味がわからないけど意味をわかりたいからメモっておいたものがある
新人の頃、先輩編集者が新人作家さんに言っていた忘れ難い言葉があります。「子供の頃からずっと友達がたくさんいて、社交的で、遊び場もゲームもたくさん与えられた人間は、絵描きにも物書きにもなれない。才能にも技量にも理由がある。貴方のコンプレックスはその証拠なんだ」。なんだか泣けました。— たられば (@tarareba722) August 8, 2014
やべえこのツイート2014年のなのかよ!と一瞬思ったが、8年も経てばなんとなくニュアンスが分かるようになった、と思う
読解力がないというか、頭の中で線と線が繋がらないために心から言葉を理解出来ていないが、つまるところ自分は満たされていなかったのだろうという結論が出た
ホッテントリの、恋人が出来たから創作活動が出来なくなった、というのはご最もだと思う
満たされない感情の置き場が創作から恋人に移ったのだろうし、生物としての仕組みはそれが正しいものだと思うから是非その人を大切にして欲しい
残念ながら自分は生物として欠陥があるようなので、今後も創作という一人相撲を続けるだろう
SNSの#繋がりたい 系のタグは生理的に受け付けないし、創作の人間関係で人様に迷惑をかけたのだし、そもそもクローラーにサイトの画像舐められて自分の手元から作品が独り歩きすることが嫌な人間だから検索避けをする以上、SNSで迂闊にサイトのURLは貼れない
故に、表立って作品を宣伝することはせず、その辺の隅っこで自分専用の墓場を作る予定である
自分で書いてて思ったが、凄く陰気で頑固で根暗な人間だなと思った
だから創作なんて毒にも薬にもならないものを趣味にしているのだろう
インターネットに墓場と言っても、デジタル遺産となってネットの藻屑になってしまうのだろうけども、ひとまずはその認識で行きたいと考えている
創作と言いつつ、結局は自己満足だから、自分の見やすい形で管理したいというのが本望なのだ
自分が楽しいものをたまたま覗いた他の人が楽しんでくれたら嬉しいけれど、道端に歩いてる人にこれ面白いよ!と宣伝することはしたくはない
労力だからだ
インターネットの中でも自分のことをアピール出来る人は凄いと思う
例のDMがきっかけになっただけで、元々自分がネガティブ寄りの思考を持つ人間だったのは自覚している
最近(自分が見かける範囲で、だが)「音楽制作は続けるけど作品を表に出すことは辞めたいと思っている」「このゲームが完成したらもう絵なんて描きたくない」という呟きをちらほら見かけるようになった
もちろん締め切り前のイヤイヤ発言ではなく、ばっさりと今後一切の活動を辞めるニュアンスの発言である
彼らのフォロワーでもなんでもない自分は、悲しいなと思いつつ、創作が心の障害になるのなら辞めることも選択肢のひとつだとも思った
今現在創作くらいしか趣味がない自分も、いずれそんなことを思う日が来るのだろう
コミュニティを抜けた日から、永遠は夢想だと思うようになったので、その日が来るまでになんとか絶望しないように生きていきたい
――ヒトラーは金融緩和を行っていた。金融緩和を行う日銀はナチスと同じだ。
――男女平等は共産主義者が言い始めた。男女平等を掲げる政治家は共産主義者だ。
――戦中日本は優良多子家庭を奨励していた。少子化対策は戦時体制に回帰している徴だ。
これらが全体的に例証として荒唐無稽なのは言うまでもないでしょう。これは特定の主張と同じ主張をしている別のグループを持ってきて「お前は〇〇だ」と対人論証を行うもので、「連座の誤謬」や「関連付けの誤謬」と呼ばれています。その中でも国際的にも有無を言わさず巨悪とされるナチスは何かを批判する際に引き合いに出されることが多く、些末な共通点だけで同一視するような詭弁が蔓延ったため特に「ヒトラーに例える論証」と特別に名前がついているわけです。本来のヒトラーに例える論証とはそういうものでした。なおこれは論証として不成立であることを批判するもので、侮辱か否かとは少しまた別のレイヤーの議論であることを留意しなければなりません。
そしてヒトラーが持ち出されることが多いのを皮肉ったのが「ゴドウィンの法則」です。議論中にこうなったら大抵建設的でないレッテル貼りになりがちですよね。
しかしつくづく思うのですが、ナチス関連の例えを出した時に”機械的”にゴドウィンの法則を持ち出して論難し始めるのはどうなんでしょうか。元来、「誤謬」に名前を付け「法則」という諧謔を作ったのは非論理的な議論を排し建設的な議論を行うための道しるべを示すためではないのでしょうか。相手の失点を指摘することで点数を稼ぐゲームを行うためのルールなのであれば私の不見識ですが、そういうものではないですよね?現代人が好きな”建設的”な議論をしたいのであれば、紋切り型に言うのではなく相手の論証が不十分である根拠を滔々と説く必要があります。そうすると必然的に根拠を示すだけで議論は成立するので特段誤謬や法則の名前を持ち出す必要も無いものです。
そもそものところ、ヒトラーを出した即ち誤謬・詭弁とするのはあまりに乱暴ではないでしょうか。いや菅直人元首相の発言が連座の誤謬に該当しないと言うつもりはありません。連座の誤謬だと言い切れる自信も自分にはありませんが…。例えばナチスが抱えていた論理的誤謬と同じ誤謬を抱えていると指摘しそれが危険な帰結を導出しかねないと論証できれば連座の誤謬とまでは言えないのではないですか。話を変えて最初に挙げた例に移れば、少子化政策として子供が多い家庭を表彰するという話が出たら戦中の優良多子家庭表彰政策を持ち出し問題点を指摘する程度であれば連座の誤謬とは言えないでしょう。もしくは少子化対策に前のめりになるあまり子供が多い家庭を理想モデルにすることの危険性に注意を促す程度に留まれば個人的には問題無いようにも思います。
こうした区別の判断は「ヒトラーに例える論証」とか「ゴドウィンの法則」とか言って即座に議論を終わらせるのではなく丁寧に反証をしようとすれば、相手の主張が誤謬と言えるものかどうかが見えてきてできるものではないでしょうか。ヒトラーと言うだけで機械的にゴドウィンの法則に該当してお仕舞の世界よりは判断基準が主観的で曖昧になりますが議論とはそういうものではないでしょうか。もちろんそんなに労力をかけられないという意見は分かるのですけれども。
正直なところ、ナチスに関連できることを見つけてすぐヒトラーだと言い出す人とナチス関連の話を持ち出したのを見てすぐゴドウィンの法則だと言い出す人の思考回路は同じようなものじゃないですかね。
と匿名の人間が書いても意味がないでしょうから、権威に訴える論証(詭弁)をしましょう。何を隠そうゴドウィンの法則の発明者であるゴドウィンはオルトライトについてナチスと比較するのを奨励しています。
By all means, compare these shitheads to Nazis. Again and again. I'm with you.― Mike Godwin (@sfmnemonic) August 14, 2017
Since it was released into the wilds of the internet in 1991, Godwin’s Law (which I nowadays abbreviate to “GL”) has been frequently reduced to a blurrier notion: that whenever someone compares anything current to Nazis or Hitler it means the discussion is over, or that that person lost the argument. It’s also sometimes used (reflexively, lazily) to suggest that anyone who invokes a comparison to Nazis or Hitler has somehow “broken” the Law, and thus demonstrated their failure to grasp what made the Holocaust uniquely horrific.
[抄訳]
ゴドウィンの法則はしばしば次のようにまとめられている。ある人が現在の何かをナチスやヒトラーと比較したら議論が終わったか負けたことを意味するのだ、と。またはその人が法を『破った』とされ、ホローコーストの比類ない恐ろしさを理解できてないということを示唆するとして(反射的に、怠惰に)使われている。
反射的に(reflexively)怠惰に(lazily)という修辞句を使うゴドウィン氏の心情を慮りつつ…。いわゆるトランプ政権のゼロ・トレランス政策をヒトラーになぞらえて批判した議員がいたことについてこのように記述されます。
The response has been predictable: Debate for some people has been derailed by the trivial objection that, even if it is terrible to separate children from their parents (and sometimes lose track of them, or make it impossible for their parents contact them, or even deprive them of the comfort of human touch), it’s not as awful as what the Nazis did.
[抄訳]
「ナチスの行いを矮小化しているからこの比較は不適切だ」という反論したことはないですか?それがいつもつまらない反論でしかも議論を脱線させるような非建設的な意見かは知りませんが、この時なされたその類の反論はゴドウィンからすればここまで大上段に切り捨てられて当然のもののようです。辛辣ですね。この後、こうした時にゴドウィンの法則の名前が出てくるという話もしています。
But I do want to stress that the question of evil, understood historically, is bigger than party politics. GL is about remembering history well enough to draw parallels — sometimes with Hitler or with Nazis, sure — that are deeply considered. That matter. Sometimes those comparisons are going to be appropriate, and on those occasions GL should function less as a conversation ender and more as a conversation starter.
[抄訳]
ナチスの問題は政党政治より大きなものであることを強調したい。ゴドウィンの法則は深く考察される類似性(ヒトラーやナチスとのを含む)を描くのに十分なくらいよく歴史を記憶することに関するものだ。時にそうした比較は適切であり、その場合、ゴドウィンの法則は会話の終止符ではなく会話の第一歩となるのである。
要するにナチスが現代の政党政治と比べるべくもないヤバい奴なのは前提ではありつつも、ナチスとの比較は適切な時もあるから「ゴドウィンの法則に該当するからアウト」みたいな単純な使い方はするなよってことです。もちろんゴドウィンの法則の発明者だからと言ってゴドウィンの言うことが全てではありませんが。ただ、ヒトラーに例えることで議論が脱線し行き詰まるのを防ぐためのゴドウィンの法則という言葉が議論を脱線させる一因となるのであればミイラ取りがミイラではないですか。
ネット上では新しい概念が日夜発明されています。大抵の場合は既にある概念が再発見されて流行してるだけなんですけどね。そうするととかく流行概念に合致してると言えれば即何かしらの結論を得られるという思考に陥りがちです。しかも政治においては用語や見方という枠の解釈合戦(フレーミング)が起こるものです。しかし政治家や活動家でなければ必ずしもそういった方向に行かなくてもいいでしょう。結論と同じようにもしくはそれ以上に過程こそが議論にとって重要であるという基本に立ち返りませんか。その時、数多の概念は思考を論理的に展開する際の補助輪になってくれるはずです。そう、概念は結論に直行するものではなくあくまで思考の補助線なのだと考えた方が良いのではないでしょうか。概念に振り回されず、連座の誤謬もヒトラーに例える論証もゴドウィンの法則も上手に付き合えば落とし穴に嵌らないようにしてくれるはずですから。
あの近代五種のやつウマ娘流行ってなければそこまで大きな話題にならなかったような気がする。
良くも悪くもウマ娘の効果で、現実のお馬さんに対しての理解とか、意識が向いたのもありそう。
少なくとも国内であそこまでセイントボーイくん話題にはならんかっただろうなって— ゆかちゃん (@Aa03318566) November 5, 2021
ウマ娘のおかげで近代五種の馬の扱いが酷いと理解できた
やはり娯楽は教養に通ずる— 今井良謙 (@maymai_kaityo) August 9, 2021
ふと思うと、確かに今年の近代五種の選手による馬への態度の問題。あれ日本だとウマ娘流行ってなかったら、実態への世間の理解もっと悪かったんだろうなぁ・・・絶対俺も話聞いて、まあ選手もアレだけど馬もランダムだし選手かわいそうやなぁとか思ってたと思う、— Kitunebi960 (@Kitunebi960) November 4, 2021
近代五種の馬術の写真や動画見て「なんか変だぞ」と思えたのも、ウマ娘を見た妹が競馬に興味を持っていろいろ教えてくれたからなので、知らなかったら駄馬って意見に同意してたんだろうな…
そう考えると教養って大事だし馬を知るきっかけになったウマ娘に感謝。アニメすごく良かったです— せこ@楽しかった🗻🎸 (@metaseco1a) August 9, 2021
日本に住む全てのオタク マニア達へ
今年の衆院選で日本第一党は漫画やアニメの表現規制反対を公約にしている もし衆院選で極左政党が当選して政権交代した場合コミケが開催出来なくなる処かオタク文化が法律で全面禁止される可能性が高い。オタク文化を次世代に繋ぐ為にも絶対に投票に行ってほしい。 pic.twitter.com/wWDeQFCqh3— うめちゃん (@iuY0jx47oBZfIlO) August 26, 2021
今回桜井誠は東京15区(江東区)から出馬してるらしいけど江東区と言えば年に二回オタクが集まる場所がある区だけど(ここ二年はコロナのせいで集まってないけど)もしかしてそこも狙ってきたのかな?でも「オタクが集まる場所=オタクが住んでる場所」とは限らないような…
『文學界』2021年9月号に掲載された桜庭一樹「少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞の文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。
この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章を投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者の見解が掲載された。
この記事では総括として、両者の見解を検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭と鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリーの仕様でURLの掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。
両者の主張は、以下のように整理できるだろう。
桜庭:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。
鴻巣:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。
桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈の自由〟を奪」うことを挙げている。
一方で鴻巣は自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説の可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。
では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである。
鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品の創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である。文学の解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分が想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないのである。解釈は批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである。
鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解の文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣は見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。
繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ。私小説もフィクションだからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣が誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。
繰り返しになりますが、
「作品からの読み、想像であり、実際のテキストには書かれていないストーリーを、主観的な読みではなく実際にそう書かれていたように紹介する」
のは一線を超えていると思ったのです。
作者だからではなく、他の方の本でも同じように疑問を持ったと思います。
(この部分です) pic.twitter.com/vFmVBO6fhC— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。
この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授の日比嘉高(モデル小説研究のフロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在の人物をモデルに』と事実に立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実の事実」の問題を切り分けている。
この記事でご紹介いただいたのですが、わたしの原稿に〝介護中の虐/待〟は書かれておらず、またそのような事実もありません。わたしの書き方がわかりづらかったのかもしれず、その場合は申しわけありません。影響の大きな媒体であり、とても心配です。否定させてください。https://t.co/HdC6Cb8g7b— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 24, 2021
(強調は引用者)また今回は「自伝的随想」としてご紹介くださったこともあり、登場人物を離れ、実在の家族に言われなき誤解が降りかかることを危惧したため、わたしはこのように必死になって訂正をお願いすることになりました。それは確かに、評者の方には関わりのない事情ではありますが…(続) pic.twitter.com/8rixc3Ot4c— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭の実存にとって「現実の事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭はあくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである。飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家の動機ではなく、作家の根拠にフォーカスするべきである。この記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。
とはいえ、桜庭の見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。
今回の一件に際して、文芸時評の不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭もツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣も見解において「批評」という言葉を用いている。
だが、文芸時評は批評でしかないのだろうか? 文芸時評は英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル的特性があるのではないか?
文芸時評が新聞という巨大メディアに掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭は見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり、文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。
文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭は新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷の鳥取で一人暮らす実在の老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実の現象のレベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか?
以上の論点を踏まえて、時評担当者の見解を検討することもできるだろう。
桜庭の見解は冒頭、「私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身や夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家の藤田直哉が端的に指摘しているのでツイートを引用しよう。
「夫婦が深く愛し合っていたかどうか」を確定する根拠は、虐/待があったかどうかを確定する根拠と同じぐらい、作品のテクストにはないのではないかな。母親がそう言っている、語り手がそう推測したようだ、というところまでは書いてあるが、しかしそれが「作中の事実」かどうかはサスペンドじゃないかな— 藤田直哉@新刊『シン・エヴァンゲリオン論』河出新書 (@naoya_fujita) September 7, 2021
つまり、あらすじに書いてよいのは、「作中の事実」であるべきではないか? 今回であれば、あくまで一人の人物の視点に立って、「私の自伝的な小説『少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか。言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列がテクストに書いてあるとはいえ作中人物の「主観的解釈」なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか。
あるいは、そもそも「事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分は幸せだと信じ込みながらオンラインサロンの主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せな生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せは事実ではなく評価だからだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか?
最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。
なんどか書いているが、日本人が発見した治療薬「イベルメクチン」とネトウヨはとても相性がいい
コロナに効果、ノーベル賞・大村博士の「イベルメクチン」に期待 菅首相は治療薬探しに注力を 北里柴三郎は伝染病に苦しむ日本を救った(夕刊フジ) - Yahoo!ニュース
イベルメクチンの効果をテレビで発言した医者のもとに、脅迫状が何通も届いているらしい。おそらくワクチン教の人たちだと思うが、イベルワクチンをそこまで否定したがる気持ちがわからない。
とにかく今、日本では、少しでもコロナワクチンに否定的な意見を言うと、よくて陰謀論者、悪くて国賊扱い。— 百田尚樹 (@hyakutanaoki) August 16, 2021