はてなキーワード: 言葉にできないとは
先日、フリーランスとして手伝っていた会社が倒産した。この業界で20代後半まで活動してきて、感じることがたくさんあるので、思うままに書いてみたい。
学生時代の私は、「"死んだ目をして満員電車に乗って働く"なんて絶対嫌だ」と思っていた。いわゆる意識高い系で、海外ボランティアに参加したり、地方創生を掲げて学生ながらイベントを開催したりしていた。あの頃、周りの謎めいた大人たちを妙に尊敬していたし、なぜ社会や世界が変わらないのか、本気で嘆いていたように思う。
就活時には「スーツを着て面接なんてダサい」と反抗的な姿勢をとり、仲間とそんなスタンスを共有しながら、迫る社会への不安を分かち合っていた。
それから10年近く経ち、振り返ってみると、自分も変わったなと感じる。大学時代の自分をこうして振り返ると、つい冷笑してしまうし、同じような学生に出会うと、自分が昔嫌っていた皮肉なおじさん的な振る舞いをしていることに気づき、少し恥ずかしくなる。
あの頃の私は、卒業後も「Twitterで話題のWebエンジニアブーム」に乗り、プログラミングスクールに通い、新卒でベンチャー企業に入社して海外で働く――まさに意識高い系トレンドを突き進む、典型的なミーハーだった。今振り返ると、当時の自分が滑稽に思える。
この記事で伝えたいのは、「誰もが成功するわけではない」という、当たり前だけれど大切なことだ。学生時代の意識高い系の友人たちも、今ではその勢いを失った人が多い。ワーホリで海外をさまよう者、鬱で社会復帰が難しい者、愚痴ばかり言う者、死んだ目をして満員電車に乗って働く者――それが現実だ。
また、当時関わっていた大人たちも、学生をうまく利用したい人や、社会の第一線から退いた人が多かった。地方創生も行政にとっては「メリットのないことをやってくれる人材」を求める施策に過ぎず、学生をおだてて地方移住させる行政職員を見ると、なんとも言えない気持ちになる。
「スタートアップで上場して億万長者になる」という夢物語も簡単には実現しない。私が関わった3社も、事業整理で撤退、コロナで身売り、倒産と、どれも悲惨な結末を迎えた。資金調達の熱狂が終わり、エクイティの関係で撤退もできずゾンビのように続ける社長たちも多く見てきた。VCが学生をそそのかして起業させる光景にも、時折やりきれない思いが湧く。
「いい加減、俺にも夢を見させてくれ」と叫ぶ過去の自分と、「これが現実か」と冷静に受け止める今の自分がいる。
債権者集会で、髪が乱れ、うつむいたままの社長を見たとき、言葉にできない感情がこみ上げてきた。
そんな中、スモールビジネスブームに乗り、私はのらりくらりと会社を始めた。先日決算が終わり、売上は3000万、年収は2500万ほどになった。ミーハー意識高い系バンザイ。
ちんぽこ。その一言には、シンプルな形が持つ力とユーモアが詰まっています。ありのままでいることで感じられる自由さが、ふとした瞬間に微笑みをもたらします。
私たちの一日一日には、小さな喜びや発見がある。ちんぽこがもたらすのは、自然体でいることの美しさと、本質を楽しむこと。余分を削ぎ落とし、ただそこにあることで価値を生み出す。
ユーモアと共に、心の余裕を
ちんぽこを通じて、日常に小さなユーモアと心の余裕を。シンプルな一言が、私たちに本当に大切なことをそっと教えてくれる。
ちんぽこ。そのユニークさには、言葉にできない魅力があります。それは単なる一言以上の、笑顔やリラックスを引き出す小さな魔法。何気ない日常に、そっと光を差し込む存在。
ちんぽこが伝えるメッセージはシンプル。「自然体であることの価値」を忘れないことです。余計な装飾をせず、ただそのままでいられる。そんな純粋な美しさが、私たちの日常を少しだけ輝かせてくれます。
以前から傾向はあったと思うけど、例の氷河期世代と統計のやつに対してブクマカの肌感覚で対抗しようとするのは決定的だと思った
既に氷河期世代という主張がうざがられているのに、統計に対して俺は違う!なんて言われても本格的にうざいだけで誰が話を聞こうとするのだろうか
氷河期世代とは就職氷河期世代だけど、その頃からリクナビやエントリーシートが重用されはじめ、年を経る事に洗練されていき、現在の新卒は就職面接で上手くアピールができるようになっている
ガクチカなんて就職氷河期世代の時にもあったけれど、ガクチカから何を活かせるのか何ができるかをアピールできるようになっている
対して、未だに氷河期世代にこだわっているのはそれができない
氷河期世代としてどうやって生き延びて、それを次に目指すキャリアにどのように活かそうとしているのかアピールすればいいのに言葉にできない
出てくる言葉は、ただ恨みつらみ
その言葉を統計で否定されても統計で返すことができない、統計ではなく肌感覚の同じ言葉を繰り返すだけ
アピールしたいのであれば統計を受け入れて統計を使うべきだし、アピールではないのなら世代全体がうざがられることを受け入れて同世代の足を引っ張ればいい
森から帰ってきたのは、ちょうど夕方の薄暗い時間だった。狐と別れてから、ぼくはゆっくりと森の小道を歩いた。足元に広がる枯葉が、かすかな音を立てて踏みしめられる。その音だけが、ぼくを現実に引き戻しているようだった。
狐は、何も多くは語らなかった。彼がそういう性格なのか、あるいはぼくに対して何かを残す必要がないと判断したのかは分からない。けれど、その存在感は、ぼくにしっかりとした印象を残していた。何かを伝えようとするでもなく、ただそこにいるだけで、彼はぼくに何かを気づかせたように思う。狐は何か特別なものを持っている。言葉にできない、何か曖昧で、それでいて確かなもの。
自宅に戻り、靴を脱いでリビングの椅子に腰掛けた。窓の外はすっかり暗くなり、街の明かりが遠くにぼんやりと見える。ぼくはそのままじっと座って、何も考えずに過ごそうとした。でも、狐とのやり取りが頭の中で繰り返し再生されていた。ぼくが口にしてきた「キモい」という言葉について、それまで深く考えたことはなかった。軽い気持ちで使っていたその一言が、どうしてこんなにも気にかかるのだろう。
狐が言っていたこと――言葉には影がある。言葉は、何もないところに波紋を広げる。その言葉がどこかへ消えてしまうわけではなく、むしろ誰かの心に、そしてぼく自身の心に残り続けるのだと。ぼくは自分が「キモい」と口にするたびに、その言葉が心にどんな形で残っているのか、思いも寄らなかった。簡単な、ただの一言だと思っていた。でも、考えてみるとその一言には確かに何かがあった。ぼくは無意識に、それを繰り返し使うことで、世界の複雑さを避けようとしていたのかもしれない。
ぼくはいつも、何かに違和感を感じたり、不快に思ったりすると、すぐに「キモい」と言ってしまっていた。その言葉は、ぼくにとって簡単で便利だった。まるで、疑問や不安を瞬時に整理できるツールのように。でも、その簡単さが問題なんだろう。ぼくは狐が言っていた通り、「キモい」という言葉を使うことで、その感情を一瞬で片付けてしまっていた。感情の裏にあるものを見ようとせず、そのまま蓋をしてしまうように。
ぼくは窓の外に視線を向けた。暗い空に、小さな星がちらちらと見える。自分の心の中にも、同じような暗闇が広がっているのだろうか。そこに、今まで気づかなかった何かが潜んでいるような気がした。狐が言った通り、ぼくは「キモい」という言葉に頼りすぎていたのかもしれない。言葉が、ぼくの心を少しずつ染めていって、気づかないうちにぼく自身がその影に囚われていた。
どうしてそんな風に思うようになったのか。狐がぼくに問いかけたように、ぼく自身も問い直す必要があった。ぼくが「キモい」と感じるその瞬間、本当に何を感じているのか。その裏に何があるのかを、もっとじっくりと見つめなければならない。表面的な違和感や不快感だけでなく、そのもっと深いところで何が自分の心を揺さぶっているのかを、ぼくはまだ知らなかった。
「言葉には影がある」と、狐は言った。ぼくが使っているその言葉が、ぼく自身の心にどんな影を落としているのか。それをこれまで、ぼくは意識してこなかった。もしかしたら、ぼくはその影を避けてきたのかもしれない。言葉は便利で、使い方次第で色んなものを切り捨てたり整理したりできる。でも、その一言一言がどれだけの力を持っているかは、ぼく自身がもっと意識しなければならない。
ぼくはふと、狐の姿を思い出した。彼は何も強制しなかった。ただ、静かにぼくの隣を歩きながら、ぼくが自分自身で気づくように導いてくれた。彼の言葉が、まるでぼくの心の中に投げ込まれた小石のように、波紋を作り始めているのを感じた。ぼくはその波紋を追いかける必要があるだろう。それは時間がかかるかもしれないが、必要なことだ。
「キモい」という言葉に頼らない世界。ぼくの感情をもっと豊かに表現できる言葉を見つけること。それが、ぼくの心の影を少しずつ薄くしていくのかもしれない。
anond:20240914232747 を見て、特に目的もないけど今までで記憶に残っているご飯の話をしたくなった!
本当に美味しいご飯食べると、その時のいろんな記憶と紐づいて残るよね。
何回か行ったけど、一番最初はコロナ禍の始まり、レストランが一斉に閉まる前日に初めて行った。店員が困ったように笑いながら、「今日は誰も客がいないんです」と言っていたのが印象に残っている。
多分アミューズだったと思うんだけど、細かく刻んだ野菜をベースにサーモンか何かを合わせた小鉢みたいなやつ。トラバ元にも記憶を呼び覚ます味、とあったけど、行ったことのない秋祭りの味がした。上手く言えないけど、
肉は和牛で美味いはうまかったけど、歳をとってきたのもあってちょっと重かったな。
あとデザート。見た目は小石。本当に。で中身がアイスで、これがメロンっぽい風味で本当に爽やかな味。夏の高原を吹き抜ける風みたいだった。
バンコクでは色々行ったけど、実はここが一番好きかも。
何年か前に知り合いと一緒に行ったところ、こないだ再訪して改めて感じたのでメモ。
季節の料理とか、今の時期だと松茸の土瓶蒸しを一生飲んでられる、とかはあるんだけど、何より白米が異常においしかった。最後に出てくるから既にお腹いっぱいなのに、気づいたらお代わりしてしまっている。
普段そんなにお米食べないので自分の経験値が低いだけかもしれないけど、白ごはん部門では今まででダントツでおいしかった。お米の粒が立ってて、一粒一粒の主張がある。で食べると、甘み?旨み?のようなのが口の中に広がって長い余韻を残してくれる。
お米がいいのか、炊き方がいいのか、よくわからないけど他では味わったことのない美味しさだった。
もう店を閉めちゃったみたいだけど、たまたま近所にあったので行ってみたところ。近場のおしゃれそうな店、くらいなイメージだったけど、すごくいいお店だった。
何となく高級なお店って繊細な味を楽しむイメージがあったけど、繊細な味はありつつ味は割とガッツリしていて、でも決して下品ではない。
オマール海老、ホロホロ鳥、ガッツリ牛フィレ、色々食べさせてもらったけども何年経っても味を思い出せる。先ほどのフレンチと違って、情景が浮かぶんじゃなくて脳に直接来る感じで本当においしかった。例えばオマール海老に割とガッツリニンニクを効かせているのだけど、それが勝ちすぎず、海老の旨みとギリギリのところでバランスをとっていて、、、という感じで、上手く言葉にできないな…
あと、一度直前に風邪気味になってしまった時があって、それを言ったら黒ニンニクのグラニテを出してくれて、食べたら本当に綺麗さっぱり風邪が治ったことがあった。まぁたまたまなのかもしれないけど、本当に美味いものって何かそういう魔力があるんだなーと思った出来事だった。
私は特急列車や普通車のグリーン席に座って、車窓の景色を眺めることが何よりも好きだ。
あの、時間の流れに合わせて変わりゆく景色の広がりには、言葉にできないほどの魅力が詰まっている。
列車が進むにつれて、都会のビル群から緑豊かな田園風景、さらには雄大な山々へと変化していく様子を、何度も何度も目にしてきた。
それでも、毎回新鮮な気持ちになる。
さらに、私は紙の地図を広げながら、その車窓から見える地域の情報を掘り下げていくのが好きだ。
電子地図は便利だが、どうも表示範囲が限られていて、全体像を把握するには少し物足りなさを感じてしまう。
紙の地図だと、自分が今どこにいるのか、その周囲にはどんな土地が広がっているのか、もっと立体的に感じることができる。
そして、その地域の歴史や文化、地形に思いを馳せながら、車窓に広がる光景を眺めるのが私にとっての至福の時間だ。
何度も同じ路線を乗っているはずなのに、毎回、どこか新しい発見をしている自分に気づくのだ。
「ああ、こんな景色あったかな?」「ここ、前にも通ったはずなのに、なんか見覚えがないな」と、どこかで新鮮な感覚を覚える。
地図を眺めていても同じで、すでに知っている情報のはずなのに、「あれ、こんな地名あったっけ?」と、何度も驚かされる。
まるで車窓や地図が、毎回新しい物語を私に語りかけてくるかのような気持ちになる。
こんな感覚が続くと、私は一体どれだけの情報を本当に理解できているのか、不安になることもある。
いくら眺めて、地図と照らし合わせても、全てを把握するには限界があるのではないかという気持ちが湧き上がってくる。
そこで、私は生成AIの力を借りてみたいと考えるようになったのだ。
私の頭の中にある限られた知識や認識では、どうしても取りこぼしてしまう情報がある。
だから、生成AIに車窓の画像や地図のデータを取り込んで、私が気づかなかったことを教えてもらいたい。
そして、その地域の全てを知り尽くすことができたなら、もっと深い感動を得られるのではないかと思うのだ。
私はこの車窓から見える景色の全てを、本当に全て知りたいと思っている。
もし、その知識や感動が私の中だけに留まるのではなく、他の人々にも伝えることができたら、どんなに素晴らしいことだろうと思うからだ。
列車に乗ったことのない人にも、この風景の素晴らしさを共有したい。
これまで、私は車窓の美しさやそこから得た情報を、どうにも上手く他人に伝えられなかった。それがもどかしかったのだ。
しかし、生成AIを活用すれば、そのもどかしさを解消できるかもしれない。
私はAIの力を借りて、豊富な景色とその意味を言葉で芳醇に表現し、他者に伝えることができるようになるのではないかと期待している。
我が家は、6歳の長男も4歳の次男も自閉症で中度知的障害という診断を受けた。
薄々気づいてはいたけど、感慨深い。
おかげでというのは変な話だけど、意外かもしれないが、我が家の家計は余裕がある。障害者福祉のための給付金もあるし、どこにも外食しない、どこにも旅行しないとお金が貯まる。もともと蓄えてたのもあり、かなり貯蓄がある。
子供は今はまだ保育園だけど、この先は全部公立、高校まで無料、二十歳からは障害年金。お金の心配はない。いいグループホームに入れるかだけが心配だ。
本人名義の資産は残さないほうがいいらしい。生活保護のほか、いろんな制度の網から漏れてしまうだけだそう。
長生きして、できるだけ寄り添ってあげることしかできない。仕事へのモチベーションもなくなった。もう、稼ぐ必要ないんだなと。出世なんかより、早く帰って一緒の時間を共有することが大事なのだ。あと少しで特別児童扶養手当の所得制限にもかかるし。この後数年働いて、50代手前で、あと取り崩しながら早めの余生にするのだと思う。
日頃から早期リタイヤしたいといい続けたものの、今となっては、中学受験で金がないとか、子供が留学したいと言ってどうしようとか、子供を医学部に入れたいけど金がなくてとか、そういう話が羨ましい。私も、ああいうのバカにしてるフリをして憧れてたんだなぁ。
でも、それでも、やっぱり言葉にできない思いはたくさんある。
嘘でしょ?
有り無し判定の時に「ありよりの森有礼」とか言わないってこと?
溌剌な時は「元気モリモリ森鴎外」って思わないの?
皆本当は思ってるんでしょ?
そうだよね?
コメントありがとう!皆わざわざ言葉にしないだけで沢山考えてくれてるみたいで増田は嬉しいよ、仲間がこんなにいっぱいだよ
ちなみにこんな感じで生きてるので昔両親が喧嘩してた時は「あいつら多忙 俺たちゃ無謀 平穏な願望」って歌ってたよ ちなみに基本仲良ぴだから大丈夫よ
増田はこんな感じで「音」とか「意味」が少し、もしくはぴたっとハマる感覚が好きで、ラップの韻を踏んだりダジャレだったりが好きだよ。Creepy Nutsの助演男優賞なんか凄いと思う。
例えばさ、和歌なんかもそうだと思うのね。掛詞ってあるじゃない。「眺め」と「長め」がかかってたりするじゃない。ああいう「音」は同じで意味は違うもの、その狭間に対して私達ってワクワクしたり言葉にできない感情を委ねたりできるじゃない。あれって凄く良いと思うの。
ありよりのありと森有礼の距離遠いけどちょっと繋げたらなんかエモいじゃん?
リロ氏
とかいう妙に大げさな動作で飯を作って食べる人の動画がXでたまに流れてきて
その度にいつも、これ怪我しそうだな、いつか火事になりそうだな、という感情とは別に
別に誰が攻撃されているわけでもなく、ただ飯を作って食べているだけなのに、どうして嫌悪感を覚えるのか不思議だった
すると、こないだテレビの映像で昔の子供たちの姿が流れる場面が出てきて
そこで小学校低学年ぐらいの男の子がしゅ!しゅしゅ!と言いながら頭を色んな角度に捻りながら腕や足をピン!とさせてロボットダンス?的な動きをしていた
多分何かの特撮ドラマかアニメに出てくるキャラクターのモノマネで、そう言えば子供ってああいう動きするよなぁ、頭はカメラの視点を自分の目で再現する為にああやって動かしてるのかなぁ
そうか、俺が感じていた嫌悪感は多分、大人が子供と同じ動きをしている事の不気味さやそのアンバランスさに対しての物だったんだな
少し気になって調べてみると、どうやら俺以外にも似たような理由でリロ氏の事が嫌いな人は多いようだった
こういうの嫌いな人って多いんだな
アル中カラカラの人はこの人と似てるようで似てないのか、汚らしくはあるけど俺にとっては全然不快じゃないんだよな、なんでなんだろうな
そんなどうでもいい話
元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるかに攻撃的な印象を受けるし不快だ。
元増田は夫との暮らしに基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキはちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち、不安を綴ってみたに過ぎない。
あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分の気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。
確かに世の中には、言及対象を一義的に明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療や軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネスや科学の領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任の所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。
しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーションは井戸端会議とか時候の挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さないものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学・軍事・医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。
この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要な位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。
そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年と人類はやってきたのだから、一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。
人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。
元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか、表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。
ズバリ一言で言えてしまうような簡単なことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。
しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。
そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。
不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田は元増田を個人的に攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険な人物だということになりはしないか。
元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるかに攻撃的な印象を受けるし不快だ。
元増田は夫との暮らしに基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキはちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち、不安を綴ってみたに過ぎない。
あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分の気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。
確かに世の中には、言及対象を一義的に明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療や軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネスや科学の領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任の所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。
しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーションは井戸端会議とか時候の挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さないものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学・軍事・医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。
この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要な位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。
そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年と人類はやってきたのだから、一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。
人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。
元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか、表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。
ズバリ一言で言えてしまうような簡単なことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。
しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。
そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。
不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田は元増田を個人的に攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険な人物だということになりはしないか。
元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるかに攻撃的な印象を受けるし不快だ。
元増田は夫との暮らしに基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキはちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち、不安を綴ってみたに過ぎない。
あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分の気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。
確かに世の中には、言及対象を一義的に明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療や軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネスや科学の領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任の所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。
しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーションは井戸端会議とか時候の挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さないものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学・軍事・医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。
この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要な位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。
そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年と人類はやってきたのだから、一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。
人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。
元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか、表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。
ズバリ一言で言えてしまうような簡単なことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。
しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。
そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。
不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田は元増田を個人的に攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険な人物だということになりはしないか。
6/1に投稿した告白の返事をさせてくれない男について、動きがあったので備忘録として残す。
性別に関わらず、マッチングアプリをやってみようか頭の片隅でちらちらと考えている人には反面教師になるかも。よくあるマッチングアプリでの出来事だとしたら、この世はすれ違いだらけだ。
前回↓
https://anond.hatelabo.jp/20240601191347
自分語りの備忘録として文章が長いので、日曜日に暇をしている人には暇つぶしにはなるかもしれない。
前回の未読の始まりは、相手の体調不良からだった。2回目のデート時に体調が悪そうで、その後体調を崩したらしい。とても心配したが、体調不良であれば携帯を頻繁に触ることはできないだろうと思っていた。告白の返事をしようとして遮られた際に「ゆっくり仲良くなろう」とも言われていたので、相手を待つことにした。
しかし数日後、「返信ができてなくてごめん。ゆっくり仲良くなりたいって自分からお願いしたのに、やっぱり不安で仕方なくて。どう返信するかいつも考えすぎちゃって返信がなかなかできない」とLINEが来た。それはそうだ。私は恋愛目的でマッチングアプリをしているので、いつ他に目移りするかなんて相手には分からないのだ。マッチングアプリをするのが初めてらしい相手を不安にさせないために、告白をしてもらって保留にした時点で私は「他の人とはマッチングしないで○○さん(相手)にだけ向き合うね」と言って実践してはいたものの、相手からしたら私のアプリのアカウントを覗き見れるわけでもないので何も分からない。
ここで「不安にさせないようにしなきゃ!」と思ったのが、すれ違いの始まりだった。
私自身、マッチングアプリを1年前に始め、この人を含めて6人と会ってきた。その中で1人と付き合い、その期間はアプリを退会し、別れた後にまた始めた。
やはりマッチングアプリは自然恋愛よりも不安な点がいくつもあると思うが(安全面的にも)、「この人は出会いを求めていて、他に良い人がいたらそっちにいってしまうかもしれない」という拭いきれない恐怖感があるのだ。だからと言って簡単に会う人を同時進行するほどの心のキャパもなく、1人に絞ってこの恐怖と戦わなければならないのを私は知っていた。
そしておそらく、今回の相手はそれなりに私の性格に近いと思った。そのため、どうしたら相手を不安にさせないで済むかを考えた。
「おはよう!体調は良くなってきた?お仕事無理しないでがんばってね!」といった本気の心配や、自分の近況を1〜3行くらいで送った。あとは、2人で行こうと言っていた場所に関するYouTubeの動画のリンクを共有した。しかし既読がつかないので、2日に1度くらいにした。忙しいとは言っていたが、そこまでなのか。向こうがアプリにログインしているのはいいね数の上がり具合で大体把握しているので、雑なキープならしんどいと思い始めた。返信が来るのは2〜3日に1度だった。
元々、告白の返事は直接会ってしたいと思っていた。目の前でアプリを退会してほしいし、自分もそうしたいと考えていたからだ。しかし、相手の体調不良や未読期間によるラリーの遅さでスケジュール確認が進まなかったことなどで次に会う予定が全然決まらない。相手がバレーボールの社会人サークルに入っていて毎週土日のどちらか、もしくは土日の両方練習や試合があるので、平日に会おうと言っていたもののスケジュールの確認が遅すぎて(しかも空いていない)、とりあえず6月はなしになる。相手が社会人1年目で研修があり、6月で終わるので会うのは7月以降と言われた。その上、研修後3ヶ月以内に受からなければならない資格試験があるため、しばらくは忙しいとも言われる。
このまま行くと9月までこんな調子かもしれない。さすがにそこまで待って「やっぱり無理です」ってなったらお互い時間の大損だし、私もそこまでずっとキープするのは申し訳なくてメンタルが持たなそうだった。私は考えに考え、せめて電話で返事をしたいと思って電話ができないかLINEしたが未読。忙しいなら仕方がない。
しかし、初めて1週間未読になり、私はフェードアウトを疑った。でもそれにしてはインスタ繋がったままだしな……と引っかかる。LINEもアプリもブロックされていない。
こんな状態で雑談LINEを送り続けても変化はないと悟る。現状、私が相手をキープしてしまっているのが私には耐えられなかった。ゆっくり仲良くなりたいと言うわりにはそれが伝わってこない。そして、私は彼との約束を律儀に守っていたので、他の人ともマッチングせずにただただ待っている。あまりに時間の無駄であった。
そこで、「私が告白の返事をすれば終わりなのでは?」と思い、仕方なくLINEの文面でポジティブな返事をした。
さすがに告白の返事をしたらLINEが返ってくるだろうと思ったが、返ってこない。相手のトーク一覧の私のところには10近くの未読バッジがあるのではないだろうか。忙しいにしては私と最初に会った時よりもいいねが100も増えているので、アプリを頑張っているのは残念ながら分かる。この時にはもうすでに会わなくなってから4週間近くが経過していたのだが、6月の研修が終わるまでは待とうと思った。だんだん、どちらが待っている立場なのか分からなくなってきた。
告白の返事をして5日が経過した頃、ちょうど彼の研修の最終日の前日となった。私はあまり迷惑なことはしたくないので今までしてこなかったが、これは「いつ電話できる?」と今までのように聞かず、「いついつに電話するから!無理だったら先に言って!」くらい強く出てもいいのかもしれないと思い、そんな感じで翌日の夜(研修最終日の夜)を指定した。相手はリモートワークなので研修最終日に飲み会があることもなさそうだったからだ。
しかし、未読。20分前になっても未読。本当にかけるぞ?と思いながら、私は仕事終わりの電車でもやもやとしていた。ようやく約束の5分前、もうすぐ最寄り駅に着くといった頃に、「ずっと連絡を返してないのに直前にごめんなさい。帰宅途中だから電話には出られません」と来た(※23:15頃である)
あなたも外に行ってたんかい!最初から分かってたなら返信せい!とも思ったが、その後私は駅でトラブルに巻き込まれてそれどころではなくなったので「明日以降にかけるね」とその日は終わった。
翌日も昼に同じ方式を取って電話をかけたが出ず、「まあマチアプアポでもしてるんかな」と若干申し訳なさがあった。ちなみにバレーボールの予定はない(サークルのHPの練習日程にその日は含まれていなかった)
しかし数分後、「ずっと返信していなくてごめんなさい。▲▲さん(私)に告白を一旦保留されてからマチアプ大学や知恵袋を見て、マッチングアプリや恋愛について調べてみたんだよね。まずは友達になるのが良いって書いてあったから友達として仲良くしたいと思ったけど、アプリの安全性も考えたら不安になっちゃった。▲▲さん(私)との熱量の違いもあって、今後の進展はないと思ったら連絡できなかった。言葉にできないままでいてごめん」とLINEが来た。
一気に力が抜ける私。
熱量の違いといえば、
私→恋愛的にはまだ相手を好きではないけど良い人だとは思っているから付き合ってもいいけど告白の返事をする機会がなく、キープするのがしんどい。その上、相手が「ゆっくり仲良くなりたい」と言うのに「不安」だとも言うから不安にさせないために追いLINEをしたり、通話や会う機会をうかがっていた。特に、初回デート時の告白が上手くいくと思った相手が勝手に8月頭の旅行プランを立てて宿を予約していたため、なんとしてでもそれまでに付き合わなきゃと私は焦っていた
相手→良い人だと思って好きになって勢いで告白したはいいものの、マッチングアプリには危険なこともあるから簡単に付き合うのは危ないかもしれない。ネットに書いてあったしまずは"友達として"仲良くしたいけど、やっぱり「不安」が拭いきれない。それなのに相手は付き合おうとして連絡してきて温度差を感じる
……ということだったと発覚した。いやいや、そんなこと……本当に言ってる……?
私は見る目のなさに自分が情けなくなった。初回デート時に勢いで告白してきた&実は旅行の予約もしているとカミングアウトされたことを周りに言ったら、全員「その人はやめた方がいい」と言っていたのに。
それから私は、すれ違っていたことを相手に伝えた。二度と相手が同じことをしないように。ただのヤリモクならとっくのとうに切っていたけど、おそらく相手はそうではなかったから、今後上手くいくように最後におせっかいをしてしまった。
そして、相手を待たせるのは相手の時間を奪うことと同義だと伝えた。告白の返事を遮られても1ヶ月も待ってくれる人はいない、と。それに、マッチングアプリで知り合ってもし正直に「友達からお願いします!」と言ったとして、それに応えてくれるのはおそらくヤリモクだろう。だが、「友達から始めたいならこの先難航するだろうけど、もし応えてくれる人がいたらめちゃくちゃ良い人だろうからスケジュール管理と報連相をしっかりして誠実に対応してあげてね」と背中を押して、いつかマッチングアプリの難しさに自身で気付いて欲しいという意味を込めた。
そして前日に急遽変更されたアプリのプロフィールについて、身長を盛っていたところだけ指摘した。私は相手の身長が自分より低かったとしても気にしないタイプだが(私自身は平均身長)、世の中の女性は気にする人の方が多いので167cmと170cmの3cmは印象的に大きく変わるらしい。これからマッチングアプリをやってみようという方は正直に書いた方がいい。あとからバレると怒られる可能性がある。
そのほかにも色々言いたいことがあったが、「私は恋愛目的で将来を見据えて真剣にアプリやってたから、○○さん(相手)とは合わないかもしれないのでお付き合いするのはごめんなさい」と告げ、なぜか友達になった。さすがに甘すぎるだろうか?
マッチングアプリはブロックされたが(友人のアカウントから見たらいたので退会していないのは確認済み)、LINEとインスタは繋がったままである。仕方ない、アプリの進捗くらいは聞いてあげよう……。
・連絡不精はすれ違いの元
・たしかにマッチングアプリには危険があるので、やるならやるで慎重にしつつ腹をくくれ
・ネットの情報を鵜呑みにするだけでなく相手のことも見る。見られないなら今は精神的余裕がないのだろうから、一旦アプリはやらない方がいい
・真剣に彼女が欲しいなら会う時間を確保してからマッチングアプリを始めろ。確保できないなら相手にも迷惑だからやるな
・「友達として仲良くしていたら自然に付き合える」はいわゆる自然恋愛のことであって、マッチングアプリは適用外だと思った方がいい
・友達として仲良くなってくれそうな人の8割は友達(セフレ)だと思うので、文字どおりの友達を作りたいならマッチングアプリは向かない
・マッチングアプリは同時進行が当たり前なので、相手の言葉を信じて待たず、どんどん他の人と会うべき
・いくら旅行の約束をしていたとしても予約したのは向こうだし入金したのも向こうなので、1〜2週間も未読無視するような不誠実な態度を取られたら切っていい
・そもそも付き合ってもないのに「付き合えるかも!」と舞い上がって旅行の予約を勝手にするような距離感のバグった人のことはかわいそうと思わずにとっとと切るべきだった
セックスしたくない理由を隠したいというより、恥ずかしくて、あるいは増田を傷付けたくなくて、どうしても言葉にできない、という印象を受ける。
思いつく限りの要因を挙げてチェックリストを作って、当てはまるものにチェックしてもらったら?
「口が臭い、痛い、怖い、疲れる、性的な行為をすることに嫌悪感がある、増田に嫌悪感がある、キスが嫌、性器に触れられるのが嫌、他人に触られるのが嫌」とかとか。
拒否の原因の方向性が分かれば、少なくとも今後無駄な心配をする必要はなくなる。
仲の良い夫婦みたいだから、奥さんの方も増田の心を苦しめるのは本意ではないんじゃないかな。
妻のために耐える態度は立派だけど、期待しないようにしているうちに、愛情すらだんだん冷えていってしまうと思う。
日本語学習者を支援するボランティアの講習会(全3回、1回でも休むと参加資格なし)(3回しかないけど)に参加した。
特に資格は持ってないけど、外国人との交流が好きだったし、日本語を学ぶ人を通して私も学べることがあるはず!と思って、引っ越したばかりで娘の保育園も決まってないけど、義母や義姉に見てもらって、時間を作って行ってきた。
2回目までは楽しかった。資格がある教師と資格がない支援ボランティアとの違いを学んだり、「やさしい日本語」を使って実際に外国人と話したり…ディスカッションでアイデアを練ったり、「資格がなくてもあなたの気持ちがあれば日本語を教えられる!」という言葉で、資格がない私でもできるかも!って思った。誰でもできるっていう言葉を信じてワクワクしてた。
ボランティア団体の紹介をしてもらえたんだけど、だいたいどこのボランティアも参加するのに年会費が必要と。えっ、ボランティアって無償の施しだとは思っていたけど、むしろこちらが費用を負担するの?しかも高いところで年に7000円?ちなみに支援を受ける側の費用の負担は無い。えっ、無いの?あなたたちの使う会場やテキスト、その他諸々の費用も私たちが負担するってことなの?
様々なバックグラウンドの人が平等に勉強する場を設けたいというのはわかる。それに対してお金のかからないボランティアを募るというのもわかる。でも、自ら来日してきた人に対してマンツーマンで教えてあげる上にこちらが費用も負担って…それって私たちがしてあげる必要ある?
さらにはここへきて、日本語教育に関しての資格などがないと厳しいと。興味ある人はブースへお立ち寄りくださいって言われて、のこのこ行ったら無資格の方は必要ないかな…みたいな顔されて、恥ずかしかったわ。交通費かけて行って3時間みっちり講習を受けて、最後の最後で、資格がない人はちょっと…みたいな、酷くない?2回までの「気持ちでなんとかなる」みたいな講習、なんだったの。
費用も負担してくれる有資格者のボランティアを募集って、多くを求めすぎでは?
ボランティアをしたことがないんだけど、そういうものなのかな。
誰かの助けになりたくて、周りに協力してもらって子供預けて参加して、これから活動するなら定期的に見てもらえるところ探さなきゃなー!とかワクワクしてたのにな。
まあどれもこれも参加しなかったらいいだけど話なんだけど。そういう慈善活動は余裕がある人とか、誰かに施したいやりたい人がやればいいし。それはわかってるんだけど。
折角、頑張って参加したのにな。うまく言葉にできないけど、全部、蔑ろにされて無駄になった気分、なんだか泣ける。
これ、本当にそうだと思った!
「一部の婚活女性が素敵な男性にすぐ振られるのは○○のせいかもしれないという話について」(大西明美、2024/05/24)
https://youtu.be/OlC-mmcpJfk?si=JlvEGtW5Wo8-Z_0W
自分は男で成婚退会した身だけど、
何かしたことに対してまともにお礼を言えない女性は本当に多かった。
体感、半分以上がそうだと思う。
だから、男性も女性も結婚できる上位層しか成婚できない、そんな感じだと思ってる。
地域によるけどマチアプと比較すると、結婚相談所は男性優位の場なので、
マチアプで勘違いした女性とか、過去にモテたつもりの女性(しかし放流されて独り身である現実)が
同じノリで婚活していると、ただの臭い人物にしかならないんだよな。
子育て大変やろな、小さいと余計大変だよな、って思って、今も思ってるけど
だから仕事とか協力したし、話ってか愚痴みたいなのも子ども自慢も聞いてさ、でもなんかうまく言葉にできない違和感を覚えてたんだけど、
子持ち女性のこの話、ただの奴隷の鎖自慢だなって気づいちゃったんだわ
共同親権の話題で結婚それ自体が今の日本じゃ男性配偶者の奴隷になりやすい状況だろとか、色々その周りの話聞いてたら
夫を手のひらで転がす妻(笑)
母は強し!
みたいな、状況に酔ってる発言がキツくなってきた。
子どもの存在の否定は虐待に通じるから決してそちらに足を踏み入れないために、状況に陶酔して悲劇のヒロイン的な感覚に入ってて自分の大変さアピール、不幸自慢合戦…
大変だと思うよ、これからも手伝えることは手伝いたいよ。
でもなんか心が冷めてきた。
「子どもがいない人生だって選択の一つ」ってフォローしてるような予防線ようなもの張りながら、それでも「自分は結婚して子どもを持ってて最高な気分だから、子どものいる人生ほど有意義で最高なものはない…あっ子ども持たないのも選択の一つだけどね?」みたいな調子の話をずっとされて、こうやってマウントとっていかないと無理なんだろうな、夫の経済力とかなしで自力で生きていけないことも、この人にとってすごいコンプレックスで必死にいまの自分を肯定するために独身や子なしを下げないといけないんだなって。
子持ちの人、みんな予防線張った上で必死に子どもを産んだ自分の人生は最高だし間違ってないと聞いてもないのに伝えてくる
もうそれが答えなんだなって思った。