はてなキーワード: 禅問答とは
まあ、手元に届いた段階で、iフィルターを含むもろもろのアプリをプレインストールされているので添付のマニュアルと開通作業の実態が違ってるんで、
これなあ、、、iフィルターはプレインストールしちゃったらダメだわ。
こいつのおかげでwifiがつながらない。ネットに繋がらないと、開通するためのプロファイルがダウンロードできない。
ヘルプを見ると、iフィルターの初期パスワードは親権者に通知される、なんてもっともらしいことを書いているが、実はこれ開通しないと届かないんだよ。
iフィルターの初期パスワードがわからないと開通できないだろ、、、開通しないと通知されない、、、禅問答か?
どうも、解決策は
アラフォーなんだけどコロナ前辺りから、邦楽の新譜を全然聞かなくなったのに気づいて今年はじめからサブスクでガンガン聞いて楽しかったのでここに残しとく。
だいたい2020前後から直近の曲までビビッと来たものの感想と昔の曲を添えて。あ、下記は全部自分が好きになった曲になります。リピ確定な。
・mabataki / Vaundy
むぉしきみぃぐあー、好き。テンポを早くしたCreep(レディオヘッド)。コード進行もほぼ同じ(厳密だと3小節目がsus4)。
Vaundyの別曲、踊り子って曲も同じような進行。ばらの花(くるり)感があるのはストリングス8分刻みのスタッカートのせいかもかも。
サビ4小節目の転調すばらしい(0:56あたり)。大サビ(2:39あたり)のメロがきれいに一旦終了してカタルシス。
AメロのGlitch Hopリズムや雰囲気はCloser / Lemaitreをめっちゃ意識してると思う!(当たって!)
ヒゲダンのコード進行のキレイさってKANっぽくて整理されてて文句言えない隙がない。ヒゲダンの息子だったら生きにくいよな。
・The Diamond Four / ももいろクローバーZ
ももクロはココ☆ナツと走れが好きなんだけど、このラップも好き。
ファンキートラックはリップスライムのFUNKASTICを思い出す。
・the Moment / Ryohu(呂布カルマではない)
Harfby味あるゴスペルサンプリングをベーシックにしたトラックに何言ってるかわかんねえけどカッコいいラップ曲。
増田がゴスペル好きだったので。appleのCMに使われてた思われるんだわ。
アコギのリズム・ギターとタム回しがきもちい。Aメロ終わりのコードD♭が予定調和崩壊のキモ。
声質はとにかく今旬の量産型だけど女の子の歌がYUIの歌をR&B風にした感じと男女で歌ってるのが好き。
・DOGLAND / PEOPLE1
サビで爆発&マリリン・マンソン(デスメタ)ぽいダーク感。ぬーさん(king gnu)風味もある。
ヴィジュアル系追っかけゴスバンギャに大人気!(おらバチボコしたんぞダウナー系女子に大人気!)
こういう三連符メロ&リズムは今の主流だと思うけど、水戸黄門テーマソング「あゝ人生に涙あり」のタンタタタタン、
コード進行がD♭M7 →EM7 →B♭m/E♭ この3コードだけ(アウトロは変わる)なのでシンプル。
アウトロはサンダーキャットぽい動くベースがキモい、いや気持ちいい。この質感は音楽のモンクレールや!
Youtubeでよく聞くLo-fi hip hopサウンドを表現しつつ自らのファン層に「やっぱりおしゃれなんです、僕」をちゃんと伝えてて好き。
こういう打ち込みはDJ Mitsu the beats(gagle)が心地いいので良かったらぜひ。
声質のせいか星野源の歌ってメロディーが聞こえにくい曲が多いんだけどこれはよく聞こえる。そうそう、喜劇はまさに星野源やないかーい。
・ただ君に晴れ / ヨルシカ
令和夜シリーズ(YOASOBI ずとまよ)の一角ヨルシカ。ゆるく歪ませたサウンドとペンタトニック地獄、最近には珍しくギターソロがある、うまい。
ギターヒーローはまだ死んでなかった。良かった、太陽がまた輝くとき 矢を射るよ。
サビ4小節目のディミニッシュコードがオサレ&エモでキュン死。ジャケもムチムチ死。
1サビ終わり(1:10~)からギターでいとしのレイラ/クラプトンを弾いている。私より先に弾くとわ気に食わないけど愛しい。
・踊 / ado
最近の曲、"唄"はいいんだけど"踊"より大衆に迎合した感があってウルトラソウル透。
どどどど(1:43)が好き。
トラックはダブステップ〜ラテン〜しゅわしゅわハウス〜みたいに飽きのこないアレンジ。
・ビビデバ / 星街すいせい
Vの事は何も知らんがadoライクの唄&音。PVも面白い。トラックの中でずっと117時報が鳴ってて□□□の00:00:00を思い出した。
ひとつだけ残念なのはトラックがプロいので完成されていて予定調和なところ。でもPVがかわいい♡からまあいいか!ってなる。
・グッドな音楽を / ねぐせ。
シンプルなバンドサウンド。ほんと何も考えなく聞ける。あ、ウルフルズ!それな。
1回聞けば覚えるサビメロが好き。
・およげ!たいやきくん / MONO NO AWARE
「たいやきの尻尾を集めてCome togetherで煮込みました。ね、面白いでしょ?」感がすごく、ウザ過ぎて好き。
・dasu . Hikage no onna / Otoboke Beaver
・あふれる / tricot
イントロからポップなんて大嫌いっ!感あふれる三和音sus2コードのギターリフというかカッティングが印象的。
今っぽくない透明抜けするボーカルが心地良い。
ハイパーポップの代名詞(でいいよね)。サビはDubstepからの派生。Bメロからのリズムがサビで半分になって
アホほど気持ちいシンセアルペジオとトゥントゥン降りてくるタムもからまって、
・Still in my heart / PSYQUI ぷにぷに電気
これもハイパーポップ(だと思う)。このあたりのぶつ切り感(1:30)とかおもいっきりテレビですわ。
・OPENING / KMNVERS
二人のラップバランスが好き。ラップの言葉の置きどころがHALCARI風で今っぽくはないがそこがいい。
トラックがドラム、ベース、SE、ブラスサンプルぐらいなのでシンプル。そのせいか声が聞きやすいぜよお疲れSUMMER。
・WurtS / Talking Box
「こんな夜中に卓球でもしてんのかお前」みたいな速さで、ゆるふわピッチベンド全開シンセが気持ちいいイントロ。
イントロのフレーズ待ち構成がこの曲のカタルシス。サビで倍速リズムになればどの曲も大抵楽しい。
歌は何言ってるかわかんねえけど…山嵐の未体験ゾーンも何言ってるかわかんなかったわ。何言ってるかわかんねえくらいでいいんだわ。
・New Jeans / New Jeans
ほんと2STEPガラージHOUSE。2000年くらいにM-floもよくこのリズムを取り入れててcome againのサビなんか2STEP。
K-POPって生バンドサウンド文化が少ないから打ち込み文化なんだろね。クラブサウンドを昇華させて耳障り良くするのがうまいよね。
2024は2STEPの流行くるかなー過去二回失敗してるからこねえだろなー。
・Away With Me / Tomggg, raychel jay
テイ・トウワっぽくもありPOPうううううう。渋谷を思い出す。この雰囲気は悪いこと起きない
・救われ升 / ポップしなないで
月曜AM4:00くらいに小便で起きまして。中年の中途覚醒まっしぐらですわっはっは!
そんでもって変な曲だなとおもったらサビの歌詞が良くて、ああいいなあなんて思いながらまた寝ちまったんです。
で朝起きたら私、透明になってたんですね。。もとい、この曲ベースが無いから粋で好き。
・エナジー風呂 / U-zhaan, 坂本龍一, 環ROY, 鎮座Dopeness
教授のenergy flowをベーシックに、U-zhaanのタブラとラップがうまく融合した作品。
とにかくラップがいい。1:23~からの"たぶん"と"ざぶーん"の応酬がもうきもちいい。
むかしリゲインのCMに使われてたと思うんだけどあの頃はリラックスとかブームだったねえ。
”禅問答なのかこれは”と意識させられそうなディアンジェロもほっこりシンプルなイントロ。こういうの好きマジ大トロ。
寝起きで歌ってんかおまえ的な声はBONNIE PINK好きならマストバイ。さよならバイバイ、元気でいてね
・あわいに / TOMOO
「畠山美由紀のような声を持った聖女は転生して歌手になる!」みたいな曲。
アレンジは、ほぼ恋 / 星野源なので安心して聞ける。フルートや他の管楽器も聞こえてほっこりするね。
大好きな人はいると思うけど、まじ嫌いな人を作らなそうな声と歌詞。Presentっていう曲もよかたよ。
■総評
最近の曲の歌は言いたいことが多く、説明も多い。本当に多い。(←まじ老害)
これはSNSや映像コンテンツの歌詞文字の影響なのか。また、一曲の長さが2分台はザラ。時間節約でまじタイパ。
コード感ていうのはマッキー「どんなときも」でいうとイントロからシンセピアノが鳴るんだけど、よく聞くとAメロやサビでもずっと鳴ってて曲を通して和音がわかりやすく全体を支えてる感じ。
あと楽器は歌の裏でクリーントーンのエレキが一人で遊んでたりベースがうねってる。ジュディマリみたいにやんちゃ。
そうそう、ベースの音量大きいよね。リズムも。DTMやダンスの影響かな。
あれかな、2000年くらいに管楽器ブームがあってエゴラッピンとかスカパラとかWhat's Loveとか流行ったけど(あの時は椎名林檎すらエゴラッピンに寄せてたよね)あんな流れと似てる。
いうても実は響けユーフォニアムの影響なんですけどね。3期もたのしみ。
さいごに、、、歳をかさねても新しい文化にちゃんと浸れるのはうれしい!たのしい!大好き!
世間でDXが騒がれてるから、情シス中心で何とかしろ、で弊社失敗してる。
2年かけた弊社DXプロジェクトの一番の成果は、紙申請のワークフロー化。でも、全部はできておらず一部だけだ。
でも、ワークフローシステムは使いにくく、申請に気づくのが難しい。
だってメールがじゃんじゃか来るから自分に対する申請だと気づかない。
誰もDXが何かを知らない。
突き詰めると経営層の指示は「DXが何かを調べ、実現せよ」だ。
禅問答かよ。
DX不要ならどうするんだよ。
でも、給料は悪くない。
誰も現状を変えない。責任が増える。
紙の作業をExcelでしてるだけだから。紙面がExcelになっただけ。それがIT化だと思ってる(経営層は)。
Digitizationは中途半端だができている。Digitalizationは全くできてない。ユーザー部門は業務プロセスの見直しさえ情シスに丸投げする。「IT分からん」と。
現状業務に100%(とまでは言わなくても90%だとしても)手を取られているのに、その上でさらにDX推進業務とか、誰もやらんわい。
ある部署はs*les*orceに何千万も投資して目立った成果を出せなかった。
投資に失敗したと判明した後で「総括を示せ」と言うくらいだ。遅すぎる。
私が見たところ、導入すれば夢のように業務が効率化すると思っていたのだろう。アホくさ。
なのに次は某ダッシュを導入するらしい。何を学習したら、そうなるのか。
情シスは大変だ。
運用工数の存在を上が理解できない上に、DX推進の旗振り役までやらされている。
しかも会社がIT化に遅れた批判の矛先は、すべて情シスに向けられる。
ただ、情シスも体制に問題があって、不足人員を中途採用で補うも、中途採用者がどれも強面かつ気が強い人物で、プロパーの情シス社員をスキルが低いとケチョンケチョンに言い負かし退職に追い込んでしまった。勤続20年もいたのに。
ITベンダーのエンジニアと同水準のスキルを求めるのは志は立派だが、弊社のような昭和の時代遅れの会社に完璧を求めるのは無理難題で、逆に周囲を疲弊させ余計な軋轢を生むだけで、実際その好戦的態度故に情シスは内部で退職者を生み出し、課員の間で不和も生み出し、組織として崩壊気味だし、さらには別部門とも軋轢を生むという。中途採用を増やすと、面倒な人物も呼び入れるんだなと思うなどした。経歴はすごくても組織を崩壊させては意味ないんじゃ。本人らが「この会社は非常識だ」と批判し悦に浸ってるだけで。
情シスが社内公募をしても応募が少ない。最近入ったのは文系卒40代IT素人で、理系技術職の応募はなかったと聞いた。
DX、やらんでもいいじゃね?
誰も幸せにならんやん。
ダメなの?
そいや、転職が活況な今のご時世、弊社は退職者が増加傾向にある(主に技術職)。
こういう禅問答っぽいのすき
日本銀行は昨年12月20日、イールドカーブ・コントロール(長短金利操作、YCC)の長期金利(10年物国債金利)の上限を0.25%程度から0.5%程度へ引き上げた。
「事実上」としたのは、日銀が、長期金利の誘導目標の運営方針の変更であり、「利上げではない」と説明しているからだ。
長期金利を0.25%に抑え込むことの弊害が大きくなっていたのは明らかなので、日銀はやるべきことをやっただけとも言える。
ただ、今の日銀はやるべきこともやらないのではないかと考えていた多くの市場関係者にとって、このタイミングでの修正はサプライズだった。
利上げではなく事実上の利上げというのは禅問答のような話だが、確かに今回の日銀の措置は、インフレが2桁近くまで進む米国や欧州など他の中央銀行の利上げとは性格を異にする。
今回の「利上げ」は、内外の経済情勢の変化によりYCCの構造的欠陥が露呈したことによるものであり、YCCという枠組み自体が限界に来ていること示す。
なんだっけ。忘れないうちにメモ。
最近、ゴッホの絵画など芸術作品にトマトスープをかけたり、ウォーホルのアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激な抗議活動が耳目を集めている。
ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。
もちろん許されない犯罪として国内外で報道されているわけだが、しかし、海外のメディアでは、テロという表現(ラベリング)は少なく、抗議団体が自称するCivil resistance(市民的抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道はニュートラルに構えているのだろう。
そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人の想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285
しかしそもそも、テロという認識が日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。
https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/
そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代の人権の歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムにビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。
https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動家グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャスト・ストップ・オイルの活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースのインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイルを選択した理由を次のように説明する。
「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たちの優先順位が絶対的におかしいということを言いたいのです。アートに美を見出し、ギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」
アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である。
この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。
アリストテレスの時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨を理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。
これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館が環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。
そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。
しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。
おおざっぱにいうと、日本人は経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉の定義から始まり、指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人の自分からみると)。
一方、構造化された概念、ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモや過激な運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念がオルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。
そのもうひとつの理由が、市民的不服従という考え方や人々の認識の違い。
欧米では、恐らく日本人が想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体の価値を社会変革のダイナミズムとして認めている。
それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動の趣旨は理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。
この違法性というのは、実は重要な視点。それを理解するには、市民社会を根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。
近代から現代へ20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。
日本の学校では昔から、社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。
しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。
他者危害禁止の近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗の暴力性を認める市民権が存在する。
考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的に憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命のトリガーになりかねないボトムアップの暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府がおかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚を絶妙なバランスで持たせる機能を果たしているともいえる。
マルクスの時代、そしてワイマール憲法の時代、社会権を育んできた思想運動や社会の歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗の暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗の暴力は資本主義社会のなかで、たまたま労働がキーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマはシステムにビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日のSDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。
なので、抵抗の暴力が労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメントの市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。
ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。
一方日本では。
「労働」というキーワードで戦後、日本ははじめて市民的不服従の権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代の要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈。
しかし、その権利の過激な行使は、1950年代から60年代、大衆の心を猛烈にイラつかせた。
日本の高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。
民間では、1960年の三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社は家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争やストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらにベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼の政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。
国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会に迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれた暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識が支配的になるきっかけだったんだろう。1973年の最高裁は、それまでリベラルと保守の裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社の民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争の旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。
ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従の暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。
その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。
例えば、正規雇用、非正規雇用のギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップに非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法をさらにメタな視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。
歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタな視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権の普遍性や憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法の思想の根拠はと問われたときにフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思の議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションのオーナーシップの違いとも思える。)
欧米の環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。
既存の規範に書いてないものであっても、新たなムーブメントの意味を真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。
そのムーブメントの暴力性を違法と認識しつつも、時代のダイナミズムとしてとらえようとする、というか。
繰り返すと、
・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。
・憲法など国の根本的なシステムのアップデートするのに必要な社会のダイナミズムへの関心の低さ。
この二つをひとまとめにして、斎藤幸平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的に重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。
数年前にネットでちょっとした争いをしてしまった。私が悪かった面も大いにあるし、向こうが悪かった面も少なからずあると思う。喧嘩両成敗とはよく言ったものだ。
相手方からの批判は年単位で収まらず、私はひたすらに説明をし、謝り続けるしかなかった。
しかしながら相手方の溜飲も最近になりやっと下がったようだった。
相手方も私と同様に少し苦しんでいるように見えたので、馬鹿な私は「あのときはどちらもどちらでしたね」等という発言をしてしまった。
すると相手方の怒りは再沸騰し、瞬時に広まっていった。
結果私という個人は再度叩かれた。少々のわだかまりを解消したいだなんて願った私が本当に馬鹿だったのだと思う。
いずれにせよ、私は集団に叩かれ続けておけばよかったのかもしれない。ただ、それだって少し苦しいときがあるじゃないか。
「善きサマリア人のたとえ」という禅問答のような問がある。私はこれに全面的な同意はしないが、一定の共感はしている。
たとえそれが昔争った相手だとしても、現に苦しんでいる人が居たら私は手を差し伸べても構わないと思う。
勿論このような態度には一定の責任が伴うのであろうが、元凶となった争いがある程度鎮まったのであれば少しくらいいいじゃないか、と。
ちょっとした和解のようなものを望んでしまった私が悪いとしても、ここにまでマウントを取られてしまうと少し悲しかった。
なんにせよ、こんなことを考えずに済む社会になってほしい。悲しすぎるのだ。
禅問答みたいなのって問う人の気が狂ってないと問い続けられないんだろうなぁ
統一教会問題がはてなーを席巻する中、議論の上で「そもそもカルトって何なの?」「統一教会がカルトなら創価学会もカルト?」などの禅問答のような「そもそも論」が飛び出している
これに対する1つの答えとして、菅野完氏が唱えていた定義が私にはしっくり来たので
増田に紹介していこうと思う
カルトかどうかの認定は、教義の内容や信仰の実態によってなされるべきものではなく、その宗教団体の諸活動に、人権侵害や他人の生命財産に危害を加えたりする側面があるかないかでなされるべきものなのです。
つまり、正体を隠して勧誘したり(欺罔行為ですから当然アウト)、破産に追い込むほど高額な寄付を要求したり、教団外部との連絡を遮断したり、不法行為に強制的に従事させたりしていれば、教義の内容や信仰活動の実態がどなんなに穏当で信者各位がどれだけ上品で慎ましやかで平和的であっても、カルト。