はてなキーワード: 災害とは
https://news.yahoo.co.jp/articles/7ec1d495b848a971128aff7c5fc0dedf1a2c92ee
共同通信社は30日、憲法記念日の5月3日を前に憲法に関する郵送方式の世論調査結果をまとめた。新型コロナウイルスなどの感染症や大規模災害に対応するため、緊急事態条項を新設する憲法改正が「必要だ」とした人が57%、「必要ない」は42%だった。内閣権限強化や私権制限が想定される緊急事態条項新設を容認する声が反対意見を上回った。長引くコロナ禍が影響したとみられる。
改憲なくとも法を生かせば緊急時に行政権限をフル活用できるはず、と思ってきたが、過去の公害の教訓を思い起こしてみると立法・行政の不作為が目立つ。
憲法の制約で権限がないのではなく、あっても使わないのが問題だった。そこにメスを入れるには、行政立法を指導する上位の規律が必要で、「今まさに緊急時だシフトチェンジしろ」
と行政や立法に促す仕組みが必要なのでは。それはひょっとすると憲法の役割なのかもしれない。
という趣旨。
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「内閣権限強化」、これは橋本行革の結果、小泉政権が内閣官房の強化の恩恵を受け、その後、安倍がめちゃくちゃにした経緯から
公害立法の歴史を振り返っても、現行の規制権限は決して弱くはない。立法の余地もある。
実際60年代から70年代にかけて、深刻化した公害に山ほど立法を制定、70年はとりわけ公害国会などと呼ばれた時代もあった。
そうやって公害を克服しようとしてきた歴史の教訓をみても、現在の感染症コントロールの問題が、憲法改正でしか解決しえないとは思えない。
だから、問題はできることをしない、立法不作為・行政権限の不行使のほうで、それを改憲論議にすり替えるのはおかしい、という意見も納得できる。
しかし。
改憲の世論が盛り上がるのは、だからこそ逆に、一理あるのかもしれない、とも思う。
もちろん、行政・立法の性善説に立てば。。という留保はつくが。
というのも、水俣病を例にとって、公害の被害を振り返ってみると。
なぜ今日に至るまで長年、放置されてきたか。長年の放置もさることながら、振り返ると、初期の対応のまずさが際立つ。
漁業法による禁止措置と漁民への補償、食品安全法による有機水銀に汚染された可能性のある魚類の販売禁止、
すべて見送られた。つまりすでに対応可能な法的ツールがあったにも関わらず、被害が拡大した。
こうした行政権限の不行使が最終的に裁判で争われ、最終的に結審したのは2004年。
国は高度経済成長をとめたくないがゆえに、規制権限を行使しなかった、というのが結論。
1970年代、公害の社会問題の深刻化を受けて山のように公害立法が制定されたが、それ以前の問題として
そもそも1950年代、すでにある水質二法等で権限行使できただろが、という。
法の不備ではなく、繰り返すが、すでにある法を使いこなせなかった行政の責任が厳しく断罪されたわけだ。
ここから導き出される本当の教訓というのは、規制権限があったにもかかわらず
なぜ初期の対応がこれほどまでに、被害者をないがしろにしたものになったか、という問題。
そこには、何か異常な事態が発生したときに、立ち止まって物事を考え直す、
シフトチェンジの仕組みが欠落していたともいえるのではないか。
かつて辺見庸は、地下鉄サリン事件の際に、丸ノ内線の駅構内で、人々がバタバタと倒れているなか、
通勤している乗客が枕木でもまたぐかのように出口へ向かった光景について
非日常的なことを目の前にしても、脳が適切に処理できず、
惰性で日常の論理で動こうとする「慣性(イナーシャ)」が働いているといったが、
ここ一年を振り返ってみると、そういう政治的な意思決定がかなりよくみられた気がする。
この問題が解決されない限り、改憲による緊急事態条項の検討など、全く意味をなさない。
日本は、意思決定の仕方、会議の仕方を根本から見直したほうがいい。
いや、だけど一方で、
緊急事態条項のようなシフトチェンジのトリガーがないからこそ、漫然と経済優先で動いてしまうのか?という疑問も頭をもたげる。
どっちなのだろう。
そんなことを思い出したのは、さっき、尾身会長のインタビュー記事を目にしたからだ。
尾身茂氏が語った「マスクを外せる日」「3回目の緊急事態宣言なんて聞く気になれねぇ」への意見 | 文春オンライン
――東京都墨田区や長野県の松本医療圏など、基幹病院と支援に回る地域の病院や医師の連携が回っている地域の取り組みも報じられているが、厚労省は、こうした体制づくりのため各地の医師や民間病院に強い指示が出せないものか。
尾身 医師や病院に対して国が強い指導力を発揮する英国のような仕組みとは違い、日本の厚労省というのは公立や民間などさまざまなステークホルダーの意向を尊重する必要があって、上から目線ではいわない。平時はそれも大切ですが、危機の局面ではどうなのか。この機会に考えてみる必要はあります。
――医療提供体制の拡充やワクチン接種準備で、国民が納得するだけの結果を示せないことに国民は苛立ちを感じている。強権的なイメージが強い菅義偉首相だが、結果を示せない理由は?
尾身 それは政治のことだから、私にはわかりません。ただ、総理大臣は、いろいろなことを今、四方のことを考えなければいけない立場にあるんでしょう。そう思います。
これが明確な意思決定メカニズムとして組み込まれていないことが、水俣病の初期対応の問題ともつながっているように思えた。
それを可能にするのは、規制権限の強化と行使、という既存の立法・行政機構のあり方の、もうひとつ上段の制度として構築する必要があるのかもしれないといえなくもない。
改憲への渇望というのは、案外、そういった視点で考えることも可能ではないかとふと思った。
危機対応専門の省庁を創設する、というのもひとつの方法。非常時のガバナンス体制を整備する。
米国のFEMA(アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)のように。
そうすれば、現在の河野太郎のような感染症の素人が新型コロナウイルスワクチン接種推進担当大臣として奮闘する、といった話もなくなるはず。
彼はおそらく、急に任命されて困っただろうが、実質やれることを模索した結果、
ロジ担当となり下がってしまっているように見受けられる。住民の心配に答えるのは基礎自治体の役割だ。
危機管理のプラットフォームができれば、アメリカのファウチ博士のように、
集団免疫獲得に向けた仮説を立て、何%の接種があればOKで、ワクチンの効果が切れる前の接種完了を逆算してスケジューリングする。
目的とロードマップを国民に示したうえで協力を仰ぐという、専門家による意思決定がベースとなったリーダーシップが重要だ。
ガバナンスの基本は、法、規則基準、科学的な予測を明示した意思決定を行うことだ。
これは世界銀行の借用だが、世銀では途上国の行政改革支援の際に、ガバナンスを以下の4要素で因数分解して
説明責任(財政とリソース)、予測可能性(法的枠組み)、透明性(情報公開)、参加(連携)の4つ。
テーマ出しした瞬間、近年の日本がどの分野でもガタガタになっていることがわかる。
いずれにしても、緊急時のガバナンスの訓練を積んでゆくことが大切で、こうした組織を立ち上げることには意義があるだろう。
現在の菅政権は、こうしたガバナナンスの観点から落第点であり、
首相が何を考えているかわからず、結局、リーダーの一挙手一投足に注目が集まる意思決定となっている。
急に決心して、緊急事態宣言を発出したりやめたりする。このように国民から予測可能性を奪うやり方は国民から自由を奪うのも同然だ。
国民からすれば、知らず知らずに国のリーダーシップに注視せざるを得なくなり、いつの間にかリーダーシップの問題に錯覚してしまうが
本当は危機管理はリーダーシップの欠如の問題ではなくて、ガバナンスの問題だ。リーダーが誰であれ、ある程度、やるべきこと、基準が決まっていて
どのように対応するかが決まっていること、この予測可能性が確保されることが大切。
国民にとって予測可能でなければ、国民自身が計画を立てられず、急に決断されても、ついていけいけない。
(水木しげるの漫画で、上官が急に玉砕を決心したので部下の大半が付いていけず、結果として敗残兵として生き残った兵士に、すでに全員立派に玉砕したことになっているのだ、として、ラバウルの本部が改めて玉砕を命じる、という話がある。日本人のリーダーシップを象徴する話だと思う。)
緊急時へのシフトというのは、なにかしらリーダーとして発動するトリガーが必要なのではないか。
そこに非常時へのシフトチェンジが記載されることにも意義があるのかもしれない、という考えに傾いてゆく、そういう世論の動きもわかる。
もちろん、そんな非常時に平和ボケして判断の鈍いおっさんが首相だったらなんの意味もなさないが、誰かがシフトチェンジを発動しなければならない、
それが立法や危機管理のプラットフォームづくりだけでうまく機能しないのであれば、ある意味、大統領的な権限を期待する傾向が出てくるのは自然なことのように思う。大統領の権限というと、合衆国建国当時まで振り返ると、当時の議論のなかで、リーダーの聡明さ(アリストクラシー)というのは、欠かせない条件だったように思う。
日本の政治社会にそんなことを期待できるのか、と考え始めた瞬間、改憲には激しく首を横に振らざるを得ないのだが。
そんなことをインタビューの印象として持った。
https://anond.hatelabo.jp/20210429213658
男が弱く女が強いのではない。
コロナなどたびかさなる災害や不況で社会的連帯が重要になるにつれて、社会性のある人間がつよく、社会性のない人間が弱くなったのだ。
女にも社会性のない救われにくいのはいる。男にもいる。それが個別に救い先として可視化されてきたのにどうして「男」とか「日本人」だけで無理にくくってもらおうとしているのか。強者男とどこが違うかくくり方をよくかんがえて出直せ。
女が女として生まれたゆえに度重なる生理や性犯罪、出産育児などのハンデに苦しんでいることを当事者の努力によって可視化されたことを勝手に羨むな。なんの根拠もなく真似ようとするな。
ゴジラじゃないよ。
より具体的には、対処不可能な自然災害と思ってるけど、ワクチンで実際的にほぼ問題解決できる。
ブクマカが完全に「反日左翼が災害に遭ったら自衛隊は助けなくていい」ムードでわろた。はてなブックマーカーは死んだほうがいいですわ
入籍して3ヶ月、そろそろ避妊せずにセックスしてみようかってなってしてみた。
中で出されるの本当初めてで、最初は出されてる感(生理時みたいなドロっとした感じ)があるのかなあとビビってたんだけど、実際なんてことはなかった。コンドーム付けてる時と感覚はほぼ同じ。
終わった時に溢れるのかなって思ってたけど、直後はそんなに出てくる感じはなかった。念のためナプキン装着しておいたら15分後くらいにドロっと出てきてる感覚があり、おー本当に中に入ってたんだなーと。
話は変わるけど、昔被災地とか災害の避難所に生理用品が届くのを見て「こんな時に不謹慎だ!」っていう謎の言いがかりつける人いなかった?有名なアイドルだか声優だかの部屋に生理用品があるのを発見して半狂乱になってる人もいたなあ。
ああいう人たちって、生理用品をこうやって中出し後の処理に使うだけの用途しかないものって思ってるのかな。どうでもいいけど。
親含め、友達とも子作りのやり方なんて話さないし教えてもらえないので、みんなこうやってんのかーってちょっと感慨深かった。記念に書き残しておきました。さよなら
意味不明な自分達のコミュニティな理屈で、意味不明な価値観で生きてて、それでいて群れる。
そんなゴミどもに自分達の文化圏に侵入してきてほしくないわけ。
マナー悪くて、他人に自分のルール押し付けて、自分達の邪魔されたら数の暴力で袋叩きにして人を土下座させるんだろ?
撮り鉄じゃん。
てかさ、馬は人じゃねーし、牡馬は雌じゃないってことすらわからなくなってるアホは競馬場にお呼びじゃないんだよね。
とか言うと、擬人化ってのはそういうもんで…とか、意味不明な自分達の共通ルール押し付けてくるんだろ?
電車の撮る角度は決まってて…とか言う撮り鉄と変わらないじゃん。
一般的に二次元の女に感情移入したり、二次元のキャラでお人形遊びしたりして興奮してるようなやつは異常者なんだよ。
競馬ファンに受け入れて欲しかったら、まずそのウマ娘とかいうキモいゲームを辞めろよ。
競馬人気を俺達が高めてやってる!とでも思ってるのか?
そもそも競馬ファンってのは競馬場に儲かって欲しくねえんだよ。
ラブライブだかなんだかで、どっかの観光地が儲かったとかそういうレベルの成功体験引きずって、
まるで消費するだけで偉いみたいな誇大妄想を抱いてるんだろ?
競馬ファンはてめーらの金なんかいらねーんだよ。元々、どうせ競馬の金は全部農水省の天下り連中に吸われるようになってんの。
JRAとその関連団体なんて全部ゴミカスなわけよ。俺達の血肉を吸い取って、トヨタ並のキャッシュを抱えてるゴミカス金満企業なんだよJRAは。
馬主は言わずもがな、調教師から騎手、厩務員まで、仲良く競馬法に違反しながら俺達の生き血を啜ってる世界なんだよ。
アイマスでもツイステでもいいけど、お前らのオタク・コミュニティが突然撮り鉄の間で人気になって、ライブに撮り鉄が押し寄せてきました!
新しいファンも増えてwin-winだね!なんか帰りの電車すごい撮ってるけど!ってなって嬉しいか?
嬉しくねーんだよ。お前らはそういう存在なんだよ。
もうすこしわかりやすく例えると、「突然宝塚劇場が撮り鉄の間でブーム!劇場に撮り鉄が押し寄せました!」
違う価値観の人間がいてもいいけど、元々いた人間の居場所に侵入してくるんじゃねえって話だよ。
俺達はWINGで汚ねえジャンパー着て独り言ぶつぶつ言って、帰りは汚ねえラーメン屋に寄って、家族には何の尊敬もされず過ごしてるかもしれないけど、
1人1人は善い人間なのかもしれないけど、オタクっていう総体はそういう目で見られてるってだけの話しなんだよ。
撮り鉄の話と一緒だろうが。
ついでに言うと、「一部のマナー悪い人だけを見ないで」とか、「競馬ファンもこういう人だけじゃない」とか、中立気取って語りだす奴が一番のタンカス野郎だ。
お前の独善を押しつけるなという独善を押しつけるな。冷静な自分をアピールしてマウンティングしてえだけだろ。
最近は、オタク共、ただただ消えてくれ。存在しないでくれ。と思う。
お前たちはイナゴだろう。
お前たちが何かを好きになることは、蝗害なのだと知ってくれ。迷惑なんだ。お前達が何かを好きになって、それを語らうのは災害なんだよ。
数の力で俺たちに暴力を振るわないでくれ。俺たちは、お前たちが怖い。
どうせゲームなんて5年もすりゃ飽きるだろ。だから、俺達の平穏な5年間を奪うだけの存在なんだお前らは。
そうではないというのであれば、まずクソマナーの撮り鉄どもに叡智を授けてみせろ。
それができなければ、せめて競馬について語るな。
何度でも言うが、お前らみたいなのに競馬を好きになられるのは迷惑だ。
本当に文章読めねえんだな
競馬ってのは、後ろ暗くて、卑賤な業界だっつってんの。俺は賭けるけどな。
お前らが盛り上げてきたつもりの、歴史だとか、キャンプだとか、観光だとか、
既に肥太ってる悪人どもに、更に金を与えるかどうかって世界なんだよ。
新規が入らない?それが一番の望みなんだよ。
競馬なんてのはこの世から無くなった方が世の中のためなんだよ。
それでも俺は馬券買うんだけどな。
そういう世界なんだよ
追追記
ごめん
WINS。
その昔、天気予報が、気象庁が送ってきた天気予報を読むだけだった頃=気象予報士制度ができる前までも、「お天気お姉さん」だけでなく「お天気おじさん」「お天気おばさん」「お天気お兄さん」もいたんだよ。ブコメでも「お天気おじさんもいくらでもおるやろ」とさんざんツッコまれているが、昔から今までずっと老若男女が天気予報を読んできたんだよね。増田の間違いの一つ目がこれ。
「気象予報士」という資格があるでしょう。1994年に出来たんだそうで、天気予報は災害被害予防のために大事だからというお題目と、気象予報事業の民営化という目論見もあって、「気象予報士」という国家資格を作って、国家資格がある人しか予報業務はできない、という風に仕切った。これによって、TVなどの天気予報コーナーはそれぞれ多様化し、変化していった。
それまでお天気担当のキャスターだった人たちの中から、気象予報士の資格を取得して「有資格者のお天気キャスター」として独立的な立場を取るようになる人たちが現れた。もともとキャラ立ちしていた森田さんや木原さんなどが最初期の気象予報士持ちのお天気キャスターだ。確か森田さんも木原さんも、一回目の試験には落ちてた記憶がある。
まぁそういう向学心や先見の明にあふれた先人たちがいて、今は主要メディアにおけるメインニュースの天気予報キャスターは、気象予報士の資格を持っている方が務めるケースが多くなっていて、それぞれ個性を出して予報を伝えている。NHKニュースや在京キー局の夕方ニュースのお天気キャスターは現在、男性が多数派になっている(私は東京在住なので地方局の状況が分からない。ごめんね)。ちなみに、wikipediaによると気象予報士の男女比は圧倒的に男性が多い(男性 88%、女性12%:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E8%B1%A1%E4%BA%88%E5%A0%B1%E5%A3%AB)ので、そういうところをほじくり返して、理系に進む女性の少なさとかメインメディアのお天気キャスターは男性が多い状況に対して、「女性差別だ」と言うのは、ひょっとしたらあり得るのかもしれない。個人的には詮無いことだなと思う。
要するに、増田の間違いの二つ目がこれ。現状、TV局中心で考える限りではお天気キャスター(類似的に気象予報士)は男性が中心だが、気象予報士の男女差を考えたらごくまっとうな比率だ、と言えると思う。
一方で、気象予報士制度の制定後でも、天気予報のニュースを読むだけなら別に資格は不要なので、「有資格者が行った予報を読むだけの人」という方向に分派していくコンテンツも現れる。「かわいい女の子にかわいく天気を伝えてほしい」というニーズを汲んだ気象予報コンテンツがそれ。めざましテレビとかね。民間に門戸を開放したことによって天気予報が多様化し市場が作られた。とても豊かなことだと思う。
増田があげているニコニコの天気chは私は見たことがないが、ニコニコの媒体特性などを鑑みると、「かわいい女の子に天気を教えてもらいたい」ニーズを汲んだコンセプトの番組なのかなと邪推する。多様化の結果の企業努力であり単なる市場競争でしかないから、いちいち批判する暇なフェミニストがいたならそいつはアホだと思う。いやー多様性って素敵だね。
増田はTVを見ないのかなと思うのだが、旧メディアでは男性が多数派ながら女性も頑張っている、そしてそのメディアの特性に合わせて「かわいい女の子推し」が売りのコンテンツも供給されている。お天気キャスター市場は、ある程度は健全な、成熟した市場を形成していると推察できる。
増田がもし「お天気おねえさんが天気予報読まされてるだけ!性差別!」と思ったのなら、それは増田が「かわいい女の子がお天気を教えてくれるのが好き」で、そういうのばっかり見ているから、だと思うよ。
30ウン年も生きてきて、今更だとは自分でも思う。
自分はとてもケアレスミスが多い。それは昔からだ。もうこういうものなのだ、と思っていたし、周りの人達も大なり小なり似たようなものだと思っていた。
最近ミスが多いように感じるのは、周りの人達と一緒に仕事をしだして、やっと自分の異常さに気がついたからなのか、最近特にポンコツになっただけなのかはわからない。
人が簡単に乗り越えられることが、自分にはできない。ゆっくり時間をかけて、準備しても必ず抜けがあるし、災害レベルが事故レベルになるだけで、結局うまくできていない。
メモに書いて、忘れないように腕にも書いて、それでも忘れるんだぜ。クズだろう?会社が可愛そうだよな、こんなポンコツに給料払ってんだから。
二酸化炭素排出量の増加によって地球温暖化が進んでいることは確実。
二酸化炭素排出量を抑制して地球温暖化を防止、または回復できるというのは幻想。
排出量取引はもとより、排出量の計算が都合のよいものに過ぎないし、その都合のよい計算だってこれから達成することは出来ない。
ただし、希釈した処理済みの水を海に捨てて、危険だとは言えない。
今後のメルトダウンした核燃料の取り出し過程で危険が発生する可能性はある。
その時に、処理済み水を海に捨てるのは止めるという判断は難しいだろう。
私たちは自然を制御できないように、政府も大企業も制御できないのだから。
核燃料の取り出しで小さな事故は起こるし、大きな事故が起こる可能性もある。
大きな事故なら死人が出るかも知れない。
もちろんどうなるか分からない。
石棺の方が安全だったかも知れない。(一方、ロシアは石棺を使った)
しかし地下水の豊富な日本では、石棺にしたつもりが地下水の流入(と流出)が続いたという可能性もある。
現状はベストではないが事故が起こった結果としては、被害を抑えられている方かも知れない。
日本は災害大国で台風も地震も津波も大雨もあるのだから、時々原発が事故を起こすこともそれらの自然災害と比べて被害が大きくなければ許容するという考え方もある。
私にも家族にも、今のところ特に障害は無い30代ですが、車椅子の件を見ていてモヤったので吐き出しておく。
首都圏の人の多い駅で、電車が事故などで止まると、他社線での振替輸送の案内がある。
構内にアナウンスもガンガン流れるし、掲示板などで視覚的な案内も出るし、駅員さんに聞けば状況がすぐわかる。
振替輸送のときは、持ってる切符をそのまま使えて、追加でお金を出さなくても、当所の目的地まで行ける。
乗り換えの手間や時間は余計にかかるけど、復旧まで待つよりはマシなら利用させてもらう。
状況にもよるが、鉄道復旧までの間、その区間は代替でバスを運行しているケースをよく聞く。
鉄道側にトラブルがあっても、あの手この手で目的地まで運ぼうとしてくれる。とても有り難いことだと思う。
「JRで車椅子は乗車拒否」の元ブログの記事を読んで引っかかったのは、車椅子を持ち上げる手配をした「駅員D」が登場するまで、私のところには当たり前に伸びてくる、目的地まで運ぼうとする「あの手この手」が見当たらないことだ。
たとえば、私と隣の人が、どちらも東京から横浜までJR東海道線で移動しようとする時。
隣の人はJRから「東海道線止まってるんで一旦山手線で品川まで出て京急線に乗り換えて下さい、その切符で追加料金無しで行けます、ご迷惑をおかけいたします」みたいな対応されてるのに、私だけ「横浜行きは止まってます。外にタクシー乗り場ありますから自腹でどうぞ。あなたは乗せられないので。タクシー乗り場わからない?調べてください。タクシー拾えないかも?いやそこはご自身でどうぞ、こちらでは対応できないんで」って言われたら「は????なんで???(怒)」ってなる。
電車が止まってるのは仕方ない。JRが何もかも面倒みてくれるとは思っていない。でも、隣の人との対応の違いには怒るだろう。なんで私だけ、隣の人には求められないお金や労力を求められてしまうのだ。同じ電車を使って、同じ場所に行こうとしてるのに。
でも、私に「障害」があると、このJRの対応の違いが「正論」としてまかり通ってしまう上に、後でSNSに書こうものならあちこちから駅員の味方が出てきて、私がタコ殴りにされるのだ。
駅員C「来宮駅はお使いいただけませんので、熱海駅までで。その後はご自身でお考えになってください。」
私「どうやって?」
駅員C「タクシーなど」
ここのやり取りが特に、健常者を目的地まで運ぼうとする「あの手この手」感が全く感じられなくて震えた。
ああ、これが、差別か。
駅の設備(今回ならスロープやエレベーター)の不足で移動が制限されてしまう人がいる、ということは、残念ながらよくある。
制限される側から見たら、あっちこっちで災害による運休が発生しているようなものだろう。
しかもこの運休は、電光掲示板にも改札前のホワイトボードにも出ておらず、駅員に尋ねても15分待って「そこは運休です」しか情報が出ないレベルの、ステルス運休だ。ユーザー側で全部把握するのは無理ゲーだろうし、その無理ゲーをやる時間をもっと別のことに使いたいだろう。
JRの予算も無限ではないから、全駅にバリアフリー設備を導入するのは難しいかもしれない。
JRの都合で、一部のユーザーに対する運休区間を発生させているのだ。
バリアフリー対応をしたら運賃が上がる、という意見も見た。気持ちはわかる。JRはけっこう高い。
ということは、私が、あなたが、運休区間を発生させているのだ。
っていう意見を見た。
実際、熱海周辺はあの手この手でバリアフリーに取り組んでいるらしい。素晴らしいことだと思う。
なら駅員A〜Dは、なぜその提案をしなかったんだろうか。
もっと言うなら、もし、バスでバリアフリー対応をカバーしているつもりなら、なぜJRは「バリアフリー振替輸送システム」みたいなものを用意してないんだろうか。
「来宮駅は無人駅で、エレベーターなどの車椅子に対応できる設備もございません。申し訳ありません。代替手段として、熱海駅●●口からバリアフリーのバスが来宮駅前まで出ておりますので、そちらをご利用いただけませんか?来宮駅までの切符をお求めいただければ、そのままバリアフリーバスにご乗車いただけます。お連れ様もご一緒に。いかがでしょうか?」
健常者が大幅遅延や区間運休にぶち当たった時は、このくらいの対応をされている。と思うラインで、今回の伊是名さんへの対応を考えてみた。本来の到着時間には間に合わないが、今ある設備で対応でき、JR側の人員的にも無理が少なく、乗客に調査や予約の手間・過度な経済的負担を課さず、本来の目的地まで運ぶ提案。
これで丸く収まるかどうかはわからない。バスが本当にバリアフリーなのか、駅からバス停まで車椅子にとってどれくらい大変な移動なのか、バスの本数はどれくらいで来宮まで何分かかるのかも知らない。ただ、「隣の人と同じ程度の対応」として考えたら、これくらいになると思う。
箱に乗って柵のむこう側の景色を見ている、三人の人の絵を思い出す。
背が高い人、中くらいの人、低い人。
三人に同じ高さの箱を配ると、背が低い人は柵のむこうが見えない。これは悪しき平等だ。
それぞれに柵のむこうが見える高さの箱を配れば、三人とも景色が見える。
ところで、誰が柵を立てたのか。
現実には、箱を用意するコストがかかる。リソースは無限ではない。
ただ、柵を立てた者が、箱を用意するのが筋ではないか。と思う。
柵を金網に変えてしまえば、箱無しでも三人とも景色が見える。ユニバーサルデザインと呼ばれるものは、これだろう。
電車に限らずあちこちで、柵を金網に変えていければ、車椅子ユーザーにもベビーカーにも、順調に生きれば歳を取って足腰や認知が弱る私やあなたにも、同じ景色が見える世界になる。
頑張るなら、そういう方向で頑張りたいなと思う。