はてなキーワード: 教育水準とは
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著者、エズラ・ヴォーゲル。
彼は日本の高い経済成長の基盤になったのは、学習意欲と読書習慣であるとしている。
鵜呑みにするわけにはいかない。もちろんその他の要因は様々ある。
さてしかし、現在の日本で高い教育水準を用意するとよいかといえばそうではない。
世界と同一の価値観に染まった人々には一定以上は期待できない。
この文脈でもうわかったと思うが、世界を救うのはきみ達しかいない。
きみ達が、グローバルスタンダードを超えて、ジャパンスタンダードとなった時、
そこで理解した事が有る。
世間では「高学歴の女」「頭の良い女」を嫌う傾向が有るがそれは確かに正しい反応だ。
高い店に居るホステスはほとんどが大卒らしい、もうこの時点で自分より高学歴だと少しストレスを感じる。
そして頭の回転も速く、客の金持ちと頭の良い会話をするここでも小さなストレスを感じる。
自分と会話をするとどんな話でも道を踏み外さずに答えを導く、ここでも少しストレス。
ニュースの話をふる上司に女のくせに明らかに自分より高度な返答をするホステス、ここでも少しストレス。
一つ一つは小さなストレスだが、これが一生続くと考えると恐ろしい。
なぜ「高学歴の女」「頭の良い女」が嫌われるのかが理解出来た。
日本が男性の大学進学率100%で正社員率100%、教育水準も高レベルにならない限りこういう女が好かれる様になる事はまず無いだろう。
何度も言うように、少子化問題の本質は「子供が足りない問題」ではなく「ジジババの生活を支える奴隷の頭数が足りない問題」だ。
知識を身に付けたりせず何も考えずに奴隷になってくれそうな子供の数が増えるのは最も歓迎するべきことだ。
逆に、無駄に教育を受けて小賢しくなった子供が増えるのはあまり望ましくないことだ。だから国は教育コストを引き上げて庶民の教育水準を下げようとしている。
エリートの数は昔から十分足りている。足りないのはしょうもない仕事を引き受け小金を稼ぎ馬鹿をだまくらかすマーケティングに素直に引っかかって消費をしてくれる人間だ。
【総選挙2014】みな勝手に投票すればいい http://politas.jp/articles/282
を読んだ。あずまんが、「白票投じる」とかいうゲロ吐きそうな意見を取り下げたことは喜びたい。そして、小選挙区、自民。比例区、社民だそうだ。結構なことだ。彼の本はそれなりに愛読していたので彼に失望しなくて済んだ。
それにしても、今回のタイトル(=結論)を見るに、あずまんは選挙がもともと「みな勝手に投票すればいい」ものだということをよく分かっていなかったらしいということに驚いた。どんだけ自意識過剰だったのか。また、ブクマで共感を表す人が多いことにも驚いた。みんな、自分の投票行動で世界が大きく変わるとでも思っていたのか? そして、「よりよい未来を選択するために、戦略的にベストの行動を全員がとる必要がある」とでも思っていたのか?……とんでもない勘違いで、それこそ危険極まりない思想だ。大体、みんなが熟考して最適解が本当に出るなら、全員同じところに投票することになるではないか。そんな政治判断、危険極まりないではないか。そんな危険な状況を回避するための「民主主義」なのではないか。
「民主主義」が、事実として最低の政治体制であるにも関わらず、我々に他の選択肢がないのは、「愚者でも政治に参加できる」という方法が現状このほかにないからだ。つまり、民主主義とは愚者の集団が国家を運営するための唯一最善のシステムなのだ。あずまんが言うことはごく当たり前のことであって、国政に対しては、国民一人一人はどれだけ熟考しようと事実上愚者同然であることは明白だ。だから、一人一人の投票行動が最適であることなど、民主主義は期待していないし前提もしていない。むしろ、一人一人の投票行動は最低であってもいい、情や直観は大歓迎だ、そんなことは、最初から織り込み済みだから……というのが、当然のものの考え方だ。馬鹿でも集まればそれなりの判断ができる、そして、判断はいずれ下さなきゃいけない、だから、自己の判断に最低限の責任さえもつなら(あとで「俺は投票しなかった」なんて言い訳さえしなければ)、馬鹿は馬鹿なりに投票してよい。当たり前の話だ。それが民主主義だ。最初から分かっていることだ。だから、白票も棄権もダメなんだ。
そんな話を、大の大人が(しかも相当程度教育水準が高いはずの人々が)分かっていなかった、ということに今回衝撃を受けた。教育の問題か、哲学の問題か、文化の問題か。おそらくその全部だろう。とりあえず、「民主主義ってなんなの」ってことは、最低限、学校でもう少しちゃんと教えた方がよいと思う。「多数決」という最悪中の最悪な方法が許容される根拠も含め。
今回、あずまんは小選挙区で自民の候補者を選んだ。支持政党ではないが人間を見て選んだという。なるほどそれなりに合理性があり賢明な判断だ。その人を選んだことの責任だけは、今後数年間自分の中でかみしめればいいと思う。結果として、自民の興隆に手を貸すことになって後悔するとしても、「選ばなかったもんね」とか「白票を投じたから知らないもんね」という人間の偉そうな物言いより、ずっとずっとマシで評価できる。そして、比例区では社民を選ぶという。これも、少数派の選択ということで、大変結構なことだ。自分の主張に一番近い政党を選んだということなのだろう。社民に入れたことで果たして彼の主張が実現される可能性はコンマ1パーセントでもあがったのか否か、いろいろ葛藤もあるかもしれないが、それでも選んだということだけを忘れなければそれでいい。主権者としての責任を果たしたと言える。
ちなみに、かく言う自分は、たぶんあずまんとはいずれも違う選択をするだろう。それでも、あずまんが一人の大人として選挙に臨んだことは本当に嬉しく思っている。この文章は、ブックマークを見つつ、あずまんと同じような葛藤を抱えている人が一人でも多く投票に足を運んでくれればいいと思って書いた。この文章を読んで、「俺は投票しねえ」と思ってる人の心に、それでも少しでも何かが残れば、満足だ。
http://anond.hatelabo.jp/20141030234015
全くその通りで、高度で複雑化した現代社会で、法律知識に欠けていたらやっていけない。
世の中全体が複雑化してくると法律知識に欠けた市民で構成されている社会は、もはや上手く動かないし、
個々人としても法律知識に欠けた人は、違法行為での炎上案件に見られるように、仕事や私生活でもつまずく危険が増える。
現代社会で生き抜くための基礎的な力を身につけさせるのは教育の使命の一つのはずなんだが、今の初等中等教育の
カリキュラムでは、そこで重要な力になるはずの法律(それに経済)に関する教育が全く足りてない。
ペースとしては2、3ヶ月に1回もあれば十分。体育でいう保健講義くらいのウェイトでいい。
という認識はおかしい。その程度の話で良いなら少なくとも普通科高校まで出ていれば、カリキュラムの中で公民や現代社会、
政経といった科目の中で法律論に類する部分の基礎も「3か月に1回」どころでは無い時間をちゃんと割いてきている。
それなのに「法律的な考え方」が身についてない人が多数いるというのは、単純に時間数が足りていないから。
元増田氏がきっちり認識しているように、法学というのもきちんとした学問で、基礎からきっちり学ばずに個々の法令の条文の
さわりを教えたところで身につくものじゃ無い。電卓やEXCELが有るからと言って九九を知らずにフーリエ変換の解き方だけ覚えるのは
無理があるのと同じ。「法学の思考法」を教えて法律がからみそうな局面では、日常生活の規範をちょっとずらして
「法学の物差しも思考判断に取り込める」ようなレベル(=社会生活を送る上での実用レベル)にまで持って行くには、
(知識的な部分は将来その都度調べれば良いと考えて、徹底的に省略出来るにせよ)どうしたって主要教科並みの時間を割いて
3年間は教える必要があるだろう。
実際の所、法律知識の欠如に留まらず、社会が複雑化して、しかも個々人がその社会全体と直接向き合う機会が増えたのに、
初等中等教育のカリキュラムの時間配分は、農家が過半だった戦後すぐの時代からの微修正に留まっていて、「読み書きそろばん」に
もちろん「読み書きそろばん」が重要では無い、ということでは無く、「普通に生活していく上で必要な知識」というもの自体が
半世紀前の倍(あるいはそれ以上か?)になってしまっていて、特に法律や経済といったあたりは、現実社会ででやっていく上での
必要性に比して、カリキュラム上で割かれている時間との乖離が特に大きいから目立つ、というだけの話でもある。
教育水準は、戦後ほぼ一貫して間違い無く絶対的水準では向上していて(「近頃の若い者」の方が「50年前当時の若者」より
間違い無く賢い)、これは日本の教育システムの偉大な成果。ただ、緊密にネットワーク化され高度化複雑化した現代社会では、
「生きていくための最低限の知識」の合格点自体が大幅に上がってしまっていて、相対的に見ればむしろ教育水準は合格点に届かなく
なってきている。
法学や経済学を初め、政治学、統計学など今の教育で不足が大きい部分をきちんと取り込めば、どんなに詰め込んだところで
現行の初等中等教育12年では「市民として生きていく最低限の知識」を得るための時間としては全く足りていない。
法律教育の強化に利点があるのは確かだろうが、替わりに削られる部分が出る(そしてそこも重要な知識だ)ことを鑑みれば、
全体的に社会の得になるとも言い切れない。
私はロリコンである。子供が好きだ。発達途中のあの体躯がたまらない。私は男で異性愛者だが、男の子も女の子も好きだ。
さて、足立区に「ギャラクシティ」と呼ばれる公民館があるのをご存じだろうか。
足立区こども未来創造館と西新井文化ホールとの複合施設で、近年、博物館設計の雄「丹青社」のプロデュースによりリニューアルされた。
ここの企画がすごかった。
子どもの描いたデザインが施設の壁を彩ったり、子どもたちが作った文字フォントが今でもパンフレットなどで使用されている。
施設が出来る前から、内部の遊具などを出張設置して子どもの目をひいたりなどもしていた。
つまり、子ども目線で、子どもも実質的に施設をつくる大人も一緒に成長していける施設設計を果たしたのだ。
現在でも「つくる」「あじわう」「しる・まなぶ」「かなでる」「からだをうごかす」など様々なイベントが行なわれている。
先日娘とこの施設を訪れた。
周りにいる子どもたちには目もくれない。そういう次元はロリコンとしてすでに通過後だ。
先ほど言った通り、施設のたくさんの場所に子どもたちが作ったもの、作り上げたものが在る。
その「モノ」が、私に、たくさんの子供たちの姿を想像させるのだ。
子どもたちの手技から非実在子どもを想像させ、それが私をたまらなく興奮させるのだ。
この施設が完成するまでに、一体何人の子どもが参加し、体験し、何かを感じ、成長できたのだろうか。
子どもたちはこの21世紀をどう生きて行くのだろうか? そんなことを考えさせられ、ついドキドキしてしまう。
ご存知の通り、足立区というのは治安が悪い、教育水準が低い、などのイメージがある。
足立区ではこのイメージを何とか払しょくしようと懸命な努力が続いている。
そして今回話してきた「ギャラクシティ」も大きく言えばこの一環なのだろう。
たまたま記事が目に入ってきたのですが、思うところがあったので書かせて頂きます。
当方関東のどこかに住んでいる二十代後半男で、歴史系ウェブサイトを立ち上げる為に頑張っているところです。
仕事柄いろんな場所に行き、地域の裏山なんかに眠っている中世の城跡の歴史などを調査する為に茂みの中に入って行く事が多いのですが、
中世の城跡、つまりかつて戦国時代に軍事拠点であった場所の地権者って、代々農業を営んでいる方が大変多いのです。
それはなぜか。
私自身の話が分かりやすいかと思うのですが、私の実家のお墓は地域の小高い山の上にあります。
地域に数件ある増田家の墓のみがその小高い山の上にあり、増田家以外の墓の多くが同じ地域の低地にあるお寺の敷地内にあります。
てっきり増田家は地域の爪弾きもので、いじめられっこだったのかと勝手に思っていましたが、
どうやらその墓地周辺が中世戦国末期の城跡の主郭付近であり、増田家はその城主だった、とのこと。
そして現在の増田家は、やはり農家。江戸時代は庄屋さんで地域でも裕福だったが、やはり農家。
なぜ農家になったのか?
仮に小寺家としますが、小寺家の重臣として召し抱えられて、現在の実家近辺の統治を任されていたとの事。
その小寺家は隣の隣の隣ぐらいの町を拠点とする赤松家(当然仮の名)によって追放され、
増田家は赤松に下り(前述の低地のお寺は赤松の菩提寺の末寺)、その赤松も
当時関東平野制覇を目論む小田原の後北条家にやがて下ることになる。
北条家は赤松家を頭としその地方一帯を統治する◯◯衆を組織し、
増田家もその◯◯衆のメンバーとして、引き続き実家付近を拠点に統治を続けたとのこと。
そして問題の小田原征伐。豊臣とその取り巻きにて小田原を包囲し、関東地方一帯の小田原方の城郭が同時に攻撃を受ける。
上杉・前田・真田に攻められた八王子城の惨状や、忍城の成田家の奮闘はこの時の事で、うちの実家付近の拠点は簡単に落城。
増田家の筆頭は小田原城に籠もり、◯◯衆として勇敢に立て篭った、のかもしれない。
そして小田原北条家は滅亡し、関東の統治ネットワークはそのまま徳川家に与えられ、関東には徳川の家臣が流入してくる。
元々関東のそれぞれの地方を統治してきた◯◯衆の大半はその際に潔く農業を取り仕切る庄屋層に転身し、
残りの一部は徳川への仕官を申し出てたりして引き続き武家である事にこだわり続けたとさ。
かくして、関東の大半の武士が農家になり、少数の徳川家臣による統治を受け入れた。
この話を土地の古老に話したりすると、忘れ去られていた「イエ」の記憶を取り戻したようで、いたく感動される方が多い。
また逆に、「当家は代々武士の家系で・・・。」といった方に話をすると、複雑な顔をされる方が少なくない。
身分は固定されたもので、名前とともに受け継がれるようなイメージを漠然と抱いている方に多いのですが、
「単に先祖が徳川方に付いて頑張っただけ」というストーリーに聞こえ、どうも「武士の家系」イメージに合わないらしい。
(ちなみにこれらは関東の話ですが、土佐の長宗我部と一領具足の結びつきが幕末の坂本龍馬の時代まで尾を引いた事を考えると、全国各地である事なのでしょう。)
この話を踏まえて、血筋とは何なのか。
「イエ」の物語やその教訓は代々守り伝える限り残るが、
遺伝的な意味での「血筋」がはっきりと出るのは数代の限りなのではないかと考えている。
農家さんの多くが確かに自分たち自身を「ただの百姓」と呼び、学も無く品格も無い、と自虐的に語るが、
失われた歴史をストーリーとしてお教えすると、生き生きと誇りを取り戻す。
しかしながらそれまで受けてきた教育は変わらないし、次世代に何を教え残すかも教育者としての自分次第。
ちなみに「農民」で一括りにされる事が多いですが、庄屋層は江戸時代からかなり恵まれた教育環境にあったとのこと。
うちのばあちゃんも地域で唯一女学校に行かせてもらえたらしく、単に士農工商とかいうファンタジーではくくる事が出来ない場合が多い。
家庭環境の違いは生まれによって確かにあり、教育の質は当然大きく変わってくる。
また、「武士の家系」という代々受け継がれる「イエ」の物語が作り出す誇りと自信も大きいのかもしれない。
千葉県の某所にやはり「武士の家系で・・・。」という誇り高き地主タイプの方がいらっしゃいました。
その方の家はやはり小田原北条家に仕えていたとの事でしたが、なぜか江戸時代を通して武家として、徳川から本領を安堵されていたとの事。
何だろうな・・・。と思い調べてみると、何の事は無い、北条家に仕えながらも徳川家と内通をし、小田原征伐では豊臣側に付く代わりに、本領安堵の約束をしていたという(うろ覚え)。
「武士の家系」物語が作り出す誇りというものも、割と中身の無いものである。
(ただし、これも一つの歴史であり、武家としての「イエ」の歴史を守る、という意味では尊い決断なのかもしれない。)
教育の質に関しては、言わずもがなであるが、近代的な教育と人材登用システムが構築されてからはそのシステムをよく理解している事が肝心なのは当たり前で、
教育水準の高い家には、良い教育方針と良い物語が備わっているのかもしれない。
「物語」によって得られた誇りを胸に、立身出世を志す感覚が備わっているかどうかは大きい。
教育の機会も家庭の経済状況などに左右されてきたが、時代とともに様々な仕組みが生まれてきた。
貧困を理由とした教育機会格差の問題は、薄められてきた。「志」の教育を出来ているかが大きいと思う。
最後に大事になるのが、攻略法教育。つまり「受験」というペーパーテスト人材登用システムの攻略法を伝授できるか否か。
現代の引きこもりの人々は、高い志を母親、あるいはテレビや漫画から植え付けられてきたのに、
攻略法を持たないのでその理想と現実のギャップで屈辱感にまみれて腐っていく。(かなりもったいないと思う。)
そして、教育とは代々受け継がれるもの。早く気づいた方が有利なのは、間違いない。
明治時代から気づいている家庭もあれば、最近気づき始めた家庭もあるだろう。
■国会ではよく、
「(国民の)信を問う」
とよく言うが、
まったく言葉に見合うことが出来ていないことについて、異議を唱える。
自分一人が言ったところで変わるはずもない・
昔からこういうもの・やり方がお粗末なのは最初から」といった、
あきらめの境地に至ってしまっている。
高い金を払ってうぐいす嬢を雇い、
「(誰々)をお願いします」と言うだけの選挙カーを走らせるのは勝手だが、
それと「信を問う」ことに、一体何の関係があるのであろうか。
それと「信を問う」ことに、一体何の関係があるのであろうか。
「~党からの推薦(~党所属)です」、という、組織的な裏付けを
集団になると、集団心理が入り込む余地が出てきて、急に思考力が落ちる。
立候補した人間個人の影は薄れ、「党」単位の戦いに完全にすり替えられてしまう。
時代錯誤も甚だしい。
正直言って、「信を問う」のであれば、
担保金や、上記のような馬鹿げた方法に大金をかけるのではなく、、
有権者にマニフェストをきちんと配布し、判断してもらうべきである。
(街頭演説や政権放送は良いが、タイミングが合わず見られない有権者もいる為)
基本的には、確実に有権者が受け取れるような、事前の情報提供が一切無い。
有権者が積極的に動き、新聞から出身大学がどうだとか、僅かな情報を得たり、
それでどうやって信任すればよいのか。
「(国民の)信を問う」という言葉を、軽々しく言って欲しくない。
意味のない旧態依然な方法や卑劣な方法を止めて、情報弱者の高齢者でも受け取れる、
日本人は馬鹿ではない。確実な情報提供があり、集団心理や利害関係を排除すれば、
高い思考力を発揮できるのだから。
以前この場で「池袋は、案外アジア系エリートファミリーが多いから、教育水準悪くない」と投稿した元増田だが。
今では「S(難関校に強い)」「W」が急伸して、4強状態になっている。
ウチの場合、あわよくば難関校も・・・と思っていたのだが、Sは大ターミナルの池袋にないんだな。
ちなみにYも巣鴨高田馬場に校舎あるのに、これまた池袋にない。
なので、ウチは仕方なく、池袋に校舎があるNに通っている。
SやYが大ターミナル池袋に校舎作ってくれないのは、エリアの小学生がおバカさんだから・・・じゃなくて、
でも、Wの体育会的雰囲気には好き嫌いがあって、ウチは避けたがな。
(本来なら、立地的にはWに通うのが王道なんだろうが)
よくある3流社会学者の分析みたいな感じで、統計だのモデルだのばかりで現実感が無い感じがする。全てが間違ってるとは言わんけど。
30ちょいで2回転職(やりたいことやるため)してきてるけど、生き残るくらいなら余裕なんじゃないかなって感じる。理由は以下。
アパルトヘイトを止めたので、有色人種と白人の間に壁はなくなり、白人のみの国家というのも存在しなくなっている。
かつて、正教徒の国アメリカは無数の移民を受け入れ、人種も宗教もごちゃごちゃになった。
元増田が想定しているのは、ドイツくらいかと勝手に思ってるんだろうけど。
その上で、敢えて言うのであれば、経済先進国≒白人国家くらいの感覚でざっくり語ろう。
・
一次産業でも二次産業でも、物を大量に生産し、他の国より安く売る。
簡単に言えばそういうことが国家の力だった時代がかつてあった。今は違うんだけど。
それは、国際的企業が人件費の安い国で生産し、販売を行うので、生産力が単純に国力の指標にならなくなったんだね。
経済的な大国とは、つまり飽食社会を形成出来る国か、と言うことに落ち着くと思うんだけど、物質的な余裕は知的活動につながりやすいので、子供の手を借りなくても食っていけるのであれば、子供には教育を施す。
教育がしっかりして、飢えていなければ社会的モラルは保たれやすい。
逆に、いっぱいいっぱいなら、余裕が無くて教育も社会的モラルの土壌も育たない。
だから、経済先進国が秩序があるように見えるんだけど、さて、最近はそれもどうだか。
・
ともかく、飽食社会は広がり続けているので、教育もどんどん行き届いている。
同じ水準の教育を受けた人間同士なら、白人も有色人種も似たようなもんだ。
ここで重大な問題が生じる。
同じ教育水準でコストが安いなら、様々な仕事が安い方に流れる。
先進国に集まっていたコストがそうじゃ無いところに集まっていく。
昔、アメリカで日本車を壊すデモがあった。アレはアメリカの経済的衰退の始まりだと思っていい。
・
国家規模で考えなくても、一国の中でも、例えば簡単な仕事はコストの安い移民に独占されたりもしている。
移民のコストが安いなら、先進国の国民も同じレベルの給与水準に耐えなければならない。
・
面倒になったのではしょるけど、現在経済的に有利であることが将来的に不利になることもあるって事だね。
今や生産能力なんてナンの担保にもなりゃしないし、開発なんかも結局人件費に落ち着く。
世界の先進国とそうでない国との差は近づきつつあるし、先進国は様々な制約で経済成長に歯止めが掛かっている。
・
結局、白人様なんてありがたがってもしょうがなく、彼も僕も同じ人間でしかない事を踏まえた上で、育つ環境以外にみんな大した違いなんてないんだって思っておこう。
・
一応、今後についてだけど、今後は資源持っていても、やはり経済音痴の国は損をする。
1. 膨大な労働力のグローバル市場への参入(→海外の低賃金労働への代替)
2. 世界的な教育水準の上昇(→新興国への生産移転が容易に)
4. 製造業就業者を減少させる技術進歩(→経済のサービス化)
7. これらの要因が相互作用した結果、若者(特に男)の"decent work"の減少・貧困化が進んでいます。日本でも、失業率悪化は男の方が顕著です(上のグラフ参照)。
女に対する男の所得の相対的減少は、結婚(パートナーシップ形成)の阻害要因として働きます。女は結婚相手に「自分より上」を求める傾向があるためです(marrying up)。男女平等が進んだ北欧でも、女は男に大黒柱であることを期待します。
http://totb.hatenablog.com/entry/2014/03/05/070529
なぜ女は男に経済力を求めるのか。
答えはただ一つ、妊娠出産授乳時に収入が途絶えることが恐ろしいからである。
つまり妊娠出産授乳時の収入を政府が保証し、産前と待遇の変わらない復職が可能になれば、女が男に経済的上昇婚を求めることは無くなる。
ここでは"女は結婚相手に「自分より上」を求める傾向がある"と書かれているが、男は女に「自分より上」を何も求めないのだろうか。
それは違う。男は女に経済力を求められる代わりに、結婚相手に「自分より上の容姿」を求める傾向がある。
妊娠出産授乳が女にしか出来ないという生物学的不平等の結果、男と女はカネとカオの交換を行うようになったのだ。
妊娠出産授乳時の収入を政府が保証すれば、女は男に経済的上昇婚を求めなくなる代わりに、男の容姿への妥協を以前よりもしなくなるだろう。
オリンピックのニュースを見ていて、「金メダル取ると日本にとって何かいいことあるの?」と聞かれた。
選手本人がよい成績を目指して頑張るのはもちろん理解できるが、それを国が支援することにどういうメリットがあるのだろうということだった。
(念のため書いておくと、無駄だからやめろというよりは純粋に疑問に思っているようだった)
答えようとしたが、自分でも深く考えていなかったのでとっさに納得行く答えを返すことが出来なかった。
国民の教育水準を向上させたり研究活動で良い成果を出せば、その成果は国民に返ってくるわけだから国が支援するのは当然だ。
スポーツであっても、子供へのスポーツ教育や生涯スポーツのようなものは、健康増進やQOLの向上等に役立つだろうから、やはり国が関与するのは理解できる。
ただ、超一流の競技者を育てることに国としてどこまでメリットがあるのか、改めて考えてみるとよくわからなくなってきた。
考えられるのは「スポーツ科学の実践・研究の一環」「文化への投資」「国威高揚」あたりなのかなあ。
他に何かあるだろうか。
掛け算には順序があるよ (順序肯定派)
| └─ 教科書もそう書いてあるんだからそうなんだよ (教科書固執派)
| └─ 学習指導要領にもそう書いてあるよ (実は書いてない派)
|
├― 理解を深める、理解力を測るために必要なんだよ (教育論派)
| ├─ 根拠はあるよ (根拠教えて派)
| | └─ 日本の数学の教育水準は高いよ (相関因果混同派)
| └─ 根拠は無いよ (論外派)
| └─ 逆に順序がないという証拠を見せろよ (悪魔の証明派)
|
| ├─ 授業の終わりまでだよ (不正解否定派)
|
| └─ 不正解を貰うことで子供は考えるよ (正解を不正解にする派)
| └─ この程度で萎縮するようじゃどの道挫折するよ (マッチョ派)
|
├― 逆が正解だよ (変則肯定派)
|
├― 順序に反対したところで教育現場は変わらないよ (消極的肯定派)
|
|
└― 受けと攻めははっきりしておく必要があるよ (カップリング派)
掛け算に順序はないよ (順序否定派)
|
| ├─ 数え方で順序は入れ替わるよ (トランプ配り派)
| └─ 面積を教えるときどうするんだよ (縦横派)
|
| ├─ 不正解にすることで子供が萎縮するよ (萎縮危惧派)
| ├─ 順序を重視するなら問題文に記せよ (無記述否定派)
| └─ "×"を使わず独自の記号を使えよ (算術記号原理派)
├─ 算術記号の"×"と言語の"掛ける"は別物だよ (算数国語分離派)
| └─ ×は「掛けるまたは掛けられる」という算術記号だよ (新定義派)
├─ 順序は教えるための道具でその場限りのローカルルールだよ (順序道具派)
└─ 順序があるとする根拠が何も無いよ (根拠見せろ派)
「答えは合ってるのにバツをつけると子供が萎縮する」とか「数学嫌いが増える」とか「利発な子の成長を止める」とかなんとか言っちゃってるけど、
たかだか掛け算のテストの文章問題ひとつ間違えて萎縮しちゃうような子は当然他のカリキュラムでも間違えて同じように萎縮してるし、
たかだか掛け算のテストの文章問題ひとつ間違えて数学嫌いになっちゃうような子は当然他のところでも間違えて嫌いになるし、
たかだか掛け算のテストの文章問題ひとつくらい、利発な子は適応して教師の要求を汲み取って合わせちゃうんだよね(だからそういう子を伸ばしたいんだったら私立に行かせるのが本人のためなんだけど)
あと、日本の初等教育の水準の高さは当然評価されてるし、テストでも好成績。
子供の理系離れが叫ばれる以前から同様の問題はあったわけで、上に挙げたようなのを救ったところで誤差程度の向上でしかない。
むしろ教師側のコストが今以上に膨れ上がってしまうのは見え見えだし、これを変えたからってもっと教育水準が高くなるとも思えないんだけど。