はてなキーワード: 政治用語とは
意識高い人があえてその単語を使いたくないのは、間違った意味で受け取られそうだからじゃないかな?と思う
男性嫌悪も女性嫌悪も、ただ性別が嫌いとか、性別に偏見があるとか、性別を極端に憎んでる過敏な人とか、そういう意味ではないけど。
字面だけ見たらそう読む人がいそうでしょ。
意識高い系の人が外来語をカタカナや英語のままで使いたがるのには理由があるのね。
その手の外来語、政治用語、人権語、反政権ワード、反権力ワードは、日本語として訳語が広まるときに、かならず何らかの方法で意味を歪められるんだよね。
お金をもらって、あえて意味を歪めてる人がいるケースもあるし、人権や反権力の概念を理解できない人が意味をめちゃくちゃに解釈してるケースもあると思う
その手の語は、正しい意味の訳語が広がることはほぼなくて、やたらめったら日本語訳の意味が歪む。
そして、日本語の意味が歪んでいるとお金が儲かる人が日本にはいるんだよ。
衆愚政治と呼ぶけど、衆愚っていうのは、権力者にとっては都合がいいから、意図して作り出される。
大衆たちの権力を利用して好き勝手したいから、大衆にはもっとバカでいてほしい人がいる。
国民がある程度の人数で一致団結したら、最高権力者の統一された意思となる。それがこの国で最も強い権力を持っている。
この国の全てを変える力を持っている。それに敵う権力が存在しない。汚職も裏金も潰されてしまう。他の国では多くの汚職が団結した国民に潰されてしまった。
だから、悪いことをしたい人にとって、国民の意思が統一されたり、国民に一致団結したりされては困る。
彼らは、なるべく「不正」はしたくないんだよね。
法律を悪い方法で利用したり悪い法律を作ったり捕まらないように丁寧に証拠を隠滅したりして、「正しく」国民を裏切って私服を肥やしたいのね。
「不正」をしてしまうと、政敵に利用されがちだから。攻撃される理由を与えてしまうことになるからね。
そして、それを妨害できる最高権力者(一致団結した国民)は鬱陶しい。
だから、そのような人は、バカな国民がマトモに会話して、マトモにメディアが報道して情報が流通して、マトモに意思疎通できる状況は絶対に作りたくないわけ。
国民の中から、男性嫌悪の意味がわからないまま間違えて使ってる人間を探すの。
そしてその人たちの発言が拡散するように多額のお金を使ってこっそり操作する。Dappi事件とかあったよね。
バカな国民たちがまともに会話できないようにするために何億円も使う人間がいるわけ。
頭のいい人間がいくら正しい言葉を伝えようとしても、汚職してる人は上の操作でお金が儲かるから仕事にできてしまう。でも意識高い人はそれでお金が儲からないから、あくまで仕事をしながらの慈善事業としてしかできない。
この美術館に行くにはこのバス路線でいいのかみたいなことを訊かれて
英語も韓国語もうまくできないし説明も面倒だし同じバスだからバス停に着いたら知らせるよ~って言って一緒に乗った
バスは市の一番の最新型で行先や停留所名が車内に設置してある大きな画面にハッキリ表示されるタイプで
○○美術館前って表示されてるからあのバス停だよ、ってその子に教えたんだけど
その子は漢字が全然だめみたいでわからなかったようだった 慌ててその場は英語で言い直して、彼女は無事美術館前で降りた
とりあえず案内できてほっとしたし相手もサンキューってニッコリ笑って降りて行ってそれはまあまあいい思い出だったんだけど
あとからそういえばもう若い世代ではハングルだけで殆ど漢字は常用しないって聞いてたな~って思って
でも名前の表記なんかは今でも漢字なんだろうし、例外的に名前の漢字だけ覚えるものなのだろうか?みたいなこと考え出して
それから何となく興味を持っていくつか韓国KBSの番組を観てみたらやっぱり今でも漢字を読んだり書けたりする人は
ほとんどお年寄り世代かその下の教育を受けた世代だってことがなんとなく察せられた 40代くらいのお笑い芸人が
香港宛に漢字で住所を書いてると周囲では漢字なんかで書いてる!カッコいい!古臭い!という両方のリアクションがあって
何て書いているか読めないと言っている30代のミュージシャンもいて
書くのはもとより読めない事も普通になっているんだなあということも察せられた
ハングルは表音文字なのだろうから英語と同じで一応それだけを覚えておけば日常生活に問題はないのだろうけど、
番組をそれからもいくつか見ていて思ったのは「韓国人は同音異義語で混乱したりしないのだろうか?」ということだった
年配の芸能人はよくダジャレを言っていて同音異義語が韓国語においてもずいぶんあることが察せられたし
発した単語を他の芸能人に別の同音の単語と受け取られてコミュニケーションに齟齬が生じたことを笑いに演出したシーンなども散見されて
このような間違いが結構韓国における日常の中であるのではないかと思った
例えば「感謝」と「監査」は字幕ではともに「カムサ」と表示されてそれをまさに勘違いしたシーンがあったり
京畿道の「京畿」と「競技」はともに「キョンギ」と表示され、やはりダジャレとして発言するシーンがあった
他にも幾つかのこのような単語があり、こちらは字幕で観ているし漢字を日常のものとして使っている文化圏の人間なので
それを区別することができるけれども韓国の人はハングルだけでどのくらいの精度でそれができているんだろうと気になった
韓国語には日本語にはない発音も多いと聞くしそのところの違いや前後の文脈で区別できることも多いだろうけど
ダジャレや笑いの演出に使われるくらいなのだから日常でこういう混乱がまあまああるのではないかと思った
それから、番組を見ていて字幕と韓国語での発音を照らし合せてみてこれはこの単語だろうと察せられるものがいくつもあり
「短距離」はタンゴリ、「木浦」はモッポ、「競技」は「キョンギ」、「消防車」はソバンチャ、「無理」なんかそのままムリだし
それで日本人の私はヘンな言い方だけど「この人たちもやっぱり漢字を読んだものを喋っている!」と思ってすごく面白いと思った
大陸から半島を通って漢字は日本にやってきたわけだしそれはそうなんだろうけどハングルのイメージが強いだけに新鮮だった
「鞄」はそのままかばんって読むし「約束」もヤクソクってそのまま使われてて
これは統治時代に日本から持ち込まれた単語なのだろうけど、それ以降にも政治用語だとかビジネス用語において
日本や英語圏から持ち込まれる新しい概念なんかはまず漢字表記の単語がそのまま韓国読みになってるものが多いらしくて
それが政治的に気にいらない、みたいな発想の人もいるみたいでなかなか複雑な社会とシステムだと思った
テレビ番組や観光客からこういうものをなんとなく察するにもしかして日本人が韓国語覚えるときって
ハングルだけじゃなくて漢字表記も併用して覚えていく方が簡単なんじゃないかと思ったけど
そうしたらそうしたでネイティブな若い人達とコミュニケーションの齟齬が生まれるみたいな状況も起こりそうだなと思った
韓国での漢字の識字率とか漢字表記に対するそれぞれの世代の認識、同音異義語の問題とか
もし詳しい人いたら聞いてみたいな~と思ったんだけど訊く人いなかったからとりあえず増田に書いてみた
【2/1追記】
たくさん反応があって驚いた!
ブコメやトラバで面白いエピソードや実例等を教えて下さった方々どうもありがとうございます とても興味深く読みました
全く違う文化の国だとぼんやり思っているだけだった国の言葉や他の様々が
自分が住んでいる国と双子のようにとてもとても近いところがあったり小さいきっかけで興味を持って
その国の番組を少し観るだけのことでなんとなくわかる部分が出てきたりするくらいにはお互いが密接な関係であり
地理や歴史の関係で文化の下地に共通したものがあるからそれができるんだ!という事実に
なんというかSFでよくある「元の世界とほんの少しだけ違うパラレルワールド」の発見のような気分でした
日本ととてもよく似ているんだけれど決定的に違う部分もあって、それがすごく面白いと思いました
ブコメに「つーかなんで韓国だけ気になるんだろう?ベトナムも元漢字使用国だけど誰も話題にしないよね。」と書かれていますが
私が何か韓国に対して特別な予断があったり差別心から書いていると思われては心外ですので書きますが
「韓国が気になった」理由は冒頭に書いてあるきっかけの通りです
案内したのが他の国の子だったらなにかしらその国の事が気になったでしょうね
あと私は「ベトナムも元漢字使用国」というのを恥ずかしながら今回のブコメ群で初めて知ったので(すごく興味が出てきた)、
知らないことは話題にできない、ということにすぎません 無知だなと言われればその通りです
ベトナムの方とも今回のような些細な接点があったらきっとベトナムのことが気になってあれこれ調べたでしょうが、
韓国はおそらくはベトナムよりも距離的にも歴史的にも日本と近いところにあって
現在では芸能方面で他国に向けてあれこれ発信していることもあって今回のようにあれこれ面白いことを知ることのできる環境
(日本語の翻訳つきで情報を得られるテレビ番組がケーブルテレビでチャンネルごと無料ですぐ視聴できる)が整っていることが
それに接する人間の興味を加速させた、というだけのことだと思います
それはそれとして同じくブコメの
「ベトナムの人名も漢字に置き換えたら面白い。めっちゃ可愛い今風の女の子でも
「菊」とか「梅」とかだから。日本人の感覚からすればおばあちゃんみたい。」
めちゃくちゃおもしろい!あとからさっそく調べてみようと思いました
最初の段階では書き忘れた面白い例として、韓国のバラエティ番組を見ていると「ツンデレ」という単語がそのまま、
その意味するままでとてもカジュアルに男女問わず使われていてこれは日本よりも広まっているのでは!と興味深く思いました
擬態語、擬音語ではこれはあるコミックミュージシャンの曲で知ったのですが、
食感における「カリカリ」という表現は韓国では「パサパサ」と言うと知ってまるで印象が逆!と思ってすごく笑いました
あと食べるシーンでよく「孤独のグルメ」のBGMがかかるのでごく一部とかではなく本当に流行っているんだなあと実感したりもしました
ものの名称はもちろん概念につけられた名前までがそのまま輸入されたり
逆に向こうの「オルチャンメイク」のような言葉がこちらに入ってきたり
過去だけではなく互いに流入のあり続けるこの文化の近接した感じがとてもエキサイティングだと思います
一局だけしか見ていないので偏りはあるでしょうが、私はこの数週間ですっかり韓国の芸能人やトレンドに詳しくなってしまって
また今回のように韓国からの観光客を道案内するような機会があれば案内するそのついでに
23歳になってようやく、10歳頃からの慢性的疾患であるところの厨二病が治りかけてきたと思っている。
中二病にも、邪気眼系、暗黒微笑系、尾崎系等色々種類はあるが、ここでは、
「俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは
あの流行りの曲かっこいい とか あの服ほしい とか
ま、それが普通ですわな
it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。
的類いのものと捉えてくれていい。
2016年6月の終わり頃、Twitterのトレンドに乗じて、「上半期に観た映画ベスト」なるものを自分も投稿したのだが、1位は、「ズートピア」とした。「ディズニーを敢えて1位として褒める、一周回って「アリ」」みたいなひねくれた気持ちでなく、これは純粋に、1位だと思ったからだ。
なので、先日公開された「シン・ゴジラ」も、事前の絶賛感想、また、「庵野…俺の負けだ…」という島本和彦氏のアツいツイートなどを見て、本当に愉しみにしていた。わざわざIMAXの席を取り、また一刻も早く観たいので平日の夜に、そして、若き日の庵野氏が登場する「アオイホノオ」も復習せねば、と息巻いていたくらいである。
という具合に、完全に、自分も、後でツイッターに、「シン・ゴジラ素晴らしかった!!」と書くつもり満々で(観てもないうちから…)、わくわくしていた。
が。
どこもかしこも大絶賛の理由がである。先程の中二病云々の前置きを入れたのは、これは決して、「流行りに反発する俺カッケー」的精神で言っているのではないという但し書きである。
特に不思議なのは、日頃、人権意識の高かったり、リベラル寄りの人も、「日本の戦い方というのを見せて貰った!!」みたいな論調で褒めていることだ。
いいのかそういう着地で?
多数の有名人たちが登場する中で主役として据えられているのは、内閣官房副長官である「矢口」(ハセヒロ)という人物である。
会議会議で誰もビシっと決断出来ない割にはその会議は最初から「想定内」の結論ありきな形式的なものにすぎないという悪しき日本の慣習に侵された人物が多数を占める中、この矢口という人物だけは、最初から、巨大生物の存在(後にゴジラと名付けられる)の可能性を指摘し、会議と、国民の反感や国際社会からの非難を怖れた日和見で政府が迅速な対応が取れなかったことを悔やみ、
派閥争いとか出世から外れた異端者たちを集めたチームや、石原さとみ演じる米国大統領特使(「意識の高いルー大柴」とか書かれていて笑った)と交渉、根回しすることで、何とか、米国などの言いなりの帰結としての「最終解決法」――「原爆投下」――日本にとっては三度目の――を阻止した上で、ゴジラの被害を食い止めるための解決策へと動く。
これは重大そうで重大でないネタバレだが、私が、ごく少ない素晴しい点だと喜んだのは、中盤あたりで、総理大臣(とその他閣僚数名)が躊躇なくあっけなく死ぬところだ。やな奴だと思っていた総理大臣が、突如矢口に、「君のことは、本当に買っているんだ…」みたいなことを言い始めたり(※補足:これはあくまで死亡フラグの例えで、別に私も劇中で嫌な奴だったとは全然思っていません)、「俺、この戦いが終わったら娘の結婚式に…」みたいな死亡フラグメロドラマもクソもない。あれ、死んだ?程度のタイミングで死ぬ。
「新しいリーダーがすぐに見つかるのがこの国の良いところだな」という劇中の自虐じみたないしは皮肉めいた台詞にあるように、この全然劇的でない死亡劇は、映画の一つのテーマともリンクしていて、国のトップである総理大臣でさえこの国にとっては唯一無二でないところは、しかしある意味では強みになり得るという着地だ。
超越的なカリスマ性や能力を持った人物のみの力で成り立っていたり、「その人だけにしか出来ない事」を抱えた人物が各々バラバラにいる組織は、リーダーや、「その人」がいなくなった途端崩壊してしまう。だから、組織や集団の恒久的な存続の為には、「その人だけにしか出来ない事」「その人でなければならないこと」といった唯一無二性を特定の人物に集中させない仕組み作りが重要なのであり、総理大臣が死んでも替わりがいるというのは、逆に言えば、そうした仕組みが機能しているからこそとも言える。
ゆえに本映画や主人公たる矢口は、徹底して「独占」を否定する。まず通常であればフィクションにとってかなり重要と思われる<キャラクター>の独占の否定。総勢300何人だかのキャストということで、ナントカ大臣とかかんとか色々次々に出てくるが、実質的には3つか4つくらいしかキャラクターは存在していない。誰が文部大臣で誰が防衛大臣でというのはこの映画にとってはどうでもいいことで、口調等微妙にキャラ付けされてはいるものの、「大臣」という一つの役割と行動原理と台詞が、10何人に与えられているに過ぎない。(多分普通の映画だったら2、3人にセリフをまとめるはずである)
「はみ出し者の集まり」とされる、ゴジラの正体究明班だってそうで、「学者っぽいないしはオタクっぽい探究心でゴジラについて調べる人たち」という一つの役割を4人くらいで分担しているだけである。(多分これも通常であれば一人にまとめられる)
これは、多数の人物たちが台詞を次々に言うことでテンポ感を出すという演出上の意味もあるだろうけれど、「チームで一つの役割」を持つべしという価値観の現れでもあろう。
更に、情報や知識の独占の否定。矢口は、本来ならば国の重要機密として扱われるであろう、ゴジラの細胞データサンプルなどの情報を様々な機関や国にばらまくことで、問題の早期解決を導く。三人寄れば文殊の知恵、これは自分ないしは自分たちだけが知っていると独占機密化することで情報の価値を上げるよりも、広く共有することでなるたけ沢山の協力を集めた方が得策である、という姿勢だ。
<超越的>存在であるゴジラに対峙した時、この国を救うのは、同じく超越的な存在や飛び道具ではない。目標を同じくする協力集団であり集合的知識であり、つまり<集合>こそが<超越>を「超える」
でもこれって前半あれだけ揶揄していた、「日本には決定を下せる人がいない」っていうのと紙一重であるから前半部の否定と統合性が取れていないし、
むろんこういうのは、思想的な好き嫌い、価値観の問題で、私は所謂ネット上ではブサヨと呼ばれる方の考えに近いから、ともすれば個の否定に繋がるような着地点に、なんだかなーと思ってしまうわけだけれど、問題なのは、というより、問題だと思うのは、「シン・ゴジラ」は、単なる、「集合バンザイ」を主張しているわけではなく、ともすればっていうかともしなくても命に関わる「有事」に遭遇した際について描いているという点である。
矢口は、一刻も早いゴジラの正体究明に必死になっているチームメンバー達が、カップラーメンのみで食事を済ませ滅多に家に帰らず連日泊まり込み、また帰ったとしても翌朝早く来る様子を見て、満足げに、
「この国もまだまだ捨てたもんじゃないな」
とか微笑み(正直、これだけで元・社畜の自分からしてみれば、けっっっっ、って感じなんだけど)
ラストシーン近く、ゴジラを倒す最終的な作戦の前に、自衛隊その他に向けた、
「今回のヤシオリ作戦遂行に際し、
ここにいる者の生命の保証はできません。
だがどうか実行してほしい!
わが国の最大の力は、この現場にあり、
っつー半ば特攻精神的とも取れる演説。(でほんとに作戦決行中戦車みたいなのが幾つかバカスカやられているような)
そして、国連(だっけか)で決定された、「ゴジラには核落とせ」という判断を、何とか食い止めるための水面下交渉について、アメリカ人(のたぶん偉い人)が発する台詞、
「まさか日本がこんな狡猾な外交手段を取れるとは、危機は日本でさえ成長させるのかもな」(詳細は違うと思うがこんな感じ)
映画の素晴らしさは「共感」にあるわけではない。だからこれが、「完全なフィクション」であれば、私もうるさく言わない。
ファンタジーであれば――たとえば、『進撃の巨人』での出撃前の演説、「心臓を捧げよ!」は確かにアツいシーンである。
しかし、「シン・ゴジラ」の場合は、完全に、フィクションの世界観にあるフィクションの人物の行動原理として切り離すことはできない。明らかに、現在の日本を物語に取り込みそして、あるべき日本の姿を提示しているものだからである。
繰り返すが、断っておくと、これはあくまで個人的な価値観の問題である。
しかし私としては、リベラル寄りの人までも、結構絶賛しているのがよく分からんのだ。
もちろん、放っといたらもっと大勢の人が死ぬっていうのは分かるけど、それでいいじゃないか。それでいいというのは大勢の人が死ねばいいということではなく、多くの命が失われるのを防ぐための方法を、という行動原理で十分じゃないか?
それが、いや、登場人物が内閣とか政治家とかだから仕方ないかもしれないが、国のためとか国民のとかこの国はとかやたらと、まあーーーーうっるさい、しつこいのだ。
国のために個や生活を犠牲にして働くのが美徳で命を落とす覚悟が礼賛されるべきもので、何より、「有事」「危機」こそが、国を成長させる、みたいな価値観?
いいのかそれが「これぞ日本の戦い方」で飲み込んで
っていう些か判断や解釈の分かれる思想的な話の他にも、単純にひとつの作品として、映画やプロットの作りとして、鼻につくポイントは少なくないと思う。
これは多くの人が指摘するように、「シン・ゴジラ」の欠点ないしは一部の人にとっては美点の一つは、
「たぶん(本来怪獣映画を喜びそうな)小中学生が見ても分からない」
ことであろう。
次々に入れ替わり立ち替わり出てくる人物、やたらと専門用語や政治用語を並べ、理解させる気あるのか?というくらい早口の会議、応酬、ゴジラを倒すというよりメインは政治劇
「会議が冗長でなくムダがない」「予告では、おっさん達がやたらと会議して退屈そうだと思ったがいざ観てみたら会議もっとってなった」という内容の感想をよく目にするが、
そうか?
前半部の会議会議会議は勿論、指示手続き実行までのリアリティを出すためとかこれだけのプロセスを踏むことの提示とか必要な部分もあるが、社会的風刺になっているシーンも幾つか存在している。主人公が指示を出すと、「それどこの部署に言ったの?」と返されるタテ割り行政とか、とりあえず識者を集める時間の無駄とか、直前までスーツだったのに記者会見を前にして、総理「防護服を持ってきて」というあざといわざとらしさとか、面白いものもあるけれど、風刺したいなら、別に、それだけで、つまり、そういう戯画化したシーンを見せれば十分ではないか。
が、本作では、<その上で>、また、「この国では~」とかいちいち誰かが台詞で言うのだ。これもしつこい。
いや、分かったよ、わかるよ。だって、それさっき見たって。
「難しくて分からないだろうな」とは言うが、わざわざ台詞で補足してくれているところも結構あって、中途半端に親切なのである。その半端な親切さが観客の理解を助けるという方向ではなく、「この国ではあの国ではうるせえ!!」って感じに作用している。自分は、筒井康隆なんかが好きなので社会風刺物はむしろ好物な方なのだが、こういう見せ方はぜんぜん、スマートではないように思う。
更に、後半の最終作戦までの会議やり取り部分は、もっと無駄なような気がする。
物語として分解したときに、小難しい専門用語でなんか凄いものを観た気にさせるないしは(本当はよく分からないが分からないというとバカだと思われるので)褒めておこう!という方向に感想を誘導させる効果しか持っていない。
というのは、2時間映画の構造基本には、
が組み込まれていることこそが、フィナーレのカタルシスを呼ぶ。
小・トラブルとは、物語の世界観を示したり、人物たちの関係性を深めるためにプロット上に用意される障害だが、「根本的に解決されねばならない」問題は別にある。物語として最後に乗り越えるための壁が大・トラブルである。まやかしの勝利、からの喪失とは、今まで向き合ってきた、そして倒して喜んでいた障害が単なる「小・トラブル」で、大・トラブルは別にあることに気付いてしまったり、大・トラブルを解決したないしはできそうだと一旦は歓喜するものの実は全然間違っていたり、
「シン・ゴジラ」の場合、自衛隊が次々に攻撃することが小・トラブル、そして米軍がやってきてダメージを与えられたように見えるのがまやかしの勝利のように見えるが、そうではない。っていうか見えるがって書いたが見えない。
だってあれ見て、誰も「米軍やってきたやったー勝てる」とは思わんだろう。
突き詰めると日本は最終的に日本が守らなきゃねって映画なんだしっていうのがなかったとしても、
根本的なプロット上の問題として、主人公矢口とそのチームが、比較的最初の方で、最終的解決方法にほとんど気が付いてしまっているのである。
ゴジラの動力源が核融合であること、そのために生まれる熱を放熱するために冷却が必要なこと、おそらく血液の循環が冷却として作用しているので、血液を固めてしまえば、ゴジラは活動を停止するのでは……
っていうのが主人公サイドから割と早めに示されてしまって当初は矢口プランとか呼ばれている以上、
「これが正解なのだな」
と思う。思ってしまう。
だから、どんなに自衛隊とか米軍とかミサイルとか出てこようが、それでやっつけられるわけはない。それだと主人公が出てきた意味がない。
これは我々に組み込まれてしまった、フィクション鑑賞時のルールである。
故に、制作者は、その予定調和的思い込みを覆さねばならない。むろん、米軍が出てきて解決しちゃいましたチャンチャンという方向でなく、だ。
というプロット構造に則って言えば、ゆえにこの、当初気付いた解決策は後半部で本来、「覆される」べきなのだ。主人公ないしは主人公サイドは、「解決策」を握り、幾つかの妨害や無理解そのほかに合いながらも、なんとか実行直前ないしは実行に漕ぎつける。やった!!というつかの間の悦びを得るが、そのうち、それが無意味・不正解、根本的解決ではないことを悟り、絶望に陥る。
で、
からの。この、「で、」からが、ラストに向けた助走なのである。
これが、例えば、当初は主人公たちは全然別の方法を思いついてしかし失敗、再度のなんとか成分がとか原子構造がとか動力源がとか分析のアイディアの出し合いにより、「血液固めればいいんじゃね」ということに気づく…とか、苦労してバトルして血液凝固剤注入したけど無駄でした⇒博士の残したデータの解析⇒凝固だけじゃ足りないのかもとか注入方法の工夫が足りないとか試行錯誤して最終決戦、
など少なくとも順番が入れ替わっていれば、
専門用語を並べ立てた応酬、会議会議、チーム内の協力…の配置が、物語に機能していると言えるし、純粋に映画としてのカタルシスと、内容を理解できる者にとっては、そうだったのか!と、謎解き的、知的カタルシスをも生む。
しかし最初に、後半の最終作戦までの部分は、もっと無駄、と書いたように、実際はそういう構造ではない。
主人公たちが序盤の方で気付いた最終解決策がほぼそのまま最終作戦なのだ。博士の残したデータの分析で抑制剤がプラスされはするが大方まあ正解なのだ。そしてちょっとやられたりはするが成功しちゃうのだ。
だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。だって序盤に示された正解が正解ということを補強しているだけである。
つまりほとんど、「米国が核爆弾落としちゃうかもヤバい!どうする!」という物語の都合上、(間に合わないかも!)という時間稼ぎに配置されているだけだが、そんなの、間に合うのは分かる。フィクション鑑賞時のルールとして。
ラストの作戦がショボい、という感想はちらほら見かけるが、本当は、作戦がショボいことがカタルシスを生んでいないのではない。ほぼ最初に示された正解通りのまま終わるから、あれ?となるんである。かつ、人物たちの早口の分析から判明していく真相に、なるほど、そういうことだったのか!という知的快楽も得られない。
以上の理由から、「難しいから子どもには面白くないかも~」と言っている人こそ、本当に理解しているのだろうか、煙に巻かれているだけじゃないの、という感じだが、
「小難しい」というだけで、煙に巻かれて何か凄いものを観た気になる一部の人間、ないしは、凄いものを観た、観客に媚びてない=芸術的=作品の価値が高い と「思いたがる」(言いたがる)(だってつまらないと言ったら理解できなかったと思われる、バカだと思われる)類いの鑑賞者にとっては、演出上の効果はあるのかもしれない。いや、あった。
けれど、
やれ家族の絆だ恋愛だお涙頂戴だ感動だの分かりやすい浅い作りにしなくても、クリエイターが作りたいものを大衆に媚びずに作っても、観客はちゃんと素晴らしいものを評価できることが~
みたいな、自分が一番「一般人」(こういう言い方をする映画マニア、てめえもただの一般人だろって感じだよなマジで)を馬鹿にしている上から目線の物言いで、無邪気にキャッキャッと、ハリウッドに勝ったとか邦画も捨てたもんじゃないとか喜んでいる場合だろうか。いまだに。
同時に、分かりやすいことは必ずしも、「浅い」ことを意味しない。
むしろ、近年、「マッド・マックス」とか、「ズートピア」のような、戯画化によって現在蔓延る社会問題の構造を鋭く炙った作品でありつつ、かつ、子どもでも純粋に楽しめるくらい映画として高いエンターテイメント性を持った作品が海外から出て話題を呼んだ中で、
まだ、大衆に媚びてないから一般人は難しくてついてけないだろうけど~チラッチラッ みたいなことを言ってはしゃいでいる段階って、それこそ完全に「敗北」だと思いますけどね。
2015年の流行語大賞の候補が発表になりましたね。はてなでの反応を見る限り、聞いたこと無い、政治的な用語に偏り過ぎという意見が多かったように思います。そもそも、この賞の正式名称は新語・流行語大賞なので、流行語の方はともかく新語の方は知らなくても仕方ないのかもしれませんが、候補となった言葉を自分が知らないだけなのか、世間では普及しているのかが気になったので、Tahoo知恵袋で検索して、検索結果の件数をランキングにしてみました。どうぞ。
という訳で、2015年最も流行した流行語は「チャレンジ」でした!という訳にはいかないですね。ここでのチャレンジは東芝の件を下敷きのしているのに、一般的な頑張るという意味のチャンジを含むこの検索結果数で順位を決めても仕方がない。エンブレム、花火も一般過ぎて参考にならない。固有名詞っぽくてランキングが高いのは、その次からのモラハラ、マイナンバー、北陸新幹線、大阪都構想、ドローン、戦争法案あたりでしょうか。たくさん政治用語入れたのに、安全保障関連はあまり順位高くないですね。これで、戦争法案が大賞を獲ったら政治的との謗りは免れないのではないでしょうか。
順位 | 検索語 | 件数 |
1位 | チャレンジ | 208611件 |
2位 | エンブレム | 30189件 |
3位 | 火花 | 20036件 |
4位 | モラハラ | 16363件 |
5位 | マイナンバー | 12135件 |
6位 | 北陸新幹線 | 10214件 |
7位 | 大阪都構想 | 7688件 |
8位 | 粛々と | 6201件 |
9位 | ドローン | 4369件 |
10位 | 戦争法案 | 3849件 |
11位 | シールズ | 3577件 |
12位 | ルーティン | 3415件 |
13位 | レッテル貼り | 2541件 |
14位 | ラブライバー | 2026件 |
15位 | ラッスンゴレライ | 1994件 |
16位 | 白紙撤回 | 1818件 |
17位 | SEALDs | 1286件 |
18位 | 爆買い | 1069件 |
19位 | トリプルスリー | 1021件 |
20位 | あったかいんだから | 937件 |
21位 | スーパームーン | 872件 |
22位 | インバウンド | 799件 |
23位 | テロに屈しない | 378件 |
24位 | ラッスン | 355件 |
25位 | フレネミー | 345件 |
26位 | ドラゲナイ | 259件 |
27位 | 存立危機事態 | 254件 |
28位 | はい、論破! | 185件 |
29位 | おにぎらず | 170件 |
30位 | 駆けつけ警護 | 146件 |
31位 | 下流老人 | 97件 |
32位 | I am not ABE | 97件 |
33位 | ミニマリスト | 91件 |
34位 | 早く質問しろよ | 88件 |
35位 | サードウェーブ | 74件 |
36位 | I AM KENJI | 69件 |
37位 | プロ彼女 | 56件 |
38位 | オワハラ | 54件 |
39位 | 結果にコミットする | 53件 |
40位 | 1億総活躍社会 | 46件 |
41位 | 五郎丸ポーズ | 44件 |
42位 | アベ政治を許さない | 42件 |
43位 | 上級国民 | 35件 |
44位 | 自民党、感じ悪いよね | 30件 |
45位 | 切れ目のない対応 | 28件 |
46位 | まいにち、修造! | 23件 |
47位 | 福山ロス | 21件 |
48位 | アゴクイ | 15件 |
49位 | 国民の理解が深まっていない | 9件 |
50位 | ましゃロス | 8件 |
51位 | 刀剣女子 | 7件 |
52位 | 安心して下さい、穿いてますよ | 6件 |
53位 | とりま、廃案 | 2件 |
16日の昼、埼玉県春日部市にいた。たまたま入ったレストランで、隣に座った60代と思われる女性2人の会話が耳に入ってきた。「…もう結果が出ているからね」「そう。だから〔投票に〕行ってないの」。
メディアは投票日に向けて、選挙結果の予測を「世論調査」の名のもとに執拗に行ってきた。投票日に向けて何度も世論調査を行い、「自民単独過半数の勢い」(『東京新聞』12月13日付)、「自公300議席うかがう」(『朝日新聞』14日付)、「自民勢い変わらず」(『読売新聞』同)…という調子だった。映画が始まる前に、その結末を大声で話すようなものである。これでは映画館に行く気力も失せる。
午後8時。開票が始まると同時に、「出口調査」を根拠とした当選確実が次々と打たれ、朝刊一面トップの見出しがほぼ決まってしまった。メディアが予測していた以上の劇的な結果となった。民主党の地滑り的、壊滅的大敗北、自民党の単独過半数、自民+公明(or/and)維新で3分の2(320)を超えることが確実になった。
いま、開票速報を聞きながらこの「直言」を執筆しているが(16日午後9時現在)、何とも不思議な気分になった。まるで開票が終わったかのようである。『東京新聞』12月15日付「こちら特報部」は、「世論調査が醸成する『空気』」を分析している。この不思議な「空気」のなかで投票日を迎え、春日部市の女性たちのような会話が、全国各地で行われていたのではないか。勝負が決まっている試合や、「オチはこうだ」と事前に知らされたサスペンス映画、表紙の帯に結末が書いてあるミステリー小説に食欲がわかないのと同じだろう。今回の世論調査については、「世論調査が予備選的な役割を果たした」という評価もあるという(『東京新聞』同上)。だが、これは楽観的評価に過ぎよう。調査報道が世論誘導的に機能した可能性は否定できない。しっかりした検証が必要である。
投票率は前回よりかなり低くなった。戦後最低の投票率になりそうである。現時点で推測できることは、結末が見えた試合に行く気がしないで棄権した人々だけではなく、多党乱立、節操のない政党間移動、党内のドタバタ、内容空疎な「マニフェスト」や「公約」などを見せられて、選挙そのものに嫌気がさした人々がかなりいたことだろう。そのなかには、あえて選挙に行かない積極的棄権派(ドイツの現代政治用語では「非選挙人」(Nichtwähler)という)も含まれているのではないか。多党乱立とメディアによる「結果はもう出ている」という報道の連鎖のなかで、一票を使う気力を失せさせてしまったところに、別の意味での「一票の軽さ」があるように思われる。「非選挙人」の選択の結果は投票率の低さであり、それは自民党に圧倒的に有利に作用したと言えよう。
なお、それまでの支持政党の不甲斐なさに怒り、極端な主張をもつ他の政党に乗り換えることを、ドイツの政治用語で「抵抗選挙人」(Protestwäahler)という。今回、「日本維新の会」が「抵抗選挙人」の受け皿となったと見ていいだろう。もっと言えば、民主党政権に対する怒りと絶望の最大の受け皿、「抵抗選挙人」は40%を超える棄権者ではないか。自民党はこの「抵抗選挙人」によって大勝を得たとも言えよう。選挙結果がまだ確定していない段階なので、個々の具体的な指摘は控えておこう。
6年前、直言「『失われた5年』と『失われる○年』――安倍総裁、総理へ」を書いたが、彼はわずか1年で内閣を投げ出した。政治生命が終わったかに見えたが、それから5年で、再び「わたくしの内閣」(安倍氏の口癖)が誕生することになる。安倍氏のいう「美しい国へ」の危なさは、当時、次の3つの点にあらわれていた。(1)「5年以内の憲法改正」、(2)集団的自衛権行使の合憲解釈、(3)「教育改革」と教育基本法改正、である。
(1)は、出来の悪い付帯決議をもつ憲法改正国民投票法の制定である。(3)は教育基本法「改正」と「教育再生会議」による執拗な教育介入であった。5年前、「安倍色の教科書検定」に対して沖縄では県民大会まで開かれたほどだった。今回の総選挙公約には、教科書検定の強化が掲げられているので、沖縄の危惧は深い。ちなみに、安倍氏は大学9月入学を6年前にすでに打ち出していた。私は「『大学9月入学』と『ボランティア』のセットは曲者である。軽薄な私大経営者はすぐに飛びつきそうだ」と当時指摘していた。(2)の集団的自衛権行使を可能にする解釈変更については、「合憲解釈」の報告書が出る2カ月前に安倍氏が退陣してしまったので、しばらく後景に退くことになったが、今後一気に勢いを増すだろう。
「送別・安倍内閣」を書き、安倍氏の復活はほとんどないと踏んでいたので、今年9月の安倍総裁誕生は大変驚いた。「総理大臣の職責にしがみつくことはしない」という奇妙な言葉を使いながら内閣を投げ出した人物が、再び内閣総理大臣になる。この国は何とも不思議な国である。
危惧されることは、石原慎太郎「日本維新の会」代表が選挙中(12月10日)、自民党と組んで憲法改正を行うことを宣言したことである。「9条のせいで日本は強い姿勢で北朝鮮に臨むことができなかった。9条が自分たちの同胞を見殺しにした。…あんなモノがなければ(拉致被害者を)返してくれなかったら『戦争するぞ』『攻めていくぞ』という姿勢で同胞を取り戻せていた」と述べた(『東京新聞』2012年12月11日付)。「日本維新の会」が衆議院に進出したことで、自公連立政権が、今後の展開によっては、公明党の代わりに「維新」が入って3分の2を確保し、「壊憲連立政権」となるおそれなしとしない。
歴史は繰り返すのか。2006年の安倍内閣誕生で憲法改正への動きが進んだ。一度目は憲法にとって悲劇だったが、二度目の安倍内閣は、喜劇(茶番劇)どころか、憲法にとっては命取り(惨劇)になるかもしれない。来年7月の参議院選挙が、最後の防波堤として重要性を増してきた。
そもそもこの選挙は、最高裁によって違憲状態とされた公職選挙法に基づいて行われた「違憲状態選挙」であった。選挙終了と同時に選挙無効訴訟が起こされ、最高裁が「選挙無効」判決を出す可能性もある。選挙で圧勝したかに見える自民党は、小選挙区比例代表「偏立」制に助けられ、小選挙区(4~9人という異例の多数立候補)における大量の死票の上の勝利であることを知るべきである。
「一票の軽さ」の問題は、単に議員定数の不均衡の問題にとどまらない、より多面的で深刻な問題となっている。
《付記》
17日午前5時半に新聞各紙やネットを見ながら、書かねばならないことがたくさんでてきた。選挙結果は、自民党294、公明党31で計325の3分の2超え。民主党57、維新の会54、みんなの党18、未来の党9、共産党8、社民党2、国民新党1、新党大地1。開票作業を見ながら書き上げた上記「直言」をアップすることにしたい。最低限注目すべき点を指摘しておくと、まず59.32%(共同通信推計)という前回よりも10ポイントも低い、「戦後最低の投票率」になったことである。これは本文で書いた。それから、自民党の安倍総裁が、憲法96条(憲法改正条項)を3分の2から過半数にすることについて、「維新」と連携していく考えを示したことである。また、「維新」の橋下代表代行が首相指名選挙で安倍総裁を支持すると発言し、「(首相指名で)独自の候補を出すのはばかげている。日本は多数決の原理が根付いていない。多数決の教育をしてこなかった弊害」と述べたという。これに対して「維新」の石原代表は、「政党の体をなさない。(首相指名選挙で)党首を出すことが政党の沽券だ」と反発した。それにしても、橋下氏の一面的な多数決論、民主主義論は末恐ろしい。指導者民主主義論と接合する兆候がすでに随所に見られる。これらの問題は、折にふれて論じていく。
わかってないなぁ。
「テロ待望論」の肥やしになってんのが解らないんだろうなあ。
http://b.hatena.ne.jp/imeanit/20090412#bookmark-12907230
「私はこう思う」ならおk。
こういう人は、何の権利があって「断言」するんだろ?
「法治国家」日本は、暴力による自力救済は一切許されておりません。
自分の都合に合う「警察国家」日本になったらいいなと言っているわけで。
嘲笑するとか晒し物にするとか戯画化するとか、方法は
いっくらでもいっくらでもいっくらでも
ありそうなんだけどね。
この右翼の行動を、方向はともかく肯定するんだろうなあ。