はてなキーワード: ヒーローとは
どんなに偉くなってもどんなに大勢で袋叩きにしても、誰かを本気で死にたいと思わせたらその希死念慮が殺意となって自分たちへ襲いかかってくるという実感、それだけがこの国に道徳をもたらすんじゃないかな。
悲しいけど、この国の道徳レベルはまだその段階なんじゃなかろうか。
マズローの欲求五段解説で言えば一番下のレベルでしかまだ生きてないんだと思う。
まだ日本人の多くは野生の獣と何も変わらない位置にいるんじゃないか。
頭の中に居る理想の自分だけは自己実現のためにひた走っているつもりで、映画でヒーローを見ているとその頭の中に居る理想の自分が共感するから自分がそこにいると思いこんでしまうだけだ。
実際の自分はまだまだ生きるだけで必死で、明日自分が平穏で生きられるかどうかの確信すら持ててないんだ。
お互いがお互いをぶっ殺せるだけの力があることの実感だけが、上っ面の道徳観を現代人に与えられるんじゃないだろうか。
ガキが、オッサンなんかに、ババァごときが、自分を殺せるなんて思えないね。みんなすぐにそう思いこむ。
それじゃ駄目だ。
偉い人間だって飯食ってる時にお手製手榴弾投げ込まんだら殺せるかも知れないってことも、クラス全員が相手だって教室でガソリン爆発させれば皆殺しだってことも、全部教えちまおう。
そうしないと、命の価値だけは平等だなんて誰も分かっちゃくれないよ。
誰かが人権を大事にしましょうって宣言して、皆でそれを守りましょうって話になってたけど、それだけじゃ駄目だ。
守るために最大限の努力をしよう。
人間1人の価値が軽んじられているのは、俺たちの努力不足だったんだよ。
ちゃんと頑張ろう
ここ数日の山本太郎フィーバーには参った。今日の新橋演説を動画配信で見てたが感動した。
だが支持者に水を差すようで申し訳ないが、本当に山本太郎でいいのかと疑問を思った。
はてなの政治好きならもっとうまく言語化できるのだろうが、漠然と怖いんだよ。ある種の熱狂が。
一人のヒーローの登場によって閉塞した状況が一変する、そんな事は実際あるのかもしれないが、熱狂をもって突き進む彼のその姿勢自体に何らかの怖さを感じる。
世の中そんなにうまくいくものじゃないだろ。そんなに単純じゃないだろ。
例えそれが建前的な手続きであろうと、今まで積み重ねてきた民主主義に基礎を置いた議論の何もかもが吹っ飛んでしまう。
れいわの支持者がそれでいいならいいんだが、なるべく劇薬で日本を治療したくないと考える人間としては、その熱狂にのるのはあまりにも怖いんだ。
魔物が故意に召喚者を襲うことはないが、召喚者の言うことを聞くとは限らない。
一定確率で、HなA.Q.M.が発動し、サキュバスを召喚してしまう。
発動時、その顔を見た者は一定時間恐怖で身動きがとれなくなる(新たな能力の発動も不可)。
自身の顔を見たネトウヨに対し、一定時間、上皇だと誤認させ、支配下に置くことができる。
俺だ俺だ俺だった(いっつもいっつもIt's me)!:
自身が「しいたげられた」と感じた際、虐げてきたと認識している対象者の能力の発動を一定時間禁止(菌糸)できる。
ノロケ話を聞くと闇エネルギーが溜まり、それを「おああーっ」という咆哮と共に放出できる。
疲労が蓄積した(くたびれた)場合、デスゲームの領域からテレポートして一定期間「外に出る」ことができる。
「不安になる」程度は、対象者の性格・対象者との距離に依存する。
場合によっては「ぼんやりとした不安」で自滅に追い込むこともできる。
天性の転生(圧倒的成長):
蟻に変身できる。
mを取ったら他人です(をふくろ):
視界内の指定した対象に、自身を「よく知らない人。気持ち悪い。」と思わせることで、関わり(攻撃を含む)を持ちたくない気持ちにさせることができる。
ブクマカ歴の浅い者には知覚されない。
視界内の指定した対象者に圧(プルッシャー)をかけ、好きな言葉を強制的に喋らせることができる。
ダジャレを言うことで周囲に種々の煙を発生させることができる。
本人は煙の影響を受けない。
凍てつく波動が出せる。
視界内の指定した対象の男性に正常位での経験がある場合、対象を遠隔から殴ることができる。
裁定鯖咖喱(さいていだな):
本人の感性で「最低」だと感じた対象に天罰を下すことができる。
自身が他人から「最低だな」と思われた場合、そう思っている他人の数に応じた天罰を受ける。
湯呑(You know me?):
対象の物・人に触れることで、人間程度の大きさまでのものであれば何であれ、ひっくり返すことができる。
ただし、出した銃器と同じ種類の銃器が、無作為に選ばれた他のブクマカの手元にも1つ出現する。
手で触れた者の傷病を回復させる。
1人が死亡しても、11人のうち6人以上が生存している限り、無作為に選ばれた一般人(非ブクマカ)が構成員として定期的に(3時間に1人)補充される。
定期的に漏らす。
増田熊部:
熊に変身できる。
各アイコンの動植物又はキャラ(実在の人物を含む)を召喚できる。
同時に召喚できるのは1個体だが、それが死亡した場合は、また召喚が可能。
単色愛魂勢(イロモノ):
また、n人の同色アイコンの者が手を繋ぐとそれぞれの身体能力がn倍になる。
優勝は?
追記:
《俺だ俺だ俺だった》は壁役になれるよ。
どうでもいい話だけど、ドラえもんとクレヨンしんちゃんって同年代の作品じゃないよね。
似たような家族観に思えるけど、ドラえもんって戦後のにおいが濃い作品だよなぁって。
最近、のび太という主人公の、ヒロイズムのなさについて考えていたんだよね。
何より、のび太の設定。射撃が上手い。射撃が上手いなんて、ヒロイズムそのものなのに。
主人公がヒーロー的資質を備えながら、ヒーローじゃない。これって何なのかなって。
これこそ反戦の意志なのかなって。のび太が誰にも称賛されない世界は、戦争のない世界である。
のび太は徹底的に役立たずでそれでも許される世界。誰かに助けてもらえる世界。
ヒーローという役割を降りた主人公。まあ、きっとすでに誰かが論じてるのかもしれないけど。
でも、ヒーローにならなくてもいい世界が、ドラえもんという世界なんだよね。
どんなにダメな子でもダメなまま肯定してもらえる。世界なんて救わなくていい。
話がどれも似たり寄ったり、毎回投げっぱなしで終わるなどの細かい欠点はいろいろあるが、最大の問題は主人公がマッチョすぎるということだと思う
人知を超えた不可解な神々の走狗にされ地獄の戦場で救いも終わりもない戦いを強いられるという本来なら悲壮感に満ちた設定が生かされていない
石川ヒーローズは極限状況においてもあまり苦しまないし悩まない
流竜馬はゲッター線に拒絶を示したが結局は自ら進んでロボのパーツに成り下がった
例えるなら対魔忍が感度3000分の1にされたようなもの
切れば血が出る涙も出る弱さを持った人間でなければ感情移入できない
ヒーローがどれだけ強くても倒せるのはサンシタだけで何をやっても結局無駄だからだ
一言で言うなら帯に短し襷に長し
だから作るなって言ったろうが!!!どうせ3は超えられねえんだから!あのクライマックスにケチが付くから!その通りになってんじゃねえか!!!!!!!!!!!!
まずウッディはあんなポンコツじゃねえ!1,2を幼少期に見てた俺らからしたらウッディはヒーローなんだよ!女を格好良く描くのは一向に構わないけどそのために男を貶めるなよ!!!!!「シュガーラッシュ:オンライン」でも顕著だったけど単純に下手クソなんだよ!!!!!!!
ウッディの決断自体は分かるよ、あいつは気まぐれだから!!2でも帰りたいと美術館行くをコロコロ変えてたし!独善的なのも今までのシリーズ踏まえれば理解できる!そこはキャラが動いてた!!!!!
だけどボニーだよ問題は!!!!あんなにおもちゃを雑にする子じゃねえだろが!「大事にするって約束してくれるかな?」約束はいずこ!?なんでおもちゃがなくなっても気づかねえんだ!?!?物語のために性格改悪されてんじゃねえか!!!海外の感想見たらFワード使って叩かれてんぞ!脚本家は「bonnie fuck」で検索してコトの重大さを認識しろ!!!!
ポリコレを重視したいのは分かる!!!ただやるならとことんやれよ!ボニーが保安官バッジをジェシーに付け替えるシーン必要だったか!?「女の子は女のおもちゃで遊ぶ」って偏見助長してんじゃねえか!脇が甘いんだよ!!!!!
この前ピクサーのひみつ展行ったよ!一つのアニメーションに天才たちが知恵を振り絞ってるのを見て「はえ~すっごい」って思ったさ!!!でも脚本がクソじゃどうしようもねえな!!!!!!きれいな移動遊園地も残念に見えてくるわ!!!!!
予告編もクソの塊だ!!!!!あんだけウッディの決断とか推してたらだいたい結末読める!!!唐沢寿明と所ジョージの対談のやつなんてほぼネタバレじゃねえか!!!!!ドキドキさせてくれよもう少しよぉ!!!!!!
はぁ………期待した俺が悪かったのかもしれん
ジョン・ラセターは死んだんだ。いくら呼んでも帰ってこないんだ。もうあの時間は終わって、僕も人生と向き合う時なんだ。
いや!!!!!!!!!それでも!!!!!!!!もう少し前作を慮るとかはできただろうが!!!!!!俺らはアンディとともに子供時代を過ごしてきたんだ!!!あの別れと自分を重ね合わせて涙したんだ!!!こんなんでウッディが離れていくなんて許せねえよ!!!!!!!
Twitter見たら「傑作だった」って声も挙がってる!多分そいつらは脚本の粗もウッディの決断も素直に飲み込めたんだ!!!人の評価に正しいも間違いもないが、そっちの意見の方が間違いなく「大人」なんだ!!!!
でもな!!!!!!そう簡単に割り切れるもんじゃねえんだよ!!!!俺たちにとっちゃトイストーリーはもういち映画じゃなくドキュメンタリーなんだよ!!!!!!トイストーリー4が許せねえってやつと心のアンディを持ち寄って飲み明かしたい気分だ!!!!!!
まあでも5あるよね?さすがに
そっちを傑作にしてくれたら俺はもう何も言わん
女性問題だとオタク絵を無くせ、エロい女を無くせ、偉そうな男を無くせ、いじわるな女を無くせ、女を強くしろ。
黒人問題だと、色白を無くせ、白人を黒人に置き換えろ。リトルマーメイドもそう。
これらは一見その人種を尊重しているように見えて、実際は選択肢を無くしているだけ。
ゴーストバスターなんか最たる例で、むりやりおばさん入れた結果「おばさんがこういうのやるとつまらない」
っていう印象を与えてしまってる。あれをみてあのおばさんに憧れる人はいたんだろうか?
作った人は「女性でもええやん」って思えるようにしたかったんだろうけど、実際は違う。
キャラクターっていうのは魅力を出すためにいろんな部分を突き詰めて考えられてる。ポリコレが嫌われるのは、魅力や面白さをスポイルしてプロパガンダとしてキャラクターを利用するから。
勿論良くない表現は、ある程度は間引く必要はある、でも最近は「減らす」ばっかり。実際女性の選択肢は縮まり減っている。
魅力を生かせる世界じゃなくて、今現在の政治的正しさでしか資本を獲得できない事を余儀なくされている。これは女性自身、黒人自身を殺しているのも同義。
「美しくて可憐、男に人気がある」というのはある意味若い女性の強みでもあるけど、それを生かす手立てを殺されている。
ブラックパンサーが興行出て人気になったけど、あの映画が良かったのは、黒人ヒーローというものを打ち立てて、それをカッコよく魅力的に描いたから。
「増やす」アプローチを行ったから、あれを見て良くない思いを黒人に持ってる人も「黒人もいいな」って思えたりする。
今までの作品じゃ、「ねじ込み乙」としか思えなかったけどブラックパンサーは違った。
と言っても「増やす」アプローチってのは、民衆の欲望にジャッジされるから難しい。ポリコレは常に社会的な後ろ盾があって、失敗しても傷つかない。
でも「減らす」アプローチで成功したものは多分無い。何かを変えるのは、いつも「増やす」事をした側だけ。子供が親から与えられた「正しい」ものには興味を示さないのと一緒。
私は女だが、兄と弟がいる影響で幼い頃からスーパーヒーロータイムにとても馴染みがあり、戦隊ヒーローではレッドに、仮面ライダーでは主人公に感情移入し夢中になって見ていた。
ヒーローたちは、堪らなくかっこよかった。
自分たちに苦難が降りかかろうとも、困っている人がいれば助けずにはいられない。
そんな姿が眩しく、ただひたすらに憧れた。
自分が挫けそうでも、困っている人がいたら助けられる人になりたいと、幼いながらに思ったりもした。
それから年頃になり興味のあるものが増え、いつの間にか戦隊や仮面ライダーから遠ざかっていた。
嫌いになったわけではない。
社会人になり自分の生活を自分で賄えよるうになった頃、「仮面ライダージオウ」の存在を知った。
平成最後の仮面ライダーで過去のライダーたちも出演するアニバーサリー作品だと知り、興味本意で視聴してみることにした。
初めてみたのは、555回。
面白かった。
視聴を続けることにした。
見れば見るほど、面白かった。
平ジェネForeverはやばかった。
顔が痛くなるまで泣いた。
未視聴の戦隊や仮面ライダーを見続ける日々のなか、中学時代の代わり映えのない日常の夢を見た。
考えるもこれと言った答えが見つからなかったので、卒業文集など中学時代の自分に関わるものを一通り見ていくことにした。
卒業アルバムのなかに担任からひとりひとりに送られた手紙が入っていた。
読み返すと懐かしさが胸に広がる。
同じ奴なのかもしれないが、毎回毎回「女の権利がなければ」とか「女が奴隷なら」とか
「女がヤらせてくれれば」とか「女あてがえ」とか見るに耐えない。
だれも言ってないぞ。「女が差別しなければ」と言ってるだけ。
女は男にこれを全て求めてるじゃん。
現実を見ろ。
上記のnoteを読み、感銘を受けたので分散SNSを中心に活動するユーザ達が今どのように分散SNSと付き合っているかMastodonを例にして記す。
悪を発見した者たちは自身の言動が正義として疑わず執拗なまでに発見した悪を追い詰める。
どう解釈してもその者たちは正義の味方【ヒーロー】ではない。悪を徹底的に追い詰める悪の敵【ダークヒーロー】である。
我々が幼少期に憧れたアンパンマンや仮面ライダーやウルトラマン、セーラームーン、プリキュアetc...などが取るような言動では決してない。
はてな匿名ダイアリーを利用するようなユーザは分散SNSをよく知っているだろう。ただしそれはおそらく誤解を多く含んだ理解だ。
分散SNSの多くはオープンな形で開発されており、情報技術者やギークの多くはオープンな技術を好む傾向がある。
だからこそ分散SNSに集うユーザは情報技術者やギークが多いのだ……これが既に間違いである。
確かに分散SNSにはその傾向はある。しかしながら分散SNSを使うようになった者は「Twitterに疲れた」という理由を持っていることが多いのだ。
いっときの、いわゆる「Twitterアカウント凍結祭り」が切っ掛けだったとは言え、分散SNSへ定着したユーザの大半は分散SNSに心の安寧を得ている。
悪の敵が跋扈するTwitterと比較して分散SNSは明らかに悪の敵の数が少ないのだ。何故だろうか?
その解答の1つとして、そもそも分散SNSには「Contents Warning(CW)」機能と「Not Safe For Work(NSFW)」機能がある。
CW機能は日本語へ意訳すると「テキスト閲覧注意」のための機能だ。CW機能を使うと指定した範囲のテキストが隠蔽され、他のユーザはそれを読むときは能動的に操作して隠蔽を展開する必要がある。
NSFW機能は日本語へ意訳すると「画像閲覧注意」のための機能だ。NSFW機能を使うとCW機能と同様に投稿画像は隠蔽され、他のユーザはそれを見るときは能動的に操作して隠蔽を展開する必要がある。
これらの機能の存在は大きな意識を各々のユーザへ与えてくれる。それは「アナタの言動によって心を痛める人が居るかも知れない」というもの。
分散SNSユーザはこれらの機能があるため先ず投稿へひと呼吸置く傾向がある。もちろん「この投稿はCW(NSFW)を使うべきかな?」というひと呼吸だ。
別にこれらは強制的なルールでもなく分散SNSが村社会的に暗黙のルールとして絶対となっているわけではない。しかし分散SNSのユーザはひと呼吸置く。
なぜならTwitterの現状があるからだ。Twitterが反面教師になっているのだ。Twitterユーザのように自分がなりたくないのだ。
もちろんTwitterのようなマイクロブログ型SNSは気軽につぶやけるというのが美点だ。しかし自分の気軽さは他者の気軽さではない可能性は十分にある。それを分散SNSユーザはよく知っている。Twitterを見てきたから。
少なくとも戸田真琴さんが例に挙げた凄惨な画像は分散SNSだとNSFWになったことだろう。そしてNSFWになっていない凄惨な画像は共有ボタンを押すことへ躊躇がなされただろう。
更に分散SNSは、戸田真琴さんは少々否定気味だったが、Twitterよりもカジュアルにブロックやミュートが行われる文化がある。
これは前述した「アナタの言動によって心を痛める人が居るかも知れない」の裏返しだ。自身の心の安寧を守るためブロックやミュートをして見えないようにするという自由が価値観として分散SNSユーザ全体で共有されている。
この件についてはPixivが運営する絵描きが集うMastodonサーバのPawooが、外国のMastodonサーバから連携拒否(ドメインブロック)されたことに関して、Pawoo側のユーザが外国Mastodonサーバのその決断を称賛したことにも現れている。
外国のMastodonサーバではPawooの絵描きが投稿する一部のイラストが問題視されていた。性的なイラストは見たくない、性的な対象として描くのはおかしいという価値観が外国のMastodonサーバで起き、その外国のMastodonサーバはPawooとの連携を切る決断をした。
Pawooのユーザたちはそれへ対して「住み分けは大事」と言ったのだ。自分たちが生み出す作品への「無理解」へ対して怒るでもなく悲しむでもなく、Pawooのユーザたちは外国のMastodonサーバの決断へ「理解」を示した。
分散SNSはMastodonを含む分散SNSサーバ同士が相互に接続しあってSNSとしての体を作り出している。
分散SNSを知る人々がこの辺りに誤解を持つことが多いが、Mastodon=分散SNSではない。
こう言うと少し詳しい人は「知ってるよ分散SNSってMastodonの他にGNU SocialやFriendicaとか色んな種類があるんだろ?」というが、それ間違いである。
MastodonはMastodon=分散SNSサーバだ。GNU SocialもGNU Social=分散SNSサーバ、FriendicaもFriendica=分散SNSサーバだ。
分散SNSとは分散SNSサーバ同士が相互に接続しあって形成するネットワークそのものを指す。
すなわちMastodonは種別として分散SNS対応SNSということになり、だからこそ非常に誤解されやすい。SNSが2回出てくるためよくわからないことになっている。
Pawooがなぜ外国Mastodonサーバから連携拒否されたことを受け入れられたのか?
そもそも分散SNSにはルールが無いからである。分散SNSは分散SNSサーバ同士が相互に接続しあって形成するネットワークそのものを指すのであれば、ルールを作るのは非常に難しい。
ルールを作りたいのであれば、ルールは分散SNSサーバ毎に決めなければならない。というかそれ以外にルールを定める方法がない。
つまり、だからこそ外国MastodonサーバのルールとPawooのルールは違うものなのだ。そしてPawooのユーザは外国Mastodonサーバが独自のルールを運用する自由を認めたのだ。Pawooには好きに絵を描く自由があり、アナタたちには絵を見ない自由があると。
そして外国のMastodonサーバはPawooのユーザが自由に絵を描いていることを制限しようとはしていない。外国のMastodonサーバのユーザたちは絵を描く自由を認めて居るのだ。
分散SNSのネットワークには非実在青少年のような問題は無い。外国のMastodonサーバにはあるかも知れない。しかしPawooには無いのだ。双方のルールの違いを認めあっているからこそ分散SNSのネットワークにはそういった問題が存在しないと言えるのだ。
無理だろう。TwitterはTwitterのルールという1つの価値観しかないのだから。
例え今後TwitterにCWが導入されようがNSFWが導入されようがTwitterではたった1つのTwitterルールに則らなければならないのだ。Twitterのネットワークではルールの違いは認められていない。
SNSでの自分の価値観、他者の価値観を両立しようと思えば分散SNSというのは間違いなく現状ではTwitterよりもより良い解決策を示していると言える。
分散SNSでは自分自身が分散SNSサーバの管理者になり、自分自身が分散SNSサーバのルールを作る側に回ることすら可能なのだから。
戸田真琴さんが分散SNSサーバ、例えば戸田真琴さんが自分自身のためのMastodonを立ち上げれば、そのMastodon内でのルールは戸田真琴さんである。
他の分散SNSサーバは戸田真琴さんの価値観を「ルールの違い」として認識して、戸田真琴さんが特定の分散SNSユーザをブロックしようがミュートしようが、特定の分散SNSとの連携を切ろうが、すべてはルールの違いであり、他の分散SNSは戸田真琴さんのMastodon内でのルールの行使を受け入れる。
例えば戸田真琴さんが自身のMastodon内で傍若無人に振る舞い絶対権力者として君臨していることを誰かが非難したとしよう。戸田真琴さんが法令に違反していないのであれば他の分散SNSサーバ管理者たちは戸田真琴さんを全力で擁護する。戸田真琴さんのMastodonでは戸田真琴さん自身がルールなのだと。
もちろん分散SNSとはいえ倫理はあるし戸田真琴さんが自身のMastodon内とは言え暴言を吐きまくれば非難する人が現れ、その非難は多くの人が理解を示すだろう。
しかし、戸田真琴さんのMastodon内での暴言を止める権利は誰にもない。戸田真琴さんの暴言が気に食わなければ戸田真琴さんのアカウントをブロックするかミュートするか、戸田真琴さんのMastodonとの連携を切ることが分散SNSとして正しいやり方なのだ。
分散SNSは個人個人が違うこと、コミュニティー毎にルールがあることを前提で成り立っており、だからこそブロックやミュート、ドメインブロックがカジュアルに行われ、それらがカジュアルに行われるという認識があるからこそ言動の前にひと呼吸置くという文化がある。
これこそが2ちゃんねるやmixiやFacebookやTwitterを経て、SNSで心の安寧を得るための現在想定できる最も良い方法なのだ。
●初めに
この記事の本筋ははあくまで「消防操法大会要らなくね?」という考えの根拠を俺の経験を交えて書くことであって、消防団自体の否定や田舎叩きが目的じゃないことを明言しておく。
まず初めに消防操法大会ってなんぞやってとこから。Wikipediaによると
「消防操法は常備の消防職員や消防団の訓練の一つであり、基本的な操作の習得を目指すための手順であり、小型可搬ポンプ操法と、ポンプ車操法がある。設置された防火水槽から、給水し、火災現場を意識した火点(かてん)と呼ばれる的にめがけて放水し、撤収するまでの一連の手順を演じる。防火水槽・火点の位置、台詞、動きがあらかじめ決められている。全国規模で大会(郡市大会・都道府県大会・全国大会)が行われ、ポンプ・ホースなどの操作を速く正確に行うとともに、動きの綺麗さを競う。採点は各個動作の正確さ及び火点の的が倒れるまでのタイムなどが減点法で採点され、減点が少ないチームほど上位となる。
〜〜
一連の行為(選手の格好)を大会基準として決められた要領通りに行ったうえで、ホースを伸ばし【火】と書かれた的に放水をあてる競技が主になっている。」(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%88%E9%98%B2%E6%93%8D%E6%B3%95)
要約すると
・持ち運び可能なポンプを使った競技と、いわゆる消防車を使った競技の2種類がある。
・内容は消火とか実践的なことじゃなくて動きの綺麗さとタイムを競うだけ。
こんな感じ。
●問題点
毎年6月中後半〜7月中頃あたりで大会があるので、操法大会に力を入れるほとんどの分団じゃ5月頃から練習を開始する。練習頻度は分団によってマチマチだけど、大体週3日〜5日。大会前一週間は6日とかが多いんじゃないかな。
たかが「1ヶ月ちょっと」と思うかもしれないが、大人になってからの「1ヶ月ちょっと」の拘束はマジで自分の関係者への影響が半端ない。
嫁や子供へのストレスはマッハで、毎年この期間になると夫が全然家に帰ってこず、帰ってきてもヘトヘトで何もしてくれないことに嫌気が差して離婚を迫られるという「消防離婚」なんて言葉も存在するくらい。俺の場合は嫁に無視されるし子供に消防士だと思われてる。
あと、毎夜仕事終わり〜21時頃(終わったあと反省会あったりして24時とかまでやったりも)で練習して昼間は仕事っつうヒーローみたいな生活スタイルを強要されるので当然仕事の能率と人事考課は激下がり。俺の場合は個人事業主なので普段40万くらいある月収がこの期間はミニマム15万とかになって、死ぬ。
ほんで当然、こんだけ稼働率高いと自分への負担が半端ないので練習を苦にして自殺する奴がいたり、練習しすぎて熱中症で死んだりする奴が出てきてこれも問題になってる。そこまでいかなくても連日の訓練による疲労で怪我人が量産されるし、怪我による選手交代で次の怪我人候補も量産されていくっていうクソの連鎖が起きてクソ。
この操法大会においては「番員」っていう役割分担がある。「番員」は自分に割り振られた動き以外をすると減点されるので、当然自分の動き一点集中で練習することになるんだけど、これが色々問題点孕んでてヤバい。
例えばホースの先っぽを持って火点(火元)に消しに行く奴らは、消防車とかポンプの動かし方を知らないのでいざ火事になってもアワアワ走り回ることしか出来なかったり、その逆もまた然り。
あと操法では器具が汚れてたり、ホースに水滴がついてたりすると(野外で使うホースだぜ?)減点または失格にされちゃったりするので、大体の消防団では「火事場用」と「操法用」の器具を所有している。訓練中は当然「操法用」を使うのでこの期間に火事が起きると、さっき行ったとおりヘトヘトの団員たちをかき集めて、器具を積み替えてなんやかんやと出動までのタイムロスが半端ない。結局消防署の方が到着早いのが常っていう本末転倒が頻発する。
・操法大会牛耳ってる日本消防協会が行政の悪い金の温床になってるのでボトムアップでの変革が難しい
こちらのキャンペーンサイト(https://www.change.org/p/%E5%85%A8%E5%9B%BD%E6%B6%88%E9%98%B2%E6%93%8D%E6%B3%95%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%BB%83%E6%AD%A2)によると、
「日本消防協会の主な仕事は操法大会と協会運営、団員の表彰等です。年間38億程度の収入があります。ほとんどが団員への共済金(税金)によるものとなりますが、大会の予算はたった6000万です。公益社団法人のため事業税は0円です。役員報酬は3000万、その他多数の手当てがあり、なんと年間の旅費は1億近くなります。」だそう。
上記については多少のアレはあるとしても、(https://www.nissho.or.jp/contents/static/jouhou/gyoumu-yosan.html)で収支の一端見るとたしかに「え、何その費用」みたいなのが結構あるので「天下り」って言葉聞くと目がギラついちゃう系の人には重箱の隅をつつきまくれるのでオススメ。
他にもお金でもらえるはずの報酬がビールになってたりとか団員・環境の数だけ問題点はあるんだけどきりがないからここらにしとく。
●終わりに
大体俺らが聞くのは表面だけだから、そういう差別の話を聞くと「酷い!直さなきゃ!」って思って、外から色々言ったりする。
例えばジプシー差別、ジプシーは文化として家を持たず、ただそこに居るだけで迫害されているように日本では聞くけど、
実際の現地に行くとほぼヤンキーと変わらず、スリや万引きの犯罪に手を染め、レイプもする。そこで反抗したり、取り締まるとそこだけトリミングされる。
ユダヤ人差別も、実際1900年代、それ以前から莫大な富を独占し、インサイダーや地元企業潰し、恐慌を起こして空売りしたりして嫌われていたわけだ。
韓国併合も、実際は将来的な共栄圏の中で、西欧とは違う、ある程度のナショナリズムを残すためにハングルを見つけて普及させたり、
学校に行けない子供の為に国が予算を出して、階級制を無くして飯も行きわたらせるようにしたわけで。
男女差別も、実際は戦争や仕事、資本主義の面倒な部分を男に押し付けて、それによって男は地位を上げた所があって、
そういう実際の事情を知ると恐らく多くの人が「しゃーないな」で片付けられてしまうし、今までそうなってきたんだよな。
でも同時にしゃーないな、で片付けると、何もしていないジプシーやただ真っ当にやってきたユダヤ人、日本ではなく一国として認めてほしい韓国人、
「面倒な部分」を担当して武功を上げたい女、資本主義に潰されそうで別の道に活路を見出したい男なんかは救われないわけで
結局そうやって表面を切り取って民衆を扇動する必要があるのも「しゃーないな」って思ってしまう。
その一方で「差別を肯定する」一因となるような、ジプシーやユダヤ人による被害者は一生救われないわけだよね。
世の中には黒人差別とか、アヘン戦争とか、先住民狩りとか、「しゃーないな」で済まされない、本人たちもやべえな、と思いつつやっちゃってるものもあるから、
そういうのは潰すべきだし潰されてきたんだろうけど。
現代は誤魔化すのが上手くなったり、どっちが正義か悪かわからないものが増えて、確実に善悪を判断する難易度は高くなってる。
以前のような「絶対的な正義」ってのが無くなってると思うんだよね。というより、そもそもそんなものはなかったけれど。
寧ろ、アベンジャーズとか見てても「ヒドラ」とかいうアメリカが恐らく正義っぽかったころの悪をずっと引きずって、
もうその状態がクリストファー・ノーラン版のダークナイトみたいに「悪が居なきゃヒーローになれない、ヒーローが悪を生む」事になってしまっている。
理想は「被害者」も「加害者」も、そして「加害者の中の被害者」も救おうとする事が必要なのだけれど
「完全な被害者」でないとめんどくさいし救いたくない僕らにとって、それは無理な願いなんだよね。
国語の論説みたいに、「一人一人が意識をもって社会問題について勉強し、根本的に解決する姿勢が必要だ」
なんて言うのは簡単だけどムリなわけで。物事を二項対立にしか見ない「正義」を偽善者として叩けば解決しそうな気もするけど、それもまた偽善者として処罰されるわけで。
「トロッコ問題」で二つの選択肢、誰を殺すかってのがよく議論されるけど、実際の社会、そのトロッコは何処に向かうのではなく、環状線のように同じところをぐるぐると回ってるわけで
そのトロッコが自分を轢く前に寿命が尽きるのを願うしかない、そんな絶望的な営みの中で生かされているのだと思うとなんだか悲しくなっちゃうよね。