はてなキーワード: 道化とは
もちろん俺は髪の毛を染めなくてもブサメンではなかった。でも童貞だった。モテなかった。
いやモテなかったわけではなかったと思う。思いたい。
当時いた趣味のサークルの女子は皆優しくしてくれたし、嫌われたり嫌がられたりという事もなかった。
俺が誰かを本気で好きになったり、女性が俺に惚れたりというトリガーが無かったせいだと思う。ゆるく仲良く、しかし発展しない間柄にしかならなかった。
いや俺、顔は整っていたし(過去形)、スマートで細マッチョだったし、身長だって180あったし、セクハラもしないし、紳士的な態度を心掛けていたし、当時は真面目な正義漢だった。
身だしなみもさほどお金はかけなかったけど平均以上の見た目、人様に迷惑はかけない容姿だったと思う。
でも童貞だったし、彼女が出来そうな気配は全くないままだった。
ブサイクと言っても顔の造形の良し悪しではなく、性格の悪さとスケベな欲求が顔から出ているような内面からブサイクな男の事だ。
そんなブサイクのほうが女性にモテているという現実に俺は歯ぎしりし続けた。
どうして女性はブサイクな男に引っかかってるの?と不思議だった。
俺は「彼女いなくて孤独でも死にはしないさ」と心の中で強がってみたが、年月が過ぎると共に彼女できそうな気配はどんどん薄れていった。一方で何人かの友人が結婚した。
多分イケメンなのに30歳になっても童貞という現実に歯ぎしりしていた頃、ようやく女子に告白された。
いや告白という立派なものではなかった。他の男との付き合いがうまくいっていないという女性から俺に乗り換えたいという話だっだ。
そりゃ俺はイケメンで真面目で童貞だ。相手の彼氏はクズ男だと知っていたのでわずかにプライドが傷付いたが、童貞を捨てたい焦りがあったので付き合う事にした。
その結果は最低だった。
相手はメンヘラで常に自分優先、相手を気遣う事もせず、セックスを誘っておいていざ挿入というタイミングで拒むという嫌がらせのような事をする女性だった。最後にはネットで知り合った男と浮気していたが問い詰めても否定するばかり、別れた後は恩を仇で返すような発言をネットで吹聴していた。
この経験で俺は重度の女性不信になったし、イケメンとかどーでもよくなっていたし、真面目にふるまっても無駄と思い知らされた。
人間不信と精神的な引き籠りで、俺の人生は落ち続けるばかりとなった。
それから8年ほど後にヘンメラ女性とは正反対の性格の女性とお付き合いする事が出来て、それも1年ほどでフラれてしまったが(相手にとても良い相手が出来た)、このお付き合いで俺の人間不信が完治するほど素晴らしい1年間だった。
このお相手とはいまでも友人関係が続いているが、俺は独り身のままなので未練と嫉妬が増大して身悶えしている日々だ。
女性にフレンドリーに話しかけたら「遊んでる男が口説いてきているのかと思った」と言われ、高い身長も「上から高圧的に見られているようで怖い」と言われた。「彼女がいると思った」と距離を置かれたり、イケメンへの偏見で避けられたり。
誤解なきように補足するが、俺はそんなに凄いイケメンではない。崩れていない整っているだけの顔で特別な華はなく、スマートで高身長も街中でよく目にするレベルだ。正しくはイケメンではなく「整った普通」だろう。その程度でも妙な偏見で苦労した。
最初の彼女が出来たのも、真面目なイケメンを装うのをやめて道化のようにおどけるようキャラを変えた頃だった。ずっと真面目にしてきたところも少しだけ不真面目に、少しだけセクハラ発言もしようと努力し始めた頃だった。セクハラ発言をしてこなかった童貞がキャラを変えるためにセクハラ発言をするのは難しかったし恥ずかしかったが、真面目なだけでは駄目なんだと思ったので悩みつつも頑張った。おかげで酷いメンヘラ彼女で苦労する事となったが。
次の彼女が出来た頃には自分の顔には劣等感しかなかった。内心で俺ブサメンですフヒヒと振る舞っていたが、とても気が楽だった。彼女も僕の外面ではなく内面に好意を持ってくれた事が大きな救いだった。
それから数年後の現在、僕は独り身の独身で寂しい日々を過ごしている。
いまでもご年配からはイケメンだねぇと言われるが、とても複雑な気持ちになる。
…何の話か?
若い男性は「孤独でも平気」と思わずに、積極的に女子と仲良くすべきだと提言する。
正直俺はイケメンよりブサメンのほうがモテルと思っているが、ブサメンにはブサメンなりのハンデがあるのだろうから結局顔は関係ないという事になる。孤独でもいいと思う要因は人それぞれだが、孤独で良い事なんて何一つないから彼女作る事を真面目に考えておくべきだ。
男だって女性の口説き方なんてよくわかっていない。なのに女性が告白されるのを待つばかりだと恋愛が始まる事なんてなくなってしまう。
丁寧語とは、眼前の相手への敬意を表す言葉であって、単なる「敬語」という意味ではない。言ってみれば、部下が上司にする言葉遣いである。一方「しゃーない」はどちらかと言えば上位者から下位者になげかけられる男性語における関西弁の俗流表現であり、軽い侮蔑語としての「アホか」に近いニュアンスすらある。「シャーナイヤン(1)」「シャーナイヤロ(2)」とか「シャーナイヤンケ(3)」「シャーナイチュートンノジャ(4)」など、「シャーナイ」のヴァリエーション(※1)を考えれば、ほとんど罵倒語ですらあるので、これを丁寧語にするというのがまず発想として奇妙である。
また、コレを無理に「仕方ない」の意の丁寧表現と取るとしても、一般に関西弁ネイティブの世界で、たとえば部下が上司に向かって”仕方ない”という自分の感想を直接的に述べるシーンというのがまず想定しにくい。関西弁は非常に日本そのものであるような文化体系に基づく言語なので、「仕方ない」出来事に遭遇したときには、出来事の「状態」を描写するよりも、古語のようにその状況に遭遇した「相手の心情」を慮って言葉が発せられ、これによって相手へのより強い敬意や遺憾の念を表現するのが普通だからである。従って、「しゃーありません」などという妙な言い方は、ネイティブからは出てこない。これは、表面だけ関西弁だがハートが関西弁ではない人間が想像で喋るエセ関西弁である。朝ドラなどで非常に頻繁に見られるが、イントネーションを似せれば似せるほど不気味の谷に近づいて違和感があるのでこういうのは本当に止めた方がいいと思う。(※2)
たとえば「上司が契約を取るため条件を下げるよう上にかけあってきたが、社の方針でダメだと言われる状況に遭遇したときの部下の一言」を想定するならば、「コレ、ホン↓トニナン↓トモナラナ↑イン↓デスカネー…」が正解だ。やや棒読みで最後を低く呟くように発音するのがコツである。「何ともならない」ことを分かった上で、敢えて相手の心の内を代理的に言語化する。一番「何ともならない」ことを分かっているのは上司だ、との了解の下で(棒読み口調によってこれは察せられる)敢えて一段自分を低め、道化となって「分からないフリ」をすることで、上司自身に「マアナラヘンナ/無理↑ヤ(=仕方ない)」と言わせるための一言である。これはかなり気を遣った「仕方ない」の関西弁による丁寧表現である。「仕方ない」とこちらから言うのではなく、相手に「仕方ない」と分からせるために相手の心情を思い諮り、同時に敬意を表現する。こういう柔らかな「寄り添う言語としての日本語」の特長を、日本の伝統を大事にされる方々には関東においてもぜひ日常的に取り入れてもらいたいと思うばかりである。
また、もう少しカジュアルに(カジュアルという概念自体が関西文化にはうまくそぐわないのだが)表現すると? たとえばちょっと丁寧に同格の同僚と喋るようなケースで「今後こういう傾向になっていくのはやっぱり『仕方ないですね』」という内容を言う場合どうなるか。その場合は、自立語ではなく付属語や補助動詞で表現することになるだろう。つまり、「ない」自体が敬語化されるのではなく、「仕方ナイ↑デスネー」みたいな感じだ。女性的表現としては、「仕方アリマセンネー」が考えられ、これは増田の想定に一番近いのだが、女性語の場合丁寧な社交の場では言葉が関東弁に近づくケースがあるので(これについては谷崎潤一郎の小説「細雪」の中でも少し触れられている(※3))このようになる。
以上、増田の初級関西弁講座である。ネタであることは言うまでもないので話半分に聞いておくように。ホナマタ。
https://anond.hatelabo.jp/20180113124118
※1 厳密に言えば、「シャーナイ」とほぼ同義で使いうるのは「アホクサ/アホカイナ」である。前者は事態を、後者は相手を軽くあしらい流すときに用いられる。ただ、このような間投詞的な「アホ」(詠嘆の「アホ」という)の用法は、シチュエーションにより様々な意味を含有するので、非ネイティブが使用するのに苦労する部分である。「アホ」は本来道化(クラウン)を意味する言葉だが、同質性の高い世界において道化役は時に非常に重要な役割を果たすものであり、それが関西文化圏では共通了解とされているため「あいつアホやな」という言葉は批判ではなく、時に非常な敬意や褒め言葉になりうるし、また若年女子が用いる「アホっ」は、おおむねソフトな「I like you.」の意味で了解されるのである。
なお、「ヤン(1)」~「チュートンノジャ(4)」に至る変化は、一見微妙に見えるがそれぞれ
「(1)仕方ないじゃないですか?(=だからあきらめて貰えませんか?(依願))」
「(2)仕方ないじゃないか?(=だからどうしようもないと考えなさい。(命令))」
「(3)仕方ないと私は言っているでしょう?(=ひょっとして言いがかりを付けて喧嘩したいのですか? 何ならお相手しますよ?(威嚇))」
「(4)仕方ないとこの私が言っているのだ。(殺すぞ(予告))」
…という意味となっており、特に(2)から(3)に変化したときは明らかに相手のモードが変化しているので注意が必要である。親切なネイティブならば、語尾に「ヨォ」という威嚇語を追加し「シャーナイヤンケヨォ!」とメンチ(接近して目を合わせる威嚇のポーズ)とともに発音してくれるので、こちらは非ネイティブにも分かりやすい表現となるが、できれば(3)を聞く前に第三者を介入させるか和解を申し出るのが望ましい。
※2 たとえば朝ドラなどで、番頭はんがお嬢さんに「仕方ナイデッシャロ」などという奇妙な関西弁を用いる「けったいな」シーンは容易に想像できる。このように関東人がエセ関西弁を振り回して「関東人の思う関西人」を演じているのは、実際典型的な「文化の盗用」であり、今後厳しく批判されていくことだろう。
※3 谷崎潤一郎「細雪(上)」より。(舞台は戦前なので、約80年前の話である。)
「彼女は相良夫人のような型の、気風から、態度から、物云いから、体のこなしから、何から何までパリパリの東京流の奥さんが、どうにも苦手なのであった。彼女も阪神間の奥さん達の間では、いっぱし東京弁が使える組なのであるが、こう云う夫人の前へ出ると、何となく気が引けて、――と云うよりは、何か東京弁と云うものが浅ましいように感じられて来て、故意に使うのを差控えたくなり、却って土地の言葉を出すようにした。それに又、そう云えば丹生夫人までが、いつも幸子とは大阪弁で話す癖に、今日はお附合いのつもりか完全な東京弁を使うので、まるで別の人のようで、打ち解ける気になれないのであった。成る程丹生夫人は、大阪っ児ではあるけれども、女学校が東京であった関係上、東京人との交際が多いので、東京弁が上手なことに不思議はないものの、それでもこんなにまで堂に入っているとは、長い附合いの幸子にしても今日まで知らなかったことで、今日の夫人はいつものおっとりとしたところがまるでなく、眼の使いよう、唇の曲げよう、煙草を吸う時の人差指と中指の持って行きよう、――東京弁はまず表情やしぐさからああしなければ板に着かないのかも知れないが、何だか人柄がにわかに悪くなったように思えた。」
ウーマンラッシュアワーの漫才が賛否両論で話題になって大変結構なことだ。
政治ネタ、際どいネタがたくさん入って刺激的だったのは良いが、一方で面白くは無かった、という声も多く聞かれる。
なぜ面白くなかったのか、いくつか理由はあるが、おもに漫才の構成の観点から指摘したい。
序盤は良かった。軽い吉本批判、芸人批判からの自虐。緊張と緩和、高慢さと滑稽さの落差が大きく笑いの量も多かった。
続いての原発ネタも同様に社会批判的でありつつ、福井で夜間に電気がついておらず電気が必要ないという発電量とのコントラスト。背景に発電地と消費地がなぜ違うのかという社会問題はありつつ、それが気にならないほどの落とし方。ここが一番笑いの量が多かった。
その後は、そこに住みたい人はその地に対する愛情を示せ、そうでなければ住ませない、というやり取りのミニコントが繰り返される。ここからがややこしい。
始めは福井。新幹線かがやきが福井に来る30年後には福井の高齢者は星になって輝いている、というかなりブラックなオチ。ブラックであることもだが、これを言うことが福井愛を示していることになっているのかわかりにくい。「輝いている」と言うことを肯定的に捉え、褒めている、と言うことなのだろう。まずここで少しつまづく。が、それほどは気にならない。話芸の達者さと勢いで笑える。
次に、東京。都民ファーストが自分ファーストになっている、と言う都知事批判がオチ。これも東京愛になっているのか非常にわかりにくい。都知事は東京のためになっていない、それを指摘することが東京愛になっている、と解釈するのか。かなり好意的な解釈をすればそうなる。この辺りからほとんど勢いだけで進む。
沖縄、熊本に関しては、最も社会派発言として評価されている部分かもしれない。ここは構造的に地方への配慮を訴えることが地域愛に繋がり先述の戸惑いはほとんどない。その代わり、正論になってしまい笑いの量もあまり多くない。とはいえ、ここは次の展開へのネタ振りパートとも言えるので勢いで押し切れば十分と考えて良いだろう。
突然のアメリカ。これ自体は話の飛躍があり面白い。しかし、日本はアメリカにとって都合の良い国、と表明することがオチだが、これもアメリカ愛なのか疑問。
次に北朝鮮。ここも地域のチョイスは面白い。しかし、キム総書記の「単なる太った動物」という悪口は自分のことだろう、というオチは、それこそただの悪口で北朝鮮愛になっていない。体制に反対している北朝鮮国民目線、ということかもしれないが、説明なしでその設定はかなり無理がある。
最後は日本。この展開は綺麗で良い。ここもこれまで同様だが、ニュースの内容が悪いのは国民の意識が低いから、というオチ。もはや愛でもなんでもない。
後半は当初のコントの構造がほとんど崩壊しており、メインは二人で社会批判を勢いよく言い切る、ということだけが目的化されている。そこを面白さと捉えるなら面白いが、それにしては社会問題の切り取り方に偏りもあり、真面目すぎるようにも見える。この場合、意見に対する賛否や見る側の個々の問題に対する距離感で面白いかどうかはかなり変わる。
そして一番最後に村本が、「お前たちのことだ」と観客に指をさしながら批判して去っていく。ここでそこそこ大きな笑いが起きる。
これが笑いになるということは、つまりこれまでの社会批判は芯を食っていない、ということを示している。早口でまくし立てていること自体がやりすぎであり、ある種の道化となっているわけだ。視聴者には、このような少しぶっ飛んだ人に少々批判されても笑えるという余裕が生まれている。一段低いところからわあわあ言っている人。そのようなポジションを村本は意識的に作り出している。だからこそ、社会批判が全体として笑いに変わっているわけだ。
これは逆に言えば、社会批判が軽くなってしまう、ということでもある。
上述のように、笑いの構成として整合性にやや無理がある。それはおそらく、強引に社会批判をねじ込んでいるからだろう。その強引さ自体が笑いでもある。
つまり、社会批判の強さ、正しさと笑いの量は相反するものとなっている。
そうなると、一部で熱狂されているような、よくぞ言ってくれた、という賞賛は笑いの量の少なさ、つまり面白くない、ということの象徴とも言える。
とは言え、これも含めて計算通りなのだろう。笑いの量を減らしても話題性、あるいは自分の言いたいことを言う、と言うネタなのだ。その意味では、大いに成功していると言える。一方で笑いが多少犠牲になってしまったことも否めない。
今後、同じようなスタイルは難しいだろう。今回は話題性としては非常に良かったが、この先同じようなことを繰り返せば、笑いの量が減っていくか、道化として批判のインパクトが失われるか、どちらかに収斂して行かざるをえない。同じ社会批判の道化には爆笑問題太田がいる。彼はかなり道化よりだ。
まあ、もともと村本も同じことを繰り返す気もないだろうから要らぬ心配なのだが、一部の賞賛者が期待するような、お笑いに変革が起きて社会風刺が増える、というような形には良くも悪くもならないと思われる。
「日本のリベラル、左翼はダメダメ。なぜ日本には海外のようなまともなリベラル派、左翼がいないのか」ってやつ。
では海外のリベラル派、左翼が日本にいたら評価されるんでしょうかね。
今年の夏の英国選挙で、「なぜ日本にジェレミー・コービンはいないのか」とか言ってる人がいましたけど、
大企業と富裕層に課税して福祉を拡充して教育無償化してJRを再び国鉄にします。
なんて政治家が日本にいたら「経済音痴のマルキスト、時代遅れのお花畑左翼」で終わりでしょ。
なぜ、日本にスティーブン・コルベアのようなコメディアンはいないのか
行政府の長、日本でいえば阿部首相を徹底的にこき下ろして笑いを取るコメディアン、司会者が
子役上がりの女の子が女性の権利向上について声高に訴えたらどうなりますか?
「おねえ系」として道化扱いされてるタレントを除き、役者とか歌手とかスポーツ選手がゲイを公言したらどうなりますか?
実際ゲイ向けのAVに出てたスポーツ選手がネットでどんな扱いを受けてるか見ればわかるでしょう。
有名人に限らず市民団体とか労働組合とかでも同じです。「日本の労組は御用組合だ、話にならん」
じゃあストをやるような組合が日本にあったら支持されるんでしょうか?
数年前に相模鉄道がストやりましたが、世論は「利用者に迷惑かけるな」でしたよね。
最賃1500円にあげろデモとかの反応も「そんなことしてる暇があったら働け」でした。
例を挙げようと思えばいくらでもあげれるんですが、要は海外の「まともなリベラル左派」の人が
日本にいても実のところ支持されないだろうということです。
べつに日本のリベラル左翼が特別ダメダメなんじゃない。単に日本人の多くはリベラル左翼的な価値観が嫌いなだけです。
アラバマとかテキサスは圧倒的に共和党支持者が多くて民主党嫌いなのと同じこと。
まずはじめに「癖毛」と「天パ」を別物だと謎主張する奴がいるが同じだぞ、と。
天パには「波状毛」「縮毛(縮毛矯正の事『縮毛かける』とかいう奴がいるけどそれだと縮れちゃうゾ)」「連珠毛」など様々な種類がある。
俺の場合、剛毛で太い連珠毛なんだけど、これが生かせるってレベルじゃなく酷い。
一本一本がうねってる上に縮れててボコボコしてるんだよ。友達に「俺の陰毛のがマシ」って言われるレベルな。
俺の話になるが、髪の毛の頓着が無かった小学生のころはサラサラだったんだが水にぬれると林家ペーみたいになったそうだ。
思春期に突入した中学生頃から髪の毛が原因で地獄を見ることになる。
膨れ上がり、縮れ、光が反射して汚らしく光る髪は嘲笑の的になった。
最初は笑って誤魔化していた日に日に肥大化していくこのコンプレックスについて調べているうちにもう直らないという現実にぶち当たる。
髪質っていうのは毛穴の形状の問題であって、ヘアブラシを入れようが良いトリートメントを使おうが俺のような髪質はサラサラのストレートにはならないのだ。
「なんだ髪ぐらいで大げさな」と普通の人は笑うし、俺も普通の髪質だったらたぶん笑っていたと思う。
俺にとっては谷底に突き落とされた気分だった。どれだけ頑張っても普通の頭はできないのだと。
同級生がワックスをつけて髪型を気にしているのがとても羨ましくて、次第に普通の髪質が直視できなくなった。
社交的でよく笑う性格だったのだが、酷く内向的になったのはちょうどこの時期だったと思う。
頭が悪い上に髪が原因で社交不安を拗らせるようになった俺は近所の偏差値40ぐらいの底辺高校に進学した。
高校入学を機に縮毛矯正をかけた。長年、憧れていたサラサラの髪の毛を手に入れたのだ。俺は嬉しかった。鏡の前で頭を振って笑っていたのを覚えている。
これで普通に過ごせる。そう思った。しかし入学してから数日、クラスの女の子に言われた。
頭の中が真っ白になった。やっと普通の髪質になったとおもったのに。今思うとそりゃそうだよな、と思う。
俺みたいな剛毛な連珠毛が縮毛をかけると数日で光が乱反射して白光りするようになるのだ。粗悪なカツラのようになる。
ショートヘアにしたかったが、そうすると縮毛矯正の持ちが悪い。
縮れ毛が見えることにおびえていた俺は長めのミディアムを維持しながら縮毛矯正をかけ続けていた。in the soupのボーカルぐらいの長さはあったと思う。
通りすがりに女の子が吐く「キモ」の一声が恐ろしくて恐ろしくてしょうがなかった。
それでも縮毛矯正が精神的な支柱になっていた俺は中学の頃よりかは幾分誰かと話せるようになった。グロメンから雰囲気フツメンぐらいにはなれていたと思う。
ある日、クラスメイトの女の子に告白された。正直嬉しかったが、同時に思った。
「俺の本当の髪質がバレたら嫌われるんじゃないか」
「髪で顔の雰囲気って滅茶苦茶変わるし俺がやっていることは不細工が整形したのとたいして変わらない行為」
「もしも結婚して子供が産まれたら子供が俺と同じ生き辛さを味わうかもしれないそれだけは避けたい」
飛躍した思考だったが当時にそう思った俺は「ごめん」と断った。そして今に至るまで交際経験がない。
縮毛矯正を一度すると手放せなくなってしまう。今年で29歳になるが、今でもかけてる。
すっぴんで人に会いたくない女性の気持ちが俺には痛いほどわかる。
俺もこの頭で人に会いたくないし、高校の頃の友達と会うときはいまだに縮毛矯正をかけてる。
家族からは病気だと言われる。お前の頭なんか誰も見てないし気にしてないと。
ネットでヘアカタログを見ると俺の髪質の人なんてだれ一人いない。
画像検索すると時々出てくるが、縮毛矯正のビフォーアフター画像で、酷い縮れ毛のビフォーが俺だ。参考になる髪型なんて何一つ出てこない。
時々けっこう強い天パの人が天パ対策の方法を自分の写真を上げてやっているがその人たちのが幾分マシな髪質なのだ。柔らかさがある。
未だに心の底から子供は生みたくないと思っていて、やはり理由としてはこの髪を遺伝させたくないっていうのが強い。
入社前に縮毛矯正をかけて2か月たったあたりでひどく癖がでてきて、ストレスと天パでテンパってしまい仕事をバックレたこともあった。
もう何も手がつかなくなってしまう事があるし、いまだに人の目が怖い。堪らなく怖いのだ。
誰かが言う。「天パをネタにすればいいだろ」
この酷いコンプレックスの使い道が道化のネタにしかできないという悲しさがわかるだろうか?
きっと同じ天パでも社会生活を全うできる人もいる傍ら俺みたいに腐る人もいるんだと思う。
もしも腐った人、腐りそうな人がいたら少しでもわかっていただけると思う。
たぶん周りは髪ぐらいっていうとおもうけど、俺は君の辛さは痛いほどわかる。
電車で見た君がこれを読むことは無いと思うけど、お互いなんとか生きていこう。
Murder cannot be hid long.A man's son may, but at the length truth will out.
彼はシェイクスピアの一節を諳んじてみせる。それは、目を眩ませるような不気味な光を放って脳髄に焼き付いた。
「なんという道化か。滑稽極まる、あれは恐ろしい殺人者です、その正体を確かめましょう」
何者か這い回る気配が空間に満ちていた。胸は異様な興奮に高まり、こらえるのがやっとだ。視線を巡らせると化物の姿を探す。目を閉じてあえて視覚を遮断し、聴覚でその動きを捕らえようとした。何の事は無い、敵の正体は「黒く燻った汚れ者達」だった。
空想の中で何度も殺人を犯し、その虚妄に取り憑かれた彼は遂に化物となってしまった。ならば、彼にはいくつかの計画が存在する筈だ。主人公を欺き、傷付ける為にいくつものギミックを用意している。彼の頭脳は怜悧に働いていた。それは自らを克己する試練であるとも言えた。敵は何度も形を変えて手脚や胴体を襲い、猛然と打ち倒そうとする。
誰かに劣っているのではないかという不安、自分が一番だという自己欺瞞の塊だ。誰に見せるのも烏滸がましいようなエゴの塊。恐ろしい叫び声を上げて化物は唸り狂う。耳を塞ごうとした。黒幕は自分が退治される日を心待ちにしていたのだ。その化物に一歩、また一歩と迫る。
「お前は誰かの真似がしてみたかっただけの生き物だ。賞賛が欲しかった。昂然たる讃美者が。貴方は一塊の石ころに過ぎません。ネガティブを継ぎ合わせた物だ。退ければ退ける程、現実が押し寄せてくる。孤立し、千倍にも増大し、人を憎んだ。その成れの果て。」
1.このまま投票率が下がり続けると組織票があったとしても最低投票率を下回るのが現状
投票が成立しない=政治が成立しなくなる=政治家の仕事がなくなる
また政治に無関心な層を今のうちに教育しとかないと老人すら選挙にいかない社会になる
そうすると今支えてくれている老人の支持母体そのものが消失する
先にもいったとおり野党は勝つつもりはまるでない
2.実行力を伴わない対案は空論
唯一実行力のある野党であった公明党が既にいない以上、ただの道化
実際は与党と野党の中身のない対立を煽って野党に存在意義があると信じ込ませるサクラばかり
日本が統治国家の体裁を海外からみて保つためにも投票率が低下して政治が機能停止になることを
企業連は望んでいない
対岸の火事を眺めながらお酒を飲むのが大好きなので、知ってるけど関わりがないくらいの距離感の界隈での炎上案件や対立案件を見つけ、それに関係してるアカウントを探してツイート追って、関連ワードでツイート検索して空リプやらに目を通して、っていうのが楽しくてしょうがない。
その後一通りリサーチが終わったら、大抵自分のアカウントでそれとなくその案件に対して客観的(っぽい)ツイートで揶揄して満足するんですけど、たまにFF内に対岸の隣町くらいに住んでる人がいて、優しく「これはこういう事情で起きてるので笑うところじゃないですよ」みたいに諭されて心が痛む。なので、この場を借りて謝罪させていただきます。人様を僕の脳内で勝手に道化扱いして笑いものにしてすみませんでした。でも多分一生やめられないので今後はできるだけ脳内で完結させてツイートまではしないように努力します。
「私、日本人でよかった」という惹句のついたポスターが京都の町に貼られている問題だが、
この惹句は決してコピーライターのイデオロギーを含んだものではないと思う。
ただ単に、ニワカな人がそれをごまかすために派手な言葉を使ってしまっただけのことだ。
「ちゃんと年賀状、ちゃんと大人」「日本よ、これが映画だ」等も同様の例だろう。
日本の経済成長に伴って教養の無い高学歴者が大量に生まれ、そいつらが勘違いして
クリエイティブの場にでしゃばり始めたせいで、広告の言葉が無残に劣化してしまった。
昔に脚光を浴びた「街の遊撃手」なんかも、俺に言わせれば凡人の陳腐な発想に過ぎない。
馬鹿なコピーライターのしたり顔が想像できて、その道化ぶりはむしろ共感性羞恥案件だろう。
http://blog.livedoor.jp/idolookami/archives/44261826.html
かつて王宮には道化が飼われていたと云う。道化の役割は増長した王に、お前はそれほどの者ではないのだ、お前に従うものはすべて阿諛追従の輩だ、民はお前を嫌っておる、と常に吹き込むことである。それにより王は精神の平衡を保つか、或いは道化を打擲して慰められたものである。
翻って今や万民は自らを所有し、寒暖を自在にし飽食の限りを尽くす往時の最上の暮らしを貪り、全世界に己の妄想を垂れ流すことができる。その六畳一間の宮殿に只独り寝起きしていてもたれ一人付き従う事がなくとも、もはやそれは王侯の暮らしである。
数年前、世界的なエビ不漁だかなんだかでモスバーガーからはエビカツバーガーというメニューが消え、そして復活した。
当時高校生だった私は、それまでも何度か二人で学校帰りモスに寄ることがあった先輩に「エビカツが復活したんですよ!絶対食べに行かなきゃ!一緒に行きましょう!」と鼻息荒く詰め寄り、了承をもぎ取った、が、その約束が果たされることはなかった。
先輩と私の友達が付き合っているという事実を知った私が一気に距離を置いたためである。
先輩たちはその交際を周囲に秘密にしていたため「彼女に悪いから」などという理由で私の誘いをかわすことができなかった、ということまでは想像がつくものの、だったらたかがモスとはいえ彼女持ちが他の女とサシで飯なんか行くなや!というか付き合ってんならそうと言わんかい!私が道化やないか!!という気持ちでいっぱいになった私は世の理不尽をかこち、涙を流し、エビカツを貪り食った。
今日、久しぶりにエビカツを食べた。あの頃ほど美味しくない。先輩が頼んだものをよく横取りしたオニポテも、そんなに美味しいと思えない。ふざけんな先輩、私のエビカツに余計な記憶を植え付けやがって。すごく好きだったのに。