はてなキーワード: 文化史とは
同じく地方出身者はなんとなくわかると思うんだが、高校は「地元では自慢できる」レベルのとこに通っていた。
県下一、というわけでもないけど、地元で一目置かれるようなそんなところ。東大進学者を毎年1名出したり出さなかったりするような。
自分はというと文化系と運動系の狭間みたいな部活にがっつりのめり込みつつ、子供の頃から親の影響で続けていたとある楽器と寺社仏閣が好きな、自他ともに認める「変わった子」であった。学力でいえば中学までは特に勉強しなくてもまあまあいい成績が取れる、中途半端に器用な子だった。
親は勉強については大してうるさくなかったが(むしろ楽器の練習をしない方が厳しく怒られたし、数学で10/100点をマークしようが音楽の成績が満点じゃない方が嫌な顔をされた)、お金には厳しく、「大学は国公立しか許さない」と宣言されており、真に受けた私は私立のすべり止めも一切受けなかった。だが高校3年間を部活に捧げた、数学のテストで毎回赤点叩き出すような人間にそのルートは厳しかった。見事に滑りおち、進学先を失った。進学校に通っておきながらこの体たらく。
これから1年浪人するしかない、と思ってふさぎ込んでいたが、そこで偶然にも某専門学校の「大学編入コース」なるものを知る。専門に2年通った後、大学へ3年次編入するというコースだ。ははぁ、よくできてるなあ、と思いながらも学校の担任と両親に相談し、その専門学校へ進むこととなった。
正直入試はあってないようなものなので割愛する。学力レベルからペーパーテストは免除され、英語面接だけだった。まあまあ緊張したが絶対うかると半ば解っていたので強気でいった。ちなみに高校時代苦手にしていた教科は数学と英語だ。瞬間的な暗記力となんとなくで世界史及び国語で高得点を叩き出す完全なる文系である。妙にコアな知識を植え付けてくれたラノベや推理小説たちとヘタリアには今も感謝してる。日本史は文化史だけ異様にできた。
身バレが怖いので色々伏せるが、駅チカでこぎれいなビルがキャンパスだった。キャンパスと言っていいのか?
専門学校内での大きな学科のくくりとしては「英語学科」に属することになり、その中で「英語を使った仕事に就きたい人のコース(翻訳・通訳など)」と「海外の大学に行きたい人のコース」、あと「大学編入したい人のコース」に分かれる。
なんで大学編入が英語学科に属するかというと、ほとんどの大学の編入試験の科目が「英語」「小論文」「面接」のみだからである。(学科によっては専門科目の試験がある場合もある)
授業は9割は英語の授業だった。ネイティブ講師も日本人講師もいたが、とにかく英語。リーディング・リスニング・ライティング・スピーキングの授業がそれぞれあり、それ以外に大学編入のための英語試験対策授業がある。少人数にこだわってて、基本の4つの授業はそれぞれTOEICや学内試験の結果から5段階にレベル分けされていた。私は入学時のペーパーテスト免除、しかも学費も一部免除の特待生扱いで入学したので、「は~やっぱこの程度か専門」とか思っていたが、最初のTOEICテストで300点台叩き出して5レベルあるクラスの下から2番目に入れられる。「出身校」の学力が高かっただけで「私」の学力はクソだった。ただ真面目に授業を受けていればクラスはすぐに上にあがり、最後は一番上のクラスに所属していた。この基本の4つの授業は大学編入以外のコースの人もいた。
残りの1割は資格の授業(英検、ワー検、秘書検、漢検など好きなものを選択できる)の他、第二外国語、小論文対策、PC(というかOffice)など……まあ大学1年生の一般教養と似たような感じだろうか。選択で教養の授業もあったが種類は2,3種類しかない。しかも大して面白くない。
大学1年生と違うのは、自分で授業を選ぶ幅がとても狭いところ。というのも学年によってどの授業を受けるか、カリキュラムが既に綿密に組まれており、「朝ゆっくりしたいから1コマなくそ~」というのは全くできない。選択授業も「とってもとらなくてもいいよ」ではなく「この中からどれか選べ」という選択。なので学期はじめにコースの人間全員集められてHRみたいなことをして、時間割を配られたりしていた。
【学生】
上記の通り様々なコースの人間が入り混じって授業を受けていたので、通っている人は本当にいろんな人がいた。アンタこんなしょぼい専門いていいの!?っていうような頭のいい人から、クソほど簡単なテストを「難しくてヤバかった~」という人まで、本当に様々。Lv.2→Lv.5まで駆け上がるといろんな人と話した。超絶パリピ野郎もいたし、内気で根暗で今にも引きこもりになりそうな人もいた。
同じ大学編入を目指すコースの中だと、まあまあ頭いいけど大学入試では一歩及ばなかった、みたいな人がほとんど。大体がプライド高くてそれを一度へし折られてしまった人、という印象。(私もだけどさ)すべり止めの私大に受かってたけど行きたくなくてこっちを選んだ、という人もいるにはいた。あとは行ってた大学が嫌になってやめて再チャレンジしたいとか……。比較的頭のいい人は多かったけど、それでもやっぱ学力でいうと「まあまあできる」か「いまいちできない」のどちらかだった気がする。コース内で一緒に行動していた友達は国公立に受かっていった人から最後の最後どうにか推薦で滑り込めた人までいた。
コースの人間の数は結構多かった。高校の一クラスくらい……?もっと少ないと思って入学したので意外だった。やっぱり学力レベルでつるむグループが分かれる。男女比は男子の方が圧倒的に多かった。3分の2くらい。でも学年全体で見ると女子の方が多かった気がする。
あと意外といろんな地方から集まってた。やっぱり学校周辺の人が多いのだけど、隣県や新幹線で帰省するくらい離れている土地から来る人もいた。私はかろうじて同じ県ではあるが学校までは通学に2時間かけていて、隣県出身で学校近くに一人暮らししている友達がうらやましかった。
【学費】
高い。私大に2年行くとのかわらん。でも高校時代まあまあ成績取れてたら学費免除は簡単に取れる。(模試の点数とかセンターの点数を基準に学費免除とかしてくれる学校もあると聞く)
本来国公立にしか行かせてくれなかったはずの両親があっさり行かせてくれたので、絶対に学費を無駄にすまいと2年間は真面目に必死に授業や資格取得に打ち込んだ。その後まあまあ就活に有利そうな資格とかちょいちょい取れたので、短大とか他の私大行って仮面浪人するよかよかったなあ、と思った。けどその辺って結局当人の努力次第なので、学校の授業の時間を使って資格取得や受験対策に打ち込める環境にお金払ったと思っている。払ってくれたのは親だが。でも無利子の奨学金も2年次から勝ち取って少し貢献できた。と思いたい。今返済しんどいけど。
1年間みっちり英語を叩き込まれたあと、2年生からいよいよ編入試験が始まる。
3年次編入試験は多くの大学がやっているが、大学によって受けられる条件は様々。私が行きたかった大学は他の4大からの受入のみで、専門卒は受け付けていなかったので諦めた。(でもそういう学校の方が少ない印象)
編入試験の日程は学校によってかなりばらつきがある。早いところだと6月くらいで、遅いところだと2月くらい?私は全部で3つ受けたが、ひとつは8月で、残りのふたつは12月だった。やっぱ秋~冬にかけてが多い。
面接の練習なども授業でしながら、それぞれの試験日に向けて準備を重ねていく。8月に試験を受けたところが第一志望にして最難関の大学だったが、ものの見事に落ちてしまい、泣きながらそのあと友人らとカラオケに行った思い出がある。編入試験は受験科目が少ない分やりやすいと言われるが、その門はかなり狭く、私が受けたところも倍率は5~10倍くらい(だったと思う、もう記憶があいまい)最終的に編入浪人の道を選ぶ人もいる。専門→大学編入のいいところは浪人などの1年のロスを出さずに大学を卒業できる所だが、結局編入試験の壁が高くて編入浪人したりレベルを落としてD~Fラン大学に入ったりと、メリットが活きないことも多い。でも努力してそれが実ればいい大学に入れるのも事実なので、そこは編入にチャレンジする人次第なのかな……とも思う。専門入って遊んでしまった人たちは上位クラスの人でも結局ランクの低い私大に行った人が多く、しっかり努力し続けていた人は国公立や偏差値高い私大に進んでいった。英検1級取得したり、TOEICでマックススコア出した人もいる。
あとTOEICのスコアで試験免除がある学校とかあって、TOEICマジもっと気合入れてやればよかったな、と思った。試験免除にならなくても入学後の単位に換算してもらえたりした。
英語はもうとにかく授業をガンガンうけてガンガン問題解くだけ。喋る・聞くは捨てて、ひたすら読むにステータスを振り続けていた。(書くは申し訳程度にやった)9時半から15時まで授業を受けた後、18時まで学校に残り友達と多少ぐだりながらも勉強(というか課題)、家に帰ってからも英語の長文読解とひたすら向かい合う日々。
小論文は書き方の作法を徹底的に叩き込まれ、あとは個人の文章センスや知識量がモノをいう感じだった。国語と世界史、そしてラノベから影響を受けた文化史系に強かった私には最高の科目だった。
編入試験の過去問も一応あって、見せてもらうためにその大学に足を運んだこともある。(コピーはさせてもらえないので、目で見て出題傾向を把握するのが精一杯だが)あと学校で過去問を回収して過去問集みたいなのを作っていたので、行きたい学校が人気校ならそんなことしなくてもコピーできたりした。英語試験はどの学校も長文読解系が多く、TOEICをそこそこにして英検受けまくっていた自分にはありがたかった。
面接指導は就活とほぼ一緒、だと思う。なんでこの大学に行きたいのかをはっきりさせろ!と言われ続け、「御校に在籍の〇〇先生の研究室で●●について研究したいです!!理由としては!!」みたいな答えをガチガチに固めていった。これはのちの就活に活きたと思う。
【試験】
どの大学も小論文は楽勝だった。8月に受けたところは英語で予想外の作文が出て動揺し、読解問題では時間が足らず、涙を呑んで不合格を覚悟した。翌日即結果発表だったが、当然私の受験番号はなかった。
第二志望の大学の前に第三志望の国公立を受けにいったが、家から遠く深夜バスでの移動となった。しかもバスからまた電車で移動するが乗換をミスり試験に遅刻。席に着くために荷物を通路に置いたら試験管に怒られ、萎縮しながら受験したが英語は予想できたレベルでむしろ楽しかった。1週間後には結果が開示され、無事合格。
そして満を持しての第二志望。同じ学校から他にも2名受けることになっており、一緒に移動。英語試験はやや苦戦した覚えがあるが、それよりも面接がしんどかった。大学に、特にその学校に入りたい理由を述べ(行きたい研究室があるでゴリ押しした)、なぜそれに興味を抱くに至ったかなどを話したが、とにかく緊張して噛みまくり、面接官に不審な顔をされ落ちたと悟った。しかしその試験当日、夜から私の受験期を中学から支えてくれた某バンドのライブがあり、普通に間に合わなさそうだったので走って会場を後にした。ライブはギリギリ間に合った。そして入試も無事にパスできていた。
進学先が二つ用意されたわけだが、もちろん第二志望を選択。一応国立大なのと、高校時代から学びたいと思っていた専攻があったのが決め手だった。思う存分研究に打ち込めたと思う。嘘。2年では足りない。もっとやりたかった。でも取りたかった単位や聞きたかった講義はほぼコンプできた。
上記でも少し触れたが、入学時に専門学校の授業の単位を大学の単位へ変換してもらえるため、本来4年で取る卒業単位を2年間で全部とれ、ということにはならなかった。特に私は人文学系だったので、変換がスムーズにいったというのがある。法律や経済系の学科は専門科目の変換が難しく、卒業単位を取れなくて留年した人が多かった。(と後に聞いた)
1年大学ライフを満喫したのちすぐ就活なのはきつかったが、興味のあったサークルにも在籍し2年間最初から最後まで活動できた。でもいくら単位変換してもらったとはいえ他の3年生に比べると圧倒的に単位は足りてない(その上私は卒業単位にならない資格系の講義も取っていた)ので、ほぼ毎日1~4コマ、そのあとサークル!バイト!みたいな生活をしていたし、就活の時期は本当にしんどかった。英語の資格(TOEICスコア700前後と英検準1級)と進級のために取らざるを得なかった数々の英語以外の資格、そしてあの日の面接対策と小論文対策が活きたのだろう……と思うと私はこのルートをたどってきてよかった。他の短大や4大出身の編入生は就活で軒並み苦労していた。でも専門より大学の方が圧倒的に楽しかったです。普通に1年生から大学入りたかった。
大学編入後で一番しんどかったのは、3年生でありながら1年生に交じって体育やらされたことかなあ。
色々書いたけどあくまで文系の話です。理系の編入はもっと大変と聞くし、そもそも専門→理系学部編入というルートが恐らくない。
東大や京大に比べたら底辺もいいとこだけど、こういう抜け道もあるよっていう話をしたくて。でも根っからの文系だった私だからこそうまくいった裏ルートみたいな感じではあるんだけどさ……。うまくいかなくってせっかく編入した大学やめて引きこもりになってしまった知り合いもいるし、正直この専門→大学編入というルートを誰にでもお勧めできるかというとそうでもないけれど。
あと社会人なってから編入で大学入って、教員免許だけ取って中退した編入生の知り合いもいる。社会人なってから大学で学びたいという人で4年は長いという人にもいいんじゃないかな。あと大学とりあえず入ったけどつまんなくて他の学科行きたいとか他の環境行きたいって人。
私は本当は大学院に進みたかったのだけど、やっぱり学費の関係で諦めて就職した。研究してた分野とも全然違う仕事をしているけれど、趣味としてまだその分野についての情報収集や勉強は続けている。なお英語をかなり使う仕事だし専門時代に取った資格もそれなりに活かせてはいるので業務内容には満足している。
いよいよセンターが近づいてきて、不安な受験生たくさんいると思うけど、どうかここだけが人生の決め手とは思わずに気楽に頑張ってほしい。案外人生どうにかなることの方が多い。
TBSラジオで毎週火曜に放送してるお笑いコンビ・アルコ&ピースの番組が6日に発表した次週スペシャルウィークの企画内容がツイッターで炎上してる。
タイトルは「アベンジャーズからファルコンを脱退させようSP & アベンジャーズ新メンバーオーディション!」で、ファルコンファンのみならず数多くのMCUファンが激怒し、ネットニュースにもなった。https://woman.infoseek.co.jp/news/entertainment/sponichin_20180607_0099
この件に関し、怒りのあまりTBSラジオや同局の審議会に抗議メールを送ったり、クレームの電話を入れているものもいるらしい。
これはあまりにもやりすぎな上、万が一局が企画を取り下げたらファンベースの拡大を妨げてしまう恐れがあると思うので、この文章を投稿することにした。
お読みいただいた方は矛を収め、またMCU市場に資する形で事態が収束に向かうことを願う。
ちなみに自分はMCU作品は一通り2回ずつ見てるがドラマはエージェント・オブ・シールズのみ視聴、原作は読んでない程度のマーベルファンで、アルコ&ピースのラジオはリスナーでもないしファンでもない。以上を踏まえた上でお読みいただきたい。
「失礼。作品をみてない」「アベンジャーズには無くてはならない人物。許せない」「ファルコンは黒人差別に立ち向かうヒーロー。軽々しくネタにするな」「マーベルの歴史を踏みにじるのか」「そもそもファルコンは強い」「人の好きなものを貶めるのは最低。公共の電波でやることじゃない」
上記はツイッターに流れる批判コメントの一例であるが、これらはほとんど「私が不快に感じるからやめろ」と同義である。
特定の表現が不快だと表明するのは大いに結構だが、それを表現者本人や、雇用先である媒体にクレームとして伝えることについては注意して欲しい。いずれも正当な権利の行使には違いないが、日本のメディアはユーザーのクレームに萎縮する傾向が強いことは周知の通り。つい先日もライトノベル作家のヘイトスピーチツイートが問題視され、出版社が当該作品を出荷停止にしたばかりだ。(こちらについても、当該アカウントは壁を殴りたくなるような最低のツイートばかりしていたが、出版社だけは作品を守るべきだったと思う)
MCUはまだまだ日本国内ではマイナーと言わざるを得ない。そんな中でマーベルが「メディアで取り上げづらいコンテンツ」として認知されたら、Phase4へ向けた国内の盛り上がりに水を差してしまう。批判ツイートの中に「これでMCUが日本で上映しなくなったら許さない」等の意見もあったが、彼らのケツの穴はそこまで小さくないし、恐れるべきは市場規模の縮小ではないだろうか。極端な話、日本でMCUを見る人がいなければ、MCUを流す必要な無いからだ。
その点、今回の企画は番組やTBSラジオの視聴者減に繫がる可能性はあるものの、MCUのファンを減らす危険性は全く無いといえる。むしろ、MCUを題材に重要なスペシャルウィークを費やすことで、今まで映画を見てこなかったリスナーにファンベースを拡大させる機会ではないだろうか。
「『ファルコンが弱い』という間違った情報で広まるのはイヤだ」という意見もあるが、こちらについては何様のつもりだと問いたい。コンテンツがどういう形で受容されるかは受け取った人の自由であり、古参のファンにそれを統制する権利などない。そもそもあなたもそうだったように、ファルコンが強くて重要なのは映画を見ればわかる。まずは見てもらうきっかけを作るのが肝要ではないだろうか。
『インフィニティ・ウォー』は全世界を席巻した超絶大ヒット作品だし、MCUは文化史に稀に見るスケールの物語郡だ。その巨大さと比例した分だけの楽しみ方があってしかるべきだと私は思う。もし仮にお笑い芸人が「ロケットをガーディアンズから追い出そうSP」などという企画でラジオ番組をやったら、私は憤慨する。該当芸人にはセンスが無いと罵り、「MCUはGOG2でロケットが見せた表情を描くために生まれた」等、ロケットの魅力について延々と語るだろう。願わくば別のラジオ番組で「ロケット慰留企画」をやってほしい。次は雑誌で「本当に使えないアベンジャーランキング」を特集してもいい。アメトークでアベンジャーズ芸人を放送した後、別メンバーでアベンジャーズ苦手芸人をやればいい。理想的な形で波及することは無いだろう。でも、話題になれば話題になるほど、Phase4が終わったあとにMCUを語り続けられる相手や場所が増える。
しかし、今は友人に「どのMCU作品が好き?」と聞いて答えられる人はほとんどいない。19作品中1つでも見てれば御の字だ。そんな現状で、ファンが自ら発信源を潰しにいってどうするのか。
おもしろさ、与える不快感は別として、現実には起こりえない「ファルコン脱退」と「新メンバーオーディション」を日本のラジオ番組でやるというのは、まるでMCUと現実世界の境界線が曖昧になったかのような奇妙な企画で、まさにMCU文化圏の拡大を感じさせるものではないだろうか。そういう意味では、ファルコンファン以外のMCUファンにとっては喜ぶべき事態かと思われる。そうでなくとも、TBSラジオを萎縮させるのは避けるのがベストだと私は思う。
以上の趣旨で、「ファルコン脱退企画は絶対やり通してください」という題名のメールをTBSラジオに送った。私の同じような懸念を持つMCUが万が一いたとすれば、中止を食い止める一つの手立てとして参考にしていただきたい。
花言葉の起源は不明な点も多いけれど、それなりに考えて作ってると思うよ。
西欧の文化史的伝統を知らないと適当につけたものと思われてしまうのかもしれん。
1819年頃に出版されたシャルロット・ド・ラトゥール『花言葉』 (Le Langage des Fleurs)は、最初期の花言葉辞典である。
ラトゥールは独自の花言葉を270超のリストにまとめているが、その命名手法の特徴は、大きく2つに分けられる。
第一は、その植物の外形や香り・色・生態といった植物の性質・特徴を言葉で表現しようとする観察重視の姿勢。たとえばブラックベリーについて、自らの観察をもとに「人目を避けるように生え、ひとたび口に含むと苦さだけが残る」とまとめた上で、花言葉を「嫉妬」と名付けるような手法がその例である。
第二は、西欧社会で草花が積み重ねてきた文化史的伝統を、一つの単語に凝縮して形容しようとする文化史重視の姿勢である。例えば古代ギリシアの伝統を参照しながら月桂樹に「栄光」の花言葉をあてたり、聖書の記述をひいて「オリーヴの花言葉は平和」などとする。
ラトゥールの著作においては、花の中でもバラに重要な位置が与えられているが、これも文化史的伝統を重視した結果とみなされている。バラは「花の中の花」と称されるほど西欧文化において重視されてきた花の一つで、伝承や神話がとりわけ豊富だからである。
伏字が嫌い、問題であるという指摘について。引用部分は【伏字の文化史】という本から引いたものです。
現在マンガなどで行われている伏字は、人名・商標などに対してお遊び的に行われている1文字伏字だと思いますが、日本の歴史上、伏字は検閲逃れとして、元の語が分からなくなるように行われていました。
新聞紙上に伏字が登場した頃、読者からの次のような投書が掲載されました。
此頃諸新聞に文字の代りに何だか○○○点がよく書て有ツて分りませんから或る学校の教師に尋ねましたらあれハ算術で○(本では「れい」のルビあり:匿名ダイアリー執筆者注)の処へ遣ふ符微だから大かた算法律から代用したので有らうと申されましたが如何でございますヱ新聞屋さん 麻布市兵衛町 長屋平太郎
検閲で発禁処分(言論弾圧)を受けないために使用された伏字ですが、投稿者も教師も伏字の意味が分かっていなかったようです。
明治十年には伏字に対しては下記のように違和感を表明し、使用を止めるように新聞社へ促す投書が見られます。
どうも了簡が少し卑屈で「うづく○(本では「まる」のルビあり:匿名ダイアリー執筆者注)」様に見えるから此丸々の新聞は止て貰ひたいと貴社へせ○(本では「まる」のルビあり:匿名ダイアリー執筆者注)もの
このように、卑屈で蹲るような文体は止めて下さいと、新聞社に対して駄洒落つきで求めています。
と指摘されました。
内閲制度改正運動の発端を作った藤森成吉は、後に「亀のチヤーリイ」という作品の文末において、次のように書いています。
附記、「争う二つのもの」について。あまり伏字は多くなるので、その掲載をやめる事になりました。どうも住みにくい国です。同作者
小説家である上林暁は、戦前に改造社にて編集部員をしていた人物でした。著書「伏字」では、伏字の対応が記述されています。
結局、どんなに手を尽してみても、伏字といふものはきれいなものではなかつた。紙面を汚くしたといふより、紙面を滅茶苦茶にする場合もあつた
当時は、「革命」「平和」「反戦」などの言葉や、それらを匂わす章句も全て駄目でした。
小林多喜二は、伏字が多いために作品が読みにくくなることは避けるべきであり、そのために作家としては伏字が少なくて済む作品を書き、編集側は一文字でも伏字を少なくした出版をするよう説得を試みています。
読書論・読者論と言った研究においては、大前提として、読者が入手したテキストは完全なものであることが必要です。
それと、
http://anond.hatelabo.jp/20140806072102
ワイ生物学やってるけど
ヒトはメスが選ぶタイプやで
その人は一体何言ってるんだろうね
なにてきとーぬかしてんねん、このすっとこどっこい。
ヒトが性淘汰がオスにかかっているか、メスにかかっているか、喧々諤々あったけど、今はメスにかかっている派の方が常識。
理由は簡単。
オスにかかっている派の論拠がことごとく粉砕されているのに対して、メスの身体に性淘汰の結果が厳然として存在しているから。
まー、元の記事の、
動物でもオス同士が争ってメスを奪い合うことは多いし、
それはメスがオスを強さで選んでいる、ということなんだが。
と繁殖行動が全然違う動物を比較している時点で、これはあほかてめえは、で済む話なんだが、これに対して、次のマスダが、
がこう言っているのは、生物学、中学からやり直したまえよと言う話。性淘汰は繁殖速度の差によって生じる。それは「子に与えるリソース」に近いけれど一緒じゃない。
例えばよ、メスが子に10円与えるとして、オスが子に100円与えるとしよう。この場合、オスのほうが「子に与えるリソース」は大きいわな。
しかしオスが100円稼ぐのに一年かかって、メスが10円かかるのに二年かかるとしよう。そうするとメスの繁殖速度は二年、オスは一年だわな。この場合、オスのほうが繁殖速度が速いんで、繁殖速度の遅い方、つまりメスがオスを選ぶことになる。
ヒトは一方一婦制なので基本的にはオスメスの繁殖速度は同じ。家父長制の疑似社会性を獲得して繁殖行動を行ってきたので、メスはそもそも選択の主体ではない。オスとメスの父親の間の「選ぶ/選ばれる」が生じている。
ちょっと視点を変えて、「メスがオスを選んできたよ派」の生物学的な根拠を見てみよう。
その最大のものはミトコンドリアDNAとY染色体の多様性の差ね。ミトコンドリアDNAが比較的多様性を維持しているのに対して、Y染色体ははるかに多様性が小さい。これは少数の男性が集中して子孫を残してきた、それに比較して女性はどんな女性でも子孫を残してきたという、「メスがオスを選んできた」という文脈にかなうんだけど、いやそうじゃないでしょという反論がありこれは実例があるだけに強い。
アメリカの黒人とか、中南米や太平洋の原住民、彼らは現在はミトコンドリアDNAは現地人由来なんだけど、Y染色体はヨーロッパ由来なわけ。つまり大航海時代以降、人類のY染色体の多様性はまた一段と小さくなっている。これは帝国主義のレイプと殺戮の結果であって、それって通常の繁殖行動における、性淘汰の結果ではないわけ。
敢えて言うならば、延長された男性形としての家父長的社会集団間の抗争と淘汰の結果であって、これは同性間淘汰の現象なんですわ。
そこではメスは選択の主体者でさえない。
一方で、こうした同性間淘汰の激しい社会にあっては当然、オスの損傷が激しく、子育てにおいて、男女の繁殖速度が同じであるならば、数の多い少ないがそのまま選択に反映される。実際、ヒトの男性には髭などの同性間淘汰の特徴はあっても性淘汰の結果の特徴はない。対して女性には乳房や臀部の肥大化と言った性淘汰圧力がかかっている。
文化史的にも持参金の制度はあっても、結納金の制度はない社会の方が圧倒的に多く、文化人類学からも「オスがメスを選んできた」ことが結論付けられている。
ま、いいよ。
これに対する反論はあってもいいよ。
でもさ、俺が気になるのはさ、知りもしないくせに、
動物でもオス同士が争ってメスを奪い合うことは多いし、
それはメスがオスを強さで選んでいる、ということなんだが。
とか
ワイ生物学やってるけど
ヒトはメスが選ぶタイプやで
「メスが選んでるんですからぁー!」
って言いたがるっていうか、優位に立ったつもりになりたいんだろう。
なんかもう病的だよね、こういう連中って。
やばいね。
ラノベと文学のことを書いたまとめがあったけれど、その言わんすることは、
2.純文学は淘汰されつつある。
ということらしい。
それの根拠としてラノベを含んだ小説の文化史が並べられている。反応は、その文化史が正しいかのか正しくないのかに始終している。根拠なんだからそれが正しいのか、正しくないのかは大事なことだろう。ただ感情的な人間としては、結論が間違っているようにも思えない。
漢文や擬古文といったものが消え、口語体が主流になった。国語の教科書にでてくる森鴎外の舞姫を何の脚注もなしに読むのが難しいのだから、そこは間違っていないと思っている。
ただ、小説にでてくる口語体というのもまた時代の流れとともに陳腐化した。つまり、口語ではなくなった。昔の口語が、古いレコードのように書き言葉として残っているに過ぎない。いまぼくらが日常会話で使う話し言葉は、正式な文章ではお目にかかれないし、まともな小説と呼ばれるものには出てこない。
言葉を整理すると、ライトノベルが「純文学」の系譜にあるという文脈での「純文学」とは小説という文化での権威のことだ。純文学は淘汰されつつあるという文脈での純文学は、いまのジャンルとしての純文学のことを言っている。
また、補足すると小説という文化には権威とそれに従うもの、それから外れたものという階層構造が存在している。
そういうことを踏まえると、いまのジャンル純文学は権威を失いつつあり、次の権威はライトノベルが担う可能性があるということだ。
小説の文化が変化をしつづける限り、永遠に権威で在り続けることはできないということだ。いまの権威は純文学であるが、やがてそれは何かに取って代わられる。その可能性として高いのはライトノベルだということだ。それは単純にライトノベルがいま一番活況だからである。
人の少ない文化は衰退する。人の少ない純文学やそれに従うものは魅力を失っていく一方だ。
さて。
ライトノベルは次の小説という文化の権威となる可能性を秘めている。
ここからは感情論が強くなるのだけれど、昔からある何かが否定されるとき、否定する人間はその昔からある何かをよく知らないのではないとかと思っている。むしろ、知らないからこそ否定できるのだと思う。ライトノベルが純文学を否定する未来があるならば、そのときのライトノベルを書いている人間はおそらく純文学をよく知らない。
そして、先例というのはいつもあるのだ。
ライトノベルのタイポグラフィ的なところも西尾維新的な言葉遊びも調べれば調べるほどに先例がある。タイポグラフィ自体がかなり古いものだし、言葉遊びという意味では無駄に爛熟していた江戸文化で見られると思う。イタズラを悪戯と書くのだ。
知れば知るほどに否定できなくなる。だから、知らないほうがいい。「純文学なんて高尚すぎて退屈だ。俺がもっと面白ものを書いてやる」という気概こそ必要だと思う。
そして、この気概を持つためには、ライトノベルが否定されているという認識が必要だと思う。ライトノベルはクズだ、と言われているからこそ、見返してやろうという気が起こるものだ。もし、ライトノベルも立派な芸術であるだとか、そういうふうに賞賛されてしまうのであれば、挑戦する必要がない。それでは、権威となった純文学と同じだ。
土曜のTBSラジオを聞けば今のサブカルで主流の2つの人物タイプがよくわかる。
http://www.tbsradio.jp/life/index.html
http://www.tbsradio.jp/utamaru/index.html
文化系トークラジオ | ウィークエンドシャッフル | |
---|---|---|
性格 | 暗い | 明るい |
性質 | ジメジメ | さっぱり |
センス | オシャレ | ダサい |
精神の根幹 | 中学生的過剰な自意識 | 中学生的ボンクラ魂 |
こんな自分が好き | 人よりちょっと繊細なところ | 人よりちょっとダメなところ |
語り口 | こんなこと語る僕らって仲間だよね | こんなこと語る俺って面白くね? |
一人称 | 僕 | 俺 |
拠点 | 池袋 | 下北沢 |
読む雑誌 | スタジオボイス | 映画秘宝 |
読書の傾向 | 社会評論 | 文化史 |
崇拝対象 | 東浩紀、宮台真司 | みうらじゅん、いとうせいこう |
つまらない作品と出会ったら | 周囲とどこがダメか確認し合う | いかにつまらないかを笑い話にする |
QJに対する態度 | しっかり読むけど周りには隠す | 読むけどあの雑誌はぬるいと言う |
脳内彼女 | 一度も話したことないクラスメート | ブラウン管の向こうのアイドル |
世界最後の日 | 好きなあの子と一緒に過ごす | 俺が地球を救う |
諸君 私は歴史学が 好きだ
諸君 私は歴史学が 好きだ
諸君 私は歴史学が 大好きだ
政治史が好きだ 経済史が好きだ 社会史が好きだ 文化史が好きだ
交渉史が好きだ 比較史が好きだ 歴史哲学が好きだ 読者論が好きだ 史料学が好きだ
居室で 教室で 喫茶店で 図書館で 研究室で 文書館で 講堂で フィールドで
この地上で行われるありとあらゆる研究活動が 大好きだ
目録の並べた参考文献の芋づる検索が 轟音と共に既存のイメージを吹き飛ばすのが好きだ
寝不足でくたくたになった卒論生が 打ち上げでふらふらになった時など心がおどる
司書が大切に保管してくれた 文書館の史料が マイクロフィルムの白黒でないのが好きだ
悲鳴を上げて 文字の潰れた画面から 意味を推量しなくてよい時など 胸がすくような気持ちだった
カードにそろえた史料の異同が 既存の校訂を蹂躙するのが好きだ
五里霧中の初学者が 既に明らかになった誤植で 二度と躓かなくなる様など 感動すら覚える
発表予行の準備不足が ゼミ室の机上に吊るし上げられていく様などは もうたまらない
泣き叫ぶ主張の列柱が 進行の振り下ろした手の平とともに
金言助言の十字砲火で ばたばたと薙ぎ倒されるのも最高だ
哀れな発表者として 史料を見直し 健気にも立ち上がってきたのを
学会での質疑応答が 土台ごと木っ端微塵に粉砕する時など 絶頂すら覚える
学術誌の査読者に 滅茶苦茶にされるのが好きだ
必死に守るはずだった着想が蹂躙され 勉強不足がさらされていく様は とてもとても悲しいものだ
予算の制約に押し潰されて 殲滅されるのが好きだ
定年教員の席には後任予定がなく 図書館の限界に追いまわされ 図書の購入は控えて下さい 不要本(!)は廃棄して下さい と言われるのは屈辱の極みだ
諸君 私に付き従う 院生戦友諸君
君達は 一体何を望んでいる?
鉄風雷火の限りを尽くし 三千世界に鴉を殺す 嵐の様な歴史研究を望むか?
よろしい
ならば論文だ
我々は満身の力をこめて 今まさに振り下ろさんとする握り拳だ
だが この学費と書籍費激増の暗い闇の底で 十数年もの間堪え続けて来た我々に
ただの史料発掘ではもはや足りない!!
大論文を!!
一心不乱の大論文を!!
ならば我らは 諸君と私で 総兵力百万と一人の研究集団となる
図書室を閉鎖の彼方へと追いやり 眠りこけている連中を叩き起こそう
耐震補強工事の貼紙をつかんで引きずり下ろし 扉を開けさせ思い出させよう
まっとうに就職した優秀な連中に 歴史学の楽しさを思い出させてやる
天と地とのはざまには 金儲けの哲学では 思いもよらない事がある事を思い出させてやる
全フラッペン 実証活動開始 旗艦「投稿」 始動
離床!! 全ワイヤー 全索引線 解除
第X次論争作戦 執筆を開始せよ
征くぞ 諸君
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/3906/kakikae/hell0.html
教養俗物でもかまわんけど、君もたいがいだね、ただし、君が攻撃のネタにしていることのうち肝心な点が俺の考えではないことは再度強調しておこう。
そのためのハッカー、そのための非モテ、そのためのオタなんじゃねーの。
少なくとも、自分から階級格差を肯定し追認する側に回っていることを公言するようなバカな真似はしたくねえな。
人のことを青臭いだのなんだのというけれども、君こそ大したものじゃないか。ハッカーもオタクも何の関係もないと思うし、現状の非モテ運動がなんかできると思うか?各個撃破されてるだけじゃないか。
どっちにしても、俺はそんなものを追認してないからそこだけは誤解するな。韓信の股くぐりと言ったはずだ。
俺がいつそんな主張をしたというんだか。
これについては他の人と混同していた。失敬。
ただし、高校で古文を教えることがステータスシンボルになるなどとは俺も言っていないからな。独学するための基礎ができると言ったのだ。
君さあ、先進国で大学教育を丸投げしてる国があるかどうか考えてごらんよ。どこの国もそんなことをしてないってことは、誰も「外国で本当の一流を学んでもらったほうが」なんて考え方はしないってことじゃないか?実際、高等教育を丸投げしたらその国に人材を持って行かれてしまうのがオチだぜ?アメリカはそれで反映してるんじゃないか。
それから、MITがよほど日本の大学より優れていると思っているらしいが、それは勘違いだし、だいたい日本の大学に大勢いる「本当の一流」の研究者に余りにも失礼だ。東大・京大をはじめ日本の有力大学は、世界の基準でいっても一流大学だぞ。アメリカやイギリスはともかく、ドイツとかフランスとかその他の先進国には全然負けていないよ。それに、アメリカやイギリスの大学が優れているのは量的な側面であって、質的なものではないのでな。
欧米でギリシャ語やラテン語や古典文学が重要視されるのは、それが彼らの民主主義やら哲学やら自然科学やら数学やらの源流にあるからだ。
そんな、どっかで聞きかじったようなことを言わないでくれ。今さら丸山眞男の真似事のつもりか?君こそ立派な西洋中心主義者じゃないか。確かにルネッサンスというのは古典復興というお題目だったが、現状を否定するときにさらに過去の権威を持ち出すのは常套手段であって、それは「万世一系の天皇」というのと似たようなもの。正確に言うと源氏物語だってそういう理由で明治期以降急に祭り上げられたものだ。ただしそれらが芸術史・文化史に刻み込んだ影響だけは否定できないし、作品としてよいものはよい、それだけのことだよ。
グレコ・ローマン文化を特別視する思想というものこそが、君が否定したがってる「文化資本で階級支配をしたがってる奴」という奴らのドグマなんだが、そんなことも知らずに「文化資本」なんて言葉を使ってたのか?
以下は蛇足。
情報工学関連への言及が他と比べてショボくて、ああ専門外なのねー、とニヤニヤ出来たけど。
UNIXという「特定」OSの実装から離れた所で抽象的にOSを煎じ詰めるのはかなり学問的な領域だと思うが。もう基礎とはいえないだろう。
「使い方」から遊離して「考え方」だけを煎じ詰めていくのは、プログラマレベルでの実践的な志向ではないだろうな。学問的には意義があるが。
あのさあ、情報処理試験に出るレベルの「常識」を「教養」なんて呼ばないでくれよ。
悪いけど、君が挙げてるのはどれも「情報工学」じゃない。単なる「ノウハウ」だ。それは、半田ごての使い方が「電気工学」でないのと同じぐらい自明なことだ。人が作ってくれた道具の使い方に習熟していることをいくら自慢されても、話の次元が違うとしか言いようがない。俺が言っているのは「大学でなぜ必修になっているのか」という話だ。だったら当然、「学問的な領域」の話が問題になっているわけだ。
まして俺は、「パターン認識」「待ち行列」みたいな理論的な分野を例として挙げたはず。一番そういう「手先の器用さ」が問題にならなさそうな分野をわざと選んだのだがねえ?
あのさあ、なんでパターン認識とか待ち行列とかの例を挙げたと思う?こういう分野では数値計算が重要になるから、基本的に低レベルに近い言語でプログラムを書くことが望まれるし、似たようなプログラムを使い回すから生産性という意味でもそれで大した影響がないということだ。
そもそも俺は低水準言語の話はしてなかったと思うが?
「低水準言語で十分」という例を挙げてどうすんだ。「低水準言語が有効/必要」な例をあげろよ。機械よりの視点で細かい制御が望まれる例を挙げるべきだ。
話が理解できていないから頓珍漢な応答になっていることは上に書いたとおりとして、「数値計算」と書いたはず。RubyだのPerlだので数値計算させて日が暮れてしまうのは君の自己責任だけれど。
一つだけ挙げた例を全てだと思い込むような人を説得しようとした俺が馬鹿だったのかな。