はてなキーワード: 忠告とは
https://news.yahoo.co.jp/articles/e33b6c9f9696c4f3b7ff6a1d2661491dbd9afe13
記事の内容を要約すると『感覚過敏ありの人が、マスクは難しいので代わりにフェイスシールドを付けて洋服を買いに行ったら、入店拒否された』という話。
もちろん、これ自体に対して『どちらかは100%間違ってる』なんて話ではなく、当人の苦痛も、感染リスクを懸念する店の心情もどちらも間違ってると断言できるものではありません。
ですが、コメント欄が酷い。
感覚過敏があること自体が、「実店舗で買わなければならないやむを得ない理由」です。
(通販では生地の質感を確認できないので、安全に着れる服かどうか区別がつかない。)
感覚過敏の人はどうやって服を買えというのでしょうか?
自分は関係ないと思い込んでる人にも忠告しておくと、感覚過敏は後天的にも発症します。(ついでに言うと、発達障害関係なしになる人もいます)
否定的な意見があっても、多くは明確な理由を書いてくれているから。
中には「自分は高リスク群なので、感染は死亡確定も同然だから困る」という人もいる。
はっきり立場表明するけど、私も「COVID感染に起因する死亡は、極力ゼロにすべき」とは考えている。
それでも問題提起をしたのは「マスクはリスクを低減する手段の1つであって、それ以外を絶対に不正解であるようにみなすのはおかしい」という、つまり「目的と手段の混同するな」という意味合いからである。
この記事は、筆者がこれまで見てきたメンヘラ達の挙動を元に、死ぬ死ぬ詐欺をする奴がどうやって本当の死に近づくか、そしてそれを避ける方法を段階ごとに記したものである。
「鬱」「寂しい」「悲しい」など、日常のツイートにネガティブなものが混ざり始める。
この時、ネガティブなツイートへの周囲からの反応が、普段のツイートに対してのそれより多い、というケースが何度か起きると、あまり取り柄のない人は周囲に反応してもらうためにネガティブツイートに依存するようになる。
これがある程度続くとステージ2に進行する。
脱出方法…ネガティブなツイートは周りもネガティブな気持ちにさせるし、周りからの反応の有無以前に自分への印象が悪くなることを自覚し、ネガティブなツイートをしないようにする
ネガティブなツイートが続いて反応が得にくくなると、反応欲しさにネガティブツイートの内容がエスカレートしていく。その結果、「死」という言葉が明確にツイートに出てくるようになる。「死んでもいいかな」「死にたい」など。
この段階で、まともな人の約6割はこのメンヘラと距離を置く。所属しているコミュニティが健全であれば、そのコミュニティでまともな立ち位置に居られなくなる直前、といったところだろう。
まともな人の残り4割はまだ励ましたり宥めたりしてくれる。ここで味をしめて死ぬ死ぬツイートを繰り返すとステージ3へ進行する。この間の進行速度はとても速い。何故なら、まともな人が繰り返し励ましてくれる可能性は1回ごとにどんどん下がるからだ。
脱出方法…精神科へ行く。そして言われた通りの治療をする(薬の用法容量を守る、禁止された事はしない、など)対人関係の傷が浅いままで復帰できる最後のチャンス。鬱な気持ちのおかげで医師への信頼が出来ないなど、様々な理由で言いつけを破りたくなる事があるかもしれませんが我慢して守る。寛解するまで治療はやめない。
この頃になると、死ぬ死ぬツイートをしないと構ってもらえないし、死ぬ死ぬツイートをするたびに構ってくれる人の数は減る=見捨てる人が増えるので、死ぬ死ぬツイートがほぼ常時吐き出される。
本人はそれで誰かが構ってくれると期待しているが実際には、まともな人は1〜3回ぐらい助言や忠告して、それを聞き入れる気がないと判断すると距離を置く。
どんどん構ってくれる人が減るので更に鬱の傾向が強くなり、死ぬ死ぬツイートの数やバリエーション、深刻度が増え、遺書めいたツイートをしたりする事もある。
脱出方法…精神科へ行け。入院も考慮して良い。寛解するまで治療はやめるな。ステージ2で脱出出来なかったお前に戻れる場所はない。他のコミュニティで0から出直せ。
まともな人からの助言も忠告も励ましも全て無視したので、まともな人からは見捨てられる。
自殺未遂などもするようになるが、すればするほど人は離れる。
誰かが無理矢理病院にぶちこんでくれない限りはこのままエンディング行き。
脱出方法…誰かが無理矢理措置入院させてくれたら何とかなるかもね
仕方ないと思っているし、俺も悪い要素はあったのだけれども、一方で腹に据えかねるようなこともたくさん言われた。
葬式にも来るな、もう縁を切ると言われて、家族だけでやった結婚式にも来なかった。
でも事あるごとに、親戚に対する無礼は許しがたいのでどうしようもないけど忠告させてもらう、といって
長文のネチネチしたメールを寄越しては、それに振り回されてしまう自分がいる。
気分が悪くなるだけなので本当に放っておいてほしい、けど
いちいち来る内容に疲れ切ってしまう自分もいて、とてもしんどい。
僕が全部悪いんだ、という気持ちで謙虚なつもりで最初はいたのも本当に最初だけ。
自分の考えが浅かったり、逃げてしまったりする気質なのはどうしようもなく事実で、
挨拶をする(節目の礼儀的なところとかで)みたいなことが苦手で、
いやいい大人だから苦手では済まされないのです、ということを理解しながらも。
しかし、こと親については、もう、どうしようもない。
僕は自分が究極的には悪いと思っていないのかもしれないし(この辺は完全にとりとめもない思考である。)
まじで距離をとって関わらないに限る。
と思うのだけれども、年賀状を送ってきたり、なんか、、、何なん??
折り合わない。。。ひどいよ。
事務所で優雅にネスカフェゴールドブレンドを飲みながら、
私!違いがわかるんだなぁーって、
静かな湖畔の横にあるこの事務所でホットコーヒーのブラックを飲みながら、
自分のやりたいお片付けなどなどすをるのよ!って意気込んでいるところよ!
そんな最中、
あのさ、
ラーメン屋さんとかで見る、
レンゲに小さいミニラーメン作って一口でパクッと食べるのがお行儀良いと思ってる人。
レンゲの上に小さいミニ牛丼作って器用に一口でパクって食べるの!
さすがレンゲの上に料理を作る職人だわーって感心しちゃったし、
私もお行儀の良いところに行ったら、
そうやってミニ牛丼をレンゲの上に作って一口で食べちゃおう~。
一周して感心してしまったわ。
もうレンゲミニ丼の小ささと反比例して女子力は高くなるのかもね!
ってそれは普通に食べてる感もあるけど。
ということで、
今の今まで午前中はちょっとお買い物出て、
日頃行けない文具屋さんとかに行ってみたいじゃない。
それからお昼は伝票整理。
この会社は休む人っていないのかしら?
だれかしら会社に居るわ。
今日はたまたまビルのエレベーターがメンテナンス中で階段で上がったんだけど、
人が通ると勝手に明かりが灯る感じなの。
まるで導かれし者!感あるじゃない?
その導かれし者ごっこもいい加減飽きたところで
階につくんだけど
階の途中に選ばれし者が抜く剣があったら申し分ないんだけど、
そういうロールプレイングゲームにありがちな三大要素ってそれらの他にあと一つってないかしらね?
そう思ったわ。
私はあともう一つのロールプレイングゲームの一要素を探しにオフィスを出ることにするわ。
今日はまだ明るいうちに夕方お出かけもまた良いかもしれないし、
みんなもいい年末年始を値と願うばかりよ。
そう安泰にも思ってやまない頃
来年の祝日の日にちもこの期に及んでまだ決まってなかったみたいで、
ついこの何日かに決まったらしいわよ。
祝日が間違ってもう刷っちゃったのがあるって巷の街の港の噂なので
ここで私はしっかりと忠告しておくことを忘れないことにして今日を締めくくるわ。
うふふ。
今日はお店にお客さんが多くて、
私も真似したくて頼みたくなっちゃったわ。
気にしすぎかー?
炭酸レモンウォーラーにピンクグレープフルーツをミックスして
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
今やってるコンパスってアプリの次のコラボ情報が出た。「文豪ストレイドッグス(通称:文スト)」とのコラボで、コラボキャラは二人。中島敦と芥川龍之介が実装されるらしい。いつも通りのコラボだと深く考えずにTwitterを見ていたら、「検索除け」に関してちょっとした学級会をしていた。
文ストファン曰く、「近代の人物をモチーフにした作品であり、子孫もご存命である。また、純粋な文豪ファンの方も多く存在する。検索の邪魔をしない、不快な思いをさせないためにも、フルネームでの投稿を控えていただきたい」とのことである。
自分から炎上だの学級会だのに巻き込まれるつもりはないので、忠告に従ってフルネームでの投稿はしないつもりだが、気になったのは「検索除け推奨派」の一人が言っていたある一文だ。
「公式以外がキャラクターの名前をそのままツイートするのは暗黙の了解でタブーになっています」
公式はいいのかよ、と。ファンの自治活動かよ、と。同じようなことを文ストファンに直接聞いていた人がいたのだが、それに対しての答えが、「公式が検索除けしようとしたらなにもできなくなるだろう!」だった。
公式が検索汚染するのは許して、コラボした先のゲームのプレイヤーに暗黙の了解なんてものをおしつけるようなファンがいる作品なんだなと思った。めんどくせぇ。過激二次創作オタクどもの残した負の遺産をまったく無関係の人間に押し付けないでいただきたい。検索除けはするけどさ。
とても小さく、足が悪いようで、
いつもひょこひょこ歩いてる。
夜も8時を過ぎた頃、仕事終わりに、
暗い夜道をひとりひょこひょこ歩いて帰る。
量からして一人分。帰って夕食にするのだろう。
しょうがなく働いてる。
そんな風に見える。
「哀れ」とは、この人のためにあるようだ。
痩せていて、背は高そうだ。
「そうだ」というのは、彼は車椅子だ。
だから正確には判らない。
その彼は、いつも車椅子を片足で漕いでいる。
片足は動くようだが、手は使わない。
買い物はしてるのである程度は動くようだが、
車椅子を漕ぐ力はないのかもしれない。
けど押してくれる人はいない。
いつもひとり、片足で車椅子を漕いでいる。
緩やかな坂でもかなり辛そうだ。
なぜ電動式を使わないのか。
支給されないのだろうか。
そんな力の入らない手で、
トイレやベッドへの移動はどうするのだろう。
そんなことを思いながら、
自分を振り返る。
俺もいつか、彼らの仲間入りをするだろう。
ただひとり、ただ食べるために
ぼーっと生きていく。
そしてひっそり死んでいく。
そんな俺から警告する。
諦めるな。
人に興味を持ち、人を愛せ。
ブサイクだ金がないだ?
そうではないだろう。
家族とは友人とは、そんなことではできてない。
大丈夫だ。お前にもできる。
古いも新しいもない。
金を稼げるわけではない。
無償で助け合える人。それを作れ。
そしてお前も、その人を助けろ。
こっちには来るな。
まだ間に合う。
がんばれよ。
当方20代後半、都下(いわゆる23区外の多摩)に生まれ、22歳で都内の大学の文系学部を卒業し、ストレートに大手メーカーに総合職として就職。配属は社内情シス。
転勤先は東海道新幹線のとある駅まで数kmの田舎の工場で、工場情シスということで仕事の内容自体は東京の本社とあまり変わらない。サポートデスク的なあまり難しくない仕事だ。
が、転勤して半年ほどたって耐えられなくなってきた。本当につらいし、地方転勤を心の底から舐めていた。東京で生活できることのすばらしさを舐めていた。住環境というものを過小評価していた。
就活してる時に戻れるなら、地方転勤があり得るメーカーなんて絶対に受けない。なまじ偏差値高い大学だったため、同期も大手企業にバンバン内定を決めていることが焦りにつながり、俺もブランド重視で大手メーカーを選んでしまったが激しく後悔している。面接で「地方転勤もあるかもしれないけど、いい?」と聞かれ、都会の生活に飽きが来ていたと思っていた自分は「地方の生活も経験してみたい、東京以外の生活も面白そうだ」というぼんやりした理由で承諾してしまった。今は転職エージェントを使って全力で転職活動している。
俺と同じように実家も東京でずっと東京で生活していて地方の生活も悪くないかもと考えている都内の大学生は多いと思う。そいつらに全力で警告したい。
・東京の生活に飽きたから地方で生活してみたい、は絶対後悔する
・そもそも地方転勤がある会社を受けるな。もし受けるなら40歳平均年収が1000万円以上のところだけにしておけ。平均年収600万円程度の会社で地方転勤させられたら都内勤務で平均年収600万円の会社に絶対勝てないし自分の愚かさを心の底から呪う羽目になる。
・地方転勤は年収換算マイナス300~500万円くらいだと覚えておけ。つまり年収300万円上乗せするから地方に転勤してくれない?と言われて初めてフェアな交渉になるという意味だ。給料据え置きで地方転勤を打診されたら速攻で転職活動しろ。
これを読んでいる都内在住の人は、新幹線に乗って遠出したことが一度はあると思う。東京から新幹線に乗車し、富士山を眺めつつ、新大阪や名古屋に到着し、旅行を楽しむ。ありふれた旅行の一つだ。
都会から都会を結ぶ線路の途中でふと窓の外を見ることもあると思う。眠くなるような代り映えのない田んぼだらけの景色。
想像できるだろうか、新幹線の窓辺から見える田舎の工場で働く人の生活を。俺はまともに想像もしていなかったのに安易に転勤を受け入れてしまった。
地方転勤の想像と現実のギャップやありがちな勘違いを、東京育ちの若者目線でつらつら書き残しておく。
23区外に住んでいると、しばしば「ここは田舎だから」と自虐を宣う人を良く見かける。
こんなのは嘘だ。本当の田舎を知らないから言える虚言そのものだ。
駅までせいぜいバスや自転車、徒歩で心理的負担なく気軽に出かけられて、駅周りの喫茶店やカラオケ、ネカフェ、松屋吉野家なんでもありの活気がある場所にすぐ行ける。
この「心理的負担なく気軽に」行けるかどうかの違いは東京の郊外と、本当の地方の田舎じゃ天と地との差がある。
地方に住んでいると、駅までちょっと出かける、というのは遠足みたいな準備と気合が必要になってくる。
明日は何時に家出て駅まで行って、そこから~時の電車に乗ってでかける、といったようにだ。
東京に住んでいたら、休日に時間を気にする必要なんて全くと言っていいほどない。終電逃しても最悪タクシーがすぐに拾えるし、どんな時間にバス停や駅につこうがすぐに乗車できるからだ。
東京の場合は、財布とケータイだけもって適当にぶらぶら歩きつつ思いのままに東京タワー行ったり新宿で買い物したり美味しいラーメン屋とか書店で思う存分休日を楽しめる。
コンビニも近いからちょっとビール飲みたいなと思ったら思ってすぐに家出て買いに行ける。
それが田舎では全くできない。
田舎に住んでいると、外出するのにかなり気合が必要になる。というか、外出する目的が必要になる。東京に住んでいる時には外に出る理由なんて一切必要なかった。外に行きたいから行く。これだけで十分だった。
だが田舎は違う。目的も無しに玄関出て外に出たところで、何も起こらないのだ。田んぼだらけの道をふらふら歩いてコンビニまで30分かけて行って弁当や飲み物買って帰ってくるくらいだ。田んぼの田園風景は引っ越し初日で飽きる。何にも面白いものなんてない。だって変化がないんだもの。当たり前。
俺は思いっきりこの勘違いにハマっていた。もともと友達もあまりいないし、ネットサーフィンしたりPCでネトゲやったり読書したりとインドアな趣味が多かったので、東京に住もうが田舎に住もうが大した変わりは無いと思っていた。むしろ田舎の方が光回線の帯域を占有できるからネットのスピードに関しては東京より快適だった。
だけど、田舎の周りが田んぼだらけのアパートの一室でゲームやったりネットサーフィンやっていると、孤独感が本当に半端ない。東京に居たときとレベルが違う。東京の外で生活したことがなかった俺は、これが一番堪えた。逆に、東京にただ住んでいるだけで孤独感がほとんど無かったというのは新しい発見だった。実家が近いとか、地元の友人にすぐ会えるからとかじゃなくて、人が多いところにただ住んでいるというだけでこれほどまで孤独を感じないものなのかと再発見した。日中に玄関から出れば東京だと絶対人間に出くわす。ママチャリで買い物してる奥さん、学校帰りの子供、スーツ着たサラリーマン、作業服した作業者、とにかく人間がいる。
対して田舎は本当に人がいない。外に出ても出なくても人がいない。部屋の中で心臓痛くなって倒れても助けは呼べないだろう。俺はアパート住まいだが、隣の部屋は空き室で、数室離れたところによくわからん人が住んでるという感じだ。俺がゲーム中にくらっと来て倒れても誰も気にかけちゃくれないだろう。地方の田舎の、新幹線から見える工場に勤めてる若造が、周りが田んぼのアパートの一室で倒れて苦しんでるなんて、誰にとってもどうでもいいことに違いない。そういう絶望的な孤独を、田舎では強烈に実感することができる。それはインターネットやアマゾンでは全く埋め合わせることができない。
アマゾンは確かに配達される。だけど物欲自体が無くなるわけよ、田舎に住んでると。だって自慢したい相手がいないんだもの。いくら高価なグラボを買ってTwitterで自慢しようにも、自分が惨めな田舎のアパートぐらしってだけで気持ちが強烈に萎える。
で、これ。
住めば都って言うじゃん。どんな田舎でも何年か暮らしてみたらそこが故郷になるって話。あれは絶対嘘。まあ実家がもともと他の田舎にあって田舎→田舎の転勤ならそうなるかもしれない。
だけど東京育ちの若者が田舎に何年住んだって絶対都になんかならない。人がほどんどいない無人の都なんてあるか?何年たっても田舎は田舎だし、人は増えない。当然都にふさわしい店や活気、おしゃれな建築物なんて絶対に作られない。都なんかになるわけがない。
だから、上昇志向のある人間は必然的により良い環境へのクラスチェンジというか移住が目標になる。田舎の工場で工場長や支社長になったって、多分東京で平社員やってる方が圧倒的にQOL高いよ。
田舎のトップになるより、東京の底辺の方が100万倍マシ。なぜなら優秀な人はみんな都会を目指すわけで、田舎で昇進を重ねて偉くなろうが、部下になる奴は救いの無い田舎者とか上昇志向の無い現状維持の変化を嫌う奴らだけ。優秀な奴は結局東京みたいな都会を目指すわけよ。
だから、田舎で昇進して成り上がるなんて人生の目標になるわけがない。偉くなれば東京に上がれるかも、って希望だけが向上心の持っていき場になる。
偉くなって、東京に行くんだ、ってなるくらいなら、最初から東京の会社でキャリア積んだ方が100,000,000倍マシ。地方転勤は本当に虚無。
お盆休みに実家に一週間ばかり帰ったが、田舎暮らしには何の意味もないことをさらに実感することになる。
UberEatsとか、なんだよこの便利なサービスは。外出しなくてもレストランのメニュー注文できて自宅で食えるとか神かよ。
図書館はそこら中にあるし、本屋もまだまだたくさんある。ふらっと気軽に家から出て本屋で立ち読みしたり気に入った本を買って喫茶店で3時間くらいコーヒー飲みながら読書したりとか、最高かよ!!
映画館も多くて、プロスポーツ観戦もちょっと気が向いたらすぐに行ける。ラーメン屋も地方と違ってめちゃくちゃレベルが高い。
「生き物のようにぐにゃぐにゃ生きて動いている街」のど真ん中に自分がいるということがどれだけ楽しく活気に満ち溢れている状態なのかとても強く実感する。
東京戻ってきて思ったのは、東京って行こうと思えばすぐに、海、山、湖、川、都心、港、渓谷、果ては島にすら日帰りで気軽に行けちゃうっていう、人が多くて買い物し放題なだけじゃなくて東京近郊でアウトドアレジャーも超簡単に楽しめちゃう最高の地域だってこと。
箱根や富士五湖、横浜の港、アクアラインで千葉に行ってマザー牧場とか海岸線ドライブとか、狭山とか五日市の秋川、高尾山も超気軽に行ける。調布飛行場行けば日帰りで伊豆大島にすら行ける。井の頭公園、代々木公園、新宿御苑みたいな緑にあふれたところもさくっと行って帰ってこれる。つまり東京に住んでれば自然も楽しめるし都会も楽しめるし、文化、芸術、スポーツも最高に楽しめる。
東京で不足する要素が本当に見当たらないのだ。
お盆が終わり、誰も待っていない田舎のアパートに戻ると半端ない孤独感が波のように押し寄せてくる。同じ大学の同期で東京勤務の奴は、田舎暮らしの辛さなんかこれっぽっちも知らないんだろうなあ、と思い心底うらやましく感じる。都会のおしゃれな店で貴重な20代を合コンや会社の先輩とかとの飲み会で楽しんでる中、自分は音のしない孤独なアパートの一室でやることはネットサーフィンやネトゲだけ。
大手企業だから20代なのに残業代込みで500万円近くもらえてはいるのだが、ぶっちゃけ20代なんて年収300万円の都会住まいで全然十分だし、早くこの地獄から脱出したくてたまらない。。。
年収600万円での地方生活 = 年収300万円の東京生活だ。
地方転勤命令なんて人権無視の非人道的行為そのものだ。好きなところに住む権利は基本的人権の一つだ。
転勤命令を出すなら、最低でも年収300万円は上乗せしないとフェアじゃない。それを会社側の負担がせいぜい数十万円の引っ越し代でほぼノーリスクで転勤命令出せるなんてありえない。
俺と同じ無知による悲劇はもう起こってほしくないし、何よりノーリスクで転勤命令出そうとするクソ企業を心底呪っているので、転勤ありの会社に新卒が全く集まらないような社会になってほしい。
転勤ありの会社は地元から社員を募集するか、年収300万円以上給料上げて募集しないと人が集められない、そういう社会になってほしいと思ってこのエントリーを書いている。
だっておかしくないか?企業は企業で土地代の安い田舎に工場や事業所を作るわけだから、土地の負担額は数十億円単位でセーブできているわけだ。だったらそのセーブした分を人件費に積みかえることで地域が活性化してお金が地方にも回るのに、都会で人を集めといてそのまま地方にぶん投げる、こんなのありえないだろ。せめて金銭的に地方に行ったら得になるようなインセンティブを出せよと。
どうか、人の人生をなんとも思っていないクソ企業にまともに人が集まらず、人事が苦しんで苦しみ抜いてバッタバッタと倒産しまくりますように。
コメント拝読させていただいております。賛否両論あるようで、共感いただけるかた、いただけないかた様々なようです。いくつか共通する提案や質問があったので回答させていただきます。
■車を買ってはどうか
この質問とても多かったですね。ですが、車を買ってしまうと少なくとも数年は田舎に居住することを自分の中で追認してしまう気がして買っていません。
なので、転勤の引っ越し先も工場から徒歩30分ほどの場所にアパート借りています。なお東京に住んでいる時は親の車を借りたりレンタカー使ったりしていました。免許自体は持っています。
田舎で数か月勤務して東京の実家に戻った時の衝撃があまりにも強く、「これ以上田舎で生活するのは無理だ」と白旗を上げたので車は今後も買う気はありません。
すみません、訂正させてください。一番近い新幹線駅に繋がっている最寄り駅まで数kmですね。
新幹線駅までの距離はちゃんと測っていないですが、20km離れているほどではないので数km~十数kmの間です。
地方の田舎、という言葉が聞く人によってだいぶイメージが違うんだなと実感しています。観光でしか行ったことはありませんが大阪、名古屋、仙台あたりの地方都市に住んでいれば
今回みたいな田舎の絶望は無かったと思います。少なくともそれらの地方都市は東京郊外に匹敵する人の往来や活発さがあると思うので。
新幹線に乗って、田んぼだらけの眠くなる景色にたま~に見える工場、そこに自分が勤めるとしたらどういう生活になるだろう、というのをイメージしていただければと思います。
ずっと東京に住んでいた身としては、首都以外の都市は全て地方都市だという認識でした。
今になっても、その結果の封筒がまだ自宅に届いていない。
しかしある日、私はいつものように漢字の意味を調べるために、電子辞書を使って勉強し、ふと思いついたことがある。
「もし常用漢字や単語の意味を多く理解し、読み書きができ、漢字検定2級の合格通知が出たとしても…
果たして長文の読解能力も、本当に同時に身に付けているかどうか?」である…
実は半年以上前に出版された『AI vs. 教科書が読めない子供達』という有名な本を一回だけ読んだことがあるものの、
その時はあまり印象が薄く、「なんだ…漢字とか単語の意味を電子辞書を使って覚えれば、文章の理解ができるんじゃないの?」という軽い感想だけで終わってしまった。
ところが今になって、前に読んだその本の内容についてをよく思い出して考えると、
「それじゃあ…漢字の読み書きと長文の読解能力は、別なのか?」といった、少し難問で深い疑問も生まれた…
さすがに放っておくワケにはいかなかったので、自分で読解を使ったテストを実施してみました。
まず、書店で売られている中学校の国語の長文読解の問題集を購入し、やってみた結果について話します…
やはり、常用漢字の単語を多く覚えていたとしても、長文で書かれた物語や説明の意味を理解し、解いていく力は、結局あまり変わらなかったようです…
つまり何が言いたいかと言えば、「単語の意味の理解」と「文章の仕組みの理解」とはあまり比例しなかったということである。
そりゃそうですよね…。だいたい、コミュニケーション能力や文節の仕組みの理解力を高めない限り、「長文の読解力」は上がらないわな……
結果が出たところで、「よし、問題解決したわ!」と楽観的で終わるワケにいかないのです。
そう…もし文字や漢字の読み書きができても、読解力が低いままだと、何が起こると思いますか?
私は最近、壊れかけている古い携帯電話から、新しい携帯電話を買うために携帯ショッピングに行き、休憩室で待機した時のことです。
「なんでこんな請求書なんだ!?もっと安くしろといったはずだぁっ!おい店員さん!」
契約場から、いきなりクレーマーオジサンの怒鳴り声が聞こえたのです。
「前回、前より無駄のない便利なプランを変えて、安心修理プランも加えれば、料金が200円は発生しますと忠告をしたのですが…」と分かりやすく説明しているのに
「そんなの聞いてないわ!とにかくムダ金減らせよコノヤロー!」
と怒鳴り続ける…
クレーマーオジサン…携帯電話の契約書に書かれている説明の内容、どうやら理解していないようだと、私は感じました…。
本当に深刻です…
文章の内容の理解力が低ければ、こういった勘違いも起きてしまい、大問題になるのです。
2018年、PISAによる学習到達度調査が行われ、その中に「読解力」についての分野がある。
結果を見ると、日本の読解力はなんと…、読み書きのできない非識字者が約1600万人もいるアメリカより下だったのだ…。
「一体これはどういうこと?」「先進国のはずの日本が、なぜ読解力がこんなに低いの?」と、