はてなキーワード: ジャングルジムとは
みなさんはバタフライエフェクトを知っていますか?
ブラジルで一匹の蝶が羽ばたいたことで、中国では台風が発生するのです。
そう、ほんの些細な出来事の積み重ねで今という歴史は成り立っているのですね。
なので、その些細な出来事をタイムマシーンで変化させることで、今の歴史を変えることができるのです。
そこで、歴史上に様々な事柄にほんの少しだけ介入し、歴史を変えてみようと思います。
以下、例です。
BiBioだけで配信されてた裏声優生活向上委員会を今の歴史よりも多くのオタクが聞く
中村繪里子と落合祐里香の関係が今の歴史よりも穿って見られない
そのためマイクがないことを弄られない
ヒャッコのアニメもそれに伴い純粋にアニメの出来だけで評価される
ヒャッコのアニメが面白いのは歴史的規定事実なので気持ち悪い声優オタクが口を出さないことで大ブレイクする
小野敏洋が文化放送を聞かないと性癖が今の歴史ほど極端にならず、小学館の漫画を読んでいる青少年の性癖も同様に今より穏やかになる
万乗大智のパンツのクオリティが低いことに誰も違和感を持たなくなる
久米田康治の仕事量が減り、アシスタントにジャングルジムを描いてもらう必要がなくなる
井上和郎ぐらいのエッチさが受けてマハラジャは畑健二郎でなく井上和郎となる
腐ったみかんという説教に苦情を入れまくった結果、今の歴史ほど金八先生がブレイクしなくなる
行き場を失った和月伸宏の劣情が本来の歴史よりも早く吐露される
玉ねぎの匂いが染み付いたゆうきまさみたちに犬の本能が拒絶反応を示し、押井守がパトレイバーに参加しない
押井守が今の歴史ほど影響を持たなくなり娘さんも今よりも仕事量が減る
乙一が結婚相手を見つけられず今よりも執筆ペースが下がってしまう
いつまでもTHE BOOKが刊行されないので、VS JOJOの企画も立ち上がらず、西尾維新がジョジョの小説を書くことがなくなる
本来の歴史より西尾維新の書かなければならない本が減ったため、宵物語が早く刊行されアニメ化もされる
加藤英美里が小野坂昌也と出会う前に花澤香菜との百合チュッチュッを演じることで自分の気持ちに気づき鹿野優以と幸せな結婚をする
南央美が自慢の霊感で幽霊を感知していまいそのスタジオに入れず、今の歴史よりもお仕事が減る
おみたま通販便の連載がなくなり、ももせたまみがナナとカオルぴんくぴゅあの方により一層力を入れる
スピンオフ元のナナとカオルもより一層励み、日本中で大人気作品になる
更科修太郎の元ネタである更科さんのWeb小説を評価する流れになる
更科さんの面白い小説といえば、主人公が妹のxxを食べされられたあとカレー屋でカレーを食べさせられる「深雪 ベリーショート 後始末編」に決まっている
日本中の人々がカレーに対する妙な嫌悪感を抱くようになり、カレー屋さんが減る
平城京という言葉がないため、城平京がデビューする際に耳目を集めたその特徴的なペンネームがつかない
城平京に相当する作家の作品が売れず、スパイラルもアニメ化しない
スパイラルがアニメ化しないため細田守の仕事が一つ減りハウルをやるときに今よりもパワーに満ち溢れ見事成功させる
風立ちぬが作られないため、庵野秀明が声優をせずエヴァに専念でき、エヴァは完結できる
オカピがいないとあいまいなオカピなんてよくわからないタイトルの番組が生まれない
VステがA&Gに負けない
濱口優と南明奈は四年間の交際を経て結婚しましたが、これが三年となると「三年付き合う信頼関係なのに、そう譲り合う気持ちお互いに忘れて過ごしてた」となります。
そのため、これを予言していたまじかるアンティークが再ブレイクし、リメイク版が制作されます。
そして、リメイク版には新ヒロインを追加しないとなりませんが、僕はテネレッツァが好きなので、彼女のルートが追加されると嬉しいと思いました!
自動的にまわる地球が特別な出来事であり何か起きないと未来は目の前にないから
で、タイガはそこなんだ。ふーん。
つまり、森博嗣はライト文芸作家ってこと? ラィト文芸って呼んだ方がいい? それは違う?
まあ、なんでもいいっすわ、おもろいし。
数日前に、恋人と一緒に家から二十分くらい歩いたところにある大きめの公園に行って、久しぶりに公園の遊具で遊んだんだよ。アスレチック的なやつとか、ジャングルジムとか、なんか壁に取っ掛かりが付いててよじ登るやつとか。ああ子供の頃もこういうのあったなあとか、今の公園にはこんな遊具があるんだとか、とにかく楽しかった。ゲラゲラ笑いながら走り回って、喉乾いたねっつって自販機でジュース買って飲んで、また遊んで。午後二時頃に公園に着いて、気がついたら五時前で空が茜色に染まってた。
二人で手を繋いで家に帰る途中で民家から魚を焼いてる匂いが漂ってきた時に「学校からの帰り道でカレーの匂いがしたら、なぜだか勝手に『ウチもカレーかも』なんて勝手に期待しちゃったよね」なんて話したり「ウチの近くには親切なお婆さんがいて、ちょっと遅くまで外にいると『子供は早よ家に帰らんね!』って叱ってくれて、なのに子供だからその婆さんに『地獄ババア』なんてあだ名をつけてたんだよ」みたいなことを思い出しながら話したりして、すごく楽しかった。
僕も恋人も普段は仕事に追われていて、休みの日は出来るだけ一緒に楽しくすごすために、今日はあっちの展示を見に行こうとか、あそこの店はパスタが美味いらしいから映画を見にいくついでに食べに行こうとか、どこかに出掛ける事ばっかり考えてたんだよ。でも、近所の公園で走り回ったり、コンビニでちょっとしたケーキとかプリンなんかを買って食べたり、そういうことも十分に幸せなんだなって思い出した。
小学生の頃に楽しかったような遊びを一緒にする友達はもういないけど、公園は楽しい場所なんだって思い出せてすごく嬉しかった。別にオチとかないんだけど、嬉しかったよって事を書きたかった。じゃあね。
ふと危険遊具として撤去、固定され使えなくなった遊具について調べてみから悲しくなった。
回転ジャングルジムがなくなったのは聞いていたが、シーソーやブランコなども無くなってきているそうだ。
子どもは怪我をして痛みを知って「危険」を学ぶのにその機会を奪うのはどうなんだろうか……ただでさえ「家の中でゲームばかりするな!外で遊べ!ただしボール遊び禁止!後うるさいからどっか行け」と言われているのに。
一体、現代の子どもたちはどこで何をして遊べば良いんだろうな……。
私自身、すごく頑丈な体だからかジャングルジムのてっぺんから足を滑らせて落ちても、高く漕いだブランコからうっかり手を離して吹っ飛んでも、アスレチックの木の柵から別の遊具の網まで飛び移るのを失敗して鉄のパイプに頭を打ち付けても痛い思いをしただけで骨も折れなかったし、ちゃんと健康的に大人になった。
だから正直、危険遊具と呼ばれる遊具が危険だと思えない。ぶっちゃけ過保護すぎだろ…とも思う。
もちろん老朽化で危険なのは撤去しても仕方ないと思うのだが、まだ比較的新しいものまで禁止するのはどうなんだろうか?
まだまだ成長期で一番自分の体の使い方を色んな体験をして知り、鍛えていく時期だろうに……遊び場も遊び道具も奪われた子どもたちの体が心配だ。
小学五年のときの話。俺は友達と、取ってつけたような狭い公園でサッカーもどきをしていた。そこにバイクに乗ったおっさんが声をかけてきた。この辺で水が飲める場所はあるか。俺たちはやはり取ってつけたような公園内の手洗い場のことを伝えた。地域の人と交流を持ち、親切にしましょうって教えられてきたからな。おっさんは水は飲まず、俺たちの遊びに加わった。
しばらくサッカーやキャッチボールをして、ジャングルジムで遊ぶことになった。おっさんはてっぺんに登った俺たちの股間をさりげなく触ってもんだ。俺は何をされたのかさっぱりわからなかったが、嫌なことをされたというのはなんとなくわかった。おっさんがその前後に平然として顔色一つ変えず、親切なおじさんの顔をしていたのがショックだった。おっさんは俺達の家がどこにあるのか聞いた。近くににあるマンションかと聞かれ正直にうん、と答えてしまった。地元の小学校なのか、親は普段家にいるのか、何時頃帰るのか。おっさんがそれを聞いて何をしようとしていたのか、今でこそ考えるだけで身の毛がよだつが、当時ただのハナタレ小僧だったから、正直に話した。嘘はついてはいけないと教わっていたからだ。やがてベビーカーを押した同じマンションの人がたまたま遊びに来て、俺達の方を見て何かを思ったのか、増田くん、その人は誰?と聞いてくれて、おっさんは今思えば焦って逃げるようにその場をあとにした。その後も俺たちは同じ道で登下校し、同じ公園で同じような時間に遊んでいたが(なんとなく親には言えなかった)おっさんに会うことは二度となかった。幸運だったと思う。俺たちはどう考えてもスキだらけだったから。おっさんが誰なのかは分からないが、激痛と苦しさのあまりすぐに死にたいと思いながらもなかなか死ねないという苦痛を味わいながら、じわじわ死んでほしいと思う。
■豊田真由子の「このハゲー!」は最初強烈におぞましい印象を得た。
罵声を浴びせられている秘書を自分と重ね、笑いなど微塵も起きなかった。
それを笑いのネタにしている人がいると知って悪質極まりないと思ったし、ネタに出来る無邪気さがうらやましくすらあった。
しかし今は自分もそれに麻痺してしまい、徐々に笑いのネタとして受け入れてしまっている。
それが本当に恐ろしい。
■けんとという子供がいた。
本当に悲惨な事件だったし、それを笑いにするなんてクズそのものだろう。
しかしあの事件はその後、通称「地獄のジャングルジム」という名で笑いものにされている。
それが本当に恐ろしい。
■千の風になってという歌がある。
自分の母親はこの歌を死の直前によく聞いていたので、特に切なくなる。
しかしそれをおもしろおかしくした替え歌を聞いた時、笑ってしまった。
本当に恐ろしいことだ。
はてブでFラン大学を卒業した新卒がすぐ逃げて使えないという話が盛り上がっていましたが
そこでFランに対するさまざまな厳しい意見があったので、Fラン卒業生が答えてみます。
日本工業大学です。
あの木製ジャングルジムにおが屑を詰めて投光機から発火し、子供を焼死させた日本工業大学です。
日本にFラン大学数あれど、人死が出るほどのFランは我が母校だけでしょう。
私は建築学部ではないので詳しいことは分かりませんが、当時の学内の雰囲気は相当酷かったと聞いています。
Fラン大学といっても、上位大学でポストが無かったのでうちに来たという先生もいるので
先生方は物凄い業務量(何故か単位不足の学生の相談業務も行ってました)には疲れ果てていましたが
査読付き学会発表してきちんと成果を出す学生も出るので世間で言われるほど底ではないと思います。
全員履修する大教室講義はクソでした。とにかく落ち着きが無い。あれは酷い。
大学を減らし、高卒就職の門戸を広げるという提案もされていますが、学生にとっては
Fランでも大学に入って、能力を磨くという手が塞がれることになり、厳しくなるのではないかと思います。
私も現在学生支援機構の第二種奨学金を返済していますが、そんなに高くない給料ながらも返済しています
奨学金の返済はかなり長期に渡りますが、低利かつ月々の返済額はかなり低く抑えられているため返済しやすいです。
学生支援機構の奨学金の問題として感じるのは、まず返済猶予がかなり厳しい条件でしか申し込めないこと。
次に第一種奨学金(無利息)の返済を優秀な学生に対しては簡単に返済免除してしまうことです。
学生支援機構の奨学金はあくまで低利な学生ローンであるべきであり、優秀な学生を支援するのは別の枠組みで行うべきでしょう。
卒業後友人とも話しましたが、概ね給料は安めながらも安定して業務をこなせています。
就職支援課が「お前らは大手ばっかり受けるような寝言言うんじゃねぇぞ」と発破をかけるのも役立っていそうです。
(毎年数人は大手鉄道・重電・電機に受かります、推薦とのことです。)
それはケースバイケースでしょう。
いくらなんでもサンプルサイズが1で「Fランはすぐ辞める」なんて書いたら
我が母校のレポートですら不可です。
自分なりの空の飛び方(浮き方?)をメモ的に書いておきます。コツ、というか飛び方のやりやすさは千差万別だと思いますしそもそも体の構造が人それぞれちょっとづつ異なるので読む方がいたとしてもあくまで参考程度に。
まずこれは私の中でのオーソドックスな飛び方ですが、宙を蹴る方法です。宙を蹴ると言っても通常の状態だと人体は重力によって地面や床に足が着いているので宙を蹴ることが出来ません。なので一回ジャンプします。大きめにジャンプして下さい。ジャンプすると体全体が空中に触れている状態なので(厳密に言うと体は下着や衣服や靴に触れていて、それ越しに空中に触れている)、そこからもう一回ジャンプする感じで宙を蹴ってください。するとふわっと今いる所よりすこし上の方向へ体が動くはずです。それを繰り返しているとポワンポワンと上方向へ体が移動していき、空を飛ぶことだ出来ます。スーパーマリオUSAでルイージやピーチ姫が空中を飛ぶように足をダダダダっとさせてジャンプしていますが、あれの感覚に近いです。カイの冒険でカイが空中を浮遊するように移動するのにも近い。アクション系ゲームで二段ジャンプができるキャラとだいたい近いと考えて良いかと。ただ、ビシっとシャキッと行く感じではないので、感覚としてそこがかなり重要だと私は考えています。
もう一つの飛び方としては、裏声で高い声を出すことです。これも最初は地面及び床に触れている状態で一回ジャンプします。空中に体が触れている状態で高い声を裏声で発声します。「ア”ァァァァァァァァァァーーーーー」という激しい感じではなく、「ァーーーーーーーー」というキレイな高い一定の裏声を発声するのがコツです。発声している間だけ体が上の方向へ浮いていくはずです。RPGの聖属性敵キャラが全体攻撃をしてくる時に出す声のイメージです。こちらの方法は宙を蹴る飛び方より成功確率が低いです。具体的に言うと宙蹴りは百回に一回、発声浮きは千回に一回くらいの確率です。難しいぶん、発声浮きは声を出している間にそのぶんぐんぐん浮いていくので宙蹴りより上昇率が高くスムーズな印象です。何度も何度も試して頑張るしかありません。私は最近ようやくコツ?というかやり方が慣れてきたのでメモ的に記してみようと思った次第。
あまり、というかほとんどおすすめできませんが飛ぶ方の確率を上げる方法があります。それはジャンプして宙に浮いてる状態をつくってそこから宙蹴りや発声浮きに移行するのではなく、あらかじめ高いところからえいっと落ちて、その落ちている状態の時(体は下着や衣服や靴に触れていて、それ越しに体が空中に触れている)に宙を蹴ったり、裏声で高い声を出して飛ぶという方法です。アパートに二階や三階など、高めの場所から試すと成功率はけっこう高い印象ですが、公園のジャングルジムや滑り台など、手頃な高さの場所から飛び降りて試してみても試行回数に対して成功割合が明らかに増える感覚はあります。7階や10階以上のビルの屋上から飛び降りて試すとかなり成功確率が上がるのではないかと思いますが、これは失敗すると確実に地面に身体を強く叩きつけることになり、死ぬので、そういった願望がある方以外は試さないほうが良いと思います。これはあまり書くべきことではないかもしれませんが、私は以前そういった願望に支配されてどうに気もちが駄目駄目な状態だったのですが、成功したことでかなり色々なことが楽になり、大丈夫になりました。これは本当に数少ないパターンだと思います。
高いところから飛び降りて飛ぼうとするとなぜ飛びやすいのかについては、地面に近い状態だと飛べる確率が低いのではないか?という仮説を考えたことがありましたが、ビルの屋上でジャンプして飛んでみても確率があがることはなかったので、より長い降下時間がもしかしたら重要なのかもしれません。いずれにせよ、身体と重力の関係が重要なのは間違いないかと。
学芸大附属高校生徒のいじめ、東大千葉大慶応集団強姦事件など一般に高学歴だとか個人としての知的レベルが高いとされる集団の部分集団が卑劣な事件を起こした際に「どうして◯◯みたいな名門の学生がこんなことを、勉強だけできても社会常識はダメなんだ」という人が後を絶たないが、そうした人は往々にして、先日のおがくずジャングルジム炎上の際には「これだからFランは」と言ったことを平気で言っている。
個人としての知的レベルが両極にある人達が、一寸考えればダメだとわかりそうな事件を起こしてしまうことに対して、何か共通項があるのではないかと考えることが、どうして出来ないのか。
この手の事件の原因は一つである。日本人の集団におけるIQ低下の異常さにあるより他にない。
すなわち、個人としての知的レベルは集団においての行動の正しさを何一つ担保しない。集団になった日本人に高学歴もFランなども存在せず、言動レベルが等しく平等になってしまうことがもっとよく自覚されるべきである。
あー。これは完全にやられました。
いつも同じ写真は卒業! プロが教えるデジカメ撮影の基礎テクニック3選 | GetNavi web ゲットナビ
僕が書いた増田
http://anond.hatelabo.jp/20161021102734
プロが聞いて呆れるわ。
こんな増田に非公開ブクマ68とかおかしいと思ってたけど、絶対にパクられると思ってました。
しかも何が悲しいって、一番肝心な最後の部分をパクってないことね。
それ一番ダメ。
ノウハウだけなんて意味がないっていうのがこの増田の本題なのに、ノウハウしか載せてない挙句に無理やりレンズの話にして購買を刺激するっていう守銭奴も尻尾巻いて逃げるパターン。
さらに点構図ってなんだよとか思ってたら調べてみたらあることはあったけど使われている写真は全然点構図になってないのな。
この場合ジャングルジムのグリッドが強調されているのだから、それをいうなら額縁構図のほうが近いんじゃね?って言う感じ。
顔だけ丸して点です。って、そりゃ無理がありすぎだろ。
ドッキュー
転校した先の山奥の小学校で、4人で陣地の境界線がわかるように十字線を地面に引いて、
ボールを自陣でワンバウンドさせてから他人の陣地に送り込む「ドッキュー」という初めて見る遊びをみんなでやっていた。
何らかのルールに沿ってボールを投げあって、負けた人は周りの順番待ちの子供と交代していくシステム。
他に遊びがなかったのか、子供は一緒に遊ぶものだと教育されていたのかわからないけど、
基本的に常に教室に残る一部の女子以外は、学年全員(20人ぐらい)が毎日毎日この遊びをしていた。
他人にボールを送る時は一旦自陣でバウンドさせないといけないという他に、
ボールを送り込まれた側がキャッチしたらだめとか、自分が触る前に自陣で何バウンドしたらだめだとか、なんかそんな感じだった気がする。
最初にルールを聞いたけど、周りでは「みんないつの間にか知ってる」「知らないヤツに会ったことない」系の遊びだったようで、
明確に説明はできないけどプレイを見れば「今のはアウト」ってなんとなくわかるから成立していたようだ。
そんな感じだったので、改めてルールを聞いても誰もちゃんとルールの説明ができなくて、結局今もルールがよくわかってない。
でも上級生も上級生同士でよくやってたので、その地域ではメジャーな遊びだったっぽい。
ただ、クラスの中心にいた運動の得意な男子とかはボールを割と保持してから、
相手に直接ぶつけるフリをして勢いよく地面にボールを叩きつけてビビらせたりするのが許されてたけど、
今でいう陰キャ系の子がボールをちょっと手に納めると即周囲から「「「はいアウトー!」」」と声がかかるような感じだった。
実は明確なルールに沿った遊びというより、ボールをお互いに投げ合うだけのキャッチボールの亜種で、
勝ち負けとかあんまり関係なかったけど、順番を回すために適当に中心人物に都合のいいルールを付け足していった遊びだったのかもしれない。
ルールがイマイチよくわからないし、順番待ち長いし、ほぼ一方的にボールを投げつけられるのも楽しくなかったので、
私はすぐに外には出るけどドッキューに呼ばれても「えードッキュー?イヤやわー」と言ってドッキューには参加しなくなった。
代わりに一人で全然使われてない遊具を存分に使って、SASUKEごっこしたり、登り棒を足を上にして登ってみたり、
ブランコをねじったり、砂場に水堀を作ったり、ジャングルジムで人喰いクモごっこしたり、フェンスに張り付いてヤモリごっこをしたり、
草花クッキングしてみたり、カマキリに決闘を挑んだり、小石を集めて塔を作っては壊す賽の河原ごっこをしたり、
ヘビになりきったり、校庭の端から端まで前転で移動して後転で戻ったりして一人で好き勝手に楽しく過ごしていた。
それを見ていた影響かはわからないけど、なんとなく「いやならドッキューやらなくてもいいんだ……」という感じでドッキューに参加しなくなる子が増えて、
それぞれに仲のいい子と数人で鬼ごっこやかくれんぼやケイドロやサッカーで遊ぶようになっていき、
私が転校してから数ヶ月で同学年でドッキューが遊ばれる機会が激減して、ドッキューはみるみる廃れてしまった。
というわけでいまだに私の中で割と謎なドッキュー、もしくは類似するボール遊びを知ってる人がいたら、どんなルールだったのか教えて欲しい。
愚痴です。ごめんなさい。
ウチの家は新興住宅地の一角にあり、周囲のほとんどが子育て世代の若夫婦です。そして何故か子だくさんばかり。少子化なんて嘘のようです。ウチは子供がいない世帯。袋小路の私道なので車が通らず、近所は文字通り道路族のパラダイスです。
平日、休日問わず午後になると家の周り(構造を説明するのが難しいのですが、四角い家の二面が道に接しており、また脇に仕切りの無いカーポートもあって、そこも道に接しています)で大騒ぎされて参っていました。
こんな状態がもう十年以上ずっと、子供の世代が次々入れ替わり連続的に続いていました。それでも「子供のやることだから」「そのうち大きくなるし」と余りにも酷い一、二例を別にすれば、何も言わずじっと耐えてきました。
ですがそんな状況が更に悪化し始めたのは数ヶ月前。カーポートを挟んだ隣の家の兄弟が大きくなってきて、サッカーボールで遊び始めたことからです。以前からガラガラうるさい足漕ぎ車で騒音に悩まさせられて来た子たちでしたが……。
どこかから連れてきた友達と四、五人程度で道路でフットサルのようなことをし始めました。見るとそれに時々母親や父親、友達の親らしき大人などが混ざっている事も。
当然エキサイトしてくると周囲が見えなくなり混戦状況に。そうなってくるとボールがどこに飛ぶのかも分かりません。子供とは言え興奮してくればボールの蹴り方もキツい。
そして恐れていた事態、ウチの壁にそのボールが当たるようになってきたのでした。しかも頻繁に。コツン、ポツンと当たる事はもちろん、次第に家全体を揺るがすようなドスーンという重い音がするように。見ればキーパー役の子が、ウチの壁の前に陣取っています。それでも謝りにくるどころか、笑って試合続行。
さすがにこれはマズイだろうと、出ていって子供に「壁には当てないでね」と注意。その時は変な顔をしてそのまま引き下がったけれど、数日後には普通に試合再開。またある日には母親も混ざって遊んでいたので、親にも「敷地にボールが来ないようにしてください」とやんわり抗議。奥さんは曖昧な笑みを浮かべて頷きましたが、数日後にはやっぱりまた試合再開。
凄く憂鬱になったけれど「一度言ったことだから」と様子を見ることに。ですが、残念ながらそういう連中が反省して事態が自然に良くなることは無いですね。そのまま数ヶ月がたってゆきました。
一体どうしたものかと考え、とりあえず敵を知るには……と二階から観察開始。そこは寝室で、普段カーテンを閉めっぱなしの部屋でしたが、開けて見たら思った以上に見晴らしが良い。通りの全てが見えます。
見ていたらエキサイトしてボールが“事故的に当たってしまう”ばかりか、ペナルティキックのように、止めたボールをわざわざゴールでも狙うかのようにウチへめがけて蹴っていたり、敷地内に勝手に入ってきたり、車にまでボールを当てている事が分かりショックを受けました。
しかも自分の家や車には当たらないような場所を選んで遊んでいるんですね、多分。呆れました。加えて、家と家の仕切りの鉄製フェンスに登ってジャングルジムごっこをしている事まで発覚。一応分譲なので、こういう事はやめて欲しい……。
これは何とかしないといけないと思い、昨日その様子をスマホで動画撮影。子供だけしかいませんでしたが、そしたらまあ、たった十数分の間に、ウチの壁や車にボールが当たる当たる。敷地に子供入る入る。軽微なものも含めれば家や車、各五回以上当たってるようでした。注意したのに気にしてる気配なんて微塵もありません。
そして遂に子供がフルスイングでボールを蹴って、ウチの壁に「ドーン」と重い音を轟かせて当たり、しかもそのままバウンドして車に「バコン」という鉄板が響く大きな音を立てて当たる、という決定的瞬間の撮影に成功。
夜に車を見に行ったら、車にはばっちりサッカーボールの泥汚れ跡がついていました。ヘコんでいるかとか、傷がついてるかとかについてはまだよく見ていません。でも試合は続行。謝るなどという概念そのものが無いのでしょう。しばらくしたら、飽きたのか家の中に入ってゆきました。
たった十数分でこれですから、ここ数ヶ月、何度家や車にこんな調子でボールが当たり続けていたのでしょうか。
そして昨夜、事の全てを伝えるために二人で隣家に訪問。旦那さんが寝間着姿でカッタルそうに玄関先に出て来たのですが、なるべく穏便にととりあえず作り笑顔で軽く話し、スマホで動画を見せるも「アー、ハイハイ、スミマセン、コドモニイットキマスカラ」と気のない適当な返事で追い返されそうになったので、頭に来て遂に強い口調で抗議してしまいました。そして「これで改善されないようなら出るとこ出る」と。
そしたら物凄い勢いで逆ギレ。近所に響き渡るような怒鳴り声で「確かにこの件は100%ウチが悪いですよ、でもサー、動画とか隠れて撮って持ってくるとかサー、出るとこ出るとかサー、近所づきあいとしてどうなんスか、だいたいお互いに%÷×≫#@%#@%#>>$)m」と訳が分からないことを言い始めたので仕方なく応戦。なるべく冷静にならなければ、と私は怒鳴らないように気をつけたつもりでしたが……実際はどうだったか自信がありません……。
一応「もう道路では遊ばせないでくれ」と言って、相手にも承諾させましたが守られるのかどうか。
そして一晩経って今、やりきれない思いをここにしたためています。何故私たちが怒鳴られなければならなかったのだろう、と。
お話ししたように子持ち世帯ばかりの地域なので、ウチのような子無し世帯の肩をもってくれる家は恐らくはおらず、きっと尾ヒレのついた話がまたたく間に広がる事でしょう。もしかしたら昨夜は私の知らないLINEグループなどで盛大に悪口大会でも開かれていたかも知れません(妄想ですが)。
もともと挨拶する程度でしたが、それでも今後近所付き合いは壊滅的でしょう。今朝車を見たら、どこから降ってきたのかトランクの上に噛んだガムが落ちていました。
とりあえず昨夜のやり取りは全てスマホで録音しておきましたが……。これから何があるか、そしてどうするか、と言ったところです。ため息しか出ません……。
Googleで「道路族」と入力すると、サジェストに「道路族 死ね」って出てくるんですね。ひっそりと問題になっているのでしょうか。心中お察し申し上げます。
劇場版『ハーモニー』の公開から一週間が経過し、『ハーモニー』LINEスタンプとか『ハーモニー』Tシャツといった危険信号を無視して戦場に足を踏みいれたオタクも大半が死んだ。不満はいろいろとみかけるが、もっとも多いのは「謎のピンクの日本」と「ラストの『愛してる』」のふたつのようだ。ところがどっこい、このふたつは同じものである。
賢明なる読者におかれてはマイケル・ラザフォードの『1984』を思いだしていただきたい。本作においてはビッグ・ブラザーの支配する全体主義国家がモノトーンに近い暗い色調で、対照的にウィンストンが恋人と逢引きするシークエンスが鮮やかな色調で撮影されている。原作ではこいつらが明るくて前向きの元気ハツラツの若者だったら全人類のハーモニクスはおきなかったといわんばかりの〈次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ〉の老人たちが、劇場版では思わぬ躍進をとげ、全人類の情報をにぎり管理する巨魁となっていた驚きはまだ記憶にあたらしいと思う。そう、劇場版『ハーモニー』の主題は全体主義との対決なのである。「『ハーモニー』のテーマは全体主義との対決じゃないだろ」といわれても、それは脚本を書いた山本幸治にいってほしい。となると日本がピンクの単色で描かれていた理由もわかろうというものだ。対照的に学生時代の回想は背景の自然を強調して鮮やかな色彩で描かれている。劇場版ではトァンとミァハはAからはじまりセックスまでしているのが、いかにも国家と個人の対立らしい。『1984』でウィンストンと恋人は逢引きするたびにセックスして、むしろセックスするために会っているのではないか、さすが1948年、現代の草食系の若者とはちがうと思うがそれはどうでもいい。
劇場版をみてなんで意識を消滅させるかわからなかった観客も多いようだが、それもそのはず、意識を消滅させる根本の動機である生命主義社会への違和感とか、生きづらさにたいするトァンの独白はばっさりカットされている。劇場版で意識を消滅させるのは、単純明快に「ヤツらに管理されない」という〈次世代~〉の老人たちへの反逆である。シュタウフェンベルクはその手先なのでもちろん同情の余地はないし『働きマン』の上司よろしく最後の最後で態度を変えてトァンをねぎらったりもしない。というわけで、根本的に意識を失いたくはないわけである。しかし〈次世代~〉の老人たちの管理支配体制を脱するために意識は消滅させなければならなくて、トァンが「でもミァハは、私が好きだったミァハのままでいて。愛してる、ミァハ」といってミァハを射殺するわけである。なので、『Ghost of smile』の歌詞も惜別を唄うものとなっている。死んで悲しむくらいなら殺すまえに意識を失っても生きていたいかどうか確認くらいしたらとツッコむのは無粋である。
では劇場版『ハーモニー』は原作とはちがうはなしなのかといわれたらそのとおりである。とはいえマーケティングを考えれば当然で、J・G・バラードにならった個人の精神世界がそのまま世界に直結する内宇宙(インナー・スペース)の物語でも、ノイタミナをみている女子大生に「生きづらいから全人類の意識を消滅させる」といったら、「ナイーヴすぎる」とか「周りがみえてない」とか「『ガキ使』をみれば意識が必要だってわかるよ」とかいわれて終わりである。もし「テクノロジーと情報過剰の帰結として自動車事故でセックスを疑似体験する」などといおうものなら、「なにそれ。キモ」といわれるのがオチである。
それでは劇場版『ハーモニー』が原作への理解にもとづいて制作される可能性はなかったのか。たとえばタルコフスキー監督である。リリシズムと内宇宙(インナー・スペース)への理解があり、ついでに日本通のタルコフスキーなら『ハーモニー』を完璧に映画化してくれるにちがいない。タルコフスキーなら映画を『007』さながらのニジェールのドンパチではじめたりはしないだろう。学生時代のトァンが自宅でふつうに起居するところからはじめて日常生活をしばらく撮影するにちがいない。そしてトァンと出会うシーンになるが、だいたいこんなカットのはずだ。
①ベンチに座るミァハ(遠い)
②トァンの後ろ姿
① ② ③
そこでミァハとの会話がはじまる。途中からキアンもくわわるが、ともあれえんえん一時間くらいずっと会話がつづく。そこでようやく十三年後になりキアンが自殺する。トァンも政府高官だとわかるだけで詳しい説明はないだろう。物語が淡々と進んでコーカサスに登攀し、なんか濛々たる霧に覆われて半分くらいみえなくなっているバンカーにはいる。もちろん内部は水浸しだ。ミァハとトァンの対話がはじまるが、水中に没している十字架を写すカットが意味深に挿入され、「ちょっと待ってくれ」といいたくなるが映画はとまらない。ミァハとトァンの対話がまた長い。そして最後で唐突にトァンがミァハを射殺し、瀕死のミァハをずるずると屋外まで引きずっていって、だんだん白霧が濃くなってゆきホワイトアウトする。ショットが替わり、チェチェンの広大な大地を少女が遠景に去ってゆくところを長々と写し、クレジットが表示される。BGMに思いっきりヘンデルの「メサイヤ」が流れ、オタクたちが「やっぱり宗教モチーフで全人類のハーモニクスが『最後の審判』に読み替えられてたじゃねえか!」といきりたつが当のタルコフスキーは原作者と同じく夭折していてこの世にいない。いたらいたでコーカサス山脈に撮影に都合のいい海や湖がないからブチ切れそうだ。というかミァハたちの会話がえんえんと一時間もつづく劇場版『ハーモニー』なんてどう考えてもつまらないし、正直なところ①②③とか書きはじめたあたりからどうでもよくなっていた。劇場版『ハーモニー』はあれはあれでいいと思う。