はてなキーワード: 藤野とは
ステレオタイプっていう話があるみたいだけど、漫画を読んだら当然そうなるよねという感想しかない。
殺人犯が出てくるあのシーンが想像であれ平行世界であれ、藤野の作った世界というのは明らか(なぜなら4コマを描かず京本を部屋から出さないという世界は藤野にしか作りようがないから)で、じゃあ藤野の作り得る「犯人」はどういう人物になるかというと、犯人と直接の接点がない以上テレビやネットなどの外部から知る情報で作られることになる。
それはニュースの記事のような記述と共に犯人が登場することからも結構分かりやすく表現されていると思うし、犯人の情報をさして知り得ない藤野の状況を考えればここでの犯人が「フィクションなどによく出てくるステレオタイプの殺人犯」となるのはごく自然でありそう描くのが誠実であろうとさえ思う。
当然藤野は犯人の顔をよく知らないので犯人の顔もぼんやりしている。
もちろん犯人側にも事情があり犯行に至った経緯があるのかもしれないが、このときの藤野はそれを知りようがなく結果としてそれらを加味した「解像度の高い犯人」は作りようがないだろう。
要するにあの犯人はステレオタイプをステレオタイプとして描いているわけだから、それに対して「ステレオタイプを描くな」というのはかなり的外れだと思う。
「こういったステレオタイプは現実とは全然違う」という議論のきっかけにするのは構わないと思うし、それによって5年後10年後にこの表現が通じない世の中になっているかもしれないが現時点での表現としては適切であろう。
https://note.com/tamakisaito/n/nbeac7a25626b
「ただし1点だけ。やむを得ないとは思うけれど通り魔の描写だけネガティブなステレオタイプ、つまりスティグマ的になっている。単行本化に際してはご配慮いただければ。」
他の登場人物が端役に至るまでイキイキと内面を描かれていて、その上で通り魔「だけ」がネガティブなステレオタイプに描かれているのなら
クラスメイトは藤野の描く漫画を持ち上げていたくせに年頃になるとオタクをキモがる底の浅いミーハーバカだし
藤野の家族が漫画への反対をやめて彼女が高卒で漫画家をやるのを認めるに至った過程だって描かれていない。
この漫画は一人称の、それも決して性格が良いとは言えない一人の人間の目を通した、主観的な漫画という構成になっているでしょ。
同級生といっても、私はひきこもりで、ずっと部屋で漫画を書いていました。
彼女は学級新聞で4コマ漫画を連載していて、私は彼女の大ファンでした。
人気者で陽キャの彼女と、ひきこもり陰キャの私は、小学校の卒業式の日に初めて出会い、そして、ふたりで漫画を書くことになりました。
ひきこもりから救い出してくれたのは彼女でしたが、彼女は私を離しませんでした。
彼女が学校に行っている間も、私は彼女の部屋で漫画を書いていました。
親は心配していましたが、私は絵を描くのは苦痛ではなかったので平気でした。
彼女が、私の絵を褒めてくれる事はなかったし、いつも命令口調だったけれど、ふたりの名前から「藤野キョウ」のペンネームを作ってくれただけで満足していました。
一年かかった読み切り作品が入賞した時、ふたりで大喜びしました。
彼女が言いました。
「連載ができたら、すっごい超作画でやりたい」
彼女は話を作るのは得意でしたが、絵を描くのは面倒で、好きではないと言っていました。
客観的に見ても、作画に関しては、私の方が上手に描けていました。
そんな彼女が「藤野キョウの超作画」を目標に掲げてくれたのが本当にうれしかったです。
作画表現を試行錯誤したり、ふたりの共同作業は、楽しい時間でした。
作品の質もどんどん上がっていきました。
でも、連載が決まったとき、私はうれしくありませんでした。
だって、「藤野キョウの超作画」は、まだ完成していなかったから。
「藤野キョウ」はふたりの名前だと思っていたのに、彼女から見たら私はアシスタントにすぎませんでした。
ようやく満足のできる絵が完成間近です。
私の抜けた藤野キョウの連載作品は大人気で単行本は11巻も出ています。
でも、その連載作品はあの頃にふたりが目指した「藤野キョウの超作画」ではありません。
悲劇的展開といえばキャラが死ぬ展開だけど、トレンド性が高い殺し方が枯渇してきているのが問題なんだよ。
てんかん患者の運転する車が突っ込んでくるのは、擁護団体が強すぎる。
公害問題ではすぐ死なない。
不治の病では恋愛漫画だ。
金髪ヤリチン集団がレイプして足のケンを切って山に捨てられるというのも悪く無いが後味が悪い。このあとの藤野の再起の邪魔になる。
上級国民が轢きにくるというのもなかなか良いな。
とゆーことで最近実際の事件もあった精神病患者にキャラを殺させて、実際の事件と漫画内の悲劇を重ね合わせる手段を漫画上手いマンの藤本タツキがやったわけだね。やっぱタツキくん漫画うめー。
いかがでしたか?何が問題かとゆーと斬新な殺し方が漫画界で枯渇してるから実際の事件を引用したのが、センシティブな人に引っかかってまずいって訳。そこの馬鹿面。俺様の話わかったか?わかったんならラーメンズ叩きに戻って良いぞ
二番煎じ・三番煎じだろうけど書いておく。
何故なら、作中のニュース記事等で「薬物中毒による犯行」と明言されていないから。
と同時に、覚醒剤(アンフェタミン系の精神刺激薬)の中毒症状における典型的な症状でもある。
発生メカニズム的にこの両者の症状はかなり近い(Wikipediaで「ほぼ同じ」と書かれているくらい https://ja.m.wikipedia.org/wiki/覚醒剤)ので、単純な症状の描写だけでは両者が区別できないのは当然と言える。
ところで、作中の犯人の男は明らかに「理不尽に命を奪う」というイベントの引き金的に描かれている。
用意された悪役というか、憎まれるための舞台装置に近いポジションである。
であれば、メカニズム的にも矛盾はないので、ヤク中だったとするのが最も角は立たない。
「ヤクやるような奴だから人を殺すのだ」は一般的に受け入れやすいストーリーで、犯人が薬物中毒だったとしたら新聞記事やニュースでそこに言及がないのはほぼあり得ない。「薬物中毒者〇人殺人事件」という事件名がついたケースすらある。
逆に言えば、そういった描写をしないことで、明らかに作中では「精神を病んだ患者の犯行」の可能性を匂わせている。
「いわゆる『頭のおかしい奴』との断絶」を強烈なかたちで描くことで、犯行現場へ駆けつけて京本を救うヒーローとしての「ありえたかもしれない藤野」のカタルシスを描いている。
「僕はきれいな部分とか、優しいものを描くなら残酷な部分を描かないといけないと思っていて。そのほうが優しい部分に触れたときに、映えるじゃないですか」と語る藤本氏がいかにも好みそうな「残酷な部分」の象徴として、精神疾患の犯人を描いているのである。
これがヤク中の犯人では「残酷な部分」にはならない。ヤク中では掘り下げて描写しないと「クソ迷惑な阿呆がヤクやって人を殺す」という、「避けられたであろう理不尽さ」が拭えない。
精神病はそうじゃない。ヤクはヤク打ちたくて打って転げ落ちるイメージがあるが、統合失調症患者はなりたくてなるようなもんじゃない。
なりたくてなったわけじゃないのに「そう」なって人を殺してしまう、というのは残酷な話だ。
そう読む読み手がいるのは自然な話であり、精神病の当事者から抗議が行くのも自然な話だ。
普通に精神病への偏見を助長するような、配慮の足らない描写であるからだ。
個人的にはかわいそうなやつだ、と思う。『ルックバック』の犯人の話である。
ヤクか病かは知らないが、登場時点で明らかに被害妄想に苦しめられている。
正史というか京本脱ヒッキーの世界線では、この後人を殺すという大罪を犯してしまい、世間からクソボッコにされるのだ。
ただでさえ日常が意味もなく四面楚歌なのに、一線超えてしまったせいで本当に世界の敵になってしまうのだ。かわいそうに。
かわいそうと言えば藤野もかわいそうだ。「京本を部屋から出さなければ死ぬことはなかった」が完全に正となってしまった。部屋から出さなくてもいずれ漫画家とアシとして組めたというウルトラハッピー世界線の描写が逆に後味悪い。あれを藤野が直接認識することがないのは救いだ。あんなん見てもうたら残りの人生ずっと「京本を部屋から出さなければ良かった」に呪われて、再び歩き出せるようになるまでにえらい時間を食ったことだろう。
なお、『ルックバック』が京アニ放火殺人事件をモデルにしているという言及があるが、京アニの犯人は精神疾患があり過去に投薬治療も受けている。
「京アニの犯人は犯行当時責任能力があった」という言を以って『ルックバック』を擁護する向きがあるようだが、擁護になっていない雑な話と言わざるを得ない。
いろいろな読み方ができるのはいい作品だ派なので、特に推す気はないけれど。
(追記:あの場面以外は、はっきり藤野の経験にあることしか書いてない徹底的に1人称?の漫画。とするとあの場面も…)
葬式の後に藤野の部屋に行ったとき、ふと、自分が書いて、京本を脱引きこもりさせた漫画を見つけて
こんなものを書かなければ、京本を脱引きこもりさせなければ京本は助かったかもと思った件。
でも、例えそうであったとしても、自分の知っている京本なら、結局美大に進学しただろう。
それを助けられるとしたら、自分が空手の修行を続けていればいけるんじゃないかと。
(自分が編集だったら犯人のセリフは空白にすることを提案したかも)
益体もない妄想。
益体もない妄想であることは死んだ目で座り込んでる藤野もわかっていて。
ただそこで、そよ風のいたずらで、生前京本が書いていた4コマ漫画が舞い込んでくる。窓あけっぱだよ。
よくある「すごい偶然で〇〇したのは、天国の△△が背中を押してくれたのかなって」ていう偶然物語。
そして背中を押された藤本はチェーンソーマンの続きを書く気になったと。
余談だけど、作中に沙村藤本対談で藤本氏が語った内容がそのまま出てたりするんだけど
>周りに上手い人が何人かいたので、「四年間でこいつらより上手くならなければ、俺はもうこいつらを殺す」って覚悟で、絵が上手いまま野放しにしてたまるかって思って描いていました。
と語っていて、この対談は京アニ事件の前の話なんだけど、藤本氏は犯人の中にも自分を投影したんじゃないかと思うのは自分の妄想。
muchonov 大枠の主張は同意できるけど、解釈と感想の多様性を認めつつ「作品と京アニ事件は関係ないといってみたり、薬物中毒かもしれないといってみるのは間違いなんだよ」と突然正誤の裁定・採点者になっちゃうのはなぜだ
なぜって、正誤はあるからだよ。
あらゆる作品のあらゆる解釈が正しいとすると、そもそも文章や漫画による表現自体意味を持たないだろ。
解釈にある程度の揺らぎがあるのは事実だが、切り捨てられる解釈はあるだろ。あるだろ?「京本を殺したのは実は作中に登場しなかった藤野の兄だ」とか、あり得るかもしれないが「ない」だろ。いやあんのかな。あんのかもしれないね。
俺には明らかに間違った解釈に思えるものが、はてなでは正しい解釈であるなら、間違ってるのは俺の方だ。
「おはよう」を夜の挨拶だと思うのも正しい解釈だし、「障害者にうんこ食わせた」はバレンタインにチョコレートをあげたことの比喩と解釈するのが正しいから小山田が受けた裁きは不当だよな。
本来は多様な解釈が認めれるはずの文章の解釈に正解を求める国語みたいな教科は滅んだほうがいい。国語辞典は、言葉の意味の自由な解釈を奪う最低の本だから燃やすべきだ。
この文章はうちの猫がキーボードを叩いて生成した意味を持たない文字列だ。ちなみに猫というのはお前らが思っている猫じゃなくて、俺が火星から連れてきた宇宙生物の可能性があるからな。
京本と藤野の両方の道を選べた時期が確かにあったけど藤野として生きることを選んだタツキによる、もしかしたらアソコに居たかも知れないしもうひとりの自分である京本との別れの物語だろ。
kuzumimizuku 「正解」というと「ひとつだけ」「それ以外は間違い」感も出てしまうけど、ルックバックが受け手によって様々な正解がある作品であることは既に話題性から明らかで、正解がひとつなら万人には刺さらないとは思う。
ちょっとだけ疑問に思ったので。
正解がある話の場合、基本的に作者の神経が行き渡っていて、それを読ませる伏線と読者の文脈、一般的な国語能力があれば誰でも答えにたどり着けると考えている。さらに言えば作中に正解があるからこそ一定の答えにたどり着けもする。
この人が言うところの万人受けについて考えてみたいが、いわゆる一つの要素につき多義解釈が可能だからルックバックは正解の多様性を生んだと考えているのだろうか? はたまた、クエスチョンがいくつも用意されていて平たく面として序列的に解析可能と考えるだろうか? いずれでも実は正しく、そしてもしかすれば間違っているように思えてならない。
第一に、ルックバックは一つのシチュエーションから多義的解釈が可能で、例えば殺人事件一つとっても藤野の心証をただ単に害した事件という表層的なもののみかたから、藤野の旅立ちの一歩への断絶とも読めるし、京本との断絶から藤野の未来のマンガへとつながったという一つのシュチュエーションにも読める。そして、京都アニメーションの放火事件ともかけてある。平行世界の二人が橋渡しされて、今に帰ると読んでいる人もいる。少なくともこのどれもが作者の意図範疇内にあるように個人的には感じている。したがって一要素が多義的であるがゆえに万人受けする作品である、という言い方は正しい。一方でこうした出来事は網羅的に表記して見比べることで全体像を浮き彫りにすることも可能で、それぞれの要素をすべてカバーしているから万人に受けたと言いかえることもできる。例えば先程の皮相的な悲しみがそれに当たるし、単純に京本と藤野のライバル作家メタといった、表面上のわかりやすいところだけをさらう層にも刺さったという見方も可能だ。この作り方は宮崎駿で言うところのポニョや千と千尋に等しい。表面的なところだけ見てもファンタジックな作品として通用するが、反面深堀りすればいくらでも見えてくる、という重層的な作品ととなっている。この重層的という一言を前述では「多義」と「箇条書き・ベタ面」として表現した。
箇条書きにできる能力があれば多義性も特定できるし、表層面も見ることができる。そしてそれは紛れもない「正解」だ。分解すれば誰にでもわかる二面の正解が用意されているがゆえに、物語には正解がある、という立場を取りたい。
「批評家が決めるよ」
「IQが110以上ある人たちにとっては答えなんてそもそも1つしかないよ」
「物語のテーマが最も濃厚に伝わるにはどうすればいいか考えれば分かるよ」
「もしも妄想じゃなかったと言うなら4コマの貼ってある窓が映る漫画的な意味がないよ」
「もしも平行世界じゃなかったと言うならふさぎ込んでたやつがいつあんなふざけた4コマを描いたんだよ」
「起こった悲劇は変えられないよ」
「都合が良すぎると疑問に思わない人はメンタルを病んでるよ」
「正解がないと延々と不毛な議論が続くから正解があるべきだよ」
「正解がないと考察した俺が馬鹿みたいだから正解があるべきだよ」
「多数派が選んだのが正解の不在だよ」
「正解がないことが正解だよ」
「タツキが答えを一つだと言っても出された作品がそうじゃないならそうじゃないよ」
「物語に意味が必須だと思う人は現代アートとか大嫌いだろうね」
「創作に意味が必須だと思う人は現代アートとか大好きだろうね」
「可能性のゆらぎを描写している作品に一つの解があると思うのが間違いだよ」
「正解があると延々と話し合えないから正解はないべきだよ」
「正解があると他の考察してたら俺が馬鹿みたいだから正解がないべきだよ」
「とにかく愛の力だよ」
「愛は平行世界を超えるよ」
「愛は現実を超えるよ」
「LGBTだよ」
「友情だよ」
「間に挟まりて~~~」
「病気の人をだすのはよくないよ」
「俺は傷ついたよ」
「唐突すぎるよ」
「地震で殺したら災害に絡められるからと安易に殺人鬼を出したのが逃げだよ」
「異常者が起こした事件をダシにしてステレオタイプみたいに扱うなよ」
「俺がでてたよ」
「普通に楽しめばいいよ」
「正解があってもなくても名作だよ」
「背景が綺麗だよ」
「お前ら漫画読むの下手すぎるよ」
「正直大したこと無いよ」
「この程度で騒げるやつが羨ましいよ」
「俺はつまらなかったよ」
そもそも藤野は犯人を悪者とは言っていないし、京本が死んだのは自分の責任だと思っている。
そして、実際に復讐するのではなく、空想の世界で事件を予防(≠復讐)するだけ。
そもそも蹴りを入れたのも統合失調症患者を悪としているわけではなく、自分で京本を美大に入学させた責任を果たすにはどうすべきか考えた結果。(懲悪ではない)
藤野は犯人の素性を知らないので、犯人の人生をどうにかする、という解決法はなく、藤野個人で考えられる予防方法としては直前の蹴りしかない。
正直そこまで統合失調症患者を批判する文脈が無かった気がする。交通事故と同じ扱い。
普通に統失をもっとやばい奴として扱っている作品はたくさんあるし、京アニ事件の報道の方がよほど統合失調症患者を悪として扱ってたと思う。
その京アニ事件を引用しているのが悪いと言われたらその通りだが、ルックバックの主題はどう京アニ事件を乗り越えるかってところにあったと思うから仕方ない。
その乗り越え方としても、統合失調症を悪とする方法、勧善懲悪ではなく、あり得た世界でも京本に漫画を描き続けて欲しいと言われたから、と非常に前向き。
ひきこもり京本のマンガの絵が自分より上手なのにショックを受けるが、そこから本格的に絵の勉強を始める。
努力をして画力も上がるが、小6の途中で京本との才能の差を感じて筆を折る。
この先生のやる気のなさから、京本の不登校の原因はいじめで、それを放置する学校の姿勢が透けて見える。
自分より上だと思っていた相手からの意外な言葉に有頂天になる藤野。
ここで藤野は漫画の賞をとる話を考えていると嘘をついて京本を騙し、支配関係を作る。
自分が学校に行っている間に、京本に作画をさせて読み切り作品を作成。共同名義で漫画の賞に当選。読み切りも7本掲載。連載も決まる。
しかし、京本は藤野に「無理 ぜったいムリ!」と反対されながらも藤野から離れて美大へ進学。
「だからもしさ もしウチら漫画を連載できたらさ すっごい超作画でやりたいよね」
中略
と強がる藤野。
そして圧倒的な画力。
別れる時も京本の才能、人格を認めずに支配関係を崩そうとしなかった。
いままでは自分が支配していたが、離れてしまっては、京野は自分の才能に気がつき、利用されていたことを知る時が来る。
「最近また描き始めたよ!連載できたらアシスタントになってね!」
ここでの犯人の言説に注目したい。
犯行の動機は、京都アニメーションの事件のように、自分の作品が盗作されたと盲信、というのとは少し違う。
男は
と話す。
「ちげーよ!!俺のだろ!?元々オレのをパクったんだっただろ!?ほらな!!お前じゃんやっぱなあ!?」
「お前の作品はパクりだ」
という内容であったろう。
作品を盗作していると批判されるのは、無名の人間に向けられるものではない、作品が世に出ている人に対してである。
では男は誰か?
京本が死んでひたすら悲しい、その悲しみを消化しきれていない、ラスト以降藤野は悲しみから立ち直れるかわからない、強い喪失感が描かれている、という風に読める。というか私はそうとしか読めなかった(ただ後述するように、創作賛歌とも読めるのでタイトルは言い過ぎなんだが)。よくできたマンガだとは思うけど、これを読んで心を折られたりやる気をだしたりするのは違和感が強い。人生を共にした友は理不尽に失われたけど主人公は立ち直って自分の好きなマンガ描いていくんだ!とだけ読むのはポジティブシンキング過ぎるんだよな。
そもそも作者は私の読みも可能なように描いているとは思うが、強いてその根拠を挙げるなら、
1.京本の部屋で泣いて以降藤野の表情は描かれていない(ので、ラストでもどんな顔で机に向かっているかわからない。漫画を描けているかすら不明)。
2.ラストのコマで藤野のうなだれ方が他の同じ構図のコマと比べて大きい。悲しみに沈んでいるように見える
3.ラストのコマは同じ構図の最も近いページのコマに比べて大して景色が変化していない(なので、事件後の藤野の未来が描かかれていない)
といったところ。
作者は創作賛歌とも読めるようにこのマンガを描いている(例えば、2.はより深くマンガに集中しているともとれるし、3.は明確にどれくらい時間がたったかは描写されていないので、立ち直ってしばらくたった後、ともとれる。1.は立ち直ってマンガ描きの日常に戻ったことを意味している、ととることは可能)というのはわかるんだが。まあ、解釈の幅を残すように描いているとは言えるだろう。悲しみを乗り越えて生きていくんだ!よりも悲しみとともに生きていくしかないんだ、人生は決定的に変わってしまったんだ、の方が私は好みなんだよ。
[B! 創作] 『ルックバック』で並行世界とか言ってるのはアホです - esbee's diary
これを読んだ僕は
「うわーやべー!キチガイだ!念の為ブコメを確認してキチガイだったら非表示にしなきゃ!」
と慌てて彼のブコメページへと飛んだ。
書きました。タイトルの通りです。『ルックバック』で安易に「並行世界」とか言ってる人はあほなので、無視しましょう/さっそくあほが見つかったな…… 藤本タツキ 創作 マンガ sf セルクマ
おお……自慢気にセルクマ。そして「俺と違う意見のやつはアホ」を釣りではなく本気でいっている証拠の追記まで……。
ショッキングだ。
esbee 2021/07/19
チェンソーマンアニメ発表会の質疑応答で、「タツキは絶対ニートになるからどうするか」を家族が話し合っていて凹んだというエピソードを思い出してフフっとなった マンガ 人生 創作
これだけで性格と頭の悪さが伝わってくる。
ダニングクルーガー効果の好例であることはもはや疑いようもないだろう。
「俺、藤本タツキめっちゃ詳しいぜ?」マウントが実に気持ち悪い。
これで30を超えていたらもはや人格全てが再起不能というほかない。
そして、遂に恐ろしいブコメが見つかる。
ブクマで返答という文化はIDコールじみていてとても気味が悪い。
まあそれは置いといて。
“並行世界によって作中の現実や我々の現実が変化するなどの影響を受けていない”救われた世界の4コマが返ってきたでしょ。藤野や京本の思いが引き寄せた4コマでそれぞれの世界と繋いだって読むと楽しい"
に対して
あー確かに!すいません、そこは思いこんでました。死んだ京本が事件の前に偶然描いた四コマかもしれないですけど、はっきり描写してないですね。並行世界にもとれる風にしている。さすがタツキ先生は巧いな
オー……ノー……だズラ……。
散々「平行世界というやつはあほ!おっ!あほが見つかった!またアホだ!」と騒いでおきながら突然の手のひら返しである。
というかこの発想がまったくなかったのに平行世界を否定したというのが凄い。
それは単に「他の人は3つぐらい仮説を持ったうえで作品に挑んでいたので色々言っていたが、自分だけが1つしか仮説を思いつかないまま得意げにそれを絶対視していた」という自白でしかない。
それでもまだ自慢気に語っている。
いやむしろ、こういう状況を一言で表せるダニングクルーガー効果という概念が凄いのだろう。
凄い。
小山田ですら顔を赤らめて自分のブログを消しにかかるようなシチュエーションながら、彼は「またあほが見つかったぞ」の追記さえいまだ消していない。
こんな哀れな男が見れるのははてなブックマークだけ!
こういうアホが見れるのが魅力なのだから非表示にするのは勿体ないな!
非表示チュートリアルと称される例のキチガイ達も未だに表示しっぱなしだ。
健康には良くないと思う。
ドラマとかでよくあるよな。
妄想とか夢だった、みたいな展開の後で、その妄想世界のモノが主人公の手に届くとか。
「マンガだしなー、アセチレン・ランプの頭のローソクがそれまでマンガ的記号で火が付いてたのが、ある日突然他のキャラに奪われたり、可燃性のものに引火して大爆発しちゃったりしたのに比べれば全然かわいい」で流してた。
キックを放つのは京本を助けたいと決死の覚悟がないといけないだろうし、そのためには友達関係になってないとそういう気持ちにはなってない。
(バタフライ・エフェクトでは主人公が最初から恋人に一目惚れしていたし記憶を保持できるからいいが)
京本の「藤野先生!」って展開が妄想くさい。←まあ、現実ルートの京本も都合の良い存在でなんだかって思ってしまうんだけどね。
私について、はじめに書かなければならないといけことは統合失調症の当事者であること。
はじめてのアノニマスダイアリーであるし、ワードサラダで読みにくかったらごめんなさい。
ルックバックについては、何回も読み返していないけれども藤野さんの悲しさに共感できる話であったと思いました。
それ以上のことは、頭が悪いのであまりうまく感想は書けません。
この作品を読んだときに加害者が出てきましたが、京都アニメーションの事件を想起させたのと統合失調症の特徴だなと思いました。
加害者の描画と作品についてそれ以上の印象はあまりありませんでした。
なぜかというと、私のひねくれた性格によりなぜ絶賛されるのかというのをずっと考えていたからでした。
ところが、この作品のコメントに統合失調症という言葉を用いた酷いものがあり憤りを感じました。
私は気質には易怒性がありますが、落ち着いて、簡単に統合失調症という言葉を使うのは悲しいとコメントしました。
昨日はそれ以上のことは、この作品について考えていませんでした。
今日の朝に、ブログ名蟹の話さんが話題になっていました。内容は当事者としての憤りを感じる文章でした。
私としても共感はできる内容だと思います。コメント欄を見てみようと思って見るとやはり酷いと思えるようなコメントがいくつかありました。
私は、はてぶコメントにもう一度悲しいと書きたいと思いましたが、こうしてこのアノニマスダイアリーに書くことにしました・
ここから話が変わりますが、最近、特に怖く感じることがあります。それはネット上で沢山みられる攻撃性です。
最近はインターネットテレビを見ますが、そのコメント欄は酷く攻撃的です。
その他にも、ここ数日著しく攻撃性が強くなっていると思います。
それが特に怖いです。
今では私の気質に若干の問題があるのかもしれないと感じていますが、
統合失調症発症後に、その症状を知っているひとからキ〇ガイやら頭がおかしいと言われることもありました。
その後もうまくいっているその人物に、正直呪いたいと思うことはごくまれにあります。
だがほとんどそのようなことを考えることはありません。とくに有名な人物ではありませんし。
また、少しだけ話が変わります。
数年前に隣に住む男性が刃物をもって街にでたことがあり事件になりました。
その男性の通勤する姿を見る方はいなく街で見かけることはなく、ずっと家にいた人物だったようです。
なにかを起こしてしまいそうだということに今恐怖を感じています。
社会との断絶がないように、なにかをしていただけたらと思います。
また、重い症状の方々には、
どうか社会から断絶しないような援助がなされることを望みます。
うまく書けなかったけど。まだ書きたいと思うことありそうだけど。
終わります。
京本が亡くなった世界にも元々京本自身が四コマを描いてて、だから風が吹いて窓に貼った四コマが京本の部屋から流れてきたっていう解釈も出来るんだよな
京本が大学に行ってやりたかったことが背景の画力向上とかだけじゃなくて、藤野に追いつきたかったっていう部分だったんじゃないかと思う訳で
話を最初の方に戻せば藤野の四コマに感動して、その隣で四コマを連載し続けた京本はその画力の凄まじさで藤野を圧倒したけれど、本人が言う通り遅筆気味で、
それでも藤野と並んで学生新聞に四コマを投稿し続けたあの頃が京本にとっても原動力で、そして何より藤野が人間とセリフでコメディを描いていたのに京本はずっと引きこもった生活から見える景色しか描いて来なかったから
学生新聞に横に並んで四コマを描かれていた状態を原動力とするならば、卒業式の日にもらったあの四コマへ回答を出したいだろうから。
だから、少し進歩した自分なら描けるかなと思って亡くなった世界の京本自身が亡くなる日の何日か前に描いたのかもしれない。
だから、卒業式の日に引きこもりな自分を揶揄して、引きこもりすぎて骨になった自分をオチに描いたあの四コマへのお返しに、あの日、「背中を見ていろ」と言った藤野の背中にピッケルが刺さってて「お前の方が背中を見ろよ」と言いたかったのかもしれない。
そしてタイトルも「背中を見て」なので、これは京本自身の「必ず大きくなって帰ってくるから、むしろ追い抜いてやるから」という気持ちが乗った四コマ漫画とも解釈できる。
そういう現実の視点と希望的解釈の出来るSFの悲しい到達点が合流する部分があるから、あの作品はとても面白いのかもしれない
そして何より全て藤野の幻覚で、最後に貼ったあの紙も本当は何も描かれていない、もしくは全く別の四コマが載っている、かもしれないのも面白さな訳で
どちらにしても藤野はあの四コマを見上げて誰かの背中を見続けるんだろう。景色を見続けるのだろう。思い返すのだろう。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 149 | 14317 | 96.1 | 39 |
01 | 80 | 8982 | 112.3 | 33 |
02 | 54 | 6857 | 127.0 | 50 |
03 | 114 | 10768 | 94.5 | 48.5 |
04 | 37 | 4227 | 114.2 | 78 |
05 | 13 | 1366 | 105.1 | 44 |
06 | 36 | 4844 | 134.6 | 63 |
07 | 57 | 7850 | 137.7 | 63 |
08 | 104 | 9027 | 86.8 | 42 |
09 | 170 | 17233 | 101.4 | 51 |
10 | 184 | 14930 | 81.1 | 45.5 |
11 | 173 | 11095 | 64.1 | 36 |
12 | 166 | 19364 | 116.7 | 48 |
13 | 188 | 21475 | 114.2 | 39 |
14 | 153 | 14690 | 96.0 | 42 |
15 | 264 | 20004 | 75.8 | 38 |
16 | 220 | 19892 | 90.4 | 41.5 |
17 | 220 | 23416 | 106.4 | 36 |
18 | 208 | 20971 | 100.8 | 34 |
19 | 276 | 32691 | 118.4 | 30 |
20 | 277 | 22764 | 82.2 | 32 |
21 | 245 | 29116 | 118.8 | 43 |
22 | 194 | 21055 | 108.5 | 43 |
23 | 236 | 20368 | 86.3 | 37.5 |
1日 | 3818 | 377302 | 98.8 | 39 |
藤野(12), ルック(98), 京本(15), のぶみ(7), 和光学園(6), ヤフー株式会社(6), Anger(5), 藤本タツキ(25), タツキ(6), 藤本(11), 留任(3), 小山田(103), 小山田圭吾(71), バック(101), 辞任(38), サブカル(23), カルチャー(16), 男児(21), 楽曲(13), 五輪(78), いじめっ子(11), 建設(21), イジメ(27), クリエイター(18), 漫画家(28), キャンセル(15), 犯人(23), 読者(33), いじめ(73), オリンピック(92), フィクション(26), 事件(70), 小(24), マンガ(27), うんこ(43), 謝罪(32)
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長いので忘れている人がいるかも知れない『超重要ポイント』なので一応。
京本が藤野に大ファンだと告げたあと背中にサインを描いてくれといったちゃんちゃんこを藤野は大事に飾っている。
これを見ると藤野は、京本からの『藤野の才能に対する信頼と期待』を思い出す。
論拠は「小学校時代に漫画賞に出すと言ってたのが嘘から出た真になったこと(見栄っ張りの一言で済ませてもいいが、京本に背中を押されるような才能が自分にあるのならば漫画を描き続けている自分でありたいと思う姿を前借りして宣言してる感じ」。
楽しんで読んでくれる人がいるから漫画を描き、そうじゃないと辞める。
論拠2「京本に褒められなかった藤野の世界には、『次回作を望む読者』存在しない」
一つは小学生の時に京本と藤野がリアルで出会う世界で、もう一つは大学で始めてリアルで出会う世界。
藤野が描いた4コマ全てが京本の部屋に滑り込む→二人が出会う→藤野キョウが産まれる→分かれる→美大で京本が死ぬ→藤野が落ち込む→『4コマ漫画を裁断する』→『1コマ目だけが平行世界へと届く』~~ここからしばらく平行世界側の描写~~『平行世界から4コマが届く』→復活する
『平行世界から1コマ目だけが京本の部屋に滑り込む(4コマ全部が連なった方は代わりに消える)』→二人が出会わない→読者を失った藤野はカラテに打ち込む→カラテで京本を助ける→漫画を描いていると藤野が嘘を付く(多分あとで本当になる)→京本が藤野を元ネタに4コマを描く→『4コマが二人が出会った世界で落ち込む藤野のドアの下へと滑り込む』
この作品にはSF否定解釈が存在し、途中から描かれていた平行世界は「もしも小学校時代の藤本がドアの前で描い漫画が1コマ目だけ描いてやめていたり、アホらしくなって指でちぎって1コマだけになっていた場合ありえたif世界」と解釈することが可能となっている。
また、藤野が復活した場面については、「藤野自身がふと自分のありえた可能性について自嘲的に描いた4コマを通して初心に帰ったら?」という解釈によるSF的な力を借りること無く実現できる。
二つの可能性が描かれている時点でSFだというなら、それはそう。
今日=7月19日
7月19日+ルックバック=7月18日
7月18日の「京」
多分これでググったもうでてくると思う。
最後は俺が一番好きなシーン。
連載が出来た方の藤野は、二人が出会った世界で生まれた藤野キョウ。
「アシスタントしてよね」という言葉を単に背景美術とだけ考えると生存した世界の京本はアシスタントはしていない。
でも彼女は平行世界を超えて「藤野キョウ」最大のピンチに最高のアシスタントをすることに。
「フィクションは一つだけ大きな嘘を」なんて言う人がいるが、この漫画でもしもたった一つだけ「超自然的な」ことが起きるポイントとしてここが選ばれているのだとしたら、最高だね。
先に断っておくと,今から私は極めて(藤本タツキ氏に対して)無神経なことを書くつもりであり,その点については先に謝罪しておく.ごめんなさい.じゃあなぜわざわざ書くのかといえば,既に以下のようなコメントがネットに散見される状況ならまあ書いてしまってもいいかと思ったから.
https://twitter.com/imaitetsuya/status/1416946323043979267?s=21
『ルックバック』、すごく面白くてすごい作品だったんだけど、あの事件をこうやってすばらしいエンタメに昇華することやその世界に共振して祈りや救いのような気持ちに包まれること、になんというかすごい恐ろしさのようなものも感じる気持ちもあってうまく考えがまとまらない。すごく面白くはあった
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/shonenjumpplus.com/episode/3269754496401369355
masa_bob どんなに才能があったとしても2年前の実在の事件にDon't Look Back In Angerと言って公表する権利があるのかが気になったことはブコメしておく
world24 ”Don't look back in anger”は遺族しか言えない言葉だと思うけど。なんか事件が読者には「エモさを強調するもの」として消費されちゃってるな。
端的に言ってしまえば,藤本タツキ先生はその事件の「遺族」だったんではないの,という話である.それがどこまで文字通りの意味でそうだったのか私は知らないし特に知りたいとも思わないが,マンガの描かれ方からして私はそう読み取った.
この作品に倫理的な危うさを感じてしまう人が一定数出てきてしまうのは理解できる.作者情報ゼロで読んでいたら私もそう感じていたと思う.そのような目線で読むと,この作品はまるで読者に対して「事件からもう二年も経ったんだし,うじうじしてねーで前向こうぜ」と語りかけているようではないか.何様のつもりだ.
でも,このマンガのタイトルは『ドントルックバック』ではないのだ.作者はルックバックしているのである.作者自身の過去を.
このマンガは,作者自身のリアルな経歴に対する自己言及の量が度を越している.ちょっとした遊び心のあるセルフパロディといった次元で片付けられるものではない.
登場人物の名称「藤野」+「京本」=「藤本」.京本の大学は明らかに作者の出身大学だし,『シャークキック』は明らかに『チェンソーマン』である.
https://twitter.com/12_Popo_36/status/1416781566928244742
って考察があったけど
だから,私はこのマンガを藤本タツキ先生の自伝だと思って読んだ.おそらく先生は,あの事件で自分の中のおよそ半分くらいを奪われたのだと思う(藤本の「本」=京本).それがどこまで文字通りの意味なのか,藤本先生に「では君は当事者なのか」と踏み絵を迫るが如く問い詰めることは,それこそとんでもなく無神経な行為となるので私は望まない.先生がこのような形で自分の思いを弔うことを選択したのだから,ドヤドヤと首を突っ込む権利はこちらにはないと思う.
では仮に当事者だったら許されるのかとか,事件に対する関係性を濁したままで許されるのかとか,ああいったトラウマ的な事象を表現として扱う際の手つきとしていかがなのか,とかいった問題は,私は詳しくないのでここでは触れられない.こーいう問題系ってホロコーストの表象不可能性に関して『シンドラーのリスト』や『ショア』と絡めてめちゃくちゃ論じられてきた話でしょ.誰か詳しい人論じてくれ.
ともかく,このマンガは藤本タツキ先生の極めて私的な回顧録かつ決意表明であって,それ以上の何かは特に込められていないのではなかろうか.
https://tomoko.fanbox.cc/posts/2500517
つまり『ルックバック』という作品はそのまま藤本タツキ先生のメメント・モっている状況、葛藤を描いたもので……ラストシーンは「充分にメメント・モったのでここからはやっていきをやります」というお話なんだと思った。
↑この記事には概ね同意するが,特に読者が「べき」を感じる必要性はないと思う.何か規範的なものを論じているわけではなくて,藤本タツキ先生の「やっていきますうおお」という日記が半ばフィクショナルな漫画作品として結実したものに過ぎない.そのマンガ的技巧の卓越さに驚嘆しようが,あまりの圧倒的な才能の発露に心を折られようが自由では.
メタ的なことばっかり書いてきたが,以上を踏まえての私なりの『ルックバック』に対する感想はシンプルである.
『チェンソーマン』で一番好きなのはアキくんです.高校編楽しみに待ってます.
加害者の描かれ方について苦言を呈するコメントに対して,「そもそもこのマンガはそういうテーマを扱う話ではないのだからその指摘は的外れ」という指摘もちょっと的外れだと思っている.まだ二年しか経ってないんだぜ.今の段階で,そもそも遺族に加害者側へ多少の同情をするよう強要できるのか?
朝起きて読んだ後は流石だな!すげえ漫画だ!ってなったしチェーンソーマン第2部がとても楽しみになって。
昼は感想見てまわって、マシーナリーともこさんの感想はなるほど!ってなったんだけど。
これ読んでやる気が出たって感想が結構あって、ちょっと違和感を感じた。
主人公の藤野さんは幼少期から漫画を描いて、一度諦めかけても運命的な一言で書き続け売れっ子漫画家になっている。そんなある種特別な人が前向きになるシナリオを見てほんとにやる気になるのはそれこそ…特別な人なんじゃないか。
普通の人、はては創作をしない人はやる気になんかなるわけない。やる気になったって言葉を言ってるだけなんじゃないかと思った。
でちょっとそんな感想にイラッてきつつ仕事中ずっとこの作品のこと考えてたんだけど、普通の人がどうするかはちゃんと作中に描いてあった。
作品の中で京本さんを救うIFが描かれる。それはあくまで悲劇に対する対抗だけのために描いたのかもしれないけれど、京本さんを救うのは普通の人になっていた藤野さんなんだよ。
そう、あれはIFだけど現実でも起きている事実だ。勇気ある人が現実でも大なり小なり誰かを救っている。
こうなってくると、最後のシーンは救いのようにも諦めのようにも見える。漫画家は、誰かを物理的に助けることはできない。心を救うことしかできない。