はてなキーワード: 絵画とは
まず現状のAIで同一人物が描いた絵かを判別させるのは可能だぞ
いっさい仕組みを理解していなくても膨大な学習コストか金銭的コストさえ払えればできるよ
日本絵画の絵師の流派を判定する人工知能(AI)が登場した。源氏物語を描いた絵画の中に、わずかな差異を見つけ出し、95%以上の精度で専門家と同じ判定を下すことができた。人間が知らない特徴をつかんでいる可能性も判明。AIが専門家の目を超える日も近そうだ。
https://www.sankei.com/article/20180616-UQIQWCVYDFJXNO6YUUPRPIWVZM/
見分けることが出来るのだから当然描くことも出来る
Microsoftとオランダの金融機関 ING グループ、レンブラント博物館、デルフト工科大学などが協力して施行されたプロジェクト「The Next Rembrandt」です。
なので増田が見分けることが出来ると思っているのも、
見分けることが出来ると思っているけどたまに見分け間違うのも、
フツーのことだぞ
ラーメン評論家の一件を見ていて思うことは、評論家なんか信じるほうがアホということ。
すごい簡単な説明で、ラーメン評論家がラーメンの味について語れない理由を証明する。
味覚というのは刺激で、繰り返すほどに慣れていくもの。
つまり評論家レベルでラーメンを食べ続けている人間の舌はすでに刺激に対して慢性的な麻痺状態にあり、絶妙な味覚の差を感じることはできない舌になっているということ。
ましてや繊細な味付けの料理を食べ比べる評論家ではなく、ラーメンにしぼった評論家なら尚更。
例えば塩分や糖分の感じ方は、その時の血中の濃度によって濃かったり薄かく感じたりする。運動直後のジュースがやたらと甘く感じるのはそのせい。
インパクト重視の濃い味付けばっかり食べてる人間の塩分や糖分の血中濃度が正常なわけがなくて、そんな人間の味覚なんてまったくもって信用に値しない。
じゃぁ評論家が何で評価するのかといわれれば、身内の評価とか店主との関係。あとは個人の好き嫌いだけ。
二郎系ラーメンばっかり食べてる高血圧糖尿豚野郎に「ぶひぶひ!おいしい!」って言われて食べたくなるか?
それなのに、自称かどうだかわからないような「評論家」の言うことを信用してしまうのはただのバカ。まじでやめたほうがいい。
翻って、自分が料理を評論するときも、おいしい、まずいの使い方は本当に気をつけたほうがいい。
でも、それを他の人に勧めとき「おいしい」って理由で勧めるのはやめたほうがいい。
例えばピーマンを嫌いな子供にしてみれば、ピーマンの苦味はまずい。
しかし、当然その苦味を好きな人間からしてみれば、ピーマンはおいしいと感じる。
つまりはどこまで行こうとも、味覚というのは個人の好き嫌いでしかなくて、それを評価である「おいしい」「まずい」で他人に伝えようとすること自体が間違いだということ。
どれだけ信用している人間から言われても、本当にそうなのかは自分で確かめてみないと絶対にわからないのだ。
これは芸術全般にも言えることで、音楽や映像、絵画、デザインやアートを「良い」「悪い」で語る人間を信用すべきではない。
そもそも評論家の意見を信用してものを買う人間が後をたたないことが問題。
今の世の中なんて、悲しいかな品質よりも宣伝がうまいものばかりが評価されてしまう。
そういう世の中で自分好みのものに出会うには、自分の好き嫌いをしっかりと認識すること。
好き嫌いで割り切って情報を眺めれば、自ずと失敗は減っていく。
自分たちが不快に感じるのは、そこに男女差別があるからである。
このような不当に女性の表象を利用した悪質な絵画が目に付くところに掲示されるのは、
許されることではない。
これは特別な意見でもないし、人権意識に目覚めた人間なら誰でも理解できる常識である。
という思想だぞ。
自分でフェミニストって名乗ってる人ってどういう気持で名乗ってんの?
恥ずかしくないの?
これだけ世間(フェミが妄想してる世間じゃないぞ)でフェミニストの暴走が取り上げられて、今回のvTuberの件では価値観をアップデート出来ていないただのワガママ集団って評価になってさ、普通はいたたまれなくて名乗れないと思うんだよ。
世間一般(フェミが妄想してる世間じゃないぞ)の大抵の人、特に日本人は活動家とか正直煙たがるじゃん。あの人達またおかしなこと言ってるよみたいな。
そこに来て長年のフェミの大暴走でもう信用も信頼も地に落ちちゃってると思うんだよね。
これ一番強く感じたのは、半年くらい前だっけ?高校生が絵画コンクールに萌え絵のすごいのみたいな絵を出展して賞をもらったという話題があったじゃん。あの時、受賞した女子高校生本人は、Twitterでフェミに絡まれてうわあフェミに絡まれたwwみたいな反応してたと思うんだよ。
つまりフェミってもう高校生くらいの世代にすらバカにされてんだよ。そういう存在として。本来フェミが守るべきこれからの社会を支えていく世代の女性にだよ?すごいよねこれ。
何考えてフェミニスト名乗ってるんだと本気で思ったよね。
やまなみ工房という障碍者福祉施設があってそこに通う人がリハビリがてらに描いた文字を羅列しただけの絵に100万だかの値がついてる。
割と時間をかけた力作もあるがそれでも300万とか400万とかいう値がつくのは行き過ぎではないか。
他にもNFTだかいう技術の波に乗って小学生がWindowsのペイントで描いたようなクオリティの絵が万単位で売れていく。
その小学生は数か月で300云十万稼いでいる。どうにも海外の有名人の目に留まりSNSのアイコンに作品の一つが使われたことによって価値が爆上がりしたらしい。
俺はなんでも鑑定団をよく見るがあの番組では芸術に文字通り生涯を捧げた人達が紹介される。
画材などに財を全てなげうって、食べるものも切り詰める清貧の生活の中で芸術家として大成していく様が伝えられる。
そんな人が描いた絵なのに、たとえ本物でも「150万円」という鑑定額だったりする。
前はそれを安いとか思ったことはなかったが今の風潮に照らし合わせると過小評価な気がする。
あるいは逆か。障害者の描いた絵が数多の芸術家達の歴史を踏まえず評価されすぎているきらいがあるように思える。
なんで芸術家と比べてしまえば本気度が低いに決まってる人たちが悠々自適に描いた絵に悠々と大金をかっさらっていくのか。これでは芸術家が報われないのではないか。
別に「障害者が作り出すものは劣っている」とか言いたいわけじゃない。障害者どころか健常者の平均的な画家と比べても、なんでも鑑定団で特集される芸術家の芸術に捧げる熱量は、比較にもならないだろうが。
まあ作品が一品物だからということもあるわけで、たまたま金持ちがその障害者の絵を気に入ってそういう金額が買い取ったというだけの話かもしれない。
つまりそういう金額は一個人にとっての価値であるだけで、客観的な価値を反映したものではないのかもしれないというわけだ。
「客観的」という言葉を途端に胡散臭く感じるだろう?「『客観的な価値』ってなんだよ」と言いたくなるだろう?
脱線するがアレイスタークロウリーなる魔術師を自称した実在の人物は法の書という出版物のなかで「真の意志」という概念について説いている。
「真」という言葉も、客観性と同じようなうさん臭さを持っていると思う。
たとえば惰性で好き勝手に振る舞うことを真の意志とは異なるというようなことが書かれている。でも見方によっては、好き勝手に振る舞うとは何かしら律するものの影響下にないということで、そこで発現されている行動はありのままの意志の反映なのではないのか。
ありのままを「真」という言葉で言い替えれるとするなら結局それはそのまま真の意志という概念に対する反論になる。
それを退けるためにはこのような「ありのまま」が真というものに対する言い替えとはならないわけとともに、では真という言葉は具体的にどのような性状を指しているのかを説明する必要がある。
真とか客観とかいう言葉を使う人たちは往々にしてそこらへんを「当たり前のもの」として、分かっているものとして論を進めてしまうから胡散臭いのだと思う。
とはいえ、こうも当たり前のように客観とかいう言葉が飛び交っていると、その中身は素人にはブラックボックスながらも客観というもの自体は幻想ではなく確かに存在すると思うことこそが妥当で健全な生き方なのかなとも思えてきてしまう(こういやって長いものに巻かれる感じで客観や真などのような概念の存在を信じることにしたのは俺だけだろうか?)
俺は気象学が好きでその勉強をしているなかで「予報精度はモデル計算の不確実性に依存する」という文言が出てきたのだが、まあ不確実性って言葉もまた客観とか真という言葉と同等なあいまいさ、抽象性を帯びているったらない。
そりゃ人間が作ったモデルは現実の物理法則に完全に依拠したものではないだろうことはわかるが、不確実性って単語一つで言いくるめられてもしっくりこないわけよ。それでもまあ「モデル計算の不確実性」が在るものとして、そらんじれるぐらいに自分にとって真実になるように努力するわけ。科学的な文脈で語られていることまでいちいち無いものとして疑ってかかるよりも、とりあえず丸呑みにする方が妥当な態度な気がするから。学術的な文脈でも「客観」という言葉をよく見るから、とりあえず客観というものは存在するものとして妥協しておくというのと同じ。
話を戻すが、たとえば俺がモナリザとかひまわりを価値ないといったところで、それらの絵画の価値には微塵も傷がつかないだろう。
そう言うときの価値が客観的な価値だ。逆に言えば、一人の人間がいくら熱狂的に特定の絵を愛して大枚を叩いたところで、ただちにその絵の客観的な価値がそれに相当する客観的価値をもつものとして裏付けられるわけではない。個人の好き嫌いと客観的価値はいうまでもなく独立したものであるはずである。
ダヴィンチとかピカソみたいな大芸術家、あるいはバンクシーも含めてああいう人たちに作品の絵の価値は客観的価値を反映しているといえる。
それは同じ絵が(何度も)オークションにかけられるという過程を経てその経済的価値が民主主義的に固まっていっているからだ。これを実勢価格ともいう。
一方で障害者の絵に対するにわか景気はある個人にとっての価値の反映でしかない。それを指標としても客観的価値は見えてこない。
だからまあ結局、このような状況は五体不満足な障害者にせめて富がもたらされる機会が作り出されているだけであって、芸術家より評価されているというわけではないから、まあ誰も(故人も含めて)実体的そして精神的な被害者はいないからこのままでいいかなと思う。
文章力向上のために読書を役立てたいならば、黙読だけではなく、音読するのも良いと思います。
音読していて詰まるところ、例えば読み方が分からない漢字や熟語が有ったら、読み仮名を振り、欄外に意味をメモします。漢字じゃなくても、外国の小説だと、地名とか建物の構造とか日本人の知らない単語が出てきたりもしますが、それらも最近ではググると分かるので、欄外にメモします。
こうして読み仮名を振り、知らない単語の意味を書き添えたりして音読すると、スラスラ読める文章とそうではない文章があることに気づくようになると思います。
スラスラ読めるとか、何だか読んでいて気持ちが良いとか感じる文章があれば、それらを写経します。絵画の勉強の初期段階で模写に取り組む時期があるように、文章の勉強のために写経するのは無意味ではありません。
国語便覧などの資料には、修辞技法の解説が掲載されていると思います。それを読んでみて、その技法を用いた短文を書く練習をするのも良いでしょう。
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手足ワキうなじの毛を抹殺したことで他人の視線に恐怖することが減った
家庭用脱毛器は使用を怠ると速攻で生えてくるので飽き性ウーマンにはおすすめできない
教室に通う系。要領がいい女と不器用な自分の対比がつらくなりすぐ辞めた
当然覚えたスキルもすぐに忘れていくが「なんか色々やったなあ」という記憶は残るので
定期的に新しいことに挑戦してみるのは精神衛生上いい気がする
正直飽きているが辛うじて週1回くらいは起動するようにしている
安くも高くもないお気に入りのドリップコーヒーやティーバッグを買い溜めている
淡色に忍ばせた開催国の現実 パラ公式画、問い直す理念―山口晃さん〔パラリンピック〕
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021090100130
https://gtimg.tokyo2020.org/image/upload/production/ncj661vov3cktjtwyrj5.pdf
美しい一枚絵に練られた趣向は見事でブコメも絶賛の嵐。さすが一流の画家である。群馬県出身の私も鼻が高い。
だが、引っかかる部分も多かったので軽くメモをする。
クラス | 状態 | |
W1 | 車いす使用 | 四肢まひなど |
W2 | 車いす使用 | 対まひ(胸・腰髄損傷)など |
ST | 立位orスツール(いす)使用 | 上肢・下肢障害 |
オリンピックでは「リカーブ」と呼ばれる弓のみを使うのに対して、パラリンピックではリカーブと、コンパウンド、2種類の弓が使われる。
アーチェリーを元ネタにしているが、風刺として利用している所は全部ウソである。
これをパッと見た人が、「アーチェリーというのはこういう風に無理やりさせらされる競技なのか。そこをデフォルメしているのか」と思ってしまう恐れはないか?(かくいう私が初見でちょっと誤解した。それから調べて違うのだとわかった)
これオリンピックの公式ポスターなんですけど、「別に良い」の?
休憩(後日書き足し予定)
ゲームって頑張るにしても、絵画とか作曲みたいにたいしてクリエイティブなわけでもないのに、スポーツやピアノ演奏みたいなやりたくない時もやらねばっていう他で活かせる精神を鍛えるわけでもないんだよね
結局、他人に作ってもらった世界の中で気の赴くまま頑張るだけなわけだ
言及なりはてブのコメントで、あなたの考えるセリフ案(または予想)を教えてください。
藤本タツキ著『ルックバック』については、発表後、8月2日に内容を一部修正いたしましたが、9月3日発売のコミックスにおいて、著者の意向を受けて協議のうえ、セリフ表現を変更している部分がございます。
ご理解いただきますよう、お願い申し上げます。
少年ジャンプ+編集部— 少年ジャンプ+ (@shonenjump_plus) August 27, 2021
場面 | 初版 | 1次修正版(ネット) |
---|---|---|
1ページ目 | なし | 修正の告知 |
ニュース | 大学内に飾られている絵画から 自分を罵倒する 声が聞こえた | 「誰でも よかった」と 犯人が供述して |
大学構内 | オマエだろ馬鹿にしてんのか? | 今日自分が死ぬって思ってたか? |
大学構内 | さっきからウッセーんだよ!! ずっと!! | 今日死ぬって思ってたか!? |
大学構内 | 男はこの時も被害妄想により自分を罵倒する声が聞こえていたと供述 | 男は最初に目についた人を殺すつもりだったと供述 |
大学構内 | うるせえええええ | なあああああああ |
大学構内 | ほらア!! ちげーよ!! 俺のだろ!? 元々オレのをパクったんだっただろ!? | 見下しっ 見下しやがって!絵描いて 馬鹿じゃねぇのかぁ!? |
大学構内 | ほらな!! お前じゃん やっぱなぁ!? | 社会の役に立てねぇクセしてさああ!? |
自分で言うのもなんだが、180cmの身長に恵まれ、どこへ行ってもお世辞交じりでイケメンと呼ばれ、ファーストコンタクトで異性から好感を得る事が多かった。
そして女好きで好色で面食いな父親と、役割に依存して不満だけを漏らす母親の間で育った俺は結婚生活への憧れというものを1mmを抱くことがなくここまで来てしまった。
おかげで結婚への憧れを全く持たずに育ち、恋愛への頓着が無くなってしまったので、学生時代に何度か好意を寄せてきた同級生からの告白を断ってきた。
しかし、恋愛関係以外では去る者追わず来るもの拒まずのスタンスで終電を逃した駅で、夜の飲み屋で、逆ナンされてそのままセックスする事が多くなり、趣味と話しがあい、尚且つ人間関係には干渉せずにセックスをする友人が今でも何人かいる。お互いに友人だと思ってる。というか、その辺が割り切れる相手だと思って寝たら恋愛脳だった女ってのが過去に何人かいて、それ以降慎重に見極めた結果が今のセフレ達だ。セックスしまくって気づいたのが、女には二種類いて、踏み込まれたくない線引きが理解できない女と、踏み込まれたくない線引きを瞬時に理解できる女が二種類いる。俺のセフレは全員が後者だ。
時々、私生活で彼女いない歴年齢だという話をすると驚かれる。「ホモ?」「女に興味あるんだよね……?」こういう反応にいちいち対応するの正直しんどくなってくる。「いやあ、モテなんいで……」と適当にはぐらかす。
多分俺自身、もしも誰かと一緒になるなら信用信頼を担保に関係を築きたい思っていて、少なくとも簡単に誰かと寝る女は信用できないと自分を棚にあげて思ってる節がどこかにあるんだと思う。そして、セフレを作りすぎて、セックスだけの関係を築きすぎて、女なんてみんな誰にでも股を開くし信用になんて値しないとどうしても思ってしまう。我ながら重症だと思う。お前が言うな案件なのは自分でも重々わかってる。別に絶対に処女がいいと思ってるわけではない。信じられる相手なら恋愛を考えられるんだと思う。
とかなんとかいって、こんな事もやもや考えながら、やっぱりまた女から連絡が来るたびに音楽の話をしたり絵画の話をしたり仕事の話をしたりしながらなんだかんだセックスして、いない歴を更新し続けるんだろう。
もちろん物には順序があると言う通り、発生した順番に必然性があるものもある。
たとえば人類が松明より先に蒸気機関を発明することは考えにくいだろう。
たとえばそこにはある技術がある技術の土台となっている(その土台が欠けては発生し得ない)という必然性がある。
じゃあたとえば共産主義の後に資本主義が起こったという順序には必然性があるのか。
それは微妙だと思う。共産主義を経ずに資本主義に失敗を感じた人類社会では共産主義が後から発案されるということもありえると思うから。
もっと漫画に関連しそうな絵画でいうなら、フォービズムの後にキュビズムが起こったということには、この逆の順序で起こることは何らかの原理上不可能というような必然性はあるか。絵画における主義思想の順序になんというか指向性というか線形性みたいなものはあるのか。
別にそういった順序はどうあってもいいと思える。いろいろ並べ替えた場合であってもそれぞれにおいて起こり得る理由を後付け説明することはいくらでも可能そうだから。
実際の絵画世界においてはルネサンスから抽象画に走るという、背景知識のない人には一見退化、全体的に下手になったようにさえ見える変化が起こっているわけだが、商業主義の濃い漫画においてはあえて下手になろうとすることは全体的な傾向としてはまず起こり得ないと思う。
かといって上手くなっていく、ということもあまり考えにくい気がする。
個人レベルで絵柄が変化していくのには、技量が上がった場合も流行の絵柄に合わせた場合もあるだろう。
ではこれらの場合をひっくるめて絵がうまくなったとか洗練されていったということはできるか。
つまり流行の絵柄に合わせれば自動的に以前よりも上手い絵を描いたことになるというのなら、漫画は全体的な傾向としても絵がうまくなっていく、そういう「方向性をもった発展」をしていることになるのだが、そうだろうか?
本宮ひろ志の絵より鬼滅の絵の方がどうしてうまいと言えようか?
蒸気機関は松明に遅れて出たみたいなことはそれを歴史的事実として知らなくても、それぞれの実物を見せてもらったり使用方法や動作原理を説明されればどちらが先に現れたのか見当がつくものだろう。
でも漫画において、各年代において特定の作品の一コマを抽出して、これらの作品を新旧順に並べかえよと言われた場合、それを正しくでおこなえたとすればそれは、ある年代においてこの絵柄が流行ったという対応関係を知っているからであって、つまり外的なコンテクストに基づいているだけだと思う。漫画の絵柄に内的に「古さ」というものが実在しているわけではないと思う。感じたとしてもそれは歴史的事実から投射された虚像に過ぎない。
ゴールデンカムイを書けるのは野田サトルだけだよ。尾田栄一郎にも吾峠呼世晴にも書けない。でも野田サトルにはワンピースや鬼滅の刃は書けないんだよ
元増田が言ってるのは「ゴールデンカムイと同じレベルの面白さの作品が描けるとは思えない」であって、それはつまり「ワンピースと同じレベルの面白さの作品が描けるとは思えない」でもあるし「鬼滅の刃と同じレベルの面白さの作品が描けるとは思えない」でもあるわけだ。
このブコメは単に傷口に薬と偽って塩を塗り込み砂糖を塗り込みしているだけだ。
日頃ホメオパシーをコケにして笑い、精神医学に関する無理解もまた笑うはてなーが、それと同じレベルの猛毒民間療法的なアドバイス罪を積み重ね、それに拍手喝采が湧き上がっている。
衆愚とはまさにこのことだ。
衆愚とはツイッターであり自民党政権であるとはてなーは語るがそれは自分たちの棚上げがすぎるだろう。
もはや現代衆愚を暴くコンパスが指し示す極北点ははてなブックマークにある。
金カムはいろんな分野をよく取材してあるし、映画とか絵画とかからのオマージュも多くて、膨大なインプットに支えられて成り立っている作品だなと思う。勉強しよう。
金カム読んでて感じるのは天才性よりも極まった知識とテクなので創作者にとってはむしろ希望かもしれない。まあ仮に変態を完全にトレースする常識人がいたらそいつは実質的に変態ではという気もするが。
トップのみでなくそれに続くセカンドコメ・サードコメも地獄のような有様である。
おいおいはてなーよ「努力ができるのも才能」「学習ができる環境も才能」と日頃口にしていたのは、単にその場で格好つけるための戯言だったのか?
キャバクラでオッサンが「俺筋トレにハマっててさ~~」から腕立て伏せの回数を10倍サバ読んでくるのと同じ現象か?
全くもって話にならない。
野田サトル作品が他の作家では作り得ない何かによって支えられているのならそれは間違いなく彼の転生の才能であり、それが学習と模倣によって成り立っているというのならそれは反論ではなく「野田サトルの才能とは学習の才能と模倣の才能なのである」という言論にこそ結び付けられるべきだ。
狂っている。
というよりも理論を組み立てる能力というものが完全に欠如している。
論理的思考能力がないからこそ自分の論理的思考力の低さを客観視することが出来ず、それ故に狂った論理を語りながら「俺って論理的だな」と思い込むのか?
トップブコメとは結局の所は単なる人気投票であり、人気投票とは「優れているもの」を暴くものである以上に「集団の中における投票者の性質」を暴くものであるわけだが、まさにはてなにおいては「論理的思考力がないが故に論理的思考もどきを有難がるもの」が多数派であるということだろう。
人気コメントは自分が馬鹿と気づいていない馬鹿を多数派とする多数決によって決められていると言い換えてもいいだろう?
まあ今更の話ではあるな。
だが、それがここまで嫌というほど再認識させられる状況もそう頻繁ではないだろう。
今回のは月に3回あるかどうかレベルの酷さだと思う。
なんでこんなにも馬鹿の自覚がない馬鹿が、自分は馬鹿だと気づかぬままに賢いかのような態度で明後日の方向へとアドバイス罪を重ねるのか。
呆れ果てる