2021-10-01

おいしい、まずいは個人自由にしたほうがいい話

ラーメン評論家の一件を見ていて思うことは、評論家なんか信じるほうがアホということ。

すごい簡単説明で、ラーメン評論家ラーメンの味について語れない理由証明する。

味覚というのは刺激で、繰り返すほどに慣れていくもの

まり評論家レベルラーメンを食べ続けている人間の舌はすでに刺激に対して慢性的麻痺状態にあり、絶妙な味覚の差を感じることはできない舌になっているということ。

ましてや繊細な味付けの料理を食べ比べる評論家ではなく、ラーメンにしぼった評論家なら尚更。

例えば塩分や糖分の感じ方は、その時の血中の濃度によって濃かったり薄かく感じたりする。運動直後のジュースがやたらと甘く感じるのはそのせい。

インパクト重視の濃い味付けばっかり食べてる人間塩分や糖分の血中濃度が正常なわけがなくて、そんな人間の味覚なんてまったくもって信用に値しない。

じゃぁ評論家が何で評価するのかといわれれば、身内の評価とか店主との関係。あとは個人好き嫌いだけ。

二郎系ラーメンばっかり食べてる高血圧糖尿豚野郎に「ぶひぶひ!おいしい!」って言われて食べたくなるか?

それなのに、自称かどうだかわからないような「評論家」の言うことを信用してしまうのはただのバカ。まじでやめたほうがいい。

翻って、自分料理評論するときも、おいしい、まずいの使い方は本当に気をつけたほうがいい。

個人的にそう感じるのは自由だよ。

カップラーメン食べて、おいしい!っていうのは自由

でも、それを他の人に勧めとき「おいしい」って理由で勧めるのはやめたほうがいい。

それが相手にとっておいしいかどうかは全く別の話だから

もっとやばいのは、「まずい」って評価するバカ

本当にまずいと感じても、まずいだなんて評価する必要はない。

例えばピーマンを嫌いな子供にしてみれば、ピーマンの苦味はまずい。

しかし、当然その苦味を好きな人からしてみれば、ピーマンはおいしいと感じる。

まりはどこまで行こうとも、味覚というのは個人好き嫌いしかなくて、それを評価である「おいしい」「まずい」で他人に伝えようとすること自体が間違いだということ。

どれだけ信用している人間から言われても、本当にそうなのかは自分で確かめてみないと絶対にわからないのだ。

これは芸術全般にも言えることで、音楽映像絵画デザインアートを「良い」「悪い」で語る人間を信用すべきではない。

そもそも評論家意見を信用してものを買う人間が後をたたないことが問題

どれだけ主体性がないんだよという感想しかない。

今の世の中なんて、悲しいか品質よりも宣伝うまいものばかりが評価されてしまう。

そういう世の中で自分好みのもの出会うには、自分好き嫌いをしっかりと認識すること。

好き嫌いで割り切って情報を眺めれば、自ずと失敗は減っていく。

食べ物評価なんて、おいしいと思ったときは「自分は好き!」、まずいと感じたときは「自分にはあわない」。これで十分。

何でもかんでもすぐに「おいしい」「まずい」で表現する人間バカだと割り切って距離をおいたほうがいいよ。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん