はてなキーワード: 自助とは
でももっと大きな金額をもっと狡猾に自分の懐に入れてる男のほうが世の中には多いし(経営者・政治家・宗教団体・ボランティア団体代表の全国性別比率より)
男に虐げられた女を女が救うっていう同性間のなけなしの自助を
真っ先にぶち壊しにくる男という図が…本当に悲しい。
本当に、会計上の不正を正したいだけなら、どんな団体を選んでもいいのに
男性たちには、ここまで熱狂的に、金と時間を注ぐその情熱と余裕と義憤の心があった。存在した。無いものを出せないわけじゃなかった。
気に入らない女を潰すときしか、こんな数千万の寄付金や、はてブのトレンドの半分埋めるような活動にはならない。それが本当に虚しい。
これからしてくれる?いやしないよね。だって不正を正したいのは、あくまで二番目の目的だもんな。
ちなみに気に入らないって理由で執拗に叩くのが恥ずかしいという点では
あの女も一緒だよ。異性を異常に見下す態度、自分の性別だけが被害者という妄想、女叩きも男叩きも、どっちも馬鹿にしかみえない。
なんかこう…プライド?こいつをどうしても潰したいっていう同士討ちに膨大に注がれるエネルギーと金に呆れてる
そこじゃねーだろ…
でもそこしか、興味ないんだよね、君らは。はあ。
2022年末から世間を賑わせている例の件について思うところを書いておこうと思う。
初めに自分の考えを書き記しておく。私自身は社会的弱者の保護施策は必要、かつ各種施策は税金で支えるべきだというスタンスだ。現在俎上に上がっているのは女性支援施策のあり方についてだが、女性はどうしても様々な面で男性より不利な状態に置かれやすいのは間違いなく、それをケアする仕組みは必要であると思う(ただ、件の組織を肯定している訳では無いことは留意して頂きたい)。括弧書きで記したように私は件の組織を否定的に捉えている。かつ、その組織の裏側にいる人・団体・組織にも否定的な見解を持っている。増田を使って”なぜ彼らを否定したいのか”という気持ちを整理したい。
まず、被保護者となり得る人物について記したい。これは某ブログにも書かれているが、一言でいえば人間として「どうしようも無い人」である。普通に生活することが難しく、大抵の人ができるような当たり前のことがやれない。相手の迷惑を顧みずに自己弁護に終始する。平気な顔で嘘をつく。明日のことを考えずに行動する(下手すると数分後のことすら考えない)等々である。皆様の周りにも居ないだろうか。こういう人を助けようとした経験がある人は分かってくれるとは思うが、経験の無い人にはどれだけ熱心に諭しても伝わらない。経験の有無で事象の解像度が大きく変わる。
普通に生きていて、普通に生活している人であれば困窮しても誰かに助けて貰える(”普通”の定義は細かく定めない。義務教育課程のクラスの中の8割に共通するような属性をイメージしてもらいたい)。この”普通の人”は社会の共助の仕組みで大概救われるのである。仮に助けて貰えなかったとしても個々の尽力で社会福祉にたどり着くことも可能。自助でなんとかなるのである。全員とは言い切れないが、大半は救われる。
共助の枠組みで救えない人。例えば虚言癖を持っていてお金にだらしなく、働く意欲も無い。口を開けば文句ばかり言ってる他責性の強い人を想像して欲しい。彼女(彼)をどうやって救えば良いだろうか?
女性で容姿に恵まれていれば救われる方法はある。風俗店で働いている女性にはこういう人がちらほら見受けられる。容姿が良いのでランキング上位に入ることもあるが、性格が災いして指名が付きにくい(結果として店を頻繁に変える)という印象。ホストにもこういう人がいるが、仕事がハマれば馬鹿みたいに稼ぐこともあるのが世の不思議。粗末に扱われたい女性に寄生して金を吸い上げるのだが、最終的にどこに行きつくのかは知らない。
ホストは兎も角、こういうどうしようもない人を税金で救うのは私は仕方がないと思っている。これらの人を救おうとするならば、聖人並みの精神力を持ち、当人に人生を狂わされる覚悟で取り組まないといけない。正直そこまでやれないし、税金でアウトソースできるのなら是非やっていただきたい。世の中の多くの社会人は同意いただけるのではないだろうか。
今回のいざこざの中で「貧困ビジネス」という単語が飛び交っている。この単語もグラデーションがあり、人によってとらえ方が異なる。酷い事例はふるまいよしこ氏が語っていたようなタコ部屋。上述のどうしようもない人を集めて生活保護を申請させ、そこから利ザヤを得るというものだ。人を人として扱っておらず人権問題である。こういうことは許されるべきでは無い(ただ、ここにも色々な事情はある)。
ここで前段に記した”保護を必要としている人”を振り返りたい。自助・共助で救えない人を救うべきであると書いたが、ここにもグラデーションが存在する。単純化するために「周りが助けてくれる人」、「自分自身で対処できる人」、「どうしようもない人」の3区分に分けて考えたい。
「自分自身で対処できる人」というのは「どうしようもない人」と比較すると話も出来るし周りにも迷惑もかけないが、税金による保護を必要とする対象である。こういう手間のかからない人を集めて保護費を申請し、自身の保有する物件に住まわせることができれば殆どノーリスクで安定的な収益が得られる。原資は税金。限りなく失敗する確率の低い優良ビジネスだ。こういうことをやってる輩に対し、SNSでは「貧困ビジネス」と揶揄しているように思う。
正味な話、日々どうしようもない人を助けていたらSNSでアニメ絵にクレーム付けたり、「表自!表自」とか騒ぐ気力なんて削がれるのではないか。人のモチベーションの源泉なんて様々だし、何言ってるかわからない人と対峙することでエネルギー湧いてくる人もいるかもしれないが…。
前段で書いた「揶揄される貧困ビジネス」を行っている人・団体・組織は安定的な収益源を拡大するためにより多くの予算を求めるだろう。しかし、その活動で本当に救うべき人に手を差し伸べているのだろうか?「貧困ビジネス」で得た収益を弁護士に渡し、上に書いた「自分自身で対処できる人」を救うことで実績を稼いではいないだろうか。それで救われる人もいるのだから全部止めろとは言わない。ただ、どういう風にお金を使っていて、誰を救っているのかは明確にして欲しい。救いやすい人を助け、利益を仲間内で回していないことを証明して欲しいのだ。
大きく2つの理由があるのではないか。一つは当該団体及びそのサポーターに「社会人として必要な実務能力」と「社会人として必要な常識」が欠けていながら、上から目線かつ自身の過ちを認めないような態度をとっていること。「社会人として必要な実務能力」と言っているのは支出をちゃんと品目ごとに整理して帳簿を綺麗にするというようなもの。また、「社会人として必要な常識」は領収書を取っておくとか、プレスリリースを書き換えたらちゃんと公表するとかを指している。
真面目にやってる人から金を集めて、使う側は適当にやってよいは許されない。しかも「社会正義のために使ってるから適当でも良いでしょ」というような態度…。こういう部分も「社会人として必要な常識」が欠けていると言いたくもなる。
二つ目は社会弱者の保護を謳っている団体が本来やるべきことに注力せず、「間接的に影響を及ぼしている」という言い分で様々な分野に喧嘩を売っていることである。アニメ絵を規制したら保護すべき人々が救われるとは思えない。閑話休題で書いたが、本業を真面目にやってたら喧嘩売る気力も残らないくらい疲弊するだろうに、日々喧嘩を売る相手を探しては噛みついてくる。そりゃ喧嘩を売られた側は意味が分からない(本来の活動とどうつながるのか?という疑問が出てくる)し、そもそも本業ちゃんとやってるのか証明しろとも言いたくなる。
ここまで書いて、「どのような人が保護を必要としているか」の段落で書いた「どうしようも無い人」が頭に過った。
『普通に生活することが難しく、大抵の人ができるような当たり前のことがやれない。相手の迷惑を顧みずに自己弁護に終始する。平気な顔で嘘をつく。明日のことを考えずに行動する』
これは今回非難されている側に当てはまる部分が無いだろうか。私はこういう人を公助で救ってほしいと思いながら、一方では存在を強く否定したい気持ちもあるのだ。
この問題がどこにたどり着くか全く分からない。私としては心に矛盾を抱えつつも、「どうしようもない人」も救われる社会を望んでいる。
急遽予定を変更し
共産党や立憲のときは警備上の問題を理由に断られていた応援演説がなぜか認められ
アベトモの部下が本部長をする奈良県警の警備がつくもこれまた野次を警戒して前方しか警備せず
山上が発砲すると訓練に訓練を重ねた専属SPは防弾カバンの展開に失敗した挙げ句、なぜか安倍ではなく自分の体を守るようにカバンを掲げて自助の精神を見せつけ
奈良県警の警備はなぜか全員すでに無力化している山上のところに大集結し、
倒れている安倍は見捨てさらには謎のタックルを山上の靴に決めてみせるなどヤッテル感を演出し
すでに死んでいたにもかかわらず「救急隊の呼びかけに応答」という速報がされるなど死んでも捏造の精神は変わらず、
心臓に穴が空き注射針もさせないほど血圧の低下した安倍に大量の国民の生き血が輸血されトリクルダウンを体現
公開された警備計画書は黒塗りののり弁と化していたという有様
ツイッターで偽装離婚(仮面離婚)という言葉がある事を知った。
私が見たツイートは子育て関連の手当をもらうために、離婚して所得制限をクリアするという趣旨だった。
私は子なしだが、数年前から夫がほぼ無収入なので、言葉こそ知らなかったものの似たようなことを考えていた。
配偶者が低収入(生活保護以下)だと結婚するメリットは、金銭面においては全く無い。むしろデメリットしかない。
子なしならなおさら常に同居するメリットも特にないし、別居して夫に生活保護を受けてもらった方が圧倒的に得なのだ。
世の中「独身に厳しい」みたいな意見もあるけど、結婚すると損する場合もあるんよ。
もちろんその間に配偶者が別の人と結婚するみたいな事が起きても慰謝料もらえない可能性もあるし、突然死しても配偶者として遺産相続することも出来ないので一定のリスクはあるのだが、
それらを考慮しても、無収入の配偶者を養うのに必要な金が浮くのはかなりのメリットがある。
結婚て要は強力な自助ユニットで、「何かあっても国よりまず配偶者に助けて貰ってね」ってやつなので、片方がが無収入になったり介護が必要になったりすると途端にもう片方も苦しくなるのよ。
例のツイートのリプは不正受給だの犯罪だのでいっぱいだったが、要はお金のやり取りがなければいいわけで。
そこを徹底していれば、めでたく「生活保護受給者とその恋人」という間柄になれるわけだね。
生活保護受給者との恋って素敵だよね。
新海誠の新作映画、「すずめの戸締まり」を観てきた。これがどうにも周囲の人間に話がしづらいというか、未視聴の人に「どうだった?」と聞かれたときに応えづらい、しかし観た所感、体験だけは誰かと共有したい気持ちがすごくあるので書く。
この作品について語る上では、この映画が何を主軸に据えているかは避けて通れない。なので多少のネタバレ有りということは承知の上で一読されたい。
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この文章は現在30代、11年前は20代前半だった人物が書いている。
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本作のあらすじを簡潔に書く。
九州に住む主人公の少女すずめが旅の青年草太と出会う。草太は日本中の廃墟にある「後ろ戸」と呼ばれる扉を締めて回る「締め師」だ。すずめはその草太との出会いをきっかけに後ろ戸の脇に埋めてある「要石(かなめいし)」と呼ばれる石を抜いてしまい、その結果後ろ戸が開き、中から現れる巨大なミミズが地震を起こしてしまう。(椅子になる呪いなどについてはここで書きたいことではないので省く。)
抜かれた要石は「ダイジン」という名前の猫になり、登場人物たちはダイジンを追う過程で東北の被災地を訪れることになる。
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これは2011年3月11日、日本列島を襲った未曾有の災害、東日本大震災を主軸に据えた映画だ。
いきなりテーマについて述べるが、「この映画が何を描いているか」は本作エピローグで草太の口からわかりやすい形で語られている。
「人々が失ったものへの無念、悲しみが忘れられ軽くなったところに後ろ戸は開く。」
一度しか観ていないので正確なセリフではないが、このような趣旨の言葉が語られる。
「後ろ戸」とは現し世(現実)と常世(とこよ・霊界のような場所)を繋ぐ扉であり、そこが開くと扉から巨大なミミズが現れ(このミミズは締め師である草太、主人公のすずめにしか視認できない)、空から地上に落ちることで地震を起こす。
後ろ戸は廃墟にあるものだが、廃墟であるが故に、その地での災厄の記憶、失われたものへの想いは風化していく。そこには要石という石が埋めてあり、再び扉が開き災害が起こらないよう守っているのだ。
この映画は我々が体験してきた被災の記憶が風化されないよう、呼び起こすような映画だ。そして未視聴の人に説明をするのが難しいのもそのためだ。
映画館に足を運んだとき、自分は事前情報を全く入れずに行った。そして何となく映画を観始め、巨大ミミズが地震を起こし、物語の舞台が神戸へ移ったところで「おや」と思い、オープンカーが首都高を経由して東北道へ向かい始めたところで確信に変わり、そして気付かされた。「忘れていた」と。
忘れていたわけではない。事実としてはまだ記憶に新しい。ただし映画の中で鳴り響く緊急放送、津波で一掃された土地、そういったものの映画の中での情報の感触は、普段触れる情報とは全く異なったレベルで自分の記憶を呼び起こすものだった。その点に関しては映画スタッフの美術や演出の面々に感服させられた。
だからこそ、「東日本大震災のその後の物語だ」ということすら知らずに観るべきだ。なのにここにこんなことを書いていることについては矛盾にもほどがあるのだが。それでも、あのはっとする体験は代えがたいものだったように思う。
その点からまずこの映画の良かったのは、テイザーや物語冒頭でわかりやす過ぎる形でテーマを明かさない点だ(それでも屋根の上に船が乗っているのだけれど)。これも意図した演出なのだろう。
これが少しでも YouTube の予告編で明かされていようものなら、こんなに「観てよかった」と思うことはなかっただろう。
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この作品について語る上で、村上春樹の短編集「神の子どもたちはみな踊る」、特にその中の一編「かえるくん、東京を救う」を避けては通れない。
こんな話だ。
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東京で働くうだつの上がらない銀行員の中年男性が、ある日かえると出会い(「かえるくん」、とかえるくんは指を立てて訂正した)、かえるくんと共に地下に眠る巨大ミミズと闘い巨大地震を阻止する。その後男性は病室のベッドで目を覚ますが、傍らには闘いでボロボロになったかえるくんがいる。ふと気がつくとかえるくんの身体からボトボトとミミズが現れ、男性の身体がミミズに飲み込まれたところで、男性はその夢から覚める。
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こんなに似通えば嫌でも取り挙げたくなる。
この小説は1995年に日本で起きた阪神淡路大震災を柱に据えた小説である。
1995年、オウム真理教による地下鉄サリン事件と立て続けに起こり、日本の安全神話が崩れた年だ。
作者である村上春樹は、この年を経て、地下鉄サリン事件の関係者・被害者へのインタビューを行い、「アンダーグラウンド」という書籍をまとめ、普段我々が当たり前と感じて暮らしているこの社会、他者との関係性、足元の地面ですら、ありとあらゆるものが決して確かなものではないという危うさを看破し、小説への考え方について「デタッチメントからコミットメントへの転換があった」と語っている。簡潔に述べるが様々な関係性を一旦切り離して書くのではなく、コミット、深く関わっていく姿勢への移行だ。
氏はこのコミットメントについては、「日の光も届かない深い井戸の底へ降りていき、その中で手を取り合うような行為」というような言葉で表現している。光の一切届かない暗闇、自身の身体と周囲の空気、現実と非現実の境界が曖昧になる。死に近い場所だ。
人の日常生活では感知し得ない深い場所・心理、そういった部分で他者と手を取り合うこと。自分は氏の言うコミットメントをそのように捉えている。村上春樹はそのような時を経て2000年にこの小説を描き下ろした。
翻って本題の映画はどうだろう。いつも地の底に潜んでいる「地震を起こすミミズ」というモチーフ、すずめが自身のルーツである過去と向き合い、草太と再開を果たした、井戸の底のように現実と霊界の境界が危うくなる「常世」。何から何までが一対一対応というわけではないものの、通ずる部分があるように思えてならない。
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「神の子どもたちはみな踊る」は善悪の二元論ではなく陰陽論の物語集だ。
太極図、という白と黒の勾玉が互いに合わさって円を作っている図を見たことがあるだろうか。
こんなのだ☯
善悪、明暗などの世の中の事象は二分に切り分けられるわけでなく、互いにグラデーションにように折り重なり、それぞれが互いに内在し合うものである、という考え方であり、太極図はそれを表しているように読み取れる。
太極図について、ちょうど三角関数を学んだときに単位円の中で動径をθに合わせて回したように、円を描くように眺めると良い。
日が暮れるように、徐々に陽に陰が重なっていく。やがて陽がすべて陰に飲み込まれるが、その陰の中心には陽が内在する。
「かえるくん、東京を救う」の最後のシーンはまさにそれだ。主人公がミミズを飲み込み、それを夢として目を覚ますが、ちょうど「夢でしかない」くらいの点となって主人公の中に静かに存在する。
この小説中の作品に関して言えば「かえるくん、東京を救う」に限ったことではない。
宗教二世を描いた表題作「神の子どもたちはみな踊る」にせよ、バンコクのホテルで神戸に住む男の存在を思う研究者の女性にせよ、海辺で焚き火にあたる男女にせよ、自身の中には消して割り切ることのできないものが存在し、それですら目を背けることはできない自分自身なのだ。
その点でいえば、主人公すずめを育て上げながらも苦悩を抱えたまま中年期を迎えた叔母や、キャラクターが極端に振れるダイジンのあの姿に、どうしても自分は勾玉の形を照らし合わせたくなってしまう。
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我々が当たり前のように立っているこの足元、地面というのは確かなものではない。しかし一方でそれをある程度信頼した上で営んでいかなければならない生活がある。するとその表層上の信頼感によってその奥底にはらむ危険性をつい忘れてしまう。
東京都心の上空を巨大ミミズが覆い、今にも落ちて地震を起こそうとする。そこで一瞬ミミズの描写が消える。ミミズはすずめと草太にしか見えていないのだ。ずごごごご、と地震の前兆のような地鳴りが響いてきそうな予感を、スクリーン越しに観ている我々は感じるが、作中の街ゆく人々はそれに気付かず日常生活を送っている。
そこの描写が本当に良かった。地震とはいつもこうやって突然にしかやってこないんだ。そう思わされる。知ってはいるがいつも忘れている。今日この映画館に足を運んだ俺だってそうだった。そう思い知らされる。
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東日本大震災の発災当時、自分は東北地方からは離れた実家の部屋で揺れを感じていた。
2回目の大学4年生だったと思う。その年度も卒業の見通しは立たず、試しにやってみた就職活動も上手くいかず(リーマンショック直後の年だ)、大学にも足が向かず、鬱々とした日を過ごしていた。
インターネットに張り付いて、東北地方や東京の情報をひたすら追っていた。津波が町の何もかもを薙ぎ払っていく様子が全国に衝撃を与え、日が暮れるに差し掛かり日本全体が絶望に飲まれていくような空気を感じたように記憶している。
当時地元から離れた東京で働いている友人が数名いた。幸いにも彼らに大きな怪我はなく、交通機関による帰宅が困難となり、渋谷から半日かけて家まで歩いた、などという話を聞いた。
日本は強かった。余裕がない中でもそれぞれが自助共助に取り組み、生きながらえようとしていた。各大手企業にしても、サントリーは被災地に飲料水を発送し、ソフトバンクは公衆 Wi-Fi を無償開放した。当時流行っていた Ustream では日本の若者が NHK による被災状況の中継をカメラで撮影して流し、その行為の是非について当時の NHK Twitter 担当者が自身の責任と判断でそれを認め、情報共有を助けた。Evernote は有償の容量無制限サービスを日本人に向け一時無償提供を行った。
今ではウクライナと戦争真っ只中のロシアはプーチン大統領の「ありったけの物資を今すぐ日本に送れ」の大号令のもとに支援を行い、アメリカ軍は作戦名 Operation TOMODACHI を実行し日本に対し援助活動を行った。
悔しかった。社会の一員として何かを為せている人たちが立派に見えて仕方なかったし、事実立派であった。大混乱で帰宅、避難がやっとという友人たちでさえ、懸命に行動している姿が眩しく、自分が情けなくなった。俺は何をやっているんだ、と。
あれが人生の転機になった。転んでばかりの青年期、気持ちも前を向かず、ただただわがままばかりでいつも誰かのせいにしてばかりだった生活と、ようやく決別することができた。まずは目の前の事を片付けて四の五の言わずに働けと、アレがしたいコレはしたくないではなくどんなに小さく些細でも社会の中の一コマとして人のために出来ることをせよ、と自分に言い聞かせた。
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働き始め、転居をし、新しい人間関係を築き、仕事ももう若さでは乗り切れない年になりつつもやり甲斐を感じながら生活をしている。
10年間生きていると色々なことがある。見聞きしたもの、体験した記憶は、古いものから後ろに流され色褪せていく。
あの頃自分が感じた、鮮明ではなくなった様々を、しかし、劇場で唐突に思い出させられた。「お前はあの時どうだった、今はどうだ」と。
そこに前述の草太のセリフだ。2011年に東北地方に向けて自分が抱いた思い。それが忘れられ軽くなっていたところに、この映画は重さを再度伝える石となって自分にのし掛かったのだった。
あの時あの日本社会全体の空気感を体験した人が、今観るのに本当に良い映画だった。難解すぎず、わかりやすく、無駄がない。
新海誠の新作となれば中高生も大勢観るのだろう。ただ時間が経つのも早いもので、今の高校生でも発災当時は5,6歳だ。そういった世代が災害の恐怖を知る目的ならば「東京マグニチュード8.0」辺りを見ればよい。良い作品だ。
もしあなたが「君の名は。」や「天気の子」のような純度の高い恋愛ファンタジーを、あるいは「秒速5センチメートル」のようないじらしい恋愛アニメを期待するならば、この映画は応じない。
この映画はあの時を生き、その後を生きてきた人へ向けた作品だ。そしてそういう人たちとこんな風に、観た後の感想を共有したい。
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これで最後だ。
東北地方に差し掛かったところで、ドライバーの「綺麗なところだ」というセリフに対し被災者であるすずめは「綺麗?ここが?」と無感情な様子で返す。
遠くで震災を感じていただけの自分のような人間と、実際に被害に見舞われ大切な人や物、土地を失った人との間には、やはり件に対する感じ方にはどうしようもなく深い断絶があると思う。
やり切れない想いに対しては哀悼の意を持たざるを得ない。その上で、外野から眺めていただけの立場に立ったこの文章を不快に感じる部分があれば、そのような人がいれば、謝罪したい。しかしながら今のところこれが、11年経った今、この映画を観て自分の感じた率直なところだ。
またしばらく経ったら観に行ってみようと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20221018225425
ぼく勉が何でネオリベ的な世界観かといえばそっちのが面白いからだよね。
社会的な救済制度って邪魔なんだと思う。タコピーとか竜そばとかで福祉が云々言われたけど大人に助けてもらって終わりとかつまんないじゃん。
サスペンス映画でシリアルキラーをたまたまパトロール中だった警官が現れて射殺して終わったらクソでしょ。
フィクションの王道ってのはメインキャラによる自助、自己責任で、主人公が福祉側の人間でもない限り社会に助けてもらうより子供たち自身が戦わなきゃいけないんだよ。
大事なのはフィクションのキャラじゃない現実の人間にフィクションの王道を求めないこと。
ジャンルにもよるけど一般的に物語は「主人公が能動的に動くことで物事を良い方向に変えていこうとする」って流れが基本構成になるから、どうしても『自助』か、せいぜい仲間内での『共助』で問題を解決していくことになって、『公助』が希薄になりがちなんだよな。
https://anond.hatelabo.jp/20221018225425
ワートリもぼく勉も作中世界に現実のようなモラルが欠けてるのはたしかだけど、それを作者がモラルがないから、葦原大介は少年兵肯定派で筒井大志はネオリベというのは短絡的過ぎる。
身も蓋もないことを言えば話の都合だ。
ワートリを現実で考えたらこの世界の兵器をほぼシャットアウトできるトリガー技術を民間団体が独占できるわけないし、ベイルアウトのおかげで死なないとしても日本で少年兵が許されるとは思えない。(マジで死ぬ可能性も高い遠征計画が作中でおおっぴらになっても叩かれてないのはどうかと思う)
何でワートリがあんな設定かと言えば多国籍の軍人上がりのオッサンたちより日本人の中高生に戦わせたかったからだろう。
ぼく勉で言えば(正直内容をよく覚えていない)、タコピーとか竜そばとか児童虐待や貧困が題材の作品に福祉が云々言われるけど、フィクションで映える展開ってのは基本的に自助、自己責任で、主人公が福祉側の人間でもない限り社会に助けてもらうより子供たち自身が戦った方が面白い。福祉は邪魔なのだ。
どんな作品も重要な部分の邪魔になる現実の何かを切り捨てている。
まあ、読者視聴者は現実の現代人だし作中設定が現代日本なら現実的な倫理観を持ち込まれるのもある程度しかたないしそこをどうごまかすかもフィクションのテクなので、ワートリやぼく勉の倫理が批判されるのも作者の自己責任ではあるんだけど、だからといって作品に描かれてることを直接的に作者の現実へのメッセージと取るのは短絡的過ぎる。細田守だって現実の被虐待児に自分でがんばれとは言わないだろ多分。
ただ、ワートリのセクハラやカップ数は作品のコンセプトと全く関係ない、どころかあの漫画の無機質的な雰囲気からしたら異物感の方が強いのでこっちこそ作者がねじ込んだむき出しの性欲って感じで純粋にキモいところはある。ワートリがエロコメだったら別に叩かれなかっただろう。
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