はてなキーワード: 自助とは
差別問題に限らず、なんらかの問題に社会規模で対処しようとしたら「利権」が生じるのは当り前のことだ。
原発問題もそうだ。コロナ問題もそうだ。防災問題もそうだ。途方もない規模のカネと権力が動く世界だ。なぜなら、社会問題の解決にはまとまった予算が必要だからだ。
「自助」で原発事故やコロナ禍や大震災や大津波や大噴火に対処できるかといえば、それは無理である。
したがって「利権」の存在自体がただちに悪いとは言えない。利権が悪いのではなく、利権を悪用した犯罪行為が悪い。
コラボの会計問題では今のところ誰ひとり逮捕起訴されていないし有罪判決を受けていない。今後も多分そこまでは行かないんじゃないか?
コラボと同和団体は「刑事罰の対象となったかどうか」という点で根本的に違う。
鳥取ループあたりは「コラボ問題はネオ同和だ」と喧伝しているが、それは単なるセンセーショナリズムに過ぎない。
物事の本質がよく見えていない有象無象がイメージでワーワー騒いでいるだけだ。
鳥取ループや暇空あたりが何故そうやって騒ぐかといえば、彼らはそれで儲けている立場だからだ。
いうなれば「反利権」を掲げた営利活動だ。「利権イコール悪」という表面的なイメージに便乗した金儲けだ。
そんな活動に利用されて鳥取ループや暇空の小遣い稼ぎに協力するのは愚の骨頂だ。
「NHKの放送利権をぶっ潰す」。そんなスローガンを掲げれば情弱からカネががばがば入ってくることに気づいたのは立花孝志の慧眼だ。
このビジネスモデルの嚆矢は「郵政利権をぶっ潰す」の小泉純一郎だったかもしれない。
勇ましいスローガンで胸がスカッとしたが、小泉改革の結果、本当に暮らしは良くなったか?
生活困窮者をアパートに住まわせて生活保護費を着服する行為では、たびたび逮捕起訴され有罪判決を受ける者が出ている。
しかし、こういう本物の社会悪としての「利権」には鳥取ループ(示現舎)は関心を持たない。なぜなのか?
なぜかといえば、彼らネオリベは貧困ビジネスで公金チューチューしている輩と同じ穴のムジナだから、というのが正解だろう。
彼らの行動の動機は、どんな立派そうな大義名分を掲げていようと「自分個人が儲けること」であって「社会を良くすること」ではないのだ。
・良心の欠如
・社会のことはどうでもいい
その点で彼らは竹中平蔵とも話が合いそうだ。鳥取ループ、暇空茜、立花孝志、小泉純一郎、竹中平蔵、みんな同じニオイがするだろう?
皮肉なのはこの「利権イコール悪」という思考停止的な図式の流布に一役買ったのが日本共産党のライター(一ノ宮美成と寺園敦史)による『同和利権の真相』シリーズだったことだ(※)。
かつて日本共産党が解放同盟との縄張り争いから俗情と結託して広めた図式が、回り回って日本共産党自身に跳ね返ってきたとも言える。
因果応報とはこのことだろう。
映画は終わったはずなのに、心の中にまだ音楽が鳴り響いていた。帰り道の高揚感はまるでライブ会場から帰るときのようで、音楽に包まれた世界で息をするような感覚からずっと抜け出せない。映画『BLUE GIANT』は、感情を奏でる演奏で観客の心を掴む、最高の音楽ライブだった。
公式サイト: https://bluegiant-movie.jp/
予告編(YouTube): https://www.youtube.com/watch?v=h1I116oS_Lk
今年の二月から上映している本作は、同名の漫画を原作としたアニメーション映画だ。音楽と人間の物語を楽しみながら、ジャズ界の独自の価値観や挑戦についても理解を深めることのできるものになっている。
主人公の宮本大は「世界一のジャズプレイヤーになる」という大きな目標を抱え、故郷の仙台を飛び出し、単身上京する。東京で出会った凄腕のピアニスト・沢辺雪祈や、高校の同級生で素人のドラマー・玉田俊二とジャズバンド「JASS(ジャス)」を結成し、それぞれが音楽に向き合いながら、壁にぶつかりつつ、夢の実現に向けてひたむきに取り組む一年半が描かれる。
原作の「東京編」を中心にエピソードを厳選し、上映時間の四分の一をライブシーンに充てるという大胆な構成が採用されていたが、まずこれが見事な成果をもたらしていた。上原ひろみ(ピアノ)、石若駿(ドラム)、馬場智章(サックス)の演奏はとにかく圧倒的で、音楽とアニメーションのコラボレーションの最高峰と言える。また、その魅力を余すことなく味わうことができたのは映画館という環境の存在が大きく、Netflixの支配力が高まる現代において、専用施設の役割や可能性を示すことにもなっていた。
今回は、そんな傑作の魅力を紹介すると共に、宮本大の「ジャズを信じる」信念の問題点や、JASSの「So Blueに立つ」という目標が物語の性質に与えた影響について考えていきたい。
映画『BLUE GIANT』のテーマは「演奏者と音楽の関係性」だ。宮本大、沢辺雪祈、玉田俊二は、それぞれ「演奏すること」について異なる意味を見出している。その違いゆえに彼らの人生は巧妙に交わり、そして必然的に別れを迎える。
演奏者である彼らが「音楽に向き合う」ということは「自分自身と向き合う」ことを意味しており、この作品において演奏技術を高めることは、自分自身と真摯に向き合うことと同一に描かれる。自分自身と対話を重ねて演奏力を磨き、ライブを繰り返しながら音楽との関係性を深めていく若者たちの姿が、本作の大きな見どころだ。
ライブシーンはどれも素晴らしかったが、中でも僕が心を奪われたのは「汗」に関する表現だった。演奏者たちの身体から吹き出る大量の汗や、そこからこぼれた大粒の一滴が、アニメーションならではの表現で美しく描かれる。それは、音楽が空気を振動させて生じる運動の結果であることや演奏者の存在を再確認させるばかりでなく、自己探求の試みを象徴しているようにも思えた。落ちてきて弾け飛ぶ汗を見たとき、その背景にある身体的な研鑽や精神的な苦悩に思いを馳せてしまうのは、物語と音楽と映像が見事に組み合わさって感情を揺さぶるからだろう。
ライブシーンでもう一つ印象深かったのは「凄まじい演奏に目が釘付けになる」という描写だ。特に終盤の人々の目が幾重にも重なって演奏に引き込まれていく表現が印象的だったが、これらは音楽の演奏が聴覚だけでなく視覚も惹きつけるものであることを効果的に示している。実際に音楽ライブに行くと、音楽は「耳で聴くもの」というよりも「目で見るもの」「肌で感じるもの」であることを実感するが、この映画ではアニメーションの技術やアイデアによって同じ体験をもたらしていると言える。
また、脚本として素晴らしかったのは、この映画が「沢辺雪祈の物語」として完璧に仕上がっていたことだ。漫画版では交通事故によって最後のライブに参加できなかった雪祈だったが、映画版ではアンコールで大や玉田と共にSo Blueの舞台に立つというシナリオ改変が施されている(最高だ!)。怪我を負った雪祈は片手で演奏することを余儀なくされるが、その姿が大が初めて雪祈のプレイを見たときに片手で演奏をしていたシーンと重なり、呼応することになる。手を抜いて片手で演奏していたプレイと、片手でしか演奏できない状況で全力を尽くすプレイの対比があることによって、映画版はより一層雪祈の精神的成長が強調されるものになっていた。
本作はジャズライブの世界を美しく表現しているだけでなく、コミュニケーションや人間関係のあり方についても、ジャズ・プレイヤーたちの世界や文化を伝えるものになっている。素晴らしい取り組みである一方、その描き方にはついては大きな問題がある。それは、彼らの世界をただ単に肯定的に、あるいは美学さえ伴って、無批判に描いてしまっているという点だ。
ジャズバンドには「独立した個人たちが自分自身の活躍や成長を目指して組まれる」という文化的な特徴がある。作中のセリフにあるように「ジャズはロックバンドみたいに永遠に組むもんじゃない。互いに踏み台にして名を揚げていく」ということだ。そのため、良くも悪くもバラバラな状態が肯定され、自助を基調としたコミュニティ文化が成立している。
例えば、玉田俊二や沢辺雪祈はそれぞれ大きな課題に直面するが、大はその苦境に共感したり、手助けをしたりはしない。それどころか、雪祈が玉田を、玉田が雪祈を心配しても「自分自身の問題だから、おれたちに出来ることは何もない」と、その配慮を無用なものとして切り捨てる態度を取っている。
しかし、自分自身の問題であることと、周囲がその解決をサポートすることは決して矛盾しないはずだ(でなければ、カウンセリングという仕事は成立しなくなってしまう)。むしろ、人間が抱えるあらゆる問題は究極的には自分自身の問題でしかない。それでも人は、他者の悩みや状況を想像し、共に心を痛めることができる(=エンパシー)。そこに人間の素晴らしさがあり、そのような想像力に支えられることで、僕たちは日々の問題に対して継続的に立ち向かうことができているはずだ。
ところが、ジャズ・プレイヤーとしてあまりに完成されすぎている大のメンタリティは、そのような想像力を必要としない。自助を当然とする大の態度に、玉田は大きく動揺し、雪祈でさえ戸惑いを見せ、二人は困難に直面しても「助けてほしい」と言うことができない状態に追い込まれてしまう。大は「ジャズを信じている」と口にするが、これはジャズという音楽の良さが理解されることだけでなく、「ジャズバンド的な人間関係やコミュニケーションの方法が通じる」と信じていることを意味しているのではないか。つまり「ジャズを信じる」大の信念が、JASSの「助けてほしい」とさえ言えない人間関係を強固にしているのだ。
「信じるだけ」の大は、いわば「仲間のために戦わないルフィ」だ。彼の言動からは、人の弱さを認めず、自分が出来ることはみんなも出来ると思い込んでいるマッチョなワンマン社長のようなパワハラ気質が伺える。もしかするとそれは「お互いを追い込みながら、最高のソロを引き出し合う」というジャズの性質を、人間関係のアプローチに転用したものなのかもしれない。だとしたらそれは、今日ではあまり受け容れられないスポ根的なスタイルが、文化系の皮を被ることで見過ごされているだけなのではないだろうか。
この映画では、周囲の人々に助けを求めず、自分自身を追い込んで課題を克服しようとする姿を肯定的に描いている。しかし僕は、それらをもう少し批判的に捉える視点があるべきだったと思う。あれほどまでに深く自己と向き合うことができるのであれば、そこで培った想像力を活かして他者の心に深く寄り添う可能性も求められるはずだ。自助の圧力が高まる世の中だからこそ、自分自身に向き合い、自分自身の問題に取り組みながら、他者に対しても理解し、助けることができる人間関係を築く、そんなジャズプレイヤーたちの関わり方を提案して欲しかった。
この作品にはもう一つ、物語の性質に関わる問題がある。それは彼らの立てた目標、あるいは権威との関わり方の問題だ。
大、雪祈、玉田の三人は「JASSの目標」として、十代のうちに日本一のジャズクラブ・So Blueのステージに立つという目標を掲げる。もちろん大きな目標であり、大胆かつ困難を伴うチャレンジではあるのだが、僕はこの目標によって彼らの物語が「質的に」小さいものへと制限されてしまったと思う。
ジャズマンにとってのSo Blueは、野球の甲子園やラグビーの花園に相当する憧れの舞台だ。ただ、その性質は大きく異なっている。甲子園や花園は「勝ち上がる」ことで立てる舞台であるが、So Blueは「認められて」立つことができる場だ。つまり、そこに辿り着くためには権威を求めなければならない。このことから「権威に認められなければ成功しない」という価値観が生まれるのだが、それが(若者たちの挑戦を描くにしては)物語を物足りない方向へ導いてしまっている。
JASSはSo Blueの支配人・平にライブを観に来てもらうというチャンスを掴むが、雪祈のプレイが否定され、夢への道が閉ざされてしまう。このとき「縁がなかったということで」と断った平だったが、後に彼が自戒したことで雪祈へのオファーが生まれ、それがJASSのSo Blue出演へとつながっていく。雪祈のソロ克服という要因はあったものの、もしこの権力者が凡庸な人格の持ち主であったら、JASSはSo Blueに立つことはできなかっただろう。若者たちの挑戦に重きを置くには、権威的な存在が過剰である。
また、中学生の頃からSo Blueに立つという目標を持っていた雪祈には、権威主義的な性格が定着してしまっている。自分が評価していないギタリストと共演しても、相手が一定のプレゼンスを持っているとお世辞を言ったり、自分のソロについて大から指摘を受けたときは反発しつつ、平から叱責を受けると素直に聞き入れたりする。葛飾ジャズフェスティバルへの出演が決まった際には「フェスとなればジャズ業界の人間もたくさん集まる。駄目バンドの烙印を押されたら、もう一生どこにも呼ばれない」とまで言い切っており、妄想の中で権威が肥大化し、視野が狭くなっている様子が伺える。これらは、挑戦する若者というキャラクターの魅力を損ねる要素だ。
若者たちの挑戦を描くのであれば「権威に認められようとする挑戦」よりも「権威を打倒しようとする挑戦」のように、もっと質的に大きなものを期待したいが、ジャズ・プレイヤーの挑戦である限り、権威に対する依存は避けられないのかもしれない。
映画を通じてジャズという音楽の魅力は十分に伝わってきたが、僕は大がジャズを信じる姿に共感する気持ちにはなれなかった。映画『BLUE GIANT』は、ジャズの美学を称えるはずの作品でありながら、同時にジャズ的なもの(自助を前提とした人間関係やコミュニケーション、権威に認められることで成功するという価値観)が抱える課題も浮き彫りにしてしまっている。
それでもこの映画は、音楽の力とそれを支える視覚的な表現力で観る者を魅了してしまう。そこに問題があったとしても、圧倒的な恍惚によってどうでもよくなってしまう。それこそが、この映画の正体なのだろう。最高のクリエイターたちがもたらす感動が、自助を強要する主人公や助けを求められない人間関係、挑戦の質による物足りなささえもかき消すことで、「音楽の力」を証明することに成功したのだ。物語パートで引っかかることがあったにも関わらず、あまりに強すぎるライブシーンが全てを帳消しにした結果、鑑賞後の僕の心にはただ音楽だけが存在していた。大、雪祈、玉田たちにとって演奏することがそうであったように、まさに、最高の演奏によって数々の問題を乗り切った物語だったと思う。
兄が結婚→姪が生まれるというほぼ同じ状況。私は職場が近いので実家暮らししてて兄家族は遠方に住んでる。
兄の結婚までは事実を耐えれたけど、子供っていうセックス伴う事案とそれを経て「女の子」を可愛がってるという事実が耐えれなかった。
おまえ性犯罪者やんと思って。あとこの手のバカ性犯罪者父親は親になった途端子ども絡みの事件に言及しだす。お前も子どもに対する加害者だったろって思う。
で、数年前のことだけど帰省で兄夫婦&姪がきて「かわいいやろ」みたいなこと言ってきたときに「私をレイプしようとした男の子どもが可愛いわけあるかよ〜😂」ってめちゃ笑いながら言った。
空気が凍るってこのことを言うんやなと思った。
母(父だったかも)が小さい子の前でそんなこと言うなんて…!みたいなこと言った気がする。
「いや事実やん、人の布団に入ってきてアレコレしていったやん」
「◯◯(姪っ子)にもするん?」
「反省してないやろ?してたら子どもの親になるなんてできんよなあ?本気で反省してたら性犯罪者の自助サークル行くなりカウンセリング受けるなりはするよな?」
「性犯罪者やろ?子どもの親になるにあたってどんな反省を試みたん?聞いてみたいわ〜」
みたいなことをバーッと喋って兄嫁呆然、兄は口パクパクさせてみんな沈黙でさすがのわたしも居た堪れなくなり散歩に出た。
気まずい空気はありつつも普通に時間がながれ、翌日兄夫婦たちは帰り、兄嫁からLINEで夫がすいませんでしたみたいなの来たので、あなたが謝ることなんすか?と返したらすいませんしか来ない。兄からは何もこない。
性犯罪者本人もそれ放置した親も平気で性犯罪者の味方をするよ。孫を産まねえ未婚の性被害者なんか捨てて孫という娯楽を用意してくれた性犯罪者にすり寄るのが親ってもんよ。
GPT4に要約してもらったよ!
多くのリベラルが維新や自己責任を敵視し、政治に不満を持ちつつ行動しない。
民主党が提唱した地方分権の考えは「自助・共助・公助」として受け継がれているが、リベラルは公助に頼る姿勢を示す。
維新を目の敵にしてると同時に「自己責任」を目の敵にして、やることやらないで政治に文句つける奴がリベラルには多すぎる。
そもそも新しい公として「自分でできることは自分で」「自分でできないけど地域でできることは地域で」「地域でできないことは公で」という、より小さい単位が実施するという補完性の原理に基づく地方分権を叫んできたのは他でもない民主党でその流れは自民党も受け継いで「自助・共助・公助」と呼び名を変えて今に繋がっている。
ところが、そこでリベラルは手のひらドリルで「自助なんかおかしいだろ。基本は公助だろ」と、やることやらないで政治に文句垂れるだけのクズに成り下がっている。
当たり前の話だが、そんなのでは税金が持たないので、仮に立憲民主が政権をとったとしてもそんな世の中は未来永劫来ない。政府を変えるよりも自分を変える方がずっと簡単なのにしない。責任ある仕事に就こうともせず、低賃金に甘んじて政治に生殺与奪の権を握られてるのに自分自身にそれを取り返そうと頑張ろうともしない。
政権をとって政策を実現する見込みのない立憲民主党のリベラル系やれいわの甘い言葉、絵に描いた餅を信じて彼らに投票する。リベラルの政治家はそもそも政策を実現しようとしていない。自民党と戦う振りをすることで、無能に夢を見せて政治家という地位とお金を手にする稼業としてやっている商売人でしかない。底辺の不満をぶつけて解消する仕事として政治家をやってる連中だ。政策実現のための具体的な道筋を説明できる者は一人もいない。
入社した瞬間、「年金や退職金はあてにならないので積立NISAや確定拠出年金(DC)で老後資金を確保しましょう」みたいな話をめちゃくちゃ聞く。
言ってること自体は正しいと思うけどマジでクソ食らえだなって思う。
「そんな金ねーよ」
これに尽きる。
その後多かれ少なれ昇給はあれど(所得税増えたりするし)20万前後で生活を成り立たせなきゃいけない期間がそこそこ長く続くと思われる。
一人暮らしなら家賃8〜10万ぐらい持ってかれるので残り10万くらいでその他もろもろを賄う感じ。
食費3〜4万、光熱費とインターネットで2万前後、だと残り3万くらい?そこから日用品、衣服代、娯楽費(ボウリングとか飲み会とかそんなもん)出してるとまあ余裕ないです。
もちろん日用品は必要最低限をなくなったら買い足すとかそんなもん。服とか1シーズンに1枚程度。金ない。
「使うお金、守るお金、育てるお金」みたいな言葉もあると思うけど使うお金で手一杯すぎて守ってる余裕も育ててる余裕もない。
実家暮らしすればいいじゃん、と思われるかもしれないが勤務地が自分で選べるとは限らないし(むしろ選べない場合の方が多いのでは)、
実家の親と仲がいいかどうか、自分の部屋があるかどうか、そもそも親が健康で存命かどうかとか「実家暮らしできる」ためのハードルは個人的にかなり高いと思う。
そもそも「実家暮らしできる人しかお金が貯められない」みたいな社会ヤバくない?
一人暮らしで不自由なく暮らせる+投資に充てられるだけの給料が出ないのなんなんだ。ほんと貧しい国だな。
そもそも投資で金を増やせる層=「使うお金、守るお金、育てるお金」の「育てるお金」を出せる余裕のある層。
金のあるやつのもとにはさらに金があつまり貧乏人は一生貧乏人!!!!!!!
使うお金で手一杯の貧乏人はのたれ死ねってか!!!!ワハハ!!!!!!
預金しておけばお金が増えて年金、退職金もしっかりもらえた世代と
預金の金利はしょぼい、年金受給できるか不明、退職金もしぶい→だから自助(投資)でなんとかしてね!w の我々世代
同じ国でここまで悪い意味で差があるのなんなんですかね…
少子化少子化言われてるし実際に人口減ってるんだから賦課方式が破綻するのなんて目に見えてるので
これ以上改悪するばかりならいっそ制度ごと廃止してもらったほうがありがたいまであるだろ。
「防犯において、日本は『人』に注目しているがそれは間違い」
「『機会』がなければ、犯罪は起こらない」
ということだが、
だったらさあ、
「50年前から『犯罪機会論』があるアメリカの犯罪率が低くなきゃ」、意味なくね?
根拠のない「体感治安」「暗数」まで必死で持ち出して、「実は日本は危険なんだ」って主張する必要なんて、そもそもないはずじゃん。
大抵「日本は性犯罪の発生率が低い国ですが、実は」って入りだろ。
頼むぜブコメのみんなー。
こんな露骨に矛盾してる話に「日本はなんでも自助で対応」とか脳死でコメントするなよー。
一見正しそうな理屈を説いているようでいて、完全に三浦瑠麗枠じゃねえかよー。
ていうかこんな矛盾にも気づけないような「意識の低い連中の自助努力だけ」で、
「海外から評価されるほどの治安のよさ」が実現できるなんて、本気で思うのか?
やっぱり矛盾した論理を支持するのって、矛盾した発言をする奴なんだなあ。
「犯罪機会論」自体は防犯を考える上で大事な要素なんだろうが、
それを紹介したからってこのセンセを信じるのはどうかと思うぜ。
大体「捕まらなければニュースにならない」って、いや声かけ事案ですら不審者ニュースになってるやろ、、、
すごいねじ曲げて話をするんだよな。
この手の誘導が非常に多い人だと言うことには、「注目」しておいた方がいいですよ。
子持ちがDINKSを批判するのをよく見かけるけど、DINKS当事者としては子供を産み育ててる人が何考えてるのかが本当に分からない。
どういう考えで子供を持ったの?って聞きたい。でもそんなこと聞いたら超失礼なのはわかるので聞けたことはない。
はっきり言って、今の日本で子供を産むということは、よっぽど金銭的、家柄的に恵まれていなければ虐待にあたるとすら思う。それくらいの考えでDINKSを選んでいる。
子供が金銭的な不自由を感じないで希望した進路を選択できて、奨学金は背負わず、自立して生きていける仕事につける、そういう環境を整えられないなら、子供は産むべきじゃなくない?数百万の借金を背負わせる前提で命を産むのがDVじゃなかったらなんなんだ。
子供が育っていく過程で、そんなにお金がないのになんで自分を産んだんだろうって、思わせない自信がない。
自分は奨学金をもらわず大学にいったし平均程度の世帯収入もあるけど、生活に余裕はないし。
小さい頃から保育園に預けられて、小学校上がったら学童に預けられて、家に帰っても親は仕事行ってていない、みたいな同級生をかわいそうだと思いながら育ったから、自分の子供はそうはさせたくない。かといって、二馬力じゃないと生きていけないし。
子供連れとか見るたびに、あー所得に余裕があるんだろうなあと思う。こっちだって羨ましいんですよ。手放しで子供が欲しいと思いたかったよ。
あと、年金もらうなとか医療費10割払えとか言われてますけど、そもそも自分が老人になる頃にはまともに年金もらえないだろうし医療費は高額になっているだろうから、そこをアテにして生きてるわけでは全然ない。むしろ、自分の老後の面倒を自助でなんとかしないといけないからこそ、子供育ててる場合じゃないと思ってる。
DINKSを選ぶ理由は人それぞれだと思うし中には本当にただ遊びたいだけの人もいるのかもしれないけど、多くの人は色々考えて葛藤した上でそれでも子供を持たないって決めた、ていうか持てないって悟ったんじゃないかと思う。ま、自分に子持ちの考えが分からないのと同様に、子持ちには分からない感覚なのだろうけど。
周回遅れ。
支援するのにお金は必要だけど、それを言い訳にもらえるお金をもらえる限り取り、どう使ったかは残してないのは良くないと思った。
一方で、勧善懲悪の創作じゃないんだから、一切合切の支援活動をしていないという訳ではなく、「何の支援してないんだ!」と叩くのは筋が悪いと思う。
世界に善と悪しか存在しない人には、わかりやすい悪の組織として遠慮なく叩けるものがあるのは歓迎なんだろうと思う。だからその「役」を当て嵌めたがって喜んでる人たちがいる。
でも「してる」と「してない」の間の「このくらいしてる」のグラデーションに関しては意識していないといけないし、当事者の片方もそこまでは言ってないように見える。
あと過去、「自立支援」と言う名で支援の梯子を外された(つまり「助けるのやめるね、自助でよろしく」と言われた)ことがあったのを知っているから、「自立を目的としない」という言い分も実態に沿ってると感じる。
だから、叩きたい人が叩き放題みたいになってるのは嫌だと思う。っていうか勧善懲悪の創作の悪役ではなく生きてる人間相手なので、ほんとマジ自粛した方がいいのでは。
その一方で、(以前見たものに同意だけど)口の悪さとか、人としての浅さみたいなのは「弱者支援しててなんでこんなに視野が狭いの……?」と思ってしまうことがある。でもまぁ支援する人が全て聖人君子じゃなきゃいけない訳じゃないし、そもそも人間だもんな。『支援が必要な女性』側からしか世界を見てなければ、男性は全員(100%)犯罪予備軍に見えたりもするだろう。それでも、支援してるだけで、なんの行動も起こしてない私より立派な人間であることに変わりはないと思う。
ただ、私より立派な人間でも、支援はしてても、それに便乗して、過剰に支援金受け取るのはやめて欲しいと思う。偉いことしてるならそれに関わる何してもいい、とは思わないんだ。
ボーッとしててもそれなりに生きられる国にしろや!
ボーッと高卒でも家族持てるくらいにしとけや!将来わからんけどなんとかなるわ〜って安心を国民に持たせろや!国も企業も生まれてから死ぬまで俺らをチューチューする事しか考えてないのにそれらを掻い潜って自助で自分で勝手に成長して「生産性」のある人間であれと。それが出来ないのは自己責任って世の中や。
はい。
就学前「保育園の空きはないです」「増田くんはうちの幼稚園には合わないみたいです」
小学校入学「週5で習い事」「得意を見つけて『好き』で生きていこう」
思春期に外見をまともにできないと人権喪失なのに「校則校則〜オシャレすんな!あ、ズボンとスカートは選んでいいよ」男子「???」
大学行く金がなくて奨学金で行けば「贅沢!(自衛隊パンフレットを渡しながら)」
大卒で手取り14万の仕事にしかつけない→「せっかく奨学金借りたのにその程度の仕事しか見つけられないのが悪い」
「アンガーコントロールできない?クビ」「セルフケア、セルフプロデュースできないと社会人としてダメ」「自己啓発、成長、詳しくは固ツイで」「成長したいならブラック企業行こう」
風呂無し物件しか借りられない→「そういうの好きなんだよね?」
結婚、子育て→「自分達の力で何とかしろ。なに?子供手当だとこのポルポト!!家庭は全ての基礎です標準家族最高!全部親の躾が悪い!」
老後の不安→「2000万投資で貯めとけ、貯めないやつは馬鹿。あ、年金開始年齢あげとくから」
賃金上げてくれ→「賃金上げたらゾンビ企業が昇天してまうやろ!ひとでなし!」
コロナが不安→「5類にするから自分で身を守ってね。あ、マスク取って?コロナのお金余ったから型落ちのロケットとかアメリカくんから買うわ」
小3、4とかもいじめられたらしい。
中学も年下に舐められた態度取られたり、クラスでも部活でもいじめられた
そういう経験をしてしまうと、内面の自分はぼろぼろだから感情をひた隠しにして、
とにかく普通に見られるよう過ごすのが精一杯
学校の成績はマシだったんで、高校大学社会となんとかついていけたが、
社交性がなく、輪の中でどう振る舞えばいいのかわからず、
自分では精一杯普通を装ってるのに、少なからず他人にバカにされて、
その後はカウンセリングにいったり、メンタルの本読んだり、自助会やら、メンタルのオフ会やらなんやらで
過去の振り返りとかなんとかで、この症状に当てはまるからとか、自分が悪くない相手が悪いとか、
いろいろ自分を癒やしたりとかで、なんとか自己肯定感みたいのがなんとなく生まれてきた
多少、メンタルが上向きになってけど、なんか都度ひっかかる感じで来てたんだけど、
最近、ふと、
自分が弱かったんだな
と思った
今までも、昔の自分は傷ついた、ホントは誰かに助けてほしかった、あーいうことする奴らはひどい奴らだ
自分の弱さを認めてこれなかったというか、
単に自分の弱さが相手を図に乗らせたんだろうなという感覚がある
今の自分が弱い人を見て、そういう人をいじめたり、何か嫌な言葉をかけるかといえば
そんなことはないので、
まあ、いじめてたやつらがクズだっていうことには代わりはないだけど。
まあ強くならなきゃなと
なんかふと思った