はてなキーワード: 水戸黄門とは
もろディケイドじゃねえか。
でもメイン購買層の未就学児童は3年周期ぐらいで入れ替わってるはずだし、
5〜10年スパンぐらいで同じネタ題材にしても別に全然問題ないんだよね。
大友は「これ前にやったよ!●●じゃん!」とか言いつつも結局のところ見るし買う。
もうクウガ〜剣ぐらいまでの「販促縛りの中でもちゃんとした物語を!」という気骨は残って無いしこれで良いんだろう。
てかさ、大体の特撮っていつもこのパターンで周ってるんだよね。
真面目に作った素晴らしい作品が大当たり、それに味を占めて続編を乱発するもネタ切れして客演などの使い回しが横行。
徐々に子供向けが子供騙しにすり変わって終焉する。で、十数年ほど経って心機一転で真面目に作った復活作がヒット、てな感じ。
現時点でも新作が出続けてるウルトラマン・仮面ライダー・ゴジラ、全部そうやって周ってる。直近だとシンゴジラが良い例だ。
数少ない例外が戦隊シリーズで、最初っから子供騙しと割り切ってる。平気で同じ題材使い回すしプロットも毎回陳腐だ。
車や恐竜、忍者なんて何回モチーフになったか分からないだろう。だからこそゴレンジャーからシリーズが途切れていない。
その代わり物語を評価されることは殆どない。水戸黄門や暴れん坊将軍みたいなもんだ。同じ時代劇でも黒澤映画等とはまるで違う。
財務省文書書き換え問題は日本の民主主義、政府行政国家への信頼を根本から揺るがす大事件である。
文章の書き換えが誰によって、誰の指示で、何のために、どんな方法で行われたのかということが完全に明らかにされる必要がある。
しかし、「現在調査中である」ということで満足な説明を受けることができない我々にとって、明らかになるのを待つ以外に考える問題があるはずである。
もし、国会に改ざんされたものではなく、改ざんされる前の文書があの時点で提出されていた場合どうなったのか、つまり安部首相、安倍昭恵夫人をはじめ政治家や権力者による圧力や影響、この取引が政治や行政として健全なものであったのかという問題である。
おそらく今回の改ざん前の文章、特に安倍昭恵夫人に関する記述にぴったりと来る諺は「虎の威を借る狐」ではないだろうか。
まさに文章からは森友学園または籠池氏という「狐」が、安倍昭恵夫人、延いては安部首相といった「虎」の威を借り、理財局(威を示される側の事を以下鹿と呼ぶことにします)に対して(おそらく不自然な)交渉、取引を行なったように見える。
ここで、私たちは虎の威を借る狐の虎は罰することができるのかという問いに立つ。
虎の姿勢で分解し整理して考える。
今回であれば、安倍昭恵夫人などがそういったことをしているといった証拠は出てきていないし、存在してないだろう。
もし出てきたのであれば贈賄によって行政を私的に操作したことになり最悪であるが、さすがにないだろう。
次に、虎が威を借りられていることに気づいていない場合である。(2)
これは単純に罰することはおそらく難しい。
今回安部首相をはじめ、閣僚、関係者はこの線で決着をつけたいだろう。
しかし、今回の件はこれを装った次の場合がふさわしいのではないだろうか。
虎と狐が同一の目的を共有し、(暗黙のうちに)虎が威を貸すことに同意している場合。(3)
物理的、金銭的なメリットのやりとりはないが、精神的、思想的、またはその他のメリットを共有している場合である。
ここで、2との重大な違いが発生している。威が借りられていることを認識しているかどうかである。
この認識をどう証明するのか、また思想的なメリットなど具体性のないメリットを立証することができるのかという問題などがある。
おそらく後者の方は名誉校長に就任していることなどからも十分に指摘することができると思うのだが、前者を立証することは難しいだろう。
また、今回でいう理財局、鹿(威を示される側)が威を察する場合もある(4)
完全に適した例ではないかもしれないが、芸能人に対してコーヒーショップでお店側が勝手にサービスをする、といった感じかもしれない。
(暗黙のうちにでも)忖度させているのか、勝手に忖度されたのかの境界は曖昧であり、2や3の状態とも組み合わさって起こりうる問題である。
最後に、全く虎の威を狐が借りなかった場合も考えられるが今回に関しては適さなさそうなので省略する。
個人としてはこのいずれであってもいいので真実が、納得できる形で詳らかにされることを望むのみである。
蛇足だが、
水戸黄門が紋所をチラチラと見せながら、自分の持っている物を「いいものを持っておるな」ともの欲しそうに話しかけられたとして、
水戸黄門(もっと言えば紋所)に対して「差し上げます」以外をだれが言うだろうか。
オーストリア | プリンツ・オイゲン(1663-1736) | オーストリアの名将。元はフランス貴族だが、軍人としてハプスブルク家に仕え、祖国フランスと戦い続けることになる。オスマン帝国との戦いでその西進を挫き、スペイン継承戦争においてはイングランドのマールバラ公と共に大活躍をした。 |
スイス | ウィリアム・テル(?-?) | スイス建国の英雄として知られる。オーストリアの代官に強いられて息子の頭に置かれた林檎を射抜き、後にその代官を射殺したことで、それがリュトリの誓いに始まるスイス独立運動へとつながったという。ほぼ確実に架空の人物だが、スイス国民が実在を信じているならそれでいいのだ。 |
スロバキア | ユライ・ヤーノシーク(1688-1713) | 伝説的な義賊。山間で商人や聖職者などの金持ちから金品を奪い、それを土地の貧民や有力者たちに渡していた。有力者は見返りにヤーノシークを守っていたという。やがて捕らえられ処刑されたが、民族意識の高まりと共に支配者への抵抗の象徴と見なされるようになった。 |
チェコ | ヴァーツラフ1世(907-935) | ボヘミア公。敬虔な信徒として、チェコのキリスト教化を積極的に推し進め、また神聖ローマ帝国に臣従して外圧を緩和した。キリスト教に反対する貴族たちによって暗殺されたが、その死の前後にさまざまな奇跡が起こったという。 |
ハンガリー | マーチャーシュ一世 | 反オスマンの英雄フニャディ・ヤーノシュの息子。ハンガリー王に選出されると、領土としては最大版図を、文化としてはルネサンスをもたらし、ハンガリーの最盛期を築き上げた。水戸黄門のような廻国漫遊譚があるらしい。 |
ポーランド | ヤン三世ソビエスキ(1629-1696) | 若い頃から各地で戦功を重ね、国民的人気を得たことで自由選挙によって王に選出された。オーストリアの首都ウィーンを包囲していたオスマン帝国の大軍を、かの有翼重装騎兵フサリア3000騎の中央突破によってさんざんに打ち破り、ヨーロッパの守護者として大きな名声を得た。 |
オランダ | ウィレム一世(1533-1584) | オラニエ公。ハプスブルク家の支配下にあったオランダの貴族だったが、カトリックへの強制改宗に反発して起きた独立戦争においてその反乱の中心となる。「海乞食」と呼ばれる船団を率いて港湾都市をゲリラ的に襲って勢力を拡大、事実上の独立を果たしたものの、戦争が続くなかで暗殺された。 |
ベルギー | アンビオリクス(?-?) | ガリアに住むベルガエ人の一部族、エブロネス族の王。「アドゥアトゥカの戦い」において、カエサルの麾下にあったローマの一個軍団を、谷に誘い込んで殲滅した。カエサルにとってはガリア戦争における最大の痛手となり、その後の反撃でエブロネス族の土地を占領したものの、とうとうアンビオリクスを捕らえることはできなかった。ウェルキンゲトリクスと似た扱いで、ガリアの自由を求めた英雄とされる。 |
ルクセンブルク | ヨハン盲目王(1296-1346) | ボヘミア王およびルクセンブルク伯。晩年には病を得て盲目になりながら、百年戦争の激戦「クレシーの戦い」に参戦して壮絶な討ち死にを遂げた。ルクセンブルクでは国を発展させた名君として評価が高いが、チェコでは戦争ばかりで領地に戻ってこなかった王として人気がないという。 |
ドイツ | ビスマルク(1815-1898) | プロイセン王国首相。普墺戦争・普仏戦争に勝利してドイツを統一し、外交でもフランスを封じ込めて欧州の均衡を保った。その豪腕ぶりから「鉄血宰相」の異名を取る。他の候補はオットー大帝、バルバロッサ、フリードリヒ大王あたりか。 |
フランス | ナポレオン・ボナパルト(1769-1821) | 言わずと知れたフランス皇帝。他の候補はカール大帝、ジャンヌ・ダルク、ド・ゴールあたりか。ちなみにカール大帝はドイツでも人気だけど出生地はベルギーが最有力らしい。 |
スペイン | エル・シッド(1045-1099) | 本名はロドリゴ・ディアス。通称はアラビア語の「アル・サイイド」に由来する。カスティーリャ王国のアルフォンソ6世のもと数々の戦いで活躍し、王によって追放されたあともバレンシアを征服するなど、レコンキスタの英雄として勇名を馳せた。後に叙事詩に歌われた。 |
ポルトガル | アフォンソ1世(1109-1185) | 初代ポルトガル王。伝説的な「オーリッケの戦い」でムラービト朝の大軍を寡兵で撃破し名声を得た。主君筋であるカスティーリャ王国と対立した後、和解して独立した。イベリア半島のイスラム勢力と戦いながら領土を広げ、リスボンまで占領した。 |
イタリア | ジュゼッペ・ガリバルディ(1807-1882) | 南米でウルグアイの「大戦争」に参加し、そこでゲリラ戦術を身につけた。オーストリアの支配のもと、統一の機運が高まるイタリアにおいて「赤シャツ隊」と呼ばれる義勇軍を結成、シチリアと南イタリアを占領すると、そのままサルデーニャ王国に献上。イタリア統一に大きく貢献した。その後も何度か軍を率いて決起しつつも、政治にはほとんど関わらないまま隠遁生活を送った。 |
騒動からしばらく経ってずっと落ち込んでいたけど少し落ち着いてきた。色々考えた結果避けるよりむしろ積極的に見たり聴いたりした方が精神衛生上良いなってことに気づいたので大好きなCan you guess what?を久しぶりに聴いている。配信されてから数ヶ月間ほとんど毎日聴いていたから5日も聴かなかったのは初めてかもしれない。明日はみほとせ見て、らぶフェス配信始まったららぶフェスも見る。一人でいることを望んでいるのに独りになりきれず、別れを悲しいと思える優しい心を弱さと捉え葛藤する、どの大倶利伽羅よりも人間臭いミュ大倶利伽羅が私は好きだ。私は財木くん個人とミュ大倶利伽羅を切り離して考えている節があるのでそういう芸当が出来るのかもしれない。人それぞれ好きな方法で、複雑な感情を癒していったらいいんじゃないかなと思う。
先に言うと、私は去年7月下旬に突然みほとせ配信を購入・視聴しミュ大倶利伽羅と財木くんにハマった。配信を既に買っているのに改めてみほとせDVDを買い直し、シングルもアルバムも買った。それまで2.5次元には全く興味なかったどころか正直苦手だったし、舞台俳優にも何の関心も無かったので自分の中ではかなり大きな出来事だったと思う。2.5次元という世界にも、舞台俳優という世界にも今でもそこまで詳しくはない。らぶフェスは2日参戦したけど、それ以外の財木くんの出演する舞台もバスツアーなどのファンイベントにも参加していない。あ、水戸黄門は見た。あの手の時代劇を見たことがなかったのでまた世界が広がりました。そういう感じで本当に自分のペースで大倶利伽羅と財木くんのファンをしている。知識も経験もまだまだなことはわかっているので舞台俳優のファンとしてかくあるべしみたいな啓蒙的なことを言うつもりもなければ、様々な情報・憶測を駆使してこの騒動を考察するつもりもない。ただただ、自分の中に渦巻いている複雑な感情を文字化することで整理したい。そして、そんな風に複雑な気持ちを抱えているけどなかなか言葉に出来なくてモヤモヤしている人の一助になればいいと思う。ということで割と矛盾したことも言う気がする。
1つ目は財木くんの自己管理能力の低さに対する呆れ。2つ目は大倶利伽羅役を降板したらどうしようという恐怖。3つ目は嵌められているという憶測についての漠然とした恐怖。
他のファンの方もおっしゃっているように決して彼女がいることに対して憤っているわけではない。好きな俳優さんに彼女がいたって結婚していたって子どもがいたって構わない。むしろ本人の精神的拠り所がしっかりあることに安心するくらいだ。
ただ、財木くんの場合はバスツアーの中身でもわかるように一人一人のファンにとっての理想の彼氏みたいな売り方をしている。そういう夢を売っている。SNSやブログなどもその夢を補完するコンテンツ、一種の作られたプライベートに過ぎない。
そして、財木くんが自分の彼氏っていうことが夢だってこと、作られた嘘だってことは誰だってわかっている。でも、その夢を見ることがファンの明日への活力に繋がる、本当に大切な夢でもある。だからこそ、その夢は完璧なものじゃないといけなかった。少しでも綻びがあったら夢は簡単に壊れてしまうのだから。演技を生業とするなら尚更ファン一人一人にとっての彼氏という役を演じきって欲しかった。本当のプライベートはどうだっていい。こちらに見せないようにさえしてくれれば。今回はそれを見せられてしまったからこそ失望しているのだ。もしかしたら誰かに流出されてしまったのかもしれないけれど、そういう隙を作ってしまったのは他ならぬ彼自身である。それは弁明しようもないものだ。
つまるところ、この騒動は彼の演技の失敗ともいえる。ファンに見せる夢を壊してしまった=演じきれなかった、という事実は他の演技に対する疑念にも繋がる。あの役、本当に真剣に演じてくれたの?自分が実際に見て良いと思っていたものを疑うことになるかもしれない。それはとても苦しい。
責任を取って降板しろ、と思っている人も多いと思うし、もしミュージカル刀剣乱舞として降板という対処をしても恨むつもりはない。こういうコンテンツはイメージが最重要だ。だからこそ、ミュージカル刀剣乱舞というブランドを守るためには正しい対応だろう。頭ではわかっている。頭では。
やはり、財木くんのやる大倶利伽羅が大好き。これに尽きると思う。この感情に理由も何もないからこそなかなか割り切れないものがある。
かといって、財木くんのツイートのリプに「カノバレなんて気にしないでください!私は応援しますから!」などと無責任な発言をする人間はファンではない。それはあまりにも無能さをひけらかしているのではないか、と思っている。
ファンは俳優を支える存在であるが、決してを甘やかす存在であってはいけない。その甘やかしは間違いなく俳優の破滅に繋がるからだ。
私はファンは俳優を育てる存在だと思っている。だからこそ、ダメなことをしたらダメだと言わなければならない。もちろん、財木くんに見切りをつけてファンをやめることも間違いではない。誰かのファンでいることに何の拘束力もないのだから。ただ、まだ財木くん微力でも可能性を感じなんとかしたいと思うなら尚更無責任に「カノバレ気にしないでください!私は応援します!」などと言ってはならない。
また、ファンも周りから見られていることも忘れてはいけない。財木くんの存在以上に財木くんのファンが今見られている時期だと思う。無責任な発言をすればするほど、財木くんも財木くんならそのファンもファンよね、とバカにされかねない。(実際もうバカにされているかもしれない)それで果たしていいのだろうか。少なくとも私は外野に財木くんも、私よりも財木くんを応援しているファンの方々もバカにするような言葉を見かけて勝手にボロボロに傷ついている。
タイミング的にこれは嵌められたんじゃないかとかインスタのアカウントがどうとか憶測が飛び交っている。私自身そこまで賢くないのでこれについては正直よくわからないし、はっきりとしたことが明らかになることもないんじゃないかと思っている。ただ、もしかしたら若い芽を摘もうとする人間が少なからずいて、機会を伺っているのかと思うと漠然とした怖さがある。他の俳優でもこういうことが起こったらどうしよう。これは舞台(特に2.5次元)という全体的なコンテンツの衰退を引き起こしたりはしないだろうか。ぼんやりとそんなことを考えてしまう。
これについては俳優自身がそういう隙を見せないよう気をつけるのと、ファンが安易に情報・デマに流されないようにするしかない気がする。そろそろ頭が回らなくなってきた。
これからどうするのかと問われても私は何が何でも財木くんを応援します!という訳でもなければ、今日限りで財木くんのファンを辞めますと宣言をするほど強い心もない。様子見をしつつ、みほとせを見たり、聴いたり、らぶフェスの配信を見ながらゆっくりと時間あるかけて自分の気持ちと向き合っていきたいと思っている。
漫画回に関しては吾妻ひでおとかが暴れてた頃から酷いもんだったからまあしょうがないにしても、アニメの方がここまでロリコンになるとは思ってなかったよ。
まあ結局は深夜アニメって枠が出来たせいなんだろうな。
衛星放送ってのも良くなかった。
あっちこそまさに何でもありだ。
おっぱいボインボインのちゃんねーが風呂入ってるのをテレビで放映しちゃ駄目っていうなら水戸黄門だって放送しちゃ駄目だかんな。
でもツルペタ(これももう死語かねえ)が風呂入ってるのをお色気シーンとして映すアニメがこうも多いのはどうも座りが悪いね。
全体の5%ぐらいがそうなら別にいいんだが、今はロリコンアニメの割合がだいぶ増えてる。
こりゃよくねえよ。
何がよくねえのか上手く言えねえけど何か不健全だ。
LGBTの連中はどうにも凶暴でよくねえよ。
敵に回したくねえ。
つうわけで今日はこのへんで終わりだ。
放っておいてくれ、と最近よく思う。
細かく言うなら、よく知りもしないし、知る気もないことに口を出すぐらいなら、いくら怒ろうと悲しもうと、放っておいてくれ。
私は宮城県南部に住んでいた。内陸部だ。仙台に行くより福島に行く方が近かった。
原発事故における福島県内部と県外の被害のあり方はすこし違うように思える。
福島県内部は県内に原発を抱えていたから、影響は当然大きく、放射性物質は「あるもの」として対策を打つところから始まった。
県外は違う。まず影響があるかないかは政治が決める。見て見ぬ振りをするか、対策をするかだ。私の住んでいた地域は農村部だった。放射性物質なんて、農作物の商品価値にとっては致命的だ。
みんな、と書いた。
それは違う。価値観が違う。
たしかに農作物のために、騒ぎ立てたくない人が圧倒的多数だった。
しかし、安全性をウリにしていた農家や、小さい子供を抱える母親は違った。
家庭内で、職場で、自治会で、農協で、学校で、放射能に対するスタンスの違いは、深刻な対立を生んだ。
事故当初の線量は、小学校の砂の校庭で地上1.5mで約0.8μsv/hくらいだったと記憶している。これは5月頃のことだから、ヨウ素よりもセシウムの影響のほうが大きかったはずだ。畑や競技場はもう少し高かった。
でも当時は、除染基準はもっと高く、そして政府もただちに影響はないとしか言わなかった。
みんな葛藤があったと思う。
生計を立てるべく売りたい農作物、保証されない安全、内部被曝と外部被曝の複合的な影響は?この山菜は食べていいのか?自分たちの今までの生活はどこへ行ったのか?この川魚を孫に食わせていいのか?
それでも地域住民の大多数は「風評被害」を生まないために沈黙を守るべきだとした。
知ろうともしない人は、当事者意識すら持たなかった。
でもそうではない人もいた。
近所の人に、本当の理由を告げられぬまま、私たちは引っ越した。自主避難だった。
あれからもうすぐ6年が経つ。
勘違いがないように言っておくが、もうおおよその農作物は安全だ。
放射性物質もほとんど検出されていない(きのこや山菜はまだ基準値以上のものが出たりする。まれに)。
あのとき近所に住んでいた人たちがガンになったとか、そんな話も、幸い耳には届いていない。
けれど、あの時の私たちの判断を、誰が責められるというのだろう。
6年。
その間にいろいろな言説を目にした。
ただ今、どうしても気になるのは、こういう地元の葛藤を一切意に介さず、遠くの安全圏から声高にそして意気揚々と、口汚く意見してくる声だ。
ふざけるな。ふざけるなよ。
それでもあの当時、何も信頼できるものがないあの状況で、我々がした判断は間違っていたか?
結果論じゃないのか?
線量の落ち着いてきた今ならまだわかる。
けれど事故当時にすら、放射脳と、呼んではばからない奴はいた。そこらじゅうに。
あなた方は、私たち当事者の、その中の多数派意見に味方し、少数派を徹底的に叩きのめす。
それで正義のつもりになってるんだ。
あなた方は、私たち当事者が抱えざるを得なかった葛藤を知らないし、知ろうともしない。
下手をすると、放射線の影響や、過去の事例、現場がどれくらいの線量なのか、それすら知らずに、声が大きい当事者たちの味方をして気持ちよくなっている。
それなら何も言わないでいてくれ。
頼むから。
地域共同体としての我々は、意見対立からズタズタに引き裂かれてしまった。
もしあなたたちがここに来て、本腰を据え、じっくりこの問題に取り組み、当事者の1人になってくれるなら、いくらでも意見を聞こう。
でも、そうじゃなかった。
非難の声はだいたい的外れだった。放射脳と叫ぶ声だけでなく、危険だ危険だと叫ぶ声もそうだった。何も知らないんだろうな、と思った。
これは一例だ。
そしてその無責任で乱暴な声は、落ち着くどころかどんどん声高になっているようにすら思う。
「辺境」に押し付けなければならない問題を扱うとき、安全圏からモノを言うのはやめてくれ。
沖縄の基地問題、反対派の抗議活動に、「県外の人間の仕業。地元民はみんな賛成しているのに、邪魔」とか、賛成派のインタビューに、「政権側の印象操作。反対派が大多数だ」とか、見ていてものすごく苦しくなる。
どちらもいるに決まってる。
そしてどちらが多数派だからと言って、少数派を徹底的に叩いて排撃していい理由にはならないのだ。
再稼働問題もそうだ。「どうして対岸の都市が口出しをするんだ」とか、「援助金をもらっているから文句は言えない」とかもうやめてくれよ。
そもそも援助金がもらえる自治体だけがリスクを負えばいいかもしれないが現実そうじゃなかった。
放射性物質は自治体の境界を越え風に乗り山に飛びそして海にも拡散されてゆくと、知らないのだろうか。
知らないだろうな。
口出しするなら、せめて当事者意識を持ってくれ。
我々の葛藤を意にかけてくれ。
少数派だからといって口汚く罵るのはもうやめてくれ。
この世界は水戸黄門ではない。善悪二元論は成立していないのだ。
残念ながら。
水戸黄門や西遊記も個性のある仲間が、得意を活かして旅を続けて目標を果たすって古典的な手法のストーリー構成のコンセプトなんだろうな。
アラフォー過ぎた自分の中では、西遊記はテレビドラマの夏目雅子三蔵法師の話ぐらいなんだけど。
今だと、パーティーを組んで、悪の魔王を倒すってRPGゲームに受け継がれていたりする。
ゴールデンカムイとか今売れてる漫画なんかも、元々のそういう王道を踏襲しているかなって思った。
グルメ要素が多くて。お色気要素が、青年誌の割に少ないけれど。
キングダムとか、最近の青年漫画って、コスプレ要素はあってもエロ要素って、江川達也が活躍した時代比べると棲み分けが進んでいるのかAVが過激になっているせいか、ほどほどの感じで。そんなに恋愛要素がなくても男向けの話って成り立ってしまうんだなって。
公共事業をバラマキとレッテル貼るのも、割とポピュリズムの態度だなとは思うんだけどね。
分かりやすいキャッチーな言葉で一発でひっくり返そうとするのではなく、ポピュリズムで回る世の中は無いってこと、
水戸黄門や遠山の金さんが現れて、はいお前悪者~って解決してくれるわけではないと、実感させるしかないと思うんだけどね。
例えば、「BI導入って楽しみだね」とか言われたら、財源や法整備上の不安材料を上げる、具体的な生活上の変化に落とし込んで想像させる
「バリバリ働いている人への評価や見返りが相対低下するから社会活力が低下しないか心配だよね」とか、いちいち長々と、
リスクとか導入への障壁とかを淡々とマジレスしていく方が、凄い遠回りではあるけど、個人的には好みだし成熟していくためには必要なプロセスだと思う。
キャッチーにキャッチーで返しても、ポピュリズムな社会風潮自体は、むしろ悪化するだけでしょう。どの笛吹き男に付いていくかの違いだけになってしまう。
いつのまにか平成ジャンプがやまだりょうすけ以外のやつがセンターになってた
今度映画に出るやつ
キムタク身長低いっつうけどむしろ慎重高いジャニーズのほうがレアで基本ジャニーズって身長弾くいイメージあるから
時雄といえば今朝の死ぬbんにあのオールバックの天国に一番近い男最米トラーああ松岡が遠山の金さんやるって載ってたわ
しかし花吹雪みせてる肩がひょろひょろでちょっとがっかりんこしたわ
でもいれうみのどこが偉いんだっ通関時はするわなあ
とおやまのきんさんも水戸黄門も見たことないけど何が偉いんだろうってのはあるなあ
ああ鉈で隣人家族を傷つけたってのがニュースになってたなめっちゃこわいね隣人トラブル
死人でたらほんとやばかったよなあ
今朝のののちゃんはののちゃんが鞄をママのと間違えてもってきてて絵具を財布で買おうとしたところを汗だくではしってきた母親にすぱーんってつっこまれるってやつだった
ようやくな通夜さ海の宿題おわって自分の心も空も青空みたいな話だった
うーん衆院解散ねえ・・
特に、40年以上放映され、今なお毎日再放送されている「水戸黄門」は、その代表格である。
今回はそのストーリーがいかに非民主主義的、非現代的であるかを検証する。
水戸黄門の主人公である水戸光圀の一行は、「越後のちりめん問屋」と身分を詐称し諸国を漫遊しているが、その先々では必ず商人の不当な物価の値上げや、代官の課す重税に庶民が苦しめられている。それを聞いた一行が、屋根裏に潜入し、また色気を使って捜査し証拠をとる。そうして悪事を暴いた「越後のちりめん問屋」は、悪事を起こした者の怒りを買い、刀を交えることになる。最大の見どころであるチャンバラシーンのあと、権威の象徴である「印籠」を見せつけることで、「先の副将軍」である自身の正体を明かす。それを見た者はみな平伏し、悪事を働いた者は自分の過失を認め、登場した藩の者がその身柄を拘束する。最後は一件落着と一笑しまた旅を続ける、というのがストーリーの梗概である。
この作品には
という世界観が透けて見える。これについて持論を述べる。
まず、「権力者の悪は更に上の権力者にしか裁けない」という点について述べる。
本作の世界では、いつ来るかわからないような、国家から派遣された、さらに上の権力者にしか悪を懲らしめられないことになっている。水戸光圀はその土地の者でなく、また問題が解決した後は旅を続けてしまうため、対処療法的な解決しか行えない。地方にも自浄能力がなく、一回水戸光圀に問題を解決したあと、また同じような悪事や不正が起き続ける。地方はそれを解決する術を持たないため、水戸光圀が来るのを待っているだけである。住民の当事者意識と民主主義の原理が欠落した「他人任せ」の政治は、今日の日本の政治に通底するものがある。
また、ある放送では、朝廷の中納言の悪事を裁いた際、「私は徳川の家来ではないので従わない」と反発したが、更に上の役職である左大臣が登場し裁いたという回もあり、「権力者の悪は更に上の権力者にしか裁けない」という世界観をより強固なものにしている。
次に、「庶民は無力で虐げられる存在である」という点について述べる。
水戸光圀が「越後のちりめん問屋」と詐称しているにもかかわらず、庶民からは色々な苦情が持ちかけられる。旅する隠居にまで相談しなければならないほど、それほどまでに事態が悪化してしまっていることがわかる。作中ではこのように圧政や不正に苦しめられる庶民の姿がよく描写されるが、反対に実力行使に出ようとする庶民を水戸光圀が宥める場面は皆無である。先述した住民の他人任せの意識がここでも顕在化している。
欧州の市民革命においては、圧政に苦しんだ市民の流血によって民主主義が獲得されたが、日本においては明治以降の主権者の変更は市民革命ではなく、支配者同士の権力争いの結果に過ぎない。このように市民自らが流血し民主主義を獲得した経験がないことが、権力者任せの日本人の気質を形成しているのではないか。
そして、「権力者はどんな手段を用いても許される」という点について述べる。
苦情を持ち掛けられた水戸光圀の一行は、全員が証拠の裏付けのために捜査を行うことになる。しかし、その捜査方法も卑劣である。「越後のちりめん問屋」と身分を詐称した捜査は、当然警察権を保持する藩の奉行所の許可を得ていない。令状なしに現場や物的証拠を取り押さえるという、現在の「法の支配の原理」からはかけ離れたものであるが、作中では身分詐称や私人の警察権行使について議論されることは一切ない。奉行所は水戸光圀の一行のおかげで吐かされた自白を聞いた後に、身柄を連行するだけという、警察組織の体をなしていないものであるが、水戸光圀がこれを一喝するシーンもない。
なお、作中で水戸光圀は「先の副将軍」と自称しているが、居候の身であるはずの前任者が悪を裁くことについての是非も議論されていない。これは現在においても、我が国では一線を退いた者が強大な発言力を持ち続ける事例が、政財界ともに存在している。
「法の支配の原理」「地方自治の原理」「民主主義の原理」すべてが欠落したこのストーリーを、多くの高齢者が再放送を毎日視聴し続けている。これでは、日本の政治に対する認識を歪めるものであり、健全な民主主義国家としての市民意識が育たないことは当然である。