はてなキーワード: 教義とは
例の、死に瀕した少女と無神論者(?)のピエロのあれを読んでから、考えている
“優しい嘘”が許容される条件は何だろうか
① 後でそれが嘘だったとばれる事がない
② その嘘によって相手にマイナスのことが起きたり、選択肢を奪ったりしない
たとえば癌患者に、謎の水を万能薬のように言って渡すことは、結局治らなくて後で①に反するようになるし
その上もし病院での治療を妨げるような言葉もついていたら、②にも反するからダメ
(ただし、実は患者本人が薄々事実に気づいていながら、それでも安寧のために謎水を求めるような場合はあって、そういうケースでは完全否定はしがたい)
サンタがいるという嘘も、①に反するので個人的にはナシなのだが、
あれはあまりにも普及しすぎて一種の通過儀礼みたいになっており、嘘がばれた後のフォロー体制がそれなりに世の中で出来上がっているとも感じる
で、死に行く子供の話だ
この場合、あの世が本当は存在せず、死んだら意識が消えるだけと思っている者にとっては、迷う余地はほとんどない
だが、あの世が実在すると信じていたら? 適当なことを言ったら死後に嘘だとばれて、①に反することになるのではないか?
さらに加えて、間違ったあの世像を信じたら地獄に落ちる、というような教義を信じていたら? 嘘を教えるのは②にも反する
つまり、神や死後の世界を心から信じる者にとっては、死に瀕した子供と言えども(自らの信じる)本当のことを伝えるのが、最も親切ということになるのかもしれない
私は生まれたときから母に連れられて王国会館や奉仕、大会へ出席していましたが、中学生でフェードアウトした元2世信者です。
所属していた会衆(地域ごとに集会をするJWのまとまり)の長老は、フランクながらも模範的な親権家族(家族全員がエホバの証人である家庭)で、よく成員に声を掛けて励ましていました。
長老は趣味のレジャーを楽しみながら、生活のための仕事をして奉仕や集会ではよく牧羊の活動をしている、理想的なバランスでやっていて、抑圧的でない方が務めていました。
大会ではストイックさが非常に要求される内容の話が多い中、締め付けはゆるいように感じました。
このためか、会衆の雰囲気も集会の前後の交わりで気さくに世間話をし合ったりよかったと思います。
集会の内容は子供が理解するには大変で、時間も長いため集中することなど不可能で辛かったですが、
当時バプテスマを受けていない伝道者(大会で洗礼を受けずに集会や自発的に奉仕活動に出席する立場)として活動していた私は、
奉仕に行くのはいろんな兄弟と話す機会として楽しくやっていました。校区内で知り合いに会うのは本当に嫌でしたが。
私は、エホバの証人の教義自体は信じても信じていなくもなく、特に興味はありませんでしたが、コミュニティとして居心地がよかったのでやめずに続けているという状態でした。
生まれたときからずっと一緒にいる仲間でしたから。成員に恵まれた会衆の方はこのような方もおられることでしょう。
ただ、中学生だった若い私は、集会や奉仕に費やす時間を惜しむようになりました。
勉強をしたり遊んだり…(ほぼ余暇は遊んでいましたが)その中でエホバの証人としての活動をする時間が惜しくなっていました。
もともと、集会の内容は意味不明で、個人研究(集会内ではなく自宅でJWについての勉強をすること)の頻度を兄弟に尋ねられたときも虚偽申告をしていました。
学校の勉強もありますが、学校を帰った後には結構時間があるので聖書通読の範囲と書籍研究の範囲を時間を取ってやっていますなどと答えていましたが、毎週0時間でした。
奉仕は毎週行っていましたので、奉仕報告(奉仕活動の時間や出版物の配布数を提出する)はそこそこのものを出していたと思います。
しかし、奉仕についても表紙しか読んでいないものみの塔や目覚めよ誌を「今回こんなテーマで書かれた雑誌をお渡ししていますー。よかったらあとでお読みになってくださいー」
なんてバラまいていました。子供なのでよく受け取ってもらえるので、いくつか再訪問先もありました。今思うと、家の人も子供相手に断りづらかっただけなんでしょうけども。
ある時、会衆では模範的な伝道者と見えるように行動しながら、外では世(非信者や俗世間のこと)の友達と遊んだり、普通に過ごしているし、信じていない内容を述べ告げ、
読んでもいない雑誌をおすすめするのもどうかな。これはダブルスタンダードというものだよな。と思いはじめて、奉仕に行く機会を減らしました。
土日どちらも出ていたのを、土曜日だけにしたり、今週はお休みにしたりとだんだんと。その後、テスト期間中で忙しい、あるいは体調不良を理由で集会も休む機会を増やしました。
はじめは、仲間をこれまで欺いていたことが明るみに出ていくことが怖くて、母親が集会や奉仕に出かけた後泣いたりもしました。
案の定牧羊訪問(長老が励ましにくる活動)を受けたりしましたが、はい、はいといつもどおりの愛想で返事だけしていました。やがて、完全にブッチするに至りました。
高校に進学した後も時折兄弟姉妹が顔を見せに家にやってきたり、家に置いてある出版物を見るのが嫌で、大学は県外に進学しました。それからは実家を離れて一人暮らしをしています。
会衆を離れてから、いろいろ調べていると、どうもバプテスマを受けたエホバの証人がこのように不活発になって組織を離れると、
場合によっては背教者とみなされて、家族であっても忌避すべき対象となってしまうそうです。
私はそこまで深く考えていませんでしたが、バプテスマを受けていない伝道者というちょうどいいポジションでお茶を濁していたということでしょう。
もし嫌々ながら集会や奉仕に通っていながら、ダブルスタンダードに苦しんでいる方がおられるなら、
ぜひバプテスマを受ける前に離れることをおすすめします。そうすれば、親とは断絶することなくただの子と親の関係、いたって普通の関係は続くことでしょう。
親は一緒に楽園に行けないなんて!これまでやってきたことはすべて無駄になる!
なんて言って泣くかもしれません。でもあなたも信じていないなら、いずれにせよ楽園に行くことはできないと分かっているじゃありませんか。
これは私の考えですが、私は永遠に生きたくはありません。
世の娯楽を楽しみ、世が作ったもので商売をしています。(もちろん、犯罪などではなくまっとうな、JWの方も使っているものやサービスを提供しています。)
この生活が幸せですし、一日一日を大切に過ごして、最後は死にたいと思います。
もちろん、永遠に会衆の成員や家族と幸せに過ごしたいと思えば、それはあなたが教義に賛同しているのですから続ければいいと思います。
「受けるより与えるほうが幸福である」だとか、「隣人を愛しなさい」だとか。
聖書を字義通り解釈して、これら聖書の原則を大切にして過ごしておられるJWの方は、普通にいい人としてこの世に幸せをもたらしてくれることでしょう。
安心してちょうだい元増田ちゃん。あなたは死ななくていいわ。誤解なのよ。
あなたがどういう道筋でその“正しいヴィーガン”にたどり着いたのかはわからないけれど、私の知る範囲で(倫理的)ヴィーガンの主張のなかにその結論を肯定するものは無いわ。早まらないで。
功利主義に基づく倫理的ヴィーガンの観点から、あなたの誤解についてお答えするわ。
功利主義的には「苦痛の総量を減らす、または苦痛と快楽の収支がプラス(快楽が苦痛を上回る)になる」のが倫理的に良いことなのね。最大多数の最大幸福。
細かく言えば「苦痛と快楽」とは別の指標を用いた功利主義もあるけれど、動物倫理の場合はもっぱらこれ。
したがって、畜産において“飼育、屠殺による動物の苦痛”が、人類の得る利益(快楽または苦痛の低減)を上回る場合、“畜肉を食すべきではない”と判断できるわ。
逆に、動物の苦痛が人類の利益に比して十分に小さい場合、それは倫理的に許容されうるわ。
同上
ただし、たまごや乳製品はそれ自身が苦痛を感じる能力を持たないため、畜肉と比べると倫理的ハードルは低いわ。
例えばジャイナ教は非暴力が重要な教義の一つなので必然的に菜食主義だけれど、苦痛を与えずに絞った乳は飲むわ(ラクト・ベジタリアン)。
同上
衣料品の場合、動物を苦しめずに済む代替品が豊富にあるならば、あえて動物性の衣服を着るのは倫理的に肯定しがたいわね。
医薬品の場合、主に動物実験に関する問題ね。この領域は動物倫理的にかなりホットよ。
功利主義的な動物倫理においては、動物実験は必ずしも否定されないのよね。まあ論者にもよるけど。
動物実験における動物の苦痛と、完成した医薬品による人間の苦痛の低減。これの比較で後者が十分に大きければ正当化され得るってわけ。
もたらされる苦痛や死が“意思に反して”いるかどうかは、功利主義的には必ずしも重要ではないわ。
“意思に反”することで、苦痛がより増えるのであれば考慮に値するといった程度かしら。
例えば、糧を得る唯一の方法が狩猟であり、それをしなければ(人が)死んでしまう場合、狩猟による動物の殺害は倫理的に正当化され得るわ。
植物は(少なくとも痛みが神経系によって発生するという生物学的知見を踏まえれば)苦痛を感じないため、功利主義的には道徳的考慮の対象ではないのよ。
ちなみに、倫理的な考慮の対象となる立場を「道徳的地位(Moral standing)」と言うわ。
「何が道徳的地位を持つのか」というテーマは分野や論者によって異なっているわ。功利主義の場合、「苦痛を感じる能力を持つ」ことが道徳的地位を持つ条件ね。
厳密に言えば動物でも苦痛を感じない、例えば海綿動物(きわめて原始的な動物群。神経を持たない)、も功利主義的には道徳的地位を持たないと言えるのね。
また、道徳的地位は持つ/持たないの2択ではなく、強弱も存在しているわ。功利主義なら苦痛を感じる能力の程度ね。
例えばエビ1匹を殺すより、ヒト1人を殺した方が倫理的に悪いと判断できるわけ。
これは個々の人間にも適用でき、健常な成人を殺すより新生児や重度の知的障碍者を殺す方が倫理的に悪くない(もちろん両方悪いが、比較すればそうなる)。
功利主義者がリベラリスト(の一部)、特に障碍者支援者などから嫌われるのことが多いはこれが理由ね。
同上
命を奪うかどうかにこだわってるようだけれど、功利主義的に重要なのは苦痛よ。死は苦痛の一形態たり得る資格を持つというだけ。
自然破壊につながる水道水やミネラルウォーターを飲むべきではない わかる
んー?ここら辺は倫理的ヴィーガンよりも環境主義的ヴィーガンの主張に似てるかしら。
でも環境主義的ヴィーガンの場合、畜産や養殖(の一部)による環境負荷を語ることが多いから、ヴィーガンの主張としてはあまり見ないわねこれ。
水資源の利用による環境破壊はあるにせよ、この書き方だと曖昧過ぎるのよねえ。元増田ちゃんもうちょっと具体的にお願い。
なお、功利主義的に答えるなら、その営為で発生する苦痛が人間の快楽(または苦痛の低減)を上回らない限りOKってことになるわ。
地球温暖化に寄与している二酸化炭素は化石燃料などの地下資源由来で、地上で吸って吐いてした分はほぼ無関係よ。
陸上の炭素循環は(長期的に見れば)収支が釣り合っていたのだけれど、地下に封印されていた(炭素循環の外側にいた)分の炭素が放出されたことで、プラスに傾いちゃったわけ。
家計で言うなら年収200万円(手取り)で年間支出が200万のご家庭に、月々1万円の副収入が加わって年12万円の余裕ができましたって話よ。呼吸は年収に含まれ、支出は炭素固定(主として光合成による)で、化石燃料が副収入。
ちなみに、畜産による温室効果ガス放出(主としてメタン)への寄与はけっこうな割合(確かCO2換算で全体の約14~18%くらい)。あなたが牛ならゲップをやめるのは倫理的かもしれない。
全部わかる
あら?もしかして徳倫理学の方だった?功利主義は結果主義の一分野なので“気持ち”なんてほとんど関係ないもの。
徳倫理主義は、雑に言うと「動機が善ならば善」というもので、良かれと思ってやれば善であるっていう素朴な倫理なのよね。
最近は見直しが進んでるって話だけど、あまり勉強してないから詳しくないのよ。この分野。
呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る者は悪魔だ
みんな死のう
死なない者は悪魔だ
功利主義からはまず導かれない結論なので、やっぱり徳倫理主義なのかしら。
でも、良かれと思って“呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る”なら、徳倫理主義的には善なのよね。
ここまでは功利主義の観点から答えてきたけれど、やっぱり本人の倫理的観点も考慮しなきゃ片手落ちよね。
でも困った。元増田ちゃんがどんな倫理的基盤でヴィーガンになったのか、わからないわ。
最初の方の考えは倫理的ヴィーガンに対するよくある誤解またはジャイナ教当たりの非暴力主義とPlant thoを混ぜこぜにした感じ。中盤は環境主義っぽいけど問題視する部分がズレてるし不明瞭、後半はさっきも言ったけど徳倫理学っぽいけどなんか違う。
うーん、ネットからいろんな主張(誤解や曲解を含む)を集めてきてパッチワークした感じなのかしら。
ヴィーガンへのバッシング目的で書かれたなら「藁人形乙」で済むけれど、真剣に悩んでいるなら誠意ある回答が必要よねえ。
けっきょく“正しいヴィーガン”が何なのかはわからなかったけど、変な結論から脱却するための私的おすすめ方法を3つほど挙げてみたわ。
良ければ死ぬ前に試してみてちょうだい。チャオ!
辛いならヴィーガンなんてやめちゃっていいと思うの。割に合わないわ。もし心苦しいなら減肉食主義(Reducetarian)くらいから始めてみたら?
私も環境主義的観点(スパイスとして功利主義も一振り)からSemi-vegetarianやってるけど、あまり縛り無いから楽よ?
ヴィーガンからは偽善だなんだ言われるかもしれないけど、まあいいじゃない。自分が納得すればいいのよ。
(2) 勉強する
ヴィーガンやるなとは言わないけれど、何かしらの倫理的または論理的支柱がないと厳しいと思うの。
元増田ちゃんの考えを見るに、あまり一貫した基盤を持っていなさそうだし、環境問題についても詳しくなさそう。体系立てて学ばないと混乱して変な結論にたどり着いちゃうものよ。
いろんな視点、論者ごとに調べてみて、自分に合う立場のものを探してみるといいわ。まずは模倣からよ。
おすすめはピーター・シンガー。「すごいなあ。ぼくにはとてもできない」ってなるわ。
(3) 食生活的ヴィーガン(Dietary vegan)になっちゃう
食事だけヴィーガン。健康目的が多い。一番気楽なタイプのヴィーガン。動物倫理とかうっちゃってる(またはつまみ食い)。毛皮のコートも着ちゃうかも。時たまニセ科学に両足突っ込んでるから注意。
やめたいときにやめられるし、始めたいときに始められる。亜種として一時的ヴィーガン(Part-time vegan)なんかもあるわ。
「ちょっと一週間くらいヴィーガンになるかー」とかできちゃう。「それヴィーガンなの?」という気持ちに蓋ができるならおすすめ。
例として挙げられている権利は、対象が人間だから認められた。権利を規定している人間社会においては、人間同士は対等だという考えが根底にあるから。他の動物はその範疇ではない。
でも形式的には差別だよね?" その通りだと思うよ。そして、この主張に対して感情的な批判が殺到しているところに差別の根深さがあると思う。
ヴィーガニズムとかいうクソカルト(無能な自分から目をそらすために他人の罪を捏造してくれる教義)に賛同してるの、見事なまでにはてサはてフェミばっかで笑えて来るんだよな。お前のお気持ちは法でもなんでもないぞ
差別であることすら認められない傲慢な差別主義者が「ポリコレ推進側」だってんだからお笑い種だわ。そのノリで全世界自分好みに線引きするつもりか?
「権利運動とは「その社会で認められていない、ある属性のある種の権利を、認めさせるように要求する運動」」これが既に間違い。連中はエタ・ヒニンの差別主義者が名前ロンダリングしただけ。まず歴史を知り恥を知れ
同感。この件の反応を見ると、まだ理論思考が定着しないんだなと思う。誤ったら死ぬ病、なんて揶揄があるけど、普段差別を問題だと考えている層ほど、妙に強弁を重ねていて非常に残念な事になっているのを目にする。
動物が殺されない権利を認めると、肉食動物はその権利を侵害していることになる。するとなぜ人間だけは動物を食べたらダメなんだろということに。飼うのがダメというならハンティングはいいのだろうか?
差別も場合によっては許されるって正気なん?人種とか国籍とかの差別も場合によってはアリなのか?許される差別なんてあっちゃだめだよ。一時的な緊急措置ならありうると思うけど。
ヒンズー教は牛を神聖視して屠殺を禁止している。ムスリムは神聖視してるわけじゃないが豚を食べない。それぞれの主張の権利は認めるが、自分は賛同しないだけ
自定義として「主語を大きくすること」が差別と考えているので、これは差別。これの解決策は「男性専用車両」を作ることであり、女性車両にのせろという主張は女風呂に入らせろと言う主張と同レベル
この人何言ってんの?例えば「レイプする権利を求める運動」をした場合、それに反対する人は「レイプする権利という過去には認められなかった権利取得を妨害してるからダメ」と言うの?反論するにしても的外れでは?
ブコメのイチャモンっぷりがすごい。自分の意見を補強するためには論理もなにも関係ないって姿勢はどうかと思うなあ。おれは増田の主張にわりと賛成。
ほんとこれな。なんで差別ではないと言い張れるんだろう
ミソジニー者の認知の歪みって本当にどうしようもなくだだ漏れになるよね。いやー臭い臭い。君に必要なのは社会ではなくて、宗教の中で閉じて生きることなんじゃないのかなとすら。
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おいお前、今微生物踏み殺したぞw
はてなーにとっての多様性とは「自分の好きなものリスト」。認めるとおしゃれだったり知的・寛容に見られるものだけ援護して、おっさん(の性欲)や喫煙者なんかは人格攻撃よ。
ヴィーガニズムとかいうクソカルト(無能な自分から目をそらすために他人の罪を捏造してくれる教義)に賛同してるの、見事なまでにはてサはてフェミばっかで笑えて来るんだよな。お前のお気持ちは法でもなんでもないぞ
はてサは自分の発言がブクマの履歴って形で追えるってことに無自覚すぎるんだよなあ。ポリコレポリコレってカルト宗教みたいに唱えながら自分はバンバン差別発言をブクマとして残してるというね
「今までどおりで本当に良いのか?」と考える時期になってきているけどジャップにはわからないからね。後、産業・商業という「他人の儲け」に自分の人生観や生き方を左右されすぎ。「他人に迷惑かけるな」は呪い
なげーし、上から目線でバーカバーカ言いたいだけ。いいからさっさと紅衛兵にでもなって俺を殺してみろよカス。やりたいのが意識改革じゃなくて意にそぐわない奴の殺戮だってとっくに知ってるぞバーカ。
知らない人向けに雑にいきさつをまとめると
「少額で3Dモデル販売するくらいなら無料配布にしてしまった方がよくね?」(悪意のある切り取り方)
なんかMMDでも似たような話があった気がするな……
彼に対する反論に個人的にちょっと納得いかないところがあったので
まずOSS大好きマンとは何かというと「自由第一主義」だ 無料大好きマンではない
本人が言ってるように「金額の話も対価の話も本題とは関係ない」のだ
過激派OSS組織FSF総裁のリチャード・ストールマンですら商用利用を禁止すべきではないと発言しているように、OSSとは無料を崇める宗教ではないのだ
じゃあなんで無料にしろって話が出てきたのかというと2つの理由がある
OSS大好きマンのいう「自由」とは雑にまとめると「だれでも好きに改造してそれを再配布できること」だ 値段は関係ない
だがたとえば有料販売モデルデータに「自由に改造して再配布してもOK」という条件をつけたとすると
点を一つ追加して改造モデルです!って言って実質オリジナルそのまま公開が出来たりする これでは販売の意味がない
かといって「改造は自由だが再配布はNG(販売モデルでよくあるパターン)」ではOSSの教義に反する
なので「有料を敵視しているわけではないが、自由を優先しようとすると結果的に無料大好きマンになってしまう」のだ
いくらOSS大好きマンといっても、この世のすべてを強制的にOSSにしようとは考えていない
じゃあなんでOSS大好きマンは強制的に無料配布……じゃなくてOSS化を進めようとするのか
それはVRChat界隈が「OSSのようでOSSでない少しOSS的な何か」だからだ
たとえばboothにはVRChatを想定したモデルデータが販売されており、その中には「改造自由」や「VRChat以外での使用可」であるものも多い
OSSっぽい規約ですよね?でも厳密にはOSSじゃないよね?よりOSS化するには無料配布がベストですよね?高価なものはともかく100円とかならもういっそのこと無料配布しちゃえばよくね?……というのがOSS大好きマンの考えだ
……無論、「OSSっぽい」からといってそれがOSSを目指しているとは限らない
なのにOSS大好きマンがそう考えてしまうのは「クリエイターは利用規約をちゃんと書かない」ことが原因だ
自由に使ってOKです!って書いてあるのに使ったら無断利用呼ばわりされるとかそういうレベルのクソ規約がごろごろしてる
(OSS界隈もあまり人のことは言えない状態だったので、専門家が規約のテンプレを用意してコピペで済むようにしてある)
なのでクリエイターの書く規約文はOSS界隈では信用されてない[要出典]
そのため「この微妙なラインが作者の意向だ」ではなく「本当はもっとOSS寄りにしたいのに知識がないから意図せずこういう規約になってしまってるのだ(上から目線)」となってしまうのだ
そしてOSS化するのであれば無料の方がいいよね……となり最初に戻る
OSS大好きマンはなんでも無料にしたいわけでもOSS化したいわけでもないが
VRChat界隈が「一見OSSを目指しているように見えるが実はそうではない」ため
じゃあこの問題を解決するには結局どうしたらいいのかっていうと……わからん!
VRChat界隈で無料はよくないって言ってる人でも
宗教ってのは生きる上での助力になるものって思ってて、新興宗教だろうと意味不明な儀式があろうと基本的には理解はできるんだよね。(共感ではない)
もちろん、エホバの証人みたいに輸血禁止とかは現代においてどうなの?って思うし、オウムみたいなテロを起こすのはありえないけど。
大半の宗教の信者、つまり原理主義的ではない宗教の信者はそこまで極端ではないと思う。
パワースポットとかパワーストーンみたいなのもまだ理解できる。
パワースポットって言われるような場所に行ったらリフレッシュできるようなところが多いだろうし、
パワーストーンだってオシャレすれば気分が変わるっていう延長線上にあるとも言えなくはない。
んで◯◯パワーみたいなやつってのは嫌い。
「◯◯パワーを整えると病気が治る」みたいなやつ。
ここまで書いてて気が付いたけど、◯◯パワーが嫌いって言うか、身体に関わる非科学的主張が嫌いみたいだわ。
ちょっと考えがとっちらかりすぎてわからなくなってきたから終わるけど、とにかく非科学的なやつ、特に身体に関わるやつは嫌い!
1854年4月、日米和親条約調印を終わったペリー提督は士官を伴って横浜周辺に上陸して、土地の視察を行いました。その際、初めて見る日本の女性について、彼等の興味深い印象を遠征記に書き記しているので、次に取りあげてみます。
穏やかに微笑してルビーのような唇が開いていたので、ひどく腐食された歯茎に生えている一列の黒い歯が見えた。日本の既婚婦人だけが、歯を染める特権をもっており、染めるにはおはぐろという鉄の粉と酒とを含んだ汚い成分の混合物を用いる。この混合物は、その成分から当然に推察されるように心地よい香りもないし、衛生的でもない。それは非常な腐食性のもので、それを歯につけるときには、歯茎や唇などの柔らかい組織を何かで覆う必要がある。さもなくば、ちょっとでも肉にふれると直ぐにただれて、紫色の斑点が出来てしまう。いくら注意しても、歯茎は腐って赤い色と活力を失う。
この習慣は、夫婦間の幸福を導くことがほとんど無いと考えるべきであろう。また、当然、求婚時代の夢中なときに接吻してしまわなければならないことも推測されるだろう。しかし、未来の花婿は往々にしてこの報酬さえ失ってしまう。なぜなら、ある若い婦人たちは、縁談を申し込まれたときに、このお歯黒をはじめることも珍しくないからである。
この厭うべき習慣は、他の習慣、即ち紅で唇を染めることで一層明らかになる。赤くした口は、黒い歯と著しい対照をなすからである。「べに」と呼ばれる日本の化粧品は、紅花でつくられ、陶器の盃に入れてある。薄く一塗りすると鮮やかな赤色となるが、厚く塗ると暗紫色となる。この暗紫色が一番いいとされている。
(町役人宅の)妻や妹は、外国人の前ではいつも膝をついたままであった。このような不体裁な恰好をしていても、女たちは自分達の働きを妨げられるようでもなかった。なぜなら、銀の徳利をもって、非常に敏速に走り回っていたからである。盃が小さいため、酒を注ぐことがたえず必要であった。二人の婦人はいつまでも慇懃(いんぎん)で、玩具の首振り人形のようにたえず頭を下げた。また、たえず賓客に微笑をもって挨拶していたが、微笑しない方がよかったと思う。唇を動かすたびに、嫌な黒い歯と色のあせた歯茎が見えたからである。
日本の社会には、他の東洋諸国民に勝る日本人の美徳を明らかに示している一つの特質がある。それは、女が伴侶と認められていて、単なる奴隷として待遇されてはいないことである。女の地位が、キリスト教教義の影響下にある諸国におけると同様な高さではないことは確かだが、日本の母、妻、娘は、中国の女のように家畜でも家内奴隷でもなく、トルコのハーレムにおける女のように浮気な淫楽のために買い入れられたものでもない。一夫多妻制が存在しないという事実は、日本があらゆる東洋諸国民のうちで、最も道徳的であり、洗練されている国民であるという勝れた特性を現す著しい特徴である。この恥ずべき習慣がないことは、単に婦人の優れた性質のうちに現れているばかりでなく、家庭内の道徳が大いに一般化しているという当然の結果の中にも現れている。
既婚女性が常に厭わしい歯黒をしていることを除けば、日本女性の容姿は悪くない。若い娘はよい姿をして、どちらかといえば美しく、立ち振る舞いは大いに活発であり、自主的である。それは、彼女たちが比較的高い尊敬を受けているために生ずる品位の自覚から来るものである。日常相互の友人同士、家族同士の交際には、女性も加わるのであって、相互の訪問、茶会は、合衆国におけると同じように日本でも盛んに行われている。
提督とその一行の面前に平伏した女たちのとった態度は、彼女たちが隷属的であるという証拠ではなく、むしろ外国人に対する尊敬のしるしと考えるべきだろう。日本の大きな町々や都会には、大いに淫楽が行われているものと当然想像される、なぜならばこのようなことは、不幸にも、すべての大都会における普遍的な法則だからである。しかし、日本女性の名誉のために言わなければならないことは、艦隊が江戸湾にある間、時々、種々の海員たちと女性たちが交渉を持ったときにも、普通の放逸淫蕩なようすが少しもなかったのである。