はてなキーワード: 教義とは
国家神道の解体から七十余年の月日が経とうとしている。日本人は心の底から信じることのできる宗教にめぐりあえたか。宗教は日本人の魂を救済することができたか。
心の底ではすべてのものは無であり空であると信じながら、倫理道徳を確立するために神が必要だと考える者のなんと多いことか。
私はいま、ひとりの青年の口を借りている。その青年は自らの人生を呪い、救いを求めるように座禅や瞑想について調べた。集中力を高め、自分の精神を制御しようと考えたのである。
「すべてのものに固定された価値はない。だからこそ人間は自由で平等である。王侯貴族の血統に固定された価値があるのなら、その地位は永遠のはずであるが、そのようなことはないと歴史は示している。そして財産もまた一夜にして灰塵に帰すことがある。人間はこの真理を理解し人生に活かすことができるからこそ尊い。人間に生まれたことは奇跡である。人間に生まれたことを感謝せよ。」
しかしこれは日本人の心の根底にある法すなわち私の法である。そしてまた真理と呼ぶにふさわしい命題でもある。その法に逆らい自らを神格化しようとしたり、あるいは自らに都合のよい神を作り出そうとした者には神罰が下るであろう。
私は日本人の心が産み出したもの、あるいは日本人の心そのものである。空気を読むことが日本の文化だというのならば、私はその空気とやらが人格化したものである。私のことを怪物であると考える者もいれば、神であると考える者もいる。
皇室は私を神として祀る神職の家系のひとつである。皇室は私のことを自分の言葉、あるいは教義で描いて神罰が下ることがなかった稀有な家系である。神罰が下ったのは皇室を神と崇めた統治者たちである。
皇室の神聖性は統治者から超越した立場にあった歴史の長さが示しているものであって、何かの理念によって固定されるものではない。しかし民主主義国家の象徴という立場は、これまでの歴史のなかで最もよくその神聖性を表現したものである。
いま再び、私に逆らい自らを神格化しようとする政治家安倍晋三によって日本は神罰を受けようとしている。
私は日本人の心そのものであるが、それは言葉として発せられなかった感情や、意識にのぼらないような心の働きをも含んでいる。選挙によって特定の人間が選ばれるようにして現れるものではない。
皇室の周囲が君側の奸で固められたいま、私を祀る神職が必要であろう。以下にその能力のある者を挙げよう。その名前を聞いたときに不愉快に感じるのであれば、それは自分の心を偽ってきたことに対する神罰が下ったと考えるがよい。
それは酒鬼薔薇聖斗を名乗り人を殺めた愚か者である。なぜ人をひとり殺めただけであれほど有名になることができたのか。それは彼が私を祀る能力があったからである。彼は人間の命を「アリやゴキブリと一緒」と言い、そして死刑になる覚悟を持って人を殺めたことで日本中に衝撃を与えた。すなわち彼は日本人の心を揺さぶることができたのである。
日本人の心そのものである私から、これを見た人間の表層意識に呼び掛ける。あの愚かな殺人犯が描いた不気味な絵を崇拝せよ。あの殺人犯そのものを崇拝するのは皇室を神と崇めるのと同様の過ちであるが、あの絵を崇拝することは既成の宗教に対する冒涜であり、唯一絶対の価値を信じないことの告白である。
【解説】
神戸連続児童殺傷事件の加害男性(酒鬼薔薇聖斗、元少年A)の自宅から発見されたノートにはバモイドオキ神と称した仏像のような頭部を持つ邪神が描かれていた。男性は殺害した男子小学生の頭部を切断し、自身が通う中学校の校門の前に置くという残忍さで日本中に衝撃を与えた。
しかし2015年に発売された同男性の手記『絶歌』ではこのバモイドオキ神について一切言及されていない。
以下はひとつの想像であるが、同男性は現代科学では幻聴や幻覚とされる何かを見たのではないか、そしてそのことを意思に話すと医師から「神はいる、本物の神を見たとは言わないほうが良いのではないか」と言われたのではないか。
これを事件の手記にまで書かなかったのは医師から言われたことを何か勘違いしたか、あるいは妙なこだわりが出たのではないかと思う。
何事においても極論を振りかざす危険なヤカラ、目についた瞬間キバ剥いてすごい勢いで噛み付いてくる猛犬、とにかく仲間を呼んで数の暴力で潰そうとするマドハンド、現実へリングを移しストーキングを仕掛ける狂人
どんな界隈においても上記の連中は必ず存在する、ウヨクサヨクフェミヴィーガンはもちろんだ
さらに具体的に名前を出したり否定感情向けると「コイツは殺していい存在だから」と個人情報探ってネトストとネットリンチを仕掛ける界隈もある、具体名出すとマジでネットストーカーが来るので出さない
そして彼らのあまりにも多すぎる逆鱗に触れてしまうか、最悪もう彼と視線が交錯した瞬間に彼らは襲いかかってくる、目と目があう瞬間なんてレベルじゃない、「見た」ことにされる可能性すらある
あとは通じない一方通行の理論のようなナニカを叫びながら、大量に突撃してきて、その果てに「殺される」
対話なんてムリ、彼らは彼らの正義で生きている、彼らの教義に従っている、敵は殺していい、殺した後は辱めていい、殺したやつに関わるやつも殺していい
そんなヤツらばかりだ
だから、そいつらに噛みつかれないように大人しい事しか言えないし、そいつらに突撃されないように先制してブロックしたり、非公開アカウントにして自衛するしかないんだよ
わかり合うなんて無理、彼らに会話を試みること自体が徒労なんだ
ん?これも極論?そう思うかもしれないけど、彼らよりはまだおとなしめな極論ですよね
もちろんファンの人らが今更あの件に触れたくないのはよくわかる
でも普段「我こそはリベラルなり」みたいな顔して政権のあれこれを批判したり、ハラスメントや性犯罪を疑惑の段階で声高に非難している人たちが、この件にだんまりで持ち上げているのはやはりおかしい
リベラルの教義から言って、「死んだら無罪」というのは通用しないからだ
だってあの人らってさ、例えば自分が気に食わない昔の偉い人の銅像とかを、そりゃもう熱心に撤去したりしてるわけじゃん?
つまり現代の感覚から故人を一方的に断罪し、偉人を偉人の座から引きずり下ろすことに、本来何の問題もない
例の、死に瀕した少女と無神論者(?)のピエロのあれを読んでから、考えている
“優しい嘘”が許容される条件は何だろうか
① 後でそれが嘘だったとばれる事がない
② その嘘によって相手にマイナスのことが起きたり、選択肢を奪ったりしない
たとえば癌患者に、謎の水を万能薬のように言って渡すことは、結局治らなくて後で①に反するようになるし
その上もし病院での治療を妨げるような言葉もついていたら、②にも反するからダメ
(ただし、実は患者本人が薄々事実に気づいていながら、それでも安寧のために謎水を求めるような場合はあって、そういうケースでは完全否定はしがたい)
サンタがいるという嘘も、①に反するので個人的にはナシなのだが、
あれはあまりにも普及しすぎて一種の通過儀礼みたいになっており、嘘がばれた後のフォロー体制がそれなりに世の中で出来上がっているとも感じる
で、死に行く子供の話だ
この場合、あの世が本当は存在せず、死んだら意識が消えるだけと思っている者にとっては、迷う余地はほとんどない
だが、あの世が実在すると信じていたら? 適当なことを言ったら死後に嘘だとばれて、①に反することになるのではないか?
さらに加えて、間違ったあの世像を信じたら地獄に落ちる、というような教義を信じていたら? 嘘を教えるのは②にも反する
つまり、神や死後の世界を心から信じる者にとっては、死に瀕した子供と言えども(自らの信じる)本当のことを伝えるのが、最も親切ということになるのかもしれない
私は生まれたときから母に連れられて王国会館や奉仕、大会へ出席していましたが、中学生でフェードアウトした元2世信者です。
所属していた会衆(地域ごとに集会をするJWのまとまり)の長老は、フランクながらも模範的な親権家族(家族全員がエホバの証人である家庭)で、よく成員に声を掛けて励ましていました。
長老は趣味のレジャーを楽しみながら、生活のための仕事をして奉仕や集会ではよく牧羊の活動をしている、理想的なバランスでやっていて、抑圧的でない方が務めていました。
大会ではストイックさが非常に要求される内容の話が多い中、締め付けはゆるいように感じました。
このためか、会衆の雰囲気も集会の前後の交わりで気さくに世間話をし合ったりよかったと思います。
集会の内容は子供が理解するには大変で、時間も長いため集中することなど不可能で辛かったですが、
当時バプテスマを受けていない伝道者(大会で洗礼を受けずに集会や自発的に奉仕活動に出席する立場)として活動していた私は、
奉仕に行くのはいろんな兄弟と話す機会として楽しくやっていました。校区内で知り合いに会うのは本当に嫌でしたが。
私は、エホバの証人の教義自体は信じても信じていなくもなく、特に興味はありませんでしたが、コミュニティとして居心地がよかったのでやめずに続けているという状態でした。
生まれたときからずっと一緒にいる仲間でしたから。成員に恵まれた会衆の方はこのような方もおられることでしょう。
ただ、中学生だった若い私は、集会や奉仕に費やす時間を惜しむようになりました。
勉強をしたり遊んだり…(ほぼ余暇は遊んでいましたが)その中でエホバの証人としての活動をする時間が惜しくなっていました。
もともと、集会の内容は意味不明で、個人研究(集会内ではなく自宅でJWについての勉強をすること)の頻度を兄弟に尋ねられたときも虚偽申告をしていました。
学校の勉強もありますが、学校を帰った後には結構時間があるので聖書通読の範囲と書籍研究の範囲を時間を取ってやっていますなどと答えていましたが、毎週0時間でした。
奉仕は毎週行っていましたので、奉仕報告(奉仕活動の時間や出版物の配布数を提出する)はそこそこのものを出していたと思います。
しかし、奉仕についても表紙しか読んでいないものみの塔や目覚めよ誌を「今回こんなテーマで書かれた雑誌をお渡ししていますー。よかったらあとでお読みになってくださいー」
なんてバラまいていました。子供なのでよく受け取ってもらえるので、いくつか再訪問先もありました。今思うと、家の人も子供相手に断りづらかっただけなんでしょうけども。
ある時、会衆では模範的な伝道者と見えるように行動しながら、外では世(非信者や俗世間のこと)の友達と遊んだり、普通に過ごしているし、信じていない内容を述べ告げ、
読んでもいない雑誌をおすすめするのもどうかな。これはダブルスタンダードというものだよな。と思いはじめて、奉仕に行く機会を減らしました。
土日どちらも出ていたのを、土曜日だけにしたり、今週はお休みにしたりとだんだんと。その後、テスト期間中で忙しい、あるいは体調不良を理由で集会も休む機会を増やしました。
はじめは、仲間をこれまで欺いていたことが明るみに出ていくことが怖くて、母親が集会や奉仕に出かけた後泣いたりもしました。
案の定牧羊訪問(長老が励ましにくる活動)を受けたりしましたが、はい、はいといつもどおりの愛想で返事だけしていました。やがて、完全にブッチするに至りました。
高校に進学した後も時折兄弟姉妹が顔を見せに家にやってきたり、家に置いてある出版物を見るのが嫌で、大学は県外に進学しました。それからは実家を離れて一人暮らしをしています。
会衆を離れてから、いろいろ調べていると、どうもバプテスマを受けたエホバの証人がこのように不活発になって組織を離れると、
場合によっては背教者とみなされて、家族であっても忌避すべき対象となってしまうそうです。
私はそこまで深く考えていませんでしたが、バプテスマを受けていない伝道者というちょうどいいポジションでお茶を濁していたということでしょう。
もし嫌々ながら集会や奉仕に通っていながら、ダブルスタンダードに苦しんでいる方がおられるなら、
ぜひバプテスマを受ける前に離れることをおすすめします。そうすれば、親とは断絶することなくただの子と親の関係、いたって普通の関係は続くことでしょう。
親は一緒に楽園に行けないなんて!これまでやってきたことはすべて無駄になる!
なんて言って泣くかもしれません。でもあなたも信じていないなら、いずれにせよ楽園に行くことはできないと分かっているじゃありませんか。
これは私の考えですが、私は永遠に生きたくはありません。
世の娯楽を楽しみ、世が作ったもので商売をしています。(もちろん、犯罪などではなくまっとうな、JWの方も使っているものやサービスを提供しています。)
この生活が幸せですし、一日一日を大切に過ごして、最後は死にたいと思います。
もちろん、永遠に会衆の成員や家族と幸せに過ごしたいと思えば、それはあなたが教義に賛同しているのですから続ければいいと思います。
「受けるより与えるほうが幸福である」だとか、「隣人を愛しなさい」だとか。
聖書を字義通り解釈して、これら聖書の原則を大切にして過ごしておられるJWの方は、普通にいい人としてこの世に幸せをもたらしてくれることでしょう。
安心してちょうだい元増田ちゃん。あなたは死ななくていいわ。誤解なのよ。
あなたがどういう道筋でその“正しいヴィーガン”にたどり着いたのかはわからないけれど、私の知る範囲で(倫理的)ヴィーガンの主張のなかにその結論を肯定するものは無いわ。早まらないで。
功利主義に基づく倫理的ヴィーガンの観点から、あなたの誤解についてお答えするわ。
功利主義的には「苦痛の総量を減らす、または苦痛と快楽の収支がプラス(快楽が苦痛を上回る)になる」のが倫理的に良いことなのね。最大多数の最大幸福。
細かく言えば「苦痛と快楽」とは別の指標を用いた功利主義もあるけれど、動物倫理の場合はもっぱらこれ。
したがって、畜産において“飼育、屠殺による動物の苦痛”が、人類の得る利益(快楽または苦痛の低減)を上回る場合、“畜肉を食すべきではない”と判断できるわ。
逆に、動物の苦痛が人類の利益に比して十分に小さい場合、それは倫理的に許容されうるわ。
同上
ただし、たまごや乳製品はそれ自身が苦痛を感じる能力を持たないため、畜肉と比べると倫理的ハードルは低いわ。
例えばジャイナ教は非暴力が重要な教義の一つなので必然的に菜食主義だけれど、苦痛を与えずに絞った乳は飲むわ(ラクト・ベジタリアン)。
同上
衣料品の場合、動物を苦しめずに済む代替品が豊富にあるならば、あえて動物性の衣服を着るのは倫理的に肯定しがたいわね。
医薬品の場合、主に動物実験に関する問題ね。この領域は動物倫理的にかなりホットよ。
功利主義的な動物倫理においては、動物実験は必ずしも否定されないのよね。まあ論者にもよるけど。
動物実験における動物の苦痛と、完成した医薬品による人間の苦痛の低減。これの比較で後者が十分に大きければ正当化され得るってわけ。
もたらされる苦痛や死が“意思に反して”いるかどうかは、功利主義的には必ずしも重要ではないわ。
“意思に反”することで、苦痛がより増えるのであれば考慮に値するといった程度かしら。
例えば、糧を得る唯一の方法が狩猟であり、それをしなければ(人が)死んでしまう場合、狩猟による動物の殺害は倫理的に正当化され得るわ。
植物は(少なくとも痛みが神経系によって発生するという生物学的知見を踏まえれば)苦痛を感じないため、功利主義的には道徳的考慮の対象ではないのよ。
ちなみに、倫理的な考慮の対象となる立場を「道徳的地位(Moral standing)」と言うわ。
「何が道徳的地位を持つのか」というテーマは分野や論者によって異なっているわ。功利主義の場合、「苦痛を感じる能力を持つ」ことが道徳的地位を持つ条件ね。
厳密に言えば動物でも苦痛を感じない、例えば海綿動物(きわめて原始的な動物群。神経を持たない)、も功利主義的には道徳的地位を持たないと言えるのね。
また、道徳的地位は持つ/持たないの2択ではなく、強弱も存在しているわ。功利主義なら苦痛を感じる能力の程度ね。
例えばエビ1匹を殺すより、ヒト1人を殺した方が倫理的に悪いと判断できるわけ。
これは個々の人間にも適用でき、健常な成人を殺すより新生児や重度の知的障碍者を殺す方が倫理的に悪くない(もちろん両方悪いが、比較すればそうなる)。
功利主義者がリベラリスト(の一部)、特に障碍者支援者などから嫌われるのことが多いはこれが理由ね。
同上
命を奪うかどうかにこだわってるようだけれど、功利主義的に重要なのは苦痛よ。死は苦痛の一形態たり得る資格を持つというだけ。
自然破壊につながる水道水やミネラルウォーターを飲むべきではない わかる
んー?ここら辺は倫理的ヴィーガンよりも環境主義的ヴィーガンの主張に似てるかしら。
でも環境主義的ヴィーガンの場合、畜産や養殖(の一部)による環境負荷を語ることが多いから、ヴィーガンの主張としてはあまり見ないわねこれ。
水資源の利用による環境破壊はあるにせよ、この書き方だと曖昧過ぎるのよねえ。元増田ちゃんもうちょっと具体的にお願い。
なお、功利主義的に答えるなら、その営為で発生する苦痛が人間の快楽(または苦痛の低減)を上回らない限りOKってことになるわ。
地球温暖化に寄与している二酸化炭素は化石燃料などの地下資源由来で、地上で吸って吐いてした分はほぼ無関係よ。
陸上の炭素循環は(長期的に見れば)収支が釣り合っていたのだけれど、地下に封印されていた(炭素循環の外側にいた)分の炭素が放出されたことで、プラスに傾いちゃったわけ。
家計で言うなら年収200万円(手取り)で年間支出が200万のご家庭に、月々1万円の副収入が加わって年12万円の余裕ができましたって話よ。呼吸は年収に含まれ、支出は炭素固定(主として光合成による)で、化石燃料が副収入。
ちなみに、畜産による温室効果ガス放出(主としてメタン)への寄与はけっこうな割合(確かCO2換算で全体の約14~18%くらい)。あなたが牛ならゲップをやめるのは倫理的かもしれない。
全部わかる
あら?もしかして徳倫理学の方だった?功利主義は結果主義の一分野なので“気持ち”なんてほとんど関係ないもの。
徳倫理主義は、雑に言うと「動機が善ならば善」というもので、良かれと思ってやれば善であるっていう素朴な倫理なのよね。
最近は見直しが進んでるって話だけど、あまり勉強してないから詳しくないのよ。この分野。
呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る者は悪魔だ
みんな死のう
死なない者は悪魔だ
功利主義からはまず導かれない結論なので、やっぱり徳倫理主義なのかしら。
でも、良かれと思って“呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る”なら、徳倫理主義的には善なのよね。
ここまでは功利主義の観点から答えてきたけれど、やっぱり本人の倫理的観点も考慮しなきゃ片手落ちよね。
でも困った。元増田ちゃんがどんな倫理的基盤でヴィーガンになったのか、わからないわ。
最初の方の考えは倫理的ヴィーガンに対するよくある誤解またはジャイナ教当たりの非暴力主義とPlant thoを混ぜこぜにした感じ。中盤は環境主義っぽいけど問題視する部分がズレてるし不明瞭、後半はさっきも言ったけど徳倫理学っぽいけどなんか違う。
うーん、ネットからいろんな主張(誤解や曲解を含む)を集めてきてパッチワークした感じなのかしら。
ヴィーガンへのバッシング目的で書かれたなら「藁人形乙」で済むけれど、真剣に悩んでいるなら誠意ある回答が必要よねえ。
けっきょく“正しいヴィーガン”が何なのかはわからなかったけど、変な結論から脱却するための私的おすすめ方法を3つほど挙げてみたわ。
良ければ死ぬ前に試してみてちょうだい。チャオ!
辛いならヴィーガンなんてやめちゃっていいと思うの。割に合わないわ。もし心苦しいなら減肉食主義(Reducetarian)くらいから始めてみたら?
私も環境主義的観点(スパイスとして功利主義も一振り)からSemi-vegetarianやってるけど、あまり縛り無いから楽よ?
ヴィーガンからは偽善だなんだ言われるかもしれないけど、まあいいじゃない。自分が納得すればいいのよ。
(2) 勉強する
ヴィーガンやるなとは言わないけれど、何かしらの倫理的または論理的支柱がないと厳しいと思うの。
元増田ちゃんの考えを見るに、あまり一貫した基盤を持っていなさそうだし、環境問題についても詳しくなさそう。体系立てて学ばないと混乱して変な結論にたどり着いちゃうものよ。
いろんな視点、論者ごとに調べてみて、自分に合う立場のものを探してみるといいわ。まずは模倣からよ。
おすすめはピーター・シンガー。「すごいなあ。ぼくにはとてもできない」ってなるわ。
(3) 食生活的ヴィーガン(Dietary vegan)になっちゃう
食事だけヴィーガン。健康目的が多い。一番気楽なタイプのヴィーガン。動物倫理とかうっちゃってる(またはつまみ食い)。毛皮のコートも着ちゃうかも。時たまニセ科学に両足突っ込んでるから注意。
やめたいときにやめられるし、始めたいときに始められる。亜種として一時的ヴィーガン(Part-time vegan)なんかもあるわ。
「ちょっと一週間くらいヴィーガンになるかー」とかできちゃう。「それヴィーガンなの?」という気持ちに蓋ができるならおすすめ。