はてなキーワード: 教義とは
例えば都内の病院は、エホバを受け付ける病院と受け付けない病院と、別れているとか。
で、受け入れる病院になると、そこの医師と看護師が、エホバの人の治療をどうするか、協議とかするんだよ。
看護師の一人が言ってた。「本当に悩む」と。
日本ではあんまり存在感ないけど韓では邪教のように扱われてるよ
あの国は徴兵制度があるわけだが、エホバは宗教上の理由で徴兵を拒否して逮捕収監されることを是としているから
徴兵拒否で刑務所入ってる奴の95%くらいはエホバと言ってもいいくらい
徴兵の是非はさておき、法律よりも教義を優先するのが彼らの本質なわけ
まあ共産党と同じ
例えばDDDが好きじゃないとか、TDDが好きじゃないとか言うと、エンジニアはギョッとした顔で僕のことを見てくる。
まぁ実際スクラムは必要ないみたいな話を聞いて、私もギョッとした顔をしてしまったことがある。
TDDやDDD、スクラム、型宣言、オブジェクト指向の原則、デザインパターン、、、、
ソフトウェアエンジニアリングに於いて数えきれない聖書みたいなものがある。これらの聖書はすべての宗教の聖書に一読の価値があるように、いいエッセンスが詰め込められている。
ただ、全てを一度引き出しにしまって、まずはコードを書くべきだ。
もちろんテストを書いてはいけないとも、クラス図を書いてはいけないとも、言ってはいない。
あなたがソフトウェアの判断に迷った時に聖書の金言と見比べよう。
もし聖書には今のあなたの状況にあった教義が見つからなかった場合は、他の聖書に手を取ってみよう。
聖書の内容を頭に入れることは常に次のことより劣後すべきだ。
コードを書くこと
コードを読むこと
仕様を考えること
顧客と話すこと
学ないからたぶん理解しきれてなくてきっと見当違いそうって感じなんだけど要は人と家畜におけるその倫理の話そのまま家畜と植物で入れ替えれんじゃないのかなって話で肉大好き野菜美味しい立場としては端から倫理面での家畜への相対的な差別意識は自覚済みというか織り込み済みというかそこの倫理性を問うてるんじゃなくその傲慢さの存在は前提とした上でそれを倫理的な大問題なんだとやってそこを大義とやるならじゃあ植物に対する自分達の意識は倫理的にどういうところにあるんや面白半分にぐっちゃぐちゃ踏まれ茎が折れ汁にまみれるお花に1ミリでも残酷とは思わんのか?やっぱ思わんのか?という単純な価値観への疑問と、思うなら同罪なのにどこの立場でものを言えるんや傲慢過ぎんかという思いがあったんだけどやっぱ痛覚って大事なポイントなのかな
でも人間の場合の痛覚の有無と手にかける事の倫理性が必ずしも比例しない事やその倫理性と同じ類のものを家畜にも重ねる事ができるとするなら逆に痛覚は手にかける側の道徳的観念においては単なる要素のひとつの域を出ない気がしちゃうからそれなら件の団体の菜食主義の上での命に差はない差別化しての搾取は罪でありそれは正すべきだって主張はやっぱ植物を命と定義しないって前提からして宗教的な教義みたいなもんを理由に責め立てるようなもので客観的な正当性も権利もあると思ってるみたいだけどほんとはないんちゃうんかていう
でもやっぱり解ってないでごちゃごちゃ理屈こねてるだけでえらい人のとこでは客観的な命の定義みたいなものも議論する上での前提として常識で自分が知らないだけでそこでは明確に植物は違うよってされてたりするんではという気持ちもあってお花は酷いと思うけどそれは物が壊される事へのそれでそこで刺激される倫理的道徳的意識は家畜のそれとは別物とするのが世界の常識やぞみたいな(そうなってくるともうそれこそこっちがうちの教義では植物は命なので思想上受け入れられないですという次元の話になる)
ピーター・シンガー知らなくて(学とかないから…)Wikiざっくりしたけど立場的に(Wikiだし今はもう違うかもしれない)命を奪う事自体でなく扱い方高等生物かそうでないかで線引きはあるみたいだから(知性で高等か下等かを定義して命の価値を客観的にはかるっていうのは植物を命とするかの線引きの話よりもっと優生学的であるところで差別的な傲慢さをどうしても勘繰ってしまって苦手な類だけど所詮Wiki斜め読みだから何とも言えないという思い)過激派の命の搾取であるホロコーストであるというそれというかヴィーガンの主義思想とはまた違うどころかかなりめに違うし過激派側は許容できかねるものだろうしそういう扱いや生育処分方法以前の問題なんだという動きを前にしてこの人は今どういう立場なんだろうなって思った
自分がかつて動物の解放であるとして同じ菜食主義者の引用も誘ったその定義が傲慢な搾取で虐殺だとする中に収められるその事をどう思ってんだろうかって
過激派なんて知らんわ一緒にすんなって感じだったりするのかな案外
■インドビジネス界に浸透する「カルマ」と「キスマット」:経済界
カルマ(Karma)は、インドでは決して関心が失われることのない言葉である。
死後の世界を信じるヒンディー教の哲学においては、個人のカルマが良ければ来世で報われて、カルマが良くないと、人は退化してより下位の生命体に堕落する、という教義がある
キスマット(Kismat)とは、カルマによって決まる宿命や運命のことである。キスマットは、過去の人生における度重なる行い、振る舞い、考えの結果である。
現代インドにおいても、人々はほとんどの場合カルマとキスマットの哲学を日々の暮らしにおいて信奉かつ実践しており、それが彼らの仕事の多くを決定している。
この歌の歌詞が日本で流行れば、そのままアメリカのプロパガンダになってしまうことに気づいているのだろうか・・
たかが歌じゃん、と思うかもしれないけど、歌だからヤバいんです。
企業が商品を売るときCMソングにするのは、それだけ影響力が強いから。
人間の行動や思想なんて、ちょっとしたことでコントロールされてしまいます。
USAを歌ったあとに、アメリカを疑ったり否定するのって、心理的に難しくなるんです。
アメリカへの憧れは、まぁ良いとして。
だからといって「カモンベンビーアメリカ」っていうフレーズはおかしくない!?
それも日本人が歌ってるなんて・・
原曲でもそんなこと言ってないよ!?
この歌詞には、前半に誰もが受け入れやすい "表のメッセージ" を入れて、後半に "裏のメッセージ" を入れる、という洗脳の基本的な手法が使われています。
からの
「C'mon baby アメリカ」
もしも出だしからC'mon baby アメリカだったら、みんな「え?」って気づくでしょ。
「人に親切にしましょう」みたいな受け入れやすいメッセージのあとに、こっそり教義をしのばせておくのです。
また、つい口ずさんでしまうようにできているのもポイントです。
「C'mon babyアメリカ♪」と、同じフレーズを繰り返すのも洗脳の基本です。
それどころか未来ある日本のキッズ達が、無条件でアメリカは良いものだ、と思ってしまうかもしれません。
これはアメリカが不利な条約を日本と結ぼうとしたとき、疑うことなくYesと言っちゃう可能性が高くなるということ。
今もアメリカは日本の雇用を奪おうと必死に画策してるし、数年前だってTPP結ばせようとしてきたじゃん。
日本はさらに不況になりますよ。かなりヤバい。それでいいんでしょうか!?
愚痴。
なんか客観的じゃないから法律学は学問じゃないとか言われて納得できねーーーーーー
そりゃ厳密に現実世界とか実態の記述を行うことを目的とするなら(目的の一部とするなら)、客体と主体は分離されざるを得ないだろうし、数学みてーな解釈の余地がない言語でそれを記述するのが一番だー!って話になるだろうな。そういう目的においては、あるいはそういう前提においては、たしかに客観性は大事だろう。というよりも、そういう客観性が保たれる手法を取らなきゃ、そういう出来るだけ実態に近い実態を把握しようなんて試み自体が成立しない。だからこそ、そういう分野においては客観的なエビデンスは大事だ。めちゃ分かる。理解できる。
でも、別にそれだけが学問の目的じゃあないし、そうではない目標を掲げた分野が存在したっていいだろ?例えば俺の思う限りでは法律は国家の道具だし、その道具でどうやって社会を良くするか考えるのが法律学だろう。仮に法律学の目的がそうであるとしたら、必ずしも極めて厳密で客観的な手法が要求されるとは限らないだろ?だってそもそも目的がちげーんだから。客観性が大事なのも結局なんらかの目的が客観性を要請してるだけなんだから。学問は客観的でなければならないなんて定義してしまった時点で数学的な言語で記述できない分野は学問足り得なくなってしまう。でも学問がそうであるべきと決め打つ必然性なんてどこにもねー。ただある目的においてそういう手法が極めて有効だってだけ。百歩譲って法律が仮に学問たり得ないとしても、まさかそれで法律がいらないなんて言うわけじゃないよな???
結局、客観的じゃなければならない、っていう宗教を信じるなら、そりゃ客観的じゃないものは全部だめなものに映るんだろう。そしてそういう宗教の信者になるのは、ある目的においてはすごく大事なことだ。とてもとても大事すぎてそれが本質だと言ってもいいぐらい、大事なことだ。でも、そういう手法がとれない分野とか、そういう手法と親和的じゃない目的もあって、そういうものが必要ないとか学問足り得ないとか言われるとムカつく。その宗教の教義があらゆるときに妥当するって本気で思ってのんかよばーーーーか
でもそういう思い込みこそが彼の原動力の一つかもしれなくて、そういうものの恩恵に絶対に自分もあやかってるから、でもけどでもうーん
私は体が弱いので、いよいよ働けなくなって食い詰めた時に助けてもらえないかと思い、色々な慈善団体やボランティア団体を訪ねているのですが、どこも宗教やイデオロギーに基づいて運営されていて馴染めないので、そういうの抜きの互助組織のような団体があれば紹介していただければありがたいです。
純粋に弱者の支援だけを目的とした団体というのはどこにあるのか……
宗教やイデオロギーと言っても露骨に布教してくるケースにはあまり遭遇したことがありません。だいたいみなさん親身に私の将来への不安の話など聞いてくださります。ただ、結局、その団体のオカルトめいた教義の信者になるとか政治活動の手伝いをするとかしないことには、私の目的である食い詰めた時に仕事を紹介してくれるとか福祉に繋いでくれるとかそういう援助を期待できる立場になれそうにないんですね。
団体の目的に貢献しないなら仲間として受け入れないし援助しないというギブ・アンド・テイクのルールは当然だと思います。しかしその団体の目的の宗教やイデオロギーというのがとにかく苦手で。
私は神は存在しないと考えています。より慎重に言えば「聖書その他の経典に記された人格とエピソードを持った神の実在は証明されていないので、人間の作り話と考えるのが妥当」という立場ですが。とにかく「神の言葉」のような妄想に基づいて行動するのは無理です。「日本人はあまり知らないだろうけど、今アメリカではダーウィンが始めた進化学説は否定されつつあるんだ。『インテリジェント・デザイン』という説を聞いたことはないかな?」なんて話題をコーヒー・ブレイクで振られると今すぐ逃げ出したくなるんです。
一方でイデオロギーもダメなんですね。ホームレス支援のために(私がホームレスに転落した時に助けてもらうために)参加したのに、なぜフクシマやオキナワに関して日曜の街頭に立って訴えねばならないのか? 政府や自治体への福祉の拡充の請願だったら内容を吟味した上で署名しましたよ。だけど、福祉を離れたイシューに私はコミットできません。この季節に街頭に長時間立つと風邪を引いちゃいますから。
公平のために言及すると、上記のフクシマやオキナワが好きなイデオロギーの人たちとは反対の立場(いわゆる保守)の人たちの慈善団体というのはさっぱり遭遇しませんね。保守の人たちは地縁血縁に基づく相互扶助で手一杯なのでしょうか。私のような都会の砂粒の如き孤独な個人を拾い上げようとするのは宗教(福音派キリスト教会)か左翼イデオロギー(共産党)だけと。
馴染めなかった団体への愚痴が大変な文量になり申し訳ありませんが、この記事の目的は「純粋に弱者の支援だけを目的とした団体」があれば紹介していただきたいということにあります。
弱者当事者だけでは継続が難しそうなので、当事者の相互扶助+弱者に同情する裕福な人々や専門家の支援で運営されているような団体がより望ましいです。
私は体は弱いですが、まだ一応ホームレスへの炊き出し活動で働ける程度に、健康と時間と金銭に余裕がありますので、元気なうちは支援者側で頑張ります。その代り、失職したり体にガタが来たら支援を受けたい、ただそれだけが望みです。
団体の具体名まで挙げていただかくなくとも、宗教フリー・イデオロギーフリーな慈善団体を見つける方法などご教示いただければ幸甚の至りでございます。