はてなキーワード: 完璧主義とは
後々大変だぞ…特に子ども生まれたら自分にも相手にも妥協を許さなくなるからほんっとうに大変になる…ヘタするとそのまま潰れて双方崩壊する 崩壊した
顔合わせをするんすけど、奥さんの「ああしたいこうしたい」とか
「こういうのも用意した方がいいんじゃない?」みたいなのが尽きなくて、
顔合わせでこんなに大変だともっともっと大変と思われる結婚式が今からウンザリしてきた。
「もし余裕があったらやっといて」「時間があったら一緒に買いに行こう」って言うけど
結局「やらなきゃいけない」ことなのよ。それはね。
結婚式もシンプルでいいとか言ってるだけど、結局なんでもかんでもやるんだろうな。
「無理しないで」って奥さん言けど奥さんがお互いを無理させてるんだよなぁってふと思う。
で、俺も出来る限りしてあげたいタイプだし。そうなると二人で歯止めがきかないんだよなぁ。
限界になるまで頑張っちゃうから俺も頑張らざるを得ないっつーか。ぐうたらテキトーしてもいいんじゃないかなぁ。
たかが顔合わせじゃん。俺のために頑張ってくれるのはうれしいんだけど。スゲーうれしいけどさ。
うつ病は心の風邪というけれど、その大きな要因のひとつに性格/気質があって、なりやすい性格の人となりにくい性格の人がいるという。
真面目で責任感がある人はなりやすく、そうでない人はなりにくい。ということらしい。
遺伝が関連する疾患について、将来罹患する確率が異なるため、遺伝子情報で保険料が変わるかもしれないというニュースが出回っているけど、
鬱に関しても、いずれはそうなるかもしれない。喫煙者の肺がんリスク、肥満の糖尿病リスクなどと同様に、性格による鬱リスクについても、
同じプロジェクトチームに、鬱になりやすい性格の条件にかなりマッチしている人がいる。
真面目で責任感が強く、面倒な仕事を押し付けられても文句を言わずやり、自分の正義やルールを曲げない。
繁忙期など、みなが上手に理由をつけて適度に息抜きしている状況でも、その人は休めと言っても休まない。来るなといっても来る。
そこまでやらなくてもいいと言っても、完璧主義なのでやってしまう。
きちんとやらないほうがストレスですと言わんばかりに。
それで消耗して、フラフラ。
それで倒れらたら意味ないし、そうなったらかなり迷惑なんですけど。
しかもそういう人って、自分を棚上げにして、鬱になりにくいといわれる性格の人のことを、テキトーなやつだと見下してるっぽいんだよなぁ。ひと昔まえのB型disみたいにさ。
■独り言
完璧主義で精細で繊細
ほんとは
治安も注意していないと、いつ刺されるかわかならいぐらいが普通で
買った製品も7割動けばOK
品質はコストに比例するのに、企業が努力してコストを下げたら、給与帯も下がる
安くて良いものはみんな買うもんね
良いものは高くないといけないのにね
■人件費
品質を下げると売れなくなり悪循環、人を切らないといけなくなる、けど切れないので
■日本が死んでいる?
日本が死んでるのではなくて、労働に対する対価というブルーカラー的なものが世界的に死んでいるのではないかな
ブルーカラーの人間しかいない日本では働いた分の報酬を要求するので
お金がどう生まれるかと切り離されていて、報酬を得る知識が乏しい
■目先のこと
■時代のこと
ほんの一時期(戦後数十年~現在~??)能力が低くても、誰でも生きることができる豊かな日本があった
■予防線
強く書くと反応が激しく、弱く書くと反応しない
とりとめなく書くと誰も読まない
自分もその一人
おもしろい話だった
完璧主義は完璧な形にまで仕上げることを理想としてそれ以下を完成とみなさない
完成とみなされていないものを発表する気にならないというものだと考えているが
その考えに対し発言されている完璧主義のあるところが自分のそれと違う気がする
つまらないものですがの返しにつまらないものならと返すのはその言葉単体につき
返す言葉でその発言の出元となる事実を表現しようとした結果に対するものなのか
といえば違っている気がするのだ
「あなたにとってはつまらないとかんじるものかもしれないですが私に用意できる
あなたに対する差し出し物としてこれが最良だと考えたものになりますがあなたが
もしこれについての評価をあまりなさらないとしても一旦お納めいただけますか」
「あなたにとってつまらないものかもしれませんがどうぞおうけとり下さいませ」
これがもし前提にあったとしたら「つまらないものをおくるな」という返答アプローチは
相当相手に対して害のある回答となるだろうことを想像するのだがどうか
わたし様のご都合はあなたのベストを評価しません なぜならつまらないから という返答を
もしあなたがされたらそれは当然だったと受け止めることができるだろうか
私が完璧主義という言葉をきいて想像したのは この分岐をいくつも発生させどれがベストか
選択している間に時間が経過し結果をえることができない状態を露呈してしまうことを
「完璧主義だから」ということに帰着させている例があるように想像できてしまうのだ
完璧 という意味においていえば 完璧なまでにことがらを分解して分岐させること
その意味において「完璧主義」という言葉を用いられることに納得してしまう
実際のところその事実があろうとなかろうと前提を解説したり完璧なまでに
つまらないものですが ありがとうございます で済ませてその経緯を完全に省略して
評価もプラス1かマイナス1かという加点だけにすませて 次の行動にうつるという
次の行動の判断基準はよかれあしかれ前段階から引き継がれるポイントは1だけであるという
あいさつのおもきは点数として1しかないというしかし1はあるということを
コンセンサスとしているのではないかと考えるのだ
そんなにおもしろく価値のある毎日毎瞬間をすごすために完璧になるようにかいかにか
ことがらを分岐させまくっている人が分岐を選択できずにコミュ障になる完璧主義は
一般に想像されているであろう私も最初に想像したその「完璧主義」ではない気がする
http://anond.hatelabo.jp/20160402185717
共感したはしたんだけど、これを口に出したら人間関係がズタボロになるのもわかってるから
まず口には出さない。
でも、マジで
だから即座に第一候補を却下すると、第二候補がなかなか出てこないから
黙ってしまったり、しゃべるタイミングがずれてしまったりして、コミュニケーションが崩壊してしまう。
ここまで書いて思ったんだが
コミュ障の中にこういう人って結構多いんじゃないかなって思ってしまう。
喋りたいんだけど、脳内に浮かぶ第一候補の文章が破滅的・差別的・暴力的なので、結果的に黙ってしまう。
黙った本人は「こんな破滅的な言葉を口に出さずに済んだ」というある種の善良感を感じている(不思議な事だが)一方、
聞いた側は「何黙ってるんだ。『つまらないものですが』に対して気の利いた礼の一つでも言えないのか」という、こちらもある種の怒りを感じてしまい、
そのギャップが結果的に人間関係を崩壊させてしまいかねない恐れがある。
むしろ、「そんなもの渡すな」と言ったほうがマシな状況かも知れない。
恐らく、俺みたいなコミュ障は、会話にある種の「理想」を持っていると思う。
つまり、コミュニケーション強者は「つまらないものですが」と言われたら
100人中100人が「その返しおもしろい!」と感じてしまうような「返し」を持ってるものと、思い込んでいるのかもしれない。
実際のコミュニケーション強者は「つまらないものですが」に対して、脊髄反射で「いえいえ、ありがとうございます」と言いながら
その人の服装、メイク、周りの状況、時間、天気などを即座に把握して、次に話すとりとめもない言葉を脳内ですぐに構築していく能力が高いんだと思う。
別にその言葉は毒にも薬にもならない、ただの意味の薄い言葉かもしれない。
でも、それを繰り返すことで、万人に愛されるコミュニケーション強者になることができるのかもしれない。
ここまで言ってて、何が言いたいのかわからなくなった。
コミュ障の俺は、本来ならこの文章を削除して、もっと良い文章が書けると思い込み、また1から書き直すだろう。
じゃあ、なぜ人は完璧主義になるのか?
これは話すと長くなるのでやめる。
片方だけならある程度はなんとでもできる。しかし二つ以上になると混乱する。
片方を優先する余りもう一方が疎かになることが怖い。
一番優先すべきことから紙に書き出して、持っている仕事の優先度を重み付けして仕事を行えばいい。そんなことは頭では分かる。でも実際そうした場面になるとてんでダメになる。
どんな仕事でもだいたい不測の事態が起こる。起こることは仕方がない。でも起こってしまうとその他全ての仕事が頭から抜け落ちる。
余裕を持て、とよく言われる。100%の力で仕事をするな、とよく言われる。80%の力で仕事をしろとも聞く。
80%の力では80%の仕事しかできないのではないか。言葉だけなら分かる。とりあえず形として出来たものを出せばいい。大学のテストだって60%取れば可の評価はもらえる。
しかし心は100%を求める。ただの完璧主義だ。100%の仕事を成し遂げようとするから、100%の力で仕事をする。他のタスクは知ったこっちゃない状態になる。不足の事態にはもちろん耐えられない。
だって、100%の仕事を求められているから。誰かがそう言った訳ではないかもしれない。自分が自分自身に100%の仕事を求めている。
話が逸れた気がする。
みんなどうやってマルチタスクしているのだろう。
わたしは1995年生まれで、今年からついに就活生という称号を手に入れてしまった。
長くなってしまったし、性/的/虐/待表現もあるから、注意してね。
わたしが保育園のころ、親が離婚した。母はわたしと二つ下の弟を捨てたらしい。だから父親に引き取られた。父親にはわたしの母以外にも家族がいたらしい。よく分からんよな。わたし達を引き取った父がどこでどうやって私たちを育てたのかは良く聞けていない。その家族の元で育てたのか、それとも1人で育てたのか。それとも、母と暮らしていた家で自分の親と子育てをしたのか。
とにかく、結果的にわたしと弟は、父にも捨てられたようだった。育児がままならず、このままではわたし達がまともに育たないとの結論だったようだ。当時のシングルファザーに対する風当たりは冷たかったろう。他の子供もいるのだから、私たちが近くにいなくても寂しくはなかったんだろうな。
そしてわたし達は母にもう一度引き取られ、母方の祖父母の家で暮らすこととなった。わたしが覚えている記憶はこの家からだ。
祖父母の家には、伯母もおり、伯母も子どもを連れて帰ってきていたのでわたしと弟は従姉妹と共に4人で育った。伯母もかわいがってくれ、祖父母も孫を平等に愛し、叱り、育ててくれた。楽しいものだった。母は夜の仕事をして私たちを育ててくれた。父は養育費をくれなかったみたいだった。
小学校の頃に、母が再婚した。新しいお父さんはわたし達を本当の子供のようにかわいがってくれた。かわいがるだけでなく叱ってもくれたし、わたしはお父さんには本当に感謝しているし、尊敬もしている。母は水商売をやめ、事務員になった。
そのうち弟が生まれ、妹も生まれた。わたしは4人兄弟の長女になった。弟妹はみなかわいかった。二つ下の弟とは歳が近い分やはりよく喧嘩をした。わたしの方が口が上手く、弟はよく理不尽に言いくるめられていたようで、反省している。
わたしはお父さんというものにずっと憧れており、やっとできたお父さんに本当によく懐いていた。お風呂も一緒に入ったし、膝の間にもよく座った。お父さんのベットにもよく潜り込んだ。小学五年生のある日を境にベットに潜り込むのを止めた。
察しがつくかもしれないが、お父さんはわたしを性的な目で見ることもあったようだ。前から体をまさぐられる事はあったが気にしていなかった。わたしも多少、エッチなことに興味があり、お父さんを放置したことも悪かったと思う。とにかくその日、わたしはお父さんに処女を奪われたのだった。エッチは気持ちいいと思ってたのに痛くてびっくりして、その瞬間にわたしは何てことを許してしまったんだと後悔した。わたしはいつも寝たふりをしていたから、お父さんは寝ているであろうわたしにごめんなと声をかけて、やがて寝た。
翌朝はお父さんと上手く話せなかった。でもわたしの元来の、忘れっぽく、大雑把な性格と、母が手に入れたこの幸せな家庭を壊してはいけないという思いから、あの夜を忘れお父さんとも普通に接した。いつの間にか普通に接することが当たり前になっていた。
挿れられたのはあの一度だけだったが、中学生二年生の頃にリビングで寝こけていたらやはり体を触られた。翌日メールで昨日みたいなことはやめて、そう送った。分かった、ごめんなさい。そう返事が来た。でも、高校一年生の時にまた触られた。クリトリスを執拗にいじられて痛かったことを覚えている。その日からわたしは決してリビングで寝こけないようにした。それ以降は触られていない。初めて挿れられたのも、なめられたのも、指を挿れられたのも、全部お父さんだ。仲のいい友達にも彼氏にも、もちろん家族の誰にも、誰にも、言っていない。
でもわたしは性行為はトラウマにならず、セックス大好きである。毎日したい。話が逸れた。
まぁ、そんなことがあったけど、お父さんとわたしは、仲良しだし、わたしはよその子を育ててくれた父を尊敬しているし、ユーモアのあるお父さんのことが好きだ。評価できない部分があることも、もちろん理解しているんだ。でもわたしは家族の手前、お父さんと仲良しな娘でいなければならなかった。日常生活で思い出すこともなかったからそれでよかった。過ぎたことはもういいんだ。
ここで突然だが、母の性格を書いておく。母はプライドが高く、完璧主義者で、人にもそれを押し付ける部分がある。本当に最近改善されてきた部分もあるが、まだまだ自分にも他人にも厳しい。叱るだけでなく、自分の怒りに任せて怒鳴ることもあったし、今振り返ると一歩間違ったら虐/待なんじゃないかなってこともあった。閉じ込められたりごはんを抜いたり殴ったりはしなかったけど、言葉の暴力は二日に一回は必ずあった気がするな。
まぁとにかく、わたしと二つ下の弟は、よく母の言葉のサンドバッグになっていた。弟は気が弱く、そこが母の気に障るようでわたしよりも当たられていた気がする。今のわたしなら庇ってあげられるのに、当時のわたしは庇ってあげられなかったなあ。 怒鳴られていたピークは小学生までだと思う。
中学生の時は私も弟も尖っていた。家の空気はギスギスしてた。いつの間にか落ち着いたけど、本当に空気は重かった。高校生になってからは楽しい仲良し家族だったなあと思う。たまに喧嘩もあったけど。
さて、わたしが大学生に上がってからのことだ。二つ下の弟が部屋で首を括って死んだ。前から患っていた病気と、受験のことが重なってのことだった。家はめちゃくちゃになった。多感な時期の弟妹には辛い思いをさせた。弟妹には自殺という事実はまだ伏せてある。母は特にボロボロだった。母の自殺騒動も起きたが、半分本気、半分は悲劇のヒロイン気分になった構ってちゃんだったんだろうな、なんて冷めた目でしか見れなかった。悪い娘である。でもそういう人なんだ。
母が親と絶縁したり、お父さんのお金遣いが荒くなったり、私に彼氏が出来たり、当時一緒に住んでた祖父がストレスから弟妹をいじめたりいろいろあった。自分で言うのもなんだけど、私のがんばりで家族は立ち直ったと思う。祖父から弟妹を救うのは親の役目だったと思うんだけど、私しか気付かなかったから私が始めに動いて父母も巻き飲んで解決した。辛かったな。
今は母に怒鳴らないで教育しなきゃだめだよって諭してるところ。弟妹が、死んだ弟のように追い詰められないように私が弟妹のフォローをしている。弟が自殺したのは別に母のせいではないけれど、弟の性格を作ったのは間違いなく母だから。
まぁこんな感じ。
私の癒しである彼氏とは遠距離になった。続くかわからない。遠距離最悪。
そして私はシューカツ生の一員としてがんばりはじめたところ。
私はがんばって生きていくよ。みんなも、できる範囲でがんばって生きてね。
自殺は、できれば、やめてほしいな。
ここまで読んでくれた人ありがとう。
「俺はそれを知っている」という自意識を介在させて見ているから、そういう心理に陥るのではないか。
すこし余計なお節介、いやお説教をさせてもらいたい。その高尚な自意識を消し、赤ちゃんのような無地でフラットな心持ちで鑑賞するスタイルを会得すれば、きっとレパートリーは広がる。この手の自意識は、「SFとしてはガバガバ」「何々のパクリ」などと言い放ち勝手に冷めてしまうアンチ気質の人々と同じ種類のもの。そんな上から目線で、あまつさえ「あぁ、今だけ受ければそれでいいんだな」なんてメタな目線で作者と対決するような物腰では、作品に込められた繊細な表現や演出の意図を取りこぼし、美点を感じ取れずに素直に感動できなくなってしまうだろう。
作品鑑賞は自分と作者の知恵比べではない。美意識の対決でもない。そういう楽しみ方をする人もいるかもしれないが、元々は作品自体を楽しむために見ているはずだ。
作品鑑賞とは、作者のノリに合わせることで、作者の作りし世界に没入しようとするごっこ遊びだ(小説好きな人はこの能力が高い)。とはいえ、ごっこ遊びが苦手な人でも、没入できる作品はある。矛盾のないように記述を凝らした、完璧主義の脚本ならば、誰でも没入できるのだ。とくに海外の大作あたりなら、必然的に精緻で上品なストーリーになる。文化の壁もあるから「俺はそれを知っている」状態も起きにくい。でも、そういう創作姿勢は、一つの美意識ではあるものの、絶対正義ではない。絵画でいうと写実主義だけを評価するようなものだ。
幼児と会話するときにあなたはどう意思疎通を図るか考えてほしい。その時のあなたは柔軟に好意的に欠落を補完しようとする。その時と同じような創造的な姿勢が、作品鑑賞をする読み手にも求められるのだ。なぜなら、作品というものは幼児に等しいものだから。それほどに、独自の世界観を持っていて、少しずつしかその全容が見えてこない存在であるからだ。そう捉えてもなお、作品と向き合うのが厳しいと感じる、あるいは得たものが少ないと感じるなら、それはあなたには合わない作品なのだ。対象読者ではなかったのだ。そうしてただ去ればいい。でもそれは寂しいことだ。寂しさを生んだ原因を作品だけに求めないでほしいと思う。
ここにたどり着いた若い君へ
真面目で良い子なら知っておいて欲しい。
私が生きてきて、若いうちに知っておきたかったことを列挙する。
・アニメ、ドラマ、漫画、テレビ、ネットなどはなるべく控えた方がいい。知らないうちにそれらの価値観が君の価値観に変わっている。恋愛なら、それらの登場人物は美しい容姿を持っているため理想がありもしない容姿を基準にすることになるし、他の価値観においても容姿至上主義、完璧主義になったり、都合の良いものを求めがちになってしまう。それらはありもしないものだと理解しよう。
・友情は大切にした方がいいが、友人と時間を過ごしすぎると考えが偏ることは理解しておこう。関係が無くなることに怯えてただ維持するだけの関係は友情ではないし、引越しするなどの環境を変えることができる立場であればそんな関係は無くてもあまり変わらない。彼ら彼女らと交流することでどういうメリットがあってデメリットがあるのかは把握しておいた方がいい。
・損得勘定をするのは悪いことではない。狭いコミュニティだとそれは悪いことだと思われがちだが、それはそのコミュニティが自らの短所を認めたくないと思うが故であることもある。多くの個人やコミュニティはそれらの持つ欠点を認めたがらないし、改善のために欠点を指摘したとしても攻撃されたとしかみなさない場合がほとんどだ。「嫌なら出て行け」は状況によって正誤が分かれる。
・人と同じ、自分より下がいる、という状況は君に安心感をもたらすだろう。だけどそれは危険なことだ。君はそのままでいいと思わせるからだ。君は君が考えている以上に能力も魅力も無い。
・世の中を良くすることより、自分の安全や快楽を優先する人間がほとんどである。他人に期待しないほうがいい。
・人と差ができたときに見下したり誇示する行為は社会を不穏なものにする。そうなったら下のものを引き上げ、手助けをしよう。そうでないと、自慢に飽きたとき人生や社会にうんざりすることになる。
・儒教は年配の人でも広く尊厳を保つことができるが、行きすぎると改善ができない組織を生み出して結果全体が腐ってしまうことがある。
・若い頃はなんでもバカにしてしまうが、それは主に自分が優れていると思いたいからだ。大人になっても何かを貶して自分を大きく見せようとする人間はいる。しかしながらすべての事柄にはメリット、デメリットがある。バカにする材料は何にでも存在するので、デメリットのみを指摘するのは誰でもできることだと理解しよう。
・自分のことを頭がいいと思っている君は、何を根拠にそう思っているか考えた方がいい。「頭がいい」というのは抽象的な概念だ。君の人生を大きく動かす、または世の中で必要とされる頭の良さは勉強ができることではなくて、自分の頭で物事を考えることができる力だろう。勉強で得た概念や知識はそのための補助にはなるが、後者を重点的に養おう。
・平凡な人にとって学歴のメリットは、高学歴のコネを作れる、新卒キップが手に入る、学歴至上主義の人と話すときに説得力が増す、くらいだ。大学に入ればわかるが、学歴はミクロではその人の頭の良さを保証するものでは全くない。入試は本当に学問を理解していなくても解ける。中卒でも高卒でも頭いい人はいる。高校に入ってなくても大検を取って、大学にはいることは十分すぎるほど可能だ。受験生の大半は考えずにただ暗記をしているだけだ。
・人間は所詮動物の一種だ。理屈よりも本能に支配されがち。本や漫画にでてくるような人格者はほとんどいない。また、本能に支配されているがゆえに、友達が多い人、恋人がいる人、優秀な人に嫉妬をしてしまうことは自然なことだ。自分自身がその感情を抱いてしまっていることは隠さない方がいい。悔しいと思うのであれば、それを認め、何かしら努力をする糧にしよう。それしか君の魅力を変える手段はないのだから。
・人間のキャラは見た目よりも話し方と声質に大きく影響される。それらは変えることができるし、必要があるならボイトレに通うのも良いだろう。
・人と会話するときに緊張して声がこもったり、小さくなりがちだったり、あまり響かない声質であれば、声を出すときに共鳴させる場所を上の方(少なくとも喉仏より上)に移動させてみよう。ただし、声質を変えるには年単位の時間かかる。
・人間にも知能の差がある。大人でも理屈や理論を理解できている達成度も人によって違う。
・ノリが違う場合、無理に合わせなくても良い。君は君だ。無理をしているのは相手にも伝わるし、リア充へのただの憧れならやめたほうがいい。リア充は傍目からみたら羨ましいと思うが、実際はそれを維持するのにエネルギーを使いすぎてしまう。もちろん、それによるメリットもあるが虚栄心の強い人が多いので、君と生涯を共にするような人と出会うことは少ない。そういう場で交換した名刺はほとんど引き出しの隅で一度も見られる事なく眠るだろう。リア充であることは、お金と時間をかけてリア充である、イケているというステータスを維持していると考えるのが最も良いだろう。それは悪いことではない。君が「いい人間になるゲーム」が好みなように、彼らも「イケてる人間になるゲーム」が好みなだけだ。君が一般的にいいとされている、イケているものの別にやりたいことがあるのであれば、それを優先すべきだ。若い内は知らない内に「誰がいけてるかゲーム」に強制参加させられてしまうが、それに関わらなくても人生を楽しく過ごすことは可能だ。ただし、自分に合うかどうかは試してからでないとわからない。
・職や組織のグレードや規模に関係なく嫌な奴も無能な人もいる。
・人を変えることは難しい。その人に危害を加えてはいけない場合、嫌な人間と出会ったときは、自分が変わるか環境を変えるしかない。
・愛情や友情は不公平をもたらす。特定の人を優遇することでもある。
・たとえイジリや愛情でも貶しやマイナスの言葉は極力控えるべき。意外な言葉で人を傷つけることがある。若いうちは本当のことは言ってもいいと思いがちだが、それは思わぬ恨みを買うし、欠点や状況を受け入れられない人にとっては心にダメージを与えてしまう。容姿や資産などを持っている時は強い人間も、それらを失ったとたん弱くなることはあり得る。
・心の弱さは個人差があるが、立場や環境や状況によって人の心は弱くなる。弱っているときに傷つけられると、深い恨みを抱いたり、死んでしまうこともありうる。
・人は自分の経験や感覚から他者の気持ちや考えを想像する。そのため、その人が経験していないことや、その人にない概念について他者に思いやることは難しい。例えば痛みを感じない体質の人はなぜ人を叩いたらいけないのか理解できなかったという事例がある。
・人の考えは簡単に変わるし、それは環境にとても大きく影響されてしまう。スタンフォード監獄実験やミルグラムなどをしらべてみよう。悪人もおそらく環境が違えば悪人になりえなかった。君が世の中を良くしたいと考えるのであれば、悪くなってしまった人をどうするかではなく、どうすればそういう人間を生み出さなくていい環境を作ることができるかを考えよう。
・君は理屈で物事を考えることができるとしても、他者はそうではないことが多い。彼らはそういう環境で育ってきてしまったからだ。
・バカな人間を見たときに、見下してはいけない。それはその人がそういう風に育つ環境に原因がある(もちろん天性の素質もあるが)。運命が違えば、君がその人になっていたかもしれない。また、君の子供がそうなってしまうかもしれない。君がすべきことは、そういう人間を作り出さない環境を整え、世の中をかえることだ。
・「子供が可愛くない親なんていない」は嘘だ。例外は存在する。虐待されている子供にとってその言葉は毒になるし、追い詰めることのもつながる。耳馴染みのいい言葉、響きのいい言葉はまず疑ったほうがいい。ただし、それらは多くの場合には当てはまる。
・耳馴染みの悪い言葉に対して条件反射で拒絶する人は多く存在する。彼らはおそらく恵まれた環境で育ったか、世の中の危険などを自分の身近に存在することを認めるのが怖いのだ。だが、悪い面と良い面、両方を把握していないと正確な答えは導けない。
・現代において動物は人間の奴隷である。しかし、彼らにも意識は存在している。条件が少しでも違えば君は肉になっていたかもしれない、実験動物になっていたかもしれない。彼らに感謝しよう。
・若い内は自分の居場所を求める。それ故に他人と違ったキャラを自分に求める。自分に何も無い場合、理想の自分を作り出し、それが中二病をもたらす。自分が平凡であるなら素直に平凡であることを認めて、そこから何かに向けて努力しよう。それが本当の君のキャラになる。大人になると、男女ともに自分をしっかり把握して、その上で努力している人は魅力的にうつる。
・人間は自分の仲間か、自分より上か、自分にメリットはあるか、などで人を判断する。そして、それらに当てはまら無い人に対して恐ろしく残酷なことができてしまう。差別の恐ろしいところは、あらかじめ自分の仲間ではなく、自分より下と位置付けてしまうところだ。
・人は自分の望む情報を選択的に集めようとするし、望まない情報である場合、その情報の欠点を探し不要な情報だと思いたがる。これを確証バイアスという。多くの人が自分の考えにバイアスがかかっていると自覚してない。このバイアスを互いに自覚することができれば対話はより生産的になるが、確証バイアスがかかっているから確証バイアス自体を受け入れないという人の方が多い。
・事実であってもレッテルに騙されてはいけない。例えば痴漢をしてしまった優秀な科学者の意見はみんな軽視してしまうだろう。しかし、痴漢をしたこととその人の科学者としての知識や経験は分けて考えなくてはいけない。そのレッテルと、それの持つ有益な部分との関係を考えた上で情報の取捨選択をしよう。
・人は自分の長所で人間の価値を測ろうとする。人の評価の仕方が偏っていないか自分自身に問いかけよう。
・大人は自分が優位であるはずの立場を揺るがされるのが怖いからこそ、子供に子供らしさを求めることがある。
・理屈っぽさは悪いものである風潮に騙されてはいけない。ものごとを考える時は論理的に考えるのが一番だ。ただし、対人で理屈っぽく話すのは論外だが。
・新しい何かを考える時は必ず紙に書こう。その方が効率がいい。君は頭の中だけで何を考えていたかをまとめるほど頭はよくない。頭の中で解決できるのは経験したことがある事柄のみだ。
・不条理や理不尽は減らすことができる。でも、自分以外の人も巻き込む必要がある場合、既述の理由で多くの人はそれを面倒くさいとしか思わない。労力もかかるし、君自身に力が必要だ。それでも誰かが行動に移さない限り状況は変わらない。そのつけを払うのは後の世代だ。誰かが動くことでしか救えない人はたくさんいる。
・言い訳はしてもいいけど、それ以上に自分のダメだったところをあげよう。じゃないと君は成長できないしいつまでも変わらない。でも、本当に悪い環境だったらすぐに逃げよう。
・日記をつけよう。そして1日の中で、自分の良かったところ、悪かったところ、どう改善すればいいかを毎日書こう。特にどう改善すればいいかを考えるのに時間をかけよう。
・人間の魅力は動物的(美醜、強さ、声、体格、体臭、組織での立ち位置など)な要素と、理性的(行動、知識、思考力など)な要素がある。中でも動物的な要素の方が強力で、前者のみでも世の中やっていけるが、後者のみではなかなか生き辛い。顔やスタイルがいい人間は残念ながら得だ。また、説得力は動物的な魅力を持っている人の方が高くなる。
・自分を知ろう。なるべく画質のいいカメラで自分を日中に撮影し、ビデオで自分の話し方や立ち振る舞いを録画し、一つの単語を覚えるのに何回復習する必要があるかを試そう。カメラやビデオで自分を撮影してそれを見るのが苦痛な内は、自分で自分のことを認めれていない。ブサイクならブサイクを認め、そこからどうすれば魅力的になれるか考えよう。自分の欠点を認めれていない人間は痛々しくうつる。
・論理学と科学的思考と複眼思考を身につけよう。人の言うことは偏った意見であることが多い。
・身の回りで知らない単語が出てきたら、必ずメモしたり調べたりしよう。知らないことをゼロにするくらいの心がけのが良い。ネットで検索して出てくることを覚えるのはバカというのは極論だ。知っていると理解しているは違うし、理解していないと思考を発展させることはできない。また、記憶力は関連付けることで強化されていくので、知っている事柄を増やせば増やすほど、物事を覚えることがたやすくなる。
26歳と言っても異業種に中途入社致しましたので、お仕事になれていません。
たとえば、今の会社には懇意にしていただいている取引先さんがいまして、その会社にいるみなさんは頭が良すぎるのです。
頭が良いだけなら良いのですが、ひとり、完璧主義者の方がいらっしゃいます。
その方からときどきご指摘を受けて、自分の至らなさに日々自己嫌悪をしております。
みなさんはこういうとき、どうしているのでしょうか?
私はどうしようもないので、とりあえずコンビニでビールを3缶ほど買い、
帰宅したらすぐさまプルタブを開けてカーーーッと1缶飲み干したら、
ネットを巡回しているとよくメンタルの不調を訴えタイトルのようなことがよくつぶやかれる。ダイレクトではないにせよ、頻繁に見かける。まあ、死ぬまでいかなくても非常にネガティブでドローントしている。ブログを書いている人たちのうちほぼ全ての人たちがメンタルに問題を抱えているように見受けられる。
自分はブログを書かないものの、たまにそうなるのだがそのときにどう考えているかを分析してみた。まずは自分の理想と刷る姿と今の現状との比較を無意識にして、そのギャップに苦しんでいることがあげられると思う。
よりよく生きたいという強い欲求の裏返しが「死にたい」という言葉に表れているのだかららなんとも皮肉なものだ。こうありたい、でもダメだから死にたい。うまくいかないから死にたい。完璧主義であったり神経質な人がはいりがちな鬱の状態はこういうことになりがちだと良く聞く。まあそうでない人でも死にたいと思ってしまうことはあるのかもしれないけれども。
どいうことはだ。こうありたいという考えがなくなればよいわけだ。そうでなくても生きていける。うまくいいかなくても生きていける。
そもそもそうでないといけない理由は何だろうか?厳しい毒親の刷り込みだろうか?理想的で観念的になって妄想の世界で生きているだけの話なのではないだろうか。
だめな自分を受け入れてだめでもよいから今を生きて、ほんの少しの進化と休息を繰り返す、
それでいいのではないか。いったんは諦めるところから全てが始まるのだと思うよ、焦らなくていいよ
とはいえ、努力してだめでした、というのと努力もしないで後悔するのとでは全く事情が異なる
諦めて小さな努力を毎日重ねて、それでありのままの結果を受け入れていたってふつうのどうしようもないありふれた人だって受け入れる、それでいいんじゃないかな
こういう勘違いが俺らを苦しめる。
人前で緊張するのは、自分を大きく見せたいという邪念があるからです。平常心を保つためには、まずは等身大で挑戦し、本当に自分を大きくするしかありません
http://next.rikunabi.com/journal/entry/20150907_Y3
ふざけるな!
確かにプレゼンの本番前の緊張は、こういう精神論でもある程度はなんとかなる。
でも、多勢の前に立つとそれだけで心臓の鼓動が跳ね上がって、呼吸困難になるほど緊張する人間には
他人から見て「ちょっとあいつ緊張してるな」程度に見える人間は
たぶん精神論でもなんとかなる。
でも、明らかに呼吸がおかしくて、見てる方まで辛くなるレベルの人間には、
「プライドが高過ぎるんだよ」とか「完璧主義だから」「準備不足だから不安なんだよ」など色々と見当違いの陰口を叩かれるのも我慢ならない。
人前でも堂々とジョークのひとつでも飛ばしながら余裕で話せる。
でも、正常な状態では無理だ。(鬱状態だと1対1でも緊張する)
「失敗したらどうしよう」という考えも、恐怖を感じるから出てくる思考なので、
平均的な人間が感じる程度の弱い不安なら精神論でもなんとかなるだろうが、
多勢の人間に見られると、どうしようも無く恐怖を感じる、という人には、ほとんど効果がない。
そもそも考えてみて欲しいのだが、何に恐怖を感じるか、なんて個人差がある。
背が低い人も高い人も居るのと同じで、何に恐怖をどのぐらい感じるか、
なんて人それぞれだ。
自分が人前で緊張すると自覚してる人なんて、それこそそれを克服しようと
そんな人に安易に「こうしたら良いよ」なんてなぜ言えるのか?
もちろんアドバイスされたら「ありがとうございます。次からそうしてみます」とは言うよ?
でもさぁ、ちょっとした精神論で克服できた人間のアドバイスなんて何の役にも立たないんだよね。
声が震えるほどの恐怖って、もう命の危険を感じるぐらい、ものすごい恐怖だ。
いつ発射されるかもしれないピストルを眉間に当てられてるのと同じぐらいの恐怖だと思う。
そんな恐怖を深呼吸とか邪念を無くすとかで抑えられると本気で思ってる人間は頭が悪いとしか思えない。
ではどうすれば良いのか?
俺がおすすめしたいのは、薬に頼ること。
心臓の鼓動を抑える薬がある。
それを飲めば、少なくとも自分の動悸でテンパる事は避けられる。
動悸が落ち着いていると、呼吸も安定するので、かなりおすすめ。
具体的な薬の名前はここでは控える。
効き方には個人差があるだろうし、ステマだとも思われたくない。
俺の場合は不安を抑えるよりも、直接心臓の鼓動に影響を与える薬がてきめんに効果があった。
自分は心臓に持病があるので不安だったが、100人規模のプレゼンがあったので、
そこでしくじるぐらいなら死んだ方がマシだと思って薬を試してみた。
結果、プレゼンは成功し、これまで俺に向けられてた軽蔑の視線から脱出する事ができた。