はてなキーワード: 完璧主義とは
なるほど。考えさせられる意見でした。
ちょっと考えてみたけど、てにおは は個人的には、日本語を100マスターする
上での残り30だと思っている。
いわゆる 日本語でおk? とか 日本語で説明する = てにおは をマスターするであると
日本人だと、ていおはがむちゃくちゃ = その他教育も大体おろそか = 論理構造なっていない人が
多いということに繋がりやすいと思うが、論理構造を説明する上で、てにおはは手段でしかない。
動詞、形容詞、名詞、あとは文章のメッセージがしっかりしていたらそれをくっつける複雑な
個人的には、英語をこれだけ長いこと教育している国で英語がサバイバルの言語として
教えられない、あるいは、仮説思考的にどんどんjump in していくのが大切ってことを教えれないのは
このへんの完璧主義
(いいほうに完ぺきだったらいいけど、実は別にゴールに向かう上での完璧さではない
ところでの枝葉末節と幹を切り離せて考えられない、ただの過剰主義と一緒なのでは?)
個人的にこの言説、ずっと、どうしたらいいんだろうと思ってきた。
個人的には、同時並行をすると、どちらかがおろそかになるという意味なのだろう。
非常にセコい言説だ。
それができると次にいけるという、非常に強い”もっともらしさ”を持っているが、
実はそんなところにたどり着いている人はいない。
しかし、100%の日本語を話せる”気”になっている人はいるが、
本当にそんな人はいるのだろうか。
時に図を使い、表を使い、それでもわからない、という事が日本語でも余裕で起こりうる。
大体日本語をそんなに”極める”ことに日常の意識をはらっているような関心の強い人間は
大体の日本人も日本語なんて80、もしくは70%ぐらいしかコンプリートしていない。
70→80に持っていく暇があったら同時並行で英語を勉強することのほうが限界効用的には
高いはずだ。
そういった事をわからない、もしくは英語、無学習の人間に限ってこのようなことを言う。
個人的には、語学を習得スる際に、文脈で不確定性の中で切り拓くという思考自体が
そもそも脳を鍛えてくれる活動で、日本語にstick している暇があったら激しくこちらの
方が頭に効く。
漢字をたくさん覚える限界効用と、英語を仮説思考的に運用するプロセスの限界効用は
どちらがいいのだろう。少し考えればわかると思うが。
うちのケースの場合
親とは産前にちょっとしたイザコザがあって関係が少しギクシャクしていたから、
親に頼るのには若干の抵抗があったんだよね。
毎日5品作るのは、自分も美味しいもの食べたいし、作るの嫌いではないし、
とーちゃんがかーちゃん喜ばせるのって美味いもの食わすぐらいしかできないし、
だからこれからも料理いっぱい作るよ。(昨日つくったヤウムセンがマジ美味かった)
でも、仕事の日の食事まで、仕事じゃない日に全部仕込むのさすがに辛かった。
今は早速だけど、元増が仕事の日には親に来てもらって
かーちゃんの食事の世話をしてもらったり、
それだけでも随分助かるわー。
ホント、早くこうすれば良かったよ。
始終含ませてないと出なくなる!って人
逆だったわ。始終含ませてないと張りまくって痛い!んだよ。
どうせ子と離れたって搾乳必要だし、搾乳するくらいなら飲んで貰った方が早い(手は勿論搾乳機使っても子が飲むより遅いし疲れる)。
完母だったけど荷物は少ないし夜の授乳も添い寝で乳含ませりゃ良いだけなんで楽々だったわ~。
産んだ直後にちゃんと「産後の悪露も止まない体をおして数時間おきに赤子に乳首を含ませ続けるスパルタ母乳活動」やるだけで
その後1年以上楽出来たよ。
つーかそれも別に大して疲れなかったしさ。困ったのは乳首切れて痛いのだけかな。
元増田だって単に神経質&完璧主義なだけで(毎回夕飯5品作るとかよくやるよ)そこまでやらんで良い、って程度で済む話っぽいしね。
家が狭いのは大変だろうけど、だったら尚更爺婆呼んだら狭くなるし。
http://anond.hatelabo.jp/20150507012413
上記を書きなぐった増田である。4日経ってようやく落ち着いた。
思ったよりも読まれ、思った以上に言われ放題言われていた。
その方々に届くとは思えないが、目についたところだけ、間違いのないように補足を、そして意見や提案を頂いた方々に感謝を述べるべきだろうと思い、本記事を書いた。
フィクションだったらどんなに良かったことか。俺が素面で感情のままに書き殴った本心である。釣り行為は俺は好まないし、創作文を書けるほど文才はない。
なお、増田はこれまでに数回見たことがあるだけで、前記事が初投稿、本記事が2回目の投稿である。
一から十まで書いて間違いのないように伝えたい性分なので、長いのは勘弁して欲しい。
背景を書かなければ誤解されると思ったから、書いた。
就職先はメーカー系の電気系設計職である。プログラムも多少は読み書き出来る。これ以上は書かない。
価値観が勉強をして褒められるという点しかなかったため、勉強はしていたし、成績だけを見れば大学3年までは優秀なほうにいた。
しかし、研究や社会では、勉強ができれば褒められるという観点は存在しない。あるのは、仕事ができるかできないか、の一点である。俺はできなかった。
勉強したことで就職でき、結果的に現時点では生活に困っていないことだけは勉強に感謝している。
・意識高いメンヘラ乙、高すぎるプライドと目標を捨てろ、五月病乙
たぶん五月病ではないと思う。
高すぎるプライドと目標を捨てろ、は全くそのとおりである。だができずに何年も経っている。後述する。
・お前は本当に死にたいのか死にたいならこんなところへ書いてないで死ぬだろ、生きることから逃げてるだけじゃねえの、死にたいじゃなくてモテたいだろ、ハワイでゆっくり気晴らししたいだけだろ、構ってちゃん乙 など
本当に死にたいのか、と言われると、「褒められもせず認められもせずに惰性で生きている現状から逃げ出したい」というほうが正しいのかもしれない。
更に正確に言うなら、「自分の性格のクソな部分を投げ出して心機一転楽しく生きたい」だろう。
「死にたい」のは「今のまま生きたくない」からであり、生きられないなら死ぬしか無い、という思考である。
問題は、
>俺の性格の本質は、自己中心的な完璧主義、そこそこの努力で他人に賞賛されたいと願っているゴミである。自分の思い通りにならないと泣きわめく子供である。
と書いたとおり、俺の性格の本質がこうであるということである。
高すぎるプライドなども含め、このクソな性格を変えようと10年近く悩み、負の面を出さないように腐心した。が、一向に改善せず、追い詰められると上記の問題点が出てきてしまい、台無しになる。何もしていない、ということはない。
このクソな性格を後何十年も抱えて生きて、どうして苦しみよりも楽しみのほうが大きいだろうと推定できるだろうか。
これを俺自身が受け止めきれないから、「生きたい」と思えないのだと思っている。
・さっさと死ね
投稿後、時間を置いて読みなおして、言われるだろうと覚悟はしていた。が、さっさと死ね、と言われるのを見ると堪えたし、書いた人のイライラ発散以外で言う意味ないし、ぶっちゃけ今後俺が本当に自殺に踏み切った時に、匿名だろうと自殺幇助とかと見なされるかもしれないんで、何かの拍子で捕まりたくないなら遊びでも気晴らしでもやめといたほうがいいと思った。
おせっかい乙。
・グダグダ言ってないで行動しろ、受け身の人生やめれば 系、ボランティアしたら、創作したら など
自発的に行動したことは何度かあるが、いずれも実のないものにしか感じられなかったため、精力的になれない。
ボランティアをしても自尊心が満たされるとは思えないので自発的に行く気があまりない。
これまでに創作活動などをしたりもしてみたが、受け入れられたり褒められたことはない。それよりも何より、やっていて心から楽しいと思ったことがなかった。結果、三日坊主で終わっている。
文才はない。絵心もない。あるとすれば音楽センスだろうが、創作はできない。
意識高い系だったことは間違いないので、ある程度のことは試し、失敗し、上手く行かなかったことがトラウマになっている。上手くいく保証がないと動けなくなってしまっている。これもダメな性格の一部分である。
・運動したら、肉食ったら など
一応、運動は会社の人と月数回テニスをやったりしているし、食事は十分とれている。どちらかと言うと過食気味である。
これらは一時的な逃避行動として気分を上向けるにはいいが、それ以上の解決法を与えてくれなかった。せっかくの意見に対し申し訳ない。
気力が出たら、行くだけ行ってみようと思う。
猥談も中学から避けてきて、一人で二次元エロをこじらせてしまったため、全くの無知であるが。
・こんなテーマ語り尽くされている、隣の芝は青い、俺もそうだなんという俺 等、山月記を読め、三木清を読め 等
少なくとも、他の人はこういうことを言わない、言ってくれない。言ってくれても、自分が体験したことでないので、どうしても信じられない。これはそのまま他人を心底から信用していないのだ、ということになってしまうが。
ただ、これだけあるある的な感じで広まった事実はきちんと受け止めたい。
山月記は久しぶりに読んだ。なるほど、授業で習ったあの時とは受ける印象が全く違った。
嫌われる勇気は読んだが、突然の改心で置いてけぼりになってよく分からなかった。
http://anond.hatelabo.jp/20141208003341 は読んだ。とても参考になるが、まだ自分は堂々と生きる自信はない。
文豪が140年も前におおよそ似たような思考ループに陥っていたことは初めて知った。
何故生きるか?に論理的に答えは出せないこと、信仰によって意義を与えられるのだ、そして神とは自分自身の生のことであり、それを信仰することが生きる意味なのだ、という風に読み取った。
まだ心底からの理解には及ばないが、何故生きなければならないのか?に対しての一つの答えを得られたと思う。
そうすると、死ねないとすると、否応にでも自分のクソな性格をどう対処するか、になるのだろう。
もうこれだけ手を尽くしたのだから俺自身では変えられない、宗教かクスリか、いつか出来るだろう科学による洗脳・人格交換技術に頼るしか無いと思っていたが、諦めて受け止めるか、どうにかしないといけないのか。
とても辛い。
書きたかったことは概ね書き終わった。
俺には生きる目的がない。夢もない。ただ漫然とゲームやアニメ等のコンテンツを浪費し、飯を食って生きながらえてしまっている。死にたい。
おそらく、かつては生きる目的はあった。勉学に励み、大学から研究の道へと進み、父親のように研究者として生きたかった。大学中に恋をし、早いうちに結婚したかった。社会の役に立てることをし、名声を得られなくとも慎ましく生きていきたかった。
だが大学の研究室で現実を知った。俺には新しいことを考え出す力が決定的に不足していた。学部生として配属されたときに最初に与えられた目的が希薄であり、自分で目標を作り目的を見出さなければならないことを知った。日々の作業はただただ雑務であり、教授の話す夢物語と現実の作業の差を感じた。そこには楽しさもうれしさもなかった。
結果、研究室に入って数か月で鬱状態となり、修士卒業までの3年を無駄に過ごした。元々の人付き合いスキルのなさもあり、在学中に出会いなどあるはずがなあった。利子なしの奨学金も取れたが、あてにしていた返済免除などとれるわけがなかった。
修士に入ってすぐ、研究の道へ進むことをあきらめた。得たことは、お前の目標とこれまでそれに走ってきた人生は間違っていたのだ、という現実だけだった。
社会的には「幸いにも」、俺にとっては「不幸にも」、俺がこれまで勉強してきた方面で、有名大学の推薦枠で、大企業の子会社かつそうそう潰れないメーカー会社に就職した。
大学での研究の道はあきらめても、企業の開発部門なら心機一転できるし、あくまで利益追求という目的があるから、君にはそっちのほうが向いているのではないか、と大学教授から勧められたからだ。
だが、入社して1年経った今、仕事にも生活にも虚無感しかない。
やりたいかもしれないと思っていたことはすでに分業化されており、統括の立場になるには20年はかかるであろうことが容易に予測できた。
研修後、ある程度希望を出した部署には配属されたが、全く興味がない仕事に半年従事させられた。人手が足りないから応援にいってこい、ついでに仕事の進め方を学んでおけ、と言われたが、いかにうまく手を抜いてサボるかを学んだだけで仕事の目的と意味をいくら聞いてもさっぱり理解できなかった。
楽しいともやりがいがあるとも全く感じられない。これを20年耐えたところで、俺のやりたいかもしれないことができるとは思えない。
別にやりたくもない仕事を押し付けられるのは社会ではよくあることだろうから、そこは仕方がないと思ってやるしかないのだろう。だが、仕方がないと思ってやるのは何故かといえば、仕事だからであり、なぜ仕事をやるのかといえば、金を稼いで飯を食って生きるためである。ではなぜ皆そんなにやりたくもない仕事してまで生きるのか?
色々な知り合いに相談してみたが、「生きてるから仕方ないじゃない」「死んだらほかの人が悲しむから」程度の回答しか得られなかった。
理由もなしにそんなに必死に生きていられるのか。言わないだけで目標とかこう生きたいとかあるんだろ?と勘ぐっても、それが何かは皆目見当がつかない。
さらに言うなら、俺にはそういう目標やらこう生きたいとかやらもない。
いや、正しくは最初に述べたとおりのことはあったが、もうかなわない夢物語と化している。代替案はない。
一山当てて海外を豪遊したいだとか、結婚したいだとか、そういうことはなくもないが、その理由は「そういうことをすれば他人から称賛されるから」というクソな理由であり、俺が自発的にやりたいことではない。
少なくとも、俺は俺が嫌いだ。俺の性格が嫌いだ。
俺の性格の本質は、自己中心的な完璧主義、そこそこの努力で他人に賞賛されたいと願っているゴミである。自分の思い通りにならないと泣きわめく子供である。
いくら表現方法を変えようと、手管を尽くそうと、我慢しようと、精神に負荷がかかると必ずこの性格が顔を出してしまう。変えられない形質というやつだ。
こんな性格を持つ俺自身を俺は全く好きになれない。むしろ大嫌いである。
自己啓発本とかでよく言われているように、まずは自分を認めなければ始まらない、だから認めたらどうだ?アホか、こんな人間なぞ信用もできないし認めてやることなんかできない。
だから、死にたい。俺には苦しんでまで生きる意味なんて、目標なんてないのだから。
一方で、この俺の行動を「構ってチャン乙」と冷めた目で見ている俺がいる。当然だ、こんなことを書いているのは俺かわいそうアピールに他ならない。
こういう風に書き散らしてみたり、酒を飲んで人に八つ当たりしたり。世から見ればこんなことをしているのはメンヘラとレッテルを貼られ、忌み嫌われ、蔑まれていく。
こんなことをする奴を助けてくれる奴なんていない。この世にスーパーマンはいない。いたら詐欺師か霊感商法か宗教勧誘だろう。
さらに、俺の周りには俺が生きたかったような人生を送っている奴がゴロゴロいる。まさに最初に挙げたような、研究職について人生順風満帆なやつが何人もいる。つきあっただの結婚しただの子供作っただの、というやつも何人もいる。仲良しグループですらそういう話題に事欠かない。
そういう話を聞くたびに、激しい嫉妬に駆られる。どうして俺はそうなれなかったんだ。どうしてお前らは。どうして。どうして。
生きているだけで、そういう話がどうやっても耳に飛び込んでくる。別に友達に限らず、仕事の付き合いでの雑談でも絶対に出てくる。避けることはできない。
俺は愛情というものがよくわからない。恋人や結婚相手、子供が欲しいとは思うが、それは社会的ステータスのために欲しいのであり、純粋に誰かを好きになったことはない。さらに口下手のオタッキーだから、これまでに付き合ったことなどないし、当然童貞である。
恋愛関係については何も知らない赤ん坊であるのだろう。だが、完璧主義のため失敗は許されない。付き合うためのきっかけもわからない。職場には女性がいない。出会い系は危険というニュースのイメージを子供のうちにさんざん刷り込まれている。街コンは行ってくれる知り合いがいない。そもそも、恋愛をするメリットが分からないまま、他人の恋愛事情に嫉妬している現状が意味不明である。
当然知識はある。山の深くへ入り込んでも、海へ入水しても、首を吊っても、道や線路へ飛び出しても、薬品やガスを使っても、風呂場でコンセントをショートさせても、すぐに死ねるだろう。他人への迷惑度など知らん。
ではなぜ衝動に駆られてもそうしないのかというと、きっと死とはどういうことかを知らないからだと思う。
幸か不幸か、物心がついた後では私の身内や親しい間柄の人間では未だに誰も死んでいない。葬式に出たことがない。ペットも飼っていなかったので、親しい生物の死に直面したことはない。
二度と会えなくなるということはわかっているが、理解したことはない。
死んだらどうなるのか?魂なんてものや天国地獄なんてものはないだろうが、そうあってほしいという願望はある。
俺がこの詰み状態から抜け出すには、俺のことを受け止めてくれるそこそこかわいい未婚女性と、ネットやゲームに張り付くよりも楽しく生産的な何かが必要なのだろう。あと金。
だがそれは降ってはこない。だが掴み取るためには今よりもっと酷い精神状態になりながら人生に打ち込まなければならない。だが、そもそもこれまでに目標を勉学以外で自発的に達成できたことなどない。
それらが欲しいなら、どうすればそれを手に入れられるか?という戦略を立て、目標と妥協点を立て、行動しなければいけないのだろう。そのような気力はない。そもそも前提として俺の性格が人間失格レベルなのだから、人生は詰んでいるのだ。
また明日から仕事だ。死にたい。死ぬのがだるい。死にたい。助けてくれ、だが無理なんだろう。死にたい。
15/5/11
母は、完璧主義の支配的な人。
10代後半から荒れたものの、とりあえず20代後半には落ち着いてきた。
でも、ぜんぜん回復していなかったのだね。
35歳のころ、母と和解した。
そして、最近ふと気が付いた。
「母の期待に応えよう」という幼少期のパタンを再び繰り返していたことを。
まったく、アダルトチルドレン、恐るべし、だよ。
まあ、私も中年になり、母が子育てしていた当時の事情も分かるので、もう母に対する怒りはない。
その意味では、気の毒にさえ思っている。
ただ、まだ母の価値観に真っ向から逆らうのが怖い自分に気が付いて、唖然とした。
私が、自分のブログで堂々と書かないで、こんなところにコソコソ書いているのも、それが理由。
いま思えば、母はACだから、彼女の考え方はとても窮屈なのよね。
「〜すべき」論に満ちている。
こういうことは一足飛びに実現するのは難しい。
まずは、気付いたことだけで、良しとしようか。
http://anond.hatelabo.jp/20150213215921
認知行動療法についてちょっとブックマークで関心が集まっているからちょっとだけ書いておくよ。
俺の知識は『悲しみよ、さようなら』『フィーリングGoodハンドブック』、新書の『はじめての認知療法』あたりをさらっと読んで、俺が実践している方法を書いておくよ。
まず一つに、認知療法には「認知の歪み」という考え方がある。これは、要するに「そう考える必要は無いけれど、そう考えてしまうが故に鬱になったり、ますます精神に支障をきたしてしまう」ってパターンのこと。で、その一つに「べき思考」ってのがある。これは要するに「◯◯するべきだ」とか、あるいは「◯◯しなきゃいけない」と考えてしまうことなんだ。
この「べき思考」の何が問題かというと、世の中そんなに「べき」で考えられることはそれほどないってことだ。あったとしても、それは何の解決にもならない。だから、「◯◯するべきだ」と考えるよりも、「◯◯だってできる」とか、あるいは「◯◯もある」といったように、「べき思考」から頭を下ろして、他の打開策だってあるんだよ、そう考える必要はないんだよ、ってのをメモして、認知の歪みとして捉える必要があるわけ。
元々の増田が何と戦っているかはわからんけど、たぶん「◯◯するべきだ」というのにとらわれてしまっているんだと思う。認知療法だって、毎日「しなきゃならない」っていう風に思うと、逆に続かなかったりする。そもそも、認知療法のトピックとして「完璧主義の克服」というのがあるくらいだからね。
あと、大切なのは「認知の歪み」というと、あたかも「正しい認知」が存在しているかのようにも見えるけど、そうではなくて、「自分が楽になるように考える」ってことが大切。ただ、「認知の歪み」のような罠にはまってもいけないし、例えば自分が悪いのに「あいつが悪い」ってのも「レッテル貼り」だから、そういうのを一つずつ、フレームワークとして落としていく必要があるんだね。
他の増田も指摘しているけど、元々の増田はもしかしたら責任感が強かったり、あるいは完璧主義の傾向があるかもしれないけど、それが間違いの元であることは、考えたほうがいいかもね。まあ自分だけで止まってたらいいけど、もしかしたらそれを周囲に落ち着けて怒り散らしてたら意味ないしね。人間誰しも間違ったりすることあるし、ましてやすごく失敗してしまうこともある。
上にも書いたけど、大抵の「完璧主義」って、例えば「完璧に物事が揃わないと手がつけられない」といったパターンだったり、あるいは「物事が完璧にできなくなったらその物事に興味がなくなる」ってパターンがあったりする。例えば、認知療法についても、毎日「認知を記録しなくては」って思うと、絶対続かない。というか、俺がこのパターンにはまりかけた。一日飛ばしただけで、なんだか不愉快になって投げ出すんだけど、そもそもそういうのがよくないってことに気がついた。ある程度、ウワーッって頭の中がパニックになって、思考がストップしてしまうときに、「そういえば認知療法ってのがあったな」みたいな感じで楽に記録していったら、だいぶ認知療法も続けられるようになった。
ポイントは、完璧じゃなくてもいいから記録して、その記録を点検するってことだと思うから、そういう風にするといいと思うよ。
もちろん、他の療法にくらべて「自分で出来ること」「記録して点検すること」「フレームがきちんとしていること」「効果が明確な形で証拠が取れていること」といういい点があるけれど、だからといって認知療法は完璧じゃないことも付記しておいたほうがいいかな。だからといって「だったら意味ないじゃん」って思わないほうがいい。それでもやったほうが楽になれたこともあるから、十分だよって思うし、この「効果が完全じゃなかったら、やっても意味がない」と考えること自体、「ゼロか全てか思考」という、「認知の歪み」にとらわれているってことだね。
だから、認知療法は完璧じゃないってのは、ちゃんと考えたほうがいい。もちろん、てきめんに効く人もいるけど、そもそも認知療法自体合わない人間だっていると思う。だから、ちゃんと医者に診てもらって、薬を出して、ジムにも契約して、運動して、ちゃんと栄養のバランスを取れた食事をするのも大切。自分は「バランス悪かったかな」というときのために、マルチビタミンのサプリメントを飲んだりしている。そうやって、身体のほうも治していくのも重要だし、例えば他のブコメにも書いているように、自分の働きやすい環境にしていくような努力も必要かな。自分が変われば全てが変わるってのも、それはそれで「個人化」という「認知の歪み」だから、ちゃんと是正していくほうがいいよ。
俺もだいぶ認知療法に世話になっているけど、だいぶ気が楽になった反面、やっぱり持ち前の気質で落ち込んだり、あるいはうまくいかなくなってバランスを崩すことはあるけれど、やっとスタートラインに立って頑張れているっていう感じはある。ここまで書いても、やる人はやるだろうし、やらない人はやらないと思うけど、さっきも書いた通り、認知療法が全てではないし、そのやり方はいくらでもある。ただ、俺にはたまたま認知療法があっていたし、それを薦めるってだけの話。
元々の増田は、今の生活でもスキルがあって転職もすんなりいくだろうとは思う。けれど、たぶん生活の苦しみは無くならないと思うから、もし新しいスタートをきれて、余裕が出てきたらこれを思い出して欲しい。で、気が向いたらやってほしいと思うんだ。で、これで楽になって職場が続けばラッキー、くらいに思ってほしいなあ。少しくらいは変わると思うからさ。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1354368948
自称「完璧主義者()」に限って、全然完璧主義じゃないと言う皮肉。
ま、そう言う人間たまにいるけどな。どこにでも。
あぁ、そう言えば前バイトしてた零細企業八百屋の一人社長も「俺は完璧主義者だから。」とか薄ら笑い浮かべながら言ってたな。
「え?お前の何処が完璧主義なんだよ?」と普通は思う。(ある意味他人に完璧主義を強要する「完璧押し付け主義」なのかもしれない。)
言った事をやらないし、やりきらない。宣言した事を「貫徹()」しない。(そのくせ他人には貫徹を強要する。まぁ、ありがちなブラック企業の体質か。)
さらに、自分で出来もしないのに「出来る!」と宣言した事を結局自分の手に負えないから他人の責任として擦り付け、他人にやらせる。しかも対価は支払わない。
全部無料でやらせようとする。(例えそれが「他社でも」だ。完全に異常だろ、、、)
物の扱い方から客に対する態度、取引先には平気で横柄な態度を取る。
勿論、それは他の人間も認める所だった。
(まぁ、好き勝手生きてきたようだから、常識が欠落しているのは仕方ないんだろうけど。それにしても酷すぎる。)
一番厄介な状態。
その状況がソイツの傲慢さを加速させる。周りが見て見ぬフリをするから。
(まぁ、「忙しいからそんな下らない人間を相手にしてられない。」と言うのもある。)
だから他人には凄く横暴に振る舞い、自分の非は絶対に認めない。
自分が原因で招いたミスも絶対に認めないし、まずもって絶対に謝らない。
「ごめんなさい。」の一言も言わない。要するに謝る気持ちがそもそもない。
と言うか取引先の人にさえ「なんでそんな偉そうなの。」と注意される程。もうレベルが幼稚園児。
前述のように謝らないどころか自分の非によって出来た「責任」を平気な顔して他人に擦り付ける。
でもソイツの精神的視野が狭いから、自分の行為を客体的に見られていない。
更に自分で信じ込んでる偽善活動をしてるから、何やっても許されると勘違いしている。
高校生です。
僕は、もともと、今よりは少し頑張っていました。頑張れる人でした。
その頃は、趣味がありました。お菓子作りや、プログラミング、バンド活動や作曲、ピアノをひくこと... 自分でも、割と多趣味なんじゃないかなと思います。どれも僕は、大好きなことです。週末や、平日でも暇ができると、何かしらをして過ごしていました。
部活も大好きでした。2年生からは、ある程度部内でも責任ある立場に立たせていただき、悩むことも増えました。それでもやりがいがあり、楽しく、とにかく仲間が大好きでした。部活の友達とはよくカラオケに行ったり、ずっとこれからについて話していたりと、本当に仲良くしてもらいました。部活には、大切な友達がいて、僕の居場所がありました。
勉強は、まあ普通なほうでした。ただ、課題を出すのが苦手でした。締め切りを忘れてしまうことも多ければ、自分に必要のないと感じてしまう勉強はあまりやる気が出なかったからです。でも一番の原因は、僕が"悪い完璧主義"を持っていたからだと思います。完璧でなければ、やらないほうがマシだという考え方です。だから、課題には人よりも時間をかけ、少しでも遅れたら出しませんでした。授業のノートは、やる気が出るものだけ、つまりこの先もずっと完璧にノートが取れると自信のあるものだけ取り、あとは全く取りませんでした。結局それは、何もかも中途半端に終わらせるということを、僕は徐々に気づいていくことになりました。
それでもまだ良かったんです。僕には、時間を無駄にしたくないという思いがありました。やりたいことがたくさんあったからです。部活も、趣味も。もちろんテストで上位に食いこむという目標もありました。でも正直、部活や趣味を頑張れるように、勉強も頑張ってみる、という感触でした。
3年生になって、部活を引退したんです。うちの部は遅くて、9月のことでした。それでももう2ヶ月も立ってしまいましたが。
うちの学校は進学校です。周りより遅めに受験生の仲間入りをした僕は、これからは勉強を頑張らなきゃと思っていました。
なんとなく、趣味もできなくなりました。勉強をしなければと思ったというよりは、周りの目がそうさせなかったからでした。なぜか、何をするにも受験生という負い目を感じるようになりました。勉強以外のことをしていると、必ず親からも愚痴を言われました。
部活が無くなった分、授業の課外が入りました。朝にも課外が入りました。
友達も勉強に必死になっていき、カラオケにも誘えなくなりました。
何もできなくなったように感じたんです。
今の僕の話を聞いてください。
ゲームにハマりました。ついこの間までは、ゲームには夢中になったことなんてありませんでした。今では親や友人から隠れるようにして、ずっとやっています。シナリオゲーなんですが、その物語の世界に現実逃避している感じです。
何もがんばれていません。頑張らなくなったら、ちょっと学校に行くのが楽になりました。他人に会うことや授業は嫌ですが、毎日ゲームを楽しみにしてじっと我慢しています。ゲームを夜中までやるので、授業中に寝ることも多くなりました。ノートはひとつも用意していません。
大学は、行きたいなとは思います。第一志望にしている大学は、魅力的な大学です。地方ですが、僕の好きなITや英語を高いレベルで学べると思います。
ただ、それだけでは、頑張る理由がわかりません。つまり、、僕は、今の生活が続けばいいと思ってしまっています。いえ、もちろんこのままでは、こんな生活も続けられないことはわかっています。なんでしょう、、墜ち続けてもいい、というような感情です。感情でもないのかもしれませんね。何も考えてないだけかもしれません。
思えば、少しずつ堕ちてきただけな気がします。中学生の頃が、一番勉強しました。努力をつらいことだと思っていませんでした。努力以外に、することを何も知らなかったからです。それが今は、何もできなくなってしまいました。今の僕が何をやっても、続くと思いません。つまりそれは、少し這い上がっても、またすぐに墜ちていくことを意味します。僕はそれが怖いんです。
大学に行って一人暮らしが出来たとしても、いつか努力をやめて、留年を続ける自分しか思い浮かびません。
社会人になれたとしても、辛いことが続くうちにすぐに休みがちになって、職を転々とする自分、新しい仕事を探す気力さえなくした自分しか思い浮かびません。
僕は少し前まで、自分にラストチャンスを与えていました。自分は受験期になれば、やるときになればやる人だ。できる人だ。そう自分を信じていました。
でも僕は、裏切りました。裏切られた自分は、自分をもう信じることができません。いままでも裏切りを何度も繰り返してきたのですから。
僕が今ハマっているゲームに、こんな場面があるんです。主人公は、あるきっかけで荒れてしまった不良だったのですが、恋をして、大切にしたいひとを見つけて、その人を守るために、頑張り始めるんです。大切にしたいものがあるから、頑張れる。そういうメッセージが込められていました。
僕の中では、大切にしたいものがはっきりしていません。何のために頑張りたいのかわからないのです。それは、自分が大切に思えなくなったからだと思います。信じられないのです。僕が将来、今思い描く理想の自分に近づいているとは到底思えないのですから、大切にはあまり思えなくなってしまいました。
他人のためでも、自分のためでもない、漠然とそんな気がして、頑張れていないままなんです。
自分はとっても迷惑な気がしています。今の自分も、周りに心配ばかりかけている、迷惑な存在ですが、きっと将来の自分も迷惑でしょう。でも、今ここで死ねるほど、僕は強くありませんでした。
僕は、本当は将来、何をしたいかなんてわかりません。したいことなんて決まっていません。でも、もしなにか、選べるとしたら、譲れないことがあります。
それは、人を幸せにしたいんです。子供っぽいと思われるかもしれませんが、一人でも、沢山のひとでも誰でもいいのですが、誰かを幸せにすることをしていたいです。そのためになら、将来の自分でも、もしかしたら頑張れるかもしれないと思うからです。その時の僕を、僕はまだどこかで信じちゃっているんですね。
とにかく思いつくままに書いてしまいました。いろいろなことを脈絡なく書きましたが、それは自分のことを伝えるためです。今の僕は、どう見えますでしょうか。率直にお伝えください。
元増田です。
「何があっても確実にここまではやる、できる」
○時までにこの報告書を仕上げる」とか、
僕だけが頑張ればどうにかなることであれば何とでも言えますが、
たとえば「○万円以上売り上げる」は他者が絡みすぎていて明言しにくいです。