はてなキーワード: ラブライブとは
何の性的意図もなく物理的に影の落ちる部分に落としたら性的だとかおかげで修正された駅乃みちか死ぬほど不自然ですよ中略
オタ絵が萌え絵か抜きにしてどちらが自然ですかそれすらも解りませんか
みたいなどえらく自信に満ちた上から目線で例の二枚を貼ってきたのだが、どう見ても修正前の影は前から強風でも吹いてるか水で濡らして足にベッタリくっつけないと実現しない影で、オタクはそれすらも解らないのだなぁと笑ってしまった
当然修正前の影は不自然だと突っ込みが入ったのだけどもう必死に否定している
写真をはってもらったら光源が後ろだから股間に影が出来ないと言うし、オタクがほら影が出来てるじゃないか!!と写真をもって来るが全部体につくラインで片足を前に出しているポーズ
確かに修正後はノッペリしてるよ、金けちってショボい萌えエロイラストレーターに仕事を頼むからリアルな絵が描けなくてこんなド下手くそなエロ影以外つけられないんだよと思ったらラブライブの有名な人らしくて、だからこんなにオタク達が必死なのかぁと生暖かく笑ってしまった
これからここに書くのは、昨日一昨日のアイドルマスターシンデレラガールズ4thライブのサプライズゲストについて、一昨日から騒ぎになっている事への愚痴です。
ただ、自分は本当にこの件について一昨日からモヤモヤとしたものを抱えていたんだ。
長文になるし勢いのままに書くから読みづらいと思う。許してほしい。
知らない人にざっくり説明をすれば、昨日一昨日とアイドルマスターシンデレラガールズという作品のライブが行われて、サプライズゲストとしてほとんどライブに来ない人が呼ばれたんだ。
それも、ものすごく待望されていた人で、ツイッターではその人が演じるキャラの担当プロデューサーで現地もLVも行かなかった人たちがお通夜状態になった。
その人が来ると知ってたらチケット取ったのにと言う声や
運営に対して、こんなサプライズ最悪だから2度とするなと言いだす人
増田は、この流れに対して、本当に腹を立てている。
自分がいかない選択をしたことに対して、2度とするなと言いだす自分勝手さや
担当が出たことへの喜びよりも自分の事を優先する身勝手さが本当に腹立たしい。
多忙な人が頑張って時間を作って出てくれたのに、担当Pがそんな反応だったら、演者の方は嫌な気分になるだろうと思う。
そんな反応を誰でも見えるところで発信しないでほしいと思う。
そのせいで2度と呼ばれなくなって、不幸気取りするつもりなら見えるところで存分にすればいいと思うけど、そうじゃないなら見えないところでやってくれ。
自分がここまで腹を立ててる理由の一端として、そうやって嘆くPの身勝手さもそうなんだけど
「担当が出ると知ってたら行ったのに」という彼らに取っては何も意識してないであろう発言に対しても怒ってる。
このことに言及したツイートをした人なんかは該当Pやそうじゃない人から賛否両論で色々言われてるけど
担当がいるからライブに行くのは当然だよ。それはどのPだってそうだろう。
ただ、自担以外も誰かがプロデュースしている誰かの担当なんだって事を忘れないでほしい。
アイドルマスターシンデレラガールズという作品は、最近だと中居くんがCMをしているスマホのリズムゲームなんだけど
その歴史を遡れば、モバゲーで展開していたソーシャルゲームで、200人を超えるアイドル達をプロデュースして育て、トップアイドルにするゲームで、今年で5周年を迎える。
まぁ、要はたくさんのアイドルが出てくるゲームで、1年前にアニメ化もしていた。
アイドルが出て来る作品でいえばラブライブとかが思いつくだろうけど、ラブライブと違って、キャラ数が半端なく多くて、その中にモブなんていなくて、200人を超えるアイドル一人一人に、その子をプロデュースして愛情を注いでいるプロデューサーがいる作品なんだ。
増田は今年で5年になる、サービス開始時からずっと追いかけてるプロデューサーで、所謂古参にあたると思う。
自分の担当アイドルはSSA1日目の子だったんだけど(具体的に書くと担当アイドルの名前に傷がつくから伏せさせてくれ)増田はこの子のCDデビューのために総選挙で毎回人に言うのも憚られるほどの金額を投資してきた。声帯がついた時は本当に嬉しかったし、ボロボロ泣いた。
この5年、その子のPとして活動する中で、上位を安定して走るためだとか色々理由をつけて、とりあえずガチャが更新されたらまわしたりもした。
そんな中で、担当以外も愛しくなるし、けど担当を名乗るには愛が足りない、なんて事も思ったりしながら楽しんでいたんだ。
アニメのときなんかはどの子が喋っても感動したし、アニメでサプライズで声がついた担当Pおめでとう、と自分のことのように嬉しくなったりもした。
もちろん、たくさんのアイドルが出ると言うことは人気な子やそうじゃない子もいる。
だけど、みんな違ってみんないいし、自分の担当をシンデレラとしてトップアイドルにしたい気持ちはどのPも同じだと勝手に増田は思ってる。
1日目は、声帯がついてから初めての舞台だったアイドルが多い日で
翌日の2日目公演がアニメで主役のグループの子で固めた日だった事もあって、アニメから始めたプロデューサーなんかはこぞって2日目を求めたし、2日目出演の子達は総選挙でも上位の子ばかり。
SNSのチケット交換は1日目チケットと2日目チケット交換してくださいの募集ばかりだった。
1日目公演が軽んじられているような気持ちは、公演前からあって、それが騒動で爆発した感じだったんだ。
そんな開催前からモヤモヤとした部分はあったものの、ライブは最高だった。
本当に、最高の舞台だったんだ。どの子も素晴らしくて、増田は頭が痛くなるくらい泣いた。
それなのに、家に帰ってツイッターを開いたら、サプライズゲストで大荒れになったタイムラインだった。
運営に対して2度とするなよなんて言葉も散見されるし、上で書いたようなツイートをいくつも見た。
悲しいことに1人じゃない。正直、自分はこの件でサプライズできたアイドルの担当Pが嫌いになった。
彼らが言う「サプライズで来ると分かってたら行った」と言う発言は
裏を返せば
「その公演に出る他のアイドルに微塵も興味ないけど」と言い換えられる。増田の穿ち過ぎかもしれないけど。
理由は、現地のチケットは枚数に限りがあるけど、LVなら会場数は多いし、当日でも空いてるところは探せばある。
それでも彼らは行かなかった。興味がないから。
それぞれに事情があるのは承知の上で、そういった発言に対してひどく悲しくなるし怒りを覚えるんだ。
自分の担当を軽んじられる事が、1日目を初舞台に輝いていた他のアイドル達を軽んじられる事が、何よりも許せない。
自分の担当が、サプライズできた担当が同じような事をされても黙ってられるならいくらでも言えばいいと思うけど
増田は黙っていられなかった。
その身勝手な発言が自分が見送った公演を楽しみに、担当の初舞台を楽しみにしていたPやアイドルを貶すことに繋がると気付いてほしい。
愚痴るなとは言わないから、せめて鍵アカウントなり、その期間だけ鍵をかけるなり、同じ傷を持つ人同士で舐め合ってくれ。本当に頼むから。
わたくし水族館に行きましたわ。
イルカショーはいつも台本が無いそうですわ。ちなみにショー用のプールもないですわ。海ですわ。
アザラシ・アシカショーはのんびりとしたアザラシに和みましたわ。
水槽展示は規模的には小さいですが地域の魚大水槽ではコブダイ様が素敵でしたわ。メイドのホンソメワケベラにお掃除してもらっていましたわ。
デトックスペンギンはケープペンギンですわ。フンボルトもいらっしゃいましたわ。
あわしまマリンパーーーーーーーーーーク!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
マリンパーーーーーーーーーーーーーーーーーーーク!!!!!!!!!!!!
https://anond.hatelabo.jp/20160731175620
元増田です。
返信ありがとうございます。
ただ、主に盗作関係についてはやはり何度重ねて説明しても大事な所を読み飛ばされており、そのせいで全体的な話や意図も読み違えられたままで残念に感じます。
①を読んでないからそういう返信になってしまっただけかもしれない、と少し期待していましたが、①を読んでも変わらなかったみたいですね。
とありますが、納得しやすいように理由を説明しようとしてる部分をことごとく避けて言及しているから納得いかないのでしょうね…。
またそれぞれの部分にいちいち言及していく形式では文章が長くなりますし、同じこと繰り返すような状態に陥るでしょうから、先述の盗作関係において、改めて主張したいことを中心に言及しておきます。
その部分についてはおりあそ氏も過去にツイートにて、原作から内容が変わることはよくあるので一期の改変等は問題ないというようなことを仰っているのを拝見しました。
まず、雑誌やCDからTVアニメに媒体を移すにあたって、一部のキャラクター設定を改変したということそれ自体については、僕は悪いことだとは思っていない。同じシリーズでもメディアが変わるとキャラの解釈が変わるっていうのはよくあることだし、— おりあそ (@oriaso) 2016年3月19日
綾波みたいに何が本来の綾波なのかわからないレベルに多様な人格をもっているケースもあるけど、それがキャラ愛が無いってことにはならないと思う。特にラブライブ!の場合は電撃G'sでの連載とTVアニメが並行世界っぽい設定でもあるので、許容範囲なんじゃないかなと。— おりあそ (@oriaso) 2016年3月19日
しかし、改変の理由や経緯に不要な盗作やらオマージュ願望が関わっていることが問題なのであり、そこを無視して変わるのはよくあることだからとか、盗作だから何だと語られてもはてなマークが浮かびます。その説明は最初の記事でもしているのですが…。
ただ改変しただけであればまだ分かります。元々独立した設定や世界観がある作品を、別の既存の作品になぞらえて変更する姿勢や経緯に問題があるということです。
また、お互い様の主観で語らせてもらえば、アニメのにこや真姫、希のキャラクター設定は原案に比べると全く新鮮味がなく、陳腐な設定に変えられてしまっており、到底好意的に許容できるものではありません。
原案のにこや真姫、希みたいなキャラクターは昨今においてはこの作品でしか魅力を味わえない可能性の高い卓越性あるキャラだっただけに、勿体なさとやるせなさばかりを感じます。その上、くどいようですが変更理由が話作るの面倒で盗作したからだったという信じがたい怠慢な理由による変更と解釈で、そんなどう考えても擁護不能の状況を理由にならない理由を繰り返し用いてまでして擁護しようとしてしまう人のことは頭の中身をさばいて見てみたいくらい不可解です。
参考に、アニメ化以前にあったにこの性格議論の内容を見つけたので載せておきます。
にこにーは腹黒か? - Togetterまとめ http://togetter.com/li/117836
の中にある、腹黒(キャラを作っていたら)だったらありきたりでつまらないといった意見が自分の意見に近いです。
脚本家によれば、脚本の都合に合わせるために性格を改変したとのことでしたが、その「話の都合」というのが崇高なオリジナリティに溢れる都合だったり、意欲的な再解釈による改変とかであったりしたならまだ少しは分かります。
しかし実際は安易な盗作、オマージュが絡んだものだったわけで、とても制作された作品はもちろん、制作における姿勢自体も最低限度の健全な状態を保たれていたとは思えません。
そんな信じがたいほどふざけたものに巻き込まれて設定が消された本来のキャラクターや世界観を好きだった身としては特にですが、倫理的に考えても許容は推奨できません。
最大限、原案設定や原案ファンの意思の尊重を検討した上でのものであれば、少しは溜飲も下がるかもしれませんが、そんな様子は様々な作品の展開や発言を見ても見受けられません。
2期においては原案公野先生がアニメ以後に作った新たな設定を部分的に持ち出しては改変し汚すという喧嘩を売っているように思える描写が随所に見られます。(にこの家族設定や希の関西弁の理由など)
また、制作側だけでなく運営側の問題でもありますが、アニメ化以前から続いているシングルPVや音声ドラマなどは元々当然ながら原案の延長線上の設定が採用されていたのですが、アニメ以降はアニメ設定を元にした内容になってしまいました。
つまり、並行世界の存在価値がそれぞれ尊重され維持されたとは言い難く、設定の侵食や統一といえるでしょう。
ただでさえアニメ化以降に作られたスクフェスやスクパラなどのゲームではアニメ設定を基調としているわけですから、アニメ以前から始まっているPVや音声ドラマくらいは原案設定を維持してくれないとフェアじゃありません。しかも何度も言及したように設定改変の理由には盗作等の問題が関わっているわけですから尚更です。
そういう意味でも、設定変更の経緯に問題があることはよくあるからとか許容範囲とかそういう風に安易に見過ごせるレベルではありません。そのあたりの理解を雑に行った上で設定の分かれ方を語ってしまう人が多いのもとても残念で呆れてしまう所です。
喩え話については、一応どれが何の喩えになっているかを説明しておいただけであり、言い換え可能だからと言われても理由になっていません。作品において何が大事なのかの考え方の説明などもこれまでしてきました。
アニメ作品において云々の話は前回あたりにしたメディアミックス云々の話に戻ります。アニメはアニメで、切り離して考えるとしても、設定統一や侵食の件で切り離したからOKという問題にもならず、またそれらが安易な盗作云々の健全と言い難い経緯を経て調理されているために作品を扱う倫理に問題があるというのを、今回もそうですが何度も説明してきました。
「多少整合性に疑問があったとしても適当に補完できる程度の問題」これは絶賛派が大好きな理論みたいで、似たようなことを言っている人を沢山見かけます。
批判や指摘について「多少」とか「細かいこと」と言う人が多いですが、その点が「細かい」所扱い、「適当に補完」できる所ではないということも長々とこれまでのやりとりの中で説明してきていたはずです。自身が言及を避けたからといってこちらが説明してないことにしないで頂きたいです。
これはkato19氏とは別の所ですけどミュージカルだから大丈夫、みたいなことを持ち出して整合性のなさや物語性のなさを擁護しているおかしな人達が絶賛派には多いですが、ミュージカルを冒涜しすぎだと思いますね。
批判してた人が急に歌い出したことをおかしいと批判してたとしたら多少はミュージカルを知らないのか、とかを持ち出すのも分かりますが、それ以外の所についての擁護でミュージカルだから大丈夫というのは意味が分かりません。仮にそれが通ると仮定しても、ミュージカル演出自体が嫌いな人からしたら何も納得できないでしょう。その場合ミュージカル演出を選択したこと自体を責めてるのですから。
自分は他のアニメで用いられるミュージカル演出はむしろ好きなことが多いのですが、ラブライブの演出はそれが生かされてることがないので嫌いです。基本の物語の流れが死んでしまっている上で、ミュージカルっぽくして誤魔化しとけ、という苦し紛れな用いられ方が多くて白けるだけです。
それにラブライブの場合、そのミュージカル演出も盗作元のglee由来ですしね。その他の演出や劇伴音楽などを含めたgleeに影響受けたものも本来のラブライブ!の作風に合ってるようには思えず、盗作云々を抜きにして見ても何もかもが噛み合わず滑ってる作品だなあという印象を受けます。
話がズレましたけど、そのようなわけで、絶賛派が、批判者の言葉や文章を咀嚼しようとしないどころか表面すら理解しようとしない上でまともな理由を持ち合わせず「批判しないで下さい」「批判したらダメです」というようなことしか言えないのを見ていると、やはり作品どうこうについての理解や興味はないんだなと思いますし、ファンである自分の状態にしか興味がないんだな、とますます思えてきます。
それと絶賛派が作品批判が広まるのを不思議なくらい恐れることについては、それは主に絶賛派が批判に対して反論することができないからというのもあるのでしょうね。
一方で、自分もアニメラブライブの賛美ばかりが広まることを恐れています。ラブライブのことだけならまだしも、あのような作品を良いと思ってしまうような価値観を持ってしまう人が増えることで、それに乗せられたクリエイターやスポンサー等がラブライブ同様のどうしようもない作品ばかり作るように(作らせるように)なってしまったら、アニメ業界は何も楽しめるものが作られない世界になってしまいますから、それはとても恐ろしいことだなと思います。
結局、議論を交わした意味らしい意味があったのか少し謎ではありますが、個人的には意見を聞いてもらえた、考えてもらえたという証拠をこうした意見交換の形で残してくれただけでも意味があったかな、とは考えています。ありがとうございました。
こんなブログを発見して、ああなるほど外からはそう見えるのか、と思ったわけで。
http://voya.hatenablog.com/entry/2016/09/22/110841
この人の捉え方は
「自分がプロデューサーという立場で担当アイドルと恋人(とははっきり言わないけれども、かなりそれに近いような)関係になる」という奴
だ。そして超解釈すると、そういった職権乱用的な邪な振る舞いを、オタクは無邪気に受け入れているように映るのだろう。
現実にそういった邪な現象が多発していることを知ってると尚更、度し難い設定だというわけだ。
オタクというものは得てして、虚構と現実を上手に混同して楽しむのが上手い。
それと同時に、現実のクソな部分、ドロドロした部分は冷徹に無視するのも上手い。
現実のドロドロした業界を背景とした大衆アイドルに興味もなければ、ゴシップのような下世話なネタも嫌う。
だからそもそも現実のアイドルとプロデューサーがうんぬんという話自体、あずかり知らぬオタクが多いのだろう。
耳に入ったとして、そういう世界と、自分たちの愛する作品世界は別モノだと受け止めるはずだ。
仮にその疑念を拭えなかったら、エロ同人誌のネタにでもするところだろう。
そしてコンテンツの側も、オタクの感性に沿ってキレイな世界を演出する。
オタクの間ではシモの部分を描いたアイドルものは成功しないという共通認識すらあるくらいだ。
アイマスは題材的に、業界要素に触れざるをえないコンテンツではあるが、
アニメなどで触れたとしても、上層部とのビジネス方針の対立だとかポエムバトルだとかで、
あくまで「美しい世界」の範疇だ。性的な堕落・腐敗を描いてリアリティを出そうとすることはない。
こっち方面のオタクが求めるのは、社会派な問題提起を含むアニメではなく、
他にも、「プロデューサーとアイドルの恋愛」を問題としない理由がある。
そもそもアイマス作品の主目的が「プロデューサーの立場でアイドルと親密に」というものではないからだ。
ファンの多くは、「プロデューサーの立場で担当と親密に」という要素を楽しみながらも、
あくまでその要素、展開は「お約束」として流しているように思える。
実際にコンテンツに触れていると、プロデューサーという役柄は、
職権を利用して擬似恋愛的な「俺嫁」欲求を正当化させるためというよりは、
なぜなら、ゲームの中核となるのは、アイドルといかにイチャイチャするかではなく、
アイドルをいかに育てる(プロデュースする)か、という部分にあるからだ。
アイドルが、他のアイドルたちと切磋琢磨し、時に仲良く、時にぶつかり合ううちに、
アイドル同士の関係性も深まり、人間としても成長し、それがライブという結果に表れる。
それを見て「やったな」とプロデューサーが声をかける、そういう世界観を骨子とするコンテンツだからだ。
まあ実際にプレイヤーがすることは雑務的な作業なのだが、ストーリーとしてはそう描かれる。
そうやってアイドルとして成長していく様を見てきたプロデューサーとしては、
そのアイドルを幸せにしたい、輝いてほしい、もっと良さを伝えたい、そう思うのは自然なことだ。
言ってしまえば仮想的な子煩悩だが、その欲求はプロデュース精神に通じるところがある。
そう考えれば同作がファンのことを「プロデューサー」と呼ぶ理由が分かると思う。
そうやってプレイヤーが「父性」に導かれてプレイをするうち、諸々の課金をするファンになる。
そして、その思いがちょくちょく何かしらの形で反映される――
何かの実装だとか、現実のライブパフォーマンスだとかの形で。そういう循環で成り立つ世界だ。
アイマスの世界にいる人間の感覚としては、アイドル同士のエピソードは言うまでもなく、
プロデューサーとの関係性についても一線は越えない清く正しく美しい世界を見ている感覚だ。
精々おまけ程度のボイスなどで、アイドルがプロデューサーを慕って妄想・妄言を呟くくらいで、
基本的にプロデューサー側からアプローチをしたりするものではない。
ギャルゲー的な選択肢による会話でアドバイス等することはあるけれども、
その辺りのバランス感覚は、経験者なら暗黙的に了解するところなのだが、
そうでない人は下世話な方向に強く推定してしまいがちな所かもしれない。
感動を誘う演出や表現として、キャラと演者がシンクロしているような言い方がされることはあるけれども、
ほとんどのファンは声優をキャラそのものとしては見ていないし、声優さん個人の個性も尊重している。
キャラを現実に降臨させるためのパフォーマーとしての立ち位置を望んでいる。
非アイドルもののアニラジでもそうであるように、本来の個性を抑えてキャラに寄り添わせるような空気は一切ない。
むしろ逆に、中の人要素がキャラに反映される、ということがあるくらいだ。
また、最近のヒットしたアイドル作品、デレマスやラブライブに関しては、
キャラの純粋さ・いい子ぶりとは対照的に、中の人たちは非常に芸人力が高い。
これは親しみが持ちやすいのと同時に、中の人はアイドル的な上品さを気にしなくてよくなる効果がある。
乱暴に言えば、キャラと同一視して恋するようなキモい人をふるいにかけられる、とも言える。
くだけた言動や女子らしからぬ振る舞いが許されるというか歓迎される風潮は、良い傾向ではないかと思う。
「声優はオタクの幻想を受け止める」という言い方を否定はしないが、
私は常々不思議だった。何故ラブライバーはヤンキーのような外見の人が多いのかと。
確かにアイドルのライブには昔から「○○命」と刺繍を金糸で入れた特攻服に身を包んだ、近寄りがたい方々がいたがラブライバーはそのはるか上を行く。
全身に缶バッジをつけジョジョの奇妙な冒険第7部SBRに出てくるタスクACT4を思わせるような非人間的外観をした怪物がうようよいるのだ。
その溢れ出した自己顕示欲とIQの低さはもはやヤンキーと呼ぶ他無い。
何故だ。
ラブライブという物語それ自体がマイルドヤンキーの文脈に沿っていたのだ。
母校という地元(いばしょ)を守るため、チームメイトという仲間達(マブダチ)と、全国の頂点(テッペン)を目指す。
その根底に流れるものはROOKIESやスクール ウォーズ といったヤンキースポ根ものの血脈だ。
主人公達の大部分が全くの素人であるという部分も上記の作品と共通している。
そしてそれはラブライブサンシャインでいよいよその色を濃くしていく。
まず舞台が田舎である。これはマイルドヤンキーの生息地として適切だ。
そして主人公達は地元民の期待を背負っている。この結束感こそがマイルドヤンキー魂の生まれる土壌だ。
その結束感ゆえ彼女らは大会のルールを叩き壊し、自分たちの地元と自分たちが盛り上がるためのパフォーマンスに興じる。
そう、彼女らは自分たちが内輪で盛り上がりかつ自分たちの存在を知らしめんためにルールという檻を叩き割るのだ。
一作目のラブライブは、この現代社会の中で自分たちの存在を認めさせる方法としてラブライブで健全にのし上がるという方法を取った。
しかし二作目にしてついに、ラブライブのルールという枠組みに囚われず自分たちの信じる道、自分たちがこの一瞬を輝ければ周りの迷惑も今後のアイドル活動すらも投げ捨てる道を選んだのだ。
最終回にこの話を持ってきたということは、制作側は視聴者にこの姿をロックだと感動して欲しかったのであろうことがわかる。
そうでないのならもっと前にこの話をやり、ルールを破るのは流石に駄目だと反省させる物語の作り方をするはずである。
だが、これに感動できるのはヤンキーだけだ。
心をヤンキーにしなければルール無用の大会荒らしで涙など流せはしない。
それならば結論は1つだ。ラブライブは最初からヤンキーによるヤンキーのためのマイルドヤンキーアニメだったのだ。
そう考えれば、あらゆる疑問の答えが出る。
「君の名は。」が興行収入100億突破 見てない。ゴジラは見た
ポケモンが世界的なブーム 直撃世代だけどほぼやってない。1時間くらいしかやってない
AKB 直撃だけど興味ない
モー娘。 直撃だけど興味ない
たまごっち 直撃だけどやってない
ガルパン映画 見なきゃと思って未だ見てない、見なければ見ないほど売れる
もっとある気がするが思い出せない
___
追記
いやそういう中二的なものより、「一体何なの?」って感じが強い
流行り物ってある一定のところすぎると爆発するじゃん? やってて当たり前みたいになる
そのやってて当たり前になる過程に乗れないんだよ
例えばガラケーが流行ったとき高校生で、1年位で一気に浸透した
俺はその時PCメールがあったから「別にまだ要らない」と思ってたんだけど、気づいたらほぼ全員持ってた
その時流に乗れない
「やばい、皆持ってるから俺も買わないと」っていう発想とコミュニケーションに至らない
たぶん周りの友人もそういうタイプが多いせいもあると思う
具体例、参考になりそう。ありがとう。
ロングで外はね
google:image:ロングで外はね
ショートで上の方を片方だけ結んでる女
google:image:ショートで上の方を片方だけ結ぶ
サイドで高めの位置からストレートロング下ろす
google:image:サイドで高めの位置からストレートロング下ろす
三つ編み風に見せかけたねじれたロングの髪の毛
google:image:三つ編み風 ねじれたロングの髪の毛
細いリボンで結んだロングヘア
google:image:細いリボンで結んだロングヘア
リボンをカチューシャ風にして上の方で結ぶ
google:image:リボンをカチューシャ風にして上の方で結ぶ
google:image:涼宮ハルヒ (引用時注:藤岡ハルヒと区別するため)
ピン止めしてるのにまったく止まってない
google:image:ピン止めしてるのにまったく止まってない 髪留め
上の方でツインテール
google:image:上の方でツインテール
長い前髪が真ん中からたらりと落ちてくる
google:image:長い前髪が真ん中からたらりと落ちてくる
顔周りショートでストレートロング
google:image:顔周りショートでストレートロング
google:image:後頭部をゆるく編みこんでまとめ髪をつくる
google:image:編みこみサークル 髪型 (引用時追記:もしかして:google:image:編みこみさくる 髪型)
---
>>いんよう<<
ではなくて
>> いんよう <<
とするとよいです
>> ショートで上の方を片方だけ結んでる女<<
>> サイドで高めの位置からストレートロング下ろす<<
>> 三つ編み風に見せかけたねじれたロングの髪の毛<<
いわゆる縦ロールですか?
>> 細いリボンで結んだロングヘア<<
>> リボンをカチューシャ風にして上の方で結ぶ<<
>> ピン止めしてるのにまったく止まってない<<
>> 長い前髪が真ん中からたらりと落ちてくる<<
>> 顔周りショートでストレートロング<<
いわゆる姫カットでは?
外っ面だけで判断して得意げに切り捨てる人間がネットには多すぎる。
その勿体無さ、残念っぷりに気づいてほしいから、そういう評をしたくなる。
中身は社会派だったり、リベラルでモダンな感性を描いたりする。
そういう実は意識高い・示唆深い良作だったりする事が最近の作品には多い。
ヒットしてる作品もだいたいは、
そういう普遍的な良さを備えてるから、老若男女に受けてたりするわけで。
個人的には、こうした「萌え」見下しを逆手にとった作品性の潮流は
まどマギの成功が端緒を開いて、ラブライブが一つの完成形を見せたように思える。
これは、根暗なオタクが絶滅していって社交的な若いオタクが増え始め、
情報ツールの発展も相まってカジュアルに感動を共有する時代になったことと
少なからず連動していて、そういう時代に適応した結果だと思うね。
で、今その傾向をよく捉えたためにヒットしてるのが、君の名は。
決して嫌らしい下品な感じにはせず、男女どちらにも嫌われないラインを守る。
その上で誰もが感動できる物語を演出する。一種のリア充的バランス感覚。
まさに今時のセンスだと思うね、「男女両方に好かれる」ってのは。
「全てのセックスは性差別」とフェミニズムの一部が主張している、と俗に言われる。これは半分正しいが、半分間違いだ。
正確には、「マチズモが強く機能している社会においては」という条件下にのみ「全てのセックスは性差別になる」という主張である。
この条件さえ付ければ、「全てのセックスは性差別」という主張は決して間違いではない。
しかし、だからと言って「セックスを滅ぼせ」という主張は、大半の人にとって受け入れられないものだろう。
現にフェミニストの大多数はそのような主張に与していない。
そもそも、そんな主張は受け入れる必要すらないのだ。
仮にある作品が差別的だとしても、あくまで特定の社会状況下で差別的力学を発揮する、ということにすぎないのだ。
だから「性差別表現を含むフィクションを好むこと」と「性差別を批判すること」は問題なく両立する。
どころか、「性差別を含む表現」を好むからこそ、現実での差別を批判するとも言えるのではないか?
別の例で言い換えてみよう。
「(ミステリー小説など)殺人表現を含むフィクションを好むこと」と「殺人を批判すること」は問題なく両立する。
どころか、「殺人表現」を好むからこそ、殺人表現が現実の殺人へと結びつかないために、現実での殺人を批判するとも言えるのではないか?
いずれもまったく同じ構図だろう。
それゆえ、性差別に抗議する人が「性差別を含む表現」を愛好しても何ら問題はないのだ。
言うまでもないことだが、上手く書かれたフェミニズム批評は、正当な批評である。
分析の仕方が卓抜で、深く作品を読みこんでいる批評であれば、それは正当に評価されるべきだろう。
しかしその批評の正しさを認めることは、決して批評された表現自体が悪であると認めることではない。
現に古典文学に対するフェミニズム批評は以前から行われており、たとえば『源氏物語』をフェミニズム的に読解する批評などはすでに存在している(興味がある人は探してみてほしい)。
しかし当たり前のことだが、これは決して『源氏物語』が劣悪で評価に値しない作品だということを意味しない。
批評理論は、「ジャンル批評」や「読者反応批評」や「精神分析批評」や「マルクス主義批評」や「文体論的批評」など、数多く存在する。
「フェミニズム的な批判を認める」=「批判された表現をなくさなければならない」
だからオタクは、別にフェミニズム的批判の正しさを認めても構わないのである。
(もちろん他の批評と同じく、低レベルなフェミニズム批評まで認める必要はない)。
そしてこれはフェミニズム側についても同じことが言える。
「性差別的である」ことを理由としてただちに「表現を取り下げよ」と主張するのは、基本的には不当な要求である。
(もっとも、厳密に言えば「表現を取り下げよ」と発話すること自体は自由である。しかしその発話内容が不当である以上、当然批判が殺到するであろう。
不当な主張をすることは自由だが、その主張に対する「評価」は本人が責任を負わなければならない)
あたかも「オタクとフェミニズムが対立している」かのような構図をでっち上げることこそが、議論の妨げとなるのである。
そういった点も踏まえて、後述するように「マンガ・アニメという表現様式一般が性差別である」などという乱雑な主張は退けなければならない。
●結論
辛辣な批評、伸びない人気、そういったことをすべて作者自身が引き受けることである(もちろん、低レベルで無意味な批評は無視すればよい)。
フェミニズム的な批判を、何か特殊な批判だと考えない方が良いだろう。基本的に、それは批評である。
フェミニズム批評もまた一つの評価軸であり、その軸上における評価もまた、作者自身が引き受けなければならない。
そして表現者の責任とは、「評価」を引き受けることがすべてだ。
(もちろん、プライバシー侵害など個別具体的な人権侵害等は例外だが)
酷評に耐えかねて、自ら作品を非公開にすることは、確かに一つの選択肢ではある。
仮に「ある作品が性差別的な効果を発揮する」としても、その効果を止める方法は「表現を取り下げること」だけではないだろう。
「その作品は性差別的な効果を発揮している」と論理的に指摘できれば、それだけで性差別的効果を止めるには充分である。
「この作品における○○○○な描写は、性差別的意味を持っている」と評すれば、充分に、現実世界で○○○○することが悪いと告発する効果を発揮できるから。
批判的言説を生産することによって、ある表現が発揮しうる性差別的効果を止めること。これは充分に可能である。
批判的言説では飽き足らず、表現自体の取り下げ等を要求することは、(性差別解消につながるかも疑問だが)性差別以外の領域において不合理を引き起こす
(この点については、また別の機会に述べようと思う)。
そして、(あえて厳しい言い方をするが)表現の取り下げを要求することは、批評の力を、言論の力を、見くびる所業でもある。
だけど忘れてはいけない。
フェミニズム的解釈が妥当性を持つのは、作品外の社会的文脈があるからだと。
そして、これも再度強調しておかなければならない。
「(現在の社会的状況において)性差別(と位置づけられるような)表現を好むこと」と「性差別を批判すること」は両立する。
どころか、前者を好むからこそ、現実での差別を批判するとも言えるのではないか?
しかし、そのことだけを理由に表現の取り下げや禁止を要求することは不当である。
同様に、そのことだけを理由に「フェミニストが表現の取り下げや禁止を要求している」と早とちりすることもまた不当である。
●最後に補足を二点
もちろん私は、「マンガ・アニメという表現様式一般が性差別である」などという乱雑な主張には与しない。
たとえば大城房美が指摘するように、「日本の少女マンガは、女性が周縁化されてきた20世紀後半のアメリカのコミックスの状況を変える一因となった」という側面を見落としてはならない
(大城房美編著『女性マンガ研究 欧米・日本・アジアをつなぐMANGA』青弓社 2015 p.25)。
日本においては、マンガによって女性が表現する場所が確保されてきたのである。
そして少女マンガは女性表現の源流であると同時に、いわゆる男性オタク向け表現の源流の一つでもある。
以上の指摘を受けて、なお「男性向けオタク表現については性差別である」と強弁する方がいれば、
たとえば佐倉智美先生によるこちらの記事などをご覧いただけると、その主張が極めて一面的で乱雑であることが理解いただけるかと思う。
http://stream-tomorine3908.blog.so-net.ne.jp/2016-04-09_GP-LoLv-5(「ラブライブとガルパンをフェミニズムが評価すべき5つの理由 [メディア・家族・教育等とジェンダー]」)
可もなく不可もなくの展開が続いていたラブライブサンシャインが、8話でようやく弾けてくれた。
おせーよとも思うが弾けないよりは余程いい。
今作の主人公は凡人で、優秀な幼なじみに劣等感を抱えたりしてたが、スクールアイドルにワンチャンを求めて始めた子だ。
前回までは割と調子よくいってたものの、今回は東京に出てきてコテンパンに叩きのめされた。
でも主人公は発起人だし、メンバーを引き込んだのも自分だから、責任感じて無理に明るく振る舞うんだよね。
この空元気がほんと痛々しくて、今まで見たアニメで1,2を争うほどの空元気っぷりだった。
その上何も知らないモブ友人達が笑顔でどうだった?とか聞いてくるし、ほんとゾクゾクしたね。
で、優秀な幼なじみの方はアスリートだし、主人公が好きすぎて過大評価してるところがあるから、「悔しくないの?」とか「スクールアイドルやめる?」と聞いてしまう。
この「やめる」は昔から主人公に発破をかけるために使っていて、実際3話では成功してるんだけど、今回の主人公はダメージが大きすぎて返事もできなかったっていうね。
夜中に一人で主人公の写真を見ながら後悔する幼なじみ。お互い想い合ってるのにこういうすれ違いが実にたまりませんわ。
結局やめるか続けるかは翌朝に主人公が結論を出すんだが、その時の台詞回しもなかなか秀逸だった。
花田先生は確かに粗も多いけど、こういう心の機微を見せてくれる脚本家が今のアニメ界にあまりいないのも事実なんだよなあ。
ユーフォ2期も楽しみだ。
土曜まで公開してるから、視聴切った人も今回だけは見てくれ。