2016-09-26

マイルドヤンキー物語ラブライブ

私は常々不思議だった。何故ラブライバーヤンキーのような外見の人が多いのかと。

確かにアイドルライブには昔から「○○命」と刺繍を金糸で入れた特攻服に身を包んだ、近寄りがたい方々がいたがラブライバーはそのはるか上を行く。

全身に缶バッジをつけジョジョの奇妙な冒険第7部SBRに出てくるタスクACT4を思わせるような非人間的外観をした怪物がうようよいるのだ。

その溢れ出した自己顕示欲IQの低さはもはやヤンキーと呼ぶ他無い。

何故だ。

何故ラブライバーはこんなにもヤンキーなのだ

しかラブライブサンシャインを見終わりその疑問は氷解した。

ラブライブという物語それ自体マイルドヤンキー文脈に沿っていたのだ。

母校という地元(いばしょ)を守るため、チームメイトという仲間達(マブダチ)と、全国の頂点(テッペン)を目指す。

その根底に流れるものROOKIESスクール ウォーズ といったヤンキースポ根もの血脈だ。

主人公達の大部分が全くの素人であるという部分も上記の作品共通している。

そしてそれはラブライブサンシャインでいよいよその色を濃くしていく。

まず舞台田舎である。これはマイルドヤンキーの生息地として適切だ。

そして主人公達は地元民の期待を背負っている。この結束感こそがマイルドヤンキー魂の生まれる土壌だ。

その結束感ゆえ彼女らは大会ルールを叩き壊し、自分たち地元自分たちが盛り上がるためのパフォーマンスに興じる。

そう、彼女らは自分たちが内輪で盛り上がりかつ自分たち存在を知らしめんためにルールという檻を叩き割るのだ。

ここにラブライブヤンキー文学集大成を迎えたといえる。

一作目のラブライブは、この現代社会の中で自分たち存在を認めさせる方法としてラブライブ健全にのし上がるという方法を取った。

しかし二作目にしてついに、ラブライブルールという枠組みに囚われず自分たちの信じる道、自分たちがこの一瞬を輝ければ周りの迷惑も今後のアイドル活動すらも投げ捨てる道を選んだのだ。

最終回にこの話を持ってきたということは、制作側は視聴者にこの姿をロックだと感動して欲しかったのであろうことがわかる。

そうでないのならもっと前にこの話をやり、ルールを破るのは流石に駄目だと反省させる物語の作り方をするはずである

だが、これに感動できるのはヤンキーだけだ。

心をヤンキーにしなければルール無用大会荒らしで涙など流せはしない。

それならば結論は1つだ。ラブライブ最初からヤンキーによるヤンキーのためのマイルドヤンキーアニメだったのだ。

そう考えれば、あらゆる疑問の答えが出る。

  • まあ皮肉なんだろうけど、警備員が飛んできたり運営に注意される描写もないし、そもそもあの場でルール違反する積極的な理由がないし、制作側はルール違反のつもりで描いたわけじ...

  • 作品描写上、あの世界のスクールアイドルは、女性ファンが憧れて、女性ファンが目指す物だから、現実世界のラブライバーがどんなにヤンキーっぽかろうと、作品上の影響は皆無とい...

  • ラブライブはアニメ1作目からヤンキー文脈だった。 雑誌時代にあった少女性はほとんど残っていない。 また、ラブライブの脚本には辻褄がない。全てが崩壊している。演出もやたらダ...

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん