はてなキーワード: ごみとは
隣とかではないどっか近所の赤子の泣き声が激しく、わりと昼夜問わずギャンギャン泣いている。
どこの家かもわからないくらいの距離だから、うるさくて迷惑とかではなく、まあ泣いてるなくらいの感覚なんだけど、自分のパートナーは異常な泣きかたじゃないか通報した方がいいんじゃないかという。東京のごみごみしたところで育った自分からしたら、家同士も近いしあんな風になる子供も中にはいるだろくらいの感覚なんだけどむこうは外国人で、国ではあんな泣きかたをする子供は普通じゃないし虐待とかじゃないかという。そりゃその国は家同士の間隔が離れてて家もレンガとか石とかのビルだからじゃないか?て気がするけどまあ
まあ確かに、ギャーンギャーンとかではなく、ギャオーーーーンギャオオオオーーーーン 時には、ぎゃああああああああひぇあああああああって感じではある。
あと1年くらい経つのにまだ同じ勢いで泣いてる。乳幼児っていつまでギャンギャン泣くのかとかよくわからんし普通か普通じゃないのかもわからん。
うちには傘がある。たくさんある。
ここ数年、わたしが買った傘はせいぜい5~6本。主にビニールじゃない傘で、折り畳みと日傘も含まれる。
残りの傘はすべて夫が買ったビニールうちには傘がある。たくさんある。
ここ数年、わたしが買った傘はせいぜい5~6本。主にビニールじゃない傘で、折り畳みと日傘も含まれる。
残りの傘はすべて夫が買ったビニール傘。
数年前に同じことでキレ、「徒歩数分の場所から帰宅するだけなのに買うな。職場に置き傘せえ。雨が降るときは傘を持ち歩け」と口酸っぱく言ったが一向に改善せず。
本人はおそらく数百円のものだから買ってもいいか、という考えのよう。
その考えが、今に至る。
家に不必要なものを置きたくない派のわたしとしては、とても嫌な状態。
ありますよねー「とりあえず」でコンビニで買い物したついでにスプーンとかおはしをもらってため込んでおく人。
あれね、すごく、嫌なのよ。
すぐ使うんならいいけど、使わないんなら今家に置いておく必要ないんじゃないですか?
外でゼリーやお弁当を食べるのならスプーンいるけど、家で食べるんなら家にある食器で良くないですか?
断捨離をしたいわけじゃないけれど、住んでる家のスペースは限られているし、モノをため込んだところで使わずにいて最終的に捨てるくらいだったらそのスペースに何かしら必要なものを収納しておく方が建設的じゃないですかね?
ごみ収集芸人のマシンガンズ滝沢さんの本を読んだせいもあって、ごみの捨て方にこだわるようになってしまった。
そもそも、実家がわりと片付いている家だったので物があふれている状態がちょっと嫌。
(実家の、全員が住んでいる家は片付いているが、旧家と納屋にはよくわからない農具や使い古しの家電があちらこちらにおいてあるのでちゃんと片付いているとは言えないかもしれない)
っていうか傘なんて2、3本あったら良くないですか。
これはわたしの価値観であって夫としては10本欲しいのかもしれない。
「いいものを買ってもなくしたらやだ」といってやすものをゴンゴン買う。
そのやすものの金額で、いいものが何本か帰るんじゃないですか?
とにかく、家に使わない傘が何本もあって必要な傘をとるときに邪魔になって腹が立ってしまうので、なんとかしてもらいたい。
夫になんとかしてもらいたいのは、余分な傘を買ったのが私ではないから。
いくら邪魔でも、一応は人が買ったものなので勝手に捨てるわけにはいかない。
数年前にキレて「壊れてる傘は捨てろ。捨てないなら私が燃えないごみで捨てるからな」と前置きして捨てた。
なんだ?
テメーで処分したくないだけか??
と、それも含めて腹が立っている。
仕事を休んでぼーっとしてたら腹がへったので、コンビニ行こうと思って家を出た瞬間、なんかすごい音がした。近所で事故があったらしい。
行きがけの道の最中だったから、野次馬をしにいった。けが人は居ないみたいで、運転手らしい途方に暮れた感じのおばちゃんが警察と話してた。車と、それにぶつかられたらしいごみステーションが凹んでた。
明日の燃えるごみどうしましょうねって初めて話すような近所のおっちゃんと言い合いながら、あそこと車のすきまに俺が居たら良かったのになぁと思った。もっと早くコンビニにいく決心をつけたらよかったなぁ。行動が遅いからこういうことになるんだなって。
来週は病院に行ってこようと思う。
新型コロナワクチン接種もさ、政府が優先順位と余った時の優先順位をちゃんと示せばいいのに現場任せ。
でもやらない理由もわかる。野党とかの重箱の隅つつく奴らのせい。「○○の時はどうするんですか?」って奴。
システム開発とかでもよくある。疑問として提示するのはとても良いし、専門分野からの指摘は時に大きな不具合を発見する手立てにもなる。でも、そんなのはほんの一握り。
大半は気にしなくてもいいレベルの些細な内容を指摘してご満悦した上で、それがハッキリしないと決して先に進ませないようにする。大概無能クズ。でも決済権とか持ってるバブルの粗大ごみ。
まずは医療従事者、次に老人、余ったら公務員、それでも余ったら老人以外。優先すべきは公平性よりワクチンの期限。
ほんと数%レベルのイレギュラーとか現状気にしても仕方ないでしょ。それこそワクチンの副反応で死ぬ確率気にするレベル。だから与党の支持率が下がっても野党の支持率も上がらないし、ゆたぽんの父親が税金無駄使いしようとするんだよ。これじゃ誰も選挙行かないよね。
私個人としてはさ、反対でも賛成でもないんだけどさ。
困った時の対応とか壊れた時の修理とかみんなでしてるのを恩恵ないものを現金で戻す仕組みだと、必要時に全額実費になるよ。
公共事業やら公共サービスやらを減らして、必要ならば支給されたお金ためて使うときに使うか、使わずに済んだ人は現金として使ってOKって話なんだよ。
人が多い所だとゴミ処理やトイレ、道路の整備や治安や電灯、ベンチ、公園なんかの整備にお金がかかるだろうね。それか無法地帯。
ゴミ箱がないから商売やめるかみんなで支給されたお金から共益費捻出するかになるよね。
田舎で人がぜんぜんいないところとか使わずに済むとか私有地がやたらひろいとかだと公共事業や税金で投資する分が全部返ってきて自由につかえるかも。
問題があるとすれば、全部貯金にしないと公的なサービスでまかなってたものが無くなる不便になる、だろうけど失ってみないとわからんよね。やってもいいのでは。
公共事業が小さくなるから入札とか公共事業で仕事とってたところがなくなるね。小さい所とか起業したてのところとか。
大手で老舗にだけ仕事がいって、お金もちだけ公共投資して、都市部の周辺はスラムになって、田舎に金持ちが済む構図になるかも。
それだけだとそんな今とかわんないかな。今お金が少ない人は我慢さえすればお金がもらえる、我慢の分が現金化できる体系になるね。
税金で仕事するのが減るから、今現在ではなにが減るかわからないけど減った分の仕事や消耗品は民間企業から各個人が現金で買うことになるね。
いまでもNPO活動と称してホームレスなどの支援の活動をしてる団体の闇ってあるけど、知らないよね。あんまり話題にのぼってないしマジで闇なので。
ホームレスしてた人がなぜかアパートに住んでるのとか見かけたら話きいてみたらいいよ。支援のお金かすめとるサービスとか人間を家畜以下に扱ってるの今でも実際あるからね。
それ系も一番手っ取り早くまとまったお金が入る商売として成長するよね。それを取り締まったりするための組織とか費用とかは、そうすべきと思った人からの現金になるから本当に必要なものは淘汰されそう。
そのうえで悪とか闇があったとしたら、必要なものなんだとおもうし気になるね。見てみたい。
かつての日本は公共事業を大きな規模でやって全国に仕事ができて全国で平均的な都市整備ができてたけど、これ各自が必要だとおもったら各自の現金でやってねってことになる。
そんな集団行動とか都市単位での計画とか、周辺地域とか国全体としての計画とか行動とか、出来るものなのかなっていまの日本の緊急事態対応とかみてると疑問だよね。
資本主義にのっとってほんものの資本主義ってものが現実になったところもみてみたいからどっちでもいいと思うよ。実現してもしなくても。
ただ、これからの社会を担っていく人にはどっちにしても高負荷でもうしわけない。こちらはもうどっちになっても延長戦みたいなものだから政治とか制度とかも物見遊山なのでもうしわけない。
実現すると全体的には空きスペースも整備していた余力を、稼働スペースに移すことで稼働率あげることになるかとおもうから、稼働中で率のいいものはさらによくなると思う。
低いものは淘汰されるし新規に行動するのには莫大な資金が必要になるとおもう、つまり発展は大規模資本のある人にかぎられる、大規模資本がないとなにも始まらないので平民と富豪は血族的に交わらなくなるかも。
お金持ちだけがお金をあつめて、お金持ちの下につく人だけがその恩恵をうける構図にはなると思うけど、もちろん逆転もできるし永劫に貧民だという絶望も絶対ではないので。
たとえばの話みんながどれだけ努力をしてもロスチャイルド家に名を連ねることはないよね。
でもロスチャイルド家に入るのは絶対に可能性がゼロなのか無理なのかと言われたら、以外とそうでもない可能性があるよね。
超絶美人になって嫁として入るか、希代の天才として事業を成したら婿として入れるとか。
これ経済の基本である人間の数で簡単に出るよね数字的には。100万人のファンがいる美人だと100万分の1の確率でもあるし100万の倍率がある価値ともいえる。
ビジネスで100万人の顧客があれば一人の個人からみて100万倍の収益があげれる。ユーチューバーとかいるよね。
素質があるなら伸ばせるところまで伸ばしたら、その性能の限界まではトップに近づけると思うよ。
ただ貧困にあってはそんな偶然ほんとに奇跡だよね。じゃあ望みはないかといわれたらあるから大丈夫。
一人ずつの持ち分がすくないから、じゃあどうするかって、上のそれ、100倍にするなら100人あつまればいいんだよね。
組織化したり大家族化したり、独占禁止法に抵触しない程度に談合したり、そう、人数あつまればできないことはないんだよ。
お金って人間の時間を数値化したものだと単純に考えたら、人数が増えたらそれだけ増える、闇のところでも書いたけど人間飼ってたらそれだけでもその分お金もらえちゃうんだよね。
反社会的な組織とか、どうみてもまともに仕事とかできない人を集めて、まともに仕事してる人より利益をえているか不思議だよね。
ただ人間の数があるだけでも強みになるってとこかも。
具体的にいうと一人の時間も二人になれば倍になるよね。二人で仕事をすれば一人の倍できる。その上で仕事って何って話だけど、サラリーマンだって一日ずっと仕事してるわけじゃない。
一日9時間なり10時間なり仕事してるとしたら、それ以外時間や仕事中でも仕事と関係ない時間を割いてしまってる。
書類を渡すのに待ってる時間とか、移動のちょっとした空き時間とか、先方の連絡待ちの時間とか、食事やごみ捨てや清掃なんかも。
その仕事にもならないから無料の時間で自分でやってる事を、それだけをするので一人につき10分や20分といった時間を仕事に割り当てる人がいたらどうなるか。
そんなもので生活はしていけないかもしれないけど、それを統合してひとまとまりにするとまとまったお金になる。そういうことだね。
でも他人とのコミュニケーションとか面倒だし、パーソナルスペースで自由になれる時間も欲しいし、なにより集団って悪いイメージって文化がしっかり醸成されてるから難しいとは思うけどね。
地域や仕事でよりしっかり集まっていかないと、個々に分散すると一人になったところからやられていく、そんな感じ。
大企業が大儲けしてさらに豊かになって、土壌も整えてさらに豊かになる、って憎いひどいって思うかもしれないけど、同じことだよね。集まってるだけ。
最初にだれかに声をかけて、二人になり、四人になり、八人になり、と大きくなってシェアを競り勝ち大きくなっただけ。みんなも最初からこれをやれば同じく大きくなるって話。
いまどきの風潮をすてて昭和初期から中期のむかしながらの生活みたいなコミュニティやコミュニケーションがその効率はよかった代表格の成功例みたいなものだから、できないことはないと思うよ。今なら。
でも一人がいい、指図されたくない、自分のアタマで考えたい、自由に好きなものを選びたい、そんな事が人としての幸福って感じにすっかり染まってるよね。
その幸福を得るために垂れ流してるコストは、二人になれば2倍になるのだから一人でいることはすでに等倍のコスト、10人で組織されたチームで生きる10分の一しか得られていない、30なら、ってとこ。
自分の公共福祉で使わなかった分が現金として支給されたとして、それを使ったら万が一の時の備蓄がないままだよね。使わないなら得してたけど使うとなったら大損。
そのリスクも使わないパートナーと使う自分で組み合わせればコストは半分に、組織化していけばもっと小さくできるし、使わないときの得はもっと大きくできる。
一人で100万人の従業員の100万倍の資本の会社に勝つには、いまの100万倍の成果をあげる努力をしないといけないけど、だから無理だって思っちゃうかもしれないけど。
そこであきらめるから貧困から脱せないのかもしれないけど、100万倍の能力を身に着ける方法をどうやったらいいかなんて考えなくても、できれば100万人の、そこまでいかなくても自分の一人から数えて何倍かの人数を集め、集まり集団で団体で行動をしたり計画をしたり、持ち寄ったりするといいんだよ。
ユーチューバーのフォロワーの数も、人数としていえば1フォロワーが人間でいうところの0.3人くらいかもしれないけど、やっぱり万とかいくとそれなりに大きいでしょ。
資本主義で民主主義な長所はそういうところだから、活かしていきたい人はがんばってほしい。
まあそういうのをするために自治体って集まりができて、政府ってのができて、国だったんだけどね。ここにきてあらためて解体っていうかたちの現金支給で還元ってのも、ありといえばありなのかも。
お金がないなら、減らしていくんじゃなくて、あつまってこ。そういうとこ気が付いていきたいよね。
あるいは、オリンピック続行に反対だが、選手は応援したい、というジレンマ。
全国的に感染が急拡大する中、こうしたジレンマに悩んでいる人、多いと思う。
wikipediaによると以下。
認知的不協和とは、人が自身の認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、矛盾する認知の定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。
オリンピックに反対であるがゆえに、応援もしない、さらには選手を軽蔑する、という形で自分自身の内心の一貫性を持たせようとする心的な傾向は、まさに日的不協和の典型例なんじゃないだろうか。
しかし、近代社会というのは、個々人の内心が一貫していることを求めるものでもなく、むしろ個人の好みと社会にとって正しいと思うことがぶつかり合うことを前提とした制度設計がなされている。
例としては、うなぎは大好物だが、乱獲は抑止すべきだ、とか、プラスチックは便利だがプラスチックごみは規制すべき等も思いつく。
自分の欲求と社会のありようが完全に一致しているひとはまずいないだろうし、ありとあらゆる社会問題は、自分のなかに矛盾した形である、個々人の選好と個々人の描く社会の在り方(正しさ、善)を調整する営みなんだろう。
うなぎの例でわかるように、「したいこと」と「よいこと」が矛盾した認知的不協和というのはごく当たり前の心理状態であり、大好物という認知と乱獲防止への政策支持の不一致を解消する必要はない。
うなぎは好きで食べるけれども、乱獲防止政策に賛成という態度はあって当然のこと。むしろこの二重性がなければ、公共的判断は成立しない。
うなぎを食べながら規制に反対する、というのも、認知的不協和の解消方法のひとつといえる。人々が矛盾を抱えたままで「正しいこと」に合意し、公共判断を下せるのは、とても合理的な制度設計だ。
そう考えると、現代の民主政が直接ではなく間接民主制なのか、納得がいく。
個人的には好きではないけど自分が社会の在り方として正しいと思っていることを代表者が討議し、社会として選択する、という場が必要になる。
そうなると、意思決定者にも、討議に参加する代表者にも、欲望だけに囚われない、人間的にも理性的にも分別のあるマトモな人間であってもらいたい。
近代の民主主義を築き上げた初期の人たち、例えばアメリカの建国者のひとりジェファーソンは、
公共的な討議の場を設定するためには、市民としては、そういう矛盾する認知を整理し、公共的課題を自分の欲求から分けて考えることができる分裂症的気質こそ、民主政に必要な市民の資質だと考え、他方、代表者(議員)に必要な資質をアリストクラシー(自然的貴族)と呼んだ。
しかし、一般市民としては、自分のなかの矛盾に耐えられない、というのが当たり前。
社会はこうあってほしい、という思いと、自分はこれが好きだ、という、ふたつの矛盾する認知に直面したとき、
ふつうの人々は、自分の内面を整理するために、どちらかの認知に一貫性を持たせるよう、知らず知らずに認知を修正してゆくことになる。
今回のオリンピックの例でいえば、特に運営側の闇の側面をいやというほど見せつけれられてきたので、人々のオリンピック嫌いが加速し、中止または延期の世論は7割以上になった。さらに、自分のなかでの論理的一貫性を保つために、選手にも賛同しない、という考えすら生まれてきたのは周知のとおり。
オリンピック選手に対するある種の攻撃的な感情は、こうして醸成されてゆく。
社会の規範に合わせて自分に対して一貫性を要求しがちな日本人は特に、自分の欲求を我慢するのはストレスなので、場合によっては、自分だけではなく、他人にも一貫性を強く要求するようになるからだ。
別の例を挙げれば、60年代にセクト化が加速したサヨクの動きが典型例。
また、原発反対するなら電気使うな、オリンピック反対するなら、テレビをみるな、といったよくある論法も、同じ認知の一貫性を他人に求める一例。
サヨクのみなさんは、極端に走り勝ちで、じゃあ電気をつかわない、といって原始人のような生活を始めたりもしてしまう。
自分のなかで一貫性を持たせようとして、あえてオリンピックをみない、応援しないといった姿勢を貫こうとする人も少なくないようだ。
党派性それ自体は、個々人の選好が異なれば自然発生的なものだろうが、
それが過激化するのは、認知的不協和へのストレスのほかに、もうひとつ社会的な原因がありそうだ。
ますます両極化が進んでいき、相手方の一貫性のなさを批判し合うようになるまでには、認知的不協和を解消しやすい立場の人とと
そうではない人たちとの分断が背景としてあるのかもしれない。
コロナ対策では人流の抑制が課題なので、パンデミックが始まった一年前、ステイホームが大きく取り上げられた。
しかし、ステイホームできない、したくない人たちの現実、そして経済再開を望む多くの圧力を前に、
次第に言葉の力は失われ、今では行政も政治家も口にしなくなってしまった。
もっとも同時に、自粛警察もあんまり姿をみなくなったのは喜ばしいこと。
ステイホームができる人と、できない人の立場の差。それを声高に叫べば叫ぶほど、軋轢を生み、社会の分断が加速する。
思い出すのはベトナム反戦運動。ベトナム反戦真っ盛りの60年代のアメリカでブルーカラーと呼ばれる労働者階層が、ベトナム反戦に熱を上げる若者たちに
反感を抱いたのは、自らは徴兵されず、安全な場所から口だけ反戦を叫ぶやり方が気に食わなかったからだ。
コロナ禍でのステイホームのムーブメントでも、それと似たような分断が生じたように思う。
自粛、在宅など社会に貢献できる人々と、ステイホームという形では絶対に貢献できず、むしろ足を引っ張ってしまうようにも見られてしまう業界。
それが特に浮き彫りになったのが、エッセンシャルワーカーというカテゴリからこぼれ落ちた飲食業界だ。
オリンピック選手もまた、一般人以上に、社会の安全と自己実現との間の認知的不協和に引き裂かれ、なおかつ、オリンピック反対派の標的にされるという意味では、深刻な犠牲者だろう。
以上の話は、人々のジレンマを構造的にとらえたらどうかな、という試みだけど、
自分自身が考えた正しさは、オリンピック賛成であれ、反対であれ、現在の自分の社会的立場のなかで認知的不協和を解消しやすい形で論理化されたものであり、
知らず知らずに自分の都合のいいように、正しさの論理的一貫性がアピールされているに過ぎない。
しかし、そんなふうにと口でいうのは簡単だが、ふつうはそんな悟りを開いたようなことはいえないし、そんなもの誰とも共有されない。
重要なのは、こんなふうに構造化して達観する、というか、悟りを開け、ということじゃなくて、
オリンピック観戦は選手の思いを知る絶好の機会。オリンピック反対がトーンダウンした、という論調もあるようだけど、
そうではなくて、自分的には反対は反対だけど、選手たちの置かれている立場もわかって、攻撃性が選手に向きにくくなったということだろう。
飲食でも、これまではタレコミにも怯え、苦しめられてきたけれど、最近は、ある意味、腹を括ったお店も多い。
タレコミも減ってきたという声もきかれる。
こうした寛容さは、行政の飲食業界への不十分な手当が報道されたり、飲食の場で実感することで、人々の認知が再修正された結果だと思う。
人々の認知には多様性が生じるものの、異なる立場の姿が可視化されることによって、自分のなかで矛盾する二つの認知をよりクリアに整理することにつながる。
こうして考えてみると、自粛要請をベースとした日本流の政策は、人々の認知が多様になるとかえって不都合なのがわかる。だからこそ政権与党は、人々が同じ方向を向きやすいタイミングを狙って、オリンピック直後の選挙を好機とみたりするのだろう。
自粛要請は、政策決定(ルール)に従う形で自分自身の好みという認知的不協和を解消しようとする日本人のメンタリティと、同じ社会の構成員にも同じ一貫性を要求したがる相互監視のムラ社会的なメンタリティが合わさって発揮して初めて効果的だといえるけれど、昨今のオリンピック運営のゴタゴタにみられるように、公共的なルールや判断への人々の不信感が強まると、必ずしも政策決定者に都合のいいような仕方で人々が一丸となって、認知的不協和を解消してくれるとは限らなくなる。
などと、都合のいい解釈で認知的不協和の解消を政策決定者自らが行うとなれば、
人々は、ルールへ従うことの意味が不明瞭になり、ああ、結局、好きなようにやっていいんだな、という思いを強め、相互監視は機能せず、自分の生活を変えることなくコロナへの懸念も自分の認知のなかで両立させてゆくだけだ。
しかし、現実には、2020年4月に実現した日本人一丸となったステイホームは夢のまた夢だし、飲食業界は我慢の限界をとっくに超えているしで、
人々はデルタ株猛威の現実にピンときておらず、人によって温度差のある、かなり適当な自粛をしつつ、コロナから目を背けられる絶好の機会とばかりにオリンピックに夢中になっている。
自粛に頼った政策は、結局のところ、オリンピックへの賛否が開催とともに揺れ動いてきたことに典型的に表れているように、認知的不協和の解消の仕方に多様性が出てきた瞬間、崩れ去ってゆく。「コロナは心配、、、」といいつつ普段通りに暮らす人々であふれかえるだけだ。
本来の政策というのは、そんな人々の認知(世論)など無関係に、討議されるべきであるし、人々は討議の結果に対して法的な拘束力を受け入れるべきだ。
例えば、自分の考えと相反していても、オリンピックは応援しているし、これからもしたいが、もし中止という政策決定がなされるならやむを得ない、
あるいは、オリンピックは懸念しているが、もし続行という政策決定がなされるならやむを得ないという態度でいられるほどに、政策決定者への信頼が重要になる。
「ほらみろ五輪楽しんでいる奴らが増えただろ」などという次元で政策を決めるべきではない。
むしろ「個人としては五輪は楽しんでいるけれども、政府には感染対策として中止するなら、中止を決定してもらいたい」という、ジェファーソン流にいえば分裂症的な市民の判断を見極めたほうがいい。
しかし残念ながら、いまの政権にはそうした信頼が全くといっていいほどない。
いつどんな判断をするか、全くわからない。データは出さない。モニタリングもしない。事実に基づかず楽観論でしか答えない。
将来シナリオを示さない。予測や分析を共有しないから、いつも唐突に首相が何かを決心したかのように物事が決まって、人々がついていけなくなる。
https://note.com/rote/n/n631698f25ca2
先日話題になったこの記事を読んで思うところがあったので文章にしようと思う
シャニマスに【♡まっクろはムウサぎ♡】が実装されたときも何も考えずに、かわいい!って叫んでた。もちろん私服とフェス衣装両方だ。なのでこの記事がTLに流れてきた時、??って感じだった。
確かに自分もにちかかわいい!と同時に左の子もかわいくね??って思った。まあシャニマスのモブはみんなかわいいし、と思い気に留めなかった。
しかし、記事を開いたらにちかダサくね??みたいなことが書かれていて好きなアイドルをバカにされたような気がしてイラっと来た。でも否定するのは全て読んだ後にしようと思い、記事をスクロールしていった。
ある程度省略して説明すると、服の色的にダサく見えるよねって感じの内容でした。自分には色彩学の知識が無かったのでへ~って感じで読んでた。この記事を通して色彩学というものに触れられてよかったと思う。
さて、ここからが本題だ。確かにnoteの筆者のように色の知識を持っている人からしたらにちかの私服はダサく見えてしまうのだろう。ただしTLのお前たちはどうなんだ?今この記事を読んでいるお前だ。【♡まっクろはムウサぎ♡】実装時は
かわいいとTLで囃し立てていたのにnoteが流れてくるとそれ自分も思ってた、にちかの性格を私服にも反映させている運営すごいなど、自分の意見を捨てて俺は服の知識もあるんだ!運営sugeeee!と、俺分かってますよ感を出してる
オタクが大量発生していた。本当に気持ち悪いからやめてほしい。GUとユニクロで全身黒ずくめのお前らに服や色の知識があるわけがないだろ。
にちかのWINGコミュ「on high」の「誰が見てくれるんですか、私のことなんか・・・道で立っているだけじゃ、ただの人ごみなんですよ」という発言からにちかは自分に自信を持てていないと考えられる。このことから、noteに書いてあることは
正しいのかもと思う人はいるかもしれない。だけどそれが正しいかどうかはまだ公式が答えを出していないので考察程度にとどめておくべきだと考えている。でも実際はまるでそれが事実であるかのように拡散している人が多く見られる。その
結果、ツイッター検索のサジェストに「七草にちか ダサい」などと表示される。ある程度シャニマスをやっていてnoteも読んでいる人からしたら大丈夫なのだが。シャニマスに詳しくない人からしたらにちかって子はダサいの?となる。そこからシ
ャニマスに触れてそれが事実と異なるということを理解してもらえるのならいいのだが、実際はにちかはダサいという知識だけつけてシャニマスに触れない人がほとんどだろう。そうすると七草にちかというアイドルが記号化され、樹里のヤンキ
ー、冬優子のツンデレのように間違った認識が広まってしまう。そうなると「あんたはここでふゆと死ぬのよ」のようにネットのおもちゃにされてしまう。自分はそれに耐えられない。
色々書いたけど結局はオタク、自分の意見を持ってくれ!ということだ。オタクは影響されやすい生き物だけどイエスマンにはなってほしくない。でも逆張りオタクにもなってほしくない。自分はどっちかというと逆張り側だ。難しいかもしれないが、周りの意見に流されすぎないようにしてほしい。
書きたいこと書いたのでここで終わりにする。
最後に、フルの先行配信始まったので全人類「PRISISM」を聞け。この曲の真乃が最強にかわいい。
ありがとうございました
https://note.com/rote/n/n631698f25ca2
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確かに自分もにちかかわいい!と同時に左の子もかわいくね??って思った。まあシャニマスのモブはみんなかわいいし、と思い気に留めなかった。
しかし、記事を開いたらにちかダサくね??みたいなことが書かれていて好きなアイドルをバカにされたような気がしてイラっと来た。でも否定するのは全て読んだ後にしようと思い、記事をスクロールしていった。
ある程度省略して説明すると、服の色的にダサく見えるよねって感じの内容でした。自分には色彩学の知識が無かったのでへ~って感じで読んでた。この記事を通して色彩学というものに触れられてよかったと思う。
さて、ここからが本題だ。確かにnoteの筆者のように色の知識を持っている人からしたらにちかの私服はダサく見えてしまうのだろう。ただしTLのお前たちはどうなんだ?今この記事を読んでいるお前だ。【♡まっクろはムウサぎ♡】実装時は
かわいいとTLで囃し立てていたのにnoteが流れてくるとそれ自分も思ってた、にちかの性格を私服にも反映させている運営すごいなど、自分の意見を捨てて俺は服の知識もあるんだ!運営sugeeee!と、俺分かってますよ感を出してる
オタクが大量発生していた。本当に気持ち悪いからやめてほしい。GUとユニクロで全身黒ずくめのお前らに服や色の知識があるわけがないだろ。
にちかのWINGコミュ「on high」の「誰が見てくれるんですか、私のことなんか・・・道で立っているだけじゃ、ただの人ごみなんですよ」という発言からにちかは自分に自信を持てていないと考えられる。このことから、noteに書いてあることは
正しいのかもと思う人はいるかもしれない。だけどそれが正しいかどうかはまだ公式が答えを出していないので考察程度にとどめておくべきだと考えている。でも実際はまるでそれが事実であるかのように拡散している人が多く見られる。その
結果、ツイッター検索のサジェストに「七草にちか ダサい」などと表示される。ある程度シャニマスをやっていてnoteも読んでいる人からしたら大丈夫なのだが。シャニマスに詳しくない人からしたらにちかって子はダサいの?となる。そこからシ
ャニマスに触れてそれが事実と異なるということを理解してもらえるのならいいのだが、実際はにちかはダサいという知識だけつけてシャニマスに触れない人がほとんどだろう。そうすると七草にちかというアイドルが記号化され、樹里のヤンキ
ー、冬優子のツンデレのように間違った認識が広まってしまう。そうなると「あんたはここでふゆと死ぬのよ」のようにネットのおもちゃにされてしまう。自分はそれに耐えられない。
色々書いたけど結局はオタク、自分の意見を持ってくれ!ということだ。オタクは影響されやすい生き物だけどイエスマンにはなってほしくない。でも逆張りオタクにもなってほしくない。自分はどっちかというと逆張り側だ。難しいかもしれないが、周りの意見に流されすぎないようにしてほしい。
書きたいこと書いたのでここで終わりにする。
最後に、フルの先行配信始まったので全人類「PRISISM」を聞け。この曲の真乃が最強にかわいい。
ありがとうございました
俺はブサメン、コミュ障、童貞、運動音痴、馬鹿大学に通ってるかなりの低スぺ粗大ごみ。身長も平均より少し上ぐらい、長所なんて一つもないし、死んだほうが社会のためになるかもしれない。高校時代、勉強もできず人と話せず運動もできないクズとして、同級生からかなり馬鹿にされ、担任にも嫌われた。親にも嫌われ、よくdisられた。そんなんだから自己嫌悪と劣等感に苦しめられながら生きてきた。周囲の人間に対してこんな低スぺでごめんなさい、生きててごめんなさいと毎日心の中で謝り続けた。高校時代のトラウマは今も消えてくれない。人間の価値はスペックなんかで決まらないと考えることにしても、「そんなのただの負け惜しみだろ」って声が聞こえたような気がして逆効果だ。結婚なんかできるわけないし、これからキモカネとして悲しい生活を送り続けるのだろう。
そんな俺だが性癖はマゾである。ある日、俺より高身長、高学歴、高収入で美人でスタイルの良いドSの脳内女王様を想像してみた。彼女が俺のスペックの低さをひたすら罵倒して、女王様と比べ思いっきり見下される妄想をするととても気が楽になった。裸で拘束され、「お前みたいな低学歴は命に価値なんかない」「顔きもいから早く死んだほうがいいんだよ」「そんなんだから虐められたんだよ。自業自得」「お前みたいなごみを産んだ両親もかわいそうだな」って罵倒されながら鞭で打たれ唾を吐かれひたすらに痛めつけられる。町中でイケメンですれ違った時にも女王様が「あの人はイケメンなのにあんたは何でそんなにキモいの?」って罵ってもらえる。何かミスをしても「無能すぎる。生きててもみんなの足引っ張るだけだから死んでよ」、自分の知識や教養のなさを思い知っても「そんなことも知らないの?顔だけじゃなくて頭も悪いとかゴミだね」って罵ってもらえる。すると逆に今まで辛かった短所が長所みたいに思えてきた。決して消えることのないコンプレックスを性欲に昇華することでとても晴れやかな気持ちになった。随分と気が楽になって、生きる気力がわいてきた。というわけで俺は天涯孤独の粗大ゴミですが、一人で気持ち悪い妄想することで強く生きていけるようになりました。
ふざけるな、自分が何を言っているかわかっているのか、犯罪行為を助長するな、人殺しめ、とあなたは言う。
そりゃそうだ。だが、実際には道端にゴミを捨て、自治体の要請に従ってテレワークなどせずに出勤したほうが得られる利得が多いから、そうしている人が多いだけの話だ。
道端に電子レンジが捨ててある。清掃事務所が見つけてシール貼っていったらしい。「これは粗大ゴミです。申し込みをして廃棄を云々」の文字が虚しい。しばらくして同じ道を通りかかると、電子レンジが消えている。結局、清掃事務所が持って行ったからだ。
誰が電子レンジの処分費用を負担したか? 回収コストは税金から充填された。つまり、あなたが住民税を払っているなら、処分費用を払ったのはあなただ。一方で、粗大ごみの回収券を買わずに無料で電子レンジの処分に成功した人もどこかにいる。
不法投棄は法律で罰せられ、罰金または懲役が待っているとしても、捨てているところを見つからなければよいだけの話だ。そして不法投棄は実際に起こる。不法投棄をつねに監視するコストよりも、不法投棄にその都度自治体が対応し、税金で処分費用を充てんするほうが、トータルで見て安いからだ。
不法投棄を完全になくす方法がある。それは、いつでもだれでも無料でゴミを捨てられるようにすることだ。もちろん、そのゴミの処分費用は、あなたが払う税金で負担することになる。そうすると、毎年の住民税は上がるかもしれない。
そんなことは認められない? それなら、日本伝統のよい方法がある。『ゴミをめったやたらにそこらじゅうに捨てないようにしましょう』という市民道徳で市民を縛っておいて、自治体に余計なカネを出させないことだ。もちろん、電子レンジを道端に捨ててしまう人も出てくる。そういう逸脱行為には、こっそりと税金から処分費用を負担しておいたほうが、おおっぴらにタダでごみを捨て放題にするシステムよりも、トータルで見て低コストだ。
一般市民が善意を持っていると想定して、それによりかかるシステム下では、「ルール」を破ったほうが得なのだ。
テレワークをしないほうが得になる状況も、ゴミと同じ論理だ。出勤を控えてテレワークをするようにと自治体が要請している時に、朝の通勤電車は相変わらず満員だ。なぜか。テレワークを無理にしなくても会社は潰れないし、家でじっとしていたところで誰かが補償金をくれるわけでもない。
世の中の誰かが出勤を控え、その社会的費用を負担してくれるに違いない。誰もがそう思って電車に乗ると、いつも通り混んでいる。