はてなキーワード: 主食とは
健康な人が偏った食事を開始して、体に悪い影響がでるのに3年程度かかると言われてるので、
過労で友人が入院した。
徹夜残業は当たり前、睡眠時間も3時間寝られればいいほうだったそうだ。
飯はいつもファーストフードや牛丼屋ばかりで、健康とは程遠い食生活。
そんな崩壊した生活が祟っての入院。これを機に体休めるとは言ってたものの、突然の治療費・収入なしはやはり辛いらしい。
自分もここ数日、終電で帰られればいいほう、食事はコンビニかファーストフードばかりだ。
「野菜350g、睡眠、瞑想」はブクマカのお題目としては常識だけれども、自分も生活改善の一歩として、野菜中心の生活に変えてみた。
ただ、サイクルが一気に変えられるわけではないので、朝はともかく、昼と夜は会社近くのスーパーでサラダとスープを買って食べている。
ここ最近はこれをずっと続けている。
特段、肉を食べていないからスタミナが落ちるわけでもなかったし、米を控えててもひもじい思いをするようなこともない。
別にダイエットしたかったわけではないので、おやつもほどほどには食べている。
甘いものが食べたいときは、ヨーグルトにブルーベリーソースを掛けて食べている。
それでも、半ば糖質制限みたいな状態になってるのでそのせいもあるだろうか、結果的に減量にも成功してしまった。
何より野菜は美味い。
もう何度も出尽くされた話だけど、数年作る側として同人誌を頒布してみて価格について自分なりに考えたことをまとめようと思ったので。
価格のことはイヤでもついて回ったのであくまで一個人の考え方としてアウトプットしてみる。
そもそも弱小サークルなので印刷費+スペース代がとんとんって感じだったけど、それでも最終的に大きな赤字にはならなかった。
これは本自体を少しだけ多めに刷って半年以上(本によっては一年とか)+通販で在庫を捌けさすスタイルだったことももちろんあると思うんだけど、私のようなへっぽこが趣味として同人をしていくうえで赤字が少なくすんだのはジャンルとカップリングと毎回新刊を手に取ってくださった方々に感謝するばかりです。
私はこれを「多少は儲けたっていいじゃん」と思っている人だけど、黒字がでた分に関してはできれば他の人の同人誌買ったり、お世話になってる印刷会社さんにお金を落としたりしてくれれば嬉しいなぁとは思う。
私のカプでも【多少は黒字でたっていいじゃん派】と【同人で黒字なんてもってのほか派】と両方いた。
んで私の周りの【同人で黒字なんて~派】はとにかく儲けている人への攻撃がすごかった。
あくまで私の周りだけだから特殊な人が集まっただけだと思うけれども、黒字をだしてそうなサークルでノベルティ等で還元してなさそうな人はもうなんか思い出したくも無いレベルで罵っていらっしゃった。闇を聞いてしまったと思う。
これはすごく勝手な分析だけれどもその人たちはおそらく「ジャンルに対して真摯な自分」であり「ジャンルで儲けようとしてる人間」を許せなかったんだと思うし、「自分たちがやってないことを平気な顔してやってる人」に腹がたって仕方が無かったのかな、とも思った。
これは、同人に対しては半分正しくて半分間違ってることだなと思った。
例えば普通の趣味で、何か習い事をしたりするってなったときに先生との相性、立地を含む通いやすさとかを見ると思うんだけど富豪でもない限り必ずそれに伴う料金を考えると思う。
少なくとも私は見る。めっちゃ考える。続けていくうえでどこまで趣味に投資できるのか。お金を使えるのか。自分の月収から趣味に対してどこまでの金額を使えるのかっていうのは結構重要なことだと思っている。
普通の趣味もしくは習い事(例えば語学教室とか料理教室とか)って同人と違って金銭のリターンがあるほうが珍しいんだよね。
だから趣味は赤字が当たり前で、その赤字(というか自己投資なんだけども)を財布と相談したうえで現実的な値にするかというのも本人に決定権がある。
同人は誰かに強制されるわけじゃないから多くの人にとって趣味だけど、当人と印刷会社だけ額を決められないんだよなぁっていうのに同人誌を作りはじめてちょっとたった頃に気付いた。
私の月収、生活環境から一ヶ月の趣味にあてられる金額は2,3万円ぐらいが自分の中での目安だっだ。
参加する即売会イベントは基本的に2,3ヶ月に一回、ぐらいなので一回のイベントに対して掛かる金額は4万~6,7万ぐらいになる。
ここから私は【交通費】【スペース代】【印刷費】【当日買いたい同人誌】を全部まかなっていた。冒頭でも書いたけども弱小サークルなので基本的にこれだけの額があれば上記はクリアできたし、頒布側の人はわかると思うけれどもこれがいっきににドカンとくるわけではないのであくまで目安としてほしい。
一例としてあげると
一月:スペース申し込み代金4千円~6千円
二月:印刷費(私の場合)約3万~5万(部数とページ数によっての変動や印刷会社による価格の違い)
三月(イベント当日):交通費(東京の場合往復で5千円程度)、同人誌の購入費平均2万ぐらい
こんな感じで多少の変動はあれどまったりとやっていた。
ところがどっこい。私ももちろんサークル参加するとあるイベントで嬉しい誤算が起こった。
再録、アンソロ、分厚い個人誌のオンパレード。同人誌は一期一会買わなければ絶対に後悔する。
馬鹿だと思ってくれていいんだけどそれはもう欲望のままに買った。戦争は大勝利だった。財布はもちろん瀕死だった。
冒頭にも書いたけれど私は本自体を少し多めに刷って、半年ぐらいは持つように在庫を持っていた。
新刊の内容や装丁、参加者の入りに左右はされるけれども基本的に一度のイベントで印刷費が回収できることはない。そういうサークルでした。
このイベントで私の本が売れたかっていうとまぁ、まぁいつもと同じでした。
つまり私は予算オーバーをし(これは自己責任であり本が摂取できてるので心は安らかだった)、イベント以降も自分にとって大きな額の赤字引きずったままだった。
続けていくためには黒字にできなくても現実的な赤字に戻さなければ生活は圧迫されたままだ。
結論を言うと印刷費を削った。ページ数は無理だったし装丁はオプションのせてなかったので部数を削りました。
毎回イベントでは余ってるし、半年~一年持たせなくてもとりあえず落ち着くまではイベント一回分と通販あればいいかなって。
本を作るのは好きだし、手に取ってもらえると嬉しい。でも私の場合は人が作った本も欲しかった。次のイベントもおそらくこのフィーバーは続く。アニメ化して人気だったし!!!次イベは丁度推しのパートだし!!
買いたい本に割く金額が増えるのだから、使える金額の上限が決まっている以上どこか切らなければならない。
いつもより人が増えた今回のイベントで新刊の頒布数は変動していないのだから減らしてもいいだろう。そう思ったのだ。
そして次のイベントではありがたいやら部数読み間違えて悲しいやら新刊はまさかの完売だった。
受け入れてもらいやすい内容だったのも影響したのかもしれない。その本はイベント開始から1時間もったかどうかも怪しい。
サークル活動を続けて私はここで初めて複数名から「再版ありますか?」と声を掛けられた。
刷れば刷っただけ一冊単価が下がるのが同人誌だけれども、部数を減らした私は完売しても印刷費分がやっと回収できるレベルだった。
金銭面を総合するとここでやっと普通の生活に戻れるラインにはなっているが、正直再版は厳しい。だって既刊はまだ残ってる。これ以上部数を落とせば原価割れで売れても売れても赤字になるわけで、残っている既刊が全部はければ再版分の赤字を補えるがそんな奇跡に期待するのは厳しい。果たしてその赤字は私の中の現実的な赤字に納まるのか?その赤字を抱えたまま次の印刷費は捻出できるのか?と思うと再版はできない。
ごめんなさい、と言うしかなかった。(今でも読みたいと言ってくれた方がいたのに再版する財力が無かったことを悔やんでる)
それまでが長めに頒布するスタイルだっただけに、いつも手に取ってくださってた方々も「あのサークル(私のサークル)は長めに頒布してくれるから後回しにしても大丈夫だろう」と思ったのだと思う。私も買う側なら私のサークルをそう判断する。
結果として手にはいらなくてももちろん自分の判断を悔やむしかない。けれどこの時ふと思った。
「あれ?これって私はこの程度で済んでるけどシャッターや壁なんてこのレベルじゃ無理だよな?っていうか文句つける人でてくるだろ」と。
有名になればその分だけいい人も悪い人もついてくると思う。
そして有名な人がみんな財力をもっているわけじゃない。
私の印刷費はかかっても過去最高で5万円ぐらいだったけど(それでもこの額を振り込むときは勇気がいった)、大手サークルはなんかもう「私の生活費からだせる印刷費はここまでの額で刷れるぶんだけ!」って決められるレベルじゃない人ばっかなんじゃないだろうか…
みんなが富豪なら問題ないけど、きっと人気のあるサークルさん(壁やシャッターだけでなく)の中には学生さんもいたりするんじゃないか。そしてその人たちの財布の状況とは別に需要が発生してしまうんじゃないか。
私は自分の頒布数と印刷費が自分で決めれるけれど、そうじゃない人もいて、そして需要を作っている人間に間違いなく本を買った私も含まれているのでは?
そう思ったら【同人誌で黒字なんてもってのほか派】が途端に恐ろしくなった。
いやいや、だって、本が買えなかったら悲しいじゃん…本欲しいよ……買わせてくれよ……印刷するための多少の黒字は確保しててほしいよ……
次の印刷費にあてるだけの黒字は持っててくれるほうが安心するよ……再版で毎回赤字のリスク抱えるのやめてくれよ……額でかすぎたら心臓キュってなるじゃん
次の印刷費の満額だすような黒字じゃなくてもさ、せめて半分だけでも黒字分を確保してくれてたら安心だよ…
女性向け界隈では人を叩くのに使われる「完売はわわ」「再版はわわ」というのがある
最初はツイッターとかで「完売しちゃってごめんなさい><はわわ」ってする人のことだと思ってたんだけど、毎回毎回再版してる人のことをサークル側が「いい加減学べば?馬鹿じゃないの?」と言ってたりもする…女が集まってるんだからこんなのはたぶんどのジャンルやカップリングでも多かれ少なかれでもあるのかな、と思う。
私の場合は買う本を減らせば印刷費に当てられたけど、たとえば最初からどうしても我慢が出来ない分しか本を買ってない人にそこを我慢して印刷費にあてろというのは酷だし、そもそも既にそこを削っている人もいるかもしれない。
私は欲望を抑えられなかっただけなんだけど、今は不景気だし減給とかあとフリーランスの人は収入自体が左右されたりするんじゃないかな、と思うとやっぱり赤字を現実的な額に抑える努力は必要だし、赤字抑えた結果の本が手にはいらなくなるぐらいなら黒字だしていいから刷ってくれ!頼む!って感じがする。
こういうのを誰かと話す機会もなくなってしまったのでどこかに頭の整理として書きたかった。
作品は自分の子供なんです!とか、本が売れないと創作意欲が萎えるからとか、神のアフター代まで賄うべきとか、印刷費以外の経費のことを考えろ!とか私はそういうことを言う気はさらさらないです。
ただ「欲しいと思った本」が「その時に欲しいと思っている人に届けられる冊数」が成り立てば最高だなって思ったら、黒字は金銭的にはもちろんメンタル的にもすごく大事なことなんじゃないかな、と思いました。
話題のスーパーマリオランの紹介記事に「ハンバーガーを食べながら楽しめる」と書いてあった
では日本のもので片手で食べられるもの、といえばおにぎりだろう
ご飯の中に具を入れるので、主食とおかずが同時に食べられる
海苔を巻けば手にご飯がつかない
素晴らしい発明だ
ただ、ハンバーガーとおにぎりを並べた時、どうしてもおにぎりの格落ち感が否めない
なぜだろうか
まず、具の量の少なさだろう
少しくらいならはみ出しても大丈夫なので、バンズと具は同量くらいでも問題ない
一方おにぎりは具をご飯でくるむため、どうしても具に対するご飯の量が多くなってしまう
ハンバーガーのようなおにぎらずというものもあるが、あれは片手では食べにくいだろう
次に一度に入れる具の種類の少なさ
おにぎりは具の絶対量が少ないため、一度に何種類も具を入れるのが難しい
明太子おにぎりには明太子のみ、梅おにぎりには梅干しのみ、というように一品のみというのが基本である
高菜明太など無くはないが、数としては少ない
ハンバーガーもサンドウィッチもホットドッグも、肉+生野菜というのが基本形である
肉が魚に変わったり、炒めた野菜が入ることもあるが、基本は肉と生野菜だ
メインの肉や魚があり、それの付け合わせとしての生野菜ならいいのだが、おにぎりは具の絶対量が少ない
なので野菜を入れるとなると、単品のみで入れることになる
以上のことより、片手で食べられるおにぎりは、ハンバーガーに格落ちすると思う
それは具を混ぜ込めるという点である
おにぎりの中心に具を入れた時とは違い、全体がその味になる
他にも海苔を変えたり、握り方を変えたりして、簡単にバリエーションを増やせる点は優っていると思う
つまり、どっちも美味しくてどっちも好き、ということだ
http://anond.hatelabo.jp/20160609124904
色々な答え方があると思う。
戦前の軍隊では「故郷では食べられなかった白米を食べられて嬉しい」という兵隊が多くいた。
稗、粟、黍などを主食とする地域、白米を主食とする地域など、日本の農業は多様性に富んでいる。一地域内での多様性という意味でも同じ。
比較史的にみて日本の人口変動がかなり安定的に推移しているのは、そのことと無関係ではないだろう。
日本においてジャガイモは「飢饉対策」として導入されており、要するに「主食の変更」というより「農業多様性の増加」を目的としていたように思われる。
ちなみに最近は「主食」という概念自体があまり普遍的ではない(特定の地域でしか通用しない)概念であるという指摘もされているのだが、ややこしいので略。
2.税と米
こうした多様性にも関わらず、米が「主食」とみなされていることの一因は、いわゆる「年貢」の存在に求められるだろう。
白米が貨幣的な性格を持ち得たのはなぜなのか、「私鋳銭や破欠銭などの悪銭が一般に流通し、貨幣の価値が安定していなかったから」と言われている。
16世紀ごろから戦国大名が年貢を銭納から穀納に切り替えるので、そのころに画期があったのだろうと思われる。
要するに、ジャガイモが伝来した16世紀以降においても、米は作らざるを得ないものだったのである。
「税の徴収」という観点から江戸幕府が農業政策の中心を米においていたとして、
「農民・商人による自発的な変化」としてジャガイモ中心の食文化が生まれる可能性はなかったのか、という疑問は当然生じるだろう。
結論としては、「可能性がなかったことを否定するのは悪魔の証明に等しく、困難」だが、17世紀以降、国家の干渉によらずして自発的に食文化が大きく変化したという事例は極めて稀であり、日本においてもまずなかった、ということになるだろう。
不安定な生活を送る農民にとって主要作物を変化させることは大きな博打である。プロイセン、ロシア、(イギリス支配下の)アイルランド。ジャガイモで知られるこれらの地域は、いずれも専制君主や植民地政府の苛烈な支配のもと、ジャガイモの普及を進めていった(中公新書『ジャガイモの世界史』を参照)。日本においても明治以降、北海道や、満州においてジャガイモの作付が奨励されている。その意味では、日本では明治以降にこそ「ジャガイモの主食化」の可能性があったということになるのかもしれないが、一方では「日本食」という観念が広がりを見せ、他方では食の多様性が増大しつつあったのだから、ジャガイモが「唯一の主食」の地位を占める可能性はもはやなかった。
私は腐女子だ。
男同士がアハンウフンな状況を見て静かに興奮する実に危なすぎる人種である。
しかしそんな腐女子にも食えないBLCPというものが存在する。
それが「地雷」だ。
腐女子は大きく分けて、地雷持ち腐女子と地雷を持たない雑食腐女子に分かれる。
私は前者だ。
しかしここで主張したいことは、
ということである。
「私それ地雷です!」なんて喚けば角が立つに決まっている。
できれば雑食になりたい。自分も周りも地雷で傷つかない世界に住みたい。
しかし所詮地雷持ちは地雷持ちだ。犬がクジラになろうとしても無理な話であるのと同じである。
私はクジラになりたい。すべてのBLを優しく飲み込む包容力が欲しい。静かに目の前のBLを見守る穏やかさが欲しい。
①地雷だけど偶然目に入ってしまった分は大丈夫。TLが自分の地雷CPの話題で持ち切りだけど、話しかけられなければOK。
②たとえ偶然であろうと、地雷CPのイラストを目にしてしまうのは耐え難い苦痛。なぜ私のTLにこの話題が登場するんだ。
③とにかくCP名見るのも嫌。口に出すのも嫌。もはや忌み語。私のTLを穢した者は容赦なくブロックさせてもらうぜ。
a.大手メジャーCP。CPオンリーとか開催される。このジャンルといえばこのCP、といったように、もはや腐女子界においてそのジャンルの代名詞と言っても過言ではない。
b.マイナー界のメジャー。出回っている作品数もメジャーと比べれば少ない。支持者がコアで、平たく言ってやばめな人が多い印象。ジャンル自体の知名度が低い場合もある。
c.ドマイナー。支部検索でイラスト2件小説5件、しかもすべて同じ人が書いてる(描いてる)、ということはザラである。でも自分以外に一人でも理解者がいてよかったと思える。
もちろんaに近づくにつれて、地雷になるとしんどいものである。
私もCPによって、これは①-bの地雷だ、これは②-aの地雷だから自衛しとかないと、などさまざまである。
今回はこの③-aの地雷を克服したくて、でもできなくて の話をする。
私の主観ではあるが、③の地雷はもはや克服することは不可能である。
克服しようとして果敢に地雷原に突入しそして当然爆死する愚かなパターンを幾度繰り返してきたことか。
私以外周りは全員aのBLを主食としているケースが多いところである。
周りが「○○(③-aで私の地雷CP)尊い……😿😿」などと抜かす中、
「こっちはそのCP名見るだけでも動悸がすごくて冷や汗ダラダラ流れて更年期障害を疑うんだよ!!!わかったからいちいちCP名を出すな!!!お前ごと嫌いになる!!!」
といった気持ちになる。どれだけ好きなフォロワーさんでも一瞬かなり明確な殺意が浮かぶ。
もしそんなことを言えば全員物言わぬただの屍になってしまう。大量の地雷に曝されて死にそうなのはこっちなのに。
ゆえに③-aの地雷持ちはつらいのである。できれば克服したい。好きにはなれないからせめて無関心になりたい。
もはや自分が死にたい。死因:地雷 など周りには到底言えないし言いたくてもそのときにはすでに死んでいる。
③-aの地雷を見事克服することができた腐女子の英雄様がもし世間のどこかにいらしたら、
まだその境地に達せていないこの私めにどうか手ほどきをしてくれないでしょうか。
生きるためにどうか、私を助けてください。
追記します。
なかなか想像が難しいとのコメントが多数ありましたので、地雷は地雷なのですが簡単に申しますと、
そのCPがこの世に存在すること自体に嫌悪感が沸いてしまうような感じです。
例え話ですが、いきなり目の前でムカデが百匹うじゃうじゃ蠢いていたら嫌ですよね。
CP名を見かけるだけで、クソ!!!クソ!!!と憤慨してしまうものの、
その怒りの矛先は、こんなにもそのCPを受け入れられない自分に向けられているものなのです。
私は私の地雷を、この世に存在していいひとつのコンテンツとして受け入れたいのです。
しかし現状ではそれが出来ているとは明らかに言い難いです。というか言えません。
なのでもし同じような経験がございます方がいらっしゃれば是非ともご参考にさせていただきたいと思い、
そして該当ジャンルが版権ではなく、私も参加しておりますツイッターでの身内企画なので、
参加されている方々には普段から企画内だけでなく私生活(?)でもかなりお世話になっている部分もあり、簡単に
地雷だ!オエエ!見たくない触れたくない気配を感じたくないから企画抜けよう!
とはなかなか、他の参加者様のご迷惑になってしまうので言い出しにくく……。
窓もなく、身動きひとつ取れない独房で、ただひたすら目の前で蠢き続ける大量のムカデを眺めることを強いられ、いくら逃げたくてもそれはできない。
といったような気持ちです。
もはや地雷ではなく人間関係の話になってしまっていることをお詫びいたします。
周りからは高評価なのにも関わらず、自分は依然として受け入れられないことへの葛藤もあるのかもしれません。
様々なご意見・ご指摘を受け、すべて真摯に受け止めさせていただいております。
さらに追記
ホモという表現が不適切だ、というご指摘を受けましたので、記事内のホモという言葉をBLという表記に変更させていただきました。(もし漏れがありましたら申し訳ございません。ご報告くださるとうれしいです。)
声優や芸能人が荒らし(アンチ)に反応すると、決まって「反応するから余計に荒れるんだ」「スルーすればいいのに」という意見が出る。
一昔前までは「荒らしはスルー」が常識だった。反応する方が叩かれた。でも今は違う。なぜならブログやTwitterは2chとは違うからだ。
2chは荒らしをスルーしまくれば、やがてdat落ちして見えなくなる。一方、Twitterのリプ欄やブログのコメント欄にdat落ちはない。
不快なコメントを付けられると、それがずっと残り続ける。スルーしたって消えるものではない。
そもそも2chで「荒らしはスルー」文化が根付いたのは、削除依頼というシステムの影響も大きい。
ヘタに反応してしまうと、なんだ荒らしじゃなくてスレ住人同士会話してるだけじゃんと見なされ、削除してもらえないのだ。
一方ブログは自分で削除しなければならない。荒らしをスルーするかしないかは全く関係ない。
Twitterに至っては、自分のツイートにぶら下がるクソリプの群れを隠すことすら出来ない。
これが一番大きな違いである。2chの荒らしの主食は反応だ。だからこそスルーが有効だった。有名なテンプレに以下のようなものがある。
(アスキーアートごとAA記法で貼ろうとしたら盛大に文字化けしてしまった。残念。)
○荒らしは放置が一番キライ。荒らしは常に誰かの反応を待っています。
○重複スレには誘導リンクを貼って放置。ウザイと思ったらそのまま放置。
○放置された荒らしは煽りや自作自演であなたのレスを誘います。ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
アイドルや声優、お笑い芸人に、直接自分の悪意をぶつけて面白がること。この行為自体が主食だ。
相手の反応があればそれはそれで悦ぶだろうが、なくても腹は満たされる。有名人のコメント欄に自分の悪意が開陳される快感が全て。
つまり耐え難きを耐え忍び難きを忍んでも、荒らしはなくならない。
それどころか、荒らしが排除されない場として大人気になるだけだ。某サンリオのキャラを見れば明らかだろう。
当たり前だが、2chの荒らしは攻撃対象がスレ住人だ。極端な話、スレならどこでもいい。
だからこそ反応せずにスルーし続ければ、荒らしはエサを求めて他のスレへ去っていく。
だが、今時の荒らしはターゲットがはっきりしている。反応の有無にかかわらず、そいつでなければ意味がないのである。
スルーし続けたところで一向に立ち去らないのだから、スルーの意味がない。
モロコシ(蜀黍、唐黍、学名 Sorghum bicolor)は、イネ科の一年草のC4植物・穀物。熱帯アフリカ原産。ソルガムとも呼ぶ。
また、中国での呼称であるコーリャン(高粱)ともかつては呼ばれた。主要な栽培食物のひとつであり、穀物としての生産面積では
コムギ、イネ、トウモロコシ、オオムギに次いで世界第5位である。
熱帯、亜熱帯の作物で乾燥に強く、イネ、コムギなどが育たない地域でも成長する。
穀物として食べた時はソバに似た食感があり、北アフリカではクスクスや粥の、インドではチャパティなどのフラットブレッドの
材料として使われる。ひき肉のような弾力とコクがあるので「たかきびハンバーグ」などとして主食の材料にも使われるほか、
アメリカ合衆国南部では、濃褐色のシロップが作られ、ビスケットにつけて食べられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%82%B7
まず食える飯を捨ててる時点で善人ではないという前提で話をするのでそこに疑問があるならここから先は読まなくていい。
はい、全部捨てるでもなく主食以外の飯を捨ててるところから十中八九偏食家だろう。
しかし子どもの前や作ってくれた人の前で残すととやかく言われるからしぶしぶ食べる。
偏食家であるというだけなので別に飯を作ってほしくないという意味ではない→これが作らなくていいと言わない理由
作ってほしい理由としては「愛情こめて作ってるものを食ってるぜ俺は」というアピールをしたいというところか。→これが作ってほしい理由
解決方法としては捨てていることを伝えて残すものは作らないようにしておくか、
暗に嫌いなものは残してもいいよという風潮に食卓を変えていくかだろうが、
もう考えるなと言われたけど、考えないと何も出てきそうにないので。
ざーっと見返してみて、恐らくは「距離感の問題」、結局これだったのかという気がした。
世の中のオタクという奴はそんなに上手く現実と二次元を要領よく使い分けてるものだったのか。
「好きなエロゲは?」と聞かれて、ゆず作品、サガプラ作品、あかべぇ作品、さよ教、ゴアスク、好き好き大好き、辺りを答えて即、俄かゆとり認定されるようなのや、「オレ、ボカロ曲聞いてるからオタクかもwww」みたいな草生やしそうなのが今時のオタクだったのか。
(別にこれらを挙げることが悪いのではなく、これらを上げる人は得てして狭く浅い知見を以て「自分を重度のオタク」だと自称する法則を発動させる)
二次元をファッションの一つとして、自分を彩るアクセサリの一つとして、程よく緩く、ノリで「○○は俺の嫁」とか言うような連中にはなりたくなかったし、そうならないようにしてきたつもりだった。
が、一体どんなペースで新作やってんだっていう人も、長文レビューを書く人も、kanon問題を論じる人も、みんなみんな実は現実とのバランス、距離感、折り合いを処理していたというのか。
Twitter界隈はフォローするクラスタによって大きく空気も傾向も変わるから、たまたま自分の観測範囲がそういう人がいただけだろうなとしか思ってなかったけど、オフ会したり、風俗行ったり、幼馴染み(女)と電話トークしたり、といったのは割と当たり前だったということにもなるな。コミケの時なんて平然とチケ入場だし、コネがあれば入手なんてチョロいでしょw みたいにまで言われたし。オタクの中にでもカーストは厳然とあるよね。
結局、二次元とは足りない栄養を補うサプリメントだとでもいうのか。
きちんとした血肉を得ようと思うなら、全く別の主食も同時に貪るべきだったのか。
消費の中から何かを生み出し、残せた人は一体何を見付けたんだろう。今からでも、二次元でそれを見付けられたらいいなとは思う。魔法使いなら魔法使いらしく、せめてそのぐらいの奇跡は起こさせてほしい。
「承認欲求」という語もあったけど、これもまあ否定はできないと思う。
昇進は試験落ちが続いて同年代と比べて遅れた上に仕方なく合格にしてやると言われる(ヒラでなくなるだけだけなのに)、上司が退職することを職場で自分だけが知らなかった(同僚の口から聞いた)、自分の知らないところで案件が進んでる、と良い感じにここ数年、精神と存在理由を抉られてるのは決して良い傾向では無いと思う。
だからこそ、身辺整理して何か振り返ってみたくなったのかもしれない。気付きたくなかったことに気付いてしまったオチだけど。
確かにいますよねー、職場で配偶者や子の愚痴を言う人って。そんなに不満があるなら別れろよと思うけど実際別れる気は無いようなのでただの幸せ自慢でしょうか。ネットは広大ですから色んな人がいるのは当然ですが、やはり「そういう人もいる」ぐらいの情報となるのは御容赦くださいとしか。別に周囲の人間が全てではないけども、離婚者が大勢を占めるような集団組織ってあるのだろうか。
そんなこともあり、正直なところ三次元を知る人の説教は有り難くはあっても、海外旅行を満喫してきた近所のおばさんに「やっぱり家が一番ね!」と言われたような気分なわけです。
結局のところ、それもまた優越感があるが故のコメントなのではないか。なぜ劣等感は悪で、優越感は善なのか。
抉られた系について:
抉られたならその後の反応が一番知りたかった。
二次元から温もりを感じられない程度でしかないのが悪い系について:
プラッシー(Plussy)は、ハウスウェルネスフーズが日本で販売しているオレンジ果汁入り飲料である。現在の販売者の前身である武田食品工業によって、1958年(昭和33年)に発売された。
武田食品が設立された1958年(昭和33年)当初から、主として米穀店と自動販売機を中心に販売されていた飲料である。
みかん果汁入り飲料にビタミンCをプラスしたことから、それに引っ掛けて「プラッシー」と命名された。
母体が製薬会社である武田は清涼飲料水の販売ルートを持たなかったため、流通経路を米穀店に絞り、主食の米に不足な栄養素を補ってもらおうとビタミンCの入った飲料プラッシーを販売していた。
米の小売りが主に米穀店の配達によっていた時代は、その配達のついでに重い瓶入り飲料をまとめて自宅まで届けてくれるという点が売りであった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC