はてなキーワード: 愛護とは
こっちとしては猫の皮とか残酷だよねとかも言えずただ黙ってしまう
私が使ってるのは犬の皮だしとか言っても仕方がないし
その次に犬がかわいそうとか言われるのは経験済み
和太鼓とか牛皮使ってるし服に動物の素材使ってるのはたくさんある
なんで三味線だけそんなこと言われないといけないのか
そもそもペットショップとかで猫買ったり、猫カフェ行ってるやつらには言われたくない
猫の皮じゃなくて他の素材でいいじゃん?
なんでわざわざ猫を殺さないといけないの?
音がちがうんだよ!弾いたかんじも違うの!
だったら黙ってろ!!!
[追記]
起きたらブコメがたくさんついてた
私もバイオリンの名器と廉価版の違いは聞いてもわからないと思う
きっとそれくらいの違いだけど演奏者になれば確実に違うのはわかる
技術が云々は少しずれてる
世の中の三味線屋さんの大半は皮の研究にお金使えないしやるメリットもない
だいたい3万はかかるし、私も合皮でいいなら破れないなら変えたい
皮は食用のものを流用してるってのは愛護団体への方便だとおもってる
東南アジアからの輸入品らしいけど彼らに猫食文化が残ってるとはいえそこまで食べるかな?
三味線屋さんも買ってくるだけで実際のところは知らないらしい
中絶は女性の権利、という主張は、胎児は人間ではない、を含意しているとなぜ気づかないのか……
この増田もブコメも中絶と死産と暴行で子どもをなくすのとなぜごっちゃにするのか…意味不明というか意味なさすぎ。この三つは全く違うし、そもそも中絶は女性の権利なんだよ。そこから勉強してこい
ごっちゃにしてるのは、妊婦の腹を蹴るのは殺人未遂、とか言ってる側だろ。元増田は一貫してそこは区別してるよ。
仮に胎児が人間だとするなら、女性に中絶の権利なんてあるわけないだろ。胎児は人間っていうのは、つまり胎児には5歳児と同等の人権があるということだよ。母親が自分の都合で5歳児を殺すことなんて自己決定として認められるわけないんだから、仮に胎児が人間なら中絶も認められるわけがない。5歳児が殺された場合は母親に殺されようが通りすがりの変質者に殺されようが殺人罪が適用されて同列に扱われるんだから、仮に胎児が人間なら女性が自由意志で選んだ中絶手術もそのへんのおっさんに腹を蹴られるのも同じ行為として評価されないとおかしい。
仮に胎児が人間だとするなら、家が貧しいからという理由で殺されてよい5歳児がいないのと同様に貧困による中絶が認められるべきじゃないし、仮に胎児が人間だとするなら、父親が犯罪者であるという理由で殺されてよい5歳児がいないのと同様に性的暴行を受けて妊娠した場合でも中絶が認められるべきじゃない。
逆に、胎児は人間じゃなく母体の一部に過ぎないと考えるなら、美容室で髪を切るのと通りすがりの変質者に髪を切られるのは全然別問題であるように、自由意志でクリニックに通って中絶するのとそのへんのおっさんに腹を蹴られて流産させられるのはまったく異なる話になる。前者は自己決定として尊重されるべきだけど、後者は他人の身体を傷つける悪質な犯罪なので厳罰に処されるべきだ。でも、それは人の命を脅かしたわけではないので殺人未遂に問うことはできない。
そのへんのおっさんが妊婦の腹を蹴るのは殺人未遂だ、と主張する連中は、胎児は人間だ、って主張してるんだろ? だったらその論理的帰結にも賛成しろよ。
そのへんのおっさんが妊婦の腹を蹴るのは殺人未遂だけど中絶は女性の権利、なんて言い草が通るわけないだろ。胎児は人間なのか? 人間じゃないのか? どっちかにしろよ。
中絶は許さないってどういうことなん?出産したら大きく体は不可逆的なダメージを負って、しばらく働けず、脳から分泌されるホルモンによって鬱になったりするんだよ。その準備ができていなかったら無理じゃない?
「もしも胎児が人間であるなら、中絶は許されない」「もしも胎児が人間ではないのなら、中絶は女性の権利である」のどっちかを選びましょうって話やで。中絶が許されるって思ってるなら「胎児は人間じゃない」って思ってるってことだよね? なら堂々とそう言えばいいんじゃね。
私はプロチョイス派だけど、アメリカの中絶反対派はちゃんと望まぬ妊娠をした妊婦のための無料カウンセリングとか里親制度とか孤児院とか整備した上で中絶反対を叫んでるから尊敬できる。
レイプによる妊娠の場合、胎児にレイプ魔の遺伝子が混じっているという当然の嫌悪感という要素も加わってくるので難しいと思います
仮に胎児が人間だとするなら、性犯罪を理由に中絶を認めることは犯罪者の子供というだけで殺されるなんていう非人道的なことを認めることになっちゃうんだよねぇ。親が犯罪者であることを理由に殺されていい人間なんてこの世のどこにもいるわけがない。まあ胎児は人間じゃないから親の素性がどうであれ中絶していいんだけど。
胎児が人間なのはみんな知ってる。人権よりも殺した方が社会負担が軽いから殺人を許しているだけ。完璧な法律なんてないのに、なぜ他人の感情論を馬鹿にするんだろうね。理論構成しないと気持ち悪いタイプなのかな
社会のコストのために殺されてよい人がいるという鬼畜外道理論やばすぎでは。植松かよ。
めわどくせーな。出産が命がけなんだから決定権は妊婦にあるに決まってんだろ。産むと決めたら人間だよ。中絶すると決めたらみんな見てみぬふりをするんだよ。中絶なんてみんなつれーんだからな。分かれよ。
胎児が人間かどうかが妊婦の一存で左右されるべきじゃないだろ。仮に胎児が人間なら母親の一存で殺していいなんて馬鹿な話があるかよ。逆に胎児が人間じゃないなら母親がどう思ってようが徹頭徹尾人間じゃない存在として扱われるべきだろ。
妊婦本人が胎児をどう思っているかという話なら別だけどね。たとえばペットの犬猫を「家族の一員」と呼んでかわいがるのは自由だし、友達がペットを「家族の一員」として紹介してきたらまあ「こんにちは」と人間相手みたいに挨拶してみせるのも社交辞令だろう。でもその犬猫を殺しても殺人罪にはならない。
たまに「中絶は女性の権利なんだから中絶は殺人なわけがない」って意味不明な理屈をみかける。合理的ですって顔してたら、周りはその合理性を検討する。それは主張に賛成否定する以前の行為なんだけど、理解されない
因果が逆なんだよね。胎児が人間ではなく、したがって中絶が殺人ではないからこそ、女性が自由にやっていい行為=女性の権利となるのであって、女性の権利だから殺人じゃない、っていうのはまるっきり転倒している。
胎児に人格を認めると、お産に際し母体が死亡した場合に胎児を殺人に問う理屈から逃げられなくなったりして危険なんやけど。あるいは母体と子の関係だけでなく、父親の義務も発生するぞと脅したらええんか?
胎児が人間だと仮定した場合であっても、お産に際して母体が亡くなっても胎児には殺人の故意がないので殺人にはならない(過失がないので過失致死にもならない)。当たり前だよなぁ? そもそも刑事責任年齢以下だから故意があっても刑事責任が問われることはないし。
殺人未遂ってまさにブコメした人間だけど、これから産まれて人として人生を歩むと想定されてる赤ちゃんが蹴られて死んだら殺人でしょ。中絶の話をもってこられたら、じゃあ中絶も殺人、と思うけど、だから?って感じ
私が批判しているのは論理的一貫性の欠如なので、そういう一貫性を持った立場の人については、反対はするけど強く批判する気にはならないんだよな。胎児が人間であるという前提条件からはそういう結論が自動的に導かれるので、胎児が人間だと思う人がそういう結論に到達するのは当然。もちろん私はその前提は間違ってると思うからその主張には反対するけどね。どう考えても胎児は人間じゃないでしょ。自分の身体の一部をどう扱おうが妊婦の自由だよ。
不同意堕胎が殺人並みに厳罰化されれば十分。罪名が殺人か、胎児が人かはどうでもよく、妊婦への暴行に対して社会が厳しいメッセージを送ることが本質。法は論理原則のためではなく、目的のために作られる。
胎児は人間じゃない。母親にとって時に命より大切な所有物だ。母親に中絶の自由はある。誰かが壊せばその損害と肉体的精神的被害から考えて殺人と同じくらい罪は重い。
こういう主張も、上の「中絶は殺人」と同様、論理的に破綻していないので問題ないと思う。ただ賛成はできない。現状でも不同意堕胎罪はそれなりに重いから。色んな罪を軽い順に列挙してみるとこんな感じになる。
過失致死罪:50万円以下の罰金
暴行罪:2年以下の懲役 or 30万円以下の罰金 or 拘留 or 科料
器物損壊罪:3年以下の懲役 or 30万円以下の罰金 or 科料
業務上過失致死罪:5年以下の懲役 or 5年以下の禁錮 or 100万円以下の罰金
動物愛護法違反(愛護動物の殺傷):5年以下の懲役 or 500万円以下の罰金 ←今月から厳罰化
法定刑の上限だけだとそこまで重くないように見えるかもだけど、下限で見ると傷害罪より重い罪なんだよね。たとえば傷害罪は有罪になっても罰金刑だけで済むこともありうるけど、仮に不同意堕胎罪で有罪になったら必ず懲役刑が科されることになるし(実刑になるかは別)、胎児以外の母体を傷つけたら一気に不同意堕胎致傷罪に跳ね上がるわけで。
ちなみに、こないだのhagex殺人事件は懲役18年です。そう考えると不同意堕胎致傷罪の上限が懲役15年というのは妥当なところだと思うのだけどどうか。不同意堕胎罪単体は、まあ、このぐらいでいいんじゃないかな……これより重くするのはバランスを失しているように思う。でもこれは単なる私個人のお気持ちだから、厳罰化を主張するのは別に論理的におかしいというわけではない。ご自由にどうぞ。
不注意で流産した女性を過失致死で裁くことを考えると22週以降の胎児の扱いも難しいのはわかった。今のところのバランスとしては不同意堕胎罪の罰則強化と殺人の未必の故意認定あたりか
ちなみに過失致死罪の法定刑は50万円以下の罰金だからね。実はみんなが思ってるほど重い罪じゃない(まあ業務上とか自動車運転とかではない純粋な過失致死罪ってあんまり遭遇しないからなあ)。仮に赤の他人をうっかりミスで死なせたら罰金刑のほかに民事で損害賠償を請求されるから金銭的負担はもっと大きくなるんだけど、この場合は誰も請求してこないだろうし。
逆に不同意堕胎罪は言うほど軽いか? って感じがする。上限が懲役7年ってことは、器物損壊罪の倍以上で、犬や猫を殺した場合よりも重くて、傷害罪の半分でしょ? 人じゃないものを傷つける罪としては十分に重い刑だと思うんだけど。まあこのへんは個人の感覚だから、もっと重くすべきという意見も別におかしいわけじゃない。
あと未必の故意は一律にどうこう言えることじゃないから事件ごとに判断すべきで、外野が「未必の故意があっただろ!」って言うのはおかしいと思う。
単純な興味なんだけど、「胎児は人間だけど、殺人の手段が中絶の場合は殺人罪にはならない。中絶の手段は〜に限る。」ってルールを作っちゃえば言葉だけだと論理的には破綻してないと思うんだけど法学的には穴だらけなの?
それを認めたら、「障害者は人間だけど、殺人の手段が薬殺による安楽死の場合は」「ユダヤ人は人間だけどガス室の場合は」への歯止めがなくなるんだよなぁ……
人間を殺すことは原則として許されないというのが近代国家のルールなんだから、それに対する例外規定は最小限であるべきでしょ。
現状、国家による殺人として死刑と戦争が認められてるけど、死刑は「死刑に値する犯罪を犯したと裁判で確定した」人に対して執行されるもので、戦争は武器をとって向かってくる相手を殺すもの。胎児は犯罪者でもなければ武器を持っているわけでもないんだから、死刑や戦争と同列に正当化できるとは思えない。緊急避難も、仮に胎児が人間だとするなら、中絶しなければ妊婦が死ぬという局面に限ってのみ認められるべきという話になるだろうし。
胎児は人間であり妊婦を殴った犯人は殺人罪とするが、女性は胎児を所有しているため殺害する権利を有すると考えれば筋は通っている。
所有物である人間は殺してよい理論を実践してた人たちの像が今世界各地で引き倒されてるんだよなあ……
胎児は人間じゃないので中絶は女性の自由派の私にそんなこと言われても。そもそも私は別に減らすべきとは思ってないし……個々の女性が自由意志を行使した結果なんだから別に減らそうとする必要はなくない?
ていうかなんで避妊が男だけの責任になってんの? 実際には避妊具をつけてないのにつけたと嘘をついたとか強姦したとかの場合を除いて、避妊はセックスする両者が責任を持ってすべきことなんだから男女に平等な責任があるでしょ。仮に男に避妊を拒まれたらセックスも拒めばいいんだよ。自由意志でセックスしといて避妊は男だけの責任なんて通るわけないだろ。
「胎児も人間である、母体の所有物では無い」は先進的・左派的な響きがあるけど「だから中絶は殺人だし基本的にダメ」って保守的・右派的な結論になってしまうの、茶化すみたいで恐縮だけど、正直ちょっと面白い。
妊娠中絶は絶対許さないマン、たまに海外ニュースで見るだけだと「頭おかしい」って感じだけど、「胎児は人間である」という前提を突き詰めたらこういう結論に至るしかないんだよね。反論する側も、なぜか望まぬ妊娠の場合はとか言って話題を逸らしてるし。いや胎児は人間じゃないって反論しろやアホか。
日本のプロライフが矛盾してないとでも?胎児が障害をもっている場合に中絶を許可する胎児条項は70年代に生長の家とカトリックが法制化しようとしたんだぞ?フェミと障害者団体が潰したけどな。
「一貫性があるプロライフ派は尊敬できる」とは言ったけど、「すべてのプロライフ派は一貫性を持っている」とも「日本のプロライフ派は一貫性がある」とも言ってないな。プロライフ派が矛盾した言行をしてるなら好きに叩けば。
何度も言うけど私はプロチョイス派だからね。筋の通ってない主張をする味方よりは筋の通った敵の方が尊敬できるとは言ったけど、プロライフ派を支持するとは一言も言ってないし、むしろ支持しないと明言してる。ここでは議論の筋道の話をしてるんであって、半世紀前の派閥抗争の話にはこれっぽっちも興味ないんですわ。
私には胎児が人間だなんて思えないからプロライフ派は支持できないし堕胎の自由を支持するけど、同時に、胎児を人間だという前提を支持するなら中絶の全面禁止という結論になるほかないんだから、第三者による胎児への危害を殺人と主張しながら中絶の権利を主張するやつは同じプロチョイス派であっても思考が支離滅裂すぎるので軽蔑に値するとも思うよ。逆に、胎児は人間だから中絶も禁止すべき、という主張はまったく賛同できないけど論理展開は正しいから尊敬すべき敵手だと思う。賛成反対と尊敬軽蔑の軸はまるっきり別なんだよなぁ。
民法721条では胎児でも加害者への請求権が認められてるのに触れないとこ見ると専門外の人なんだろうな。グレーゾーン故に解釈改憲とおなじく運用でカバーしているという単純な話。
元増田で論破されてブコメ消したやつがまたデタラメぶっこいてるな。胎児が生まれた場合に損害賠償請求権や相続権がまだ生まれてなかった頃にまで遡って適用される民事上の話と胎児に対する危害をどう考えるかという刑事上の話をごっちゃにしてんじゃねーよ。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6361761
千葉県香取市の香取神宮にある「鹿苑」で、市民団体「香取の鹿愛護会」の代表としてシカを飼育している鍵元礼子さんも今回、引き取りを申し出ている一人。会には「助けてあげて」との連絡が数百通寄せられ、5日からネット上で「殺処分ありきではなく、命を繫(つな)ぐ努力を!」との区長と都知事あての署名活動を始めた。同日午後6時までに800人超から賛同が集まった。
日本に1億人住んでいて800人は全体の0.0008%です。
あなたの友人知人部下上司家族の合計人数が例え30人だったとしても0.024人しかいません。
( 2 ) おいでよ どうぶつの森
どうぶつの森とは、2001年に 1 作目を発売したゲームのシリーズである。マリオやポケモンのような動物を殺すことを楽しむゲームとは違い、動物の世界で人間が暮らすことをコンセプトにしたゲームである。この作品において、動物と対等に生活を送っている以上、動物差別などとはほど遠いゲームのように思われる。現に、愛護団体から、どうぶつの森が批判を受けているという話を聞くことはできない。どうぶつの森は、主人公以外はほとんどが哺乳類の動物が生息している空間であり、その空間で、釣りをしたり、昆虫を採集したりする。また、採集したものをスーパーに売って報酬として金銭を得ることや博物館に展示することができる。動物と共存する姿にだけフォーカスすれば、批判される対象というよりもむしろ推奨される存在にも感じられるだろう。しかし、ここにも人間至上主義的な側面を見ることができる。それは大きく 2 つの側面から述べられる。 1 つ目は動物のなかの区別が存在すること、 2 つ目は動物社会で生活するといわれながらも、生きている社会が人間社会であることだ。 1 つ目は前述したように動物の中に階層を作り出している点である。どうぶつの森では、主人公以外全員キャラクターが動物であるため、虫や魚を売る相手も博物館に動物を公開する相手も必然的に動物になる。動物のなかでも、魚や昆虫は搾取される側で、権利を迫害される。そして、哺乳類をはじめとする動物は、この世界では搾取する側なのである。どうぶつの森では、作中に主人公以外人間が存在しないため、他の作品よりも動物間の階層が色濃く読み取ることができるのだ。本来は、動物間において殺害や自由の拘束が権利侵害にあたるのかというと明確ではない。野生のなかで相手を殺す状況は自然であるからである。しかし、この場合は適用できると言えるだろう。その理由にもなり得るのが二つ目の論点である。それは、どうぶつの森という題名からは、ほど遠いほど、生活空間が人間社会なことだ。例えば、取引には通貨が用いられ、娯楽として博物館や釣りが存在する。動物と共存する社会象が、自然ではなく、人間社会であることは人間中心のステレオタイプが存在すると言えよう。人間が自然のなかで生活をするのではなく、人間の生きている世界に動物が存在するということであるからだ。
ただ、上述したとおり、この作品に対する動物愛護方面からの批判は加えられてこなかった。以上の観点から、この理由として、動物愛護者の立場でもステレオタイプに動物の種類に対する差異を認められており、かつ人間社会と野生社会の関係を対等として認識していないということが言える。毛皮をとることや、戦わせることをはじめとしたシンガーの原則を受け入れながらも、そこには人間を中心とする明確な意識が存在する。
マリオ、ポケモンのような明らかな人間至上主義とどうぶつの森のそれは、大きく社会的な見られ方が異なっている。ゲームのコンセプトの違いが存在していることは自明であるとしても、そのほかに、発売時期が関係していると考えることができる。動物愛護の社会的風潮が広がったため、動物軽視的な発想が明らかに反映されているゲームを制作者側は作りづらかったという側面である。現に2002年から CERO という非営利団体が結成され、対象年齢を決めることを業務としている。この一年前に発売されたどうぶつの森は、年齢制限が設けられるかもしれない状況下で制作がされていたのである。この制限が設けられたことにより、例えばこの 2 年後に発売されたモンスターハンターは、対象年齢が15歳と設定された。ゲームに対する社会の変化は、暴力性、性的、反社会的表現という倫理的な諸問題の中には、動物愛護についての社会風潮も存在しただろう。それには、以下のことが理由に挙げられる。近世における動物愛護関係法令の移り変わりでは、1973年に「動物の保護及び管理に関する法律」として、保護動物の虐待・遺棄の禁止、動物愛護思想の普及啓発、動物による人間への危険の防止が法令化され、1999年には「動物の愛護及び管理に関する法律」として、以上に加えて、愛護動物の虐待・遺棄の防止、動物取扱業に対する規制が追加されたのだ。同時期に発売されたゲームに上述したモンスターハンターがあること、また、動物軽視が顕著なゲームシリーズが続いていることから、社会の変容にゲームが必ずしも対応するわけではない。それはゲームのアンタッチャブルな特性によるものだ。それでも、どうぶつの森は社会的に批判されない作品であり、もちろん時代背景を踏まえても批判されない前提で制作されたものだと考えられるが、根本的には動物軽視の視点が含まれている。これは、社会において、動物愛護の風潮が高まりステレオタイプが変化したにもかかわらず、深層的に根付いたまま存在していると言えよう。また、長年変化せずにシリーズ化する作品からもステレオタイプが再生産され維持されていることが認識できるだろう。
みんなこんな気持ち悪いゲームに夢中になってたのか。これに対して批判の声がひとつも出てこない日本社会の前時代性やばすぎるだろ。狸にでも化かされてるのかな
まず、自分は例のワニをずっと追っていたわけではなく、もうすぐ死にそうという頃に見始めた人間だ。
今回ワニのことで人々が愛護団体のごとく怒りを露わにするのは「ワニのコンテンツ力を見誤っていた」ということに尽きると思う。
それは、ワニ制作側、読者側の両方だ。
ワニはネット発の作品である。最近だとこぐまのケーキ屋さんが記憶に新しい。
100日後に死ぬというギミックが功を奏し多くの読者を獲得した。そして読者は時間を作品と共有することで、感情移入をどんどん深めていった。
もとは若手イラストレーターが実験的な作品をTwitterに上げ始めたというくらいなのだけど、ここまで熱狂を生んだ。
これは作者をはじめ誰も予想できなかっただろう。ましてや商業化を狙う事務所や広告代理店も急なファン拡大を読みきれなかっただろう。
憶測にはなるが、はじめから電通という大手代理店が噛んでたと考えるのは難しいだろう。流行るかわからない若手イラストレーターの企画に頭から関わるとは思えない。
誰も予想できなかったとはいえ、とりあえずお金につながる書籍化、ポップアップショップ、グッズ化、映画化ばかりを先行した。
これは長くワニというコンテンツでやっていこうという意志が感じられない。ビジネス側が得意なことをとりあえず詰め込みました、という感じだ。いきものがかりとか特にそう。お家芸。
果たして読者が求めていたのはそういうことだろうか?
読者は「ちゃんと作品が終わること」「無料で読んでたけど作者がちゃんと報われること」「嫌じゃない形での作品継続」あたりだろう。
そう考えると、一番まずいパターンは「実はワニ死んでませんでした~続きはこれからこの雑誌で連載されま~す!アニメもやるよ!」というやつ。作品を冒涜している、と言われまくると思う。
生死を扱っているかつはじめから大手資本が関わってはいなさそうな雰囲気のこの作品において批判が生まれるのは当然だと思う。嫌儲は悪だと個人的には思っているが実際にそういう思想の人は一定数いる。
じゃあどうすればよかったか?後出しの案でしかないがいくつか書いておこう。
・発表まで1日空ける(予告してもいい)→こうすることで作品の連続性からは少し離れられる。「ワニくん死んだ悲しい」から即「追悼ポップアップショップ!」は不謹慎ギャグでしかない。読者はあまりギャグという目線で作品を読んでいない。
・作者のコメントを添える→無料作品において創作者は神だ。彼の幸せが絶対善である。「きくちさんが喜んでるなら」「きくちさんにも儲かってほしいしな」などと思ってもらうことがみんなが平穏に生きる道だ。
・ねずみが主役のスピンオフを作る→これは賛否分かれそうだが、「嫌じゃない形での作品継続」としてありえる道。ワニ世界を拡張する技である。
もちろん上記は作者なども一度は考えた内容だろう。しかし、本気で考えきれなかったのは「ここまでバズると思わなかった」という次の展開を急に迫られた点と、読者の熱量が予想外に高かった点による。
きくちさんはもともとユーモアを交えた作品を書く人のようなので、軽いノリでやり切れると思っていたのかもしれない。
権利者側と代理店側両方ちゃんと考えろ、ということなんだが、特に企画をぶち上げまくる代理店側は普段からコミュニケーション・プランニングとかなんたら言うならちゃんとしろ。お前らの仕事だぞ。
読者側もここまで自分が入れ込むとは思わなかったのではないか。お互い急速に物事が起こりすぎて、ありえるべき丁寧なコミュニケーションが実現しなかった。
無思考に嫌儲思想や代理店への憎悪を振りかざして、頭ごなしに状況をマイナスに捉える人々。
このあたりが見てて完全に痛いしはてなに多いので「うわ…」となる。
・お互い急でびっくりしちゃったよね。こわかったよね。よしよし。
別に動物愛護が悪いと言っているわけではない。むしろ動物は保護されてしかるべきだと思うし、保護活動に勤しんでいる方々は漏れなく称賛されるべきだと思う。
それでも自分がどうしても「動物愛護」というものに違和感を覚えるのは、彼らの「愛護する」動物とは一体どこまでなのだろう、と考えているからである。
おそらくだが、彼らの家にはゴキジェットがあるだろう。食卓に小蝿が飛んでいれば潰すだろう。
要するに、いくら動物愛護をしているとはいえ、必ず彼らにも「動物の好き嫌い」は存在すると思うのだ。少なくとも自分は犬や猫やその他の愛護活動をしている人間が「ゴキジェット撲滅!」などと活動しているところは見たことがない。
別に自分はこの「生命に対する好き嫌い」を抱くことに関して否定するつもりはない。生理的に無理なものは無理、それは当然だと思うからだ。
確かに犬猫の処分は無い方がいい、それはそうだ。だがおそらく日本中で殺されているゴキの数の方が圧倒的に多い。工事に伴って巣を壊されている蟻の数の方が多い。
「動物愛護」という理念を掲げる人々に、そうやって「救う生命を選択している」という認識があるのだろうか、という疑問がいつも抱かれるのだ。
別に自分はすべての生命を救おうなどと考えている理想論者ではないし、家にはゴキジェットがあるし、食卓のハエを潰す。それでいてネットで猫や犬の動画を見ては喜んでいる人間だ。
ただ、やはり、それでも「認識」はしている。自分は生命を区別していて、「平気で潰してもいいもの」と「潰してはならないもの」に分けている、と認識している。認識して、これがもしかするととんでもない罪なのではないか、と思った上で、それでも区別することを続けている。
小学生?くらいの弁論大会で犬猫の処分を批判する人を見るたびにそういう嫌悪感に陥った。結局「生命が大切だから」批判しているのではなく、「可愛い生命が大切だから」批判しているのだろう、と。繰り返すが別にそれでもいいのだ。「可愛い生命を助ける」ことを選択するのは個人の自由だし、それも一つの善であることには変わりはない。自分が嫌悪感を抱くのは、本当は後者の理由であるのに、まるで前者のように振る舞うことだ。
繰り返すが、別に動物愛護自体を批判する意図も、愛護団体及び活動家を批判する意図もない。認識していようがしていまいが、行動を起こしている人が偉いということは事実なのだから。
逆上して包丁で刺すというような事件が毎年のように起きている。
というか自分の観測範囲で言うと動物嫌いの人の方がまともな比率は高く、
動物好きの人はたいていどこか頭のネジの外れたちょっと危ない人だった。
この「動物に優しい人はいい人」という思想が単なる日常の井戸端会議なら
「迷信かもね」で終わってもいいが、
その第一条を見ると、「国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資する」とある。
難しい言い回しをしてるが、ようするに「動物愛護をすれば国民は優しい人間になる」、だから法律で動物虐待を罰すると言うことだ。
この理論を前提にして、愛護法では動物虐待を禁止したり、動物の適切な取り扱いを決めたりしている。
もしもこの大前提が間違いならば、
どうして動物虐待者を罰していいのか、だいぶ正当性が危うくなってくる。
たしかに生き物苦手板を見てたことはある。けど虐待されている猫を見て、「気持ちいい」だとか「面白い」とか思ったことがない。
猫は嫌いだ。生まれ持って猫アレルギーということもあるだろうが、小さい頃から猫が嫌いだった。
性格はクソだろうが、見た目さえよければ、愛されるという存在が憎くてたまらない。
病気に罹った猫ですら、保護され、愛されるのだから、そもそも見た目なんかどうでもよくて、ただ「猫」とカテゴライズされる生き物なら愛されるのだろうか。
孤独な人間の書く文章によく「猫飼え猫」なんてブクマされてるが、そもそも本当に孤独な人間こそ猫は嫌いだと思う。
生き物苦手板で神扱いされていた人間がこの前逮捕された。未だに愛護の方は攻撃しに行っているらしいが、人間は?
つい2ヶ月前に30人も焼かれたっていうのに、もう多くの人の記憶の片隅に追いやられた。
「選ばれないことは死ぬこと」この前みたアニメの言葉だが、実にそうだと思う。
選ばれてきた人は猫を飼ってるor猫が好きという傾向がある(自分の周囲)
選ばれない人間は猫が嫌い。
マインクラフトは創造性を高めるゲームと一般的には言われている。
私も親から遊び方を教えて欲しいと言われたとき、「何してもいいの、自由」と教えた。
親は意味不明なことを言うなとも言わんばかりの顔を浮かべてどっか行った。
①逃げ回る
②魚を持つだけですり寄ってくる
③色々な柄の猫が居る。子猫もいる
⑤殺し方が豊富にある
あのゲームほど現実の猫を忠実に捉えて、殺し方も尽きないゲームはない。
暇になったら村に火をつけて楽しむこともできる。
追いかけてくるアイアンゴーレムを避けながら全村人を殺して、守るものがなくなってただ歩くだけとなったアイアンゴーレムを見るのが楽しい。
いつまで続くのかと思われた猛暑日もいつの間にか終わり、秋の始まりを感じるようになった。
季節の変り目というのもあるのかもしれないが、最近気分が落ち込む日が続いている。
思いつく理由は残念ながらたくさんある。
・期限のある仕事に重圧を感じている。
・仕事に加え地域活動で忙しい日が続いている。その地域活動も社会的に本当にやる必要があるのか疑問を感じながらやっている。
・職場での人間関係が良くない。チーム内での業務分担に対する不満。苦手な後輩の存在。
・その苦手な後輩に対する劣等感。それを他人に知られたくないこと。今後、一緒に働く可能性があることへの恐れ。
・妻が仕事上の悩みを抱えている。その愚痴を聞かされると自分も不安になってくる。
・先日、父に会ったら少しやせていて、体調が心配だ。いつまで長生きしてくれるのだろうか。
・他人とコミュニケーションをとることに苦手感があり、失敗したと感じるとそれを引きずってしまう。
・最近子猫を愛護センターから引き取った。たかが猫一匹だが、生活の変化に戸惑っている。
志村動物園とかは初期はそうでもなかったけど、やっぱり愛護方向へ進んだ。
番組で可愛さをアピールしたカワウソが転売されペットショップで売られてしまうようなことも起きていたからだ。
可愛いだけで、飼って起きてしまう悲劇を見せないのは本当に危険行為。
勿論死体をどんと載せているやばい愛護活動家もいるけど、そんなことをしろと言っているわけではない。
少しでも注意文章を書いておいた方がいいと言っているだけだ。
動物のお医者さんが人気を博し、ドラマ化でさらにハスキーが人気になったときがあった。
あれだけ動物飼育の難しさを描いている作品ですら、その後に「ハスキーは飼いづらいので捨てた」という話が出てしまった。
マスコミにも叩かれた。
その後作者は動物ものを描かなくなった。動物のお医者さん関連のメディアミックスもドラマ化以上のことは行われていない。
人間は愚かな生き物で、こういうことからなにも学ばないで繰り返す。
メダカも可愛いだろう。しかしメダカの窃盗が相次ぐニュースでメダカの可愛さを訴えてどうする。馬鹿なのか報ステ。
なにごとも過激な批判は人々の目を遠ざけてしまうものだ。しかし
「責任を持って飼いましょう。飼うのは大変です」
これくらいのことを書く責任もあるはずだと当然のように思う。