「帰納」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 帰納とは

2021-12-06

ぽれぽれ

グライダー歪んで飛行もできず

幸福はただ日常を送るだけあがきもせずに

・絵かきにはなれなかった歌うたいになれなかった毎月の給与は支払われて

・とめどもないことを考えるほど頭が良くないか

・昨日の帰納機能

・中空で空気清浄機が発するなんで走らんと?

・もういやだもうだめだもうしにたい

・壊れてしまったあの日々にもはや帰りたいとも思わなくなったらおしまいじゃない?

雨傘破れてそこら中でハレーション

・冬に雪がふらないだなんて契約違反

雪かきミニマルテクノに似て

・顔を合わせることだってできないだってもうえぐれてるから

身体行方は決まっている彼岸花垂れて

・怖いことがなくなった作りたいものもなくなった正直もう限界

・目を合わせるだけのことがあんなに嬉しかったっていつから忘れてた

・もう戻ることのない8月鴨川煙草

2021-09-03

anond:20210903194349

内容がバズるかどうか:マーケティング。どういう事柄記事ニーズがあるか調べ、ニーズ合致するコンテンツ案を大まかに考え、その案をタイトルから文末まで読み手が次々に読み進めたくなるような文章構成に落とし込むこと。

文章ケチが付くか:論理倫理への配慮が要る。論理への配慮とは、演繹帰納と適切な根拠をもって自分の主張を支えること。倫理への配慮とは社会通念や法律に則した内容であるかチェックすること。

さっき、"「文章力」や「本当に欲しいもの」の定義は、自分が読んだり書いたりする中でしか磨かれないだろう。"と書いたが、これは事実の片面だけを切り取ったもの自転車に乗れるようになるためには、自転車に乗っている人を参考にして、自分も実際に自転車に乗ってみるしかない。文章を書くことも同じなのでそう書いた。

ただし、見よう見まねで練習する以外のもう片面として、先人が蓄積している上手に自転車を乗りこなすための知恵を活用するという方法があるのも事実だ。文章を書くことについても、マーケティングセールスライティング(コピーライティング)、ストーリーテリングパラグラフライティングなど各論参考書は色々ある。それらを読めば特に文章力」の定義に関しては理解が進む。

しか文章力の定義を磨いたところで、結局のところ、実例をたくさん読み、また、自分でもたくさん書く経験を積まなければ文章は上達しない(これを書いている自分文章力を思うと恥ずかしい限りだが、それはさておき)。

とりわけ、自分が「本当に欲しいもの」に関しては、読んで書いての経験の積み重ね無しには磨けない。鯛を食ったことのない人間に鯛の味は分からない。世界を旅したことのない人間世界旅行醍醐味など分からない。味わってみて、やってみて初めて、「あれが良かった、これは良くなかった、今度はこうしようか」という感覚が掴めてくる。それなしに「本当に欲しいもの」の定義などしても空々しいだけだ。

2021-06-22

anond:20210622104112

演繹法によって得た定義帰納しているということだよ

まり「女ってのはそういうもんなのよ」という結論に至る事実と仮説しか得られない地獄のようなコミュニティってことでしょ。

わかってるよw

 

積み重ねられた事実から判断するのが演繹法であって、「演繹法をつかって複数事実を積み重ねて行った結果」というのはおかし

その2つは言い換えでしか無いだろ、どうして「演繹法をつかって複数事実を積み重ねて行った結果」がおかしくて、「積み重ねられた事実から判断するのが演繹法」が正しいと思っちゃうの?w

 

「女をコントロール出来る男」って繰り返し言うけど、女は男にコントロールされるものなの?

夫婦問題の原因を夫婦のどちらかだけが背負ってるわけないって言うけど、その解決法が「コントロール」なのって不均衡じゃない?

男女ともに問題がある側はコントロールされるべきだと思うぞ

パチンカス無職とか、家事育児に全くコミットしないとか男女関係なく問題がある側は問題が無い側のコントロール下に置かれるべき

バカが「女ってのはそういうもんなのよ」って言うからバカコミュニティ内では問題ある女をコントロール出来る男が存在しないことだけは明らかだから、「女をコントロール出来る男がいない」って言ってるだけだよ。

anond:20210622100319

「黙って幼稚舎に入れることを決めたっていう事実」に帰納演繹使ったら「女ってのはそういうもんなのよ」が出てきたのかw

 

演繹法をつかって複数事実を積み重ねて行った結果「女ってのはそういうもんなのよ」という結論に至ってるということは、お前の周りには「女をコントロール出来る男が一人もいないヤバいコミュニティしかないことが明らか。

これが演繹法です。

 

夫婦問題の原因を夫婦のどちらかだけが背負ってるわけないじゃんw

2021-05-28

anond:20210528143239

確率的に考えると、性行為をするという目的において、話し合いという手段有効ではない。

なぜなら、過去数度の話し合いにもかかわらず状況が改善しないという事実があり、この事実から話し合いという営みが性行為につながらないという仮説が導けるからだ。もちろんこの仮説は帰納的な仮説だから、次の話し合いは成功するという可能性が残る。しかしそれに賭けるのはギャンブルだ。なぜなら、過去数度の話し合いにもかかわらず状況が改善しないという事実があり、この事実から話し合いという営みが性行為につながらないという仮説が導けるからだ。

まり確率的に考えると、話し合い以外の手段で性行為getする方法を考える方が安全だということが導けるのだよ。

2021-05-21

予約システムの例え話

今回のワクチン予約システムの不備を家の鍵、マスコミ確認作業架空予約)を家への侵入に例えるのが(主にマスコミ犯罪者と印象付けたい人たちから散見されて、それが例え話として間違っているっていうのはよく分かるけど何に例えるのが適切かいアイデアが思い浮かばない。

そもそも例えるなってのは無しで。

特にネット上では)例え話って忌み嫌われているけど、理解しにくい話を理解やすい話に置き換えるのってちゃんと使えたら有用だと思うんだよ。

ある事柄一般化(帰納)して、別の事柄に具体化(演繹)するっていう思考プロセスは例え話を使わなくてもよくやっているし、物事本質を見極めるのに役立つと思う。

まぁそれが難しいし、ネット上の例え話は上記みたいな恣意的な例にして論点ずらしたり印象操作したりする人が多いから嫌われるのも分かるけどね。

とりあえず今回は思考練習だと思って一緒に考えてみてほしい。

最低でも、

公共の場であり不特定多数利用者がいることが想定されている(予約システム不特定多数が利用するけど家を使うのはその家族だけ)

故意なくても簡易な誤りでトラブルを招く頻度が高い(入力ミスは多くの人がしうるけど他人の家に間違って侵入する人はそうそういない)

といった要素が不可欠だと思うんだけど、なかなか当てはまるものが思いつかない。

役所の窓口で申請したらめちゃくちゃな内容でも受理された」ってのはオンラインリアルに置き換えただけでちょっと近すぎるというか例える必要あるか微妙だし……。何かいい案ないかな。

2021-05-18

anond:20210518014919

それって「『絶対確実なものから論理を積み重ねていく」ことで「科学リテラシー権威主義的側面を持っている」ことを否定しようとしているってことでOK

・本当に「絶対確実なもの」は「絶対に確実なもの」としていいのか?

 増田が例に出したウイルスについて考えてみる。

 ウイルス分子量は数百万~数千万で、その大きさは細菌より遥かに小さいというのは、現代では一般によく知られている。

 しかし、それが明らかになったのはX線結晶解析や電子顕微鏡の登場を待たねばならなかった。

 ここで疑問なのは権威主義的に無批判ウイルスの大きさを「絶対確実なもの」としていないかということだ。

 正直、増田が「ウイルスは同一のサブユニットから構成されるために対称性観点からその形状は正十二面体か正二十面体であり、X線結晶解析や電子顕微鏡によってその大きさを 確認した」なんて到底思えないんだわ。

 ウイルスの大きさは当時の科学者によって批判され論考された末に定まったものなのだろうが、権威主義的でないならばその批判プロセスをなぞって再検証する必要がある。

 その批判に使われた考えや技術も当然再批判する必要があり、帰納的に疑うべきものの数が増え続けるために、権威主義的側面によって仮説検証コストを下げることは必須であり合理的

2021-05-17

anond:20210516225443

自分が「科学リテラシー」っていわれたら、ある分野について語られているときに、その分野に関する基本的概念や語彙を理解していることと、基本的論理的推論とそのツール帰納演繹三段論法とか、同一律無矛盾律排中律とか)を身に付けていること、の2つを兼ね備えている状態だと思うなあ。権威が言ってることに対して、論理的推論によって「えっ、それっておかしくない?」と考えられるのも科学リテラシーに含まれるだろうし。

2021-04-27

anond:20210427130743

バカボンパパ「きょう知っても帰納なのか!」

2021-02-04

社会学()

社会学って学問自体曖昧でつかみ所がない。

デュルケームとかジンメルかいるけど、ビックネームがいないし

日本でも宮台さんぐらいしかいない、

研究者の多くは社会学イメージを嫌って哲学者社会心理学者を名乗る

バブル時代にとにかく学部を増やせと実態曖昧な「社会学部」みたいなのを私大が乱立させたのが悪い。

雑にデータを集めて精度の低い帰納的・恣意的結論大学紀要に載せ続けるだけで助教授教授へと出世できた。

空虚な器を満たすように、スカスカ研究出世してきた程度の低い教授連中が諸悪の根源だ。

2020-12-07

ある高IQ者の懺悔

こんな記事がバズっていたので言い訳混じりの懺悔

https://blog.tinect.jp/?p=68019

何言いたいの?

お前誰?

だいぶ昔にMENSA所属していて、MENSAIQテスト大会みたいなので優勝したりして、IQという指標分布見たらかなり端っこにいるヤツ。

記事にある様な行動を取ったりすることもあるので胸が痛くて増田に書こうと思いました。

ちょうど、同じことを社内向けに伝えたばかりなのでタイムリーだったというのもあり。

IQが高い=知的障害者

まず最初に断っておくと、この項目はいわゆる知的障害者への偏見を抜きにして事実だけ読んでほしいです。

MENSA飲み会の中である人が「我々は知的障害者なんだ」と話していたことがとても印象に残っています

どういうことかというと、IQ130(MENSA入会基準)というのはIQ70(知的障害基準の一つ)と同じだけの出現率であること。

そして、知的障害という分類を社会が生み出したのは、コミュニケーション理解度ボリュームゾーンIQ100)と異なることで、社会生活に困難を生むから

大は小を兼ねる的に、高IQからってコミュニケーション困らないでしょ、と思うとそうでもないです。

知的障害の方々の行動や思考の「理解できなさ」を思い浮かべてみてください。

なぜ、あの人はずっと同じことを繰り返しているのだろう。どうして突然関係ないことにこだわり始めるんだろう。

そういう「理解できなさ」をマジョリティに対して感じることがあるわけです。

そうすると、理解できないことを起因として集団からはじき出されながら社会生活に支障をもたらすことがあります

IQの弱点

IQが高いとか頭がいいってどういう意味だと思いますか?

僕はパターン化(抽象化)の能力が高いってことだと考えています

複数物事に触れたときに、それらの共通点差異を見つけてパターン化し、次の事象へ当てはめてみようという意欲の強さと精度の高さです。

少なくとも、その能力だけで僕はMENSA所属し、その中でもIQテスト大会やって優勝するくらいの異端にはなりました。

裏返せば思い込みが激しいんです。

サンプル数の少ない事象直感とも言うべき帰納的なパターンを見いだして、恐れずそれを適用するだけなのですから

そして、その独特なパターンに乗ってない議論視点や考え方への理解はそれほどうまくできなかったりします。

からIQ高い/頭がいい=頭の回転が速いとか計算が速い、記憶力が高い、といった捉えられ方をすると困惑します。


僕が頭の良さでぶん殴っている(ように見える)とき

相手の言っていることが言葉として理解できるけどその思考理解できないとか、こちらが伝えようとしていることが全く伝わらないとか、かなりの頻度でありました。

勉強を教えてほしいと言うので教えると、こちらとしては当然こう考えるべきというレールがあるのに、そこに乗ってくれない。

僕は幼い頃からこんな風に周囲との違いを暗に感じてきました。

そういうことを繰り返して手に入れた結論は「人のことがわかるなんておこがましい」です。

自分は人を見る目がある」と自負する言葉は僕にとって信用ならない言葉だし、「言わなくてもわかるでしょ」はわからないんです。

から、僕はできる限り言語化を試みます

でも、僕自身はやっぱりパターン化して世界と向き合っているので、そこにはある種の自動化とか思考ショートカットが入っていて、それらを言語化するのにすごく時間がかかってしまう。

その中で、自分自身がうまく言葉にできていない部分を連ねていくときには、自分思考トレースしているために、ものすごく直線的な論理展開します。

そんなときには他者意見否定するようないい方をしている場面も自分自身感じています

あなた否定していない

ただ、僕は高圧的に話をして人をやり込めたいとか否定したいのではなくて、必死自分の考えを伝えようとしているだけなんです。

その上で僕の間違っている部分を示してもらって、よい結論へ持って行く議論ができるとうれしい、と思いながら話をしています

そんな思いとは裏腹に、自分の話し方がまずいせいで、どうしても人を威圧したり、意見封殺するような口調になっていることが多いように感じています

理由は上に書いたように、僕が話し始めている時というのはかなり必死状態なんです。

今まで自分と同じ土俵だと思って話して行き違いを何度も何度も経験してきたことが僕の原体験にになっていて

  • できる限り前提を合わせる
  • 一つずつブロックを積み重ねるように考えていることを説明する
  • そしてようやく議論の土台に立てる

みたいなやり方が自分の中に根付いてしまっているから、これをうまく修正できないでいます

意図せず「攻撃者」として認識される側の人たちへ

ここでは性善説に基づいて話をします。

まり、単なるマウンティングのために頭の良さでぶん殴っているわけではなく、立っている土台が違うことでコミュニケーション齟齬を産んでいるケースを想定しています

今僕は、頭の良さっていうのは謙遜も自慢もなく自覚しないとひどい病だと思っています

なぜならそれは、多くの場面で優越感を伴う異常者だからです。

死ぬことこそが救い、俺が愚民救世してやる、とナイフを振り回す異常者、怖いでしょ?

記事の同僚がどうかはわからないけど、コミュニケーション上の問題を感じながら論理的であることをやめられないのはそもそも問題意識が周囲と異なるのではないでしょうか。

それ自体が間違っているわけではないし、論理的解決を進めることが社会人類を発展させてきてます

なので人と一緒に働いている中では、自分特性みたいな部分を自覚して、周囲に伝えてみてください。

こういう人と一緒に働いている人へ

その人がどういう人間性なのかを、一面だけで判断しないでほしいです。

もちろん、中にはまさにクズと言っていい性根の人もいるでしょうし、そういう人を無理にかばってくれとも言いません。

しかし、普段問題ないのに議論になると殴られるからいやだな、と思うような相手はもしかしたら問題を抱えている人かもしれません。

そういう人たちとインクルーシブに働ける環境を作っていけたらいいなぁなんて思っています

言い訳ばっかしてないでお前はコミュ力鍛えろよ

わかってるけど、やりきれない部分ってあるんです。

なので、最善とは言わないけど、ここに書いたような文章をチーム向けに伝えて、お互いのギャップを一緒に見つめましょ、って話をさせてもらいました。

コミュニケーションなんだからみんなできて当たり前、たどり着けない部分があるのは甘え(努力していない)って言われるのは怖いなぁ。

2020-11-23

anond:20201123072553

言語による論理展開よりも数式による論理展開のほうが厳密性でも汎用性でも優れている

哲学ウィトゲンシュタインを輩出するのに数千年かかったけど、アラン・チューリングとかフォン・ノイマンとかは数年で数理論理学の基礎を確立した

その後のコンピュータの発達によって、直感による演繹だけじゃなくてシミュレーションによる帰納が飛躍的に発達して、人間脳みそだけではわからなかったことが導出できるようになってきた

人情味ってのは潜在意識に刷り込まれている記憶違和感あるかないかって話だね

2020-10-07

anond:20201007000825

まり『女をあてがえ論』とは強制的に男に女を文字通りあてがうという考え方ではなく、自由恋愛市場においてあぶれる男女が最少になるような社会帰納的に目指すということでおk

2020-08-20

anond:20200820104406

そもそも演繹帰納を同列に扱うという根本的な勘違いが前提にあって、それを棚に上げて、数学形式科学なので数学科学じゃないという指摘は間違ってる、はアホ丸出しって話なんだがw

結局言葉尻でしか絡めないのな

頭弱すぎて三段論法すら理解できないかw

2020-08-19

科学的根拠って、分野によって厳密さが違うからなあ。数学が一番厳密で次が物理感染症ってどこらへんに位置するのか?感染症科学的根拠ってのはおそらく数学の人から説明になってないような気がする。

これはなかなか強烈。演繹帰納の違いが分かってない人が科学的根拠とやらを語っている。

2020-08-04

首掛け

演繹構造

枠組

ルネサンス 星形九角形都市 

自然物語性 モデルニスモ

意思決定構造化する ロバート議事規則

謝罪文化帰納法的な発想から演繹社会では構造化されてしまうため謝罪危険

種みそとしていい部分を代々継ぎだす発想も帰納法

構造化=ルール化が予測可能性をもたらし自由感覚となる

帰納的な思考様式日本では、規則構造はどういう認識されているかルールの硬直化、計画通りにやろうとして自縛、上から監督 行動パタン規律過去の事例判例慣習法

経験物語シナリオを叙述するのにセオリーという表現をする

一期一会Once in a life time encounter

先輩後輩、業務経験年数などをなにげに読み込む企業文化帰納法

2020-07-23

anond:20200723174032

マンガには家事レベルから浮気を察するというシーンがあった

②うちの旦那は違う

最近男性はよく家事をする人も多い

(④マンガ方法現代では通用しにくい)

②は③の主張の根拠ではなく

一般的知識ではないかと思います

よって、元増田さんは「旦那(n=1)を最近男性帰納しているわけではない」と横増田的には思います

実際に、元増田さんがどう思っていらっしゃるかはわかりませんが

増田

2020-07-17

何事も、センスの無い奴は駄目

以下、センスという言葉字義通りの意味、つまりテクニカルな要素に先立つ感覚的な要素の意味で用いる。

センス知識技術に先立つ

これは考えてみれば当然だ。

たとえば力学質量や速度などの概念理論的に定義されるから存在するわけではなく、それに対応するもの感覚認識として存在しており、理論はそれを上手く反映したモデルなのだ

いくら数式の変形が得意でも、速度という概念日常的な感覚として理解できていなけれは、力学理解することは不可能だろう。

もちろん、知識によって補強されるセンスもある。たとえば電磁気学概念の多くは、力学概念アナロジーであるから力学を正しく理解していることが、ここでいうセンスに該当する。

なお、センスというのはプラスアルファ特別な才能ではなく、必要条件に過ぎない。

どうしようもなくセンスが無い人たち

センスの無い人には話が通じない。だから困るのである

彼らは、自分理解できないことを話し手説明のせいにしたがるが、ほとんどの場合、彼らのセンスが無いのである

普通の人に何かを系統立てて説明する場合、以下のような手順を踏めば、よほど前提知識が足りていない場合を除いて、おおよそ通じる。

  1. それを考察する経緯、それによって解決される問題などを示す
  2. 一般的原理解決法を示す
  3. 具体的な状況への適用例や、注意すべき事項・例外などを示す

2番目と3番目は入れ替えても構わない。これは演繹的に考えるか、帰納的に考えるかの違いであり、どちらか一方が優れているというものではない。

およそどんな分野にも、異常にセンスのない

奴は存在して、奴らは、どんなに言葉を変えて説明しようが、具体例を示そうが、たとえ話をしようが、絶対理解しない。

何せ、センスの無い奴は上の工程のどの箇所も、特に(1)すら理解していないからだ。奴らはたとえば、「2次方程式を解くのは1次方程式を解くよりも難しく、別の方法必要になる」というところからまず理解していない。こういう奴らに平方完成とか教えても無意味である

よくある勘違い

教育ナイーブ幻想を抱いている奴は、適切に教えれば誰でも理解できると思っている。特に、分からない原因を突き止めて改善すれば分かるようになると思い込んでいる。たとえば、微分法で接線の方程式が分からないのは、2点を通る直線の方程式の立て方が分からいからだ、とか。

もちろん、これは原理的には正しいのだろうが、ほとんど現実的ではない。おそらく、小学校低学年まで遡らないと、そういう原因を解消することは不可能だろう。

センスの無い奴に欠けている能力

センス問題を感じる奴の多くに欠けていると思うのが、言語的なセンスだ。

たとえば、プログラミングを教えていると、「ソースコード」や「オブジェクト」という言葉意味が分からなかったとか、フィードバックしてくる奴が結構いる。もちろん、一部はやる気が無くてそういうことを書いているのだろうが、数が多いので実際にそういう奴はいるのだろう。

普通の人はそんな感想は抱かない。その話の中でそれらの語が何を指しているのかは明らかであるし、そもそも「それらの語の厳密な定義を知らなくても内容は理解できる」ということは分かるからだ。

このレベルの話で、そういう人たちが各々納得する説明を考えていたら、何も教えることはできない。

2020-07-04

anond:20200704194504

出発点となる定義論理展開が正しければそこにデータ必要ないし(演繹が正しければデータを持ってきて帰納する必要は無い)

論理展開が正しければね

データサイエンス流行りすぎている気はする

数学とか計算機科学の中でも数学よりの分野とか(あるいはほかの分野でも多分あるんだろうけど知らない)、出発点となる定義論理展開が正しければそこにデータ必要ないし(演繹が正しければデータを持ってきて帰納する必要は無い)、それは別に文理問わない気がする

統計屋やらデータサイエンティストバカの一つ覚えみたいに別分野の人間エビデンスエビデンスうからこうなったような気がする

2020-03-16

適切なタイミングで適切な行動を

している人は結局帰納的に人生うまく行ってる感じがあるな。毎日運動している→毎日健康みたいな。

2020-02-16

野口武彦鳥羽伏見の戦い』を読んで

野口武彦鳥羽伏見の戦い幕府の命運を決した四日間』(中公新書2010年)読了あとがき以外は面白いね。

あとがきの「閉ざされてしまった回路」(=あったかも知れないイフ)は興味深いが、この書名や慶喜に負わせる問題じゃない。そして一つ目の公議政体はともかく、二つ目の「天皇制ぬきの近代日本」は荒唐無稽。このような反論に著者は「こう考えることを妄想だとする向きは、話があまり大きすぎて歴史的想像力がついてゆけないかである」と予防線を張るが、それはそうじゃない。

歴史にはたくさんのイフがあり、それぞれの実現可能性にとってプラスに働く因子とマイナスに働く因子とがある。それら諸因子の大小強弱は定量的に計測できるようなものではないが、ある程度の序列はつけれられる(というよりつけなければならない)。野口さんの言ってるのは、「マイナス因子をすべて無視すれば別のイフもあり得た」というに過ぎない。

彼は慶喜よりもはるかに大きな他の因子、例えば思想史的要因を全く無視している。列強ひしめく国際社会へ出て行ったときに、来たるべき「日本人」のアイデンティティはどこに求められるのか。それは「皇国」以外にないだろう。それは鳥羽伏見のずっと以前から使われている言葉で、すでに相当な浸透力をもっていた(松陰を想起せよ)。たとえ慶喜が逃亡せず新政府首班に座る(=徳川勢力が温存される)としても、天皇権威を前面に押し出さなければ新たな公議政体での意思統一はできなかっただろう。となれば、それが天皇神格化神聖付与へ向かうのは自然な流れ。(来たるべき憲法の条文がどうなるかはともかく)

天皇制を32テーゼではなく著者のように定義するなら、慶喜が逃亡しようとしまいと、かなりそれに近い状態に達したと考えられる。

要するに「天皇制ぬきの近代日本」というイフにとって、慶喜逃亡はきわめて小さい因子に過ぎない。他にもっと強力なマイナス因子があるのに、それらを全部無視してイフを手柄顔で語られてもねえ…。

天皇制ぬきの近代日本はあり得ただろうか?」という問題提起は興味深いし意味があるが、慶喜逃亡が決定的な因子であったという主張は愚かしい。その意味で「この書名や慶喜に負わせる問題じゃない」と書いた。アルキメデス支点に立ってるように見えるのは、著者が戊辰戦争ばかり見てるだけのことじゃないの。

から、ここに至って、なんでこの著者と気が合わないのかもはっきりする。この人の本は面白いけど、同時に「面白い話を一発吹いて目立ってやろう」という助平根性も感じるんだよね。勿論この人はれっきとした学者であって、歴史作家のくせに歴史学者のふりして商売してる人種とは違う。だから猶更その根性が気になる。我々はワトソンより寧ろロザリンド・フランクリンであるべき。ワトソン剽窃者として謗りたいのでははなく、帰納的に考えることをおろそかにしてはならないということだ。

2020-02-03

それありがちな誤解だから

まず本来オタクとはなにか?

帰納的にオタク定義するならば

妄想世界」と「現実世界」を天秤にかけたとき妄想世界」を選ぶ

のがオタクであった。

言い換えるなら

妄想世界への関心が強い」かつ「現実世界への関心が希薄

という条件でこれを定義することができる。

現代で言うなら「公式解釈違い」などと言い出すのが本来オタクだ。

このようなオタクマスコミ報道されたことで

オタク的な見た目」「オタッキー」「オタクっぽさ」

という概念世間に定着していった

こうしてオタク服装が定着したことで、見た目から

オタクと誤解される人」

が現れ始めた。

(このような人々の存在はあまり認識されていない様子だ)

仮にオタクモドキとしよう。

オタクの見た目というのは「現実世界への関心が希薄」という要素が表出したものであって本質的ものではない。

逆に見た目は家庭の経済事情などにも影響されるためオタク的見た目を持つものが必ずしもオタクではない。

例えば「オタク風呂に入らない」とされるが

だろう。

(その他、服装や化粧、友好関係(友達がいない、人の名前を覚えることができない、など)にもこの法則は当てはまる)

オタクモドキは

オタクとみなされる」のはノーサンキューだが「オタクに恨まれる」のも怖かった。

当時、オタク犯罪者予備軍と見做されており「怒らせれば何をするかわからない」という共通認識があった。

そこで

オタクというのは自分の好きなことに熱心なだけなんだ」

自分オタクと言えるほど何かに必死にはなれない」

自分ときオタクを名乗るのはおこがましい」

オタクを持ち上げつつ自己オタクであることは否定する戦略を取った。

こうした活動の成果として「オタクステータス」と見なす層が現れ始めた。

それが後のニワカオタクやイキリオタクに繋がるが、そこから先の歴史現代人には敢えて言うまでもないだろう。

オタクにさえなればアイデンティティが得られる」と誤解し暴走したオタクネット現実をお騒がせする。

(本来オタクは良くも悪くも「現実世界への関心が希薄」であったがゆえに能動的に現実世界へ介入しようとはしなかった)

こうしてオタク文化は緩やかに自滅の道を辿っていくのは自明であるとして過言ではない。

こうした時系列を踏まえて上で言おう。

自分世界現実世界との折り合いをつけることのできる

発明家建築家科学者など」

断じてオタクなどではない。

(さらに言えばクリエイターにもオタクではない人々が含まれる)

そうした線をふまえず理想現実相克を目指す人々(プロフェッショナル)をカジュアルに「オタク的」だなどと評価することは侮辱的ですらある。

2019-09-14

科学的に証明されている」という言い方が嫌い

少なくとも自然科学って帰納的にしか説明しないし、その枠から外れた事象が出てきたらその度理論を組み直すわけじゃん?

健康に関することとかでも、大昔は運動中に水のむな、ってのが定説だったのに、今そんなこと言うとキチガイ扱いなわけじゃん?

要するに何も証明できていなくて、「ある条件でこういう実験をしたらこういう結果だった」としか言ってないんだよな。

それを「科学的に証明されている」とか、「科学的根拠がある」とか言ってドヤ顔でいうやつが嫌い。ね、DaiGoさん?

2019-09-07

行動主義心理学10分で理解する

はじめに

行動主義はJ.B.Watsonが最初提唱した心理学哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。

しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義自称している行動主義者は現代はいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。

そこで、行動主義誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。

Watson の行動主義

行動主義は、Watson が 1913 年に提唱した。

Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学対象客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。

当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。

Watson が反対したのは、Wundt の方法である人間自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能事象関係研究対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。

また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代身体性を重視する心理学認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。

さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。

注意しなければいけないのは、Watson の行動主義立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判歴史的な批判以上の何物でもなく、現代科学議論ではない。

では、行動主義を自認する現代研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である

Skinner の徹底的行動主義

Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。

Skinner は、科学目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。

徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学重要対象であるとはっきりと述べている。

逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明である。心的な活動実在するし、それ自体研究対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。

ただし個人見解としては、行動分析学ほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。

行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。

(1) 「反応」を運動パターンとして定義するのではなく、「どんな結果事象を引き起こすのか」から定義する機能主義
(2) 人間の営みを超えた真理探究ではなく、行動の予測制御という現実的有効性の上昇を目指すプラグマティズム
(3) 仮説構成体・仮説群から研究演繹するのではなく、実験結果から法則抽出する帰納主義

なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人いるかもしれない。

Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータ必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係データの蓄積を重視した。

まりあくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。

ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。

また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。

Skinner と同時代の行動主義 (新行動主義)

Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。

ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくま歴史的な展開として捉えるべきである

Guthrie

Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学研究対象客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。

Hull

Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数挙動の変化により行動の予測に挑戦した。

Hull の研究問題点は、いたずらに潜在変数いくらでも増やせてしまい、理論肥大化する危険はらんでいるためである特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論必要か?」という論文理論研究批判していているのだが、Skinner が批判たかったのは Hull の心理学だったのである

Tolman

Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。

Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である

現代視点で見ると、認知心理学下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。

ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義立場からすると方法論的行動主義立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義なのだ

なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象研究をする。公的事象操作 (実験条件) を通じて、内的事象定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である

Skinner 以降の展開

1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。

Heyes の機能文脈主義

Skinner の行動分析学プラグマティック科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパースジェームズデューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。

Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学目的である予測制御寄与しないと考えたことも一因である

Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。

具体的には、「態度」を測る質問研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。

このような、伝統的な行動主義比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学自由主義化」であると述べている。

少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である

また、機能文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。

行動主義科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。

これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造プロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。

Baum、Rachlin の巨視的行動主義

巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。

(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」

Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。

巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性行動主義心理学分析単位であると主張している。

まりミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロ環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である

行動主義心理学目的予測制御に置くならば、結局はマクロ記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。

(2) 内的出来事の導入の拒否

Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。

彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである

このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである

Staddon の理論的行動主義

Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学必要であると考えた。その点は、実験結果から法則抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である

行動主義心理学目的は、予測制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズム表現」の位置心理学位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。

Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくま心理学レベルでの記述である

ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。

Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析単位とするかは、それ自体研究立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉表現している。

それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである

また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカル議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。

一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義認知心理学を分ける特徴の 1 つであるしかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。

おわりに

以上、行動主義 100 年の歴史簡単に振り返ってみた。

色々なアイデアはあるものの、基本的現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学議論として行動主義批判したければ、Skinner を相手にするべきである

行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解責任基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。

個人的には、アンチ信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワーク出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん