はてなキーワード: 危篤とは
入院してる二人の男の話あったじゃん
二人とも不治の病かなんかでまともに体も動かせない。
一方の男は共同病室の窓際のベッドを使ってて、季節が巡る度に窓から見える風景を逐一病室の患者達に教えてくれる
「桜の花が綺麗だよ」とか「子供たちが遊んでいるよ」とか
そんな言葉を聞きながら、一方の窓際から遠い男は、窓際の男のことを心底羨ましく思っていた。
「俺だって窓からの風景を見ながら残りの人生を過ごしたい」と。
で、ある夜更けに窓際の男が危篤になる
窓際から遠いベッドで横たわっていた一方の男だけが病室の中で起きていて、ナースコールできる状態にあった。苦しんでいる窓際の男は自力で看護師を呼べる状態ではない。
苦しんでいる窓際の男を見ながら、男は思う。「このまま窓際の男が亡くなれば、その代わりに俺が窓際のベッドを使うことができるようになるかもしれない」と
◇
その後の展開はお馴染みで、窓際の男は亡くなり、そして目論見通り一方の男は窓際のベッドに移動するのだけれど、そこからは男の言っていたような風景は一切見えず、うらぶれた灰色のビルの壁面が見えるだけだった、って話。
今にして思うのは、道徳の教科書にこの話を載せたのは一体どんな奴で、どんな意図で載せたかってことなんだよな。
何でなんだろうと思ったんだよ
胸糞だから読まない方がいいと思う。
でもどうしても吐き出したかった。
薄情で不謹慎なのはわかるけど、ポカンとしかできない。あと葬式でも泣けない。でも結婚式は号泣する性質。もちろん悲しいって気持ちはあるんだけどさ
若くして亡くなった友達の葬式では、周囲が皆泣いてるのに泣けなくて、やべえなあって思いながら俯いてた。
でも、悲しまなきゃいけない、そばにいなきゃいけない、会いに行かなきゃいけない、声をかけなきゃいけない
個人の意見としては、自分が倒れたりしても、最低限もろもろの書類にサインしてくれれば帰っていい。
だったら家帰って好きなことするとか、夜なら仕事に備えて寝るとかしてほしい。
ついでに倒れたからってわざわざ仕事投げ出してとか来ないでほしい。死ぬかもしれない自分のせいで、仕事に支障出るし、大切な人の貴重な有給が減る。それはつらい。死んでも生きても後悔する
本気でそう思ってるのに、伝えたらバッサリそんな薄情なことできないとか、不謹慎だとか言われた
映画とか他人事なら泣けるし、悲しい気持ちもわかるけど、自分含め自分事だとすごい薄情で不謹慎な人になる。
なんでこうなんだろう。
おかしいのかな。
婚約者 同僚(同居中)
母 自営業
父 自営業
姉1 遠方に住む既婚者
姉2 近所に住むバツイチ
父 現役公務員
母 現役公務員
妹 既婚者
交際期間は短いが仕事での付き合いは2年以上ある上に、双方の家族から気に入られていたので結婚自体はスムーズに行くはずだった
同棲初めてすぐの頃に両家の顔合わせは済ませており、入籍のタイミングを図っていたらこのコロナ渦に自分の両親が自営業の廃業が決まった
またその直前に自分の夢だった注文住宅の購入に目処がついてきたので、
両親のリタイアと戸建てのタイミングがちょうど重なるから頃合いかな、と婚約者と話がまとまった
食事会はどんな感じが良いか、結婚式はこの時期は無理だから写真だけでも良いか、等
廃業した当日に、引退祝い酒で酔ってる父に私と婚約者は帰り際に
と言った
言った場所、雰囲気、軽い言葉からわかってもらえると思うが、あくまでも「長生きしてね」が伝えたい言葉だった
父親は酔っていたのもあって非常に喜んでくれた
「やっとか。待ってたよー。また詳しいことが決まったら教えてくれ」
と言ってくれた
だが母親はちがった
「そんな大事なことを酒の席で、しかも私には言っていない!!」
勘違いさせてしまったことは自分の落ち度だが、勘違いを訂正せずに姉1と姉2に文句をぶちまけてしまったのだ
よって母と姉たちは、私のことを
※自分が知らないところで話が発展し、突然の説教はその前からあったのだがそれは割愛する
ごめん日記書いててしんどくなってきた。
ちなみにまだこの3人とは冷戦している
この二人にもすでに婚約者との面識があり、結婚前提の付き合いということも知っている
肯定すると
私「結婚式はしない予定。コロナもあるけど式やるお金は他のことで使いたいから」
2「食事会とかしたいじゃん」
私「だからする予定ではあるって…それから黙っていたけど、私家建てるから。もう土地も見つけてる」
私「違うよ。この話は両親に話さないでね。年金と貯金ぐらしになる二人に心配描けさせたくないから。
あの二人のことだから援助してきそうだし」
1「結婚式のお金無いなら費用出してもらえばいいじゃない。というか、出してくれると思うよ」
2「家の援助しないと思うよ」(割愛するが、姉2は母親の蓄えを減らすほどの援助を受けてきた)
私「あのさ、お金を出させる可能性を潰したいの。それから入籍もその家のタイミングと図って一気にやりたいだけだから」
2「なんか家のために入籍してるような気がする」
私「いいじゃん。問題ないじゃない。良いんだよ事実婚でも。手続きしなくて楽だから。
1「ごめん、やっぱり家のこと両親に私から話すね。大きな話だし」
ここで私、姉1に怒る
これまで普通の言葉を使ってきたが、強い言葉じゃないと通じないと思ったからだ
なんでこの人達は式にこだわるのか
年始めに入院し、危篤状態で我が家に帰ってきた猫(獣医に「このままだとここで息を引き取ることになります。連れて帰りますか?」と訊かれた為連れ帰った)
死に水ではないが、母がミルクを飲ませようとすると健気にペロペロしたと聞き、大急ぎで違う病院へ連れて行った。
ミルクを飲む力があるのなら助かるのではないか?とセカンドオピニオンした(以前通っていた病院だが)
ぐったりはしているものの、彼が家に居てくれるだけで幸せだった。
最初は毎日。次第に3日おき、一週間おき。最近では二週間おきで病院に通った。
獣医に「にゃあ!」と挨拶し、注射に「いてー!」と反抗する元気が出てきて安心していた。
日差しが強くなり気温が上がる頃には自力で家の中の快適な所へ勝手に出向いてドテンと転がっていることもしばしばだった。
うちには3匹猫が居るが、一番下の猫もとても心配して様子を見てくれていた。
容態が安定してから定期検査は2ヶ月に一回になっていた。次は9月の予定だった。
私は毎月検査して欲しいと思っていたが、獣医がそう言うなら良いかとも思った。
しかし先月末、突然療法食を食べなくなった。
猫缶は食べていたが、買っておいた腎臓病用のリキッドを飲ませてみようとした(飲まなかった)
検査すると内蔵全体が悪くなっていた。肺にも白い影がかかっていた。
各種数値は非常に悪い。
帰る時、猫の様子を見るといつも通りゴロゴロと喉を鳴らしていた。
がんばるんだよ。と声を掛け、後ろ髪を引かれる思いで帰宅。
どきどきしながら一晩過ごし、翌日仕事前に見舞いに行った。
その時、母の顔を見てニャー!と一声鳴いた。
こんなに苦しそうなのに、頑張れなどと声をかけることも出来ない。
そう思ったけれども、なんとか生き抜いて家に帰ってきて欲しいと願わずにはいられなかった。
また長く入院して苦しめることになるのかなあと思いながら。
仕事に行き、夕方の休憩時間にスマホを見ると母から着信が入っていた。
力が抜ける思いでLINEを開くと「息を引き取りました」とあった。
ぼんやりしながら仕事をこなし帰宅すると、氷に囲まれて冷え切って固くなった彼が横たわっていた。
冷たくて固いけど、見た目は寝ている様にしか見えない。
腹を撫でると毛並みがさざめいて息をしている様だ。
抱え上げると、病院に連れて行った時よりも重みを感じた。
入院する2日ほど前の夜、私の部屋にドタドタと駆け込んできて何やら沢山鳴いていた。
否、ここ半月程やたら鳴いて甘えていた。
「具合悪い!」と訴えていたのかもしれない。
具合が悪いから、いっぱいよしよししてくれと言っていたのかもしれない。
それなのに、あの日私は「うんうん。どうした?」と顔を覗き込んで頭を撫でるだけだった。
なんで膝に上げてやらなかったんだろう。
元々人の膝で寝るのが大好きな猫だった。
年老いて体が難儀なせいか、その体勢が辛い様であまり上がらなくなっていた。
こちらも気を使って抱え上げたりすることがなくなっていた。
あの温かく柔らかい重みをこの手に抱える最後のチャンスを捨ててしまったのが悔やまれてならない。
彼は本当に人間が大好きな猫だった。
そして何故か私の手を舐めまくるのが好きだった。
ひとしきり舐めさせて手を引っ込めようとすると、爪を出して押し止めるくらい。
美味しかったのだろうか?
他の人間の手を舐めることはなかったので、何かしら意味があったのだろう。
遺骸になった猫を撫で付けながらそんなことを思い出すと涙が止まらなかった。
このまま家の庭に埋葬するのはなんだかとても嫌だった。
部屋に寝かせている姿は以前のままだったから。
家まで来て貰い、家族みんなでお弔いをした。
炉に横たえた彼はやっぱり生前のままだった。
ツヤツヤの白い毛並みの大きな体は、2時間ほどで白い骨になった。
しっかりとした骨を桐の小箱に詰めていく。
股関節が悪くてドタドタ歩いてたけど、骨は立派なままだった。
でも不思議と落ち着いている。
酷いペットロスになるのではないかと思っていたが、何故か一区切りついた様な感覚だ。
亡くなった猫について人と話したり、こうして文章にしたりするとやっぱり涙が止まらないけれども。
前回倒れて奇跡的に回復し、この半年強という時間を与えられ、みんなで見守り続けて出来るだけのことをしたという感覚があるからだろうか。
思い返せば悔やまれることもあるけれども。
病院に居たせいで、家族の誰も看取ってやることが出来なかったのも辛いけれども。
今月7日で18歳になる筈だった彼。
苦しかっただろうに、7ヶ月以上も頑張って生きてくれた。
とても愛しく、大切な子だよ。
これまで傍に居てくれて本当にありがとう。
私たちは30代夫と20代妻、身体面では至って健康な夫婦である。
おそらく妊娠は可能だが、結婚当初からあえてピルでの避妊を選択しはや3年余りが過ぎた。
子なしの理由は様々だが、一番の理由はお互いそもそも子供を欲しいと思っていない点が大きい。
特に私(妻側です)の「産みたくない欲」は凄まじく、とにかく産みたくないったら産みたくない。
思えば子供時代からおままごとやお母さんごっこが苦手で、与えられる赤ちゃん型のお人形にはあまり興味を抱かない幼児であった。
おままごとに参加するにしても、常に赤ちゃん役やペット役に徹し、親側の視点には立たないよう心がけていたように思う。
その当時私の家庭事情が複雑で親が暴力により離婚していたこともあり世間一般よりも2〜6歳頃の記憶が濃く、なにせ友達におままごとに誘われると嫌な気持ちになっていたことをよく覚えている。
将来の夢に「お母さん」「お嫁さん」と書ける人間の気が知れなかったし、中学生になった頃にはもしも大人になって結婚したら子供は持たないでおこうと決めていた。
現代医学を持ってしても十月十日自分の子宮に子を宿し内蔵や骨の位置をグチャグチャと変えられながら育てないといけない時点でもう嫌だし、自分の身体を交通事故と同等レベルまで痛めつけないと出産ができない時点で本当に嫌だ。
その後も地獄のような育児が始まり、一秒でも目を離すとすぐ死ににいく生き物を自己責任で最低20歳まで生かさなければならないのも負担が重すぎるし、何より我が子の愛着の形成に全くと言って自信がない。
子に唯一無二の自己肯定感を与えられる教育育児など私にできるはずもない。
おかげで、二人で慎ましく暮らす分には夫の給料だけで十分食べていけるところを、私も自由にフルタイムで働きに行きそれなりの世帯年収でそれなりに二人してドンチャカ遊びながら暮らせている。
「なんで子供いらないのに結婚したの?」とよく聞かれるが、これは「大切な人が危篤になったり亡くなったとき、自分が一番側にいてあげたいから」に尽きる。これが我が国の婚姻制度における一番のメリットなのではなかろうかと思うのだけど、この話をすると既婚の方にさえ「へえ、確かに!そんなの考えたことなかった!」みたいなことを言われるのでこっちがびっくりしてしまう事が多い。
またよく言われること繋がりの話だと、私がまだ20代前半であるため「これから気持ちも変わるよ〜子供欲しくなるよ〜」という言葉をよく頂くことが多いのだが、少なくとも6歳前後から今まで「私、お母さんになりたい!」と思った瞬間が一秒たりとも存在しなかった私が果たして本当に母になる自分を許容できるのかと言われると正直怪しい。
おそらく我が家は生涯子なしのまま、数千年前より長らく続いた命のバトンを我々夫婦で終わらせることになるのだろう。
辛いのは、不妊疑惑をかけられ腫れ物扱いされることぐらい。何度選択子なしだと話してもこればっかりは理解されづらいらしい。仕方ない。
他人の子供は可愛いし知り合いの出産は素直に喜べるので、本音を言えば気を遣わず教えてほしい。
逆に言うと不満はそれくらいのもので、今の生活はとてもとても幸せだ。
というわけで、ある1人のいい年した腐女子といぼ痔の戦いの記録です。
BLの性的な表現やシモい話、R18的な話にさらっと言及していますので、苦手な方はそっとこのページを閉じてください。
1:原因
というわけで、私は痔になってしまった。
いぼ痔である。
元々すぐに切れちゃうタイプだったが、ボラギノールのCMを見るたびに、
…とはいいつつ、痔になってしまった原因はいまだにわからない。
▼うんこ編
・生まれつき3ミリほどの肛門?の脱肛癖があり、大人になってから5回に1回くらい出るので戻していた
(この部分が今回、立派ないぼへと変貌した)
▼ストレス編
・当時、就活のために週2くらいバスで片道2時間のところへ通っていた
・祖母が危篤になり、ブッ生き返したところまだらボケHARDとなる
多すぎでは??
多分いろいろ重なった結果だと思う。
腫れて飛び出た、大人ダンゴムシサイズのいぼ痔はとっても痛かった。
2:通院
ウルトラ幸運にも地元には腕のいい肛門科があるので、迷わずそこに駆け込むことになる。
ここでダイマしておくと、愛媛県のいくつかの地域には、なぜか人口やら面積にやらに対して病院がめちゃくちゃあるという頭のおかしい(褒)ところがあります。
田舎に引っ越したい人で病院を重視する人はぜひ愛媛県を検討してみてください。
話を元に戻す。
診察室に入った私を待ち受けていたのは、やはり肛門の触診だった。
私もいろいろ躊躇ったのだが、潔く、診察台の上でパンツの後ろ半分を脱いだ。
なおケツ毛バーガーだったのでこの件と、これから2年後に行う子宮頸癌検診でVIOの永久脱毛を決意した。
話を診察に戻す。
先生はまず目で確認してくるのだが、その際に尻の肉を、よく肛門が見えるように広げる。
それがもう、ひどい激痛だった。
ヒギィ!である。
先生の、見た所よくあるいぼ痔ですねという言葉にここで少しだけ安心した。
潤滑のためのゼリーを患部に塗るんだろう。
そう思っていた私は、ここで初の衝撃体験を味わうことになる。
私「ぐっ!?」
ほんっと〜〜にこんな声が出た。
いやほんとマジで出る。
今思えば実に当たり前なのだが、診察器具を肛門内に入れるために、肛門とその中にに指?でゼリーを突っ込まれたのである。
もちろん、入り口にあるいぼ痔にダイレクトヒットするため、とんでもない激痛に見舞われた。
先生「う〜ん、中もまぁまぁ…」
よくない状態ではあるが、めちゃくちゃひどいわけではないのだろう。
なんとなくそんなニュアンスを感じながら、私はここで、痛みから思考をそらすためにある考えに集中していた。
よくBLの挿入シーンで内蔵が築き上げられるような〜的な描写のあれだ。
内蔵がぐっぐっするかんじがする!
受けの尻を大切にしたい…。
やっぱりこれからも挿入じゃなくて素股ものばっかりになりそう…。
ラブ&ケツ&ピース…アナルセックスは負担高いなり…。
再び診察室に戻り、先生は口を開いた。
先生「う〜ん、薬で治しても切ってもいいんだけど。切った方がいいかな。切ります?今週できるけど」
私「エッ、今週ですか!?」
私「10分」
私「パチン」
そ、そんなばかなーーー!?
が、やはり手術は怖いので薬でとお願いした。
先生曰く、薬なら3ヶ月ほどで萎むよとのことで、先は長いな…と、このときの私は楽観視していた。
3:通院と注入軟膏
なんとか通いで済んだ!
というわけで、飲み薬と注入軟膏が処方された。
注入軟膏…すなわちボラ◯◯ール的なものを使うのは初めての経験だし、肛門はウルトラ痛いので慣れるまでに時間がとてもかかった。
余談ですが、うまく注入できたら、R18男性向け同人誌にある人工的におならをさせるための準備シーンてこんなかんじなんだろうか…という感覚がします。
話を戻す。
とにかくその時の心情はといえば、結構たいへんだなぁ、座るのも歩くのも痛いし、困ったなぁ。
でも切らずに済んでよーかったー!
というものであった。
そう思ったのもつかの間。
初診から5日ほど経った朝、尻に違和感をおぼえてトイレに行くと、無慈悲にもいぼ痔は1.5倍ほど膨れていた。
トイレに行くたびに風呂場でよくよく尻まわりを洗って清潔にし、薬もちゃんと飲む&注入していたというのに。
先生「確かに大きくなりましたね〜。まぁでも膨れることもあるものなんで大丈夫ですよ」
私「そうですか…」
私は考えていた。
実はこのとき、もう最後に持っている就職試験のコマも落ちてしまったと思っていた。
仮に受かっていた場合、手術を受けても術後にギリギリ問題のない最終試験ではあるーー。
私「あのー、切ってもらっていいですかね…」
なぜか先生は切らなくてもいいと思うけどねと初診の時と違うことを言ったが、手術を行うことになった。
約1週間後である。
血液検査、尿検査、肛門の圧力検査、そして手術費込みで3万5000円ほどかかる見通しだった、多分。
実はこの頃いろいろあって実家に頼っていたので、領収書を両親に渡したらどこにしまったか忘れたらしい…。
血液検査は、中性脂肪とコレステロール値が少し高いと言われ、とてつもなくショックを受けた…。
4:手術
手術当日がやってきた。
ジャージやスウェットなどの楽で脱ぎやすい服でと指示があったので、ジャージで颯爽と私は診察室にあがった。
この圧力検査も例にもれず、器具挿入時にはズドム!ときて苦しいが、入ってきたらあとは痛くなくて、時々先生の指示通りにケツを締めるだけである。
楽だった。
小さい頃によくしていたけど、何度やっても慣れない!
しかもがんばって最低我慢時間より1分くらいしっかり我慢したのに、前日夜にうんこしてたもんだからなにも出なくて草が生えた。
本当に、本当に、なにもでなかった。
かけらすら。
私の努力とは…。
そのあとは手術室にさらっと移動して、転がされた。
ついに台が上がり、先生がやってくる。
準備開始である。
ちなみに手術室には立派な木のスピーカーが据え付けられており、先生が好きな曲がかけられていた。
私(ほわ〜手術室ってやっぱスピーカーあるんや〜)
先生「今回録画なし!」
不穏!
でも録画されないからよかった。
なお録画モニターが見える位置にあったので、グロ苦手な私からすると本当によかったと思う。
うつ伏せになり、尻肉を養生テープらしきもの(医療用のはず)で左右に広げられ、肛門の消毒が始まる。
肛門の消毒は、冷たくてとても痛い。
いだっ、と声はでるけど、まだ耐えられる範囲だった。
「痛いっ…痛っ…いっ…いだっ…」
最初の3発くらいはまぁまぁで、ちょっと痛いな?程度だったのだが…。
その後から本当に、痔の治療始まって以来の傷みが訪れることになる。
あれと同じくらいのが、尻の穴という敏感で制御のきかない場所にバツバツされるのでめちゃくちゃ痛い!
1発1発なら耐えられるものの、連続して8回か10回くらいは本当にきつかった。
痛い、痛い、痛いとずっと呟き続けた。
途中、気持ち悪くなってきてもうダメだと本気で思ったくらいである。
先生「麻酔もう効き始めますからね〜。(3秒空白)はいっ、もう効きだしましたよ〜!」
そこからは本当に早かった。
ぐったりした私の尻に、プレートを3枚くらい載せて時々コツコツ叩いているような感覚がし始める。
ただ、ジョキッという音が聞こえたり、麻酔のきいていない尻の割れ目や膣口あたりにガーゼか綿らしきものが当てられる感覚がしたりする。
もちろんだが、血は出ているのだろう。
先の麻酔の痛みで血圧が高くなった下がっただかで、途中吐き気が出てきてそれどころではない状態だったものの、時計を見たら本当に施術自体は5分ちょいくらいで終わっていた。
全部で10分には収まっていなかったけど、それでも20分以下である。
術後は車椅子に乗せられ、病室まで移動させてもらう。
看護師「それじゃ、説明通り術後1時間、病室で安静にしてもらいます。帰りに診察してもらってね。痛み止めが処方されるからね」
私「エッ」
看護師「エッ?あれ、聞いてない?」
私「はい」
頼むぜ!
結局、ぐったりして連絡どころでない私は、術後ジャストあたりに迎えにきてくれていた母への連絡をすっぽかし、母があわてて病室へ駆け込んでくる事態を起こしてしまった。
とりあえずこの日は出血も止まり、何事もなかったので、無事に家に帰宅した。
痛み止めと麻酔が効いて痛みは感じなかったが、麻酔疲れで速攻で寝た。
5:予後
手術後も以前と変わらぬ投薬治療で、約1ヶ月ほどでだいたいの傷口は塞がった。
術後3日くらいは尻に痛みが走るのを恐れて痛み止めをしっかり飲んだので、そんなに痛みは感じなかった。
また、うんこをした際に今まで脱肛気味だった部分がヤッホーしなくなって本当に快適になった。
6:最後に
痔はほっとくとやべぇぞ!
今いぼ痔の手術に迷ってる人の参考になれば幸い。
というわけで、ある1人のいい年した腐女子といぼ痔の戦いの記録です。
BLの性的な表現やシモい話、R18的な話にさらっと言及していますので、苦手な方はそっとこのページを閉じてください。
1:原因
というわけで、私は痔になってしまった。
いぼ痔である。
元々すぐに切れちゃうタイプだったが、ボラギノールのCMを見るたびに、
…とはいいつつ、痔になってしまった原因はいまだにわからない。
▼うんこ編
・生まれつき3ミリほどの肛門?の脱肛癖があり、大人になってから5回に1回くらい出るので戻していた
(この部分が今回、立派ないぼへと変貌した)
▼ストレス編
・当時、就活のために週2くらいバスで片道2時間のところへ通っていた
・祖母が危篤になり、ブッ生き返したところまだらボケHARDとなる
多すぎでは??
多分いろいろ重なった結果だと思う。
腫れて飛び出た、大人ダンゴムシサイズのいぼ痔はとっても痛かった。
2:通院
ウルトラ幸運にも地元には腕のいい肛門科があるので、迷わずそこに駆け込むことになる。
ここでダイマしておくと、愛媛県のいくつかの地域には、なぜか人口やら面積にやらに対して病院がめちゃくちゃあるという頭のおかしい(褒)ところがあります。
田舎に引っ越したい人で病院を重視する人はぜひ愛媛県を検討してみてください。
話を元に戻す。
診察室に入った私を待ち受けていたのは、やはり肛門の触診だった。
私もいろいろ躊躇ったのだが、潔く、診察台の上でパンツの後ろ半分を脱いだ。
なおケツ毛バーガーだったのでこの件と、これから2年後に行う子宮頸癌検診でVIOの永久脱毛を決意した。
話を診察に戻す。
先生はまず目で確認してくるのだが、その際に尻の肉を、よく肛門が見えるように広げる。
それがもう、ひどい激痛だった。
ヒギィ!である。
先生の、見た所よくあるいぼ痔ですねという言葉にここで少しだけ安心した。
潤滑のためのゼリーを患部に塗るんだろう。
そう思っていた私は、ここで初の衝撃体験を味わうことになる。
私「ぐっ!?」
ほんっと〜〜にこんな声が出た。
いやほんとマジで出る。
今思えば実に当たり前なのだが、診察器具を肛門内に入れるために、肛門とその中にに指?でゼリーを突っ込まれたのである。
もちろん、入り口にあるいぼ痔にダイレクトヒットするため、とんでもない激痛に見舞われた。
先生「う〜ん、中もまぁまぁ…」
よくない状態ではあるが、めちゃくちゃひどいわけではないのだろう。
なんとなくそんなニュアンスを感じながら、私はここで、痛みから思考をそらすためにある考えに集中していた。
よくBLの挿入シーンで内蔵が築き上げられるような〜的な描写のあれだ。
内蔵がぐっぐっするかんじがする!
受けの尻を大切にしたい…。
やっぱりこれからも挿入じゃなくて素股ものばっかりになりそう…。
ラブ&ケツ&ピース…アナルセックスは負担高いなり…。
再び診察室に戻り、先生は口を開いた。
先生「う〜ん、薬で治しても切ってもいいんだけど。切った方がいいかな。切ります?今週できるけど」
私「エッ、今週ですか!?」
私「10分」
私「パチン」
そ、そんなばかなーーー!?
が、やはり手術は怖いので薬でとお願いした。
先生曰く、薬なら3ヶ月ほどで萎むよとのことで、先は長いな…と、このときの私は楽観視していた。
3:通院と注入軟膏
なんとか通いで済んだ!
というわけで、飲み薬と注入軟膏が処方された。
注入軟膏…すなわちボラ◯◯ール的なものを使うのは初めての経験だし、肛門はウルトラ痛いので慣れるまでに時間がとてもかかった。
余談ですが、うまく注入できたら、R18男性向け同人誌にある人工的におならをさせるための準備シーンてこんなかんじなんだろうか…という感覚がします。
話を戻す。
とにかくその時の心情はといえば、結構たいへんだなぁ、座るのも歩くのも痛いし、困ったなぁ。
でも切らずに済んでよーかったー!
というものであった。
そう思ったのもつかの間。
初診から5日ほど経った朝、尻に違和感をおぼえてトイレに行くと、無慈悲にもいぼ痔は1.5倍ほど膨れていた。
トイレに行くたびに風呂場でよくよく尻まわりを洗って清潔にし、薬もちゃんと飲む&注入していたというのに。
先生「確かに大きくなりましたね〜。まぁでも膨れることもあるものなんで大丈夫ですよ」
私「そうですか…」
私は考えていた。
実はこのとき、もう最後に持っている就職試験のコマも落ちてしまったと思っていた。
仮に受かっていた場合、手術を受けても術後にギリギリ問題のない最終試験ではあるーー。
私「あのー、切ってもらっていいですかね…」
なぜか先生は切らなくてもいいと思うけどねと初診の時と違うことを言ったが、手術を行うことになった。
約1週間後である。
血液検査、尿検査、肛門の圧力検査、そして手術費込みで3万5000円ほどかかる見通しだった、多分。
実はこの頃いろいろあって実家に頼っていたので、領収書を両親に渡したらどこにしまったか忘れたらしい…。
血液検査は、中性脂肪とコレステロール値が少し高いと言われ、とてつもなくショックを受けた…。
4:手術
手術当日がやってきた。
ジャージやスウェットなどの楽で脱ぎやすい服でと指示があったので、ジャージで颯爽と私は診察室にあがった。
この圧力検査も例にもれず、器具挿入時にはズドム!ときて苦しいが、入ってきたらあとは痛くなくて、時々先生の指示通りにケツを締めるだけである。
楽だった。
小さい頃によくしていたけど、何度やっても慣れない!
しかもがんばって最低我慢時間より1分くらいしっかり我慢したのに、前日夜にうんこしてたもんだからなにも出なくて草が生えた。
本当に、本当に、なにもでなかった。
かけらすら。
私の努力とは…。
そのあとは手術室にさらっと移動して、転がされた。
ついに台が上がり、先生がやってくる。
準備開始である。
ちなみに手術室には立派な木のスピーカーが据え付けられており、先生が好きな曲がかけられていた。
私(ほわ〜手術室ってやっぱスピーカーあるんや〜)
先生「今回録画なし!」
不穏!
でも録画されないからよかった。
なお録画モニターが見える位置にあったので、グロ苦手な私からすると本当によかったと思う。
うつ伏せになり、尻肉を養生テープらしきもの(医療用のはず)で左右に広げられ、肛門の消毒が始まる。
肛門の消毒は、冷たくてとても痛い。
いだっ、と声はでるけど、まだ耐えられる範囲だった。
「痛いっ…痛っ…いっ…いだっ…」
最初の3発くらいはまぁまぁで、ちょっと痛いな?程度だったのだが…。
その後から本当に、痔の治療始まって以来の傷みが訪れることになる。
あれと同じくらいのが、尻の穴という敏感で制御のきかない場所にバツバツされるのでめちゃくちゃ痛い!
1発1発なら耐えられるものの、連続して8回か10回くらいは本当にきつかった。
痛い、痛い、痛いとずっと呟き続けた。
途中、気持ち悪くなってきてもうダメだと本気で思ったくらいである。
先生「麻酔もう効き始めますからね〜。(3秒空白)はいっ、もう効きだしましたよ〜!」
そこからは本当に早かった。
ぐったりした私の尻に、プレートを3枚くらい載せて時々コツコツ叩いているような感覚がし始める。
ただ、ジョキッという音が聞こえたり、麻酔のきいていない尻の割れ目や膣口あたりにガーゼか綿らしきものが当てられる感覚がしたりする。
もちろんだが、血は出ているのだろう。
先の麻酔の痛みで血圧が高くなった下がっただかで、途中吐き気が出てきてそれどころではない状態だったものの、時計を見たら本当に施術自体は5分ちょいくらいで終わっていた。
全部で10分には収まっていなかったけど、それでも20分以下である。
術後は車椅子に乗せられ、病室まで移動させてもらう。
看護師「それじゃ、説明通り術後1時間、病室で安静にしてもらいます。帰りに診察してもらってね。痛み止めが処方されるからね」
私「エッ」
看護師「エッ?あれ、聞いてない?」
私「はい」
頼むぜ!
結局、ぐったりして連絡どころでない私は、術後ジャストあたりに迎えにきてくれていた母への連絡をすっぽかし、母があわてて病室へ駆け込んでくる事態を起こしてしまった。
とりあえずこの日は出血も止まり、何事もなかったので、無事に家に帰宅した。
痛み止めと麻酔が効いて痛みは感じなかったが、麻酔疲れで速攻で寝た。
5:予後
手術後も以前と変わらぬ投薬治療で、約1ヶ月ほどでだいたいの傷口は塞がった。
術後3日くらいは尻に痛みが走るのを恐れて痛み止めをしっかり飲んだので、そんなに痛みは感じなかった。
また、うんこをした際に今まで脱肛気味だった部分がヤッホーしなくなって本当に快適になった。
6:最後に
痔はほっとくとやべぇぞ!
今いぼ痔の手術に迷ってる人の参考になれば幸い。
たしか7、8年前の話だ。
4月の頭、曾祖母の体調が悪いとの連絡が母の実家からあり、一家4人で急いで向かった。当時自分は小学校低学年で詳しくは知らされなかったが、おそらく危篤だったのだろう。地元の小学校ではその時期にお祭りがあり、行けなくなったことが不満だったのを覚えている。三回忌の際に同じことを母に言ったら、何か言われた記憶がある。怒ったのか悲しかったのか、多分両方正解だが、何を言われたかは覚えていない。その程度の記憶だと認識してる自分が気持ち悪い。
車が母の実家に着いたのは夕方と言うには遅い時間だった。曾祖母はリビングの隣の部屋で、介護用ベッドに横たわっていた。家に着いてすぐに風呂に入らされ、間もなくベッドに潜り込んだ。風呂から入る前に「寝る前にひいおばあちゃんに挨拶しておきなさい」と父に言われた。
曾祖母の元へは行かなかった。
兄と間違えられるのが嫌だったからだ。今考えたら、見分けがつかないどころか言葉を返すこともできなかったかもしれない。ただ父にバレて怒られないかが不安だった。
次の朝、曾祖母は死んでいた。6時頃に息を引き取ったそうだ。あまり苦しむことは無かったそうなので、良かった、と思った。あまり悲しくは無かった。物心ついた頃から曾祖母はかなり衰弱していて、話すことが少なかったからかもしれない。だから、昨晩話しかけなかった事に対して罪悪感を覚えることはあっても、曾祖母に申し訳ないという気持ち(視点?)は無かった。悪い事だとは思っているが、今でもその気持ちは湧いてこない。
その後、「きちんと挨拶はできたか」と聞いてきた父親に、できたと嘘をついた後のことはほとんど覚えていない。通夜だか葬式だかで出てきた刺身が美味しくて、母の分までねだった事くらいだ。
こうやって書いてみると、随分と酷いことをしていたと思う。当時はまだ幼く、他人の気持ちや人が死ぬということを微塵もわかっていなかったからかもしれない(今となっても分かっているなどとは口が裂けても言えないが)。今同じことがあったら、絶対に、絶対にこんなことはしないと言い切りたい。年齢のせいにしたいからだ。この悪行を風化させたいからだ。
この話を誰かにするつもりは無い。親には言えるはずも無い。友人には、もしかしたらどうしようもなく不安になったら(つまり所謂メンヘラになったら)同情欲しさに言ってしまうかもしれない。そんな自分にはなりたくないが、もうなっているかもしれない。この日記を書いたのは、もしかしたら自分はあの時のまま、失礼で最低な人間なのかもしれないという、思春期特有の漠然とした恐怖が拭えなかったからだ。
もしここまで読んだ人がいるのならありがとう。年端も行かない子供の、言葉遣いも中身も拙い文章を読んでくれたことに、感謝します。
皆さんお疲れ様です。
一応は広義の病院勤務の医療従事者です。俺はそんなには疲れてないです。抑え込みに成功してる地域だし、ウチは指定病院じゃないし、訪問者が減ってる分いつもより楽なくらいです。
それでも一応、怖いものは怖い。欠片でも同情するなら、現場へのエールの一環として話でも聞いてよ。無敵のトイレおじさんの話。
完全に手ぶらだし、余裕たっぷりで慣れた感じだし、先生かと思ったよ。
まあ、いるよね。いるいる。そっちのが近いからって職員用の通用口じゃなくて正面玄関を使う先生。規則知ってるくせにとぼけちゃってさ。俺も三桁からいる職員の顔を全部把握してるわけじゃないし。それにほら、医師免許持ってる人間ってさ、時間外だと看護師とか事務方なんかよりよっぽどラフな格好してるもんな。
でも騙されないよ。
なんか違うもん。あんたなんか違う。
あー、トイレ借りたいってね。
なんか初めて来た風な口きいてるけど、違うでしょ?
いやさ、割とそういう人いるしさ。
でもやむにやまれぬ事情で初めてトイレ借りに来た人間はあんたみたいに迷いのない目で悠々と歩を進めたりしないんだ。
導線を遮って絶対邪魔になる場所においてある手指消毒の依頼や全面面会謝絶の掲示に大抵は立ち止まるし、足を止めないまでも緩めて視線くらいは向けるんだ。
飛沫防止のビニールシート張り巡らせた仮設の受付見たら、わざわざ呼び止めなくても立ち止まるよ。あとトイレ借りたいなら許可して欲しくて積極的に話しかけてくる。
待って。
それ以上進まないで。
なんであんたらってそんなに強いの?
こっちの理屈が内閣府のお墨付きだろうがグローバルスタンダードだろうが不特定多数の人命が懸かってようがそっちの方が強い。どんな理屈を振りかざしても一ミリも揺るがない。
すごいよね。
でもさあ。
せめて今は勘弁してくれよ。
別に漏らしそうなわけじゃないだろ。水道代勿体ないからとかだろ。あんた絶対近くに住んでるよな。帰れよ。
俺はウイルスの追跡調査の書類になんて書けばいいんだ。「トイレ」ってか? 嫌だよ。止めてくれよ。
その先は明日をも知れない危篤状態の患者の家族が、例外的に防護服を着こんで進む場所なんだよ。
頼むよ。
トイレ済ませたら手を洗えよ。
なあ。
COVID-19について,ロックダウンを求める声が大きい.一方で,感染拡大を放置した方がマシだ,という主張もある.増田でも議論がなされているが(anond:20200402212148),私は,感染拡大を放置することを支持する.
放置戦略は,一時的な医療崩壊と大量死を招くだろうが,少なくとも一定期間後には多くの人が免疫を獲得することにより通常の社会活動を営めるようになることが保証されている.
ロックダウン戦略は,今この時点での医療崩壊と大量死を抑制することはできるが,ワクチンの開発に失敗した場合,あるいは開発に時間がかかった場合,社会がゆっくりと壊死していくという危険を孕んでいる.
放置戦略は,個々人の命を賭け金にして博打を打っているように見える.だが実際には,社会を賭け金に博打を打っているのはロックダウン戦略の方なのだ.
少なくとも放置戦略であれば,社会がそう遠くない未来に再稼働することは確実である.けれどロックダウンしてしまえば,再稼働できるかどうかはひとえにワクチンの出来次第ということになる.もしもロックダウンを緩めたら,再び感染は拡大する.真綿で首を絞めているようなものだ.
放置戦略は博打ではない.COVID-19はエボラ出血熱と違い,多めに見積もったとしても致死率が1割にも達しない感染症である.人口数万程度の島嶼国であればともかく,人口100万人以上の国がCOVID-19で滅ぶことは絶対にありえない.上の増田で言及されているdeztecjpさんは何度も,スペイン風邪で滅びた国はないと指摘している.今こそ私たちは100年前の教訓を学ぶべきだろう.
もしも私がマーシャル諸島やミクロネシア連邦の国民なら国家崩壊に繋がりかねない放置戦略よりもロックダウン戦略を支持するかもしれないが,私は日本国民なので,放置戦略を支持する.なぜなら日本の人口サイズや経済規模を考えると,この程度の疫病で国が傾くことはあっても崩壊したり滅亡したりすることはまずありえないと確信するからだ.
生命は大切であり,その価値に貴賤はない.COVID-19で死のうが交通事故で死のうが経済が崩壊して生活苦のあまり自殺しようが流通が破綻して餓死しようが,等しくひとつの死である.なぜ我々はCOVID-19による死だけを避けなければならないのだろうか? COVID-19での死を避けようとして,他の原因での死を増やすのは本末転倒だろう.
感染症対策は,それによって救われる生命が損なわれる生命を越える場合に限って行われるべきだ.天然痘の撲滅は多くの生命を救い,日本における日本住血吸虫症の根絶は大勢の人の健康を守った.しかし本当に重要なことは,それらの病気との闘いによる利益は,闘いによる不利益および闘わないことによる利益を,常に大きく上回っていたということだ.
今回のCOVID-19との闘いによる不利益は,闘わずに白旗を揚げた場合の不利益を大きく上回っているように私には思われる.
感染症との闘いを目的にしてはならない.それは社会の幸福を増加させるための手段に過ぎない.感染症対策が何も対策しなかった場合と比べて社会により多くの不幸をもたらすのであれば,それはやらない方がマシということだ.
個人が,自分の命を賭け金にした博打に参加したくないことはよく理解できる.私も肺炎になって苦しむのは嫌だ.だが長期的には私たちはこの病気と共存するほかなく,ロックダウンは共存を遅らせるだけだ.
私たちは真珠湾を攻撃するべきではなかった.さっさとアメリカと講和を結んで西太平洋におけるアメリカの弟分としての地位に甘んじていた方がよほど幸福だったのは,わが国の戦後史が証明している.今声高にロックダウンを求めるのは,もっと南洋に兵を送れと主張するようなものだ.短期的にはアメリカ軍を圧倒できるかもしれない.だが最終的には,多くの人が不必要に餓えに苦しみながら死んでいくだけになるだろう.
手洗いの励行や咳エチケットの普及といった対策は低コストであり,社会に及ぼす負の影響が小さいので賛成する.COVID-19対策を何もしなくてよいとは思わない.ただ,合理的な範囲でのみ行うべきだというだけだ.
私の業種だとロックダウンは死活問題.ロックダウンが続けば自分は経済的にも精神的にも死ぬから,放置戦略で生き残る方に賭ける方が合理的.
このままの戦略を採れば100%訪れる未来の死よりも,いま1割の死を引くかもしれないロシアンルーレットをやった方が遥かにマシなのは当然でしょーが.
仮に重症化して呼吸困難で死んだとしても,ロックダウンが続いて絶望の果てに首をくくるのと同じ結果になるだけ.どちらにしても最悪の結果になるなら,私は9割の生存可能性に賭けてロシアンルーレットやることを選ぶね.
“今回のCOVID-19との闘いによる不利益は,闘わずに白旗を揚げた場合の不利益を大きく上回っているように私には思われる.” / 政府による無策で経済困窮・混乱とそれ故の数万死が不可避、という前提がおかしくない?
つ 新型コロナに続き「世界的食料危機」の恐れ、国連とWTOが警告 写真5枚 国際ニュース:AFPBB News
加えて,そりゃ数ヶ月や1年の短期決戦なら保つかもしれないけど,長期戦になったら補償やら何やらが膨れ上がって詰むんじゃないの? 全員がテレワークできるわけでもないんだから膨大な失業者が出るだろうし,それを全部政府の責任で食わせられる期間はかなり短いよね.
短期決戦ならいけるけど長期戦になったら兵站が破綻するって,完全にいつか来た道じゃん.最初から戦争なんてするべきじゃないんだよ.無条件降伏しろ.
このままだと待っているのは陰鬱な戦時体制だ.それで勝てるのならともかく勝ちは保証されていない.だったら,多少の危険をおかしてでも確実な自由を掴み取るべきだろう.
私は「私は死なない」と思いこんでる超楽観主義なのでわり同じこと思ってるんだけどそうでない人を巻き込むつもりはないので放置作戦には乗っかれないんだよね。新コロが厄介なのは「動くと巻き込む」だから。
それを言ったら,ロックダウン作戦だってロックダウンしたくない人を否応なしに巻き込んでるので,お互い様なんじゃない?
ロックダウン派が勝てば私みたいな人間は自分の適職から追われ,外出して気を晴らすことすらままならず最終的には自分で綯った縄で窒息死することになるし,放置派が勝てば既往症のある人や運の悪かった人が呼吸困難で死ぬことになる.
問題は,私個人の生死というちっぽけな話じゃなく,ロックダウンを終わらせるあるいは緩められる目処っていつになったら立つの? ってことでしょう.そのときが来るまでに社会が窒息死しちゃったら意味がないわけで.1ヶ月や2ヶ月で確実にワクチンができるならロックダウン派に転向するけど,いつ完成するかわからんものに賭ける気にはなれないよねえ.
ずっと封鎖するわけでなく、感染拡大を防ぐために、一定のしきい値を超えて感染爆発の兆候が見えたエリアを、2週間程度封鎖するのが今回のロックダウンの定義だと思っていたけど、2週間ですら致命傷になるんだろか。
感染予防にあたる国立衛生研究所のブルザフェッロ所長は、記者会見し、「危機的な状況は脱した。感染者は減っていく」と述べ、先月10日から3週間以上続く外出制限の効果が出ているという見方を示しました。
1ヶ月ほどやってもまだ足りないんだってさ.感染爆発を放置していれば今頃は大勢の人が回復して免疫を得ることによって普通の暮らしが徐々に戻り始めていただろうに,まだ窮屈な暮らしを耐え忍ばないといけないらしい.勘弁してほしい.
最初から期限を切って「3週間だけロックダウン,そのかわりどんな事情があろうがロックダウンを延長しない」というなら協力しなくもないけど,なし崩し的に終わりが見えないロックダウンに突入させられるのだけはごめんだわ.イタリアの教訓を見習え.
3月22日、英キングズ・リン在住のウェイトレス、エミリー・オーウェンさん(19)が病院で息を引き取った。NEW YORK POSTによると、エミリーさんは18日に自殺を図り、意識不明の状態で病院に搬送されて以降、危篤状態が続いていたという。22日に親族が生命維持装置を外すことに合意した。
自殺直前、彼女は同紙に姉のアナベルさんに胸の内をこう明かしていた。
「パンデミックのせいで世界がどんどんせまくなって、計画が台無しにされて、屋内に閉じ込められることにもう対処できない」
アナベルさんのFacebookによると、エミリーさんは4年前に高機能自閉症と診断されており、ウイルスの蔓延を原因とした世界情勢の変化にひどく戸惑っていたという。
備忘。看取ってはいないが「臨終」は本来死の直前を意味するらしいので合っているはず。
身内(祖母)が今日未明に逝った。最終的な死因は肺炎だがコロナかどうかは検査されていない。
いよいよという事で特養から病院に搬送され、危篤ということで家族が呼ばれたので様子を見たが既に酸素吸入で何とか生きている状態。入所以降初めての対面だったからかあまり驚きもせず、こうなると完全に呼吸しているだけの機械だなと思った。声を掛けようかとも思ったが他に人が居たのでやめた。
今朝行った時は死亡確認(家を出る頃には心停止していたらしい)後で、病室に入ったら心電図がオール0の表示と一緒にアラームを鳴らしていたのはぎょっとした(もう鳴らす必要無いんだけどなとか、**波測定不能とか出ているのを見てそりゃ死んでるからなあとか思いながら)。前日とは呼吸してるかしてないかの違いだが、顔に触れてみるとまだ少し暖かった。目に涙が浮かんでいたが、苦しかったのか単なる死亡後の変化なのかは判らない。目の前にあるのはもう人間を終えた物なので自分の為にしかならないが「お疲れ様でした」と一礼した。これは息のある間に言った方が良かったなと少し後悔したが、どっちにしろ聴こえていなかったかもと思うのが僅かな慰め。誰も居なかったので写真に残そうかと思ったが、流石に良心が許さなかったのか結局やめた(十分印象に残った)。腐食が進むので冷房を入れると看護師が言っているのを聴きながら確かに生ものだしなあとかアホな事を考えていた。
祖父の臨終にも立ち会った筈だがよく覚えておらず多分遺体を見ていない(遺骨だけ)ので、人の死にはっきり立ち会ったのはこれが最初。さっきまで元気に接してた人が無残な形で死んでしまったとかだととても悲しいのだろうが、自分の中で祖母は既に死んだも同然に考えていたのでそうでもなかったのかも知れない(落ち着きはしなかった)。自分の中の祖母は認知症になった後ではなく自転車に乗っていた頃のままでいい。尊敬できる人間ではなかったが。嫁姑の関係だった母は色々苦労したと思うが心情は如何程だろう。
今日中に死にたいと書いてたができなかったので諦めてやる気も起きず。臆病者なので結局まだ生きるんだろう。でもそれで数年生きて来てやっぱりあの時死んでれば良かったと後悔したし、数年後祖母の遺影見ながらまた後悔してるだろうと思っている。