はてなキーワード: ぼんやりとは
人を愛するためには自分を愛する必要があって、それはとても難しいよ。って話。
人生を振り返る。
女の子と遊んでいた記憶もあるけれど、受験が成功して地元から離れることになって以来、その人とは会ってない。
中学校では虐められていた。
毎晩泣いて帰宅していたことを覚えているし、毎日ぼんやりと死に際について考えてた。
最終的にこの運動部は引退間際に活動停止になったこともあり、その流れでやめることとなった。
仮にも進学校だったのもあって、成績が良いとそれなりの地位にいれることを学んだからだ。
人と関わること無く勉強に熱中したおかげで、いい大学に入ることが出来た。
大学というところは便利なところで、勉強だけをしていても白い目で見られることが無い上に褒められることもある。
ある意味では現実逃避にうってつけな環境だった。おかげで興味のある進学先へ行くことも出来た。
この世がひっくり返るほどの発見はできなかったものの、卒業時には表彰されるほどの名誉を得た。
研究者の道もあったが、生きていくお金が欲しかったため、自分のテーマに最も近い民間企業へ就職をした。
大学とギャップがあるとは聞いていたが、自分としてはやることは同じだと思った。
分からないことがあれば人に尋ね、知識を補強するために勉強をし、そして自分の成果を発表する。
なんのことはない、単調な作業。
30目前になると、周囲の人が結婚し始める。
色々な本を読むと、そこそこ順調だと思ってた自分の人生は失敗だらけだったことに気づく。
そして「自分は進んで人生の選択をしたことがなく、劣等感を払拭するために生きている。」ことにも気づいた。
大学・大学院では現実逃避のために勉強や研究に熱中していたこと。
今の企業へ入った理由も、何かがやりたいわけでなく、自分の得意なフィールドであれば最低限虐められることはないだろうとの考えがあったこと。
全ての選択が受動的であり、また常に「見えない何か」に怯えた生活をしてきていた。
結局、自分は自分のことを愛していないし、愛そうとも思わない。
劣等感でグズグズで、何かになろうと努力をするもゴールが曖昧なので成ることも出来ない。
自分を愛することが出来ない以上、どんな人と会っても自分を売り込む気になれず、恋愛や結婚は失敗する。
この話にオチはないし、これからの未来におそらく劇的な展開も起きない。
「見えない何か」から逃げ続けつつ、生きていける道を見つけた以上、自分はこの道を外れることを過度に恐れている。
まず、4月30日放送分の岡村の発言と矢部の「結婚しろ」発言への批判は根本的に正しいという立場です。ただ、あちこちで流れてくる要約で知った気になるのはマジでやめた方がいいです。矢部と岡村の会話に関してはホントに音声を一度聴くのをオススメします、最悪全部じゃなくてもいい、矢部と岡村がどんな感じのトーンでどういう雰囲気の元、会話をしてるのか。その辺りの肌感を知ってないと発言のニュアンス全っ然つかめないです(って書いたあとに文章放置してたらもう聴けなくなってた。ごめんね)。
岡村ってこの放送中ずっと謝ってるんですよね。謝る以外のことが何一つできない地獄のような20分があり「あ、これはダメだ」と思った矢部が放送に乱入する。そしてそこからまた1時間近く、30年来のつきあいの人間が、岡村の人格分析を、ゆっくりと、ずっとゆっくりと続けるんですよ。この回、端的に放送事故ですからね? 矢部が部屋に入ってくる時の扉の音をマイクが拾ってるところとか、全部聴いた人ならわかるけどラスト10分のはがき職人の大喜利コーナーで岡村がはがきを読み上げるところの絶望的な空気感とか、本当にヤバいですからね?
それで、この放送のポイント、岡村に横柄なところが全くないんですよ。本来ならまともなラジオトークの一つや二つはするべきところ、それすらもできなくなってる。とにかくマジで参った感じだし、ずっと謝りつづけてる。何より怖いのがここ。
なぜなら、矢部が一番最初に持ち出した岡村への指摘は「岡村さん、表でしか謝らへんのよね」という言葉だからです。「まともに放送できないくらいに責任を感じている」けど「それをカメラやマイクの前以外では出すない、出す勇気がない」、だから公開処刑のごとく生放送で伝えることしかできなかったという問題の根深さ!
そこから矢部が岡村の言動を長年どう見てきたかを話す。岡村の普段のちょっとした振る舞いの、ささいなことだけど違和感の感じたことを、ゆっくりと、一つ一つあげていく。
お茶持ってきたADさんにありがとうを言わない、鬱での休業の復帰回後に矢部に送られてきたメールが一行だけだったこと、そういった、本人が気づいていないレベルの「岡村がどう人間と接してきたか」、そしてそれらを矢部が素朴に「引いてしまう」こと、そういうのが滔々と語られる。
話題の中心は基本的に対女性関係のことになりがちだけど、矢部とのこととか仕事でのこととかも含まれてるので根本的には人間一般に対する態度、つまり岡村の性格の話をしてる。会話の中でぼんやりと示唆されてるのは、岡村の他人に対する「甘え」が「対応が雑になる」かたちで出てるのではということ。ただし流石にそれは明言されない。間違ってるかもしれないしね。そう、その意味でも矢部は慎重なんです。岡村の人格について断言はしなくて、基本的に言動の話しかしない。もしかしたら、矢部自身はそのあたり自分で気づいてほしいと思ってるのかもしれない。だから言葉を慎重に選んでいる。
その中で語られる「結婚したら」って、もう色々なニュアンスが含まれてるんですよ。たとえば、矢部と岡村の昔の会話で「彼女のご両親にご挨拶しに行ったことある?」「あるよ。高校生のころ」というやりとりに(いい大人が素でそういう[女性と遊んでる割にまともに結婚をふまえた挨拶をしたこともないって]答えする!?)と素で引いた、みたいなエピソードとか、スタッフやメイクさんの女性と遊びに行くときに「宿代は出すよ」と岡村が話したりしたことに「飛行機代の方が高くつく」という不満なんかが本人ではなく矢部の方に飛んでくるみたいな話(後述しますが、この本人には伝わらないことが恐ろしい)、女優さんとデートする企画が振ってきたら「笑われるのが嫌だから」と自分は断り別の既婚者を推した話、そういう「女性をデートには誘うし普通に関わりを持つのに、深い関係にならないし場合によっては逃げる」という岡村の普段の行動パターン、さらには矢部の「自分は結婚したら妻へのリスペクトが増した」という実体験、そういった、放送中に出てきた会話やそのときの雰囲気全部込みでの文脈でのことなので「40代の独身男性が女性と積極的に関わりたいと思うなら女性をリスペクトして女性から逃げるな」くらいのニュアンスが多分に含まれてる。
そういう様々なあの場の質感が、発言箇条書きとか録音文字起こしだと全然わからないのですよ……。
あ、一応言っておくと、そういうことを全部踏まえた上でも、「結婚したら?」発言はかなり唐突でしたし、乱暴な発言ではありました。
それでですね、放送を全部聴いてやっぱり思うのは、「この岡村をこれ以上責めるの辛くない?」と思っちゃうし、反省の色を見せている岡村隆史をdisるのには少し違和感があるんですよ。
これは自分の価値観の問題がたぶんに含まれますが、人間ってどこかしら不道徳な価値観を持ってるのが当たり前だと思って生きているんです。だから、他者との関わりでは「それをどう隠していくか」(ここでの「隠す」は「他人を傷つけないために努力する」のニュアンスをかなり含む)が重要だと思ってて。人格がゆがんでても、人格がゆがんでることそのものが隠せてたら人間は生きててもかまわないんじゃないのかなっていう。それを露出してしまった以上批判されることに異論はないし批判されるべきだとは思うけど、でも少なくともどこぞの松江哲明やら大澤昇平やらに比べたらまだまともでは?とは思っちゃうんですよ。比較で善し悪しを語るのは良くないんですけど。
まあ時折「これ大丈夫なのか?」みたいなエピソードは結構目にしてたので完全に隠してたわけじゃないけれど、それでもたとえば矢部が「カメラの前では謝る」みたいなエピソード聴くと、「少なくともカメラの前では取り繕えるくらいの価値判断は持ってるんだな」って俺は思っちゃうんですよね。30超えると人間は変われないと言われがちな世の中で、50でそこそこ取り繕えるってのは大事なことだと思うんですよ。それとも岡村さん社会的に殺します?
なんでここまで岡村に甘めの感覚を持ってしまうかといえば、最近よく、どのタイミングで自分が社会的に死ぬかわからないなあと思うんです。
岡村の件の何が一番怖かったかって、矢部が指摘したことの多くが「無意識な言動」だったことですよね。自覚的に行動を変えようとしても、無意識の言動は言われないと自覚的に変えられないじゃないですか。もっと言えば認知がそこからゆがむ可能性もある。
たとえば、ここまで書きながら「女性視点での批判的感覚が欠如してる」と自分で強く思います。この原因ははっきりしてて、自分は男性として生きてきたから「女性がどう感じるか」についての直感や共感が働くのが遅いんですよね。反射的に「別に大したことないのでは?」と思ったあとに、「いや、でも女性の視点で見たらこれはこうだろう」という理詰めで価値判断を下す。たとえばですが、一応自分にも女性の友人はいるから「この件、俺は岡村に同情してしまうけど、きっと彼女らは岡村に同情できる要素がないんだろうな」くらいの想像は、まあできる。でも、けど女性の友人が多いわけじゃないから、日々の生活で女性への気遣いが必要になる機会も、世間の人に比べると相対的に少ない立場だと思う。その意味で、女性へのリスペクトは忘れないように心がけてるつもりだけれど、でも結局のところ本当にできてるかはわかりません。他人は自分の欠点をおいそれと指摘してくれないからです。岡村隆史の放送が示したのってそういうことでしょ? 人は黙って去って行くんですよ。
だから、今回の件は、「どのタイミングで自分が女性から批判されて、社会的制裁を受けることになるかわからない」という恐怖で、どうしても岡村に共感してしまうんですよ。
そして、もちろん、この件は女性にとって「自分がコロナ不況でいつ生活が困窮し、風俗で働くことになるかわからない」という恐怖の共感と反発の方がおそらく強く働くのだろうなと思います。これ、残念ながら男性には「我が事のように想像する」ことがなかなか難しい部分ではあるんです。なぜなら、「生活に困るから風俗で働く」というジェンダーイメージは女性だと根強いものの、男性だとそうではないから(純粋に男女のジェンダーで分けられない人のことは申し訳ないが一旦話から省きます。たとえば率直に思い浮かぶのはゲイ風俗ですがそれをこの件に絡めると「性嗜好の一致しない相手と性的行為をする」ということの問題が絡んで話がややこしくなるのでその方面の話は当事者に任せた)。
だから、この件って共感をベースに立場を決めてしまうと、おおよそきれいに男女の立場で反応がわかれてしまうという、絶妙な案件だと思うんですよね。これって伊藤詩織さんの件みたいに「加害者が反省もしていない案件」とは全然様相が異なる。なまじっか反省しているように見える人間をどこまで責め続けるか。
「このような価値観を許していたら自分たちがいつ貶められるかわからない」という女性側の怒りはよくわかる。でもその反対にいるのは、「このように糾弾されるのを許していたら、自分たちがいつどのタイミングで社会的に殺されるかわからない」という男性でもある。この間の溝を埋めるのは、並大抵のことじゃないだろうなぁと思いました。
書き手である増田本人は、少なくとも今回の件は岡村が悪いと思ってるし、「どっちの味方」につくかと問われたら共感ではなく倫理を優先して岡村を批判します。俺にとっての「他者を尊重する」とはそういう価値判断をしていくことだと思っています。他者の立場を想像して、他人に嫌な思いをさせない。そこには必ずしも共感は必要ではなく、共感しなくても他人を尊重していく。
ただ、そもそも「どっちの味方」かという話をしている時点で、溝を埋めることはできないんじゃねえかなぁ、と思うんです。どちら側の人に対しても。なんか、この手の踏み絵がものすごく増えている気がする。踏み絵の後に待ってるのは処刑じゃないですかね。どちらの側にとっても。みんな、処刑合戦したいんです?
一話ずつ食事の支度を見ながら再生し、食べ終わるころには楽しい気持ちで見終わっていた。
日常系かと思うと、箒で空を飛んだりするのが良いアクセントになってよい。
妹ちゃんが魔女になりたいと希望したシーンをみて、後半は世界か主人公を破壊せよと、選択を迫る激鬱展開なんじゃないかと心配したが、そんなことなかった。安心。
どこかに進んでいく物語じゃないので、続編を作りやすい気もするので、切に希望している。
2クール24話でも、すらっと見れたということは割と面白かったのだろう。
モンテクリスト伯の復讐劇なんだけれど、実は後半まで誰が誰に復讐するのか、それほど明らかではない。
復讐の物語がぼんやりと見えてくるまでが若干退屈かもしれないが、後半に結末まで駆け抜ける勢いは見る価値がある。
ただ、このアニメが作られた時代的なものがあるのかもしれないが、画が汚いのが残念。
一歳半を過ぎた息子は今めちゃくちゃ後追いする。トイレに入っただけでギャン泣き。一人の時間などほぼない。
【全20曲】36分「てあそび&あそびうたメドレー」【たかしの手あそび・こどものうた】https://youtu.be/SYfIqJ8XCpo
この動画をchromecastを使ってテレビで流していればあら不思議、息子くんは静かに大人しくじっとしているのです。
そして最近はしあわせならてをたたこうとかで一緒に手遊びもするように!
あんまりみせすぎるのもよくないかなーと思って1日一回か二回くらいにしている。
夕飯作りも捗るし、ぼんやりドライヤーで髪の毛乾かしたりする時間もできた。たかし様々です。
たかしは魔進戦隊キラメイジャーのエンディングも歌っているからよろしくね!
本当に感謝してるぜ出口たかしと日本コロムビア!36分の繋げた動画作ってくれてありがと!
いろんな動画見せたけどたかしが一番食いつきいいし飽きずに見てくれる。
おかあさんといっしょとかでも興味ないコーナー来ると飽きてぐずりだしたりするんだけど、たかしはガチで36分間真剣に見続けている。
騙されたと思って見せてみてくれたかしを。
ステマとかじゃなく純粋に毎日36分自由時間をくれるたかしに感謝しての行動ですのでそこのところよろしく。
あとchromecastはいいぞ。スマホの画面で動画見せるよりテレビで見せた方が圧倒的に目に優しいぞ多分。こっちもオススメだぞ。
極論だが、人間の本体は、無意識にあって、それを感知するのも、方向性を与えるのも、意思だ。
自分の無意識をどのような方向に持っていくか、何を願うのかっていうの、宗教が誕生してからも、変化が無い。
2000年、変化してないこと。
それは、人間の身体の仕組みと同じように心の仕組みに根ざしているところのものだ。
意思次第で、幾らでも無意識を替えることが出来る。能力には、もちろん限界があるんだが。
人間は、宗教やグループと言った他者力を使って自分自身を洗脳することさえある。
どう知覚して、何を自分に言い聞かせるか。
騙されたと気がついて、怨みきっていたが、心身の不調があった。
座禅会などに参加しても、メンタル的に安定しない面が、まだあった。自宅でも数息観などをする。
しかし、自分は、いわゆる魔境に入っていたらしい。過去の怨み、悲しみが湧いてきて瞑想がうまくいかない。
瞑想をすれば、救われるのではなかったのか?もう一度、自分のやってきたことを振り返った。
本の中で、熱心に説かれているが、自分が取り入れていないことがあった。
それは、自分の幸せを祈ることだった。そして他者の幸せを祈ることだった。
良く有る成功法などで、目標を紙に書き留めて、寝る前に念じるのが良いというメソッドと同じだ。
意識レベルから無意識へのメッセージをメンタルに良いものにするのだ。
ただし、強すぎる欲は煩悩になるので、ぼんやりと幸せを祈る。エゴが大きくならない程度に。
色々やったけど、ようやく、長いトンネルを抜け出せそう。
このコロナ禍でテレビ局は収録を行えず、音楽番組は歴代のヒットソングを流し続けている。
私はこの手の音楽番組は嫌いじゃない。小中学生時代にうんざりするほど聴いた曲を「懐かしむ」という新鮮な感覚で聴けるようになった今は、テレビの中の歌手と大合唱するのが楽しくて、つい観てしまう。
この日もまた、その手の音楽番組で盛り上がっていた。学生時代、熱心に聴いていた00年代のヒットソングメドレーとなると、私は息つく暇もなく歌声を重ねる。
歌詞を見ずとも完璧に歌えるその数々に酔いしれ、天井を仰ぐご機嫌な私の歌声は、ある曲がかかった途端ピタリと止んだ。
2005年のヒットソング、レミオロメンの「粉雪」。この曲は、当時14歳だった私の「初体験」を彩るテーマソングだ。仰いだ天井とそのイントロが、あの日のラブホテルの天井をだんだんと思い出させる。
中学校生活の終わりをもうすぐ迎える私は焦っていた。その焦りとは、受験や、進学で離れ離れになる友達との別れに対するものではない。「初体験」を済ませていない自分に対する、ハッキリとした焦りだった。
私の周りの女の子たちは皆早くて、それぞれどこかで仕入れた「年上の男」とさっさと初体験を済ませていた。
中には「2回目は公園でヤった」とか、「毎日学校のトイレでパコってる」と語る者もいて、私は公園やトイレに行く度に「ここでパコパコ…」と感心していた。
一方私は、友達の家でファミチキを食べて帰るだけの中学生。身なりはギャルで、毎日公園やトイレでパコっていそうなのに、処女なのだ。
私は心底情けなかった。親からも毎日公園やトイレでパコっていると思われているのか、夕食の時に突然「コンドームは付けなさい」と注意される自分が。「まだパコってねえよ!」とも言い返せず、部屋にこもってeggのアニマルトークを読む日々が。
そもそも、中2の時に「塾に行きたい」と親に頼んだのが間違いだった。周りの女の子たちと同じように、夜中にどっかの年上の男にナンパされ、雑木林で初体験を済ませることを夢見ていた私は、夜遊びをするために塾に通うことを思いついたのだ。
それで私は、親に「高校に通いたいから塾に通わせてくれ」と懇願した。雑木林でパコりたい私の目論見を知ってか知らずか、親は「そうか、そうか!」と快諾し、私に2人の家庭教師を付けた。
高校に通いたいなんて嘘をつかずに、「雑木林でパコりたいから塾に行くフリをしたいんだ」と正直に言えばよかった。バカだからと2人も家庭教師を付けられ、週4日、16時から始まる授業に間に合うように、家に帰る生活を送ることになるとは。
だからといって、親に反発することはなかった。「お金がない」と言いながら月謝を払う親を裏切ることはできなかったし、口火を切ったからにはやってやるというギャルの意地があったから。
そうして夜遊びと無縁な日々を送った私は、2人の優しい先生のおかげもあって、中3の夏頃に実施された定期テストで89点という高得点を数学で叩き出した。
それ以外は50点前後というしょっぱい点数で、この奇跡の89点は功を奏さず、成績の5段階評価がオール1からオール2に上がる程度だったが、私の中にはいつしか「高校に行きたい」という思いが芽生え始めていた。噓から出た実とはまさにこのことである。
そうなると志望校を決めなければならない。しかし、私の学力でいける校則のゆるい高校を探すのは困難を極めた。いくらページをめくっても、「ゥチの高校は鬼ギャルの格好ができるょ↑↑」とか、「ルーズは120センチまでォッケー⭐︎」と、eggのノリで高校を案内しない『首都圏高校受験案内』に何度失望したことか。
選べる身分ではないことに気付き始めた頃、私はインターネットの力に頼った。すると早速、OBが受験生の質問に答えてくれるという優しい掲示板を探し当て、「ゥチの行ってた高校はギャルの格好ができるょ↑↑って人L lますヵゝ??」と書き込んでみた。
しばらく経って、スレッドが埋まりかけた頃、ようやく1件のレスがついた。「教えてあげるから、会わない?」という、見るからに怪しいレスだった。
その怪しさに、私は戸惑うよりも先に沸き立った。「この怪しいレスをつけた人に会えば、初体験を済ませられるかもしれないぞ」と。このバカは、いくら優秀な家庭教師でもなおせなかったのだ。
私はうぶなふりをして、20歳の男のメールアドレスを聞き出し、「静かなところで話したいから、ホテルで会わない?」という誘いに乗った。ああ、お父さんごめんなさいなんて、一瞬も考えなかった。
私にもついにこの時が来たかと思うと、感慨深いばかり。土曜の昼間のラブホテルだなんて、夜中の雑木林より立派じゃないか。誕生日を間近に控えた14歳の冬にして、ようやく初体験を済ませることになったのだ。
いつもより濃い化粧と派手な服に身を包んだ私は、待ち合わせ場所の改札前で20歳の男を待っていた。あと10分もすれば、初体験の相手が改札の向こうから現れる。
周りの女の子たちには、インターネットで出会った男と昼間にパコったなんて恥ずかしくて言えないから、夜中にナンパしてきたギャル男とラブホでパコったと言おう。そういろいろと考えていると、後ろから「あの…」という細い声が聞こえた。
振り向くと、うつむいた男が立っている。私は、その男が何者かということより、「私より髪が長いなあ」というぼんやりとした感想を抱いて、返事もせずにその長髪を眺めていた。
すると男は「…行こうか」と言って歩き出した。私はようやく「この男が私の初体験の男なのだ」ということに気付き、何とも言えぬままなびく髪を追いかけた。
道すがら、男は何かを話しかけてくるのだが、喧騒に遮られて聞こえない。その何かが物騒なことだったらどうしようと、この期に及んで恐怖を感じた。
それでも私は、時々見える男の表情が笑顔であることだけを頼りについて行く。男の声がはっきりと聞こえたのは、ラブホテルのロビーに入ってからだった。
男は「どこでも良いよね」と言って光るボードのボタンを押すと、小さな窓から鍵を受け取り、エレベーターのボタンを押した。その一連の流れを見て、こう言っちゃなんだが、こんなもさい男でも慣れているんだなと変に安心した。
部屋に入り腰掛けた瞬間、私はどんな顔をしていればいいのかわからなくなって、一気に緊張した。もしかしたら本当に高校について教えてくれるだけかもしれないけれど、黙ってテレビを眺める男の様子からはその気配を感じられない。
男が突然、「俺、宮崎あおいが好きなんだよね」と呟いた。テレビを見ると、宮崎あおいが何かの新商品をとびっきりの笑顔で宣伝している。そして、「シャワー浴びてくる」と言って風呂場へ消えていった。
その時、なぜかわからないけど落ち込んだ。この感情は、同級生の男の子に告白をした時、「今は勉強に集中したいから」と言ってフラれた悲しみに似ている。だけど、それとは全く違う。なぜかわからないけど、泣きそうになった。
タバコの匂いとシャンプーの香りが入り混じる部屋で、私はシャワーの音が止むのを待った。そして、揺れる長い髪と、かすめるラブホテルの天井を、私はぼんやりと見つめていた。
別れ際、男の顔が聖徳太子に似ていることに気付いた。参考書でよく見た顔だからか、それとも肌を重ねた相手だからか、この時になってようやく男に親近感が湧く。しかし男は名残惜しむことなく、私の「ありがとうございました」をかき消すように「じゃあ」と言って、改札を抜けていった。
私は、股が痛くて歩きづらいことや血は意外と出ないという、ありきたりな初体験の事後を実感したけれど、この心と体にしっくりくる初体験の感想は見つからず、モヤモヤした。
それからしばらくして、いよいよ志望校が決まった頃、私はまだ何かに焦りながら音楽番組をよく観ていた。誰かの曲の歌詞や声、MVの演出といった美しいものに、あれからずっと見つからなかった初体験の感想を当てはめて、早く落ち着きたかったのかもしれない。
そして私は、「粉雪」を歌うレミオロメンのボーカルを見て「聖徳太子に似ているな」という感想を抱いた時、ようやく落ち着いた。求めていた美しいものではない、その味気ない感想が、初体験の感想としてしっくりくるものだったのだ。
揺れる長い髪やかすめた天井、宮崎あおいや最後になぜか聖徳太子に似ていることに気付いて沸いた親近感、「何がありがとうございますだったんだろう」と考えながら歩いた帰り道、全てが無色だったことに気付いたのだ。
聖徳太子に似ているような気がするレミオロメンのボーカルが、私の初体験を彩る色はなかったことを知らせるように、心と体の深いところで鳴り響いただけなのだ。
天井をぼんやりと見つめている間に、音楽番組は10年代のヒットソングメドレーを流していた。初体験を白く染められたなら、この天井よりももっと高いところに返せるのになあ、などと考えている間に。
このコロナ禍でテレビ局は収録を行えず、音楽番組は歴代のヒットソングを流し続けている。
私はこの手の音楽番組は嫌いじゃない。小中学生時代にうんざりするほど聴いた曲を「懐かしむ」という新鮮な感覚で聴けるようになった今は、テレビの中の歌手と大合唱するのが楽しくて、つい観てしまう。
この日もまた、その手の音楽番組で盛り上がっていた。学生時代、熱心に聴いていた00年代のヒットソングメドレーとなると、私は息つく暇もなく歌声を重ねる。
歌詞を見ずとも完璧に歌えるその数々に酔いしれ、天井を仰ぐご機嫌な私の歌声は、ある曲がかかった途端ピタリと止んだ。
2005年のヒットソング、レミオロメンの「粉雪」。この曲は、当時14歳だった私の「初体験」を彩るテーマソングだ。仰いだ天井とそのイントロが、あの日のラブホテルの天井をだんだんと思い出させる。
中学校生活の終わりをもうすぐ迎える私は焦っていた。その焦りとは、受験や、進学で離れ離れになる友達との別れに対するものではない。「初体験」を済ませていない自分に対する、ハッキリとした焦りだった。
私の周りの女の子たちは皆早くて、それぞれどこかで仕入れた「年上の男」とさっさと初体験を済ませていた。
中には「2回目は公園でヤった」とか、「毎日学校のトイレでパコってる」と語る者もいて、私は公園やトイレに行く度に「ここでパコパコ…」と感心していた。
一方私は、友達の家でファミチキを食べて帰るだけの中学生。身なりはギャルで、毎日公園やトイレでパコっていそうなのに、処女なのだ。
私は心底情けなかった。親からも毎日公園やトイレでパコっていると思われているのか、夕食の時に突然「コンドームは付けなさい」と注意される自分が。「まだパコってねえよ!」とも言い返せず、部屋にこもってeggのアニマルトークを読む日々が。
そもそも、中2の時に「塾に行きたい」と親に頼んだのが間違いだった。周りの女の子たちと同じように、夜中にどっかの年上の男にナンパされ、雑木林で初体験を済ませることを夢見ていた私は、夜遊びをするために塾に通うことを思いついたのだ。
それで私は、親に「高校に通いたいから塾に通わせてくれ」と懇願した。雑木林でパコりたい私の目論見を知ってか知らずか、親は「そうか、そうか!」と快諾し、私に2人の家庭教師を付けた。
高校に通いたいなんて嘘をつかずに、「雑木林でパコりたいから塾に行くフリをしたいんだ」と正直に言えばよかった。バカだからと2人も家庭教師を付けられ、週4日、16時から始まる授業に間に合うように、家に帰る生活を送ることになるとは。
だからといって、親に反発することはなかった。「お金がない」と言いながら月謝を払う親を裏切ることはできなかったし、口火を切ったからにはやってやるというギャルの意地があったから。
そうして夜遊びと無縁な日々を送った私は、2人の優しい先生のおかげもあって、中3の夏頃に実施された定期テストで89点という高得点を数学で叩き出した。
それ以外は50点前後というしょっぱい点数で、この奇跡の89点は功を奏さず、成績の5段階評価がオール1からオール2に上がる程度だったが、私の中にはいつしか「高校に行きたい」という思いが芽生え始めていた。噓から出た実とはまさにこのことである。
そうなると志望校を決めなければならない。しかし、私の学力でいける校則のゆるい高校を探すのは困難を極めた。いくらページをめくっても、「ゥチの高校は鬼ギャルの格好ができるょ↑↑」とか、「ルーズは120センチまでォッケー⭐︎」と、eggのノリで高校を案内しない『首都圏高校受験案内』に何度失望したことか。
選べる身分ではないことに気付き始めた頃、私はインターネットの力に頼った。すると早速、OBが受験生の質問に答えてくれるという優しい掲示板を探し当て、「ゥチの行ってた高校はギャルの格好ができるょ↑↑って人L lますヵゝ??」と書き込んでみた。
しばらく経って、スレッドが埋まりかけた頃、ようやく1件のレスがついた。「教えてあげるから、会わない?」という、見るからに怪しいレスだった。
その怪しさに、私は戸惑うよりも先に沸き立った。「この怪しいレスをつけた人に会えば、初体験を済ませられるかもしれないぞ」と。このバカは、いくら優秀な家庭教師でもなおせなかったのだ。
私はうぶなふりをして、20歳の男のメールアドレスを聞き出し、「静かなところで話したいから、ホテルで会わない?」という誘いに乗った。ああ、お父さんごめんなさいなんて、一瞬も考えなかった。
私にもついにこの時が来たかと思うと、感慨深いばかり。土曜の昼間のラブホテルだなんて、夜中の雑木林より立派じゃないか。誕生日を間近に控えた14歳の冬にして、ようやく初体験を済ませることになったのだ。
いつもより濃い化粧と派手な服に身を包んだ私は、待ち合わせ場所の改札前で20歳の男を待っていた。あと10分もすれば、初体験の相手が改札の向こうから現れる。
周りの女の子たちには、インターネットで出会った男と昼間にパコったなんて恥ずかしくて言えないから、夜中にナンパしてきたギャル男とラブホでパコったと言おう。そういろいろと考えていると、後ろから「あの…」という細い声が聞こえた。
振り向くと、うつむいた男が立っている。私は、その男が何者かということより、「私より髪が長いなあ」というぼんやりとした感想を抱いて、返事もせずにその長髪を眺めていた。
すると男は「…行こうか」と言って歩き出した。私はようやく「この男が私の初体験の男なのだ」ということに気付き、何とも言えぬままなびく髪を追いかけた。
道すがら、男は何かを話しかけてくるのだが、喧騒に遮られて聞こえない。その何かが物騒なことだったらどうしようと、この期に及んで恐怖を感じた。
それでも私は、時々見える男の表情が笑顔であることだけを頼りについて行く。男の声がはっきりと聞こえたのは、ラブホテルのロビーに入ってからだった。
男は「どこでも良いよね」と言って光るボードのボタンを押すと、小さな窓から鍵を受け取り、エレベーターのボタンを押した。その一連の流れを見て、こう言っちゃなんだが、こんなもさい男でも慣れているんだなと変に安心した。
部屋に入り腰掛けた瞬間、私はどんな顔をしていればいいのかわからなくなって、一気に緊張した。もしかしたら本当に高校について教えてくれるだけかもしれないけれど、黙ってテレビを眺める男の様子からはその気配を感じられない。
男が突然、「俺、宮崎あおいが好きなんだよね」と呟いた。テレビを見ると、宮崎あおいが何かの新商品をとびっきりの笑顔で宣伝している。そして、「シャワー浴びてくる」と言って風呂場へ消えていった。
その時、なぜかわからないけど落ち込んだ。この感情は、同級生の男の子に告白をした時、「今は勉強に集中したいから」と言ってフラれた悲しみに似ている。だけど、それとは全く違う。なぜかわからないけど、泣きそうになった。
タバコの匂いとシャンプーの香りが入り混じる部屋で、私はシャワーの音が止むのを待った。そして、揺れる長い髪と、かすめるラブホテルの天井を、私はぼんやりと見つめていた。
別れ際、男の顔が聖徳太子に似ていることに気付いた。参考書でよく見た顔だからか、それとも肌を重ねた相手だからか、この時になってようやく男に親近感が湧く。しかし男は名残惜しむことなく、私の「ありがとうございました」をかき消すように「じゃあ」と言って、改札を抜けていった。
私は、股が痛くて歩きづらいことや血は意外と出ないという、ありきたりな初体験の事後を実感したけれど、この心と体にしっくりくる初体験の感想は見つからず、モヤモヤした。
それからしばらくして、いよいよ志望校が決まった頃、私はまだ何かに焦りながら音楽番組をよく観ていた。誰かの曲の歌詞や声、MVの演出といった美しいものに、あれからずっと見つからなかった初体験の感想を当てはめて、早く落ち着きたかったのかもしれない。
そして私は、「粉雪」を歌うレミオロメンのボーカルを見て「聖徳太子に似ているな」という感想を抱いた時、ようやく落ち着いた。求めていた美しいものではない、その味気ない感想が、初体験の感想としてしっくりくるものだったのだ。
揺れる長い髪やかすめた天井、宮崎あおいや最後になぜか聖徳太子に似ていることに気付いて沸いた親近感、「何がありがとうございますだったんだろう」と考えながら歩いた帰り道、全てが無色だったことに気付いたのだ。
聖徳太子に似ているような気がするレミオロメンのボーカルが、私の初体験を彩る色はなかったことを知らせるように、心と体の深いところで鳴り響いただけなのだ。
天井をぼんやりと見つめている間に、音楽番組は10年代のヒットソングメドレーを流していた。初体験を白く染められたなら、この天井よりももっと高いところに返せるのになあ、などと考えている間に。
これを書いているのはナイナイのオールナイトニッポンから15年ほど聞いているラジオリスナー。非モテ、30半ばの男性。
岡村さんの例の風俗発言を聞いたときは「あっこれはちょっとヤバイかも?」と炎上の気配をうっすら感じるくらいで、こんな大事になるとは思わなかった程度のモラル。
今週の岡村隆史のオールナイトニッポンで矢部さんの公開説教を聞くと非モテ高齢男性として死にたくなる気持ちは痛いほど分かる。
「結婚したら?」は結婚できない俺にもかなり刺さったし、今回の公開説教を恋愛エリートが非モテを追い詰める公開処刑だと感じて傷つく気持ちもよく分かる。
でも、これはやっぱりナインティナイン矢部浩之が30年以上一緒にやって来た岡村隆史に向かって言った説教だから、無関係なリスナーが「俺も傷ついた」と騒ぐ話じゃないんだとは感じる。
ここで、矢部さんが5年半ぶりにオールナイトニッポンに出てきた事の背景を整理したい。
5年半前、矢部さんが突然(リスナーとしては本当に突然だった)オールナイトニッポンを『卒業』した時、
その理由が「やりきった。燃え尽きた」というぼんやりしたもので、当時も不自然というか、『何か事情がありそうだけど穏便に済ませた』みたいな不穏な空気が確かにあった。
岡村さんが体調を崩して長期間休んでる間、矢部さんはゲストを呼びつつどうにか岡村さんが帰ってくるまで保たせている感じだった。
今週、矢部さん自身が「自分は面白いとは思ってない」と言っていた通り、
当時のラジオのリスナーとしてもやっぱり「岡村隆史の面白さ」を求めている部分が大きくて、岡村さん早く戻ってこないかなっていう空気があった。
想像になってしまうが、矢部さんは岡村さんが休んでいる間、「自分は面白くない」と自覚していて、求められているのは自分じゃないと理解した上で番組を支え続けていたのかもしれない。
そうやって守ってきたラジオも、岡村さんの「全てを笑いに」の一言で済まされてしまったのだとしたら、「ありがとう」も「ごめんなさい」もなく一行のメールで済まされたら心が折れても当然だ。
そこからさらに続けるのはさすがに無理だと思う。妙に納得してしまった。
(実際には復帰後半年くらい続いたはずだけど)
そんな経緯があって、それから5年半の間、矢部さんは一度もオールナイトニッポンに出ることはなかった。
おそらく、矢部さんはもうオールナイトニッポンに出ることはないと思っていたはずで、岡村さんもコンビとしての距離感から、もう自分の庭であるラジオに出てほしいとは思っていなかっただろう。
だから今週の矢部さん出演は、懐かしいか嬉しいという気持ちはなくて(むしろ嫌で)、相手に喜ばれるとも思っておらず、
本当に緊急事態だからこそやって来て、それで実現したのが今週の公開説教だった。
※ちなみに、ナイナイのオールナイトニッポン最終回で矢部さんが「何かあったらいつでもかけつける」と言っていて、
5年半も経って、その約束が果たされたことにちょっと感動はする。
矢部さんの説教のとくに後半、「結婚したら性格変わる」みたいな主張が強くて、そこには正直賛成出来ないけれど(結婚相手の都合は気にしないのかとか)、
自分の人生で経験したなかで一番自信を持ってできるアドバイスが
だったのなら、それはあの二人の中で話し合う正解の一つとしてはアリなんだと思う。
自分も含め、非モテの男性が岡村さんに自分を重ねて、ずっと非モテキャラのままでいて欲しいって思うのは依存だ。
岡村さん自身、結婚したくない訳じゃないんだから、結婚できるならしたほうがいい。
矢部さんが色々な事情を越えて、長い長い付き合いの友達(元友達)に、幸せになると信じている方向に背中を押したってだけ。
もう外野がとやかく言える話じゃない。
ネタはがきのコーナーで、何度も繰り返し謝る岡村さんと、その度に「かまへん」と返す矢部さんのくだりで泣きそうになった。
いい関係だなぁと思う。
実際のコンビ仲はもう友達とは言えないくらい距離が開いてしまってると聞くし、
お互いプライベートに干渉もしないんだろうが、それでもコンビとして自分にも迷惑がかかる立場でこんな事を言ってくれる友達がいるのは羨ましい。
自分には「本当にごめんな」に「かまへん」を繰り返しくれる友達はいないので「成功したうえに良い友だちもいるのかよ」という嫉妬もある。
ところで、オードリーのANNと岡村隆史のANNの両方を聞いてる人には共感してもらえると思うんだけど、
非モテが「自分もこのままでいいんだ」と安心出来る依存先としてオードリーの若林が岡村さんにかなり近い位置にいた。
『そういう仲間意識みたいなモノを持たれても、自分は最初からそういうタイプじゃないし、そんなつもりもなかった』というような事を言っていて、
依存してくる奴らをバッサリ斬って捨てた。
私には大好きな彼氏がいる。今は電車で2,3時間の距離に離れて住んでいるけれど、かれこれ5年以上付き合っていて本当に大切な人だし、仮に結婚するとしたらこの人しかいないと思っている。
私自身、セックスは好きだ。本当にクソだとわかっているが、大切な彼氏がいながらにして何人もの男性とセックスをした。性欲は人並みかそれ以上にあるのだと思う。セフレと呼べる関係の人も複数人いる。そのセフレたちは性的に唆られるが、付き合いたいとも結婚したいとも思わない。嫌いではないが、断じて好きではない。
彼氏と月1程度会うとき、さあセックスをやるぞ〜という状況になるが、びっくりするほど濡れず、セックスが困難なまでだ。彼氏はきっと毎回悲しいし、私も「どうして濡れないんだろう」と不甲斐ない気持ちになる。彼氏のことは間違いなく大好きなのに、どうにも性的に唆られない。
セクシュアリティについて調べてみたら、人を好きになるポイントと性的指向はまた別のものだよと書かれていた。自分はまさにそれなのかもしれないなあとぼんやり思ったけれど、だからと言って道を踏み外していい理由にはならないよなとも思った。
もう絶対彼氏以外とセックスしないようにしようと思ったこともあったけど、性的に唆られる男性から誘われたら、倫理観がよく分からなくなってヤッてしまうのだった。性的に唆られる相手に好きという気持ちは全く湧かないから、これは浮気じゃないとすら思った。気持ちは彼氏一筋で、全く浮ついていない。正直なところ、罪悪感も薄かった。
でも、このことについて絶対にバレてはいけないということは分かっている。セフレは自分のコミュニティに全く属さない縁遠い人を選んでいるし、連絡の履歴は逐一消している。この秘密は墓場まで持っていくつもりだ。
今の彼氏とは5年以上も付き合っているし、プロポーズされることだってあるかもしれない。もしそんなことがあったら、どうしたらいいかわからない。結婚して一緒に住むことになったら、当たり前だがセフレとのセックスも諦めることになる。これについてはもう覚悟しているし、そもそも不倫する度胸はないし、彼氏との濡れないセックスを甘んじて受け入れるつもりだ。
世の中の夫婦がセックスばかりしてるとは思っていないけど、性的に全く唆られない相手と結婚するというのはどうなのだろうか。
もちろん、年齢を重ねるにつれセックスの頻度が減るとか、家族の情に変わっていくとか、そういうのは分かるのだが、最初から唆られないとわかっていながら結婚するのは不誠実なのだろうか。
そもそも、こんな軽々しく彼氏以外とセックスする人間が結婚について考えること自体、腐れ外道だとも思う。
セックスはしたい、しかしそれは彼氏ではない。風俗はセーフみたいな風潮があるが、それはセフレならどうなのだろうか。風俗と同じように絶対に情は移らないのに、それでもダメなのだろうか。
休日になるとどこかへ行きたがりの外出大好きな旦那が最近コロナの外出自粛でしょんぼりしていたところ、豆苗を育て始めたらちょっと元気になった。
別にこれといった意図はなく、可食部?を切った後の豆苗の根本を水につけておくと2・3回は育つと聞いたので前々からやってみたいな~と思っていて、スーパーで豆苗買ってやってたら意外と興味深々だった。
「けち臭い」とか言われるのかと思っていたので以外だった。
日々やることと言ったら1日に1回or2回の水替えくらい。
早々に豆苗に対して私のやることがなくなった。
たまにぼんやり眺めては「やっぱりネットで調べた通り、4日目くらいからの成長が早い!」なんてうれしそうに報告してくる。(調べてたんだ....笑)
あとは家の中で日当たりのいいところを見つけては午前中と午後で置き場所を変えているので、いつの間にか豆苗が移動している。
ついに午後は日当たりがいいことを発見したのか、さっきうきうきしながら仕事部屋の窓辺に持っていった。
一生懸命生きている生き物は人に元気を与えてくれるのかな。
嫁も早く食べれるのを楽しみにしています。
途中、朝ご飯を買いにコンビニエンスストアに立ち寄る
店の奥から男性店員が出てくる、名札にはアジア系の名前中国人か韓国人か
瞬間失敗したと思った
彼がグシュグシュト鼻水をすすり、ゲホゲホと咳を繰り返していたから
このご時世に、その状態でレジを打つ等到底信じられる神経ではない
店の中の商品は、店の中の空気は大丈夫なのか、コロナに感染しはしないか
そんなことを考えている間にも彼は私の朝食を手に取り、ビニールに入れ、レジをたたく
せめて金銭のやり取りは避けようと電子マネーで支払いを済ませ、レシートの受け取りを拒否し店を出た
帰り道にぼんやりと彼の事を考える
若干の腹立たしさが過ぎ去った後に残ったのは「彼が何故あの体調で働かなければならかったのか」という疑問とも呼べないような疑問
答えは明白だ、彼はあそこで働かなければ生活費を稼げないからだ、生きていけないからだ
日本という国が労働力の多くを外国人に頼るようになってからもうどれくらいがたったのだろうか
「頼る」などと言えば聞こえはいいが、実際には日本人がやりたくない大変な労働を外国人に安い賃金で押し付けているだけ
コロナでもインフルエンザでも休むことができない彼ら、休むことを許さないコンビニエンス業界
いや、日本という国そのものが自分たちの代わりに彼らに死ぬまで働けと要求している
彼にしても見も知らぬ日本人が何人コロナになったって知ったことではないし、店だって同じだろう
それがコンビニエンスストアという仕事なのだ
とりとめもなくそんなことを考えているうちに自宅についた
キッチンにコンビニの袋を置いてハンドソープで手を洗いうがいをする、コンビニの袋を捨て、サラダとおにぎりをパックから皿に移し、パックを捨てる、その後もう一度ハンドソープで手を洗う
気休めの自衛をして朝食を済ませる
あとしばらくすれば私は仕事に出かける
私が仕事に出なければ何千、何万という人に迷惑をかけてしまうから
彼が働かなければならなかったように、私もまた働かなければならない
体温計で熱を測る
36.8℃
平熱
仮にさっきの彼からコロナをうつされていても体温計が示す数字は変わらないだろう
所詮はこれも気休めだ
コロナはきっとまだまだ終わらない
いつ死んでもよいなとは思っていたが、
もともと死にたがりではあるけれど、人に迷惑をかけてまで死にたいかといえば、そうじゃないなって。
必死にコロナにかからないように対策してる自分に気づいて、かかって死ねたら本望なんじゃない?って今日思ったんだ。
そのせいでかかる人がでてくるのはいやだし、死んでは欲しくないよなって。
コロナは「死ぬかもしれない」じゃなくて「殺すかもしれない」って思ってる。
人は殺したくないので、家に引きこもってる。
死にたくないわけじゃない、むしろ死んでしまいたいと思いながら。
ただ、この先3カ月後には給料が無さそうだから、きっと死に方をまた探してるんだろうな自分。
ぼんやりしていたら、