極論だが、人間の本体は、無意識にあって、それを感知するのも、方向性を与えるのも、意思だ。
自分の無意識をどのような方向に持っていくか、何を願うのかっていうの、宗教が誕生してからも、変化が無い。
2000年、変化してないこと。
それは、人間の身体の仕組みと同じように心の仕組みに根ざしているところのものだ。
意思次第で、幾らでも無意識を替えることが出来る。能力には、もちろん限界があるんだが。
人間は、宗教やグループと言った他者力を使って自分自身を洗脳することさえある。
どう知覚して、何を自分に言い聞かせるか。
騙されたと気がついて、怨みきっていたが、心身の不調があった。
座禅会などに参加しても、メンタル的に安定しない面が、まだあった。自宅でも数息観などをする。
しかし、自分は、いわゆる魔境に入っていたらしい。過去の怨み、悲しみが湧いてきて瞑想がうまくいかない。
瞑想をすれば、救われるのではなかったのか?もう一度、自分のやってきたことを振り返った。
本の中で、熱心に説かれているが、自分が取り入れていないことがあった。
それは、自分の幸せを祈ることだった。そして他者の幸せを祈ることだった。
良く有る成功法などで、目標を紙に書き留めて、寝る前に念じるのが良いというメソッドと同じだ。
意識レベルから無意識へのメッセージをメンタルに良いものにするのだ。
ただし、強すぎる欲は煩悩になるので、ぼんやりと幸せを祈る。エゴが大きくならない程度に。
色々やったけど、ようやく、長いトンネルを抜け出せそう。