イマジナリーフレンド増田は、短いポジティブな詩を投稿し、その後6時間以内に削除する増田のこと(だった)。
個人的にしばらく投稿を記録していたが、文章の傾向がここ1ヶ月で変化しており、別人になっている可能性を疑っている。
と、物を擬人化するものがほとんどであった。(イマジナリーフレンド増田という名の由来。)
それ以前も存在していたが残念ながら記録していない。
なお、この時期の「なぜか心も」という構文は数例のみである。
変化について:
3月7日から現在の「〇〇すると、なぜか心も〇〇します」という構文に固定されている。
再投稿を指摘されていることもあった。
また、リンクも埋め込まれていることに今日気づいた。リンク先はよくわからないフォーラムのスパム投稿。
(トラバが見づらいという指摘があったため、過去番付へのリンクは廃止しました。そちらが見たい奇特な方はカテゴリから適当に辿ってください。あと十両以下はあまり変わらないので今回も割愛とします)
昭和時代やイオン、女装子などの例外を除き、森羅万象を罵倒して回る増田。自身の経歴からか、特に法や行政、裁判所を目の敵にしている。
何度も削除を食らっては毎回戻ってきており、かつての安倍botや低能先生に劣らぬ危険人物。
自分語りによれば、殺害予告による二度の逮捕歴に加え、今なお各所でトラブルを起こしているらしい。
文頭をスペースで空けるため、「字下げ増田」と呼ばれる(ごく稀に空けないこともある)。別名フミさん、まーさん他。
ナニがきっかけでそうなったか知らないが、男叩きや特定個人の誹謗中傷を目的としたTogetterのまとめを複垢で作りまくっては、それを増田やはてブで拡散しようと企む某ツイフェミ。男叩きのためならいつもちゃんねるとかいう誰も知らない掲示板にまで粘着する執念深さ。
すでにTwitter・Togetter・はてブで凍結や垢BAN、404化を経験しているにも関わらず、すぐ別垢で戻ってくる札付きの悪質ユーザーである。ただ「Twitter」「Togetterのコメント」「ブコメ」「トラバ」
のそれぞれで文章を使い回す上、噛みつく人物もネタも同じ(共同親権・ヴィーガン・絵本作家「のぶみ」・龍神・はるくもなど。最近では案の定、暇空に粘着している)。
はてブでも複垢を悪用し、404化を食らった前科持ち。こいつの関与が疑われるはてブidが前回からさらに増えており、「idが違うのになぜか文面が全く同じ使い回し」のブコメまで存在する。
なお、これらidと同名のツイ垢が存在し、「彼らに依頼してブコメをコピペ投稿してもらっている」説が浮上している。一部は凍結されたり別垢で復活したり提訴されたりしているようだが、中の人が同一かどうかはあくまで不明。
🐸
左翼・フェミ叩きに対して憎悪を燃やす超ベテラン増田。ネームド増田の中ではおそらく最古参。
「711」「R30のところにコピペしないの?」「いつもの地ならし」「○時まで寝ていたんだ」「見つかりそうか」「ということにしたいのですね」「おばさんはいいんだよ」「女子大生の設定では」「プロパンガスの専門家でしたっけ」などと、意味不明なクソリプを飛ばしてばかりいる。
また「プライベートで○ブクマwww」「自演ツリー」などと、むやみやたらにセルクマや自作自演を疑うのも特徴。
「自分の気に食わない奴は全員同一・特定の人物」という思い込みが非常に激しく、最近では無関係な他の増田をしきりに「番付作成者」呼ばわりしているが、
「女性は下方婚しない」を筆頭に様々な持ちネタを操る反フェミ系増田。
こちらもハッタショ増田同様、発達障害・セクマイ気取り系の増田をターゲットとしたクソリプ増田。
過去に投稿した長文トラバから、大量のリンクを貼ってくる過去からの追跡者。
以前はコロナに関する話題でも同様のトラバを繰り返しており、どうやら医療や教育に相当コンプレックスを抱えている様子。
わかりましたね?
名前の通りの増田。他の横綱大関クラスに比べ出現頻度は低いものの、一度出てくると定型コピペ連投と自演トラバを繰り返し、非常にしつこい。
はてブで同様の主張を繰り返す特定のid、Togetterで似たようなコピペをまとめているれいわ信者のフェミ垢があり、いずれも同一人物の可能性が高い。
パンティー
突然現れては規約違反を厭わずブクマカや増田をグッサリ刺してくる、通り魔のような増田。
投稿頻度が不定期に増えたり減ったりしているが、例のテンプレと文体を使っていないだけで、普通に潜伏している可能性もある。
noteにも進出しており、先月には某増田への返信がXをも巻き込み大いにバズった。
ただバズったのはあくまでnoteの記事であり、普通に増田にトラバしてブクマを稼いだだけで、果たしてここまで外部に広まったかどうかは謎。
おーぷん2chやまとめサイトから、おそらく他人の投稿を勝手に転載している増田。
元の文章から微妙に改変されていることもあるが、そもそも文体がいかにも昔の2chといった感じなので、あまり意味がない。
さらに最近では「釣り増田と同内容のスレが数分差で嫌儲に立つ」という逆パターンの転載も多い。こちらについては「バナナアイコン」なる人物の関与が噂されている。
無駄に長い語りに過剰な自意識を挟んだクソエモ長文増田。ひとつバズると便乗して同じような長文が次から次へと湧いてくる、まさにゴキブリのような存在。
他の増田にいらすとやへのリンクを貼る増田。URLだけ貼ると反映されない仕様のためか、「(^^)」という顔文字も添えられている。
レスバトルになると乱入し、漫画「タフ」の語録を投下していく増田。
以前は「コモンビート」という、ピースボートかそこら系のNPOのサイトを宣伝することもあったが、これが規約に引っかかったのか、投稿が全て消えたことがある。
増田に生息する定型トラバの一種。他に「礼には及ばんでござる」「という話」「マジかよサバカレー最低だな」「うるせぇ小便小僧」など。
再投稿ネタを指摘する増田。複数人おり、微妙に仕事ぶりが異なる。
ただご存じの通りブクマカはトラバも本文も読まない上、過去の再放送ネタにも平気で釣られて伸ばすダボハゼなので、あまり意味がない。
また、彼らに対して「再投稿は正当な権利」と訴える増田や、彼らをおちょくるためにわざと再投稿を繰り返す増田、
既存の単語を微妙に並べ替えした変な検索をしている増田。検索の件数らしき数字もあるが、どこでどういう検索をしているのか不明。
こちらもブクマのついた増田に対し、タイトルを適当に並べ替えたクソトラバを残していく増田。正直荒らしやスパムと区別がつかない。
以前は「性欲強太郎」を自称しており、その名残で語尾がハム太郎のパロになっている。
名前の割にタフ語録は使わない。
現在劇場公開中のガンダムSEEDFREEDOMを当時土6にテレビに張り付いていた人達にこそ見て欲しい。
何故なら心が若返るからだ。
不満な点はいっぱいあるし、ストーリーも他の人が言うほど最高!とは思っていない。
カガリの声優交代やキャラデザに対する不満の声を聞き「見終わった後、こんなのだったら映画なんて作ってくれない方が良かったと思ったらどうしよう……」と楽しみよりも不安を抱え劇場に行った。
そして上映中はただただひたすらに懐かしかった。
そして思い出した。
制服を着ていたあの頃を……
学校の廊下でキラ派の私とシン派の友人でケンカしてたあの頃を……
リアタイ視聴後に二つ折り携帯でメールの文字数が足りず二通三通と分割して長文メールを送りあっていたあの頃を……
ガンダムシリーズは再放送も多いし、DVDもある。今時サブスク配信でいくらでも見れる。
だけどそれらの方法で過去作を視聴した時には得られなかった何かが劇場にはあった。
消えこそしていないが、酷く弱々しく、今にも儚く消えてしまいそうだった「ガンダムSEEDが好き」という心の火に薪をくべられた。
挑戦的な作品を作っていたのはせいぜいポケモンスナップ(1999年)とポケモンGO(2016)ぐらいですよね。
カービィボウルの焼き直しをしたり、不思議のダンジョンをやったり、ポケモンレンジャーなるアクションRPGを作ったりと色々やってはいましたが、どれも「1+1=2」にすら出来ずに終わっていたような印象があります。
数少ない成功例であるポケモンGOはIngressの無味淡白なゲーム性(ハマる人にすれば「三体」の如くシンプルながら奥が深いクソゲーだったらしいですが)を一新することに成功し「1+1=100」とも言える驚きの進歩を実現しました。
ポケモンという圧倒的なパワーのあるIPを保有していれば、こういった実験を毎年3回ぐらいする余力はあったはずなんですよ。
でもやらなかった。
それどころか、ポケモンアルセウスのような形のゲームデザインに到達するのにさえ20年以上の歳月を費やし、ポケモンスリープは発表からリリースするだけでとんでもなく待たせた上で「これただダルいだけじゃね?」で終わっております。
おっかなびっくり安全運転な割にはいまいち打率が高くないなんとも頼りないコンテンツ管理者と言わざるを得ません。
間違いなくあったのです!
でもそれを使いこなせないままダラダラと権利だけを握り続けてきた!
これは大きな問題ですよ。
独占しているくせに有効活用できていないというのは、文化の発展に対して責任を果たしていないも同然だ。
だらだらとリメイクばかり繰り返すから保守的になって成長が止まり、そのリメイクさえ失敗のそしりを受けるような開発力へと成り下がるのです!
初代ポケモンは間違いなくFoolishでした。
そこが素晴らしかった。
なぜその心を忘れたのですか?
増田を書くとき、大抵「なぜこの文章がこの世に存在する運びになったか」という言い訳から書き始める。
今回もやはり例に漏れない。アノニマスでのダイアリーでご丁寧に言い訳。難儀な性格だと我ながら思う。
うつとは付き合い始めてもう五年近くになるが、未だに自分のうつについては何も分からないままでいる。
私の場合は、気候に加えて何種類かの不安や悲しみが同時期に積み重なり、トリガーとなるパターンが多い。
不安や悲しみは自らの努力で解消可能なものから、不可能なものまでさまざまだ。
今回もそうだし、五年前もそうだった。
うつについては、それ以外理解できていることはない。ないのだが、最近うつに関して感じたことを書き留めておこうと思い、増田を書くことにした。
未来の自分の道標になるかもしれないし、ならないかもしれない。これは、私のための文章だ。
盛りに盛って自己肯定感は低下の一途を辿り、何を言っても、何を考えても面白みに欠ける。独創性もない。何か行動を起こそうにも、冷えて硬くなった脳が軽やかな動きを阻害する。
そうして、「自分はつまらない人間である」という意識から自己肯定感が更に低下する。典型的なうつによる負のスパイラルに陥っている。
おまけに寒い。毎日毎日、体の芯から凍りつくような寒さに文字通り震えている。都心で大雪など降るなアホたれ。
うつ症状が軽い時期は、アイデアがするすると湧き出てくるものだ。
例えるなら柔軟性のある、水をたっぷり含んだスポンジに近い。脳に少しの力を加えてやれば、まとまりのある言葉が簡単にアウトプットされる。情報もサッと染み込み、インプットも楽勝だ。
出てきた言葉やアイデアには、自信が持てる。整然とした美しさや、鮮やかさに自信が持てる。
力が要らず、アウトプットに不満もない。健康的な思考の活動だ。
対して、うつ症状が重い時期の脳は、「凝り固まっている」という表現が適切に思える。
アイデアや言葉は頭の中に堆積しているが、脳がガチガチに硬い。硬い脳を叩こうが押そうが、うんともすんとも言わない。
目から入ってくる絵や文字の情報もろくに整理できず、ドロドロとしていて頭の芯まで染み込まない。
うんと力を込めて、ようやく絞り出された雀の涙ほどのアウトプットは、濁っていて美しくない。
強い力を要し、アウトプットに全く満足できない。これ程不健康で悲しいことはない。
だが、私はこうして文字を書けている。
そして重要なのは、今書いている文章に別段美しさも、鮮やかさも感じないのだが、なぜか心が安らいでいる。
この現象に気がついたのは、ここ数日のことだ。
冒頭からつらつらと書き続けて分かったが、やはり私は難儀な性格だ。
匿名で書く日記ですら書く言い訳が必要だと思っているし、「面白みに欠ける」ことが嫌いだ。たぶん発言に「独創性」も欲しいのだろう。
なぜこのような性格なのか。おそらくそれは私の言葉やアイデアが、基本的に「自分とセットで社会から評価されるもの」という前提にあるからだろう。
仕事でも、趣味で文章を書くときでも、限られた友人同士でしかやり取りしないSNSでも、「自分と、自分の発言がどう見られているか」で常に頭がいっぱいだ。そういうシーンでは自分と、自分が発信する表現は地続きのものなのだ。
別に私が面白くなくても、独創性がなくても、美しくなくても、実は誰も怒ったり責めたりはしないのだが……そのような自分の醜態を、おそらく私自身が一番許していないのだろう。
だからこそ、この苦しみはなかなか解けにくいのだ。
だが、気がついた。
「自分とセットで社会から評価されるもの」ではない文章は、脳からアウトプットするのがあまり苦ではない。例えば、この増田のような文章だ。
匿名で宙に放り投げる文章は、社会で活動している自分からはぷっつりと切り離された存在だ。しがらみや他人の目に囚われない文章をアウトプットする行為は自由で、とても快適だ。
私の場合は、おそらくこの思考の活動がリハビリになるのではないか、と感じている。
この活動を起点として、自分が「面白みに欠ける」ことや、自分のアウトプットに「独創性」がないことを許す。
自分の発言やアイデアは、本来もっと自由で快適だったことを、体と頭に思い出させる。そうすれば、次第に脳は元の柔軟なスポンジに戻るだろう。
希望的観測を含むうつ真っ盛りの時期の所感だ。少し楽観的すぎたか。
しかし、言葉が自由で快適なことを思い出すリハビリなのだから、能天気なくらいでちょうどいいはずだ。楽観的に表現できる、ということが重要にも思える。
立方体で構成されたレトロなグラフィックの、しかしどこまでも広がる広大なフィールド。ログインすると他のプレイヤーたちが作り上げた街があって、道は石で舗装され、各自の土地に自宅が、中心地にはでかい城が建っていた。
街から出ると広大な小麦畑。知識のなかった自分はダッシュジャンプで畑を荒らしながらひたすら走り、湧き潰し用の松明を勝手に拝借して人の手の入っていない土地を目指した。森を抜け、砂漠を抜け、誰かが乗り捨てたボートで海を渡った。
一際高い山があったので登ると、カルデラ湖のような地形が形成されていた。しかし雨が降り出して、もう真夜中で、空腹だしゾンビに追われてどうにもならない。地面に穴を掘ってシェルターにして夜を明かした。
暗い土の中から這い出すと、目の前にはカルデラ湖とその中心に浮かぶ小島。空がオレンジからスカイブルーにじんわりと変わっていく。やけに感傷的なBGMが鳴り出す。
心底、美しいと思った。
美麗グラフィックでもなんでもないカクカクの風景がなぜこんなにも心を打つのか不思議だった。俺はその場所に居を構えることにした。岩の壁を掘り、丸石で崖に埋まった豆腐ハウスを作った。
wikiを参考にしながらインフラを整え、ブランチマイニングを覚えてダイヤモンドを探し、他のプレイヤーが作ったゲートでネザーに迷い込んで全ロスした。
生きてるって感じがした。
俺にとっての「マイクラ」はこれなんだよな。
これをもう一回やりたい。
その後バージョンが上がるに従って馬が出てきたり木材の種類が増えたり、RS回路も複雑になっていろいろ自動化もできるようになって、モブも増えてマイクラの世界はどんどんにぎやかになっている。
最初は発表の度ワクワクしていたアップデートだったが、そのうちについていけなくなってマイクラ自体をあまり起動しなくなってしまった。加齢のせいか、飽きてしまったのか。
毎日お茶シバいてるだけなのに平沢唯という天才がミュージシャンやって軽音最高っていうアニメ
日常系アニメはもともと大好きだったのだが、あれだけ、けいおんだけは今でも苦手意識がある。
苦手だったので原作は読んでいない、ので原作版の事は言及しない。
あの作品だけはなぜか心の奥底の黒い部分がわきでてくる。だって、練習してないのに、バンドで出てくる曲がめちゃくちゃいい曲なんだ。
いったいいつ作った?どこで練習した?わからない。やっぱり天才だから?
自分と彼女たちの才能の差をまざまざと見せつけられるようで、見ていてとても辛かった。
あれから何年たったのだろう。
私は今でも何の才能もないただの凡人で、彼女たちのような天才にはなれなくて。
このままひとり死んでいくのだろう。私が私なりに「頑張った」と思ったものも、彼女たちのあのキラキラした音楽に全然かなわない。
それがとてもつらい。
で、たぶん、「やわらかい印象にしたい」みたいな意図でそれはやられてるんですわ
いきもののはなしをしたり、やさしい人のはなしをしたりするときに、形容詞なんかをひらいて、特に「やわらかい」「あたたかい」「うつくしい」あたりを多用するんだよな
率直にいって死ね!と思う
気持ち悪すぎんだよ
ひだまりの様に穏やかな雰囲気、みたいなのは、こっちが勝手に感じるもんなんだよ
てめーがバカみてえにバンバカ漢字をひらいても、ただ「ウワ、こいつやわらかい雰囲気を出そうとしてるぞ…!」とおもうだけ
表層的にすぎる
漢字の多い、かたい文章なのに、なぜか心があたたまる 目指すならそういう境地を目指してほしい
安直にひらがなを多用しただけで何かを得られると思わないでほしい
というか、死んで欲しい
筆を折り、二度と何も書かないで欲しい
低温調理豚肉のやわらかさはノーマルとんかつの3倍ともいわれている。
豚肉ってレアで提供していいのか?ってほどのやわらかさがセガサターン(脳天直撃)。
噛みしめるたびにあふれる良質な脂による脳内麻薬のドバドバを感じながらも、
この新概念(とんかつ)が、脳の中のとんかつ領域を侵食したようだ。
昔、母がパートから帰ってくると、戸締まりをする音と一緒にシャリシャリとビニールが擦れる音が聞こえる時がまれにあった。
揚げ油の匂いがリビングまで届いてくると、夕食の時間が待ち遠しくなっていたものだ。
当時は思いもしなかったが、振り返ってみればとんかつは思い出の食べ物だった。
低温調理とんかつを経て、自分の中でのとんかつはひとつではなくなってしまった。
この世の中には2つの考え方があって
ってのと
ってやつ。
どっちの考え方が間違いというわけでも無いけど、基本的に2番の考え方がよくて
これが直感的にわからない人は一生苦しんで生きることになる(かもね)
もし生きるに値しない、意味のない人生だったら、そいつは早晩死ぬことになる
死ぬことはまぁ不幸だよ。ここでイチャモンつけてくるやつには話していない。
本来この世界には生きる目的なんてのは無いから。そんなことはない!っていうやつは物語とか虚構に毒されている夢見がちの脳みそお花畑なんだろう。まぁ気持ちはわかるお前の人生は意味がないって言われて気分のいいやつはいない
でもここで言いたいのは俺は人生自体に意味があるんだとしたら、生きる目的なんてのはあろうがなかろうが、人生を歩んでいる限り何かしら有意義であり続けられるということを言いたい。
これは考え方の話です。事実かどうかはどうでもいい。
なぜなら心の問題だからです。物理的には人間が生命活動しているだけなので、目的を持って有意義に生きている人間と、ぶらぶら生きている人間の間に、なんの違いもありません。
絵を書いているから、歌を歌っているから、株取引で利益出したから、意味があるって思ってるかもしれんけど、それ人間社会の中の人間のココロの動きなだけだからな。
宇宙的な物理的な観点で見たら、アリが蟻塚作ったりビーバーがダム作ったり、産後がサンゴ礁作るのと一緒で、意味がどうとか言うより、ただそれがそこに人間によって作り出されたというだけの減少でしか無いわけ。
その人間の御業に感動し意味づけをするのは人間の心です。なので人間の心のない人にとっては、歌も漫画も、ドラマも映画も、なんにも響かないし、無意味です。
さて人間はなにか意味のある活動をしているのでしょうか。意味はある。確かにある。でもそれは人間の心の動きの中で、意味の概念とか創作の価値とか人生の価値とか、そういった概念とかがある思考の中で定義づけされている、一種の虚構であります。
なので、意味のあるなし、というのは、乱暴に言えば心の持ちようなのです。
意味のある人生ではない。という悲しい苦しみがあります。ありがちます。
これは人生に意味がある、必要である、という雑い一般常識に毒されている残念な思考に囚われているために起こる、錯視的な苦しみです。
意味ってのは人間が主観的に見て、色付けしていく心の動きなので、無意味、というふうに心が思想が、思考が判定してしまったら、どんな崇高な偉業も無意味になります。
月に行ったからなんだって言うんだ。それってなんの意味があるの?
橋を作って通行時間が短縮したってなんの意味があるの?そんなに急いで物資や人間を流通させる意味あるの?
意味があるかどうかは、人の考え方や思考で決定されます。乱暴に言えば意味があるかどうかは心のありようです。
ここまで書いたら「意味のある人生を送る」ことがどれだけ脆弱で危険な思想なのかと言うことに気がつくかもしれません。
「意味」はこころの持ちようでかんたんに崩れるものです。そういった脆弱な概念に自分の生死を左右する「人生」を乗せることは、バカのする選択です。
バカのする選択なんだけど、割と「意味のある人生」とか「意義のある人生」みたいな概念ってさも常識であるかのように世間一般にまかり通ってる気がするんですよね。そうでもない?そうだと思います。
不幸な人間の多くは割とこの考え方が根本にあって、社会的に認められないのなら生きている意味ないとか、
人付き合いが下手だったら生きている意味ないとか、頭悪いから生きている意味ないとか、
不要な人生を送っているという、妄想に近い苦しみに苦しんでいるんじゃないでしょうか。
ここで最初に言っていた「人生とは生きるに値する意味のあるもの」っていう考え方が、効率的で無駄に苦しみを生み出さない考え方になると思うんだよね。
人生自体には生きるに値する意味があるなら、人生が続く限り人生は生きるに値する価値あるものになるわけ。
トートロジーだし、こじつけっぽいけど、本来人生に意味があろうがなかろうがどっちでもいいというか、人生自体は基本的に無意味で、なんで私達が生きているの買っていのは、単純に私達が産み落とされただけだし、その後の人生をどのように送ろうが死のうが、それ自体にも意味なんてものは無いわけですよ。
もし、無人島でひとりでに生まれて、最後まで自分以外の人間に遭遇することなく死んだ人が居たとしたら、その人の人生の意味ってのは、その人自身しか観測者が居ないので、その人が決めた心のありようだけですべて決定されるわけです。
この人が最高の人生だと思って居たのなら、最高の人生だし、最低の人生だと思っていたら最低の人生なわけです。
でもこの人の人生無意味。って言うふうに見える人がいるだろ!みたいな反論が聞こえてきました(幻聴)
見えますか?見えるでしょうね。それはあなたの心がそういうふうに見ているだけで、その人の人生の意味があるかどうかとは、全然関係ないからです。
他人が見て人生に意味があるかどうか判定することは不可能です。人生の意味というのは人間の心の持ちようでいくらでも変化します。これはその人生、その人自身の心の持ちようだけではなく、周囲の他人の心の持ちようにも現れます。
あなたから見てゴミみたいな人生を送っている人がいることと、その人がゴミみたいな人生を送っているかどうかは、全然関係ありません。
人生の意味は他人が決めつけたり、決定したりすることはできません。なぜなら心の問題だからです。
これは自分の人生が無意味だと思いこんでる人にも当てはまることで、周りから普通の人生に見えていても、本人が無意味で絶望的な人生を送っている(と考えている)限り、その人にとっては紛れもなく無意味で絶望的な人生は主観的に確実に事実として認識されます。
が、猫と別れる選択肢は無い。すくなくとも個人的には絶対それはやめた方がいいと思う。
おれは一年と少し前、19年一緒にいた猫を亡くした。
自分の至らないところで、その猫にはつらい状況も一杯味わわせてしまった。いまでも悔やんでも悔やみきれない感情がある。
でもただひとつ。
飼う時に心に決めた
「ずっと一緒に居る」
それだけは貫き通せた。それが唯一救いになっている。
なぜそう心に決めたかというと、子供の頃、同居していた叔母が可愛がっていた猫がいたんだ。
叔母見つけて連れてきて、叔母が飼った。
その猫も叔母に一番懐いてて、他の家族とはさほどだったんだ。
その猫は寂しそうだったよ。いつも叔母の部屋にあったクローゼットのなかで寝てた。
叔母が家にくると嬉しそうにくっついてた。
動物の毛がよくないとかなんかで聞いたみたいで、高齢出産だった叔母は異常に過敏になった。
猫が近づくと、叫び声をあげて「来ないで!」って逃げてまわった。
おれはまだ子供で、友達と遊んだり、そんなことばっかりで頭がいっぱいだった。でもその猫が亡くなった時、大好きだった叔母に避けられ、看取ってももらえずで(急だったからだが)もし次に猫を飼うことがあれば、何があってもずっと一緒にいるんだと決めたんだ。
一年少し前に亡くなったその猫は、晩年は腎臓を患った。病気について、必死に色々調べた。そこら中におしっこを垂らして(腎機能が低下すると、水を飲む量が増えて、おしっこがぽたぽたと垂れたりする)毎日のように寝床の掃除をした。
一緒にいるのは綺麗で楽しいことだけじゃない。けれど、毎日していた、寝床に敷いたタオルの洗濯やトイレ掃除。これが出来なくなったときの喪失感はとてつもなかった。
19年の間には、何度か引っ越し等環境の変化で、猫と離れるかどうかの危機もあった。
けど、おれにはその選択肢はなかった。
そのお陰でおれはそういう大切な喪失感も噛み締めることができた。
もちろん、嫁と子供が絡む話だ。そう簡単な問題じゃないのもわかる。
けれど、ずっと一緒に居ると決めて飼ったのなら、その猫と別れる選択肢だけは選んで欲しくない。
絶対後悔する。
どちらを選んでも後悔はあるかもしれないが、その後悔だけはして欲しくないな。同じ猫好きとして。
それに旦那にとって大事なものを奪う選択肢を提示してくる嫁に一度折れたら、この先折れ続けることにもなると思う。
猫と別れた後悔が、後々いろいろな形で尾をひく可能性もあると思う。
最後に、10歳の猫にとって、1年は人間で言う4年なんだ。猫は1年で4歳分年をとるんだ。
例えば実家に預けるとかになったとして、月に一度会いに行っても、猫にとっては4ヶ月。
そんな速度でお前のその猫は時間を刻んでいくんだ。
その時間、出来ればずっと一緒にいてやってほしいなぁ……