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はてなキーワード: 高度成長期とは

2022-10-20

anond:20221019180132

理由ね。コスト削減かな?

もうちょっと詳しく書くとですね。

電車自動車のようにトランスミッションは搭載してないのですね。

基本的には直流モーターに流す電流抵抗電気抵抗を回路に入れている)と回路の直列並列の繋ぎ変えで制御して出力=スピード制御している。

で、電車って実はモーターがある車両とない車両があって、だいたいある車両2:ない車両1とか、最近では1:1とかもっと少ない時もある。

当然、モーターがある車両の方が高価です。

んで、東武の旧型の電車(8000形という)は、1:1を狙った。そうすると、モーターがある車両比率が少ない分、モーターがある車両の出力を高めないといけないが、少ない駆動軸で出力を上げると空転しやすくなる。

そこで空転を防ぎ、出力を滑らかに制御するために、他ではあまり使っていない制御回路(バーニア制御回路)を追加しているのね。

トランスミッションじゃないけど、車の副変速機のように、出力をもっと細かく制御できる回路を用意したと。

んで、電気ブレーキって、要は加速時の回路を逆にしているのだけど、加速時の回路を細かくしているので、それに対応する電気ブレーキを装備しようとなると、それもコストが上がる。

止めるだけなら従来のブレーキでも止まるから、当時の東武は8000系に電気ブレーキを付けなかったのです。

当時、東武鉄道は高度成長期乗客が増え続けており、輸送力の増強が至上命題でした、安いコスト車両を増備したかったので、いろいろ優先順位を考えて、電気ブレーキを付けなかったのです。

2022-10-17

anond:20221015010851

終戦から高度成長期にかけて日本自殺率世界トップだったんだよな

この時は若者だけでなく新しい生活様式にたえられない高齢者もよく自殺してた

辛い死にたいと言いながらものうのうと生きながらえてきた奴らは面構えが違うんだ

個人的に国ができることって何かを守るというよりは、邪魔をしないことだと思うんよね。

結局真面目に生きてる人を守ってはくれないんやしさ。

Z世代が夢がないっていわれてるのも、どうせ働いても税金取られるし、みたいなのが染み付いてるせいだよ。

残業規制撤廃して働いたら働いた分だけ稼げて税金も最低限しか取られないようになったら、Z世代高度成長期みたいにバリバリ働くよ。間違いない。

2022-10-16

anond:20221016110531

日本人が没落したこの32年間で信号を作りすぎた可能性がある。

 ・・・ いや、32年前でも既に凄い数の信号機があったよ。海外から来た人たちが驚いてた。あれはやっぱり交通事故対策だったそうだ。交通戦争とか言われた時代があったろう。高度成長期の頃ね。 で、交通事故対策には信号機の設置が費用対効果が高いということで推し進められたようだ。

2022-10-14

anond:20221012183017

もうかれこれ40年近く崩壊しつづけて、まだ高品質アニメが世に出てくることが不思議なんだよな。

たぶん超人的な人がまだある程度いて支えている状況なんだろうけど、その人達もいよいよ60代を超えて体の無理が効かなくなり引退していくにつれて本数が減っていく、そんな感じで終わるんだろうな。アニメに限らず、土木とか建築とか設備とか物流とか高度成長期に爆発的に伸びた職人芸の分野ってどこもそんな感じだ。

2022-10-04

anond:20221004224105

江戸湿地帯の寒村だったらしいね

開拓は苦労しただろうなあ

2022-10-04

東京が立地的にこのまま栄えるとは思えない

東と南に何もない。北に寒くて険しい過疎地があるだけ。

どっからどうみても太平洋に突き出た辺境

海運の拠点として貧弱。

そもそも関東平野が選ばれたのは京都から独立たかっただけ。

たまたまそこにあった広い平野メリットになったのは、高度成長期までだろう。

人と物の流れからしてこれから瀬戸内九州北部のほうが立地的に有望。

東京が立地的にこのまま栄えるとは思えない

東と南に何もない。北に寒くて険しい過疎地があるだけ。

どっからどうみても太平洋に突き出た辺境

海運の拠点として貧弱。

そもそも関東平野が選ばれたのは京都から独立たかっただけ。

たまたまそこにあった広い平野メリットになったのは、高度成長期までだろう。

人と物の流れからしてこれから瀬戸内九州北部のほうが立地的に有望。

2022-09-28

anond:20220928224949

じゃあ二度と女性の自立とかほざかないでね。君は対外的には『伝統的な人』を名乗りなさい

 

もっとも女が家に入ってロクに仕事せずみたいなのは戦後からの話なので割と新しい伝統ですけど

(カカア天下言葉代表されるように女性の方が稼ぎが高かった地域もそれなりにある)

  

でも1973年(高度成長期の終わりとされる年)から数えても、約50年は経ってるし、

まぁ良いんじゃないですか?

2022-09-21

左派アベノミクスは失敗と歴史修正に余念がないけど

どんな経済政策しても、昭和高度成長期レベルの成果出さないと失敗したって評価しなさそう。

2022-09-18

anond:20220918175018

抗議もどうせそのうちイケメン女子高生相手されないオジサンおばさんの嫉妬っつーことになる。

マトモに働けというおっさんおばさんはせいぜい手取り13万の底辺仕事しか斡旋できない。

高度成長期ではないか昇給もない。

そんなんに比べたら話聞いてくれるイケメンの方がいいと思うわ

他人目線でも

2022-09-13

日本はいまだに「高度成長期」という成功体験に囚われている

失われた20年だ30年だのといくら知った風な口をきいても、結局の所は直近の成功体験に国全体が囚われている。

何も考えずに魚取り放題だった時代体験を引きずっているし、自民党モラルの底が抜けていなかった時代体験を引きずっているし、人口が増え続けて均質な人材を量産することが正義だった時代新卒一括採用を引きずっている。

今国の仕組みを牛耳っている過去に囚われた老人が寿命あの世に逃げたあと、成功体験のない若い世代はこの国をどう導いていくのだろうか?

どちらかというと逃げる側の自分としては余計なお世話かもしれないが、心配せずにはいられない。

2022-09-11

anond:20220911011153

少子化問題と言うけど根本的には老人多すぎ問題からなあ。高度成長期バブル期にラリって無計画人口を増やしすぎたツケが来てるだけ。

そもそもがやり過ぎによるものだったので、カバーするためにやり過ぎにやり過ぎを重ねる勢いで子供を増やすことはあまりにも非現実的すぎるし、仮にできたとしてもその場しのぎであって将来的にさら悲惨なことになってしまう。

その点アメリカ医療費を頭おかしいくらい高騰させたりドラッグ蔓延させたりすることで平均寿命が延びないようにコントロールしてるんだから上手くやるよなって思う。

2022-09-02

anond:20220902030130

魅力ある商品を開発するコストを削減してしまったら、魅力ある商品自体を作れなくなってしまっただけ。

高度成長期時代は、とにかく売れるモノを作らないとあかんってことで、

魅力ある商品の開発にコストをかけまくった。

バブル崩壊すると、とにかく利益を増やすにはコストを減らさなあかんってなって、

製造コストを下げることに必死になったし、それすら削るところがなくなると、

研究開発費もあれこれ理由をつけて削っていった。


自動車会社なんかも顕著で、昔は研究所が新技術を開発していたのに、

今はアウトソーシングしていて、外部の会社が開発したものを選定するだけになってしまった。

外部の会社は1社だけに売るわけじゃないから、どの会社も似たような技術の塊りになってしまう。

2022-08-28

anond:20220828232251

少子化問題って言うけど、高度成長期バブル期に国が発展する勢いに乗ってラリって後先考えずに人口増やしすぎたツケが来てるってだけだからな。

2022-08-27

安倍元首相国葬に納得いかない分からず屋に説明してやる

安倍元首相吉田茂以来の国葬ということになる。つまり吉田茂以降の首相はいずれも安倍元首相より格下ということでないと説明がつかない。本当にそうなのか、改めて検討してみよう。

以下に有名どころの歴代首相とその功績をリストアップしてみた。

吉田茂以降の素晴らしい実績のある首相リスト

池田勇人

任期間1960-1964。所得倍増計画を掲げ、これを実現する政策を次々と実施。実際に7年で国民所得は倍増、日本経済高度成長期の基盤を作った。

佐藤栄作

任期間1964-1972。日本経済高度成長期を持続。外交面では沖縄および小笠原諸島返還を実現。ノーベル平和賞受賞。通算在任日数歴代2位。

中曽根康弘

任期間1982-1987。国鉄電電公社専売公社民営化を実現。また日米の経済面・安全保障面での関係改善を実現。

安倍晋三

任期2006-2007および2012-2020。アベノミクスにより経済成長を実現したものの、国民所得は横ばい。2度の消費税引き上げ実施(5%→8%→10%)により国民の実質所得はむしろ低下。外交面では北方領土交渉を後退させた。通算在任日数が歴代1位となった4日後の2020年8月28日に辞任を表明。

改めて安倍元首相凄さを見ていこう

改めて見れば戦後歴代首相よりも安倍元首相が優れている点は明らかだ。通算在任日数歴代1位の一点突破。本当にわかやすい。ニュースなどを見てもそれ以外の説明を見たことがない。在任日数に入院していた時期が含まれることを考えると歴代1位というのも怪しい記録のような気がするが、記録は記録だ。

それ以外に何が評価ポイントなのか、歴代首相より何が優れているのかは判然としない。

経済面の功績というなら池田勇人の方が優れていると言わざるを得ないだろう。

外交安倍」などという異名もあるようだが、わかりやすい成果を作れなかっただけでなく、北方領土交渉では大きな失点を記録している。

安倍元首相国葬閣議決定だそうだ。「とにかく1位は偉いんだ!」「そうだそうだ!」といった会議の末に決まったのかもしれない。非常に知的議論であり、安倍元首相亡き後も美しい国日本は安泰である

2022-08-19

anond:20220818053625

逆なんだよ

戦後高度成長期の余裕がいまも日本人文化的生活の水準になってるけどそんな生産もない今かつての贅沢をできる余裕なんてないんだよ

金を配るべき配るべき金をどこから徴収すべき、その金になる生産生産がないか金もないんだよ

生活が苦しいか子供を作って労働生活負担の軽減に人手として活用するために子供をつくるべき、ってなるのが正しいんだよ

子供を二十年ばかり無職で養い続ける余裕なんてものはもうすでにないんだよ

一個の家庭でできないもの独身から生産の対価を毟ってもたりるわけないだろ

2022-08-15

共感にあらがえ - 内田樹の研究室を読んで

これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。

ただ、内田が、

感情の器」って、あくまでも個人的身体条件のようなものから

というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。

たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミス道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会規範構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。

そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。

家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。

アレックス・カー20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。

おりしも建設省代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代

アメリカの7倍のコンクリートを使って日本山河コンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。

その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。

「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。


A・カーは、フェアプレイ精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者トップ黒海に豪奢な別荘を保有し、人民実質的農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。

「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司説教ブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖

最近、想起するのはやはり旧統一教会家族価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族崩壊している、といった、「おまゆう問題崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするとき動機付けメカニズムなのだ

内田永井議論テーマひとつである人権平等。あたか普遍的原理についても、

それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。

アメリカ建国者の一人、トーマスジェファーソン人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。

これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。

どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質人民に備わっていると信じて建国者デモクラシー設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権矛盾が、南北戦争北軍正当性を決定的にする。

内田議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要キーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。

自分でうまく整理がつかなかった。内田はいう。

「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。

これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係いかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。

内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。

まず外付けの倫理から。どのように受容されてきたか

舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後憲法のものアメリカ経験に基づいたものだ。

しかし、日本人権教育は、残念なことに、人権普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。

戦後人権を外付け実装してきた日本は、そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。

現在、旧統一教会問題話題の、国家宗教というテーマにしてもそうだ。

政教分離キーワードとなるのは、恐怖から解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西課題だ。宗教いかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴ勝利した古代ローマ

そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要再確認された。それが言論の自由関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場比喩が生まれる背景ともなった。

他方、旧世界フランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会権威苛烈弾圧が恐怖であった。だから公共空間合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランス言論の自由は、その意味カトリック否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したこと歴史的な背景は深い。

このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。

それは、実は国によって微妙コンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的価値なら、なぜ何千年も克服できなかったか意味を問うというか。

しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後日本裁判所も含めて。

でも、それこそが日本人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。


その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。

内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは自分の国や自分家族自分自身の歴史だと俺は思う。

自分自分先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理けが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本アジア欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。

歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。

自分理想とするもの現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。

自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。

ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要キーになるし、国家宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米経験教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決行政戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料支出したこと違憲とした歴史的判決で、戦争経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。

しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通体験共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代

50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。

「あの頃は」という共通過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。

まり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。

それが、失われ、外付けの価値観だけがカラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。

永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代

「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。

と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。

また、日本憲法に組み込まれ歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。

高度成長期に「あの頃」といえば戦争時代だった。

それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、

視聴者からは、おしん私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。

しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ

しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争記憶との関連が薄まった。当然、日本憲法リアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。

しかし、いずれにしても過去記憶憲法規範が直接に結び付かない、その世代経験、そこに、永井紛争国の辺境の地を自分テーマに選んだヒントがあるように思えてならない。

紛争リアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生ときに知った人権、そして憲法価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。

しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。

永井氏が、内田氏との対話のなかで

私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこから自分母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親単身赴任でしたし。

といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。

全然人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。

動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的ロールモデルとは限らないのだ。

この体験辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。


ともあれアレックス・カー面白い

読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。

A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.

Dogs and Demons, 2002, A

2022-08-14

ホワイトカラーエグゼンプション(英: white collar exemption)、または頭脳労働者時間制度(ずのうろうどうしゃだつじかんきゅうせいど)とは、ブルーカラーのような肉体労働者や製造業従事者以外の、スーツを着てオフィス仕事をするホワイトカラー労働者の一部に対する労働法上の規制を緩和・適用免除すること、またはその制度である[1]。

労働者が、成果よりも労働時間の長さが評価されるため発生する「ダラダラ残業[6][7]」、仕事が終わっても周囲を気にして帰れない「付き合い残業[8][9]」、企業上記のような理由で発生する、多額の残業予算確保のために基本給の賃上げを抑えるために、一部の労働者がする悪循環になっている「生活残業[6]」の結果として、G7の中で非製造業での最低の労働生産性[10][11]の改善のための制度として導入が検討されている[12] [13]。

日本

背景

労働基準法が作られた終戦直後は、日本就業人口ほとんどが第1次産業第2次産業従事していた。それが高度成長期を経て、経済成熟するとともに徐々に第3次産業比率が高まり現在では全就業者の約半数が第3次産業従事している。このように産業構造が大きく変化するなかで、ホワイトカラー労働者の中に事務的労働ではなく成果のみを求められる新しい労働者が現れ始めた。さらに、IT環境の整備されるにつれて、職場に縛られない働き方も可能になってきており、こうした現実対応した新しい労働時間法制ニーズが生まれた。

2007年9月11日記者会見では、厚生労働大臣(当時)の舛添要一ホワイトカラーエグゼンプション呼称を「家庭だんらん法」という呼称に言い換えるよう指示したとしてしんぶん赤旗大臣の「残業代が出ないなら早く帰宅する」との認識は間違いで、残業代のためではなく終わらない仕事量だから反論した[33]。しかし、会社員公務員約一万人を調査したところ「残業する主な要因」として最多の理由は「残業費をもらって生活費を増やしたいから」で34.6%だった。次いで「担当業務でより多くの成果を出したいから」の29.2%、「上司からの指示 」が28.9%、「自分能力不足によるもの」が28.9%という生活残業する者がかなり多くいることが分かっている [34]。成果ではなく、残業した者ほどで給与が多く支払われるために、その分を賄うために基本給やボーナスが低く抑えられている日本では生活残業が起きている。労働生産性の国際比較では、2015年統計では日本主要先進国であるOECD加盟35ヶ国中22位の一人当たりの労働生産性になっている [35]。

2022-08-13

anond:20220813213610

マジョリティになる過程日本人口が5000万人くらいに縮小するシナリオはまああると思うけどな。

高度成長期バブルの頃に調子に乗って不自然人口増やし過ぎたツケが来てるのが今なんだと思うわ。

2022-07-16

anond:20220715230043

よくわからん幻想否定したいのか肯定したいのかどっちなんだ?

この人の父親は「理解ある彼くん」とは違うと思うが。

というか、高度成長期おっさん連中の妻で専業主婦になった人はほぼ全員が「理解ある妻君」だと思うぞ

2022-07-13

タワマンが終わりそう

優れた土地はもはや売り手がおらず、大規模再開発が仕掛けられない。

都内はかつてのドヤや低所得向け団地、古い工場倉庫

埋立地といった「強権で立ち退きさせるのが容易な場所」に

次々とタワマンや大規模オフィスビルを乱立させた。

特に墨田区品川区江東区がひどい。

古い住民が目をそむけてきたエリアリブランディングして

強引に高級な雰囲気を作ってきたせいで、

地方出身者と外国人だらけになってしまった。

(ただし小金持ちが入居するので住民レベルはある程度担保されている)

かつて鉄道会社がこの手法成功してきたが、

その手法はすべて高度成長期の焼き直しでしかない。

現代では強引すぎたし、外資に頼りすぎた。

もう語り尽くされているが、

タワマン資産価値は今後目減りする一方となり、

バブル期リゾートホテルとまったく同じ道をたどる。

年々上がる管理費共益費修繕積立金

一般的マンションとかけ離れたメンテコスト

なにより、低金利を背景にした無謀なローン。

すべて導火線が異常に短い時限爆弾だ。

一見リセールバリューが高く見えても、

同じコストで次々に新築が出てくるなかで

ブランドで生き残る建物は結局「昔からいい土地だった場所」だけだ。

劣悪な立地を深く深く掘り起こして無理やり立てた楼閣は、

これ以上インフラ面の上積みも期待できず、

災害におびえ、ゴーストタウン化におびえ、

単位で「新築時がピーク」の、

成長期待値がない街の象徴に成り果てる。

もう不動産関係者ほとんどタワマンに住んでいない。

せいぜい一部の新しいもの好きが賃貸で住むだけだ。

本業の人ほど買わない。

同じ額を出すなら、立地のいい中古マンションを豪華にリフォームしたほうが、

圧倒的に安くて広く、リセールバリューも高く、ランニングコストも安い。

そして豪華な住まいにできる。

タワマンがゴージャスなのは外観だけだし、

そこに価値を見出す人は次々と引っ越ししまうのを、

不動産はいやというほど見てきている。

あと10年もかからないうちに管理崩壊するタワマンが続出する。

ビッグ3デベのハイレベルなハコでも、

すでに3割以上の管理組合は詰んでいる。

又貸しや投資用で居住実態がなかったり、

住人が非協力的で管理運営がままならないのがザラで、

総会が成立しない(組合決議で半数または2/3取る手段がない)。

結果、一部の良識ある住人ががんばったところで、

大規模修繕の積立金は慢性的に不足し、

自慢の施設は閉鎖されていく。

一時金を徴収しようにも、足並みが揃わないので成立しない。

お金がある人ほど、そういうわずらわしさから離れるために引っ越ししまう。

保育施設スポーツジムなどを併設しているタイプ悲惨

入居から10年ほどはいいが、子供が育てば住人の回転率が悪く、

施設稼働率の落ち込みを支えきれない。

施設利用料を上げてまで維持する管理組合は相当レアだ。

富裕層そもそも最初から富裕層向けの施設ヘルパーを使っている。

中途半端な自前施設をありがたがっているのは

見栄で住んでいるギリギリの層だけだ。

役所や小中学校など、各種公共施設の設置ペースも無計画すぎる。早晩破綻するだろう。

高島平三郷西川口あたりの大規模公団の失敗から何も学ばなかったのだろうか。

子育て世帯の入れ替わりが比較的うまくいき、

人口流入出がきわどくバランスしている

浦安光が丘ですら学校の統廃合が進んでいるというのに。

タワマン富裕層の一時のリッチな住居として今後も増えるだろうが、

投資対象としてはすでにほぼ終わっている。

住まいとしてまともに考える人も激減する。

まり、ローンで買ってもまともな値では売れなくなり、

中国不動産崩壊と同じ道をたどるだろう。

そして非常にお手軽な価格で手に入るタワマンの空室が世にあふれるが、

ローンと平行して支払うコストは増える一方なので、

結局一般人が住めるような建物にはならない。

空室率が高いほどランニングコストが激増していくためだ。

まったく遠い未来ではない。10年以内の話。

2022-07-12

anond:20220712014805

日本出生率の低下とその原因の未婚率の高さは高度成長期結婚した男親が家庭をかえりみなかったことへの反動もかなりありそうだな

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