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守られなかった約束
「疑似銀行」になりつつある航空会社の奇妙な進化は、さまざまな点で規制緩和がいかに悪手だったかを浮き彫りにしている。規制は、航空会社が営業できる条件を慎重に定めていた。各社が安定したビジネスと信頼できる輸送手段を維持できるよう策定されていた。これが緩和されたことで、航空会社は金融分野への参入を含め、あらゆる方法で利益を追求できるようになった。
規制緩和の推進派はいくつか大きな約束をした。「航空会社が自由に価格競争できるようになれば、航空運賃は下がる」、「何百もの新しいプレーヤーが市場に参入することで業界の独占性は薄れ、政府が利益率を保証しなくても業界は安定する」、「小さな都市でもサービスが失われることはない」
規制緩和派の頭のなかでは、航空会社も他のビジネスと同種だった。航空会社が自由に競争できるようになれば、市場の魔法がすべてを良くしてくれる。航空会社の収益に資するものは、消費者にとっても望ましい、という考えだ。
それは間違っていた。近刊予定の私の著書でも説明しているが、こうした予測のほとんどは的中しなかった。航空業は普通のビジネスではないからだ。
空港の滑走路や搭乗口の数には限りがあり、参入するには障壁がある(さらに言えば、マイレージプログラムには、決まった航空会社を利用する顧客が競合他社に乗り換えないようにする狙いがある)。ネットワーク効果や規模の経済が存在する。資本コストは高くつくし(航空機材は安くない)、誰でも航空会社をうまく立ち上げて既存の大企業に競争で勝てるという考えは、まったく理にかなっていなかった。
激しい競争が比較的短期間繰り広げられた後、時代は統合とコスト削減へと急転し、何十社もの航空会社が倒産したり買収されたりした。サービスは悪化の一途をたどっている。というのも、航空会社間の競争が少なくなったため、各社は窮屈な座席や欠航、手荷物料金や軽食代の値上げで利用者の反感を買うことを恐れなくて良いからだ。
さらに悪いことに、就航が義務化されなくなったため、全米各地の都市や地域は民間の航空サービスを失い、経済に深刻な影響が及んでいる。しかも、航空会社は利益を緊急対策資金ではなく自社株買いに振り向ける傾向が強く、米同時多発テロや新型コロナウイルスのパンデミックといった危機に見舞われると、連邦政府からの多額の金融支援が必要になる。
規制緩和は、ときにその恩恵とされる「価格の引き下げ」さえも実現できなかった。1978年に航空規制緩和法が成立して以降、航空運賃は確かに安くなった。しかし、運賃は成立前からすでに下がっており、成立後も同じペースで下がり続けた。
航空規制の古いシステムも完璧ではなかった。価格で直接競争することを禁じられた航空会社は、備品・設備といったアメニティーの拡充競争へと突入した。機内にピアノバーを設けて不興を買ったのはその一例だ。しかし、規制緩和は病気よりたちの悪い治療法だった。航空業界は、問題を抱えた規制下の寡占から、規制のない寡占へと移行し、現況はさらなる悪化を続けている。
航空会社は、鉄道や送配電網、通信網と同様、極めて重要な公共のニーズに応えている。それと同時に、政府から与えられた特権のシステムのなかに存在している。連邦政府が安全運航のための大規模なインフラを構築するにあたっては、公的資金が投じられてきた。歴史的に見て、これらはすべて、業界を規制する一般的な理由だ。
現代に即したルールが整備されれば、航空会社が「金融機関化」したECプラットフォームになる流れを食い止められる。そして場合によっては、より快適な空の旅の運航に集中してもらえるかもしれない。
Ganesh Sitaraman
「食べ物で遊ぶこと」や「食べ物を粗末に扱うこと」に対する抵抗感は現代の日本社会でもそれなりに広く共有されている倫理観だと思うけれど、僕の捉え方だと「料理を番号で注文すること」はそれに類する。番号化が受け入れられつつあるのだとすれば、それは食をめぐる倫理観の変化(麻痺)を意味する。
https://twitter.com/hitoh21/status/1544311743500980224
伊藤 弘了
いとう ひろのり
1988年生まれ。愛知県豊橋市出身。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。関西大学、同志社大学、甲南大学非常勤講師。東映太秦映画村・映画図書室スタッフ。「國民的アイドルの創生――AKB48にみるファシスト美学の今日的あらわれ」(『neoneo』6号)で「映画評論大賞2015」を受賞。近刊『仕事と人生に効く教養としての映画』(PHP研究所)。専門は小津安二郎。
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ホリエモンが「人を使うのが下手なヤツはいつか倒れる」と主張する真意
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アイティメディアのインタビューに応える堀江貴文氏(撮影:山崎裕一)
あまたの事業を成功させてきた起業家、ホリエモンこと堀江貴文。時代の寵児(ちょうじ)といわれ、ITビジネスや宇宙事業など、それまでの常識を覆す手法で自らの構想や事業を実現してきた。ただ、初めからその背景に莫大な資金や、特殊な才能があったわけではない。 堀江自身が好きなことに没頭してきた結果、ビジネスが生まれていったのだ。
【一気に見る】「堀江さんが最も大切にしているものは何ですか?」への回答
あえてレールから外れよ。
3歳児の気持ちで、のめり込め。
近刊『非常識に生きる』(小学館集英社プロダクション)では「自分の人生を取り戻す」ための、41の行動スキルを指南している。書籍の内容から、堀江が考える経営者に必要な考え方を語ってもらった。
自分のなかで一番を決めるのは好きではないのだけど、「堀江さんが最も大切にしているものは何ですか?」とあまりにたくさん聞かれるので、とりあえず「時間です」と答えている。それ以上、説明するのは面倒くさいので、詳しい理由は省く。
僕はふだんから、時間を1秒でも最適化するために、さまざまな技術を持った有能な人たちの助けを得ている。密度の高い人生は多くの人に助けてもらって、初めて成り立っているのだ。僕が立ち上げたたくさんの事業に関わってもらっている、何百人ものスタッフにはいつも感謝している。
僕はプログラムはできるし、お金の管理能力もある。ビジネスパーソンとしての総合力は、かなり高い方だろう。けれど、僕よりもっと出来のいいビジネスパーソンは、身近に何人もいる。レベルの高い人たちと一緒にいるから、何でもかんでも自分ひとりで処理してしまおうとは、思わない。
もしかしたら、ひとりである程度、うまくできるのかもしれないが、それで余分な時間が取られてしまうタイムロスを避けたいのだ。
他人に任せられる仕事は、他人の手を頼りまくることをまず選ぶ。
人に任せたぶん、別の新しいことに時間を注ぎたいのだ。
手柄が任せた人のものになるのも、抵抗がない。時間がもらえるなら、手柄なんかどうでもいいのだ。
サラリーマンには、自分ひとりで何でもこなしたい人がいる。部下や同僚の能力を下に見て一匹狼を気取り、ひとりで仕事を進めてしまう。それがストレスフリーだというなら結構だが、賢い生き方ではない。
自分を使うだけで、人を使うのが下手なヤツは、いずれエネルギーを使い果たし、倒れるだろう。そのとき、誰かが助けてくれるだろうか?
優れた人に甘え倒すのが、賢いビジネスパーソン
いまの時代、何でもできる! というアピールは得策ではない。できるヤツは、上にいくらでもいるのだ。能力アピールより、できない自分をさらけだし、「助けて」と平気で言える人の方が好感を持たれる。助けてくれる人も集まりやすい。
ひとりで何でもやろうとしてはいけないのだ。逆に成長のスピードを遅くする。
お金を出せるなら出していいし、手の空いてる同僚や部下に遠慮なく振ってしまおう。優れた人に甘え倒すのが、賢いビジネスパーソンだ。
組織のなかでの協調性を高めよう、などと言いたいわけではない。別に周囲のご機嫌を取る必要なんかは、ないのだ。やりたいことをよりスムーズに、大きなレベルで進めていくには、周囲のスキルを使わせてもらった方が、実利は大きい。
何でも人任せで甘ったれるのは論外だが、自分が苦しいときに無理して強がるのはいけない。何の得にもならない。弱さをさらけだす勇気を持とう。
弱みをさらけだし他人を頼る人は、嫌われてしまうと勘違いしていないか? 誤解だ。弱みを躊躇(ちゅうちょ)なくさらけだせる人は、逆にモテるのだ。
『文學界』2021年9月号に掲載された桜庭一樹「少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞の文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。
この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章を投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者の見解が掲載された。
この記事では総括として、両者の見解を検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭と鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリーの仕様でURLの掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。
両者の主張は、以下のように整理できるだろう。
桜庭:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。
鴻巣:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。
桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈の自由〟を奪」うことを挙げている。
一方で鴻巣は自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説の可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。
では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである。
鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品の創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である。文学の解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分が想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないのである。解釈は批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである。
鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解の文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣は見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。
繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ。私小説もフィクションだからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣が誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。
繰り返しになりますが、
「作品からの読み、想像であり、実際のテキストには書かれていないストーリーを、主観的な読みではなく実際にそう書かれていたように紹介する」
のは一線を超えていると思ったのです。
作者だからではなく、他の方の本でも同じように疑問を持ったと思います。
(この部分です) pic.twitter.com/vFmVBO6fhC— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。
この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授の日比嘉高(モデル小説研究のフロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在の人物をモデルに』と事実に立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実の事実」の問題を切り分けている。
この記事でご紹介いただいたのですが、わたしの原稿に〝介護中の虐/待〟は書かれておらず、またそのような事実もありません。わたしの書き方がわかりづらかったのかもしれず、その場合は申しわけありません。影響の大きな媒体であり、とても心配です。否定させてください。https://t.co/HdC6Cb8g7b— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 24, 2021
(強調は引用者)また今回は「自伝的随想」としてご紹介くださったこともあり、登場人物を離れ、実在の家族に言われなき誤解が降りかかることを危惧したため、わたしはこのように必死になって訂正をお願いすることになりました。それは確かに、評者の方には関わりのない事情ではありますが…(続) pic.twitter.com/8rixc3Ot4c— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭の実存にとって「現実の事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭はあくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである。飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家の動機ではなく、作家の根拠にフォーカスするべきである。この記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。
とはいえ、桜庭の見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。
今回の一件に際して、文芸時評の不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭もツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣も見解において「批評」という言葉を用いている。
だが、文芸時評は批評でしかないのだろうか? 文芸時評は英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル的特性があるのではないか?
文芸時評が新聞という巨大メディアに掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭は見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり、文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。
文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭は新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷の鳥取で一人暮らす実在の老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実の現象のレベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか?
以上の論点を踏まえて、時評担当者の見解を検討することもできるだろう。
桜庭の見解は冒頭、「私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身や夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家の藤田直哉が端的に指摘しているのでツイートを引用しよう。
「夫婦が深く愛し合っていたかどうか」を確定する根拠は、虐/待があったかどうかを確定する根拠と同じぐらい、作品のテクストにはないのではないかな。母親がそう言っている、語り手がそう推測したようだ、というところまでは書いてあるが、しかしそれが「作中の事実」かどうかはサスペンドじゃないかな— 藤田直哉@新刊『シン・エヴァンゲリオン論』河出新書 (@naoya_fujita) September 7, 2021
つまり、あらすじに書いてよいのは、「作中の事実」であるべきではないか? 今回であれば、あくまで一人の人物の視点に立って、「私の自伝的な小説『少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか。言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列がテクストに書いてあるとはいえ作中人物の「主観的解釈」なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか。
あるいは、そもそも「事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分は幸せだと信じ込みながらオンラインサロンの主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せな生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せは事実ではなく評価だからだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか?
最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。
https://ssl4.eir-parts.net/doc/9468/ir_material2/158791/00.pdf
そんなわけで日付変わって6月22日はKADOKAWA社の株主総会である。
KADOKAWAといえば小学館・集英社・講談社などとならぶ業界大手であるが、ほか3社と違って上場している分、株主総会であれこれ一般の株主さんが発言・質問する余地がわりとある。
だが「株をもってるので株主総会には行くけれど、といって何を聞けばいいのかわからない」という諸兄もおられるであろう。
ということで、ここでは上記のIR情報なんかを眺めながら、このへんを聞いてみると面白いかもしれないですね、というポイントをまとめてみる。
むろん、IR情報そのほかの情報からわかる程度のことでしかないので、この増田はなんの内部情報でも機密情報でもありません。あしからず。
よく見るとわかるのだが、WEBサービス事業については事業投資がない。
ポータルでは、「niconico」における“選択と集中”の加速による収益構造の改善と、「ニコニコチャンネル」におけるコンテンツの拡充によるチャンネル有料会員数の増加を図ってまいります。
とあるのだが、つまり特に新規の開発だったりアップデートとかもしていなくて、損してる事業をカットして利益を出している、というだけである。
それゆえに、
という質問が、実は今回の資料でもっともクリティカルなところかもしれない。
普通に考えると、そうですよ未来においてはクローズするんですよお察しくださいよという意味なのかなと思うが、実際聞かれたらどうこたえるのか、というのはある。
今のプレミアムのお客さんに「今後はクローズしていくのですが、引き続きよろしくお願いします」ということは言えないだろうし。
IP事業といえばメディアコングロマリットたる同社の中核でもある…のだが、意外とつかみにくいところもある。
全体としては成績がよく、それはあっぱれなことじゃないですか、という風に一見するとなるのだけれど、詳しく見ていくとそう簡単ではなかったりする。
IP創出においては、新人作家の育成を行うとともに、投稿数とユーザー数の伸長が続く小説投稿サイト「カクヨム」や「魔法のiらんど」等を通じたネット投稿原作の創作支援を加速し、原作発掘の強化に取り組んでおります。
とあるのだが、ここでライトノベル系でかつて隆盛していた「小説新人賞」が特筆されていないのがポイントである。
三崎尚人 @nmisaki
KADOKAWAの株主総会。「文芸でヒット作もなくカクヨム等で新人発掘するのは無駄では?」という質問が出版社の株主総会で出るのは衝撃。もちろん、「新しい作家さんを育てていくのは役目なのでチャレンジは続けて行く」と青柳さんがちゃんと答えていましたが。
というツイートがあったが、質問にしろ回答にしろちょっと惜しいと感じる。質問もズレているのだが、じゃあこの回答がそのまま真か?と考えるとちょっとアヤシイよね、という話をする。
実際のところ、たとえばこんな感じで質問されるとKADOKAWAのライトノベル系の事業としては非常に痛いはずだ。
このあたりの質問をされると、たぶん結構痛い、はずだ、と思う。どういうことか。
たしかに『聖女の魔力は万能です』とか『ひげを剃る。そして女子高生を拾う。』とか、たとえば今クールを見ても「小説家になろう」や「カクヨム」発の作品は続々アニメ化されている…のだが。
たとえば『ソードアート・オンライン』『この素晴らしい世界に祝福を!』『Re:ゼロから始める異世界生活』『魔法科高校の劣等生』『オーバーロード』『幼女戦記』といった大ヒット作はいずれも遠ざかっている、というのが実情かと思われる。
特にA6文庫版のライトノベルでは、今もってここに挙げたような作品(このすばはもう完結したけれども)が各レーベルを背負っているという状態で、「次のリゼロ」「次のSAO」が長いこと出ていない(ファミ通文庫は「次の孫」がおらず、どうなったか…は公式サイトを見てください)。
これに拍車をかけるのが2番目の質問で、上記のような「次の超大作が出ない」状態ではあるのだけれど、しかし同社のライトノベル事業の中心は確実に「ネット投稿原作」に主軸を移している…というか「それしかない」という状態になっている。
たとえば角川スニーカー文庫の公式サイト https://sneakerbunko.jp/ で当月の新作なんかを見てみると、
こんなラインナップなわけだが、どの程度が「ネット投稿原作」かといえば(なんだか間違い探しみたいだけど)『魔眼で始める下剋上 魔女とつくる眷属ハーレム』以外は全部ネット投稿原作である。
ていうか残るこのひとつも、GA文庫で『ハンドレッド』を書いていた箕崎准先生がなろうっぽく書いたファンタジーで、つまり「なろうかカクヨムに原作があった作品」か「メディアミックスしたラノベ作家がなろうっぽく書いた作品」しかないという状態である。地獄…。
「またまたー、この月だけでしょ、大げさな~」と思われる諸兄においては、スニーカー文庫の近刊を1年くらい遡ってみるとよい。オリジナルありません。スニーカー大賞を受賞した作家さんたち、みんなどこ行ってしまったん…?
で、これは別にスニーカー文庫だけがそうというわけではなく、富士見ファンタジア文庫、ファミ通文庫あたりも同じ状態である。
そしてライト文芸では富士見L文庫などもかなりネット投稿原作小説に軸足を移しつつあって、ここまでの流れを理解すれば
というのが実際かなりアヤシイことが把握できるはずだ。
ライトノベルの定義論とかやってる場合ではないのであって、実は特にKADOKAWAのライトノベルは「=WEB小説」になるかどうかの曲がり角にある、と言ってよい。もしかするとここで「いや、『探偵はもう、死んでいる』と『スパイ教室』がある」と思われた諸兄におかれましては、KADOKAWAさんの新人賞で毎年何作品が受賞して何冊が刊行されているのかを確認されたい。
「ごくわずかな当たった作品以外は、受賞作家の2作目も出せない」というのが、2021年のKADOKAWAのライトノベル事業の傾向である(電撃/MFは多少抗っているくさいが、そんなMF文庫Jでも売れているのはYouTubeマンガのノベライズだったりする)。
https://ssl4.eir-parts.net/doc/9468/ir_material_for_fiscal_ym1/99258/00.pdf
なんかを見てみても「Webでの新人発掘を強化」とは書かれていても新人賞についてはまったく書かれていなかったりするので、これはもうKADOKAWAは新人発掘の手段としては新人賞を諦めた、とみるべきだとは(資料だけを見ていると)思うが、それを確かめることは必要…というか、ラノベファンの諸兄はぜひ直接聞いて、確かめてみるとよい。
コミック事業についても似たようなところがあって、こちらもかろうじて『ダンジョン飯』がIR資料には記載されているが、これはかれこれ2014年開始の作品だったりする。
じゃあそのほかは?というと、アニメ化が発表された『異世界おじさん』はTwitter/Pixiv発だったり、おけけパワー中島でおなじみ『私のジャンルに「神」がいます』もTwitter発だったり…と、つまり自前のプラットフォームから屋台骨を支えられるヒット作がなかなか出せていない…のが現状で(『異種族レビュアーズ』はあるけどね)、主軸としてはWEB発の作品への声掛けだったり、あるいはなろう小説のコミカライズや、ピッコマあたりで連載されている縦読みコミックの書籍化作品だったりする(『外科医エリーゼ』など)
これを「原作発掘の強化がされている」と肯定的に見るのか「自主開発能力が弱体化してネット原作に頼っている」と否定的に見るかは難しい。
集英社などが自前のプラットフォームである「ジャンプ+」で『SPY×FAMILY』『怪獣8号』など次々新規のヒット作を出していることと比較すると、あまり楽観的には見られないか…というところ。
で。コミックでいうともう少し面白いのは、ピッコマことKAKAOとの関係性についてである。
KAKAOといえば、2020年8月タイミングでKADOKAWA株を5パーセント以上取得したことが報じられた。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASFL21HLU_R20C20A8000000/
実はこのあともちまちま買い進められており、もうちょっと増えている。資料にある
ってやつである。意外と持ち株比率第1位だったりする(2位はカワンゴ)。
ので、何気に馬鹿にならない比率で韓国勢に買い進められたのが2020年のKADOKAWA株だった。
https://ssl4.eir-parts.net/doc/9468/ir_material_for_fiscal_ym1/99258/00.pdf
なぜかといえばカカオのサービスであるところの「ピッコマ」がいま一押ししているのがこの縦読みコミック…ピッコマ的には「SMARTOON」というやつであり、KADOKAWAの縦読みコミック振興策が「ピッコマとの協業」のための施策なのか「ピッコマとの競合」のための施策なのかが、非常に気になるところなのだった。
ちょっと話が戻るのだが、先ほど触れていた出版事業については、IPの開発に加えてこんなことが書いてある。
同時に、営業力を活かしたきめ細かなマーケティングにより、生産部数の最適化とそれによる返品部数の最少化を進め、収益の最大化を目指してまいります。2022年3月期より順次稼働予定の製造・物流一体の最新鋭工場につきましては、小ロット適時製造と適時配送を実現することで、製造コストの削減や更なる返品率の改善を行い、業界が直面している物流問題にも対処しながら、中長期的に収益力を向上させてまいります。
この工場は、ちょうど株主総会も開かれるところざわサクラタウンにある例のアレだが、ここで注目するのは「適時配送」の方である。
https://www.kadokawa.co.jp/houjindirect/
というのを持っている。上記の適時配送についてもこうした独自のシステムが活用されるのか――というところで出たのが、下記の報道である。
https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1324469.html
講談社・集英社・小学館と丸紅、出版流通改革で新会社、というこれである。もちろんKADOKAWAにおける流通改革・DXというのはかなり前から企図されていて、こうした動きよりも先にシステムを整えていると考えられる。
そこで気になるのが、KADOKAWAはこの新会社のシステムを使うのか(参画するのか)、あるいは対抗するのか、というところである。
というのは、実はこの適宜製造の計画においてもけっこう難しい問題として立ちはだかる(ので、聞かれると面倒くさい質問である)と思われる。
なぜかといえば、仮にこの新会社による流通がデファクトスタンダードになった場合に、KADOKAWAは「流通のデファクトスタンダードをとるのか、あるいはガラパゴス化した自社独自の流通戦略を維持するのか」という選択を迫られる可能性があるから(そして、その可能性はそう低くもない、と思われる)。前者はせっかく作ったシステムの破棄や修正を意味しているし、後者にはデファクトから外れることによるリスクがある(特に、大手三社が多くの割合を占めているコミック流通などにおいて…)
というか適宜製造と適時配送のシステムを自社でもっていたのなら、上記みたいな会社が出現する前に一ツ橋や音羽に呼びかけて自社のシステムが業界スタンダードになるようにふるまえばよかったのに…とも思うが、後知恵ではある。
誰か聞いておいてほしいことをまとめてみました。なんかバランス悪いなあ…。
基本的に各種の公開情報の組み合わせでしかないので既知の事項かと思いますが、株主総会にご出席の皆様の参考になれば幸いです。
好きな人とは一生分かり合えないと一線を引くし、嫌いな人とはビールジョッキで乾杯をして、「わかる!本当にあれはうんこ!」と言って楽しく飲み明かしたいくらいに嫌いだ
書店やコンビニで書影がちらつけば、回れ右をするし、ツイッターでわたしのタイムラインにこの異物を流し込む輩がいれば、すかさずミュートをするだろう
もうずっと嫌いなのだけれども、やつのいきおいはとまらず、部数を伸ばしている。
世も末だ
どうして、わたしはこんなにも嫌いなのか。
嫌い続けるにはエネルギーがいる。
1巻が出たばかりの時、買って読んで無理だと売っぱらった。
だから、わたしの知識は1巻止まりだし、記憶もあやふやだが、嫌いなところをあげる
主人公の女がムカつく
そんな女が楽勝プレイでチヤホヤされて、ハッピーな世界なのに、「難しい」とタイトルで銘打ってるのがムカつく
以上です。
恋は難しいと言われているが、オタクのそこそこイケメンの彼氏と速攻付き合い始める。
難しいとはなんなのか。著者の国語辞典は著しい乱丁をしている。取り替えてもらったほうがいい。
仕事もてきとー(若い女であることを利用し、やってもらう)、創作もしない(読み専)と、なんというか…美味しいとこ、楽なところだけ拾っていくのだ。
なに?これ?著者のハピハピ妄想か?
苦難もなにもない
そのくせ難しいという。
それは、親のコネ入社で、ほとんど働いてないくせに名ばかり役職で高給取り。そんな社員が平社員に「仕事って大変!」と言い出すようなものだ。
冬の吹きっさらしの中、一晩中ドブにハマっていてほしいと願ってもおかしくないだろう。
というわけで、わたしはこの作品が大嫌いだし、この作品を大好きっていう人も苦手だ。
近刊では違うよ!続きを読んでみて!という人もいるだろう。
でもあれを、わたしは視界にも、もう入れたくないのだ。
『中国分裂 七つの理由』(阪急コミュニケーションズ、1680円)
◎
「中国の近未来をいま一度考えてみると、これまでの固定概念的な地方軍閥、地域対立、王朝の腐敗、衰退という文脈から分裂に至るというシナリオは遠のき、むしろ現代中国に拡がった新しい空間、すなわちネットにおける反政府言論というゲリラ戦争、イスラムの思想的連帯という見えない武装戦争、利権争いの集大成としての個別経済ブロック化、他方ではグローバル化に波に乗った資産の海外逃亡などが次の舞台の開幕を告げるであろう」(あとがきより)。
「つねに未来がリスクに満ちていると仮定すれば、わたし達は日常的に危機に対応するシナリオを幾通りも用意しておく必要があるだろう。賢者は最悪に備えるという箴言もあるように、中国が分裂しないという保障は何処にも存在しないのである」。
「米国も英国も分裂気味なうえ、カナダも恒にフランス語圏の分離独立運動を抱えている。イラクにはクルド族独立運動、グルジアにはオセチア、アブハジアという「国内国」との紛争、スペインにもバスク独立運動。。。。。。。。。」
「フランスの人口学者、エマニエル・トッドは1976年にソ連の崩壊を予測した。当時、だれも彼の予測に耳を傾けなかった。あり得ないと踏んで、その仮説を嗤った。
ソ連を構成していた十五の共和国のうち、バルト三国(ラトビア、エストニア、リトアニア)はすぐに西側に飛び込み、カフカスのグルジア、モルドバ、アゼルバイジャンはモスクワ離れが激しく、そして”スラブ三兄弟”といわれたウクライナ、ベラルースもモスクワと袂をわかった。この趨勢をみていたイスラム圏中央アジア五ヶ国も便乗して独立した。カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタンだ」。
「そもそもチベット、新彊ウィグル自治区、内蒙古自治区、旧満州はそれぞれが独自の歴史をもつ漢族とは異なる国家だ」。
「チトー大統領の強引な手腕で「国家」を形成したユーゴスラビア連邦は重圧な桎梏が消えると血なまぐさい殺戮を開始し、北からスロベニア、クロアチアがさっさとセルビアに反旗を翻し、ボスニア&ヘルツェゴビナとの紛争に手間取る間にモンテネグロとマケドニアも独立、セルビアが孤立した。加えてコソボが事実上の独立宣言をしており、ユーゴは六つの分裂から事実上は七つの分裂国家になる。
この伝でいけば中国が七つ前後に分裂するという議論はまったくおかしくない(本書の仮説は七分裂だか、必ずしも分裂後の中国が七つになるとこだわっているわけではない。五つかも知れないし、或いは十数に大分裂を引き起こすかも知れない)」。
本日発売
『中国分裂 七つの理由』(阪急コミュニケーションズ、1680円)
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%88%86%E8%A3%82-%E4%B8%83%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1-%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E5%BC%98/dp/4484092344/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1253137807&sr=1-1
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面白いマンガってのはあまりにも多すぎるので、話題の「熟練」も加味して。
「よつばと!」(言わずもがな)
「げんしけん」(8巻、9巻付近のネームの上手さはびっくりした)
「エマ」(途中から精神と時の部屋に入ったみたく漫画が上達する。メイドの着替えだけでたっぷりページを持たせる上手さ)
「フラワーオブライフ」「大奥」「きのう何食べた?」(よしながふみの人物観察の深さは素晴らしいし、それをわずかなページ数に落とし込む技術がどんどん洗練されている。それの結集が「きのう何食べた?」だと思うが、まだ単行本がないので「大奥」「フラワーオブライフ」ら近刊を補足としてあげる)
「STEELBALLRUN」(荒木先生はまだまだ上を目指されております)
「ヘルシング」(これも途中で大化けした)
追加「夢幻紳士 幻想篇/逢魔篇/迷宮篇」(まず絵が熟練。線一本だけで妖艶。三部作通した構成の上手さもさすがベテラン)
「おおきく振りかぶって」も面白いんだけど、まだ「熟練」じゃないかなーって思う。どうでもいいが、よしながふみへの愛が長い。
あと最初から「熟練」はしてなかったんだけど、最新刊or最終巻では熟練したなーと感じる漫画って多いね。
2ちゃんの哲学板とかいつぞやはてブでヒットしたニセ科学の菊池誠さんのBlogじゃないがそこらへんでよく見かけるフマ?なる人物がプライベートモードに追い込んだらしい本田由紀という方が最近朝日新聞で何かの賞を取ってそこらへんの流れからかその人が時流自論を最近担当している記事を読むことがあるのだけれども今日の記事をザッと独断と偏見で引用してみる。
まとめるとこんな感じだった((まとめてるか、ちゃんと要約できているかはわからない))
こういう見解は初めて見たので興味を持ってこちらにメモとして書き込むことにした。
問題は現在、平均的な共通社会意識が「ミクロな次元」の問題として認識するような社会環境に現状の日本にはあることが挙げられるかもしれないかな、と。
それは個々人が協同する機会が希薄化されているかもしれないことにも関連するだろう、とも思う。つまりインターネット((一例として挙げているだけで複数の現在の00年代日本における様々な間人媒体がって話っす。かな))というような副次的生活主体がリアルな生活主体を希薄化させてそしてまた双方が空中分解したまま進行していっている現今の社会環境が、その機会・可能性をますます低下させたまま進んでいっている、のかな、と。
以上、歿。((こんなに引用していいのか(Φ皿Φ)クワ?って今ちょっと不安に思いながらさて外出します図書館とかに。ひきこもりが。))
マクロにやっぱり見合った職が無いだけなんじゃないかと。
マクロに見合った職があるような経験っていうか教育を受けるマクロなものが無いってのもあるかもね。
ていうか両方じゃろうて。マクロがミクロをますます。ミクロもマクロをますます。じゃないかな。
いい感じに悪循環生み出してるからその分のマイナスの部分を国がどうにかせんと負債としていつか暴落しちゃうぜってことでは。大量粛清としての自殺者の切捨てっていうのとかで(ry。うふっ。