はてなキーワード: 拒否権とは
俺が通ってるオサレ床屋さ、普通に男性店員と何故かエステ服を着た女性店員がいるのね。
で、俺は女性店員とキャハハウフフって会話しながら髪切られたり、顔剃りされたり、
マッサージされたくてその店に通ってるよね。実際、10人のうち半分くらいの客は女性店員に当たるの。
女性店員は別にイケメンのみ担当ってわけじゃなくて普通にデブい中年おっさんの担当になってたりする。
俺はデブでもなければオッサンでもない(心はすでにオッサン化してる)んだけど
いつも同じ若い男(爽やかな超絶イケメンで親切で仕事が丁寧)が担当してくるの。俺に拒否権ないのね。
確かに腕もいいし、話しかけ方とかトーク術とかも素晴らしい。髪型もほぼ理想通りにしてくれる。
どういうわけか数いる女性店員の中でも一番老けてるオバサン(40代くらい?)だった。
他の女性店員は20代くらいの元ギャル風でエロい体つき人ばっかりなのに。
ああ、それでも同じ床屋に通ってしまう俺。ワンチャンあるんじゃね?と思うからやめられない。
いつもその床屋に行った帰りにワンルーム型エステ店でお尻触って帰るんだ。
でも、床屋代金の倍以上払ってお尻さわるだけ。
むなしい。
でも、父親がアル中で家族崩壊の瀬戸際までいったトラウマから、あんまり酒が好きじゃない
飲んだ翌日は確実に体調が悪くなるし、できるかぎり飲みたくない
日本だと酒が飲めない、飲まない、というだけで社会的にすごい不利になる
もちろん最初は何度も付き合って飲めない酒も無理して飲んだ
でも、日に日に体調が悪くなっていき、ある日から飲み会を断るようになった
参加して飲めないなら飲めないなりに気を使えばいいという
まあ、酒ってそういうために飲むものだろうけど
とにかく必ずといっていいほど酒を飲ませてくる
病院でアルコール耐性の検査をすると、弱いようだが病的ではないという
だから、診断書をつきつけてアルコールを拒否することもできない
たとえ診断書があったとしても、立場が悪くなることに違いはないし
それからは飲み会参加を安心して拒否できるように非正規で働くようになった
でも、このままだと将来どうしよう、と悲観するときがある
酒を飲みたくない、という一点だけで職場と上手く馴染めない
病的ではない以上、飲酒拒否はわがままに過ぎないことはわかるけど、
どうして社会人はアルコールなしの付き合いが許されないのだろう、と理不尽な思いに苛まれている
みんなはアルコールとどんな風に接しているのだろう?
酒が飲めない、飲まない同僚部下をどう思っているんだろう?
うちの親は相当おかしかった。
子どもは親の言うことを聞くのが当たり前、親にとって都合のいい存在、言いなりになる操り人形だと思っていて、休日はいつも親の趣味に付き合わされた。
拒否権が全くなかったし、誰に助けを求めればいいのかわからなかったので、ひたすら耐えた。
そのせいで、自分に自信が持てず、人とうまく接することができなかった。
極度の非常識でコミュ障だったので、中学時代はもちろんいじめられた。
父親は、子どもが自分の思い通りにならないととにかく怒り狂った。
やりたい放題だった。
それでも親は、自分達が正しいと思っている。
悪いのは全て妹。
せっかく進学校に行ったのに中退してしまって、もう5年も家から出ていない。
親が自分たちの行いを悔い改めない限り、妹は救われない。
私は母親に何度も「お前は何事も長続きしないダメな子」「親から逃げてばっかりの弱虫」と言われたが、逃げなかった妹は潰されてるじゃないか。
出来の悪い子と離れられて嬉しいんじゃないのか。
このまま自立もしないで、親の介護要員として生きていくんだと思う。
可哀相だけど、何もしてやれない。
ごめん。
今年も、おかんから「正月は...実家帰ってくるんだよね。」っていう電話が掛かってきた。
自分は、「いやあ、仕事が忙しいからね。」と答えたら、おかんは「親戚の集まりがあるから、帰ってくるよね、ね!」と切り替えして、自分には拒否権なんてないと思い知らされて...
帰省は憂鬱だ。父は些細なことで怒鳴り散らす。母はヒステリックに感情をブチまける。間に挟まれた自分は笑顔を絶やさずイエスマン。キチガイ上司の相手は会社だけで充分だ。家族であるというものはこんなにも辛いものなのだろうか。
だから、実家に帰ったら飯と風呂以外は、「仕事、残ってるから」と行って自室に篭もっている。
親は子供に見返りなど求めない、なんて話が嘘であることは親不孝者という言葉が存在する時点でどんな馬鹿でもわかりそうなものだが、
親が子供によって得る見返りには、例えば子持ちという社会的ステータスがある。このステータスの価値は子供の社会的成功によって変動するので、
子供にはいい成績をとっていい学校に入ることが求められる。もちろんそこには子供の将来のためという非常に説得力のあるエクスキューズがつくわけだけど。
あとは子供と過ごす時間の喜びだの、老後の不安の軽減だの、人生を豊かにするだの、xevra先生曰く、一人の人間として完成するだの、といったことがあるらしい。
どれも子供にとっちゃクソどうでもいいことで、こんなことのために拒否権もなく産み落とされるなんざ迷惑千万な話であるが、ここでは措いておく。
こういった種々の見返りは多くの人に価値のあるものとみなされるが、問題は二人目以降その価値が下がることである。子持ちステータスの価値は子供の数には比例しない。
複数の子供を産めば一応ステータスの価値も上がるが、その上昇は一人目に比べるとわずかであり、二人目以降相対的に子供の価値が下がることになる。
また、複数の子を儲けることによるステータスの上昇よりも子供の成功によるステータスの上昇の方が大きいので、もう一人子供を産んで莫大なコストをかけるより、
その分をすでにいる子供の教育にまわした方が効率がいい、という打算も働く。
子育ての喜びも二人目以降やはり下がっていく。人間はどうしても飽きる生き物で一人目のときほどの刺激は得られないし、せいぜい二、三回で満足してしまう。
老後の話についてもリスクを分散するぐらいの得しかないし、xevra先生の金言にいたってはすでに人間として完成しているので二人目以降価値ゼロである。
では損の方はどうかというと、別に下がったりはせず二人目以降も一人目同様のコストやリスクがかかる。
一人目の経験によって少しは楽になるし、子供が子育てを手伝ってくれるといったことがあるとしても、単純に複数の面倒を見るということ自体大変だし、
加齢で体力が落ちれば負担も大きくなることを考えると、少なくとも一人目と同等の労力が必要だろう。
二人目以降、得られる見返りは小さくなり、損失やリスクは変わらない。つまりコスパが悪くなる、あるいは投資効率が悪くなる。別に言い方はなんでもいいが。
こうして世の親たちは子供を産むのをやめる。損得勘定によって産むのをやめる。
これは世のどの親もやっているはずの損得勘定なわけだけども、例の増田についたブコメを見る限り、なぜか一人目でそれをやると怒られるらしい。なぜかね。
自分の子持ちステータスの価値を否定された気分になるからなのか、それとも自分もやっていて都合よく忘れている損得勘定を思い出させたからなのか。
笑えたのは私たちは子供に見返りなど求めない!、なんて言ってるのがいたことだ。まあ当然嘘である。
親は子供に大小さまざまな見返りを期待するし、子供はそのことを理解している。期待に応えられなければ親不孝者の謗りを受けることも理解している。
その子は「私じゃなきゃだめ」だといったり
そういう子に「アドバイス」なんて上から目線のものは響かないんで
「君のいまやってることによって、こんなに困ってることになっている」という現状をつきつけないとだめじゃないかな。
タスクマネジメントできていないことで〆切に間に合っていない、仕事の質がわるい、残業時間が多すぎてこのままでは評価をあげることができない、
そういったことを伝えて、このままじゃ俺も会社も困るからどうしたら改善できるか自分で考えてみてと。
そんで現状の問題となっている部分の洗い出し、それに対する改善案を箇条書きでいいんで提出してもらって。箇条書きだしてもらうのは命令ね。拒否権なしで。
期限は1週間後かな。その1週間の内に悪いとこをを見直してもらうということで。
そんで、提出してもらったものをベースに話し合って改善してったらいいよ。
もしそれでごちゃごちゃいうならきちんと叱った方がいい。
適当に聞き流してほしい。文章が得意でない、下手で申し訳ない。
以前、話題となったある人物について書いてみる。
現在、彼女は24浪で通分の勉強や元素記号の暗記を4番くらいまで行っているようだ。
前述されて有名な通り、彼女は怠惰に見える行動をとる生活者だが、実は理由があることに私は気づいた。
人間の脳には準備電位と自由意志について模索される回路がある。
脳科学でこれは検証されているが、彼女にはこれがとてもあてはまるのではないかと感じた。
たとえば、われわれの意識の中で自由な意思をもって目標を定めた時、我々は自らそれを決定しているように見える。
しかし、じつはそれが脳の無意識化であらかじめ決定されていたことなのだ。
そして人が意識できることは唯一、その目標に拒否権を発動させることしかできないという考え方がある。
例として試験に合格したいから勉強するという流れをこれにあてはめてみる。
意識下では彼女は東大理3に入学希望しているので勉強しようとする。
しかし、無意識化でそれは理3に入ることだけに全てが位置付けられるが、
勉強する行動を起こす時、直前になって真剣に受験勉強に必要とされる能力を習得しない怠惰な行動をとってしまう。これが拒否権発動回路だ。
生放送で勉強と関係ない愚痴を言ったり、非現実的な妄想を述べてリスナー達のアンチ行為に激昂し冷静さを失い、勉強する気をなくしてしまうという行動などが該当する。
センター試験当日の朝、寝坊したという拒否権行動もそれにあてはまる。
つまり、何か行動を起こそうと思うにあたり、その決定はすでに無意識の中で答えがでているのだ。
要するに、本人の意思決定の表在化として「東大理3受験生」という表現型があり、我々の目に映るのだが、本人の無意識化で準備された決定事項は「受験に成功しないこと=自分の力で自立しない人生」なのだと考えれば合点がいった。
実行直前に拒否してしまう彼女の脳プロセスはまさに準備電位の活動回路の活性化による拒否権として成り立つ。
別にあくせく働く必要もなく24年間、通分できない能力で東大理3受験勉強をしている彼女は身をもってこれを示してくれていたのだろう。
進化しなくていいという拒否権が無意識にあることで生きていけるのだ。
たとえ何浪になろうがなんに悪びれることもなく、これからも正々堂々と生きていってもいいのではないだろうか。
指導教員が博士審査の主査をやるかどうかは、専攻によって違う。自分の専攻は指導教員が主査だったけど、隣の専攻は指導教員が主査になれない。専攻の慣習であって、指導教員が決められる類のものでもないよ。
指導教員が主査になれないのはイギリス式。指導教員が主査に加わる代わりに副査が増えるのがアメリカ式。どちらも一長一短あるよ。指導教員が主査に入れないと、同じ大学に似た研究分野の教授がいるかどうかで、出やすさが変わってしまうし。
ただ、どの大学でも、指導教員がOKと言わないと、そもそも、博士審査すら受けられないよ。そもそも、指導教員が「私はこの学生が博士に値すると思うので審査会を開きたい」っていって、副査の先生を集めて審査会を結成するんだから。確かに、指導教員がOKといってても通らないことはあるけど、指導教員が絶対ダメと言ったら絶対通らないよ。拒否権みたいなもの。
岡田斗司夫氏はかねてから自分の持っているメソッドで世界の数%を幸せにすると言っていたが、それは後づけ理論であり自分の膨大な欲求を満たすための副産物であるような気がした。
※その辺、行動経済学的にもご自身でわかっていらっしゃるのではないかと思う。
もちろん岡田斗司夫氏の現在の活動や言動を否定するものではなく、人生を豊かにするような有意義なメソッドもあると思うのでそれは各自ググってください。
普通に性的欲求のある一般的なおっさんである私が岡田斗司夫氏の発言を良心的に見てもやはり病的としかいえず、
これが通常の人に近い反応だと思うので、岡田斗司夫氏とつきあっている女性も心に病を持っている人が多そうだが(実際Aさんは拒食症らしい)岡田斗司夫氏自身もたまに鬱になるときがあると語っている以上、やはり類は友を呼ぶというでっかいくくりで()してもいいような気がする。※その他の8人の人に失礼だと思いますので先に謝罪しておきます。
頭のいい岡田斗司夫氏はそういった自分のあふれでる肯定的であり病的な欲求に対して意味を見出すために(意識的か無意識的かはわからない)
あのしゃべりくりや、博学さを身につけていった可能性が高い。「自分の彼女からしか学べない」ともいっています。学びはよりよく生きていくためのツールですからね。
※岡田斗司夫氏のあふれでる病的肯定的欲求をめんどくさいので以下トシオズムと明記。
・一人の人間を大事にすることができなかった。これは最初の奥様との結婚をして気づく。
・sexボランティア:なかなか普通のメンタルでできないことは想像に難くない。ボランティアに所属と言及しているが、本当のボランティアでそんな団体に所属する人はむにゃ※〒々。。。。相手がだれであろうと拒否権がないことを許諾できるのは、トシオズムがそういう団体に所属させたとしか思えない。
・自己嫌悪はない。
・性欲ではない。
あと動画全般にみる「モテ」という表現に過敏というか、俺はもててるとかそういうのではなくて的な言い回しは岡田斗司夫氏は自分のトシオズムをわかっていて俺はこのトシオズムを満たしているだけで、結果的には「モテ状態」なんだが、だからといってみんなにトシオズムを持て!とも言えない自縄自縛状態に見えるのは私だけでしょうか。
岡田斗司夫氏のあの天才的な話術やメソッドの裏にはトシオズムが根太く根付き、膨大なトシオズムパワーから生み出される岡田斗司夫コンテンツはその効果も大きく、その分自身に返ってくるマイナスパワーもあり鬱状態にもなりながらもがいている岡田斗司夫氏を感じる。
なので結論はトシオズム対談ということでぜひ、恐山院内の南直哉さんか、小池龍之介さんと対談して仏教的観点からそのトシオズムを理解・解体・再構築し、昔はトシオズムに揺れていた宮崎哲弥氏も含めた鼎談にすると2015年最強のコンテンツになり得る可能性もあり、世界の数%を確実に救うであろう新たなメソッドが生まれる瞬間を見たいと思うので、
古いアニメを持ち出すが、ゼロの使い魔のアニメ2期のEDの歌詞に『よそ見してたでしょっ 他の女の子』
という歌詞がある、これは主人公であるサイトがルイズの視点から見るとしょっちゅうシエスタやキュルケに色目を使い目移りしているように見えるということを示唆している。
しかし読者や主人公からすれば主人公であるところのサイトがずっとルイズが好きなのは明らかである。
では何故そのようなすれちがいが発生するのか、これをゲーテの名作であるところの"若きウェルテルの悩み"を読んでいたところ思いついたのでここに記してみる。
若きウェルテルの悩みはウェルテルがロッテに猛烈な恋をするが、既婚者であるロッテとの恋はどうやっても叶えられないことに絶望し最後には自殺をするという壮絶な内容であるが
ロッテが結婚したからといってすぐ自殺をしてしまったほけではなく、当然そこには過程がある。
ウェルテルはロッテがすでに婚約者であったがためにいったんよその土地へ行くがまた戻ってきてしまう、そして戻ってきたときにはロッテはすでに結婚しており以前住んでいたときの住民の近況は変化していた。
作中のエピソードでウェルテルがある口下手な作男と非常に仲良くなり、その男はある後家さんのところで働いており非常にその女主人を慕っており、女主人のほうも作男を優遇しておりにくからず思っているということが語られる。
ウェルテルがよその土地から戻ってみると、その男はウェルテルが留守にしているあいだにその女主人と腕ずくで思いを遂げようとしたがそれを快く思わない女主人の弟の介入もあり拒否され解雇されてしまう。
もちろんウェルテルはこの作男にロッテへの強烈な横恋慕をしている自分を重ねあわせて同情する、そしてこの作男は最後には後任の男を殺してしまうのだ。
作男がこの後任の男を殺したのにはもちろん理由があって、何故か女主人はこの後任の男と結婚しそうな気配があったらしい(なぜこうなったのかは私にはわからない)
ウェルテルは後任の男を殺してしまったこの作男を強烈に弁護するが周りからは受け入れられない。
他にもロッテに恋し、それを打ち明けた結果免職になり気が狂ってしまった書記の話などが語られる。
もしもまともに恋愛ができたならば当然この書記はウェルテルにとっての恋敵なわけだが、ウェルテルはこの気が狂った書記の話に対してはげしく感動をしてしまう。
なぜなら、この書記はウェルテルがやりたいと思ってできなかったことをした結果狂気の道におちいったからだ、それに対して深い同情を覚えて感動をしたわけだ、しかしこれはウェルテルにとっては絶望への一歩だったと思う。
さて前述の作男の裁判をした結果、弁護は受け入れられずウェルテルはロッテとの交流も断たれてしまい、最終的に自殺の道を選ぶことになる。
では何故ウェルテルは自殺をしたのか? ロッテが婚約しているにしても、結婚前に告白すれば万が一でも受け入れられたのではないか?もしくは他の女性を探すとかロッテを略奪するとかさまざまな道があるのではないかと読者が思うのは当然である。
しかしこれらの道はすべてウェルテルからするとすでに検討された、というか現実に試行してみたようなものなのだ。ウェルテルは発狂した男や殺人を犯してしまった作男を見て、自分の思いをうち明けたり略奪をしようとすれば同じ結末になることに気がついてしまったのだ。
とはいっても、他の土地へ移るというのもすでにやってしまった道であり、どうやってもロッテへの想いを抑えることはできないと悟ったから最終的に自殺をするわけである。
ではどうしてこういう考えに至るのかというと、告白やら略奪といった行為は男性にとって非常にリスクのともなう行為だからだ。
古来から女性には恋愛や結婚に弱い拒否権はあっても、誰々と結婚したいといった能動的な権利は与えられてこなかった、つまり求婚は基本的に男性から行われてきたのである、これは現代でもある程度同じ傾向が見られるといっていいだろう。
フィクションであれば"すばらしい新世界"などで女性から直截なセックスを求められ野蛮人(旧世代人)のジョンがショックを受けるといったような話があるが、だからこそ現実ではそうはなっていなかったということがわかる。
それはともかく、女性から求愛をするというのは稀であるというのがわかると思う、これは"据え膳食わぬは男の恥"という故事成語からもめったにあることではなくそのような事までさせてしまったのだから男は責任を取れという意味合いであると思う。
つまり求愛は男性から基本的に行われ、女性はせいぜい思わせぶりな行動しかとれずあなたは私をどう思っているのか?ということは聞けないのである、聞けば実質それは告白と同じである。
そして万が一その告白が拒否されればそれは恥ずかしいことであり自分の自尊心を大いに傷つけることになる。しかしそういったことを聞かずある程度まで仲良くする分にはまったく問題がなくノーリスクなわけである、女性の側からするとやきもきするかもしれないが男性の側からすると告白はリスクの伴う行為であり確証を得るまでは動けないのである。
告白を行うムードまでもっていけたら実質告白前に勝負は決まっており勝ちも同然である。
ある程度の仲まで持っていくのはノーリスクなのだから青年男性はいろんな女性とある程度に仲よくなったりするわけであり、それは意中の女性がいたとしてもまだ彼氏彼女の関係になっていなかったらそうなのである。
それはリスク分散という側面もあるし、単に女性と話すスキルを上げたいというのもあるだろうし、告白し失敗した場合に自分の精神を守るための布石だったり、一人の女性だけに入れ込んでいるのは怖がられそうという判断のためだったりするだろう。
しかしこれは女性の側から見たら、男性はいろんな女性に目移りしたりデレデレしているように見えるのではないかと思った。私は好きとは言わないけどあなたからは言って欲しいというわけである。好きと言ってくれなかったらそれまでの愛が憎しみに変わったりすることもあるわけで、
たとえ男の方は意中の女性のことをずっと一途に慕っていたとしてもそうなったりする。
こういうことを考えていたら、そういえばゼロの使い魔のEDにそういうような歌詞があったなと思いだされてたので文章にまとめた。
ともあれ恋愛弱者に対して死刑宣告をするような本だった、途中まであまり面白くなかったがロッテに告白して爆死した男にウェルテルが同情したあたりから面白かった。
自分は未婚男ですが、数回お見合いしています。どれも失敗しました。
その敗因は主に相性の問題だったけど、もう一つ仲人のプレッシャー問題という大きな問題も背景にありました。
見合いをしてみると、とにかく間に入ってくれる人がせっかち。
早く決めろと連日の連絡。
ゆっくり話をしながら進めたいというが、とにかく急げ、早くしろ、と興奮気味。
これに参ってしまい、もう少しじっくり付き合いたいという当人たちの希望より、
これを味わってしまうと、そのお見合いがまとまらなかった後は、
もうお見合いすること自体、こりごりだという気分になりました。
仲介を自ら買って出るような人たちは、いい意味でおせっかいなタイプの人が多いと思いますが、
こういう人たちは、大概せっかちです。そして申し訳ないけど、自分の手柄欲みたいなものが強いです。
早く自分の親切の結果が見たいという気持ちを、会話の中にありありと感じます。
昭和の中ごろまでの、昔のお見合いは本人たちにあまり拒否権はなかったかもしれません。
即日決定なんてこともあったでしょう。
僕はお見合い自体は全く抵抗がないのですが、仲介してくれる人にアレルギーがあります。
周囲の考え方や仲人のあり方を見直さないと、お見合い結婚を増やそうという良い試みも失敗してしまいそうで、もったいないと思います。
とはいえ、実務をやったことがないから選考できませんとも言えず、
選考と実務は別と考えて、取り組むことにした。まあ、そもそも拒否権などないんだけど。
ちなみに、当社は資本金1億円未満、非上場、社員数500人程度の中小(堅?)企業である。
ほんの半年ほど前までは、僕は転職活動中で、選考される立場だった。
面接したい候補者が見つかれば、上司に書類を見せて、承認されれば上司と営業課長と共に面接する。
限られた時間のなかで50人以上の選考をしていると、自分なりの基準ができてきて、
1人あたり数分で合否判定ができるようになった。
ただ、不合格の場合は、人材紹介会社にあまりに早く伝えると、軽々しいので、数日は温めてから返事をすることにしている。
肝心な選考基準は下記のとおり。
・とにかく体力・忍耐力がありそう
・人当たりが良くて人付き合いが得意そう
選考基準というのはもっと他にいろいろあるんじゃないの?こんなんでいいの?と
でも何度考えてもこの2つに落ち着いてしまう。
だって、採用してすぐ「キツイから」と言って辞められたらまた採用をやり直すことになるし・・・
人当たりが良くて人付き合いが得意じゃないと客先や社内でのやりとりに支障が出るし・・・
そのほうが一緒に働いていて楽しそうだし・・・
趣味に「読書」と書いてあったので「どんな本を読むの?」と聞いたら「自己啓発書」と応えた候補者も不合格。
学歴高いけど気難しそうな候補者も不合格。「前職では休日が少なくてキツイから辞めた」などの苛酷な環境を理由にするのも不合格。
前職の経験をのびのびと書いてあったり、楽しそうに話す候補者は合格。
上司は僕のセンスを見ているのかもしれなかった。だが、大体の場合、意見は一致した。
自分で選考を担当してみたら選考というのは意外とシンプルなんだな、と思った。
採用してみたら違った、となるかもしれないので、今回の選考が正しかったかどうかの検証はこれからだ。
ところで、僕が採用されたときの選考基準で重視していた点を、面接してくれた部長に入社後に聞いたら、
「とにかく精神力が強そうな人」だったらしい・・・管理系でもこれか・・・
この点は「資格たくさん持っている奴って経験上、仕事に集中しないで勉強ばかりしていたり、性格が変なやつが多いんだよね」と言われた。
もう我慢ならないから書く。
そのイベントに必要な予算は会社から提供されるが、活動事態は業務時間外で行う。
毎年、社長も含めた幹部たちも観にきて、大いに楽しんでいる。
どんどんイベントに期待されることが大きくなり、今では会社の一大イベントとなっている。
問題はそのイベントの準備をするメンバーの活動に、サラリーが発生しないことだ。
イベント3ヶ月まえぐらいから、帰る時間は21:00以降になり、1ヶ月前には日をまたぐ前に帰れれば良い方だ。
本来の業務も合わせてそちらの活動もするため、仕事が回らなくなり、活動で気力も体力も奪われ、
日に日に体が弱っていくのを感じる。
さらにたちが悪いのか、そのイベントの準備メンバーに選ばれたら、断ることができない。
いや、拒否権はある、とは言われるが実際はないという状況だ。
断ったらこの先仕事やりにくくなるかもねー、みたいな言い方もされる。
最近では拒否権がほとんどないに等しい3年目までの新人中心にメンバーが集められている。
(中堅どころは流石に嫌になったのか拒否権を発動している)
もうみんなやりたがらないから、メンバーを集めるための苦肉の策でもあるが。
他部署との連携で顔も広がるし、業務につながる知識、技術も身につく。
だが、会社からの命令でやっている活動に給料が発生しないのは、どう考えても納得できない。
しかも、本来の業務にも影響がおよび、その活動で仕事が回らなく先輩を毎年何人もみている。
最初は部活動のノリで活動してきたものだった。みんな好きでやってたし、それが好きなメンバーが集まっていた。
だが、規模が大きくなって、上層部がやれというからやる、に変わってきた。
強制され、求められる成果も大きくなり、今や上層部のご機嫌伺いのための活動と成り果てた。
まあ、早い話、きちんとこのイベントの活動も業務の一環とし、しっかり給料を払ってもらえて、なおかつ労働組合の基準で労働時間を管理してくれれば、しっかりとやるのに。
野々村という兵庫県議会議員の会見動画なるものを見て唖然とした。
あんなの会社とかにいたら、典型的な「仕事のできない人間」なのは一目瞭然。
でも、あんな人間でも、選挙期間中に名前を連呼して選挙区を走り回って、
あまり深く考えてない選挙民に名前を覚えてもらえれば当選してしまう。
投票日は平日なんだが。
選挙の機会が少なく、選挙結果の生活への反映が実感できるので、
選挙回数の少なさが影響しているに違いない。
いずれの選挙も、比例代表制。多くの主要政党は長い歴史があり政策は一貫している。
政党は、合併したりするよりも、開票後の議席数での主導権争いを優先する。
議席配分が決定した時点で、次の選挙への運動はもう始まっているのだ。
永年存続する党組織内の目利きが、実務能力を主な基準に名簿順位を決める。
仕事ができない無能者が議員になる可能性はここで非常に低くなる。
いずれも直接選挙ではない。第一院は第二院の議員、州議会は市議会議員による投票で決まる。
この際、市議会与党とは異なる政治信条を持つ者が選ばれることは珍しくないし、
自治省は対立的性向を持つ人物を、そもそも「実務能力のある人間」として選ばないので、
都市部の首長選挙が単なる「人気投票」と化してしまっている日本人から見ると、
市長の実務能力が担保されているオランダのシステムは羨ましい限りだ。
衆議院も参議院も2票ずつ。県知事、県議会、市長、市議会、それぞれ一回ずつ。
選挙の回数が多すぎるので、
前回の自分のどの投票が生活にどのような影響を与えたのか覚えきれないし、
失敗や成功を参考にできる他国の制度(イギリス・フランス・ドイツ・ベルギー等)が間近に見れるから
成り立っているとも言える。
ナポレオン退位以来200年間、国体が変わっていないという利点もある。
日本の選挙制度の成立にはアメリカの制度の影響が色濃く見えるが、
立派なタテマエとは裏腹に、アメリカの選挙制度の社会に与える影響ってどうなんだろうね。
それでもウィルダースのような排外主義者が議員として影響力を持つことができるので、
「実務的な」オランダ人たちはそこに頭を悩ませている。
国立国会図書館調査及び立法考査局レファレンス(2009.1)より。
我が国政府は、集団的自衛権(right of collective self-defense)を「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」としている。
成立経緯についてのこの人の説明としては、
具体的にはこれからみんなで国連憲章つくろうねってサンフランシスコ会議が開かれたときに、ラテンアメリカ諸国が安全保障理事会の許可なしでお互いの身を守れるようにしたいって言うから憲章内に盛り込まれたとのこと(wikipedia参照)
集団的自衛権の法的性質については、(1)他国の権利を防衛するとする正当防衛論、(2)個別的自衛権の共同行使とする自己防衛論、(3)攻撃を受けた他国の安全と独立が自国にとって死活的に重要な場合に防衛行為をとることができるとする議論の3つに分けられる。現在の通説は(3)であるといえるが、攻撃を受けた国と集団的自衛権を行使する国の関係が具体的に明らかではなく、軍事介入を幅広く認める結果となる恐れがある。
(3)の「攻撃を受けた他国の安全と独立が自国にとって死活的に重要な場合に防衛行為をとることができる」っていうのが増田への回答になるんだろうか。
今、AがBに喧嘩売られてて、負けるとAが持ってる舟はBにとられちゃう。
俺は毎朝その舟に乗って仕事に行ってる。
じゃあAがやられたら俺仕事いけなくなるじゃねーか。
「A殿、助太刀いたすぞ。」
っていう感じかね。
けどこれはあくまでも通説の(3)による理解なので、(1)(2)の理解もあるし、安倍政権がどういう解釈をしてんのかはわからん。
あとそれから、
その濫用が疑われてきたことは否めない。
ってのも書いてあるねー
以上参考になればとシェア。
これから本文読んでみる。
―国際法上の議論―
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200901_696/069604.pdf