はてなキーワード: 怠惰とは
日本の大学院でうまくやれなくて、逃げるようにして海外の大学院に行った。行き先はPIになってから数年の若手だがメジャーな論文にいくつも論文をだしている教授のいる、一流ではない州立大学だった。最初は居候をさせてもらう形で、その後PhDコースの試験を受けて入学をするような段取りだった。
この後のことはあまり書きたくない。彼は非常にフェアであり、かつ、環境も悪くなかったと思うが、結局、私自身の怠惰のせいで、その段取り通りには行かなかった。海外にまで行って再度思い知らされたのは、学部でのパフォーマンスの良し悪しと、その後の研究室での良し悪しに関して、求められるものが全く違う、ということだった。そこの落差を乗り越えるためのサポートや、それを乗り越えるための努力の仕方などは国が違えば様々なのだが、落差を本人の努力によって乗り越えなければいけないということには違いはないのだった。
研究とは本質的には関係のないところで海外に行って私を悩ませたことの一つとして、世間知のようなものの体系が大きく違うことがある。読んできた本、見たテレビ、口ずさんだ歌、学校のあるある話などが全く違う。私は、新見南吉や森のくまさんで育ち、ドリフやとんねるずに笑い、山月記やドグラマグラを読みながら世界に対して斜に構えてみたりもしてきた人間なのだが、そのような経験の引き出しは海外の人間と共感し合うのに当然ながら何の役にも立たない。会話のネタというのは共通の経験や知識に基づくものだから、それが薄い相手とは、面白い話をすることが難しい。私は、知的でユーモアのある人間でありたい、と欲しているのだが、そのような会話ができない、というのは地味に辛かった。
話は脱線するが、クイズや謎々というのは知的な遊戯だが、一方であれは、高度にドメスティックなものである。クイズ番組などでは、日本で一般的な良い高校良い大学を出ている「知的な」人間が7割程度解けるように調整された問題が出題されるのであり、「知的な」人間は芸能人やクイズ王と競い合いながら、自らの知性を感じるのが彼らにとっての楽しさとなっている。海外に行くと当たり前だが、クイズ番組で出題される問題がまったくといっていいほど分からない。日本語の壁を下に見て海外に出たのは私自身だが、日本語の中でこそ私が自分の知性と見做していたものに相対的な価値があったことに気づかされ自尊心を傷つけられたのだった。
他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業未いまだ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百篇ぺん、固もとより、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早もはや判らなくなっていよう。ところで、その中、今も尚なお記誦きしょうせるものが数十ある。これを我が為ために伝録して戴いただきたいのだ。何も、これに仍よって一人前の詩人面づらをしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯しょうがいそれに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。
袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は部下に命じ、筆を執って叢中の声に随したがって書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は感嘆しながらも漠然ばくぜんと次のように感じていた。成程なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於おいて)欠けるところがあるのではないか、と。
旧詩を吐き終った李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲あざけるか如ごとくに言った。
羞はずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己おれは、己の詩集が長安ちょうあん風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟がんくつの中に横たわって見る夢にだよ。嗤わらってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。(袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は昔の青年李徴の自嘲癖じちょうへきを思出しながら、哀しく聞いていた。)そうだ。お笑い草ついでに、今の懐おもいを即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きているしるしに。
袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は又下吏に命じてこれを書きとらせた。その詩に言う。
偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高
我為異物蓬茅下 君已乗※(「車+召」、第3水準1-92-44)気勢豪
此夕渓山対明月 不成長嘯但成※(「口+皐」の「白」に代えて「自」、第4水準2-4-33)
時に、残月、光冷ひややかに、白露は地に滋しげく、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖はっこうを嘆じた。李徴の声は再び続ける。
何故なぜこんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依よれば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己おれは努めて人との交まじわりを避けた。人々は己を倨傲きょごうだ、尊大だといった。実は、それが殆ほとんど羞恥心しゅうちしんに近いものであることを、人々は知らなかった。勿論もちろん、曾ての郷党きょうとうの鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云いわない。しかし、それは臆病おくびょうな自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍ごすることも潔いさぎよしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである。己おのれの珠たまに非あらざることを惧おそれるが故ゆえに、敢あえて刻苦して磨みがこうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々ろくろくとして瓦かわらに伍することも出来なかった。己おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶ふんもんと慙恚ざんいとによって益々ますます己おのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有もっていた僅わずかばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為なさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄ろうしながら、事実は、才能の不足を暴露ばくろするかも知れないとの卑怯ひきょうな危惧きぐと、刻苦を厭いとう怠惰とが己の凡すべてだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸ようやくそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼やかれるような悔を感じる。己には最早人間としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、己の頭は日毎ひごとに虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪たまらなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の巖いわに上り、空谷くうこくに向って吼ほえる。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処あそこで月に向って咆ほえた。誰かにこの苦しみが分って貰もらえないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯ただ、懼おそれ、ひれ伏すばかり。山も樹きも月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮たけっているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易やすい内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮の濡ぬれたのは、夜露のためばかりではない。
漸く四辺あたりの暗さが薄らいで来た。木の間を伝って、何処どこからか、暁角ぎょうかくが哀しげに響き始めた。
ゲイが祝福されない云々はともかく、
資本主義はキリスト教のプロテスタンティズムから生まれたとも考えられている
宗教改革におけるカルヴァンの思想は、より徹底した聖書中心主義であり、神は絶対的な権威をもち、人間の原罪はキリストの福音によってのみ救われるというものであった。その神による救済は「予(あらかじ)め定められている」であり、それを定めるのは絶対の権限を持つ神だけである、したがって「人間はすべて平等に創られてはいない。永遠の生命にあずかるもの、永遠の劫罰に喘ぐのも、すべて前もって定められている」とした。そのような人間がどのようにして神への絶対的服従を示すことができるかというと、現世の天職を与えられたものとして務めることでしかできない、と説いた。このようなカルヴァン派の信仰は西ヨーロッパの商工業者(中産階級)に支持されていった。そしてこの西ヨーロッパの商工業者の中から、近代社会を出現させる資本主義が生まれてきた。→『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
いずれにせよ、神は最初から私を救うか救わないかという正解を持っているが、それは私が死んで答え合わせがあるのであって、
私が死ぬまで正解は分からない、正解はCMのあとではなく死んだあとである
だからこそ、目の前の仕事を全うするしかないし、仕事がないとしても人生を謳歌するしかないとさえ私は考えている
その、仕事を全うする、人生を楽しむ、といったことも神は最初から計画されていることだし、
もっと広く考えるならば、この世界のすべてが神が計画されていることである
つまり、自由意志があるようで自由意志がないわけであるが、個々人にとってそれはどうでもいいことなのである
なぜなら、我々人は、神様が何をお考えになっているのか、知りようがないからである
そして、それを知ることができるのはイエス・キリストのみであり、それ以外の預言者は偽の預言者である
人は神様が何をお考えになり、これからどうされようとしているのか、知る方法はないはずだからである
だから、別にキリスト教を信仰しろ、信心深くあれ、不信心は許さん、とはまったく私は思わないが、
人は機械ではなく、ロジックのみで動作するわけではなく、必ずしも論理的、科学的思考が正しいとも言えない存在であり、
特別な信仰はなくても、頭のどこかに神というか、なにか見えないものを信じる必要性さえあるように私は考える
水木しげる氏の、見えないものを信じる、にも似ているように私は思っている
キリスト教や宗教を悪と考える人たちがこの世界に多く存在することも事実である
しかし、本当に宗教が必要ないのか、人の心に平安を与える唯物論的ではない何かが必要ないのか、
個々人がそれぞれ考えておく必要があるように思う
そういえば庵野氏の昔のインタビューの中に、今の庵野氏の心情とは大きく異なっている可能性はあるが、
「飽食の時代だから心の問題を描いた」みたいな発言があったが、
たしかにそれはある側面では正しく、それがオウム真理教のような終末思想のカルトを多く生み出した
しかし、当時の庵野氏が言う、飽食の時代でなければ明日食べるもののことだけ考えるから心は問題にならない、
これは本当だろうか
もちろん、明日食べるもののことだけしか考えられなくはなるだろう、自分もそうなるだろう
しかし、エヴァで例えるなら、その極限的な状態でシンジにとってのゲンドウが死ぬ、シンジにとっての周囲の人たちが死ぬ、
でも、自分が生きてるからそれでいいや、みたいに思えるものだろうか
たしかに他人に対して思い入れがない、思い入れがない他人であればそうかもしれない
極限的な状態であれば、食料のために親が子を食べる、子が親を食べる、人が人を食べる、殺し合い奪い合う、
そういうことが起こっても不思議はない
しかし、人であるならば、どこかで我に返ったとき考えてしまうのではないだろうか
これでいいのか、何か間違っていないか、
そういった考えが人にあるからこそ、道具を発明したり、農業を発明してきたのではなかったのか
もし、人がそうでないのであれば、今でも殺し合い奪い合っているはずである
しかし、そうならなかったのはなぜなのか?
悲しいことだが、大切な人が無残な死を迎えても、これも神様がご計画されていたことである
神様の役割は、お賽銭のような賄賂をもらって人の願いを叶えることではないし、
すべての人類一人一人が不自由なく幸せになることでもないからである
逆に考えても、すべての人が幸福な世界なんてありえないとしか思えないわけで
あくまで個人的な解釈だが、まず聖書は寄せ集めの書物という考え方もあるわけで、
キリスト教の中にも聖書は無謬であり絶対的に正しいという考え方と、
いや、聖書にも間違いがある、本質的には神が絶対であり神を信じることである、という考えもある
だから、あくまで個人的な解釈だが、自分としてはキリスト教的に、
ゲイであれノンケであれ関係なく、すべての人たちが救済されるか救済されないか、という問題を抱えており、
それは神様が最初から決めているわけであるが、我々人は死ぬまでそれは分からないのである
だからこそ、一日一日を大切に生きていくしか、人にはそれぐらいしかできないのである
人は思い上がりやすく、この世界を宇宙をすべて悟ったつもりになりがちである
鋼の錬金術師のフラスコの中の小人ではないが、神に思い上がるな、と言われるまで人は自らの思い上がりに気が付かない
そして、人は基本的に怠惰であり、その思い上がりからも歴史的にも多くの悲劇を生み出してきた
神を信じなくてもいいが、自らが思い上がっていないか、常々肝に銘じておく必要があるように思う
当時所属していた(日本の)大学では何の成果も出せなかったのだが、かと言って研究を切り上げることもできなかった時に、海外の大学に行くという選択肢が手元に残っていた。認めたくはないが、私は成果が出ないことを周りの環境のせいにしていたのだとおもう。そして、私自身が一向に研究活動を発表しない日本の学会において、少しずつ足跡を残しつつある同僚たちを見下していたのだとおもう。
私の属していた領域において、日本の学会での発表や、日本語での雑誌論文が海外で一顧だにされないのは事実ではあった。科学の世界で勝負をするには、言語の壁の中ではなく、世界の中で発見した事実を知らしめて議論して残していくことが価値ある営みであることは事実ではあった。しかし、私はそのことを言い訳として日々の努力から単に逃げ、研究室にも顔を出さずに自室で寝ていたような人間だった。海外に出るという選択肢は、自分の怠惰さに呆れ果てた私自身が求めた事であった。しかし、私は結局この選択の数年後、追い詰められても何もやらない自分自身に打ちのめされることになる。そして今思うと、そんな結末になることを私自身が気づいていなくもなかったと思う。研究という道に迷い込んでしまった上には、行き止まりと分かっていても探索していない道に何となく進んでしまうような、そんな気持ちだったのかもしれない。私はどうしたら良いか分からなかったし、自分の人生がどうなってもよいと思っていた。そんな中で選んだ海外大学院への進学という道がうまくいくはずはない。今こう思うように、当時の私もどこかで気づいていたはずだ。
もう日本に帰ってきてから10年以上になるのだが、当時のことを書いておく。
私は、地方の公立高校からあの大学に進んだ。大学の中でも成績は上位で、演習や卒論も上手くやっていた。一方で、卒業後に会社勤めをするということに対して抵抗を感じていた。私の出身地では、大卒のキャリアというものが医者と教員他の公務員と、地方支店の銀行員ぐらいのもので、自分の所属する大学から卒業した後にどうやっていくかのイメージを持てなかった。またキャンパスの中に単純に居心地の良さを感じていた。そして当然のように大学院に進んだ。進学と同時に返済不要の奨学金を取れるぐらいの評価をされていた。私の大学では、修士に進んだものはそのまま博士課程までを修めることが既定路線のような、そんな中であっても滑り出しとしては非常に良かったとおもう。
ところが私は、結局のところ研究というものには全く相性が悪かった。大人数の中で、答えがある中で進める講義や演習で点を取ったり、教授や院生が程よい難易度のテーマをくれる卒論ではうまく立ち回るものの、自分で解決策を粘り強く探し続ける研究には忍耐力が続かなかった。また、私は元々怠惰だった。ゴールが見えている中でゴールに向かうときには瞬発力を出せるが、行き先のわからない中で努力をし続けるような精神力に欠けていた。そうして私は研究室からは遠ざかるようになってしまった。
意を決した私は教授のところに向かい、修士で卒業したい旨を告げたのだが、私のことを妙に高く評価していた彼は私のことを惜しみ、環境を変えて研究を続けることを提案した。私には人と話すときに相手の主張を、時に必要以上に、理解して共感してしまうという柔軟さと言うか信念のなさがあった。そして、私は彼の提案に乗って、修士でやめるという決意をアッサリと引っ込め、留学することにした。
こうしなさい、ああしなさい、
なんでこんな事するの!どうして私の言う事が聞けないの?
↓
どうしていちいち人の顔色を伺うの?意見を聞くの?
自分で考えなさい!
↓
あああどうして勝手な真似するの!
何かするときは人に聞きなさいと~
↓
(繰り返す。たまに暴力を加えるとよし)
こうすると「人の顔色を常に伺う、自主性や積極性のの無い、臆病な子供」が完成する
どういう風に行動すればいいか全く分からず、人の視線や意見を異常なほど怖がるのだ
みんなも子供ができたらやってみよう!
966 名前:優しい名無しさん[sage] 投稿日:2008/12/20(土) 12:29:23 ID:AiKiE0c
『犬を縛り付けておいて、電気ショックを与え続ける。
最初のうち、犬は必死で もがくが縛られている為に電気ショックから逃れる事が出来ない。
これを数週間続けるうちに犬は「自分は無能で何をやってもムダだ」という感覚が植え付けられ、
そのうち 電気ショックを受けてももがかなくなり、ひたすら衝撃をガマンするだけになった』
『極度の無気力状態に陥った事が確認された後、セリグマンは犬の縄をほどいて
逃げられるようにしてやったがそれでも犬は黙って電気ショックを与えられるがままで
逃げだそうとはしなかった。努力をムダだと信じ込んでしまった為「逃げる」という選択肢を失ってしまった。
そしてセリグマンは犬を抱き上げたり押したりして 電気ショックを受けない所まで動かしてやり「逃げれば助かる」
という事を再度 学習させた後、再び元の場所に戻し電気ショックを与えた。
犬は逃げれば痛くないと 判ったはずなのにやはり動こうとはしなかった。
一度無気力状態になった犬はさっき痛くなかったのは誰かが助けてくれたせいで、
自分では何も出来ないと信じていたのだ』
これは人でも同じ。「あれをしてはいけないこれをしてはいけない」と言われ続けた人間は消極的な性格になる。
そういう育て方をしたにも関らず、気力を奪われた我が子の怠惰な生活を見て
「あんた彼も出来ないの?」「友達居ないの?」「兄弟姉妹は結婚してるのにw」
トレーナー! URAファイナル決勝1着取れたよ! ありがとう! うまぴょい伝説聞けたよ!
前回みたいにターンごとの細かい選択は書けないけど、そこに至るまでの道筋を報告するね!
まず、ブコメでも指摘されてたけど、スキルが途中で取れることはぜんぜん気づいてなかった。なんか育成終了間際にたづなさんからスキルポイントの消費を促されるな、くらいの認識だった。プレイするときに確認してみるとスキルが取得できてびっくりした。俺はずっとこんな簡単なことに思い至らずプレイしていたのか……
上のような惨状なので、なるべく意識してはいるんだけど、たまに溜まったスキルポイントを使うことを忘れてレースに突入しちゃうことが何度もある。気をつけないと。
で、今度の育成は本腰を入れてやろうと思っていたので、数日間はちゃんとした育成ではなくトレーナーに教わった勝ちのやり方を実践することに努めた。具体的に言うと、継承はレンタルせずに自前で済ませるけど、たづなさんを借りてくるとか、まずは絶好調にすることから始めるとか、たづなさんがいたり複数人のサポートがいるトレーニングを重点的にやるとか、スキルは途中で取るとか、そういうことに注意しながら普通に育成してみた。
そうすると、これまで越えられなかったDの壁をらくらくと越えられるようになった。サイレンススズカはCからC+、サクラバクシンオーはD+からC+、アグネスタキオンとスーパークリークとハルウララはDからC、グラスワンダーとダイワスカーレットとマヤノトップガンとエルコンドルパサーはE+からC、オグリキャップはDからD+、マチカネフクキタルはF+からD、と次々と最高評価点が上がった(なぜかナイスネイチャとトウカイテイオーは全然上がらなかったけど……)。これまでの自分の育成がどれだけ非効率だったかを痛感したわ。
そういうことで、トレーナーに教わったイロハのイを実践できるようになったあたりで、まとまった時間を取ってサイレンススズカをもう一度育成することにした。
今回はちゃんとサイレンススズカのために資金も貯めた。どの娘にしようか悩んだ挙げ句、某はてな村民からLv50のタイキシャトルを借りた(ありがとうございました)。もう1人は自前のC+サクラバクシンオー。
サポートカードは、手持ちのカード(※)からSSRスペシャルウィーク(Lv36)・SRナリタタイシン(Lv25)・SSRツインターボ(Lv21)・SSRオグリキャップ(Lv21)・SRダイワスカーレット
(Lv18)を選んだ。
結果、1度だけ1着を逃したのだが、それ以外は全部1着で終えることができた。最後のURAファイナル決勝も危うげなく勝つことができた。うまぴょい伝説を、サイレンススズカは、俺のスズカは、スペシャルウィークとウイニングチケットに挟まれて踊った。俺の愛馬がずきゅんどきゅん走り出しばきゅんぶきゅん駆けていった。
ランクはB、評価点は7662で、スピードSS1110、スタミナD+366、パワーC+528、根性D+389、賢さD+384というスペックになった。獲得ファン数は134813人で、総獲得ファン数は293426人。チームもだいぶ強くなった。
だけど第2章は読めなかった。
オグリキャップに2回連続で先を行かれた。僅差でサイレンススズカは届かなかった。
ライスシャワーの物語を読むためには、まだまだ精進が必要なようだ。
一度、TPも余ってるし、ガチャで引けた娘たちのイベントも見たいなーと思って、失敗しても気にしない! の精神でサポートカードのイベント見るためだけにサクラバクシンオーの育成にチャレンジしてみたことがある。そのとき連れていったのがSRメイショウドトウ(Lv5)・Rアイネスフウジン(Lv20)・Rビコーペガサス(Lv12)・Rメジロドーベル(Lv14)・Rナリタタイシン(Lv12)とフレンドさんの完凸たづな。ぶっちゃけメジロドーベルとナリタタイシンのエピソードを見れればそれでよかったのだが、バクシン教団の教えを忠実に実践していたらあれよあれよという間に勝ち上がり普通にC+まで到達してしまった。この子って本当に育てやすいんだなと実感した瞬間。
SSR | スペシャルウィーク「夕焼けはあこがれの色」(Lv36)、サイレンススズカ「輝く景色の、その先に」、ウイニングチケット「B・N・Winner!!」(以上Lv30)、スーパークリーク「一粒の安らぎ」(Lv24)、ツインターボ「ターボエンジン全開宣言!」(Lv21)、グラスワンダー「千紫にまぎれぬ一凛」、オグリキャップ「『愛してもらうんだぞ』」(以上Lv20) |
SR | マヤノトップガン「カワイイ+カワイイは~?」(Lv30)、ナイスネイチャ「…ただの水滴ですって」(Lv26)、ミホノブルボン「鍛えぬくトモ」、メジロライアン「鍛えて、応えて!」、ナリタタイシン「波立つキモチ」、ダイタクヘリオス「パリピ・ぱーりないと!」(以上Lv25)、フジキセキ「やれやれ、お帰り」(Lv21)、ダイワスカーレット「努力は裏切らない!」(Lv18)、エイシンフラッシュ「0500・定刻通り」(Lv16)、アグネスデジタル「デジタル充電中+」、ビワハヤヒデ「検証、開始」(以上Lv14)、キングヘイロー「一流プランニング」(Lv13)、桐生院葵「共に同じ道を!」(Lv10)、SRメイショウドトウ「幸せと背中合わせ」(Lv9) |
Rのカードについては、Lv上げてもあんまり意味がないという指摘を受けて、まあそうだなと納得したのと、ガチャを経て数が増えて列挙するのがちょっと億劫になったため(怠惰ですまない)、ここでは挙げていない。初期、ちっともSSRやSRを持っていなかったときはとにかくRの好きな娘にマニーを貢いでいたのだけれど(セイウンスカイとかね)、トレーナーに指摘された通り今となっては貢ぐ意味がほとんどないので好みのウマ娘のカードを引いてもRならあんまり育ててない(メジロドーベルとか)。
自分にとって庵野氏の作品がつまらなく思えるのは正しいのかもしれない
シン未見組だけど、高評価する人たちも不評の人たちも、
俺達の庵野が帰ってきた、
みたいな点では共通しているみたい
シンゴジラも含め、マンネリズムさえ感じるのは寧ろ当然であって、
リスペクトする過去の作品、オマージュ、パロディー、そこから新たな記号、お約束を作り出したわけで、
つまり、シンゴジラつまらんと自分が思うなら、それは庵野氏を卒業したというか、
他の何かを求めて自分が出ていくべきなんだろう
自分には庵野氏のように新たな記号、お約束を生み出せるような能力も運も何もない、
凡人以下のコロナで無職になったKKOであって、社会的にはゴミにも劣るかもしれない
そんな自分ではあるが、恐れ多くも御大、大先生の成果物に不満を思うというのなら、
それは単にnot for meであって、俺が自分のfor meを求めてさまよい続ければいい、
ただ、それだけの話なんだろう
それは学ぶは真似ぶであり、過去のコピーからスタートして、守破離の破、
庵野氏よりも若い世代だけど多分長く生きられないと思うのだけど、
社会的評価は別として、なんか自分なりに自分の人生にケリをつけなければならない、
例えば、自分に虐待された過去があったとして、それをマイナスに評価するのではなく、
その因果に何らかの自分なりの納得というか、決着をつけたいと思っている
それは単なる自己満足ではあるわけだが、そういった不愉快な過去とか、
そういったこれまでの人生の諸々にできるだけ決着をつけて、納得してから死にたい
そう思うようになった
他人の作品がつまらないというなら、おまえは代替案があるのか?
代替案はある、
つまり、商業的に社会的に成功するかではなく、自分ならこうするは明確にある、
繰り返しになるが、どことなく庵野氏は、その仕事としてはどうなのか?
というか、庵野氏より貞本氏の方が、特にオネアミスのBDだかのパッケージの絵とか、
できるだけ、昔の、スポンサーサイドに嫌われていた、
そうはいっても、作り手である若者たちは貞本氏のあの頃の絵に惚れて賭けていたとも思うわけで、
なんでエヴァみたいな絵柄を判で押したように描いたんだと思ってしまったのだけど、
自分がとやかく言う筋合いはないのだ
それより、おまえの、俺の到達点は、人生の到達点は何なのだ?ということだろう
私が人生に問うのではない、
人生が私に問うのだ、
人生に、運命に、運に、神に、なぜ俺の人生をこんな風にした?と問いかけるのが1つ目であり、
2つ目は、人生が私に、おまえは何を成し遂げられれたのか?と問うているのだ
そこには当然、仕方がなかった、怠惰と諦め、打算も入り混じっている
メディアが生存者バイアスというか、社会的成功者を持ち上げすぎる余り、
まるで、この社会に、世界に、何か正解があるように思い込んでしまう
一昨年の秋頃、咳と痰がとまらなくなった。
はじめのうちは、2~3日もすれば治るだろうと気にもしなかったが
日を追うごとにひどくなり、市販の咳止めや痰切りなどを服用したが
2週間たってもひとつもよくならないのでいよいよ病院へ行かねばならないと覚悟を決めた。
時を同じくして職場の先輩が同じような咳と痰の症状に苦しめられており
もしや職場特有の要因が・・・?とも考えては見たが考えてもわからないので
受診することにした。
先輩は内科にかかったようだが寛解していなかったので耳鼻科を受診することにした。
結果としては、単なるアレルギー性の咳と痰だったようで処方薬を3週間ほど続けたら
症状はおさまった。
しかし発症から寛解まで1ヶ月半以上の月日がかかり、その間喫煙者だったにもかかわらず
止まらない咳に腹筋が痛み、肋が折れるのではと心配になるほど咳は続く。
火をつけて一口吸い込み煙を吐き出す前に咳き込んでしまい、結果として火をつけたその1本は
アルコールが進むとタバコが欲しくなるけれど吸ってもしんどいだけなので我慢する。
そうこうしているうちに1年ちょっとが経過した。
どれくらい経ったら禁煙成功なのかは知らないけれどちょっとタバコやめると
わがままだなあと思うけど申し訳ない。もう臭いが受け付けないんだ。
ただタバコが家にないし、タスポももってないし、最寄りのコンビニは徒歩10分だから
面倒で買いにいかない。
があったらいいのではないだろうか
逆転の発想である
頻尿とか貧乳とか老人かよwとバカにするのではなくビジネスチャンスにするのである
それは、転んでもただでは起きないことではないだろうか
ただでは起きない、起き上がる機能からは有償ですというフリーミアムモデル
石ころでも売るのが営業
実現方法はGのレコンギスタというか、宇宙ステーションなどのバキューム式でいいのではないだろうか
その💩はボイジャーのように宇宙を漂い、この我々の銀河系さえも越え、どこかの異星人が回収するかもしれない
そして、異星人はその成分を分析し、これを排出した生物は健康診断があったんだな、とか、
イカスミ食っただろ、とか解析することで、我々人類を理解することだろう
いっそ、透明なアクリル板などではなく、不透明度100%の板で区切るべきではないだろうか
バキューム音のうるささはなんとかしなければならないが、なんとかなるだろう
人類はこれまで何度も人類絶滅の危機を自らの知恵と悪運の良さで乗り越えてきた
バキューム音もコロナも我々人類の英知を結集すれば解決できるであろう
席に個別にトイレがあるようになれば、もう何を食べても平気である
ポップコーンのみならず、冷やし中華を食べて腹痛に見舞われても平気である
そういえば、フランク・ミラーとジェフ・ダロウのハードボイルド?という漫画だったか
自分で立つことすらできなくなった肥満の男が風呂みたいな機械に入っていて、
男は食べ物を食べていて、排泄はなんかちんぽに蛇口というかコードみたいなのが接続されてたんだったかな、
水?の中には小さいロボット?がいて肥満の男をメンテしてる?みたいなコマがあったのだけど、
ああいうディストピアは、あれはあれで寧ろ幸福なのではないだろうか、
怠惰と贅沢の果てまで尽くすのも人生ありだなと思ってしまう今日この頃
まあ、なにが言いのたいかというと、
トイレに行きたいときに誰か代わりに行ってくれねーかな、と思ったり、
つまり、そういうことです
ついさっきレイトショーで観終わったばかりなので、煩雑なものになるが残しておきたかったのでここに書く。
私のエヴァンゲリオンの記憶の中で一番大きな割合を占めているのは、中学1年のときに友人二人と地方の小さな劇場で序を観たことだ。
あれから年月が経ち、すでに彼らとは疎遠になってしまっている。
その後の破もQも、彼らとは見に行っていない。
だがエヴァに触れるたびに彼らのことを思い出す。
今回シン・エヴァンゲリオン劇場版:||を観て、彼らのこと、親のこと、彼女のことなど、
自分自身のありかた、人との関わり方を改めて考えてみた。
私は小学校までは道化で、中学校・高校・大学では怠惰な人間であった。
人の善意を都合よく解釈し、利用して自らの心地よさを作り出していた。
今もそうかもしれない。
なんとなくそういうことが思い出された。
土日は毎週飲み歩こうと思います
もう、彼らに協力しません。
私は、私のために生きようと思います。
これは、決意表明です。
高齢者の方々は、自分たちの安全のためならば、私たちの自由を抑圧することができると考えているように感じます。
医療の方々は、高齢者が顧客だからと、高齢者のために、人権侵害を国に要請している圧力団体に見えます。
政府は、そんな彼らの票を得るために、私たちをないがしろにしていると感じます。
また「人殺しになりたいのか」と私を脅すのでしょうか。
また「お前の自由よりも大切なモノがあるんだ」と、私を無視するのでしょうか。
今を取り返すことはできません。
今諦めれば、別の人がそれを手に入れるでしょう。
コロナが終わった時、それは私の世代のものではなくなっています。
「それよりも大切なモノがある」と言われても、それは私にとってではありません。
私は人間です。
子供の頃から、ずっと「今のままでは年金が崩壊する」と言われてきました。「高齢者を支える人数が少なすぎて大変なことになる」と言われてきました。
しかし、彼らの扱いは何か変わったでしょうか?
将来の私の分は減りました。
私の分は大きく減るでしょう。
でも、彼らは、何も変わりません。
「自分たちが逃げ切るまで動けばよい」と考えているようにしか見えません。
私はそんな彼らが残す、壊れたシステムの上で生活しなくてはなりません。
日本医師会の会長は声を張り上げて「家から出るな」といいますが、それで守れるのは彼らのメイン顧客です。
「ワクチンが来るまで待て」といいますが、私にワクチンが来るのはいつでしょうか?
彼らは「お前も罹ったら大変なんだぞ」と言います。
でも、私にワクチンは来ません
それどころか、ワクチンを受けた高齢者が街にあふれ、彼らが無症状で増やすコロナを、私は警戒しなくてはなりません。
彼らが自由を謳歌する中、私は彼らに恐怖して生活しなくてはならないのでしょうか?
その時、日本医師会は「特措法を使って老人を家から出すな」と言ってくれるでしょうか?
絶対に言いませんよね?
私の自由を奪ってでも高齢者を守るべきだと彼らは主張しましたが、逆はないでしょう。
彼らは高齢者のことばかりです。
もしかすると、医者は大変な思いをしているんだぞ、と怒るかもしれませんね。
業務過多になっているのであれば、上司に文句を言うべきです。それでも改善しないのならば辞めればよいのです。
あなたたちは資格で守られた、強い立場です。別の業界にも行けるでしょう。
そんな状況でも、「大金が欲しいから辞められない」というのであれば、現状を受け入れるべきです。
それは、あなたの選択であり、私の自由を制限する理由にはなりません。
だれかの労働環境が悪いことは、だれかの人権を奪うにする理由にはなりません。
未だに受け入れ可能数が増えない問題に至っては、完全に医療の問題ですよね?
はるかに多い患者数を欧米が対処しているのに、日本医師会や都の医師会は解決することもできないのでしょうか?
去年の全体の死者数も減ったそうですね。
医療にとっては顧客が増えたわけです。これから売り上げも上がるのでしょうね。
彼らにとって、とても満足な結果でしょう。
コロナのせいで、私は医療のために更にお金を払わなくてはなりません。
医療は私の自由を奪い、自分の顧客をひいきしてお金を得ています。
私はなんなんでしょうか?
私は働かなくてはなりません。
私は奴隷ではありません。
高齢者が生きるために生かされているのでしょうか?
性欲を制御できずに他人を傷つけてしまうのよくわからないんだよな。痴漢や援交をはじめ性犯罪はもちろん、浮気とかもそうだよね。なんでそんなことになるの。
でも俺も夜にどうしても酒飲みたくなって家で酒飲んじゃったり、ダイエット中なのに無性に高カロリーな炭水化物食べたくなって食べちゃうことあるし、
なんとなく洗濯物や洗い物をためちゃったり、夜ふかししてしまう、そういうことなの?
俺の怠惰は他人に迷惑を掛けてないけど(不健康が回り回って医療費を圧迫したりして社会に迷惑を掛けるということはあると思うが)、同じように感情で御せない本能がそうさせてしまうのか?
大多数の男(女もね)はたぶん俺よりもよほど本能を律して生きていけているだろうし性犯罪や浮気なんて犯さないだろうけど、なんでそうなっちゃうのかね。
雑な仕事が嫌い。
「許せない」に近いくらい大嫌い。
っていうと「そりゃ、あなたはできるだろうけど」って言う人がいるけど、
私が「できる」んじゃなくて、ただ「そうしている」だけなんだよね。
雑な仕事が嫌いだから自分ではそうしないようにしているって話。
「気をつけて見ていたけど見落としてしまった」と「最初から見てない」は大違い。
内容が分からなくても間違いに気づけることなのに気づかないというのは見ていない証拠。
確認するのがあなたの仕事なのに、つまり仕事をしていない給料泥棒ですね。
周囲が修正しているのに自分は別の仕事してるって、まるっきり他人事か。
落書きみたいな書類を渡されたときはふざけてるのかと思ったし、
受け取れないから差し戻したら「あーやっぱダメでしたか~笑」とか舐めてるのか。
どうしたらいいか困ったら近くの人に相談すればいいのにしない。
備品の最後の1個を使っておいて総務課に「注文お願いします」って言うだけのことをしないとか、
ホワイトボードに翌日の予定を書いておいて日付は直さないとか、
自分からすれば「なんでしないの!?」って逆に不思議に思ってしまう。
全部誰かがやってくれると思ってるの?
そんなに貴族育ちなの?
たかが備品くらいでなんでそんなに怒ってるの?って顔をしてたけど、
備品の話はしてないんだよなあ。
「家にあったと思うから持ってきます」って問題解決!みたいに言ってたけど、
問題はそこでもないんだよなあ。
誰かがやってくれると思っているその「誰か」の中に自分を含めて考えろって言ってんの。
ちなみにこれは、別件の雑談で先週直接伝えている。
「私はいい加減な仕事が大嫌いで、自分の部下がそれをしたら一番怒る」ってはっきり言った。
でもやったし、分かってない。
これまでの部下にもいろんなも注意をしてきたけど、できないこと自体を怒ったことはないつもりでいる。
なぜ確認しなかったのか、なぜ分かる人に聞かなかったのかを怒ってきた。
できないのは仕方ない、それならできるようになるのが現在のあなたの仕事。
聞いて作業して確認して作業してをくり返して、ようやく覚えていくのでも個人的にはいいと思ってる。
努力をしてくれるなら。
もちろんある程度の限度はあるけど。
いい加減は良い加減にはならないし、テキトーはいつだって適当じゃない。
「できない」は「できる」ように努力してくれ。
「何もしない」はただの怠惰だから「許せない」に近いくらいに大嫌い。
毎年毎年成果が上がらなくて面談のたびに「うーん」って言われてしまう業務もある。
でもやることはやる。
自分にできる努力と工夫はちゃんとして、それでも成果が上がらないのはごめんなさい。
頑張ります。