当時所属していた(日本の)大学では何の成果も出せなかったのだが、かと言って研究を切り上げることもできなかった時に、海外の大学に行くという選択肢が手元に残っていた。認めたくはないが、私は成果が出ないことを周りの環境のせいにしていたのだとおもう。そして、私自身が一向に研究活動を発表しない日本の学会において、少しずつ足跡を残しつつある同僚たちを見下していたのだとおもう。
私の属していた領域において、日本の学会での発表や、日本語での雑誌論文が海外で一顧だにされないのは事実ではあった。科学の世界で勝負をするには、言語の壁の中ではなく、世界の中で発見した事実を知らしめて議論して残していくことが価値ある営みであることは事実ではあった。しかし、私はそのことを言い訳として日々の努力から単に逃げ、研究室にも顔を出さずに自室で寝ていたような人間だった。海外に出るという選択肢は、自分の怠惰さに呆れ果てた私自身が求めた事であった。しかし、私は結局この選択の数年後、追い詰められても何もやらない自分自身に打ちのめされることになる。そして今思うと、そんな結末になることを私自身が気づいていなくもなかったと思う。研究という道に迷い込んでしまった上には、行き止まりと分かっていても探索していない道に何となく進んでしまうような、そんな気持ちだったのかもしれない。私はどうしたら良いか分からなかったし、自分の人生がどうなってもよいと思っていた。そんな中で選んだ海外大学院への進学という道がうまくいくはずはない。今こう思うように、当時の私もどこかで気づいていたはずだ。
もう日本に帰ってきてから10年以上になるのだが、当時のことを書いておく。 私は、地方の公立高校からあの大学に進んだ。大学の中でも成績は上位で、演習や卒論も上手くやっていた...
当時所属していた(日本の)大学では何の成果も出せなかったのだが、かと言って研究を切り上げることもできなかった時に、海外の大学に行くという選択肢が手元に残っていた。認めたく...
日本の大学院でうまくやれなくて、逃げるようにして海外の大学院に行った。行き先はPIになってから数年の若手だがメジャーな論文にいくつも論文をだしている教授のいる、一流ではな...
君たちはスポンジボブやニンジャタートルで笑ってる間に僕はエヴァみてポケモンプレイしてたんだけどね!って言い返せばよかったのでは
例えば八重樫や山本昌のフォームはどんなものかとか、ビックリマンチョコのチョコを捨ててシールだけ集めて問題になった話とか、ズッコケ3人組の中ではどの話が好きかとか、同じ時...
米国生活には「わかりケア」が足りんかったと どうでもいいけど年代的にラインとかなさそうね 今なら夜ふかしツイッターは24時間眠らないのに
海外には都合3年いた。その間、向こうの学生とルームシェアをしたりもしたけど、結局打ち解けることができず、友人と呼べる存在を作ることができなかった。日本人が何人か住んでお...