はてなキーワード: 商業主義とは
かつて、いろんな作品にあらわれる魔法少女あるいは変身少女の類は、比較的長い時間をかけて変身していた。
特定の掛け声の発生のもと身体が光輝に包まれ、一瞬身体をさらけ出す。昔のお宅はここに興奮したのだという。
これは、魔法少女のグッズ販売という商業主義への兼ね合いのもと、20世紀後半から21世紀初頭にかけての常套表現として、当時人口に膾炙していた。
こうした風潮を自覚的に打破したのが、オベリスク護国寺という制作会社にいた田町ボラギノール監督である。
氏の壮年期の作品『魔法少女平塚★ハル』では、主人公の平塚らいてうが、裏切り者の転向者を誅殺する場面がある。
裏切り者とアジトで二人きり。コーヒーを飲みながら他愛のない会話。
一瞬にして平塚ハルは変身し、魔法少女がよく持っている戦術ロッドを相手にたたきつける。
相手も隠し持っていたグロックをハルに向けようとするが、魔法少女の魔術的スピードにはかなわなかった。
共産主義と女性解放運動との兼ね合い、共産主義者の転向とをからめた悲しい裏切りの誅殺シーンである。
『魔法少女★平塚ハル』の興行的な成功もあって、次第に無詠唱で変身する魔法少女が増えるようになった。
増田諸賢もご存知の通り、2050年代では、場面の切り替わりや、一瞬柱や扉に隠れた間に変身し、急襲する魔法少女が当たり前になっている。
こうした表現の変化にどのような意義があるだろうか。
一つは、詠唱変身時代の不自然な時間超過を回避することができる。
21世紀においてもさんざん議論されたことだが、なぜ敵は魔法少女が変身中に攻撃しないのか。
当時の魔法少女モノは、この問いに対する有機的な答えを用意することが、ほとんどできなかった。
田町ボラギノールはこの問題を鮮やかに解決する。すぐ変身しちゃえばよかったのだ。
詠唱変身時代から風潮のあった、かわいらしい魔法少女がシリアスな展開に巻き込まれる、という物語の構造がある。
ここでは、華やかな詠唱変身は、作風に全くそぐわなかった。誰が裏切り、誰が殺されるのか? そんな作風の中で、かわいらしく時間をかけて変身するのは文脈的ではなかった。
だから、速攻で変身して速攻で相手に攻撃を仕掛けるという無詠唱変身時代の魔法少女は、シリアスな作風から歓迎された。奇襲を仕掛ける、さまざまな手段がアニメや漫画でなされた。
また、魔法少女モノのお約束で、自分が魔法少女であることを露見させてはいけない相手がある。
こうした相手に対する、「ばれないようにする表現」も、素早く変身することで色んな可能性を持つことが可能になった。
近年、回顧主義なのか、詠唱変身する魔法少女が再び見られるようになっている。
ただし、なぜ詠唱変身から無詠唱変身へと至ったのか。どの時期にだれがそうした変化をもたらしたのか。変化した結果、どのような効果をもたらしたのか。
「自分は楽しんでいる。楽しいから続けているんだ」。これは自分の趣味活動を継続する上で容易に手を伸ばせる結論だ。しかしゲーム制作という分野でエンターテイメントをシステムとして捉え続けてきた自分に言わせれば、続くのは楽しいから、というのは大間違いである。身も蓋もない言い方をするなら、続くのは『続けさせるようになっているから』でしかない。楽しいかどうかは続けさせるための一因でしかないのである。
限定された期間でしか得られない報酬を短周期で繰り返すソーシャルゲームは、ユーザに継続を強要させるためのシステムとして分かりやすい例だろう。自覚が無さそうところで言えば、体育会系的部活動にも同様の傾向がある。子供たちは、いつでも自分の意思で「楽しくないから辞めます」と言える心理状態にあると言えるだろうか。否、体育会系のコミュニティが自虐的な鍛錬の継続を美化する指向性を持っているのは明らかだ。転部や兼部は新たな楽しみの発見のためには合理的なはずだが、ひとつの部活動に一途に取り組むのに比べてイメージが悪い。他の選択肢を試すことすらなく、青春の大半を辛い練習に費やし、時には試合のレギュラーにすらなれないまま過ごしながら、その日々を合理化している、というのはおそらくそう珍しい事態ではあるまい。
コンプリート願望やコレクター願望、勝利至上主義、達成感、ストレスからの解放、不利益を被ることを美化する価値観、など、楽しくないものを継続させるためのシステムは境界こそ曖昧だが多岐に渡る。しかし、これらのシステムには概ね一貫したひとつの性質がある。それは、「参加者はシステムに従わないことでそのシステム上での価値を失う」ということだ。「時期限定のアイテムを取り逃せば、そのゲームで将来に渡って不利になる」「部活を辞めればスポーツマンとして価値が失墜し根性無しの烙印まで押されてしまう」などがこれある。こうしたシステムは強迫的にプレイヤーに継続を要求する。システムへの参加が自由意志であり、得られるものがシステムの上の価値でしかなくても、システムから脱するという決断を困難にしてしまうのだ。
言うまでもなく、楽しくないことを続けてしまうとしたらそれは不幸である。そして継続を誘発するようにデザインされた趣味はこの商業主義社会において決して少なくない。人は自分の幸福を守るために自分が本当に楽しんでいるかを常に感じ取れるようでなければならないと言えるだろう。
(当然のことではあるが予防線として言っておくと、ソーシャルゲームにしろスポーツにしろ、その楽しみを全面的に否定する意図は勿論ない。ここで言及したいのはシステムが持つ指向性によって楽しくないものを続けてしまうリスクについてのみである。本当に楽しんでいるなら何の問題も無い)
昨今の劇場アニメブームも落ち着いたかと思ったところに、先月公開した『劇場版SAO オーディナルスケール』がこれまた日本らしいエンタメ快作だった。伊藤智彦監督は、スポーツ紙にどうでも良いゴシップ解説してるだけの人じゃなかったんだと安心した。アインクラッド編以降のハーレムっぽい展開が好きになれなくて、監督の代表作は『世紀末オカルト学院』(水瀬いのり(新人)のデビュー作)と所在なげに言わなくて済むようになった。
それに引き換え神山健治の新作は、予告編をみてると、ヒロインの魅力が伝わってこないし、何より癪に障るのが主題歌の「デイドリームビリーバー」。
タイマーズやザ・モンキーズを神聖視するわけじゃないが、自分にとっては3度のCMソングは呆れるほどの商業主義の権化みたいな存在。劇場でセブンイレブンCMで清志朗の歌声聴くたびに、おにぎりが上手いとか、鮮度管理がどうとか真面目にナレーション付けてる時点で、音楽に対してまともに向き合っているとは思えない。正気の沙汰じゃない。死者に鞭打っていると思わないのだろうか。期待値は下がる一方だった。
本当は『モアナと伝説の海』の字幕版を観たかったけれど、時間が合わなくて、何故か『結城友奈は勇者である。-鷲尾須美の章』と『ひるね姫 ワタシが知らない物語』を連続でみた。
偶然だったけれど、どちらも瀬戸内アニメだった。尾道舞台のアニメはあるし、『この世界の片隅に』『うどんの国の金色毛鞠(英語タイトル Poco's Udon World)』とか流行ってんのか?
鷲尾須美は、相変わらず結界封絶+エヴァ戦闘で作画は良いけど、20年経っても日常パートと戦闘パートの整合性を考えることを放棄したセカイでおめでたいなという感じです、はい終了。
唯一良かったのは花守ゆみり演じる三ノ輪銀が予想を裏切ってきた。以下は声オタの戯れ事なので飛ばして良い。
(昨日もテレ東10時の『リルリルフェアリル~妖精のドア~』第1期最終話直前の第58話「アンチューサの花言葉」で1年演じてきたりっぷ(花咲ゆみり)の集大成の泣きの演技がやばかった。三ノ輪銀は、デレマスの佐藤心(しゅがーはぁと)や他の深夜アニメとは違って、完全にボーイッシュというかマニッシュな声だった。最近ポニキャン以外の作品が増えて推すのやめたのかと思ったけど、声オタなら劇場版はチェックしておくべき。)
予告編がミスリードだった。アレは一般向けにメカを見せずに毒を抜いてたと確信した。
途中3D映像が粗いところはあったけれど、現代日本(2020年)をテーマにして、現実世界と物語世界をリンクさせる点、日本の各地を進むロードムービーな点、神山作品の特徴でもあるメカを動かして活躍させた点、そして何より自動運転というテーマですよ。
現代日本のIT総崩れの中、日本が誇る最後の希望であるは自動車メーカー(あと投資会社のソフトバンクくらい)の致命的な弱点である、オートパイロットを表現することによって、嫌というくらい課題を突きつけてくる。あくまでストーリーは世代間や親子での話を軸に、オーソドックスにちゃんと動かしながら、ここまでロジカルなストーリーで映像に表現できたのは神山監督ならでは。
個人的に『君の名は。』『この世界の片隅に』のあの暴力的な(ブルートフォース)動画枚数によって、ロジカルよりも情動を刺激する感覚は確かに、日本的アニメの真骨頂ではあるけれど、そんなセンスオブワンダーにあまり頼ってほしくない。
そして主題歌「デイドリームビリーバー」がちゃんと原曲と同じ意味で作品に使われていて泣いた。
本当誰だよ。『ポッピンQ』並みだとか言ったやつ。
(追記)
今までと比べてかなりつまらなかった。
けものフレンズ8話がつまらない、ということもまたけものフレンズという物語を紐解く上で重要な意味を持っているからである。
OPを歌っているアイドル声優グループが演じるPPPというフレンズアイドルユニットが主役となっているという事からは明らかな大人の事情が伺える。
物語の中においても、ヒトがいなくなり文明的な要素の多くが失われた世界でアイドルを行っているPPPは異彩を放っている。
そもそもフレンズがアイドルユニットを組んでいるという状態はジャパリパークがまだアミューズメントとして機能していた時代に置いても特別な存在であった事は想像に難くない。
動物が観客に見せるために芸を磨くという行為は現実の動物園では一般的な行為となっているが、それは動物の本来の姿ではない。
動物園が営業していく為に動物に行わせている本来の生態から外れた行為である。
PPPはいわばヒトが持つ商業主義、拝金主義的な側面の化身としてジャパリパークに存在している。
けものフレンズはここまでそれぞれのフレンズの自然な姿を描いてきた。
フレンズ達がそれぞれの日常を自然にのびのびと暮らす世界をカバンちゃんが旅する話である。
確かにアルパカが喫茶店を開いたり、ライオンがDOG DAYSみたいな事をしている事はあった。
しかしそれらの中にも、徒歩によって移動するフレンズでありながら高い崖の上に難なく移動してしまうアルパカや、狩りごっこごっこに興じるライオンといった形でフレンズのベースとなった動物の生態が現れていた。
ロイヤルペンギンのプリンセスがPPPを再結成しようとしたのは、ペンギンの生態がそうであったからではなくPPPがその昔ジャパリパークに存在したからである。
いわば間接的ではあるがヒトの手による強い介入を受けた行動である。
(まあぶっちゃけアルパカもジャパリカフェの名残という形でヒトの介入や大人の都合をゲフンゲフン…例外として今は忘れてくれ。)
カバンちゃんと無関係の所でここまで強くヒトの影響が描かれることは今までなかった。
そしてそれによって描かれた光景は、我々がけものフレンズに期待していたものとは全く違ったものとなった。
自分たちの存在、自分の存在が観客に受け入れられるのかと恐れるプリンセスの姿は、自分の本来のあり方のまま生きている他のフレンズにはないものである。
なぜなら他のフレンズはただどこまでも自然体で生きているからである。
PPPに参加せず普通のペンギンとして生きる道も開かれている事を知っているプリンセスと違いそもそも生きる道を選ぶという発想自体がない。
目先目先の日常から抜け出て生き方を選択するという発想は文明が発達したことで生まれたものである。
自分が何者であるかを迷うという行為は、道があることによって生まれる感情である。
ヒトの商業主義によって生まれたPPP、今までとは違う生き方の選択肢の登場によって生まれたプリンセスの悩み、これらはヒトが残した文明の残り香がなければ存在し得ない物である。
文明のない世界では生き物はただ生きるために生き、空いた時間はただ本能のままのびのびと過ごす。
ある種の貪欲さ、ストイックさをもってより良く生きようとそれまでとは違った生き方を選ぶ道である。
これは7話において博士達がジャパリまん以外の食べ物を求めカレーを食べた際に半分描かれている。
火という恐ろしい存在がカレーという益をなす光景は、文明の危険性をを暗示してはいるがそれが実際にフレンズを傷つけることはなかった。
だが今回は違う、文明は選択することの不安という形でフレンズに牙を剥いた。
自然の中でのびのびと生きるフレンズの姿を描いてきた作品の中で、文明がフレンズを傷つける姿が描かれたのが8話である。
ヒトのもたらした文明がフレンズを傷つける、それが8話である。
唐突にこんな物を投げつけられて無意識が嫌悪感を抱かないでいられるはずがない。
我々がけものフレンズの8話をつまらない、何かが違うと感じたのは当然なのだ。
だがそれは同時に我々がけものフレンズに求めていた物を再確認させてくれる。
8話の直前に7話が描かれたのも、これが文明を否定する物語でない事を強調するためなのではいだろうか。
それはなにもカレーだけではない。
ライブだけではない。
ジャパリまんだ。
ジャパリまんはジャパリパークの平穏な生活を支える重要な資源である。
それらはラッキービーストによって管理されフレンズの元へと配られている。
8話で初めて登場した二人目のラッキービーストは多くの情報を我々にもたらした。
フレンズが多い場所にラッキービーストは現れる、それは彼らが能動的にジャパリまんを配り歩いていることを意味している。
フレンズは自由な生活を送りながらジャパリまんの供給が受けられるようになっている。
またこれまでラッキービーストにあわずともカバンちゃん達が不自由なく生きてこれた事からも、ジャパリまんの供給量や栄養価がフレンズ達の暮らしにおいてかなりの余裕がある物であることがわかる。
ジャパリパークの平穏な生活は文明の力によって支えられている。
それはヒトのもたらした物であろう。
だが文明の持つ暗部も描く。
自然体で生きることの素晴らしさを描きながらも、そうやって自然体で生きるのに文明の力が役立っている事を描く物語がけものフレンズである。
だがそこで文明を投げ捨てたとしてそこに求めていたものがあるかといえば違う。
文明と共に生き、しかして文明の持つ闇に飲まれないようにすることが、我々の求める生き方に辿り着く鍵なのだ。
https://togetter.com/li/1077485
はじめに
また、「押し付け」も良くないと思いますし、それを嫌う人がいることを否定しません。
また、ここで反論する以外の恵方巻きへの批判も存在することを無視したいわけではないです。
なお、ツイッターの#恵方巻き撲滅タグを見た上で書いています。
一地方ローカルの文化が広まることは、大阪や関西に限らずアタリマエのことです。
僕は名古屋人ですが、名古屋近辺発祥のものでも、CoCo壱番屋やコメダ珈琲などは全国展開をしています。
もともと日本の風習かどうかは知りませんが、もともと日本にないものでも全国的に広まったものは他にもあります。
クリスマス、バレンタインデー、ハロウィンなどは明らかにもともと日本の風習ではないと思います。
これも良くないのでしょうか?
③商業主義による週間の押しつけは良くない。
これは確かに一部同意できます。ただし、クリスマス、バレンタインデー、ハロウィンも似たような要素がありますし
ただし、個人的には商業主義の過剰は問題だとは思います。しかしだからと言って恵方巻きそのものを無くす必要はないと思います。
下品な食べ方をする食べ物は世の中にたくさんあります。下品以外の見方でも、「見方によってはよくない」なんて色々あるでしょう。
コーヒーは泥水を飲んでいるようにみえるから良くないとかなるんでしょうか。
太いものをそのまま加えるような食べ物は、串で打つものを中心としてたくさんあります。
フランスパンなどのさらに太いものにかぶりつく場合もあるでしょう。
全ての料理がお上品でないといけないというのがそもそも正しいのでしょうか?
勿論他にも批判されるべき要素はあり、その中にはもっともなものもあるとは思います。
差し当たって、よく見られる批判に対する回答を書いてみました。
まず、私は西野氏のファンじゃないので特に肩入れはしていません。
むしろ、氏の作品はまさに商業主義のラッセンを彷彿とさせるので好んで鑑賞はしないと思います。
ただ、氏の発言の一部(の切り取り)が沢山の方々の逆鱗に触れたようなので、こういう考えかただったんじゃないかな?という別の視点の提案をする記事です。
まず、問題のURL(http://lineblog.me/nishino/archives/9256089.html)をどうぞ。
そこまで長くないのでサッと読めるはずです。
>糞ダセー。
ここが特にみんなの堪忍袋の緒専用カッターとなっているようですね。
西野氏が2000円で絵本『えんとつ町のプペル』を販売してしばらく経った頃、小学生に高くて買えんわと意見を貰ったらしいところから本題ですね。
確かに、2000円は小学生にとってはお高めの値段設定。
そこで氏はこう思うわけです。
>《自分は『えんとつ町のプペル』を子供にも届けたいのに、たった「お金」という理由で、受けとりたくても受けとれない子がいる。》
せやな。
>双方が求めているのに、『お金』なんかに「ちょっと待った!」をかけられているのです。
>お金を持っている人は見ることができて、
>お金を持っていない人は見ることができない。
うーん?「ちょっと待った!」はこっちがかけたいもんですがもう少し。
>「なんで、人間が幸せになる為に発明した『お金』に、支配され、格差が生まれてんの?」
と思いました。
>そして、『お金』にペースを握られていることが当たり前になっていることに猛烈な気持ち悪さを覚えました。
>糞ダセー。
あ、ダメだこの人。自分が伝えたいことを伝える能力が完全に欠如してる。
その理由の大きなところがこの引用した文章からハッキリと見えますね。
>……いや、モノによっては、そういうモノがあってもいいのかもしれません(←ここ大事!ニュースになると切り取られる部分ね)。
この一文もなんだかハッキリせず、微妙な印象。
噛み砕かず要約するとこう。
うーん。チープ。
お金は労働の対価の一つで、生活に必要不可欠、そして評価基準です。
しかし、これは西野氏目線なのです。そう思えば彼の考えるところが伝わりやすくなります。
「クリエイター・生産者が生活がかかってるから無料にできないよ〜」
これは至極当たり前で、西野氏も(言いかたが悪すぎてそう読めるだけで直接)ダサいとは言ってませんね。
そこが、
>……いや、モノによっては、そういうモノがあってもいいのかもしれません(←ここ大事!ニュースになると切り取られる部分ね)。
ここから読み取れるはずです。
西野氏は、お金持ってます。本業は芸人です。しかも売れてます。そして、絵本界からすれば外様です。絵本がなくても生活できます。
そんな氏が、「小供にも届けたい」絵本を出して、お金がなくて子供が買えない!と訴えを目の当たりにしたわけです。
氏からすると、生活もかかってないのに「お金が無い人には、見せませーん」はこの上なくダサく見えるんでしょう。自分が。
つまり、これは西野氏が西野氏に対する発言ではないか。叱咤激励なのでは?
私にはそう読めました。
「お金じゃなくて、恩で回る人生があっても良いのでは?本ならそれができる可能性がある。この本を無料化してお金は貰えなくなるけどみんなに読んでほしいからやるで!お金の奴隷解放宣言や!」
「恩で回る」というのは、消費側が生産側に対して自分の払いたい価値を払うということだよね?
>それに、「西野君、こないだはありがとね」と夜ご飯ぐらいご馳走してもらえるんじゃねぇかな、と思っています。
結局、氏が言いたいことは『お金だけ』の社会の否定であって、『対価』の否定ではないんですね。
西野さんアンタけっこうかっこいいよ。労力かかってるものを相手に委ねるっていうのはお金持ってても中々できないことだと思います。超口下手で誤解させまくってるけど。
あとできれば2000円という選択肢だけじゃなくて、サイトで自分で値段を決めて支払えたら便利だしもっといいと思いました。
>…てなワケで俺は無料にするけど、その代わり他のクリエイターに「西野はタダにしたんだからおまえもしろ」なんて絶対言っちゃダメよ。
まあ今夜はイブですけど。
バイト帰り、街を歩いても電車の中でも、乳繰り合ってるのは30代以上〜のカップルが目についた。
20代以下はちらほらいても、女の子でも一人なのが少なくない。
まあ友達と遊んだ帰りかもしれないけど、でもカップルなら7時8時ならまだ一緒にいるよね。
もう結婚10年は経ったであろう、おっさんおばさんが若者みたいにキャッキャしててなんとなく寒々しかった。
電車で指を絡ませあってたカップルも外見は40、50代だった。
日本ではティーンを中心にクリスマスの欧米化なんて言われて、カップルじゃなく家族で過ごすようになってるみたいだけど、
これからのクリスマスは商業主義の煽りくった高齢世代だけが、ガラパゴスイチャコラしてるようだと思うと、なんとなくやるせない気持ちになる。
映画監督になる奴ってのは基本的に金儲けに来てるわけじゃないんだ。
どちらかといえば商業主義・拝金主義・消費主義にめちゃくちゃ批判的な奴らだと思っていい。
なぜこう言い切れるかというと、名作映画のかなりの部分をそういう思想の映画が占めているから。
こういう映画を観て映画監督になりに来てる奴らも同じような思想を持つのは自然の成り行き。
なのでテーマやメッセージのない商業映画を嫌う(逆に言うとシン・ゴジラやジブリ映画みたいにメッセージがきちんとありつつエンタメとしても上質、という映画は否定しない)。
おそらく是枝監督からすると、『君の名は。』は何の思想もない、エンタメ要素だけの作品に見えたんだろう。こういう映画を作り続けても、数年したら忘れ去られてしまう作品ばかりになってしまって、映画界が育たないよ、という考えなんだろう。
そもそも配慮すべき敬虔なクリスチャンもイスラームもブディストすらも少数派というのはあるが
それ以上に例えば、長年育ててきたクリスマスセールをお前らは止められるのかということだよ
いくら宗教心に乏しいからって、今更ハッピーホリデーつってまたうまく定着させられるかわからない
だからポリコレがどんだけ頑張っても日本じゃここで止まっちゃうと思うんだよね
進める側にも止める側にも前提としての魂が欠けているから
別にやりまくっていようが、自分が関係ない分にはどうでもいい。
せいぜい変な病気をばらまいてくれるなという程度だ。
差別感情が燃え上がる時があるとすれば、クォータ制とか持ち出して、パイを食い合う関係になった時だ。
女性みたいに、ゲイは8%いるから、役員の枠も8%よこせとか言い出したらどうするか?
うちはゲイが少ないからゲイには加点しましょう、とかおバカなことを言い出す大学が出てきたらどうするか?
言い出した時にはもうどうしようもないかもしれない。
ただでさえ今のLGBTの差別解消というのは、金のあるLGBTにうちはフレンドリーですよとアピールするとか、
彼ら向けのサービスを用意するとか、明らかに商業主義主導で進んでる部分があるから、
このまま行っても、キモくて金のないLGBTは、ノンケがそうであるように、おそらく誰も相手にしない。
そもそも、自分がアファーマティブアクションだの女性の活躍だのを気に食わないのは、
企業なら役員だったり、公務員だったり議員だったりと、だいたい社会の上層部しか見ていない点だ。
そこから下に男が何人いようと、全く頓着しないその態度である。
普通の女性や普通の黒人が悲惨で、それをどうにかする必要があるのはわかる。
しかし、彼らを生贄にしてエリート女性を召喚するような行為が果たして正当化されるのか?
それが何になるのか? まさに一将功なりて万骨枯るというやつではないのか?
ぺるん氏 以下、ぺ氏
http://eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2016/09/12/210000
ddrdaisuki氏 以下、D氏
http://possession.hatenablog.com/search?q=%E7%8C%AB%E7%AE%B1
二人の喧嘩を見た。
他人の喧嘩にコメントするほど不毛なものもないが第三者の目線が必要かもしれないとD氏が書いているので
第三者として書かせていただくと…どちらにも相当に非があるとしか言いようがない。
どうもこのお二人は過去にも因縁があるようで積り積った鬱憤が爆発したようである。
D氏がツイッターで叩く
ぺ氏がぶち切れる
という流れである。
感想なんて好き勝手に書けば良いのであるから、いくらつまらない感想だったとはいえ、D氏が叩けばぺ氏が気分を害するのは当然であろう。
もちろんつまらない感想をつまらないと書くのはD氏の自由ではあるものの、発端はD氏が悪いと思うしぺ氏の方の肩を持ちたい気分である。
□
これで終わりにできればこれほど簡単な事はないのだが、喧嘩が進めば進むほど私にはぺ氏の株が下がっていく一方なのである。
内容自体はD氏もぺ氏も共に相手に喧嘩を売っているのだが、D氏が慇懃無礼な書き方でちくちくと攻撃しながらもランス03の感想の書き方を問題にしているのに対し
ぺ氏はD氏をお前と呼び、人格攻撃を積極的に織り交ぜている。これは非常に印象が良くない。
たとえD氏がクズだったとしても、ぺ氏がD氏よりもまともだという事にはならない。そもそも人格の問題はあまり関係がなく、感想が問題のはずである。
少なくとも
[私の感情や感性が未熟なことを説明せずに滑稽だと語られてもどこにも妥当性がないんだが?]
というぺ氏の文章に関しては、この喧嘩を見る限りぺ氏の感情が未熟な事は一目瞭然である。感性は知らない。
□
ぺ氏はD氏に主張の論拠を求めているが、これもよくわからない。
第三者から見て、D氏のこれは主張ではない。単につまんねー…という文字どおり便所の落書きレベルの悪口である。
それがウザいというのはよくわかるが、便所の落書きに対して論拠を事細かく求めるのはあまり意味がないように思う。
D氏はぺ氏の感想をつまらないと言い、ぺ氏はなぜつまらないのか理由を挙げろと怒る。
それに対してD氏は一応つまらない理由を挙げている。しかしぺ氏は納得せずに怒り続けている、というのが私から見た今回の流れである。
D氏の挙げた理由はぺ氏の感想の方向性とは明らかに異なるものであり、ぺ氏がそれを受け入れないのは客観的に見て当然だと思う。
さらにぺ氏のランス03の感想は、少なくとも万人が読んでつまらないと判断するような酷いものではない。
誰か1人でも面白いと思う人を連れてこいとD氏は仰っていたが、私は面白いと思ったし、他にも面白いと感じた人はいるだろうと思う。
とはいえ、D氏はD氏の価値観に従ってきちんとつまらない理由を挙げている。
それに対して、まともな根拠も反論もできずたじたじになっているというぺ氏の反論は、的を外しているように私には映る。
気に入らない人間から悪口を言われて怒りにまかせて逆襲したものの、予想以上に手ごわくてたじたじとなる、だが負けず嫌いの性格で後には引けないぺ氏…という方が私の印象に近い。
喧嘩の発端は明らかにD氏が悪いのだが、議論の筋を読めば読むほど、ぺ氏の論のおかしさの方が目立つ。
自分以外のランス03のダメな感想を数え上げて、なぜ自分に対してだけ批判をするのかといった逆ギレなどは書いていておかしいと思わなかったのか。
ネットに存在する全てのダメな感想を叩いてからでないと、ぺるん氏の感想を叩けないというのはムチャクチャな話だ。
便所に悪口を書いた相手に対して、立証責任が云々というのも非常にバカげた話である。
元々喧嘩を売りに行ったのはD氏なので、D氏の肩を持つ気もあまりないのだが…。
余談
http://eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2016/08/17/070000
http://sessions.hatenablog.com/
http://bern-kastel.hatenablog.com/
ぺ氏自体が積極的に他者の感想へと攻撃を行っているという驚愕の事実が判明する。
俺は好き勝手に感想を書くが皆の感想を尊重する、だからお前らも文句を言うな、ならばわかるのだが
俺は好き勝手に感想を書くし、気に入らない感想は存分に叩く、だけどお前らは文句を言うな、という態度なのである。
自分は他人の感想にどんどん攻撃を仕掛けていくのに、自分が他人から攻撃されると頭に血を上らせてしまう。
あまつさえ他人への悪口を裏ブログに堂々と書いて、悪びれもしない。
更に言えばD氏は問題にしていないようだが、
ぺ氏が普段語っている外部文脈を排して作品を虚心に見つめるという内在的読解とは、作家、時代性、商業主義、声優や俳優、などなどを外部情報として切り離し、作品そのもの…たとえばランス03という作品のみを
http://eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2014/11/22/120000_1
http://eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2014/04/26/222449
ひょっとしたらぺ氏の主張を私が読み違えているのかもしれない。
しれないが、もし私が読み違えていないのならば、氏のランス03の感想は「戦国ランス」といった別作品の存在や「ランスらしさ」といった外部情報=スキーマを積極的に取り入れた感想になっている時点で
なお、氏の普段の主張と異なっているからと言って悪いレビューかといえば私はそうは思わず、なかなか楽しく読んだことを白状するが
少なくとも氏の普段の主張と異なっているのだから、普段の主張自体が問題といえば問題になるのだろう。
人間なのだから、気に入らない相手に対して厳しく当たってしまうのは仕方のない事である。
しかしぺ氏の普段の主張は前述した通りだ。ならば、作者=テクスト主=D氏という外部文脈、もしくはスキーマを排して文章を虚心に読み込んで対応するのが筋というものではなかろうか。
D氏がクズであることやD氏との過去の因縁という外部情報を、今回のD氏のテクストと切り離す。
特に争点にはなっていないはずのD氏の悪行=外部情報を積極的に攻撃している現状を見るに、
ぺ氏が普段声高に唱えている内在的読解の質についても疑問が生まれてしまう。
他ならぬぺ氏自身が、[製作者の人間性と絡めた作品批評は最も唾棄すべきもの]だと言っているではないか。
ならば[ツイート主の人間性と絡めてツイートを読み、判断すること]は唾棄すべきことではないのか。
[物語解釈の障害であるスキーマに対抗するには]、と書いた本人が、[テクスト解釈の障害であるスキーマ]に嬉々として身を委ねているのはどうしたことだろう。
気に入らない人間のテクストだというだけでこれほど否定的に反応する人間は、気に入らない作家の作品に対しても、先入観を持って読んでしまうのは自明の理。
外部情報に踊らされないというのは非常に難しい事で、ほとんどの人間には出来ないと思うが、
ましてぺ氏にそれができるようには全く思えないのである。
その辺りのところを、ぺ氏が説明してくれると有難いなと思うし
その辺りのことが説明できないようでは、残念ながら氏のお題目は見かけ倒しと判断されてしまうだろう。
□
D氏はD氏で、つまらない感想につまらないと述べるのは自由だとは思うけれど、それが相手の目に触れれば怒りを買う事もあるだろう。
ぺ氏ほどの理不尽さは感じないものの、D氏が他人に対して厳しい物言いを何度もしているのは再三目にしており、それ自体
第三者としてはなるほどと思わされる事もあるし面白いとは感じるものの、自分がその標的になったらと考えると辛い。
もし私が同様の絡まれ方をすれば、ぺ氏のようにまくしたてたりはしないだろうが、煙たがってブロックぐらいはするかもしれない。
厳しい読者、というのは欲しい人にとっては得がたいものではあるが、のん気にてきとーな事を書きたい者には歓迎されないだろう。
ぺ氏の感想の行き詰まりを危惧するならば、もう少し別のアプローチがあったはずである。
結論 どちらも怖いです