はてなキーワード: 性善説とは
コピペ天国でもたいしたことは無い.いや,本当はダメだけどね.
教員も面倒だから指導はしてもそこまで熱心にチェックはしない.
その辺までは学術界にいるようで,まだ足を踏み入れていない段階だから.
ということから、先払いばらばら運賃、ってのは一番会社にとっては簡単で都合の良いシステム、ではあると思うけど。
大前提なシステムであり、自分のような地理不案内者は勿論、言語障碍者や外国人などにも「優しくないシステム」だと思うのだが・・・
んなもんはバスに限らずいくらでも問題として出てくるのでそれだけでどうこう言う話ではない。
言語障害者や外国人はその地名メモって置いて見せる、くらいのことするだろう、普段から、他の場面でも。
外国だと、それこそチケット外の自販機で買って誰も確認しないまま乗り込み降車が当たり前。
距離によって運賃が変わるものもあるけど、乗り込みスタンプがあるような物もあればないものもある。
(でも、それでもチケットの10倍とか20倍とかの金額なので、頻繁に使ってるならそれ、たまに払ってでも無賃乗車してれば安く付く、って事もあり得るし、そういうやつ普通に居る。。。)
性善説側に立つ人たちの考えてる事は凄く浅い。
人は最初から善い事を知っている。だから法で縛るべきではない。
という考え方だけれども、善い事も悪い事も今ある社会が決める事なので誰も善し悪しなんて知り得ない。
事実、そうであるならばアフリカは何なのか。アフリカの人たちは民族間ではあるが殺し合って奪い合っている。
あれは「善い事」に対する概念が違うからだろう。普遍的な善い事は生きる事だけである。彼らは生きるための手段に殺したり奪ったりしているのだ。
ならば悪は貧しさなのか。
教育をしていれば道徳観念や、何をしたら善くなるか、悪くなった原因はなんなのかが明確になり、そこに明を見いだした人間が複数集まれば現状の悪を覆す事ができるようになる。
つまりは性悪説である。教育こそ行っていくべきで、教育が行き届かない人間んは法でしばるしか無いのである。
一方、性善説に立つ側は事実が見えず、自らの作り出した幻想に取り付かれている。
彼らは「ぼくのかんがえるすばらしきせかい」であって欲しいと世界に対して強く想っている。
だから美しき幻想が否定される事は、自分の世界が否定されることにつながり、それが嫌でしかたなくて性悪説を否定するのだ。
今、日本にはびこっている左翼や改憲反対派は得てしてこれで、自分の知っている狭い範囲から抽象化した美しき世界に性善説を見いだしている。
自らの知っている範囲の延長でしか考えられないのは右も左もだいたい一緒なのだが、最悪を想定できなかったり現実として存在する悪い方から目を背けて、教育を否定するのはやめてほしい。
左翼の君たちがいる世界には君らが言う程美しい人間達で構成されていないし、右翼の君たちが言っている世の中は悪い人間ばかりではない。
今更だけどガッチャマンクラウズ見たので感じたことを書きたい。(ネタバレ注意)
このアニメは登場する主要なキャラクターがそれぞれに異なる正義観というかポリシーみたいなものを持っていて、それぞれがいわゆる典型的なヒーロー像を象徴していたように思う。
今回はそういった個々のキャラクターは置いておいて、大筋のストーリーから勝手にメッセージを読み取ってみる。
ガッチャマンクラウズには典型的な正義観を持った2つの陣営が登場する。それはガッチャマン陣営と爾乃美家累である。ガッチャマン陣営(はじめ除く)は各々の考え方の違いはあれど基本的には勧善懲悪的なスタンスである。一部の優秀な人間がその他多くの言ってしまえば愚かな民衆を導く必要があるという考え方を持っている。それに対して累はヒーローは社会に必要ではなく、民衆全体の働きかけによってより良い社会を実現しようと考えている。しかしこの理想は性善説的な考え方に大きく寄与している。
ここにはじめとカッツェといういわゆるジョーカー的な存在が登場する。2人はこれら2つの陣営にそれぞれの正義観に対する不備を突きつける。
はじめは何事に対しても先入観なくフラットに接し、自らの価値判断基準に則って行動することで今まで悪だと思っていた存在がそうでないこともあるということを突きつけた。一部の優秀な人間が舵取りを間違えたらあかんよねという事例である。カッツェは累に対してあえて困難な状況を作り出し、自らが与えた力を使わなくては結局民衆による正義など実現できないという矛盾を突きつける。更に後半はGALAXとNOTEを累から奪うことでクラウズを使って人間の性悪説的な側面を増幅させる。これは民衆による正義は結局易きに流れる為不可能と象徴的に示しているといえる。
はじめとカッツェによる引っ掻き回しによって2つの陣営共に自身の正義観を変容させていく。ガッチャマン陣営は清音を筆頭としてはじめを受け入れることで、一方的に先導するだけが正義ではないということを理解してく。累については人々の内発的な動機による助け合いではなく、社会の仕組みによって外発的に動機づけを行うことではじめて理想の社会が実現できると考えを改める。以前の累は多くの民衆に対して自身の正義観を押し付ける側面が少なからずあった。それはHUNDRED No.26 梅田 光一を説得する場面からも読み取ることができる。人々が内に秘める助け合いの精神を信じていた結果としてそのような正義の押し付けにつながっていたといえる。それが最終的には各個人の考えを矯正するという発想をやめ、システムとして人を誘導するという発想に至る。「立川市で何をするかはみんなの自由」という発言は、人の性善説的な側面を無批判に信じて出たものではなく、民衆を正しく先導する覚悟を決めての発言であったんだと思う。
インターネットの普及、ソーシャルネットワークの出現によって今まで以上に群衆の声、力が大きくなってきた社会は、特定のリーダーが多くの群衆を先導するには複雑すぎる。そういった状況の中で現代社会はどうあるべきか?それがこの作品を通して伝えたいテーマであると思う。
恐らくあのラストで表現したいことというのは、「荒らし」をするような人たちは規制や否定ではなくならないということ。(殺さない・殺せない)自分たちが世界の楽しみ方(ゲーミフィケーション等)をみせることでしか、変えることができないということではないでしょうか。
世界をポジティブに捉え、行動したほうが合理的と思わせるような体験を見せることでしか、変わらないということを言いたかったのではないかと思います。
http://d.hatena.ne.jp/loki16185/20130929/1380428729
この疑問に対して作中での答えはゲーミフィケーションであり、人間が本質的に易きに流れる生き物であるならそれを肯定し、社会全体としてより良くなる方向にインセンティブを与えることでボトムアップに社会を運営していこう、という発想である。ガッチャマン陣営と累がはじめとカッツェにそれぞれ自分たちの正義観の不備をつきつけられ、互いに価値観を共有し合ったことでこのような発想に至ったと考えられる。
しかし、この考え方には未だ危険も潜んでいる。インセンティブを与える基準、いわゆる「いいこと」の評価関数の決め方次第では結局正義の押し付けになってしまう。この評価関数の決め方という部分まで踏み込んではじめてこれからの社会の正義のあり方という問題の答えになるのではないか?と感想を抱いた。
胸が詰まる
掌には重さ100kgの石、凹凸激しく凶器となり得る
目の前には顔の分からないどこかの誰か
いつの間に運び込まれたのだろうか
両手足は縛られ口には猿轡、顔はすべて麻袋に押し込まれ、身動き一つしない
「助けなきゃ」
―うるせえ、死ねよ
「そんな事をして意味がない、だれも得しない」
―じゃあ、代わりにてめえが死ぬか
「きっと殴ったら後悔する、殴った時の感触を何度も思い出すことになる」
―ここで殴らなきゃ、俺が俺でなくなっちまう
人を害しても、何も解決しないのに
そこから考えて、彼のやり方はどうしようもなく幼稚であるように思えた
でも、僕には彼の言うことも少しわかる気がした
世の中は僕の知らないルールが沢山あって
それらが複雑に組み合わされて出来てるんだなあ、って最近は思うようになった
誰もが悲しまない方法でやり遂げられるんじゃないのかなあと思わけで
そういう時、決まって彼は
「お前のやり方は、どう考えても間違っている、自分を騙す理由が欲しいだけだろ?」
と指摘する
僕が本気で抵抗すると、彼も不承不承といった感じで僕の意見を受けれてくれる
彼はすぐに暴力に走る直情的な所があるが、それでも僕が本当に嫌だと思ったことはしなかった
それは。僕が彼とやっていける、大きな理由になっていた
そして何より、僕は彼と話したりするのがそれほど嫌ではなかったのだ
「やっぱり助けなきゃ。誰だって、こんなことは嫌な筈なんだ」
―またお前の甘っちょろい性善説か
「攻撃したってしょうがないじゃないか。この人が何をしたのさ」
―お前も……いや、何でもねえ
「……?」
―とにかく、こいつを殴るのに理由なんか要らねえよ。殴らねえと殴られる。殴ったら気分が良い。それだけだ
「それは飛躍しすぎだよ。この人が僕たちをいきなり殴るわけでもないし、もし殴ったとしてもそれには何か事情があるんだよ」
―またお得意の"事情"が始まったよ。いいか、事情なんて関係ない。肝心なのは、自分を守れるかどうかなんだ
「だから、守る必要なんてないじゃないか。仲良くする方法だって」
―ないな。そんな甘い事してると、相手をつけあがらせるだけだ
「どうしてそう思うのかなあ。ちゃんと話し合えば、仲良くできるかもしれないのに」
http://togetter.com/li/605410 コメント欄より
「不謹慎だ」と怒っていらっしゃる方々は、いったいどんな時に微笑むのでしょうか。何をしたら、笑ってもらえるのでしょうかねぇ。社主が大人しくなったら「ザマァ」とか言って笑うんですかね?それこそ不謹慎なんだけど、ブーメランの自覚ないんですかね。
namihei_twit 6 hours ago 4
(´-`).。oO(つまり、というか、むしろ、というべきか、言い訳、開き直り、をしているのは、組織票で真っ赤な人達の方、であろう、と。)
namihei_twit 2 hours ago
ツイッターのTLを見てみると、どういう性質の人が虚構新聞を支持しているのかよく分かる
https://twitter.com/namihei_twit
@namihei_twit
対処療法より体質改善。今、何をすべきか考えるのが好き。悪「者」
捜しは嫌い。■フォローはお気軽に。アンフォローもご自由に。こちら
も気分でフォローさせてもらってます。●固い呟きが多いですが、ユル
くお付き合いください。★突然のリプご容赦ください。
【@kyoko_np の件に思ったこと】「不謹慎だ」といつも何かに怒っていらっしゃる人達は、いったいどんな時に微笑むのでしょうか。何をしたら、笑ってもらえるのでしょうかねぇ。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 23
言葉の怖さを知ったこと、と、言葉を発することを怖がること、は、くっつけたらイカンよ。ヽ(´ー`)ノ10;皆が思い思いに好き勝手に発した言葉で、皆、日々、励まされたり、傷ついたりしてるんだからさ。10;10;RT @harukazechan いまは文章をつづることも、こわくなってしまった— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 23
「レイシストを許さない」で、いいの?10;10;「レイシストにはならない」10;「レイシズムを許さない、認めない」じゃないの?10;10;すごく細かいことを言っているのは重々承知なんだけど、違いが分からん、とか言われたら物凄く恐ろしいことなので。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 21
レイシズムは嫌いだし、レイシズムに反対だけど、レイシスト差別はよくないと思うわけ。10;10;貼りつけられたレッテルが「レイシスト」なら、差別していいの?10;10;それ、自己矛盾で自己崩壊しない?— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 21
@namihei_twitがRT
マスコミが猪瀬さんを執拗に叩くってのはマスコミにとって「邪魔者」かもしくは金を貰ってやってるってに決まっている。そこには正義などないよ。— ヒトラー総統 (@hitler_soto) 2013, 12月 18
@namihei_twitがRT
私は猪瀬知事の続投を支持します。10;10;なぜなら10;都議員の民主をはじめ無能議員が知事を責めあげ、10;マスコミが相乗りで猪瀬知事を攻撃しているから。10;10;これは10;「自分たちに都合の悪い人物を潰したい」という意図。10;10;この現象は10;マスコミと朝鮮の癒着という10;「暗黒の民主政権で学んだ」からです— sakuhana (@mina005) 2013, 12月 17
@namihei_twitがRT
結局のとこ、マスコミと我々民衆が都知事をやめさせるわけでしょ。で、たかだか5千万円の事で、都知事選で50億円使うと。— 金本茂 Shigeru KANEMOTO (@ssci) 2013, 12月 18
自己暗示をかけて殻に閉じ籠る、浮世離れしてるたぐいの方々が、ネットというツールのおかげで、あちらこちらで殻から漏れ出している、という。これも、可視化?見える化?みたいに呼んでいいのでしょうか?ヽ(´.. http://t.co/H0Snoq4suq— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 16
誰にも負けない強さを持ち、あらゆる相手を打ち負かす人など何処にも居ないと思う。10;10;全てに万能な人間など非現実的だから。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 15
しかし、あらゆる人から味方をして貰える人に成れたなら、どうだろう。10;誰にも太刀打ち出来なくてもいいのだ。10;10;勝負にならなくたって「敵無し」なわけで。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 15
相手を打ち負かし屈服させる力とは、自分を蝕んでいく負の力だ。 反撃に怯え、近づく者を拒み、敵を作り続け、自らを孤立させる力だと思う。10;10;適材適所で適度に使う分には構わないだろうが、自らの強さを誇示するため、敵を作っては打ち負かす、というのは愚かと言う他ない。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 15
メモ(一人言)10;10;性善説、性悪説、「性弱説」10;10;「状況の奴隷」10;10;発想の冒険10;10;未知への挑戦10;10;好奇心10;10;可能性— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 14
イイワケの域を出ていない。自分を奮い立たせるのは良いけれど、自分をよく見せるため自分が満足するためで、お客に満足してもらうためお客に喜んでもらうため、じゃないよねソレ。満足する部分もあればこそまぁ仕.. http://t.co/kbIAOQLbwZ— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 14
「こんな思いをしてまで自分では望んでない者になってるのに、アイツ等あんなに好き勝手にやりやがって、ムキー」10;10;(´-`).。oO(望んでないモノかもしれないが、あなたが選んだモノだよ。選ばせてくれなかった?今はもう選んで選り好みしても良いものだと認識してるよね)— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 14
https://twitter.com/namihei_twit/status/411692962871910400から
だから、人の目が怖くなるんだよ。 10;だから、面と向かって目を見て人と話せなくなるんだよ。 10;だから、相手の話に耳を貸さず、ひたすらまくしたてて逃げるんだよ。10;10;さらには、自分自身すら誤魔化すために「勝ち名乗り」とかあげちゃったりしてな。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 14
自分が「変な人ですね」って言われることが最高の褒め言葉だなんて思っているようなヤツだから、こんな変なヤツを好きだなんてどんな変なヤツだよ、と好感度が上がってしまうのだが。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 9
(コメ欄が本題からどんどん遠ざかっていってるけど、遠ざけようとしているのは誰か、遠ざかりたがっているのは誰なのか、目を背けているのは誰か、読んでる人達はちゃぁんと生暖かく観てますからね。シメシメとか.. http://t.co/nnug16JB0L— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 9
@azukiglg 誰も真相を知らないことをいいことに、見てきたかのようにデタラメを垂れ流す人には、どのように不幸が訪れるのでしょうか。知らないフリをしてはいるけれど、ソイツの言葉に根も葉もないことを知っている人は、しらを切り続ける以外無いのでしょうか。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 8
検証ができずホラ吹きの暴走が止められないと、何も知らない人は成す術なく間違った情報を植え付けられてしまう(信じる信じないはともかく)。秘密になっている情報が、過小評価や過大評価をして勝手に右往左往してくれるのは大歓迎、という類であればそれも良しなんですが。 @azukiglg— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 8
世界と繋がれない人、が居る。10;誰かの言葉にただひたすら従う人。自分で考えようとしない人、自分の考えで動くことに戸惑う人。10;一見、指示をする誰かの手足になることで繋がっているように誤解されるが、そこに自分という実体が存在していない、つまり、世界の中に自分は居ない、ということ。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 7
指示に忠実に動いても、自分の考えを挟むことをためらうことがあっても、自分の意志行動の決定を自分でしたうえでなら、そこに自分は存在している。10;自分の考えとして取り込み、自分の意志として行動する限り、私は私であり、私はここに存在している。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 8
「~してくれない」って騒ぐこと、騒ぐ人に付き合うことの、空虚さは、「~してくれない」と騒いでいる人の空虚さ、自分の無さや希薄さに通じていると思う。10;10;そこに自分が存在していれば「~してほしい」と言い替えれられる。10;10;そこに他人しか存在していないから「~してくれない」になる。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 8
誰かが相手をしてくれている間だけ、いや、誰かが自分の望む通りの相手をしてくれている間だけ、心が安らぐ。10;常に、自分に目を向け自分に対して時間を割き続けることを、誰かに求めているわけで、そこに際限は無い。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 8
保身に走って、自分が痛くならないうちに切り捨てよう、とか、この痛みを押し付けよう、ってするから、反発を受けるんだよねぇ。10;10;自分が相手にそんなことをされたら当然の如く反発し抵抗するのに、自分がそれをするときは反発するな抵抗するなと?10;10;どの口が言うか。— なみへい (@namihei_twit) 2013, 12月 6
だと思うんだけど、他の国ではどうなっているのだろうか。
パリやニューヨーク等、欧米の大都市では、歩道や公園に、ゴミ箱がたくさんある。本当に至る所にある。
なぜか。
ゴミ箱を設置しなければ、そのへんにゴミをぶちまけるだろうという人間観があるからだ。
ゴミの収集を有料化すれば、なるべく負担額を減らそうとして、結果的にゴミの量が減るはずだ、ぼくって頭いい~とか役所の人は考えるのかもしれないが、それをたとえばパリでやれば、ほんとうにいろいろな人がいるので、無料でゴミを路上にぶちまけるだけだ。
それ理想論。現実のデジタルデバイド世代は、自分はパソコン使えるつもりでガンガン デバイドの感覚で口を出してくる。と思えばいい。
もしくは、教えてくれと聞いてくるとかな。が、聞かれたところで基礎知識をベースから応えるか?答えないよね。だからわかりやすい嘘を言うことになる。
でも、経営判断には、そのわかりやすい嘘が大問題になることがある。なぜなら、本気の嘘、だますための嘘と区別がつかないから、変なものを買わされたりする。
あとは、最大の論点は、 興味ないとかな。新しいやり方が出ているのに古いやり方をやり続ける。
デバイドのやり方でも更新し続けるならともかく、何年も同じやり方をやり続ける。聞く気もないとかな。
先日ネット上にて、星海社から発売された『ロジック・ロック・フェスティバル』が古野まほろの『天帝のはしたなき果実』の盗作であるという疑惑が生じ話題となった。
そして、その『ロジック・ロック・フェスティバル』が本日、晴れて全文公開された。
http://sai-zen-sen.jp/awards/logic-lock-festival/
そういうわけで今日は本作が本当に盗作であるかというかのを考えていきたいのだが、その前提として知っておかなければならない事実として、「盗作」とは何かということである。
ここで日本で盗作について一番詳しく書いている栗原裕一郎の『〈盗作〉の文学史』から一部引用させていただこう。
本文に先立ち、何を「盗作」と呼んでいるかをはっきりさせておく必要があるだろう。
「盗作」にしろ「剽窃」にしろ、いずれも俗語だから、明確な定義は持っていない。
したがって、「盗作」であるか否かを区別する客観的基準というものも――明白な著作権侵害である場合を除いて――存在しない(中略)「影響」も「模倣」と捉えれば、広義には「盗作」と呼べないこともない。
つまり何かが盗作であると断ずるには、著作権侵害レベルの一致がない限り難しいのである。そして、肝心の版元である星海社は盗作の件について
と、はっきりと否定。また、盗作された側である古野まほろもtwitterで
本歌取りは日本の伝統、本格の伝統です。だから、もし本歌取りを「盗作」などと貶めるなら、それはとんでもない侮辱で冤罪です。私は、元の和歌が分かるマナーのある本歌取りなら、むしろ嬉しく思います。逆なら悲しい。私は、話もせず真実も知らず、人を断罪することは、不正義だと考えます(古野)
と言っており、両者の意見が「盗作ではない」と一致しており、晴れて『ロジック・ロック・フェスティバル』が盗作ではないことが確定したのである。パチパチパチ。
しかし、それでは面白くない両者の意見をよく較べてみると、あらゆる面で一致しているわけではない。
古野側は
ですから「類似点が多い」のはどうしてか。そして、これまで古野について一切、どこかで語ったり、書かれたりしていないのは何故なのか。これらがハッキリすれば、何の問題もないと思います。「盗作」は考えにくいから。もし本格の後継者でいらっしゃるのなら、古野とは仲間だから(島津)
という具合に、盗作とは言わないが、こんだけ類似点が多いのは偶然で済ませられないだろと主張しているのに対し、星海社側はあくまで、
本作『ロジック・ロック・フェスティバル』においては小説を構成する主要素であるところのテーマ・プロット・キャラクターにおいて、先行作品との「盗作」に該当する類似点は一切ございません。
と類似点なんてねーよと全ツッパ。
ここで難しいのは、先ほども書いたように、「盗作」というものの定義がはっきりしていないため、星海社のいう『「盗作」に該当する類似点』というものがどういったものかわからないのである。
どこまでが、『「盗作」に該当しない類似点」であり、どこからが『「盗作」に該当する類似点』というのを言ってくれないと判断に困る。
しかし、言ってくれないものは仕方ないので、こちらで勝手に検証していく。
さて、ではここで問題となっている両作品の類似点とはどういったものなのか。
まず、読者の印象に大きく残る点として、全体のストーリーの流れが挙げられるだろう。
・天帝のはしたなき果実
↓
事件が発覚すると大会が台無しになる、多数決でこれからどうするか決める
↓
↓
↓
↓
事件が発覚すると文化祭が台無しになる、多数決でこれからどうするか決める
↓
↓
↓
2chからのコピペだが、両者を読み比べた自分から見ても、この通りの展開が書かれていたし、印象もだいぶ似ていた。
これに対して星海社は、
たとえば本作『ロジック・ロック・フェスティバル』にてテーマとなっている「学園での殺人事件」につきましてはミステリーを描く上では一大ジャンルを成すポピュラーなテーマであり、ご承知の通り、先行作品を枚挙することに暇はありません。また、文化祭で殺人が起こり、その発覚によって学園祭が中止してしまうことを恐れて生徒達が独自に行動する、という本作のプロットには先行作品としてはたとえば『前夜祭』(角川書店刊/芦辺拓・西澤保彦・伊井圭、柴田よしき、愛川晶、北森鴻氏らによるリレー小説)の存在を指摘することができると思いますが、こちらの作品に関しても前段となる殺人の状況と、後段となる推理と解決へと至るプロットには、本作との密接な類似点を見出すことはできません。
そして、「特殊な場所への警察権力の介入を防ぐために居合わせた人間が素人探偵となって活躍する」といった本作のプロットに関してはたとえば『水の迷宮』(光文社刊/石持浅海)などの優れた先行作品を指摘することができると思いますが、こういったプロットに関してもまたミステリー界においては極めてポピュラーなものであると言えるでしょう。 キャラクターに関しても、学園の生徒会やその周辺の個性にあふれた生徒たちが登場し、事件を解決するのはいわゆる「学園ミステリー」ものの常であります。
この理屈がありならば、「少年漫画において、探偵が主人公というのは一大ジャンルを成すポピュラーなテーマであり、大人だった主人公が子供になるという設定も手塚治虫の『ふしぎなメルモ』など枚挙に暇がなく、また主人公が知り合いの博士におもしろグッズを作ってもらうのも、偽名に古今東西の有名人の名前を使うのも決して珍しいケースではないので、本作『名探偵ドイル』は完全なオリジナル作品なのです!」などという無茶苦茶な理屈もありになってしまう。
問題となっているのは、別個であるはずの2つの作品でこれだけ似通った要素が複数に渡って存在してる点なのに、それを因数分解のようにバラバラにして、よくあるケースだと主張するのはいささか無理がある。
もっともミステリなんてのは、『名探偵、皆を集めて「さて…」と言い』という言葉があるぐらい、ある種の流れが決まっているジャンルだし、このぐらいのストーリーの類似はよくあることかもしれない。だがそれ以外でも古野側が、
私はこれまで徹底して、著者の方の名誉と将来のため、具体的指摘を避けていました。また性善説に基づき、盗作説を断固否定した上で、類似点の多さを悲しみました。それすら非のない方への中傷と言われれば、非は私にあることになる。ならば、相当数あるうちの1つだけ、まずお示ししましょう(古野)
鷹松学園と勁草館高校。学校の設定を比較対照してみて下さい。 やや時間を置いた上で、その具体的指摘も行います。 できればこれに止めたいですが、私に非があるとされている間は、二の矢三の矢を射ちます。極めて不本意です。私はこの段階でも、平和裡に解決することを強く、強く希望します(古野)
と主張しているように設定面においても、両校の舞台が「藩校を前身とする名門校であり、地下に軍事施設がある」という一致を見せている。
普通、ここまでの一致はなかなか見られまい。
また『ロジック・ロック・フェスティバル』の応募時キャッチコピーが「学園ミステリーは青春に捧げる供物である」というものだったのに対し、『天帝のはしたなき果実』に対する、ミステリ作家・有栖川有栖氏の推薦文が「これこそ、虚無なる青春への供物。真正の本格にして破格のミステリ」となかなかどうして似通っている。
それ以外にも両作品の最後の一文も綺麗に対称関係となっている。
このまま順調にいけば、古野によって二の矢三の矢が射たれるはずなので、今後の展開を楽しみにしておきたい。
ただ、個人的な意見を言わせてもらえば、『ロジック・ロック・フェスティバル』において、軍事施設の設定は必ずしも必要なものではなく別の設定でも代替可能だったはずである。だから、もし作者に本当に盗作をする気があるならば、こうした部分は真っ先に変更したはずである。それにもかかわらず、このような明白な形で残っているのだから、この一致は作者によるオマージュやリスペクトの一種とみなした方がいいだろう。
しかし、オマージュであれ、リスペクトであれ、このような類似点が多数ある以上、星海社側の「完全な事実無根」や「なぜ火のないところに煙の立つような今回の「盗作」疑惑が起こってしまったのか」という発言はいささか苦しい。少なくとも根や葉や火種はあったわけなのだから。
『ロジック・ロック・フェスティバル』のあとがきによれば、本作は作者が初めて書いた小説らしい。
その点を考えれば、こうした部分はむしろ若気の至りや遊び心と言えるし、前途ある新人に対して執拗に非難するべきではあるまい。
本作を受賞させるにあたって、星海社の太田副社長は座談会でこのようなことを言っている。
この人、ミステリーの手つきが本当にいいわけ。小ネタから大ネタまで、80点以上のミステリーが次々とやってくるって感じ。飲茶のおいしい料理が次々やってくる感じなわけね。しかもなおかつ、法月綸太郎的、佐藤友哉的な青春の痛みがしっかりとあるのよ。だけど生々しく「法月綸太郎が」とか「佐藤友哉が」みたいな感じでは出さないようにしてるんですね。
また、さらにこのようなことも言っている。
うん、この人は新本格ミステリーの正統後継者だと思うよ。あの世にいる宇山さんにも読ませたいよね。そういう意味で言うと、「ありそうでなかった」っていう感じがする作品なんだよね。新本格はその誕生以来ずっと奇形化が進んでいったわけだけど、正統的な先祖返りというか……この人の作品は音楽で言うと「黒いジョン・レノン」と呼ばれたデビュー当時のレニー・クラヴィッツみたいな感じなんだよね。あるいは、とかくビートルズと対比されたデビュー当時のオアシスとか。とにかく、これまでにありそうでなかった青春ミステリーの最前線、みたいなわくわくする感じがこの作品にはあるような気がするんです。
ここで太田が読ませたいと言っている、宇山氏が生前最後に送り出した作家・古野まほろをまたしてもガン無視である。「ありそうでなかった」人扱いである。まほろの存在が歴史から抹消されている。預言書が燃やされたのだろうか?
それとも『天帝のはしたなき果実』の文庫版が講談社からではなく、幻冬舎から出ていることと何か関係しているのだろうか?
そして受賞作の発売に寄せてこのようなことも言っている。
……というわけでぜひみなさん、『ロジック・ロック・フェスティバル』を読んでください。綾辻行人さんや法月綸太郎さん、有栖川有栖さんたち、かつての「新本格」推理小説ムーブメントは終わっていなかった、それが見事に証明される一作です。学園祭の密室の妙に酔いな……!
そりゃまほろも怒る。
明らかに古野まほろの影響を受けている作品に対して、他の作家の名前をガンガン引き合いに出してるのに、肝心のまほろを無視しているんだからそりゃ激おこにもなるだろう。
この場合考えられるケースは4つ。
1.選考に関わった全員が『天帝のはしたなき果実』を読んでいないor内容を忘れていた。
2.色々類似点があると気づいていたが、この程度大した類似ではないと考えた。
3.色々類似点があると気づいていたが、読者は類似に気づかないと考えた。
イラストに大御所CLAMPを使っている時点で4番は無いだろう。考えられる可能性は残りの3つ。外野である我々にはどれが真実なのかを判別する術はない。
ただ、やっぱり上に挙げた類似点を考えれば、作者が古野まほろを全く知らなかったというのだけは考えられない。
そして星海社は普段から新人賞の選考においてオリジナリティを重要視しており、以前の座談会ではこのようなことを言っている。
次は岡村さんが担当した『MV ―Meteddo Vevaea―』。これは高校生?
そうですね、高校生でこの枚数書けるのは素直にすごいです。
何枚くらい?
400枚以上ありました。
おお、それは確かに頑張ったね。
ただ、肝心の内容がまんま『IS〈インフィニット・ストラトス〉』なんですよね……。
タイトルもそれっぽい!
岡村さんもさらっときついことを言うようになってきたねえ(笑)。
いやいや、でも本当にそうなんですよ。架空の兵器があって、それを使える男性は主人公だけ……という設定で、何から何まで『IS』を連想させてしまう内容でした。これをそのまま出版したら、ちょっとタダではすまないだろう、と(笑)。
大変なことになりそう(笑)。
似た例は僕のところにもあって、『コトホギ』ってのがそうなんですけど。
コトホギ……?
柿内
タイトルが既に不穏だなあ。
これ、舞台は大正二十年、帝都。女の子が悪魔に襲われているところに、書生姿の男が助けに入り……と、ほとんど『葛葉(くずのは)ライドウ』です(笑)。
一同
まんまじゃん!
電波塔がうんたらとか、もうほとんど二次創作でした(笑)。これでライドウを連想しない人はいないだろうと。
まだあんのかよ! いい加減にしてくれよ(笑)。
主人公が着物姿で武器は刀……式の性別を男にしただけ、まんま『空の境界』!
冒頭1ページ読んだだけでそれと分かる感じでしたね……。
よく星海社にこれを送ってきたな、という。度胸はあるのかもしれませんけど、酷い!
別に新人賞でオリジナリティを重視するのはかまわない。むしろ当然である。既に市場に似たような作品があるのならば、多くの読者は新人ではなく実績のある作家の作品を選ぶだろう。
だが、だとしたら『天帝のはしたなき果実』を連想させてしまう『ロジック・ロック・フェスティバル』を受賞させたのは失敗ではなかっただろうか?
普段の座談会で大上段から応募作を切り捨てているからこそ、受賞作にはそれ相応のクオリティが求められる。さらに帯に『まだあった「新本格」推理小説! 全ミステリファン注目の新人登場』なんて書いたらハードルの高さはそりゃもうウナギ登りでよっぽどの脚力が無い限り、足を引っ掛けて転倒は免れまい。
先程も書いたように、『ロジック・ロック・フェスティバル』の作者である中村あきにとって本作は初めて書いた作品である。
そうしたまだ若き作者に対して、これほど高い下駄を履かせるのはどうなのだろうか。
少なくとも「全ミステリファン注目」というのはいささか厳しすぎる。
そういう意味では、今回『ロジック・ロック・フェスティバル』が受賞してしまったことは決して幸運などではなく、むしろ運が悪かったのかもしれない。
身も蓋もない話、これが星海社からではなく別の出版社から刊行されていたら、ここまで話題になることもなかったと思うのだが……。
エスカレーターそのものに対するものなんてないと思うけど、無理やり当てはめようとすれば、
公衆に対する危険行為を防止する条例的な物があるからそれに該当するだろう。
(エスカレーターでずっと走って登ったり降りたりしてたらそういうので逮捕位できると思う)
性善説とかそういうことじゃないんだけど、バカなのか?
片側空ける、ってのもそもそも法律で決まってない。空けなくてもいい。でも何故か空けないと行けないような雰囲気がある。
それは単にそういう「文化」があるだけ。人の中でなんとなく勝手に決められてるもの。
これと同じ。危険だといった所で実際に危険な物を見てないし感じてないし理解できなければ変わらない。
車の場合、単に危険、というのに加えて法律で制限されてるが、罰金や免停をくらって罰を受ける事が身にしみれば理解できる人もいる。
だけど、エスカレーターはそのようなことが無いので、実際、目の前で事故が起こったり自分が転落するなりしないと理解できないだろう。
後は、歩かない人とのバランス。歩かない人に取って歩いてる人はデメリットでしか無い。また、片側を空けなくてはいけない、ということは何も強制されるものでも決まりでも無いのに、
東京や大阪では空けてないと怒鳴られることすらある。そうでなくても物凄い目で見られる。
そういったおかしな文化が無くなって、単に、急いでいる時に、他人に迷惑がかからなそうなら自己責任で歩く、程度になれば一番良いと思う。
今みたいに、ぎっしり片側に詰まってるのに片側が会いてる、なんていうキモイ状態は異様だ。
海外でも歩く人も居るし、なんとなく片側に寄る場合もあれば、片側に歩くマークがあったりするものすらあったりもする。
だが、そんな中でも東京や大阪みたいに片側にぎっしり人が詰まった状態で片側を歩く、なんてことは有り得ない(まあ、そもそもそこまで人が居ることがあり得ないが。)
……だけだとあんまりにもアレだから補足するけど、つまり成果主義じゃないんだよな
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20131015
どっちかってーと、追記のほうが本質がギュッと詰まってるからそこだけ読め
今日のエントリに関して、「生産性を上げても、給与が上がるわけじゃないから(生産性が)上がらないのだ」という意見も多いけど、そうとは
そうね。
なぜなら、製造部門の指標は誰が観ても判りやすく数値にできるから。しかも同じ内容の繰り返しだし。
定性評価と定量評価の違いってヤツね。
1時間に1000個製品作って、不良品は1個まで。って目標を立てれば
いま800個で不良品3個だから、どやったら不良品減らせんの?どうやったら200個分底上げできる?って話がしやすい。
これは、1000個/時間ってのを、"生産性"として定義してるから。
(もちろん、在庫管理から流通の無駄に至るまで数字で出せるところは改善するね)
http://dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2013/10/15/210039
ポイントは以下な。
製造部門は、給与面で評価はされない。でも、改善結果は目に見えてわかる。
少なくとも、治具の改良や工程の見直し、環境の安定から工員の習熟に至るまで、何やったらどうなるかがハッキリ判る。
誰から評価されるわけじゃなくても、目に見える。
800個/時間が、1000個/時間になれば、そりゃ嬉しいもんさ。
当然評価もされるしな。カネには換金されないことが多いが。
こりゃ生産性が向上したと誰もが思う。
じゃあ「同じ仕事内容」ってのは、なんだ?
1時間あたり、6000枚チラシポストに配る。相当効率いいな。
じゃあ、高い成果ってのは、どうやって定義するんだ?
これはまあ、普通は「評価者」が評価した結果、だろうな。
生産性を上げたら評価下がった話
http://colopon.hateblo.jp/entry/2013/10/16/185508
ポイントは以下な。
これに対するブコメのスター集まりっぷりが(現時点では)全てを表してるけど、
結局、評価者とか仕事フるやつが、日本の場合は機能してないのな。
製造部門と違ってさ、「早く仕事が終わったやつ」を評価する仕組みになってない。
ヘタすると「他人を手伝え」とか言われるわけだ。
なんで工員がそんなことしなきゃいけないんだ?
こういう職場で、効率が最も良いのは「他人に手伝ってもらう」だ。
この場合、生産性は「お給料/やった仕事量」で定義されてるからだ。
効率よくお金を稼ぐ、という工員側からの目線では、何も間違っていない。
でも、実際には多分管理されてない。
「Aさん15個/日、Bさん16個/日、派遣の人さん20個/日。おお、派遣さんなかなか良いな」止まりだろ。
これが例えば、派遣の人が8個/日のタスクしかやってない(他の人の半分しかタスクを片付けてないから半日で終わる)なら、
当然「他の人に比べて生産性が悪いから、改善されないなら契約打ち切るけど」とかって話になってしかるべき。
逆に言えば、この管理方法で管理しといて、半日で終わって暇だわ-って人は、給料分は仕事してるから遊ばせといていいはずなんだよ。
つうか、工場のラインではそうする。他の部品の生産率に合わせずに、ネジばっか最大効率で作ったりはしない。
部署で「100個/日のタスクを目標にする!」ってしてりゃ、管理者も眼の色変えて改善するよ。
少なくとも、派遣の人のやり方を、AさんBさんに展開して、同じ水準まで引き上げるだろ。
「Aさんの残りの15個を派遣さんにやってもらって、帳尻を合わせよう」みたいな話に、製造現場ではならない。
「終わったなら仕事を探してもらって、時間まで生産性を上げてくれ」みたいなトンデモを口にするってことは、真面目に改善する気がないって
ことだ。
例えば「1時間で、1000枚の書類を片付けることを部署として目標にする」と言ったとするな。
んで、定時で全員帰る。残業はしない。なぜならば、部署として仕事をしてるから。
だから、1時間で800枚ならカイゼンカイギが行われるし、全員のボーナスに響く。
デキない奴は出来るようになるまで徹底的にシゴカれるし、配置換えもクビキリもアタリマエになるだろうな。
ま、そういう目標値を立てられないところに問題があるわけだ。
それが利益に見えない。
生産性を定義できないし、測定もできないから、改善されないんだよ。
「これだけの仕事をこれだけやったから、新しいポジションを寄越せ!」ってところは
外資だろうが日本の会社だろうが、自分で定義して測定してアピールするだろ。
ASAPだとか、時間内に出来るだけ、みたいな言い方して仕事するってことは、
昇進って人参ぶら下げて無限に働かせるにゃ向いてるやり方だろうけど、
上は詰まってて給料も先細りって状況じゃ、上手く働かないよ。
製造現場みたいな「目に見える目標値」をカイゼンする方向性でいかないと。
工場だってな、別に目標値もなく現状維持で不満が出てなきゃ、とりあえず安全側に倒して運用されるぞ。
んで、なんで工場だけそんな目標値立つかって言うと、経営者が利益を直接数字で見るからだ。
派遣OLのタスクは、巡り巡れば利益になるんだろうけど、それが可視化されなきゃ無視される。
測定無くして改善なし。
知恵を出すのは現場の工員、現場を改善するのは管理者で、管理者に目標を設定するのは経営者。
ちきりんも、脱社畜の人も、性善説支持者なんだろうな、と思う。
かたや製造部門ではそうだと言い、かたや金が貰えなきゃ動かないと言い。
ネットを性善説で表現する人もいるだろうし、性悪説で書く人も、その両方で書くって人もいるだけのこと
せっかくお奨めしてもらったから書こうかな+常々ネットで思っていた事をクラウズ見て言葉が流れ出しただけ
過去のデータって何処でこじらせたのか原因になったマジックワードをほどく手がかりになるとしても万能じゃないし、その人の過去の行動=現在のその人=未来のその人でもない
人は日々成長するものだから、煽り大好きのカッツエだって恋愛して就職して子どもが産まれたら攻撃性が丸くなる可能性も無くは無い
今ダメ出しされている人でも経験値を溜めていけばそれなりには動けるようにはなる 悪意に囲まれていても息継ぎしながら泳ぎ続けるようになる
他人の人生を名指しで攻撃する為のデータ集めに金のために喜びのために奔走する人達もいるけど、ほら人って生涯を通じて正しい心だけで
人生五十年二十四時間生きていられる訳じゃないから 成長過程が気に入らないと子どもだけでなく大人まですぐ排除に走ろうとする
ネットの現状は何か違うような気がするー
「言葉」って何の為にあるんだっけ?
そんなことを考えながら一気に見終わったアニメでした 終わり
こういう人が新興宗教にハマりやすい、というサンプルケースか?w
まぁ、毎日多種多様な人と接してるとケーススタディが蓄積されて、パっと見でその人がどんなタイプかって当てやすくなるんだよね。占い師しかり、マッサージ師しかり。
「人を見る目」と言い換えてもいい。魔法でも才能でもなんでもない、例えば膨大なデータベースを持つGoogleの検索が他より優れているってのと同じ話だ。
その「目」を、人を騙したり抱き込んだりする目的で使ってるのがこれだな。その手口に、世間知らずで素直な人、性善説だけをベースに思考してる人ほどコロっといっちゃう。世知辛い話だけど。
そうやって色々と言い当てられたことは「おーよく見抜くなー、さすが接客業」と感心するだけで済ませればいいのに、加えてその相手が言うことは全て正しいみたいな錯覚に陥る人があぶない。あげく勝手に自己啓発しちゃったりその相手を無条件に信用あるいは崇拝しちゃう人が危ない。優れたGoogleで検索したサイトはぜんぶ善良で安全なサイトだと思い込むのと同じ話だ。
人を見る目があることと、その人のアドバイスが的確かどうかは全く別問題なのにね。
そう言った結果、石を投げるべきか聞いてきた人達が皆いなくなってしまったことからすれば、「お前らだって罪を犯しているんだから、あまり偉そうに人を断罪するようなことを言うな」という趣旨だととるのが素直だろう。
そして、罪の無い(と、少なくとも後世のキリスト教では理解されている)キリストも女の罪を問わずに行かせたんだから、「罪の無い者であれば、石を投げるべき」という趣旨でもない。
この説で言いたいことはそういう事だということは分かる。
ちなみに、キリストに「罪の無い者が投げるべき」と言われた後も、「俺は罪が無いから投げるぞ」と言う人という人が仮にいたとしたら、キリストは諭すか叱るかして退かせたんじゃないかね。キャラ的に。
「諭す」は「その罪がないものが投げるべき」で行っているわけで、
また、「叱る」は罪をとがめてるわけだから、石を投げる行為と変わらないのでは?
ある意味で、そこでは人間の性善説的な部分を大きく持ちだして、その様に言えば皆分かってくれる、と言うのが前提になってると思うんだけども。
後、キリスト教では、イエスってのはやっぱり人間とは一歩違った、「罪のない存在」ってのはやっぱりそうなのか?
原罪すら無い、と?
ガッチャマンクラウズは、性善説的な状況が実現された世界からスタートしてる
現実とネットの分離もない、(ニートに限らず)誰もがネットをしている
それが、壊れていく
善意を拡散する手段だったギャラックスが悪意を拡散する道具へと変わっていく
東のエデンがわりと抽象的な空気と国の形について描いたのに対し
ガッチャマンクラウズはネットによって明確に可視化された人間の善と悪を描こうとしている
また、東のエデンの滝沢ってのは、ガッチャマンクラウズでは「ギャラックスの力で世界をアップデートしよう」というメガネの男の娘であって、脇役
そして、第4話では絶望のふちに落とされてしまった。テレビ版東のエデンの滝山が失敗した世界が、これから展開されるわけですわ
つまり、ここまではテレビ版東のエデンを現代風にアップデートしながら、その失敗を描いた
当然ここからは新しいテーマに踏み込むことになるんじゃないすか
最終的には、匿名のヒーローのガッチャマンと実名の人間のはじめちゃんの二つの要素を使い分けながら
政治とは関係なく、人として、自分の中の善と悪についてどう向き合うべきか、という話になって来ると思う