はてなキーワード: 無垢とは
Vivyは、話を盛り上げるための不自然な事件や行動や言動が多くて、自分には合わなかった
たとえばヒロインも含めたAIが、合理的な行動よりも、感情的な行動や言動に動くことが多いため、
素早く判断し行動すべき部分でも、妙に感情が先行することが多く、話のテンポが悪くなり行動や
言動にイライラさせられる場面が多い (もっと素早く行動しろよ!)
自分は、BEATLESSやplanetarianは好きなのだけど、両者にそういったストレスは感じなかった
BEATLESSのレイシアの場合は、超AIの判断が合理的で速いため、レイシアの行動が読めず、少し
後になってから、「そういうことだったのか...」と納得できるようなところにスピード感があり面白かった
planetarianの場合は、AIの技術がまだ未熟であるため、ところどころで不器用な反応が返ってくるようなところに、
子供のような無垢で純真な部分を感じさせられる点が魅力だと思う
Vivyの場合は、人型AIが妙に人間くさく合理性を欠き、言動全体が湿っぽく感情的なのが不自然
そもそも、AIに反対するテロリストの存在からして、説得力が欠けていると思う
AIの危険性を論理的に納得させる部分が無いし、集団で武装し様々な施設を襲うのでは、
AIでなく人間が管理しているシステムだって、同様にシステムの脆さを露呈するはずなんだよね
そういう意味では、暴力に訴えたAI批判というものが嘘くさいし、アクションを見せるためだけの方便にしか見えなかったりする点が、どうも自分には安っぽく見えてしまう
AIの危うさを世間に知らしめたいのなら、もっとシンプルな頭脳戦でシステムの盲点を突いて見せな
ストーリーがお涙頂戴の方に傾きすぎていて、AIかわいそうってだけで、AIについて論理的に考える部分が少ない感じがするんだよね
ホームレスとして生きるしかない人の抱える不安感やリスクや普通の生活をしている人へ抱くであろうさまざまな感情、そしてその背後の深刻な社会問題などを、純粋無垢な女の子性で一切目に入らないものとして、あたかも貨幣価値の異なる異国の部族のように接して、きれいでウェットな文章にしているところ。
行政とか電通とかPRとか関係なく無神経できれいごとでグロテスク。
女性ライターが治安が良いとは言えない街に行くということで、たぶん安全対策はしっかりやったはずで(離れたところから男性スタッフが見てるとか、警報ブザーや暴漢撃退スプレーを持参してるとか)、それを書かないのは街のイメージアップのために読者を欺く行為だし、書いたら書いたでポエミーな物語が成立しないし。
あと、もしかしたら性的な関係になるかも、という異性としての感情を微塵も持っていない相手と二人で行動することをデートとのたまう奴はこいつに限らずくたばれと思う。
お風呂とか2人がかりじゃないと自分が体を洗うのも無理な時期もあるからそれはお手伝いするといいし
3歳くらいまではほんとパパのおっぱいも出ないか試しに吸ってくれるくらい無垢で可愛いぞ
一応赤ちゃんほんぽという店にいったら母乳冷凍セットとかあるけど
人工の搾乳って子供にすってもらうのよりだいぶ痛いことがあるから無駄になるかもだし粉ミルクや液体ミルクのほうがまだいいかもね
でも産後の肥立ちが悪くて入院するママなんかはしっかりつかってるみたいだよ
そもそも子供が泣くのって「腹が減った」だけではなく「いつものママの体臭が居ない」という理由だけで泣くことがあるから
おめでとうね
もちろんのようにネタバレを含むので、注意してほしい。
見終わった感想は、「本当に終わった」だった。
すごく丁寧に「伝える」ことに真摯に向き合っていると感じた。
それは描いていることだけではなく、描かれなかったことも含めて。
きちんと振り返り部分がある丁寧さが、この映画を象徴しているといっても良い部分。
復習して来いよ、ではなく、劇場でこれまでを振り返る。その丁寧さが全編にわたってある。
忘れてならないのは、これは劇場4部作ではなくて、エヴァンゲリオンの最終作ということ。
だから、題名からして「シン・エヴァンゲリオン劇場版」であって「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」でないところで主張してる。
そして、「まごころを君に」「世界の中心で愛を叫んだけもの」ときて、「未来からのホットライン」で落としているところに、本当に最後なんだな、という気概を感じる。
NOTでも(NOT)でもなく、今までの否定でも追認でも無い、終わりが来たんだなという予感は正しかった。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版序破QはTVシリーズみたいなもんで、今回が劇場版」みたいな位置づけっぽくみえる。
冬月副指令側はネルフパリ支部を守る陽電子砲側で、ヴィレは侵略する側。
派手なアクションシーンであるとともに、赤いヤツって戻せるんだアレというのをこれ以上ないほど明確に見せる場面。
直接の描写が牧歌的なだけで、薄氷を踏むような生活というのが描かれずに表現されているように思う。
トウジは「医者の真似事」だし、ケンスケは「なんでも屋だが風車のメンテはできない」。
食事は配給制で、一軒家はトウジの医者という特権性に由来する特別扱いになっている。
綾波型初期ロットはそのトウジの客人ではあるが、農作業にわりとしっかり従事させられている。
そしてそこにいるのは老婆が中心。
若い男女や男性は、綾波型の心の触れ合いのような農作業には出てこない。
銭湯や図書館も牧歌的ではあるが、つまりは個別の風呂や嗜好品が持てない生活を、直接の描写なしに示唆している。
でも、並行複発酵である日本酒を飲める程度には豊かさがある。衣服も残ってる。(心の余裕はまず生活の余裕から)
でも、味噌汁に口をつけないことで激昂する大人がいる程度には食料に余裕がない。
たぶん、ココを受け付けるかどうかはその人のエヴァンゲリオンへの思いによる気がする。
第四話の「雨、逃げ出した後」だよねココ。
ひどい経験をしたシンジが家出をして、ケンスケとキャンプする。
TV版では、その後無理やり連れて帰られるけど、ネルフから出ていこうとして、自分の意志では電車に乗らなかったと言う流れ。
ケンスケの描き方はあの時からある意味で一貫している。自身の興味には忠実だが、相手の心情には過度に踏み込まず、黙って見守る。
「なんでみんな僕にやさしいんだよ」という嗚咽がほぼすべてだけれども、誰にも強制されることなく、しっかりと時間をかけてシンジだけで結論を出すのが良かった。
今までのシンジくんって、口ではみんな色々言うけど、それほぼ強制じゃんってのが多かった。
あなたが決めなさい、とか。それシンジくん考えられる状況か?その環境作るのが大人だろうっていう。
あの農作業をしていたのがシンジで、みんなの優しさに触れてこの村を守るために戦うんだ、だったらたぶん流石についていけなかったと思う。
で、今までのエヴァだったら絶対にあのアスカの「泣くだけ泣いてスッキリしたから家出は終わりか」みたいなセリフ入れなかったと思うんだよね。
その後の、ケンスケとの見回りと治水の管理で「基幹産業たる農作業を免除されてる」とか「池が村の生命線」とか言わなかったような気がする。
村が赤く浸食されてない理由とか、ニアサーも悪いことばかりじゃなかったさみたいなのは、察しろよ、みたいな描写になってたんじゃないかな。
プラグスーツを着ていないと体を保てない綾波型が、その短い生の間に、様々な感情を駆け抜けていったのも象徴的だったように思う。
その一方で、加持さんの子供がしっかりと「世界をもとに戻す」実験に従事しているというのも、良かった。
ミサトさんは、スイカの種を見るだけなんだよね。種をまいて育てるのじゃなくて、種を残す方。
あの村のシーンこそが、シン・エヴァンゲリオン劇場版の急所だと思う。
シンジに好意を持つように設計された綾波型が感情を受け入れるも、なお運命の通りになる。
シンジは誰からも放っておかれる状態で、本当に自分がかけたいだけの時間をかけて、やっと決断する。
最初こそアスカに無理やり食わされるけど、シンジくん自分でレーション食ってんだよね。そして食うことに対して泣く。
自分で食い、自分で泣き、自分で時間をかけて、最後に無垢な問いかけに返す形で結論を出す。本当に良かったと心から思った。
アスカが途中で言ってたけど、そんなシンジくんみるの相当しんどいと思う。
で、そこは委員長の異様なほど優しい言葉や綾波型初期ロットとのやりとりでカバーされてる。
TVシリーズだったら赤木博士に「村での摩擦は死に直結するわ。学習性無力感の一種ね」くらいは言わせたと思うんだよねマジで。
落ち着いた後で、トウジと会話をしてお前は十分やったって言われたり、ケンスケからは親父とは話しとけよって言われたり、加持と出会ったり。
時間計ってないけど、かなり丁寧に時間をかけてあの一連のシーンが描かれてたと思うし、相当な比重じゃなかったのかなアレ。
でもなあ、序破ときて、Qでのカヲルくんとのやりとりって、アレまんま洗脳だろ。そらシンジくんでなくても壊れるよ。
親しい人と引き離して孤独にし、信頼を得てから既存の価値観を壊し、そのショックが大きい間に新しい方向性を示す。
で、洗脳が解ける前に、信奉した教祖たるカヲルくんが自分のせいで目の前で死んだら、そら壊れるよ。
それをきちんと作品内で比重を置いて向き合って時間をおいてくれたの本当に良かった。
アスカのDSSチョーカーみて吐くシーンは象徴的過ぎてインパクト強いけど、マリもアスカも対爆隔離室内に自室があって爆薬増やされてるってことは、シンジくんと同じよね。
シトと一緒だからじゃなくて、エヴァに乗る適性がある人間に対しての強い警戒心。
あと、振り返って考えると「ワンコくんとの進捗どうだった」のあと、「年頃の男には興味ないか」みたいなことマリがアスカに言ってなかった?
そういや、冷酷っぽくふるまってるアスカが、劇中ほぼ唯一恥じらってるのがケンスケにカメラ向けられたときなんだよな。
シンジくんって、ヴィレ判定で精神的に安定してるって言われてるから、綾波型初期ロットとの直接のお別れを経験後なわけで、親父すでに超えてるんだよな。
たしかその前後で、冬月副指令が、「自分と同じ喪失を経験させるのも息子のためか碇」とか言ってなかったかな。
あと、どのシーンでもマリって劇中で誰かと相対するときには、相手のパーソナルスペース内に入ってんだよね。
破で、シンジくんの匂いを嗅ぐ、引きこもってるシェルター内のシンジくんを引きずり出す。
アスカには抱き着く、後ろに回って髪を切ってあげる。シンジくんの後ろから手を回してだ~れだって問いかける。
古今東西の書物を読み漁り、相手の懐に入り、どのタイミングでも余裕たっぷりなのは、イメージとしては「魔女」だよな。
アスカが死に装束でしょと返したスーツを着た後、シンジにわざわざ会いに行ったのはどう考えても最後だと思ったからで、
わざとだよなあの艦隊戦とあの曲。
そういや、エヴァで誰を殺せば世界が平和になるかって言ったら真っ先に冬月副指令だと思うんだよな。
Q以降、ほぼ単独で組織的な攻撃に対応してるのとか、そもそもの研究室の件と言い、このオッサンが元凶だろう。
舞台を整えるの全部やり切ってるしな。
セカンドの海の浄化、サードの大地の浄化だったら、フォースって空の浄化じゃないんかい。
あとゲンドウがきっちり葛城大佐、赤木くんって呼んで反論しててちょっと面白かった。
ミサトさんに息子の話をするシンジくんは、はっきりあいつのこと好きだよって言ってるんだよね。
自分が人を評して、それを他人に伝えることに躊躇しない最初の相手がミサトさんなのは結構グッと来た。
アレなニュアンスの旧劇ではなく明確に母親ポジションとして描かれているので安心した。
ゴルゴダオブジェクトの上で、マイナス宇宙でヒトが認識できる形を記憶からLCLが作ってるんだっけか。
きっちり旧劇っぽく親子喧嘩をメタっぽく描いてるのがエヴァだよねって感じで良かった。
よくよく考えると、わりと新劇場のゲンドウって、最初から甘いんだよな。
息子とは墓参りに行くわ、息子との食事会には行こうとするわ、わざわざ褒めるわ、本部壊すまで駄々こねた息子をギリギリまでやらせるとか。
聞けば答える、本当にコミュニケーションが苦手な親父として描かれている感が最初からあったけど、まあそうなるかなーという。
やるべきことを完全にやり切って、マリの必要なものも全部集めておいて、見届けずにL結解密度が高い中で無茶してLCLになる冬月先生。
やっぱこの人が完全に元凶な感じがしてならない。
ただまあ、ユイさんってこうサークラじゃないけど、なんだろうこのワールドクラッシャーな感じ。
ゲンドウが大人の理解力と表現力で、内面をきっちり吐露していくシーン。
「ユイと出会い、楽しかった、ユイだけが受け入れてくれた」みたいなところで、どの場面でもマリがちょっかいかけてるのに一切触れられてなくて草生える。
あの流れだけ見ると、昔ちょっと好きだったゲンドウくんの息子のシンジくんを迎えに行く女みたいになるんで、それはちょっとという気にもなる。
新しく作られたガイウスの槍のシーン、シュワッキマッセリーって流れてて、聖☆おにいさんを思い出しました。
ただ、ミサトさんの死と思いを受け取れるシンジくんはほんとにゲンドウじゃないけど、大人になったなって感じた。
最後に息子から歩み寄られて謝っておそらくは和解したゲンドウが、息子の中にユイを見出すの、
繰り返しになるけど、死を否定したり無かったことにするのではなくて、受け入れたうえで先に進もうとするメッセージ性を強く感じた。
狂言回し、なんだろうな。ゲンドウが降りたらもう確かに誰もその位置に立てないしな。岸辺露伴ポジション。
旧劇の場所でアスカに思いを伝えるシーン、マリが出てくるのバグってるっぽいなー
カヲルくんと加持さんが出てくるシーン、ゲンドウとシンジとの両方の位置にカヲルくんが居るんだよね。
シンジくんに依存しない世界でのカヲルくんの理想の世界は、加持さんと接してたところになるのかなー
加持さんは、ヒトの存続よりも種の多様性を残そうと尽力したって位置づけなんだろうな。神の使徒に愛される男。
時間も世界も戻さずに、エヴァに乗らなくて良い世界に書き換える。
時間の巻き戻しではなく、違うパラレルワールドでも無くて、継続したまま治そうとする。
たしか、マリさんも迎えに来るからって綾波に伝えて別れを告げる。
てことは、アノ世界はなかったことにはならずに継続したまま、シンジくんにエヴァを消された世界に作り替えられるけれども、シンジくんは戻れないってことだよな、と思った記憶がある。
あれだけゲンドウがユイの胸で泣きたかったって言ってたのに、母さんを送りたかっただけなんだねって納得するのは、シンジくんの理解力が大人で成長したなあと。
それを、アニメーションのセル画っていう低次(二次元)の存在に落としたうえで、マリに迎えに来てもらって元に戻すっていうのは、すごいな。
マリに相変わらずいい匂いって言われたあと、相変わらず可愛いよっていうシンジに対して、
いっぱしの口を利くようになってといって、DSSチョーカーを外すのって、あれシンジの主時間で時間経過してない表現だよな。たぶん。あれが入らないと、何年も経ってるように見えるし。
そのために甲板でDSSチョーカー嵌めたのかなあ、自ら進んで嵌めるって演出にも見えたんだけどヴィレ的には必然性ないよなアレ。
最後、シンジから手を引いて階段を昇っていくのが、ああ、終わったんだなって。
というか、ぶっちゃけると、シンジくんが緒方恵美さんの声から声変わりしていた瞬間の衝撃が強すぎて、あとは流れるように見ていた。
ハッキリと明確に、彼が大人になったと感じた瞬間だった。
ああ、エヴァンゲリオンのアニメーションとしての作品は終わったんだなと思った。
一人一人に引導を渡していって、最後にあまり知らないが好意を持ってくれる女と手を繋いで階段を昇っていく。
この先どうなるかはわからないけれども、しっかりと大人になったシンジを見て、ああ、本当に良かったと思った。
鏡を見ろ現実に帰れみたいな突き放し方じゃない、同じ意味でも伝え方の違うアニメーションの力。
加持さんは裏で我儘を通し切ってた。ミサトさんは意地を押し通した。ペンペンはきっと殖えてる。
彼女が「首を絞めて」っていったのは初めてそういう関係になって途中から自分の上にまたがってきて全部俺を支配するグラインドで腰を振ってきた時で顔から上を触るのを禁じられてた俺は無我夢中でその細くて白い首を絞めた。首に手をかけた瞬間からぎゅうぎゅうに俺を絞めつけてうねって力を入れる瞬間、全部の精液を吸い取るかのように痛いくらいに締め付けてきて、俺は果てた。唇の柔らかさも知らない。でも彼女の膣の中は俺の俺の精液を求めてずっとずっと痙攣し続けた。それ以来ついぞセックスするたびに首を絞めてしまうようになった。跡が残るくらい、彼女が欲すれば絞めてしまう。ベッドに入ってくる無防備で無垢な肉体が触れてしまえば昔のことも思い出してどうしても欲情してしまうし、何より彼女がそういうセックスを求めていることを自分は知っている。俺じゃない誰かとセックスしたいことを知っている。
これで最後だからとさよならを言いに来た時、そのまま押し倒して普通の恋人みたいに普通の恋人ってどうやってセックスまで行くのかわからないけれどそういうのをしたくて彼女の唇以外の全部をなめてずっとキスしてずっとなめて触って優しく触ってそのたびに彼女が動いて感じているのがわかって泣きたくなって、いつものように何よりも固く貫いて、彼女はいつもよりもいつもよりもずっと熱くて泣いているみたいだった。
「好きだ」
全然、言えなかった言葉を言いながら彼女の首よりも上を触って手で遮られたけれど両手で両手を組んで腰がどうしてもずっとずっと動いてしまってズチュッズチュッ湿った音がずっと響いていて
「ダメだよ」
何よりも愛しくて。
「好きだ」
「ダメだよ」
「好きだ」
「好きだ」
「好きだ」
彼女は泣きながら悲鳴のような糸のようなか細い声を上げて痛いくらいに切なく締め付けて、果てた。
「好きだよ」
「ダメだよ」
「でも好きなんだ」
でも好きなんだ。俺の胸の中で泣き続ける彼女を俺は大切にする。何よりも。誰よりも。
個人的にはオペラよりも好きかもしれない。特に、愛した女性の墓を掘り起こして遺体に直面するシーンがあるところとか。不毛な愛情というか、すれ違いや失恋ばかり読んでいたことがあり、これを読んだのもそんな時期だ(「エフゲニー・オネーギン」とか「マノン・レスコー」とか)。というか、そもそもオペラって「乾杯の歌」とかすごい好きなんだけど、台詞が聞き取りにくいし、台詞を同時に歌う箇所もあるし、なんか難しい。
ちなみに主人公の独白に曰く、「ああ! 男というものは、その偏狭な感情の一つでも傷つけられると、実にちっぽけな、実に卑しい者になってしまうものです」。……バレましたか。
自分が日本SFを読むきっかけになった人で、ハヤカワのJA文庫の小川一水とか林譲治とかが特に好きだった。
この作品は、太陽の表面に異星からの物体によってメガストラクチャーが作られ、日光を奪われた人類が滅亡の危機に瀕するのだが、若干のネタバレを言うと、最初からエイリアンには悪意が全く存在していなかった。僕はそんなところが好きだ。基本的に自分の好きなシチュエーションは、他者との接触により悪意はないにもかかわらず傷つく、というのがあるのだ。
ちなみに日本のSF作家をより広く読むようになったのは大森望と日下三蔵の年刊日本SF傑作選のおかげ。感謝感謝。
三十歳で婚約者がいるのに、親戚の十八歳の女の子に手を出しちゃったダメな人が主人公。結婚の約束をした女性からは婚約を破棄されてしまい、彼は思い出の品を集めた博物館を作りだす。イヤリングはともかく、自分が家をのぞき見た瞬間を画家に描かせた作品や、下着までも集めているあたり、ただの変態である。帯には「愛に生きた」とあるけれど、愛情というか執着や妄念であったような気がする。けれども、不毛な愛のほうが読んでいて面白い。
ところでトルコという国は、女性がスカーフを被るかどうかだけで政治的な立場の表明になってしまう国であり(ハイヒールを履くかどうかも政治的立場の表明ではあるが、トルコはその傾向が顕著だ)、その点からも読んでいて面白い作家であった。
映画オタクのゲイと政治犯の獄中での対話劇。ゲイはどうやら看守から政治犯の様子を探るように頼まれているようなのだが、いつしか二人には友情が芽生えていく。緊張感のある対話劇であると同時に、ゲイがお気に入りの映画を語るときの調子は推しについて語る幸せなオタクそのものである。安易に神という表現は使いたくないが、語りが神懸っている。ゲイの口調が女言葉なので、少し古い訳なのかもしれないが。
大学時代、年齢不詳の友人がいて、今も何をして食べているのかよくわからないんだけれども、今でも時々強烈な下ネタのメールが来る。そんな彼が薦めてくれた小説。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の「世界の終わり」パートに影響を受けた作品を部誌に掲載したらものすごい勢いで薦めてくれた。
彼は物にこだわりがないというか、読み終えた本をよく譲ってくれた。同じブローティガンの絶版になった本やシュティフターの「晩夏」などもおかげで読めた。「晩夏」はくどいのでいただいてから十年後に読んだのだが、現代の小説では確実に切り捨てられる長さの風景描写を含む小説を、定期的に読みたくなる。
就職のために架空の宗教団体によるテロをでっちあげる侍の話。時代劇の形を借りているんだけど、時代考証は完全に無視している。そして、自意識過剰人間とクレーマーとおバカしか出てこない語りの芸だ。だが、大体町田康の作品は大体そんな感じだし、人間って元来そんなもんなのかもしれない。オチも基本的に完全に投げっぱなしだが、爆発落ちや死亡オチのギャグが結構好きだったりする自分がいる。文学っていうのは自由でいいんだよ。
ムーミンシリーズ以外のヤンソンの文学作品を選ぶべきかどうか迷ったのだがこっちにした。友人からなぜかヘムレンさんに似ていると言われていた時期があったことだし。
児童文学や短篇って長篇とは違った難しさがある。短い文章と簡潔な表現という制約の中で、キャラクターを端的に表現しないといけないから。そのお手本みたいな作品がここにあり、内向的な人間にやさしい世界がここにある。ちなみにとある哲学者の持っている本の名前が「すべてがむだであることについて」であり、すごく笑える。
全く関係ないが僕は萩尾望都の「11人いる!」のヴィドメニール・ヌームにも似ていると言われたことがある。緑の鱗に覆われた両性具有の僧侶で、とても善い人で行動力もあるのだが、説明するときにやや言葉が足りない。
嘘つきで利己的で、のし上がることにしか興味がない空っぽな存在に恋をしてしまった善良な青年。「悪い娘」の人生の航路は語り手の人生におおよそ十年ごとに交叉するが、一貫して彼女本位な関係に終始する。
これはどうしようもない女の子に恋してしまって、四十年間ものあいだそれを引きずった男の物語だ。地位も財産もなにもかもなげうって、何度裏切られてもひたすらに与え続けた。そんじょそこらの悪女ものとは格が違う。シェル・シルヴァスタインの「おおきな木」のように。
猥褻だということで昭和時代に裁判になったというので読んでみたが、どこが猥褻なのかちっともわからない。しかも、作者の思想がうるさいので文学的な美を損なっている。
性表現は露骨というよりも、おちんちんに花飾りを結ぶみたいなのどかなヒッピー文化的な感じで、エロティシズムについては性描写の無い仏文学のほうがずっとぐっと来るものがる。しかし、時代を先取りしていていたという意味では素直にすごいと思うし、この程度で猥褻だと騒いでいた時代はさぞ不自由で息苦しかったのだろうなあとも思う。
最強のファーストコンタクトもののひとつで、ネタバレするとオチは「意識やクオリアとはときとして生存に不利かつ無駄であり、この宇宙では淘汰される可能性がある」という絶望的な結論。人間の心も愛も宇宙の中では無だ! みたいなSFが大好き。
基本的な構造は「宇宙のランデブー」の変奏で、未知のエイリアンの遺物の中を探検するのだが、強烈な磁場の中で意識が攪乱され様々な精神疾患を一時的に患うという違いがある(実際に脳に強烈な磁場を近づけると活動する部位が変化する)。言及されるコタール症候群や半側空間無視といった症状もすべて実在するが、脳科学の知識がないと全部作者のほら話なんじゃないかって読者が誤解するんじゃないか若干心配。
それと、ハードSFとしてはすごい好きなんだけど、どういうわけか吸血鬼が味方に出てきて(人類を捕食していた類人猿の遺伝子を組み込んだ改造人間という設定)、味方のはずなのにこちらに危害を加えようとする不可解な設定があり、これは作者の吸血鬼やゾンビに対する偏愛のせいだろうが、プロットの上であまり関係がないし必然性もなく、そこが無駄に思われた。そもそもなんでそんな遺伝子組み込んだ危険なやつを作るんだ?
以上。
https://anond.hatelabo.jp/20210303072950
横だけど解説するね。
ではなぜ同じオタクでもこのかん感覚違いが生まれるかというと、
フェミのいじめやリンチは必ず集団で一点集中的に行われるからだよ。
犬笛みたいな感じで「こいつは叩いて良い」とほのめかす。
号令をかけた上流フェミは犬笛を吹いたくらいでそんなにとがめられるような発言をしてないんだけど
バーサーカーのようにどぎつい言葉でそのターゲットをタコ殴りにする。
こういう光景は時々見かけるかな。
元増田は、フェミ全体がオタク全体を攻撃してるみたいに認識してるようだけどそれは違う。
オタクの中の特定のターゲットを狙い撃ちにしてるフェミ集団がいるってのが正しい。
だから、被害にあってなければ「そんなやついたっけ?」って感じになる。
実際はもっと単純で、「広告」や「企業タイアップ」関係で萌えや巨乳を見かけたり
オタク系のニュースが盛り上がると条件反射的にたたく、くらいの単純な思考だと思う。
確固とした信念や目的があってやってるわけではなさそう。
だからあなたはそのターゲットおよびそこに隣接してない限りは安全だよ。
ただ、元増田の指摘で一つだけうなづけるところはある。
差別的な発言をしたり、男嫌いやオタク嫌いを堂々と表現しても全然とがめられないどころかそれを賞賛する人が出てくるということ。
これははてなブックマークで時々見かけるし、実際に見ても嫌な気持ちになるね。
詳しくは知らないんだけど、多分最初からこうじゃなかったはず。
ただ、フェミっぽい発言をしたり怒りや嫌いという感情をあおる発言をするといいねやスターがつけられて、
より過激な発言をするともっと多く反応がもらえるっていう悪循環が続いて
どんどん過激化する人が増えてきちゃったって気がする。
下手に近づくといがみ合いに巻き込まれるから、これからも純真無垢なままであってほしい。
フェミっぽい話題がホッテントリに上がってたらそれを見ないようにすればいい。
フェミっぽい人のいってることがどれだけ正しかろうが、言葉汚く人をののしってる人たちなんか見たくないでしょ。
どう言いつくろおうが、フェミっぽい人たちが言葉が汚くて差別的な発言が多いのは事実なので、みていて嫌な気持ちになるもんね。
こういう話題を見たらちかづかないようにするだけでいい。
そうやってフェミっぽい人たちがどんどん人望をなくして下火になっていくのをただ眺めていればいい。
二次元の女性を性的消費する男、というか男性性そのものに嫌気が差している(自分自信含め)
世に蔓延る「エッッッ!!!」「ハイエースしたい」「理解らせたい」「腹パンしたい」
などのコメントは到底許容出来ない
まんがタイムきららのキャラクター絶対汚すマンとかも鬼畜の所業
アニメやゲームのキャラのエロ二次創作、エロ同人は特に嫌悪感が強い
症状が進行したら成人向け雑誌やエロゲーにも強い嫌悪感を抱くだろう
二次元の世界ならば性的な概念が存在しない世界があっても良いじゃないか
一切の穢れを知らない、幼気で無垢な少女達をどうして性の対象として見る事が出来るのか
キャラクターの愛で方は人それぞれだが、性的消費する行為を愛だなんて言わせない
こんなこと言いつつも、以前は同じ側の忌まわしい存在だったのだから
実際、自分の好きなコンテンツのキャラクターが性的消費されるのは
多少の罪悪感を抱きながらも同じように性的消費してしまっていた
過去の過ちが許されたとは思っていない
汚してしまったキャラクター達にはこの場を借りてお詫び申し上げたい
少なくとも自分が愛するキャラクターには誠実であり続けたいし、
やっぱりエロは悪だわ