はてなキーワード: 役者とは
第1話を観たときは、すごい! 綺麗! と感動したけど、なんか6話か7話辺りから急速に崩れてきているような? しかも、なんか変だな? と思い始めた原因が作品のクオリティではなく日本語版の尺? 毎話もっと長いのを日本アニメの標準的な尺内に納めるためにカットされてるのではないかと思うのだが、よくわからん。
しかも砂漠に舞台を移した途端に作画クオリティまで落ちるし、何故か冒頭に前回のあらすじを3分入れ、終わりに中国の無形文化遺産の紹介を3分入れるようになってしまったので、本編は15分にも満たない短さになってしまった。
かといってすごくつまらないかというと微妙というか。まぁ、ストーリーがなんかよくわからなくても、異文化さが目新しい感じがするし、BL的に美味しいシーンがあるから、それだけ見て面白いもん観たなっていう気がするのかな。
Twitterには毎回絶賛のツイートが流れてくるけど、マジでそれで良いと思ってんのか謎だなって思う。
原作を読んだら面白いかもしれない。日本語版原作小説、早く出版されないかな。
中国アニメ。この夏までアマプラで放送されてたやつの続き。中国語で英語字幕あり。だけど、中国語の情報量の凄まじさに、英語字幕が瞬く間に消え去るので全然追えない。原作小説履修済みでなかったらきつかった。日本のアニメとは違って、本編が長い。40分くらいある。
きっと来年辺りにはアマプラに日本語版が来るんだろうけど、これまた天官賜福みたいに圧縮されてちんぷんかんぷんアニメに変貌するんだろうな的……。
ところで、この本国版魔道祖師、YouTubeで観たんだけど、そのチャンネルが公式配信のチャンネルなのか偽物なのか、よくわからん。去年の暮れに二期まで配信していたチャンネルと違うような?
それはともかく、ずっとお堅い無表情で通していた藍忘機が、魏無羨が余所見をしている隙に微笑みを浮かべるようになっていて良い、ような気もするし、原作ではそこまで表情緩んでる感はなかったな……と、すっかり原作厨と化したいけない感想を覚えたりした。シュエ・ヤンのキャラ造形が思ってた以上に可愛くて驚きだ。
なんか見たことのない動画配信サイトで3話まで無料(期間限定かな?)だったので、第1話だけ観た。
舞台は香港。役者も中国人。シナリオは日本版とほとんど一緒。ちょっと設定変更もある。日本語版だと春田は母親と同居していたけど、香港版では独り暮らしで、結婚して実家を出た姉が田(ティン……春田にあたるキャラクター)の面倒を見ている、ということになっている。
役者が美男美女ぞろい。黒澤部長にあたるKK役の俳優さんめっちゃダンディー。
登場人物の動きやしゃべり方、表情までもが日本語版の完コピですごかった。田と牧のじゃれ合いは日本語版よりも可愛いかもしれない。イルミネーション芸もちゃんと派手になされている。
香港が舞台とはいえ中国だからなぁー、BL表現はないのかなぁー、と思ったらKKは普通に田に告白したし、2話での牧のお風呂突入事件もあるみたい? 意外とまだ自由な香港、なのだろうか。
時々、異文化を感じて面白い。例えば牧が自己紹介するとき「阿牧です」って言ったりとか。へー、自分から名前に「阿」を着けるもんなんだね。お箸の持ち方も日本とは違う。でも外飲みでへべれけになるまで酔っ払うって、香港でもありなのか? そんなことができるのは日本位だって、前に何かで読んだけれども。
「春田、好きだー!」
が、
になるの、くそ笑った。
BL漫画。1話はシーモアの期間限定無料で読み、3話以降は雑誌で読んでいたのだが、ただ第2話読みたさのためだけに、電子版の発売も待たずに本屋に走って買ってしまった。BLとは思えないシックな表紙で、堂々とレジの人に表紙を見せられるやつ。だが、帯の裏ページ側に、
と書いてあって、親切心で裏表紙を向けてレジの人に差し出すと、とんだセクハラになってしまう…………自動レジ、使ったよ!
読み逃していた第2話に、けっこう重要そうな伏線のようなものがあった。私、いままでこれ知らずに読んでいたって、ヤバいな……。
帯と裏表紙にちゃんと書いてあることなので言っちゃうと、このお話は、欠点のひとつもないイケメン国語教師の佐田が事件に巻き込まれて不慮の死を遂げるも、マッドサイエンティストの間宮のせいでゾンビ化して一命をとりとめる、というストーリー。非日常的な日常系といった感じ。
BLだけどエロはあまりない。せいぜい佐田の下半身がよく見えるくらい。悲愴なあらすじだけど、鈍い佐田とツンデレの間宮が、噛み合わない会話をしたりお互いに諦めたり譲歩したりなどして距離を縮めていくようないかないような話で、案外萌えがある。
恋愛漫画としての萌えというよりは、二次創作的な萌えだ。何気ない仕草や一言で萌えの最大瞬間風速を叩きつける感じの。キャラクターがしっかりしていないと、そういう類いの萌えは立たないから、1からキャラを構築していく商業BLではできない芸当なのだけれども、朝田ねむい先生はそれがすごく上手い。キャラや世界観を簡潔に分かり易く表現することに長けてる作家さん。
今日は雨よ。
事務所は私一人このビル自体も1人なのかも知れないけどそれは分からないわ。
いわゆる咳をしてもってやつね。
夏先取りのあとの次の旬の
そう言う時はうんと冷房が効きまくるのよね。
一番面倒くさいのが茹で玉子よね。
あれを剥くのが一番面倒くさいんだけど、
わりと常温めに戻した生玉子をいきなり熱湯にゆっくり入れて作る茹で玉子が安定して大量生産必勝法を確立したいるところで、
これに勝るとも劣らない大量生産の茹で玉子の作り方があれば是非教えて欲しいところよ。
絶好のおでん日和の茹で玉子の具としてクラスチェンジするのよ。
意外ともう大根とか丁寧に
面取りはした方が良いかもしれないけど
下茹でとかしなくてもいきなり鍋にぶち込んでもある程度のおでんとしての大根の役割は果たす名大根役者なの。
当たりもしないハズレもしない、
役者としては致命的だけど、
なんか広い舞台で役者が4人しか出演しない劇ってきっとクセ強劇じゃないかしら?
そう思うのよ。
でもこれだとまるっきりリリーフランキーさんのおでんくんじゃない!
やっぱり上手いこと考えることはもうすでに考えられたものの上になってるのよね。
良いアイデア!って思ったことは大概はもう考えられているって事。
まあ
名シーンのかずかず!
あーでもやっぱり、
一番面倒くさいのは
牛すじの下ごしらえかも知れないわ。
これは流石に下茹でして処理しないとカチカチで硬すぎるし、
かと言って高火力の圧力鍋で下ごしらえすると
上手い下ごしらえ加減が調節できなくて、
つまりは
まるでイッセー尾形さんの一人芝居の毎回やってる日替わりの演目のように
私も日替わりおでんの具をなにか
何が良いかしら?と考えたら
ちくわぶとかも良いし、
あとそう!名脇役を忘れていたわ。
すっかり忘れていたわ。
え?
糸コンニャクを入れないのかって?
うふふ。
鮭おにぎりよ。
梅おにぎりか迷ったけど
迷ったら鮭ってのが私の定番ね。
今日は至って
鮭おにぎり気分ってところかしら。
作り置きが大変助かりまくる
もうがんがん!って感じよ。
ここのところまた雨続きなので
意外と暑くないけど、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
刑事モノは必ず見ているらしく、なかなか造詣が深い。
芸人、アイドルが出ている番組が好きらしく、これまた造詣が深い。
最近は演出(ディレクター)の名前までチェックしていたようだ。
が、どちらも「ドラマオタク」「バラエティオタク」とは名乗らない。
彼女らは「ただの消費者」だから「オタクではない」というスタンスらしい。
わからんじゃない。
では「俺アニオタだから」と語るアニメオタク君はどうだろうか。
ほとんどのアニオタはただアホみたいに画面を眺めて満足しているだけの
ただ単にアニメを見ているだけの人にすぎない。
それくらい、ただドラマ見ているだけの母だって俳優の良しあしくらいは語るし、
バラエティを見ているだけの姉だってMCだどうだ、ゲストがどうだくらいは言える。
どうせ藤原竜也が絶叫してるだけの映画だろうし、雑にご飯とか適当に食べながら観れるだろうっていう認識で観た
実際雑にご飯とか食べながら見れるような映画だったけど、それはこの映画がしっかりとシナリオ構成が整っててバカがうすらいだ意識で観てても内容が理解できるような、とても丁寧な作りになってたからで、映画のレベルが低いとかいうことはない。
いやー。面白かった。
沼もわざわざセット作って再現してて(そのせいか映画の大半は沼のシーンなので、やや物足りない感じもするけど。まあわかってて見てるしって感じ)
ストーリーやキャラ構成なんかかなり漫画とは違っているのに、破綻少なく福本伸行っぽい話にちゃんとなっててすごいなーって思いました。
漫画原作の実写映画にありがちな(あまり見たことないので偏見)コスプレみたいな感じなく、配役も役者さんをベースにしつつ、ちゃんと漫画から逸脱させないようにしてて、違和感なかった。
まあ演技過剰なのは邦画全般に言えることだし、漫画原作なのでこんなもんかなーって感じ。実際見てても面白さの方が勝っちゃうから、演技の質とかはそこまで気にはならなかった
生瀬さんとか本当にこういう三枚目のおっさんの役似合うよなーって感じ
とても良い映画でした
日本人はそもそもコンセプトを詰めるところに掛ける時間が圧倒的に少なすぎる。アメリカ人は10倍は時間を掛けて考えてる。
っていうのはアメリカが多文化すぎてそうでもしないとまとまらないからだよ。
今回はIOCや政府含めてそういう多文化が入ってきたところに、思いのほかドメスティックだった日本の電通とサブカル業界が対応できなかった。スポンサーつけつつも脚本用意できる日本の映画とかアニメ、芝居舞台の方式とか、アメリカ方式で行くべきだった。
クリエイターの邪魔すんなって言うけど、大勢の民意に対してそう言う価値のあるコンセプトやシナリオを出して、自己主張の多いクリエイター達をまとめようとしてきたのかよ。色んなミュージシャンや芸人の作品の発表会じゃないんだし。森山未來や真矢ミキみたいに自分の個性を声だかに主張するわけではない役者陣の方が今回は仕事してた。
表舞台に出て説明責任も負ったりする舞台・映画監督や、せめて作家性のある構成作家が仕切るべきオリンピックの開会式を、裏方でかつ、通常業務のステークホルダーがアーティストや芸人サイドである演出家が仕切ったから。
舞台や映画監督はスポンサーの意向を聞きながらもオーディションを経由してバックグラウンドチェックを行うことでお友達以外からも参加者を募り、かつ観客動員数などの責任を負い、客の期待していることを読みながら、シーンの転換に一貫したシナリオのある舞台を作るのが仕事。向いている方向は、客、または、スポンサー。演者は監督の思い描いたシナリオや絵コンテの流れを実現する素材。
一方で演出家は、シナリオの部分を担保するのがアーティストやお笑いネタを作る側、脚本家であり、演出家自体は出来上がっているシナリオやそのシナリオに沿って動く側を良く見せるのが仕事。向いている方向は、演者。演者の活躍や表現をサポートする立場。
このゴタゴタは、AKIRA案という、復興五輪や日本外交どころかオリンピック憲章と全然関係ない案を出した演出家のMIKIKO先生のキャスティングから間違いは始まっている。
AKIRA案って、そこと何の関係あるんですか?表現者サイドの自己表現よりも、日本の民意を汲みつつ、各国の選手の歓迎の方が優先される場なんですよ。思い切り自己表現をするアーティストを支える人ではなく、オリンピック憲章の意図を理解し自分の表現力をオリンピックという場を成立させることに注ぎ込んだ森山未來的な役者・ダンサーを開会式に起用できるような教養のある監督が必要な場所なんですよ。
あと、開会式に冷戦時代だと有効だったジョンレノンのイマジンが墓から出てきたのでびっくりしたのですが、こういうチョイスをしたサブカル層が見てる世界って、難民が出ている世界や国境・領土問題でゴタゴタあるインドやパキスタン、台湾等ではなく、欧米音楽業界のさらにマイノリティの痛みに無頓着な育ちの良いボーイやガールの界隈なんですかね?さらに強者と言われる白人サイドから手を取り合ってって言われるの、どうなんですかね?マイノリティの主張を聞くことから始めないんですかね?
サブカル層はすぎやまこういちや海老蔵に対してカウンター打てるほどの人材や作品をプール出来てないぐらいに日本外交に対して考えもなく、多様性もなく、身内で固まっていただけ。そういう現状を反省しつつ、スポーツの採点でスポーツ業界の人材の方がはるかに多様だったら、大坂なおみさん以外の多様なスポーツ選手にも沢山映像等でフォーカスすれば良かったのに、そういうこともしなかった。
消防団や歌舞伎だせというのは、最低限、ベタな日本的なものを開会式に出せという、あらかじめ想定できた国というスポンサーからの要求。ベタなボランティア経歴のあるMISIAもそう。
音楽は歌謡曲・民謡・太鼓・三味線とか『のど自慢 世界大会』的なベタなもので全然良かったし、前回のオリンピックから違う系統で且つ昨今の流れを組みつつ世界でもわかりそうなものと言ったら、ヒップホップやジャズとかの黒人音楽でも良かった。他は、よさこいやねぶた祭り、漫画・アニメみたいなベタで良かったし、最初の赤い糸を使ったハイコンテキストな割にその意図が『はたらく細胞!!』っぽくて可愛いことにあっていないコンテンポラリーダンスはなくても良かった。
借りてきたマイノリティではなく、自国の中のマイノリティを見つめるなら、日本的なもので統一しても良かった。その流れで、身体障害者として途中からマイノリティになった長嶋さんの登場や、音楽業界ではマイノリティであるゲーム音楽(すぎやまこういちはともかく)は良かった。
老若男女世界各国ウケるベタでローコンテキストなものを嫌って、身内しかわからないハイコンテキストなものや、借りてきたマイノリティ性を好む人たちが、たまたまアーティストサイドを贔屓する演出家を中心となって固まり、音楽・映像サイドもそのことを気にかけなかったことが露呈した、そんな開会式だった。
才能ある人を守れと言われても、コンセプトやシナリオにあった動きをするから守れるのであって、そこを蔑ろにしてたら守れる才能のある人も守れないんですよ。シナリオや絵コンテがあるリニアなコンテンツではなく、電博の雑誌・テレビ的なノンリニアなコンテンツの作りをしていたら、枠を入れ替えるように人もコンテンツも交代されちゃうんですよ。だから外部からの口出しに柔軟に対応できちゃうんですよ。周りに何言われても「これはコンセプトやシナリオ、絵コンテの流れに合ってませんから」で断れずに。
釣りであってほしいなぁ。こんなこと本気で思ってるのかな。
スポーツ選手はただの職業だし、オリンピックはただの興行スポーツショーだよ。
オリンピック憲章とやらの崇高な目的は、IOCですら信じていないお題目だってことは、今回の一連のドタバタでみんな分かったんじゃないの?
せっかく税金をたらふく無駄にして疫病下の地元で開催しているスポーツショーなんだから楽しめばいいよ。
でも「感動をありがとう」とは思わない。
総合点は★★★★☆(星4つ)
2回目の前に制作陣のインタビュー記事などを読んで細かいネタが仕込まれているのに感心しつつ楽しめました。
良作画で動いていたのはすごく良かった。
特に「編集」作業シーンを「切る」ことに注目してアクションのある絵に再構成していたのは面白かった。せっかくのアニメなんだから動きのあるシーンはあってしかるべきだなあと。
あとこれは明確には示されてなかったので多分なんだけど。
「撮影」パートのクライマックスである「みんなでアイデア出して偶然虹まで撮れたカット」も切ったんだよね?
「撮影」パート成功の象徴のようなカットまでも切ることで、ジーン君の「映画のためには他の全てを切ることも厭わない」という面を表しているんだと思う。
しかし、それを明示してしまうと「空気を読んで仲良くすることを大事にするマス層」には理解不能で嫌われてしまうだろうから匂わせるにとどめたんだろうなと思っている。
ところで全体的にジーン君がウェットというかシリアスというか常人の枠から半歩しか踏み出していないという感じを受けた。
原作ではもっと狂人なんだよなあ、特に巻が進むほどに。「友情を、会話を、家族を、生活を、切れ!」とか原作ジーン君は言わない。
当たり前すぎるからわざわざ言わない。「息を吸え! 息を吐け!」って普段はあんまり言わないじゃないですか。
でもまあ1巻ベースだとああいう解釈もアリだと思う。むしろジーン君の物語って感じも出たと思うし、そもそもあまりに狂人狂人してるとマス層がまったく感情移入できなくなるから映画版としてはあれで正解だと思う。
さて、ここから減点材料なんだけど、アラン君および資金調達パートがぜんぜん響かなかった。
まずアラン君、お前は何なんだ。
再会して「あの時はノート悪かったな」とか言ってたけど、特に謝るほどのことでは無くないか。
たまたま雨の日にぶつかったらジーン君がノートを水たまりに落としただけじゃん。寝坊してメモやななにやらぶちまけつつ部屋を飛び出すような粗忽なジーン君なんだし。
ところでそういえば、その粗忽シーンもちょっと違和感あるんだよね。映画だけの男ジーン君が大事なオーディションの日に寝坊したり資料ぶちまけダッシュしたりするかね?制作陣インタビューによるとナタリーちゃんとの出会いのシーンをインパクトあるものにするためにすれ違い構成にしたっぽいんだけど、それってストーリーのためにキャラが捻じ曲げられてるよね。いや、構成自体は悪くはないんだけど、やっぱりそのためにキャラを捻じ曲げられると違和感あるんだよねえ。違和感と言えばナタリーちゃんがニャリウッドに上京するためにバイトで金貯めたっていうシーンでビルの窓磨きしてたけど、あれって上京してからのバイトじゃないとおかしいよね。原作にも窓磨きバイトのシーンあるけどニャリウッドでのことだし。ナタリーちゃんの故郷は農村地帯みたいだしビルなんてあるの?いやいまどきドコにでもそれなりのビルくらいあるのかもしれないけどミスマッチだとは思う。
まあ話を元に戻してアラン君ですよ。
アラン君が謝るってことは、元々のシナリオ的には学生時代のアラン君はもっとひどい奴にするはずだったんじゃない?それこそ、一度拾ったノートを破るとかまた捨てるとかするはずだったんじゃない?それなら「あの時はノート悪かったな」「暗記してたから平気」に違和感無くなるんよね。でもそこまでやっちゃうとあまりに悪すぎて資金調達したとて許されないというか、ジーン君とお茶することすら「なにこいつ?」って感じになってしまうから描写をぬるくしたのではないかなとか思いました。
でまあアラン君からも一回離れて資金調達なんですけど、最悪、ポンポさんなりおじいちゃんなりの私財とかコネクションとかで調達できないものなんかね?二人とも超有名ヒットメーカーなわけだし、財産もコネクションもすごいだろうし、なんなら主演のマーティンさんだって世界一の俳優なんだから金だってうなるほど持ってそうだしスポンサーになってもらえないもんかね?縁もゆかりもない銀行に出資を頼むより先にいくらでもアテはあるんじゃないの?いや、もちろんそういうアテを全部当たって、それでも足りなかったんだっていうならハイソウデスカとしか言えないんですけども。
まずアラン君、クビを賭けたギャンブルをした風だけど、そもそもその職場を辞めようかと思ってたくらいだからノーリスクなギャンブルだよね。なんだかなあ。
そんでクラウドファンディングに生中継でって無茶にもほどがあるけど、それ以上にひどいのは役員連中の手のひら返しの速度ですよ。頭取が出てきてOKしたとたんに「融資成立だー! ワッハッハー!」じゃないんだよ。お前数秒前まで大反対してたじゃねーか頭取がOKしたらまるで「ボクも本心では融資したかったんだけど立場上できなかったんだよね。結果として融資成立してヨカッタヨカッタ」みたいなポーズ決めてんじゃねーよ。いや、そういう変わり身の早さで出世してきたヤツだと言われたらハイソウデスカなんですけど。
アラン君に話を戻して、彼は「クリエーターでないマス層の感情移入先」として作られたキャラなんだと思うんですよ。
監督である平尾隆之氏のインタビュー記事(例えば https://gigazine.net/news/20210720-pompo-the-cinephile-takayuki-hirao-interview/)なんかを読んでいると「マイノリティがマジョリティに一矢報いる」というテーマをお持ちのようなんですね。
「マジョリティ」=「マス層」ですよ。
このテーマは商業作品で表現するのは非常に難しいテーマだと思うんですよ。
だって多数の人に受け入れてもらうことが商業的成功なわけですよ。マジョリティに快感を得てもらわないといけないわけですよ。そうしないとお金が儲からないわけですよ。
しかしね、「マイノリティがマジョリティに一矢報いる」ストーリーで「一矢報いられたマジョリティ側の人間」が快感を得るかっていうと難しい。だって矢が刺さってるんだよ。痛いじゃん。それで快感なのってドMくらいじゃん。
そこでアラン君の登場なんですよ。アラン君はマジョリティ側の人間なんだけどマジョリティ世界の強者である上司や取引先をしくじったりして、いまいちうまくいっていない状態なわけですよ。つまり、マジョリティ世界という巨大なピラミッドの底辺層なんですよ。でもピラミッドの底辺だから数的にはかなりのボリュームゾーンなんですよね。この層の人たちが「なろう系ヒットの母数」だと思うんですけどね。マジョリティ世界に身を置きながらもうまくいかず底辺をはいずっているのでいっそのこと異世界転生して現世のしがらみリセットしてチート能力で無双したいとみんな思っている。「みんな」ですよ。つまり「マス層」ですよ。
そんなアラン君はマイノリティ側と見下していたジーン君が思いのほか成功していたもんだから、マジョリティ側からマイノリティなジーン君を手助けするポジションに立とうと思い立つわけですね。異世界転生強くてニューゲームですよ。コミュ障マイノリティが苦手な資金調達ネゴシエーションをリア充なオレ様がやってあげようってーわけですよ。同じ立場ならみんなそう思う。コミュ障な天才クリエーターのマネージャーになってソイツと社会の架け橋になるだけでオコボレもらいてえなあって誰だってそう思う。オレだってそう思うんですよ。コミュ障だから無理なんですけどね。そんな知り合いもいないし。
つまりアラン君は、平尾氏の「マイノリティがマジョリティに一矢報いる」というテーマ実現のために生み出された舞台装置なんですよ。いまいちうまくいっていないマジョリティの感情移入先であり、途中からマイノリティ側に与してマジョリティ側への一矢となる存在なんですよ。テーマと商業的成功を繋ぐための存在なんですよ。
でも、なんかつまらねーんだよなあ。
思うに「マイノリティがマジョリティに一矢報いる」というテーマと「ポンポさん」という題材の相性が悪かったんじゃないかなあ。
原作ポンポさんはね、マジョリティのことなんて基本的に無視してるんですよ。あくまでも映画業界の中でクリエイターや役者などの能力があり個性的な人々にフォーカスして活躍を描いているんですよ。「すごい人がすごい能力を発揮してすごい活躍をしました。」っていう話なんですよ。これは「チート無双系」にも通じると思うんですけど、すごい人がすごい活躍をするだけでも面白い話は作れるんですよ。
そんな原作ポンポさんに「マイノリティがマジョリティに一矢報いる」というテーマを盛ろうとしたら、そのままじゃうまく盛り付けられないよね。なので、アラン君&資金調達パートで補強したんだろうね。でも、原作にはまったく存在しなかったテーマを盛り付けるために、かなり強引でイビツで不格好な補強になっちゃってるんだよなあ。
結論。
原作ファンとしては、ポンポさんには原作に存在しないテーマは乗っけずに素直なアニメ化だけしてほしかったなあ。
と思いました。(小並感
なんか賛同している奴らいっぱいいるけど、その次に来るのはトランスジェンダーが出てくる映画等の脚本や監督等々はトランスジェンダーがやるべきってなると思うんだけれどもそこら辺はどういうおつもりなんだろうか?
日本におけるセックスワークが話題になってるが、個人的にセックスワーク自体は労働の一つであり、需要もそう簡単になくなるものではないだろうと思ってる。
気になることがあるとすれば、日本のセックスワークに対する視点があまりにもマイナスであることが一般的であることだろうか。逆に海外のセックスワーカーと彼らを取り巻くカルチャーはセックスやポルノを割とポジティブなものと捉え、働く女優も役者として出演した動画などに誇りを持っている人間が多いように感じる。プロダクションもハイクオリティなところが増え、支払われる報酬も日本のそれとは比べ物にはならないのかもしれないとは思うが、日本のセックスワークも海外を見習って恥じる文化からなんとか抜け出せないものだろうか。
結論から言うと、この作品は低品質なタイプのクソ映画ではない。
たしかに動きは少ないが「100日後に死ぬワニ」の作画としては妥当な範囲内だ。
劇判がでかすぎるとかそういうことはなくちゃんとコントロールされてるし、役者もさすが一流どころなだけあって違和感のある演技には感じなかった。
ただ良くも悪くも原作の雰囲気が再現された結果、演出に抑揚がなく多くの人はつまらないと感じるだろう。
63分の上映時間で1900円のフルプライスをとってることに目を瞑れば、100ワニに相応な映像化といってよい。
ではクソ映画ではないのか?
以下にその理由を記す。
無駄に音がデカかったり音割れしてたり演技が棒だったり合成されたCGがショボすぎたりして興をそがれるタイプだ。
主人公に目的が設定されてなく、起きる物事をカメラが追いかけるだけでただひたすら時間が経過していくタイプや、物語の展開の仕方が強引を通り越して牽強付会でぐちゃぐちゃになってるタイプなどだ。
原作のキャラクターなどの要素を使ってるだけで全く別の作品となっててファンが怒り狂うタイプの原作付き映画がこれに当たる。
この作品は前半でワニが生きた100日間、後半でワニが死んでからの100日間を描く。
そして、前半で描かれたワニを中心とした友達のコミュニティにこのカエルが入ってくるのだ。
これは見方によってはワニのポジションをカエルが乗っ取ったように見える。
しかもこのカエルは観客のヘイトをめちゃくちゃ稼ぐ立ち回りをしてるので余計にこのクソガエルが!という心情になってしまうのだ。
この点で、ワニが好きだった人ほど、この映画は受け入れがたいものになってしまった。
友人が死んだとしても、残された人は生きていかなければならない。
しかし、ワニを主人公にした物語でその主人公が死んだあと、その主人公の代替品を手に入れて乗り越えましたという印象になりかねない物語展開はワニが好きだった人ほど受け入れられないだろう(ワニのことを忘れたわけではないという演出はされているが、観客の印象をコントロールできるほどかというとそこまでではない)。
ではどうすればよかったのか?
残された側のネズミを主人公にすればこの問題は回避できたと思われる。
これならワニという親友を失ったネズミの心情に観客は寄り添うので、ワニを失った悲しみを乗り越える様子にも肯定的な感情を抱くことができただろう。
実際、監督としても可能な限りネズミに感情移入してもらおうとしたのか、その工夫をした余地は作品からもうかがえる。
例えば前半のワニのエピソードはネズミとのやりとりが多く、後半もネズミのシーンが多い。
しかし、原作はワニの物語、映画のタイトルもワニ、前半のエピソードもネズミと関わってるものが多いもののネズミが絡まないワニのエピソード(特にワニと先輩ワニの恋愛模様のシーンのほうがネズミとのものより観客には印象に残った可能性が高い)も多く、ネズミが主人公であるという刷り込みを観客にするには不徹底なため、ネズミを主人公と捉えることは難しい。
結果として、観客は主人公はワニだと思い込んだまま、ワニが死んだ後のコミュニティにカエルが入り込むのを眺めるというグロテスクなシーンを見せられることとなってしまった。
とはいえ、ワニではなくネズミを主人公にするのはマーケティングの観点から言っても難しかったと思われるので、その点は監督に同情する。
実写邦画って大抵クッソ照明がどんよりしてて絵が貧乏くさいか本気出すのカッコ悪いちょっと外す俺達いいよねみたいな内輪ノリがきついチャラケサブカル風だから何本かみたあともう見なくなったわ。
つーか、とくに主人公の年齢が若い作品に顕著だけど生身のガワの新鮮味を尊重すると演技力育ってない若いの起用するしかなくなる時点で作品としてクオリティ詰むんだよな。そりゃ画も演技力も両方経験積んだ別働隊の力を組み合わせて使えるアニメに奥行きで勝てるわけねーんだわ。別枠ってジブリぐらいだろ。
せめて若い役者も叩き上げを使えばいいんだけど大抵どっかの中年が俺の基準で決めたふわっとした色がついてないキラキラ感みたいなもの重視だし。上層部が自然体という名の棒演技をもてはやしてる時点で無理。