私はいわゆる夢女子だ。物心つく前からアニメや漫画の世界にもしも自分がいて、好きなキャラと仲良くなってあわよくば恋人になれたら…という妄想をしていた。にもかかわらず、約四半世紀生きてきて人と付き合ったことはおろか恋愛感情を抱いたことがない。
傍から見ればただのイタいオタクだし自虐でそう言ってしまうこともあるのだが、最近この心理について言語化できてきたので思考整理も兼ねて少し真面目に書いてみる。
芸能人にあまり興味を持ってこなかったが、最近初めて某男性アイドルのファンになった。
しかし画面越しにその人の魅力を知れば知るほど、心の隅でモヤモヤと不安が膨らんでいく。今まで感じたことのないこの不安は何だろうと考えるうちに、それは推しが生きた人間だからだと気付いた。
彼はアイドルとしてカメラの前では自分自身をプロデュースしていて、そうでない時は当然ひとりの人間として生きている。しかしマスコミはそんな彼らのアイドルらしからぬ面、カメラの向こうに見せようとしていない姿を白日の下に晒そうとする。もしも推しのそんな面が露呈してしまったとき、私は変わらず彼を好きでいられる自信がない。内容によっては嫌いになってしまう可能性すらある。それが嫌。
二次元のキャラクターはカメラに写っていない部分は無に等しく、作中で描かれていること以外は空白。その部分を想像した二次創作は人によって解釈の違いはあれど全て妄想だ。頭の中でだけは100%自分に都合のいい推しを愛することができて、好きな気持ちは永続する。偶像化と言ってもいいだろう。
私はこれを生きている人間相手にするのが苦手なんだなと思った。自分とまったく違う人生を持つ他人に理想の恋人を投影できない。どんなに初対面の印象が良くても好きになれない・受け入れられない部分があるのは当たり前で、そこにどう折り合いをつけるかお互いに探っていけるのが健全な人間関係だと思う。
ただ、私にとってそれは恋ではない。
二次元キャラに対する恋は永遠に一方通行で、相手が実在しないからこそ自分の好き勝手な偶像を押し付けることができる。だから楽しくて、心にささやかな潤いをもたらしてくれるのだ。
(妄想を表に出すなら公式や見たくない人に見せない配慮は必要)
現実の人間を好きになって、相手から同じ感情が返ってくることはどんなに嬉しいのかとたまに考える。想像だが、恋人という関係を長く続けられている人たちは相手を偶像化した恋愛感情を取っかかりにして、偶像とは違う相手の嫌な部分にも折り合いをつける関係性にうまくシフトしているのではと思う。そして人生のパートナーとして共に生きる選択をする場合もあるだろう。
感情の熱量で言えば燃え上がる炎のような恋を経て、キャンドルの小さな灯が揺れる穏やかな愛へ、といった感じだろうか。
冒頭でも書いた通り私は20代半ばなので同級生が結婚した、という話題もしばしば耳に挟むようになった。惚れた腫れただけの恋愛はほとんどの人が終わらせて、恋人をつくるならその先を考える年齢になってしまった。
そして私自身も、今から惚れた腫れたをしようとするには心を燃え上がらせる燃料、精神的な若さみたいなものを失ってしまったように思う。相手が実在する現実の恋愛を経験し損ねてしまったのかもしれない、ということが少しだけ惜しくなる。
恋してみたいなー。
1年後理解ある彼くんと結婚してそう。