はてなキーワード: 他力本願とは
親に聞いても、気難しい子供だったとのことだ。
繊細と言っていいのかわからないが、スーファミのストリートファイター
位の暴力的な描写が怖かったし、人にいわれた事にいちいち傷ついたりして
自分の内に閉じこもる事が多かった。
嫌な事があるとその人に暴力を振るったり、それが
できないと親に当たり散らしていたりした。親が自分の
気持ちを察してくれないと激昂したたいたり蹴ったりしていた。
比較的楽しく過ごせていた様に思うが、いつも満たされない気持ちが
あって辛かった。
中学生は地元の公立高校に行ったのだが、ここがまあひどかった。
始めたが、ここも不良たちばかりで基本的に気に入られる様に
勉強ができればまだ良かったのだが、頭が良くなかったし、
勉強に対するインセンティブも無かった。する意味もわからなかった。
今ならわかるが。
中途半端に不良に足を突っ込んでいたが、真面目になろうと思い
中学3年の初め暗いから生活態度を改めた。勉強ができる訳じゃなかった
ので、真面目にもなれないし、居場所が無かった。このときは本当に
その後、先生からは無理だといわれていた地元の工業高校に合格する事が
できた。
工業高校は基本的に資格を取って、工場勤務者を育てるための学校。
そこでも生きる意味が見いだせず、ひたすら日々を無為に過ごしていた。
高校では硬式テニスを始めたがいっさい成績を残す事が出来なかった。
勉強なんてやれば出来て、その勉強が将来につながっているという
事もわからず、何か自分を活かせるものは無いかといつも考えていた。
太っていたし、勉強もできないし、背は高くないし、おでこは広い
勉強もできないし何にも興味が持てなかったが、
親が専門学校でもいっとけなんて言ったもんで、
な所だ。専門学校なんてのは。
とれなかった。完全に落伍者だ。
事もあった。
持てない。30歳くらいになったら自殺したいと
思っている。
頭が良い人間であれば
素直な人間であれば
し続けられる人なんてほとんどいないはずだ。
身近に、手弁当で辺野古や高江に通う一般沖縄県民が複数名いて。自分も辺野古のテントに行ってみたことが1度ある。
活動とか運動とか苦手でどうにも近付けないけど、辺野古に新基地は許さない、オール沖縄ってやつにシンパシーを感じている。
自分の周囲を見渡すと、多分これが平均的な沖縄人。いや辺野古のテントまで行ってるしな、私は左寄りだと認めよう。
けど、その手前のところにいるのが平均的な沖縄人の感覚なのは確か。
基地賛成もいる、ってよく言われるけど。
こんな揉めてもいいことないからそろそろ折れたら?しょうがないじゃん国には敵わない、素直に従った方が。中国怖いしさ。ってところ。
これを賛成とか呼ぶなと思う。諦めだ。
一方。
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-383010.html
https://m.youtube.com/watch?v=xFoNoGtJq1E
こういう運動論を見せつけられると。
こういう活動家の手法なしに、市民運動は成り立たないのだろうか。
手弁当で仕事しながら休みに通う人だけでは、反対運動にはならないのか。数にはならないのか。
こうやって数になるから報道されて、こういう問題があることを世に問うことができるわけで。
なんか極端なところに引っ張られて、沖縄自体は置き去りにされてるんじゃないかって恐怖。
“普通の”沖縄人の悲しみ、危機感は、“普通の”日本人にはもはや届かないんじゃないか、って絶望。
威圧的で、何かあると怒鳴りつけてくる上司(つばが顔面にかかって不快)。50代。
タバコ休憩が多く、ニコチン切れてくるとそわそわしてキモい上司(こいつはすぐ自己保身に走る)。40代。
自分より年下の人間には、めんどくさい仕事を押し付けてくるおばさん(常に悪口を垂れ流している)。50代。
ナルシストで、自虐風モテ自慢&若く見える自慢が鬱陶しい先輩(職場の人間にはモテていない)。30代。
いつもイライラしていて、物を投げるように渡したり、奪うように受け取る先輩(言い方がすごいキツい)。30代。
リアル地獄のミサワ(「俺スゲー」タイプ)で、常に人を見下している後輩(打鍵音がうるさい)。20代。
依存体質で、自分で考えずに秒速で人に聞く後輩(しかもメモを全く取らないので同じ事を何度も聞く)。20代。
…
まだまだ居るが、とりあえず特徴的な奴らを挙げてみた。
ちなみに、私はこいつらにものすごくムカついているが、表には出さないし悪口も言わない。
おばさんの悪口も流している。
前の会社は超絶ブラックだったので、それに比べたら遥かにマシだし、公務員だから給料もいい。
そこで、これらの人間を皆私の家族であるという設定の下で、日々を過ごすことにした。
なぜこの考えに至ったかはわからない。とにかく、ある日ふとそう思えばいいかと感じたのだ。
ちなみに、よく体育会系の社長とかが言っている「お前らのこと、皆俺の家族だと思ってる」とかそういうノリではない。
例えば、
つば上司→お父さん
ヤニ上司→お兄ちゃん
悪口おばさん→お母さん
ナルシスト先輩→お兄ちゃん
ミサワ後輩→弟
他力本願後輩→妹
であると本気で思い込むことにした。
多分、他人のことを強烈に意識していたから、イライラしていたんだと思う。
身内だと思うと、適度に甘くなり、適度に無関心になった。変わってほしいと願うこともなくなった。
そういう風にして肩の力を抜くことができたから、以前よりも人間関係がうまくいっている気がする。
このようにして自分の意識を変えてみるものいいのかもしれない。
お兄ちゃんが私のことを好きになってしまったのだ。これはまずい。
受容的な女がモテるというのは本当らしい。
「なんでこの馬券買っとかなかったんだ」っていう。
でもそれも、「そういう馬券を売ってることを知らなかった」ってことは現実にはないから厳密には違うんだけど。
こういう映画が作られようとしていたことを知らなかった、もし知っていても多分出資はしなかった、そういう自分のボンクラさ加減への呆れを込めた後悔なのよ。
もちろんそんな後悔しても意味ないって意味では、なんであの馬券買わなかったんだー、っていうのとすごくよく似てる。
だから博打打ちでない人にはこの感覚共感してもらえないかもしれんけど、自己顕示欲とか後出しジャンケンではなくて、これは後悔なのよ。
生きていくの、無理。
親と同居だったら、死んだ方がマシだと思う。
なんか、息が詰まる。
なんか、自分に合った生き方という考え方が幻想・空想の産物で誤りなのかも知れないが。
殺意を胸に秘めて生きて来た時期もあるし、少なからず衝動的になるし。
今までは頭の中で、漫画みたいに憎い奴握りつぶしてしまうことを妄想していたけれど。
川に入水するんだ。
今日は、川に入水するイメージをした。いや、スーパームーンのせいだろうか。
満月は人を大胆にするのかな。
生きていくのは無理だし、今まで1年半ほど引きこもっていた。
もうやだ。
病気も治らない。
生きていくの無理で、グーグル検索で「死にたい」みたいなワードで検索したら、前向きになっている人も見つけたけど。
なんか、僕、人と話すことがすごく気が重いんだよな。
社会人を何年もやったし。
色々とやったけど。カウンセリングを受けても『他力本願ですね』みたいに言われて困る。
かといって、甘えられないから、困っているともいえるし。
人によって違うのかな。
もう、頑張ったけれどエネルギーが、残っていないのに、こんなことを書き綴っている。
ふう。疲れたなー。
電通ほどじゃないけど、僕も夜勤の警備員さんに名前を覚えられて、
あめ玉あげますよって
おじさんに言われるぐらいまでは働いた。
もう、充分やってきた。
自分の息子や娘も、僕が死んだら、自ら命を絶ってしまったら惨めな思いをするのだろうか。
そもそも、今年のクリスマスはどうなるのだろうか。
100円か300円程度のクリスマスプレゼントさえ用意できるかどうか、分からない。
自分が立ち直れる自信なんて無い。
別居中の妻も、いっぱいいっぱいで、「他人に恨み言を話す時間も暇も無い、ゆっくり私も寝たいわ」などと言われる。
どこにも、逃げ場がない。
もう、やだ。
「なぜ辞めないのかわからない」「そこで働く人間は加担しているも同じ。そういう人間がいるからブラックが無くならない」などと言われるがこっちにも一応の理由があるのですよという話。
弊社の場合、同僚の命を質に取られているような気がしてならない。
年間休日数30数日、月労働時間400~500、残業代ボーナス勿論なしといった状況で働いている。そんな弊社で必死に働く私の後輩が過労死するのではと気が気でない
近況はこうだ。体が酷く痛むようで市販ではない方のロキソンニンを常用している。深夜1時を過ぎると効能が切れ苦しみだし会社の仮眠室で寝始める。最近は強い吐き気を覚えるらしく日に何度か吐いている。また立ち上がれないほど強いめまいに襲われ動けなることもしばしばだ。
数時間休んで病院には一度行ったものの『過労』としか診断されず、1日休んで精密検査を受けるような時間もない。
こういった状況を見せられた社員の多くは唯でさえ遅い退社時間を更に後ろに延ばし、手伝うことの出来る仕事は夜を徹してでも行おうとする。誰か一人でも退職して更に人手が減った場合、本当に人が死ぬのではと戦々恐々である。
『いい年をした大人が辞めないのであればそれは自己責任なので自分は自分の為に辞職します』と言える人間は果たしてどれくらい要るのだろう。死を強く認識してしまったため、自分の犠牲でそれを回避出来るならといった考えも持ってしまう。自己犠牲の精神ではなく、回避できたかもしれない死の一端を担ったという嫌な思いをしないため、現状を維持するという考え。
酷い乱文だが、この様なことを考えると中々辞めようにも辞め辛い。
最近、公共の場における(いわゆる)萌え絵についての議論が盛んだ。
風潮として議論がもりあがってる背景は主に三つあると思う。
一、日本でも一般レベルでフェミニズムが意識されるようなり、ああいうのものが「女性に対する抑圧」であると認知されるようになったため。
二、特に twitter でマイノリティの声(とそれに対するバックラッシュ)が広まりやすくなったため。
欧米なんかではそもそも歴史を通じて公共の場に性的なイメージがあまり氾濫してこなかった。
なぜかといえば、キリスト教は性愛やセクシャルなものに対してとても潔癖な宗教で、そういうものを基盤に文化を作ってきた人たちはそもそも「えっちな絵を描いてそれを世間に出しちゃいけないんだ」と自制が働いていた。フリーセックスの時代を経てさえそうだった。エロ絵文化がないではなかったが、それはあくまで秘すべきものだった。
だから、ラリー・フリントというおじさんが高級誌気取ってる『プレイボーイ』につばはいてお下劣なエロ雑誌を創刊したときは大変な大問題になって、「表現の自由」論争が沸き起こった。
そこへきて日本は他力本願の宗教の国だから、エロを抑えるのはお坊さんに任せていればいい。
嫌悪するにしろ称揚するにしろ、庶民はエロに対する政治的な定見など持ってない。
西洋のエロ絵に対する嫌悪には良くも悪くも宗教的な裏打ちがある。だから保守勢力(マジョリティ)を説得しやすいし、そのためにエロ絵擁護派はカウンターカルチャー側に位置していきた。
日本人にはエロ絵の感情に対する何のバックボーンもない。ただ、「その人がえっちなのを嫌悪している」か「その人がえっちなのを好き」か、それだけだ。完全に感覚。だから、互いに互いを説得しにくい。嫌悪側はフェミニズムの議論を援用して、擁護側は70年代的なフラットな表現の自由を標榜して、それぞれぶつかりあうが、そのどちらも西洋からの輸入品で、結局は自分の感性へのお仕着せでしかない。
宗教は無根拠であるけれど、それ自体がなぜか強力な根拠となりうる不思議な道具だ。
こういう方面の文化は、結局ロジックよりそうした宗教的文化の気分の勝負になるんだと思う。
日本はなんとなくのアニミズム=自然っていいよね=セックスって自然だよね=セックスで溢れてて何が悪い? という土壌が保存される。
事実これまではそうなってきた。
裏を返せば、ここに至るまで揺り戻そうとする力があまり働かなかった。
実は文化の隆盛を決定づける大きな要因は政府と法だ。法で規制されると文化は意外にもろい。
政教分離を謳われながら、キリスト教の団体は古くから西洋国家の主要なロビイング団体であったわけで、政府としてはそういう人たちの意をくまねばいけなかった。ただしい清い方向にふらないといけなかった。
もちろん日本にも宗教団体を背景とする政治団体やロビイ団体がいくつか存在するけど、それらはあまり庶民の性規範にあまり興味を持たない。
日本の不幸(あるいは幸福)は、その性的放縦を増幅させるだけの表象文化レベルの高さを持ってしまったことになる。
この世をエロ絵でうめつくす土壌と技術を兼ね備えた国は歴史上、まだ日本以外に登場していない。
これから日本の規範や法がどういう方向へ動くのかはまだわからないけれど、あと四五年は肌感覚でdisったり擁護したりみたいな実のない喧嘩が続くんだと思う。実のない喧嘩自体は悪いことじゃない。そうやって問題が認知され、議論の場が醸成されていくのだから。
まったくわからない。
これは、一般論ではなく「一人じゃ何も出来ない他力本願の人間」に対しての考えである。
こっちが気を利かせて世話してるんだから、お礼してくれて当然でしょ。
こっちがお膳立てしないと何も出来ないんだから、せめてお礼くらいしてくれよ。
自分からは何もしない。こちらが何もしなくても何もしない。無駄な時間になるのだから。
無駄な時間を過ごすなら、と思って気を利かせたんだからお礼くらいしろよ。
お礼だけで何もしなくて済むんだから楽だろ?
っていう話をすると「頼んでもいないのに勝手に行動して見返りを求めるなんて最低」って言われる。
(ネタバレ注意!!)
昨日、君の名は。を見てきた。
顔を見だけですぐにどこの誰だか分かってしまうとか、地元議員と建設業者の関係とか、まさにTHE田舎って雰囲気で。
気軽に、田舎暮らししてみたいとか、Iターンとか言っている人には、よく見て欲しいものである。
単なる青春ラブストーリかと思っていたが、少なくとも自分にとってはそうではなかった。
時に自然の力は、抗いようもない、途方もない力で人間の暮らしに迫ってくる。
2011年の東日本大震災ではその強靱さを改めて見せつけられた。
たいていの自然災害は、非常に長い周期で繰り返し発生している。
でも、人は忘れることが得意な生き物で、次に繰り返される頃には前回の記憶がほとんど無くなっている。
親から子へと、子から孫へと伝わる中で実体験が薄れ、どんどん遠い体験となってしまう。
そして、ふとした拍子に、何かのきっかけで消えて、途絶える。
映画のおばあちゃんは、忘れられた物語の未だ忘れられていない部分の語り部に思えた。
遙か昔の何か大切な事を伝えようとするけど、それが完全に伝わることはなく、祭や神社といった伝統としてかろうじてその痕跡だけが残っていく。
物語の組紐は、人と人との繋がり、時間を超えて伝えてきた物であり、まさにこの物語そのものだろう。
私の地元は東南海地震が発生するとものの数分で津波にのまれる。
幼い私には、それはとても遠い体験で、まるで実感がなく今となってはほんの一部しか覚えていない。
町の中には、津波の到達地点を示す物も残されていたが、時と共になくなりつつある。
代わりに、いたるところに海抜の表示は増えているが、それは実体験ではなくデータでしかない。
誰かが受け継いで、伝えていかないといけないけど、それが本当の意味で伝わることは難しい。
もう一つ、この話ではタイムスリップと入れ替わりで災害の日時が伝えられ、町の人が救われる。
瀧くんのようなヒーローが早く現れてくれたらと願うばかりである。
ただ願うばかりでは他力本願なので、自分もできることはやっていかないととも思う次第だ。
研究者の端くれとしては、役に立つ技術の一つでも残せれば主人公(ヒーロー)になれるのだろう。
さあ、はじめよう。地震予知。(違)
これは死に率ちょっと低いですが、それなりにダメージが窺えます。骨折程度は必須、頭打って脳障害で植物人間でアウアウするのもいいでしょう!
これは非常に勇気の居る行為です。出来るだけ高い場所に移動しましょう、足がすくみます、睡眠剤投与の後がいいでしょう。
■一気にヘブン
コレは非常に稀なケースですが拳銃を手に入れたなら貴方は最強を手に入れたと動議です。躊躇無くお口にほおばりぶっ放しましょう!
■覚悟は最強度
誰でも手に入れられるもの、それは包丁です、しかしながら覚悟も度胸もあるけど自分の手首を切り裂くのは難しいですよね。
■鈍器系最強のツール
相手が必要ですが大きめの石が必要です。しかしながら殴られた暁には、脳震盪以上の効果が得られるでしょう。場合によっては障害が残ります。
かくゆう私も死にたいと強く思う1人です、単に勇気が無いだけなので他力本願全力です。
みなさんも是非、死活をしてみてはいかがでしょうか?
自分の会社では、ネガティブな発言を繰り返しチームの足を引っ張ったり、仕事のできない人間を、名前に「〇〇管理部(室)」と付いた部署へ異動させる。
そのおかげか、各プロジェクトは滞りなく進み、事業の統廃合も進んだ。
打つ手なしかと思われたプロジェクトも、反対意見を述べ続けた人間を外したとたん、終束へ向かう。
基はといえば、人事・採用関連のワークフローが破たんしていたのだろう。これは会社のミスだと思う。
ところが、気が付くと「〇〇管理部(室)」が大所帯化していたのだ。
合計すると30人ほど。社員数150なので、1/5だ。これはひどい。
ついこの間も仕事は無いはずなのに、定時を過ぎたころ、昔流行った玩具やゲームの話題で大声で談笑していた。
それは僕です。
ネットを検索してみると、「自分が自己中心的な考えをしているかどうか」のチェックリストがありました。
以下のようなものです。(http://www.career-rise.info/blog/selfishness/ より)
みなさまも良かったら、チェックをしてみてください。
・誰かに指図されることが嫌い
・他人が困っていても気にならない
・失敗した時は他人のせいにする
・人の話を聞くのは苦手
・気分がコロコロ変わりがち
・目立ちたがり屋である
皆さんはどうでしたか。
僕は
・失敗した時は他人のせいにする
以外のすべての項目が自分の性格に良く当てはまっていると自覚しています。
自分が自己中心的だと思ってはいたのですが、こうやってハッキリと明文化されたリストに従って
チェックをしてみると、とてもショッキングな結果でした。
思えば、幼少期の家族・友達関係がルーツのような気がします。(ちっぽけな話です。)
姉はとても甘え上手な性格で、長女ということもありわがままを言っても両親は、聞き入れていました。(モノが欲しい・習い事をしたい等々)
弟は末っ子とということで、両親にとても可愛がられていました。
僕は両親からの愛は受けていたのだと思いますが、姉弟と比較してしまい、ほとんど幼少期愛されたという実感がないのです。
また、僕が小学生になる時、引っ越しすることになり、隣町の学校に行くことになりました。
両親は、3兄妹を養うために共働きをしており、僕は1人慣れない土地でいつも1人でいました。(姉と弟は人懐っこいので友達がすぐ出来ました。)
どんどん、1人の世界や考え方を構築していくようになり、小学校高学年ぐらいの頃には、完全にひねくれ、大体こんな感じの考え方・行動習慣が染み付きました。
・初対面の人、目上の人には真面目に接し、ある程度評価されるが、面白みがないと思われる。
・同年代や知り合いとは他愛もない話はできるが、自分の話をどうしたらいいのかわからない。
・自分の話が苦手で別に伝えなくてもいいかな、と思ってしまう分、他人の話も染みこんでこない。(あまり覚えられない。)
・自分自身の力でなんとかなる、と考えているくせに肝心な部分を人に頼る。
・他人に何一つ与えることができない。(自分が損しないのが肝心)
まあ、本当にクズなんですよね笑
「知り合い」は居ますが、心から「友達」と呼べる人は全くいません。
こんな薄っぺらいやつ、僕だったら付き合わないでしょうね・・・。
駄文垂れ流して、勝手な自己分析を続けてきましたが、もちろんこのような性格を直したいと思うのです。
まず、他人に優しくする、自分から与えるという行動を取りたいのですが
何を持ってその行動が自分のためになるか、上手くいったかという尺度がわからないのです。
もし、同じように自己中心的な考えや習慣を改善した方がいらっしゃったら、教えて下さい。
・どのような行動を起こしたか
・どのような考えを軸にしたのか
自分が考えていたネタのどちらかをここに納めようと思ったが、そのうちの一つだけ愚痴らせてもらう。
まだ大学生という身分ではあるのだが、大学自体に行くことそのものを疑問に感じながらも結局のところ親が主導権を握っていることをいつも思ってる。
今日はそんなことを書き留めたい訳ではない。
自分は20代であるものの、「いつまでも絶えない30~50代くらいが想像する若者のレッテルは何故生まれてしまうのか」を最近無駄に考えていた。
しかし、「若者」とはいってもどこぞの綺麗な表紙で飾られているような清楚な若者ばかりではないのだ。
喋りや風貌からして融通の利く有能そうな奴もいれば、明らかに口だけは達者で具体的な中身がボロカスみたいな奴だっている。
そこで自分が見ている部分では、性格が合わなさそうな相手だとしてもどのような意見を持っているのかを確認している。
今の就活状況は某アニメーション映像みたく、グループディスカッションを行いながら共同で作り上げることが多くなっているかもしれない。
自分も何回かやってみたが、正直言って他力本願で他人に頼り、その内容をまるで自分がやったように自己満足している状況しかなかったように思える。
そういった経験から感じたのは、「若い人で限定した場合に集団の中で使えそうな駒がいれば、そいつに全て人任せにして得た利益を同じく貰おうとしている」という考察に至った。
何故若い人がマスコミによってあたかも中身のない無能な馬鹿みたいにされているのかがなんとなく理解してきたのだ。
「若者が馬鹿だと玩具にされる→あまり具体的なプロセスまで組み立てる思考を停止させている→そのことから現実問題に置き換えると、できそうな奴に全て用件を投げ捨てて楽をしている」ということであるのかもしれない。
これはあくまで自分がそういった人物としか当たらなかった運の悪さなのかもしれない。
だが、もしこれが1つの講義として成り立つのであれば、日本の教育は先進国の中で遅れていると言われたらその意見に同意するだろう。
大学自体がこういった双方で行う講義を積極的に盛り込むのであれば、学生側がただの談笑するレベルで進むようなことは時間と金の無駄だ。
前期でもグループワークの授業を取ることになったが、選考の仕方がコンピューターで分けただけという馬鹿馬鹿しい話だったし、志望動機は長々と打ち込めずたった1コースごとに3,4行程度だけというこの始末。
そう思うと教員はそこまで学生を見る暇もないし、説教や反省させるような態度を取るようであれば、そのようなリスクを生まないよう選考することが一番の回避策だったはず。
こうなるとバブルの時に大学を作り過ぎてしまったツケがだんだん悪化しているのかもしれない。
学歴として早慶クラスの学士博士を取得したとしても、Fランク大学で教授としていること自体に意味があるのか。
そもそも研究機関である大学なのに特に文系学部に関しては研究成果が公開されないのだろうか。
個人的な意見としては、大学として本当に機能しているのは理系の学部と十分な研究費用や材料が存在する上位の大学であると思う。
そして、一番の問題として進学することが当たり前の世の中で、何故小さな頃から勉強以外で自信の持てる個性を身につけさせないのかということである。
日本は同調、集団社会であること自体変わらない。欧米や欧州のような確立されたシステムの中で自らのキャリア構造を若いうちから立てられるチャンスが存在する。
しかし、今の日本は子供を産んだ時点からレースが始まっている。それは「受験」である。
小学校から始まり、幼稚園ではしつけや漢字を読ませるなどのことを徹底している。
このことから子供たちにとってはそれが当たり前の日常ではあるが、逆に親はどういったものを彼らに与え、何を見せているのだろうか。
最近朝のニュース番組を見ていたら、親がある日本古来の物語の一部分を子供に向かって言うと、残りの部分をスラスラと答えていた描写があった。
日本では教育施設、機関に行かせることが中学まで義務付けられている。
そして最終的な目標が受験とされている世の中で、学校に対して縋っている、甘えているのかもしれない。
学校に行けばやりたいことが見つかるのであれば、子供がが成人になるまでに彼らのやりがいが感じられる選択肢を助言することも一つの教えではないのか。
神経質な感じではあるが、自分としては金と空気を読む力さえあれば生きていけるのならそうしたい。
実際、えぐいガチャ乱発すると超儲かるわ、自分に技術あるなしお構いなしに世間平均給与の何倍も給料ガンガンあがっていくわで、誠に信じられないこの頃。
弱小IT企業のエンジニアから、ガチャガチャゲーム商売の胴元として飯食いまくっている会社の外注管理部門へ転職して、いわゆるIT下請けシバキとガチャガチャビジネスがこんなに美味しいのか!と改めて実感しまくっている。
ついでに、乱造気味なゲームが巨大な集金マシーンと化し、おまけにディベロッパ側である下請けはボコボコにしばきまくってこき使い倒してさらに儲けまくる。つくづく人の道外しまくってんなと最近思う一方、ITエンジニアなんかで稼ぐよりもよっぽど儲かる胴元側の外注管理業務の現実。これで食う飯は超うまうまーっ。中小ディベロッパがもてはやす巷のIT勉強会/IT業界イベントなんかも、我々を儲からせてくれる奴隷エンジニア乱造イベントと最近は思えるようになってきた。まあ、バカはいつまでも搾取されていればいいさ。
で、まあ、さすがにこんな商売長続きするわけないなぁ、ガチャガチャゲームの市場も飽和してるらしいしなぁと思っているのだが、不思議なことに現実では一向に衰えることなく、今もガチャガチャ稼ぎまくっている。胴元の会社は元から資金力ありあまってるので、鵜飼いのように中小デベロッパを片っ端からこき使ってゲームを量産しては荒稼ぎ。もう今となっちゃ関係ないけど、元居たような中小ディベロッパがどうして地獄のような生活を送ることになるのか?というのは、今だとメカニズムもよくわかり、あたりまえじゃん?ともはっきり思える。まあ、俺らがやってるような洗練されきった外注シバキのテクノロジーの元じゃ、彼らはまず浮上はできんわな、残念!
で、さらに、ガチャ問題が世間を賑わしたので胴元の楽園はついに終わりか?とヒヤヒヤしたが、正直他力本願プンプンの消費者庁の盛大な様子見アンド腰抜けっぷり対応のお陰で、CESAみたいにザルザルなイカれた自主規制で完全に乗りきれる雰囲気。あの業界団体の自主規制案みて、団体自主規制が働いてよかったね!と本気で思っておられるのだろうか?まあ、消費者庁は、これでしばらくガチャ問題について仕事しなくてすむ言い訳はできたからよかったのかもね!そのうち天下り先にゲーム大手とか狙えばさらに美味しいもんね!そんときゃ、おまえらぐらいは盛大に高いサラリーで受け入れてやるから、ガチャガチャは規制せずに、当面ほっといてね!
1・インターンは落ちても気にしない。
インターンシップに通ったら
志望業界の知り合いができる
働くということが身近に感じる
☆本気で働きたいと思ってないのに入りたいと思っている人がいる。
スーパーでも、なんでも。
劇的に変わるのはマナー
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人事だと気づかず
ーーーーーーー
☆どういった人が社会人にいいか?
報告、連絡、相談
ーーーーーーーー
直す方法はどこにも書いてない 手引きにもない
先輩もしらない。
⇒想定していなかった問題を解決する
(ソリューション)
⇒ひたすら情報収集。
情報を集めたら、分析⇒考えて、仮説を作る(ポジションニング?)
⇒検証に入る。
⇒必ず失敗をする。失敗の連続。
色んな迷惑をかけて失敗。
⇒怒らない。 お疲れ様って言われる。
振動が原因じゃないとわかった
落ち込む。でも失敗して落ち込む
どんどん真実に近づいていく。
本当は治らないかもしれないが、改善になっていく。
みんなで頑張れるひと☆
⇒落ち込んでも粘り強く頑張る。
私は、何をすべきか自分でわかる人。
面接で多い。
アルバイトで怒られた、でも頑張る等。
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よし、俺がこの研究室を盛り上げる。
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問題はそこらじゅうにある。
今の自分を変えるために。